きょういく大研究(2002.7.17)

教室通信「ガラスの玉ねぎ」より

      はじめての『通知表』

評価と評定のこと

1 はじめに

 子どもたちが学校に入学して、はや三か月。もうじき一学期の終業式。子どもたちは、通知表をはじめてもらいます。もちろん、保護者の方も、初めて通知表をご覧になるわけです。
 ドキドキされているのか?我が子がどう「評価」されているのか?当然のこと、気になるでしょう。お姉さんやお兄さんがすでに、通知表をもらっていれば、多少はイメージがわくのでしょうが、そうでない場合、多少、不安であり、混乱されるのではないか?そう思います。
 この号では、通知表について、保護者の方に説明をさせていただき、率直にボクの意見も述べたいと思います。
 学校からの「通知表についての説明」プリントとの整合性はありますし、それと本号が大きく矛盾する点はありません。ただ、そのプリントでは触れていない部分や、評価する担任の裁量部分についての問題、さらに、もっと大げさにいうなら「評価の思想、考え方、歴史、社会的な意味」について、触れざるを得ないと思っています。

2 相対評価と絶対評価

 今まで通知表は、どちらかというと「相対評価」を中心に作られてきました。しかし、これからは「絶対評価」であると、マスコミ等の報道で取り上げられています。
 「相対評価」というのは、「クラスの集団の中で、他の人たちと比べてどのくらいできるのか」ということの評価です。集団に属する他の人たちと個人を比較し、集団の中での順位=相対的な位置を評価する方法です。
 54321の五段階「相対評価」では、1&5は七%、2&4は二十四%、3は三十八%という、配分・分布にします。これは、正規分布と呼ばれ、自然界の摂理であるというような言い方をする人もいます。
 例えば、朝顔の種を千粒蒔き、ある時期を見計らって、背丈を測ったとします。すると、すごく高い&すごく低い(1&5)のが七%、まあ高いとまあ低い(2&4)が二十四%、普通(3)が三十八%くらいになる……というようなことです。
 実際にそうなるかは、ボク自身やったことがないのですが、そうなるというのが正規分布の実際的な意味です。
 ところが、この「相対評価」は、欠点が色々あります。

 それに比べて、「絶対評価」は、学習の到達度・目標が設定されて、そこに到達したら「良し」とし、ダメなら「1」とする方法です。分布率も正規分布もないのです。みんなが頑張れば、全員に「5」だってつけられる。その逆もあり、みんなができなければ全員「1」もあるのです。これは「到達度評価」とも呼ばれます。

3 相対評価から絶対評価へ

 本当は、名古屋市内の小学校は以前から、「絶対評価」だったはずです。ところが、学校によっては、5の人数や、4の人数などを申し合わせて決めていたところも多いのです。
 今回は、市内だけでなく、全国のどこの小中学校も、「絶対評価」をして進めていくことになりました。それは、ひとえに子どもたちの頑張りを認めよう、だれにでも個性があり、それを認めようという主旨からです。
 しかし、「絶対評価」にも大きな問題があります。
 そのひとつは、高校入試の「内申書」問題です。中学校から高校へ提出する内申書は、「相対評価」でつけられてきました。その子が在学している中学校内の順位が、五段階評価で内申書に現れます。絶対評価では、その子の順位なり、相対的な成績の位置が分からないということで、高校では、子どもを選別するのがむつかしいということをいいます。本来は、逆で、「絶対評価」にすれば、中学校の格差無しで、子どもの成績が分かるから、いいのではないか?と思うのですがそうではないようです。
 高校では、中学校の「絶対評価」を全く信用していないのでしょう。
 愛知では来年度の入試までは、「相対評価」と「絶対評価」の「二重帳簿」?をつくることを、県全体で公認しました。全国にも数県あるようです。
 もうひとつは、「絶対評価」の到達度基準の作成が極めて難しいという点です。この、到達度基準の設定が、どうしてもあいまいになり、矛盾を含むことになります。

4 到達度基準の難しさ

 到達度基準は、その「客観的妥当性」というのが、その生命になっています。文部科学省や教育委員会も「保護者への説明義務が重要だから、到達度基準は教員の主観的なものとならないように研究が必要だ」と言います。しかし、結論的にいうなら、まず、その文部科学省がやってみてから言うべきでしょう。その客観性を保つことが、それほど簡単ではないということを銘記しておくべきです。
 ちょっとここで、例をあげて考えてみます。
 まず、到達度基準が簡単に設定できそうな内容について考えます。
 算数では、一年生の場合、一学期で十までのたし算とひき算が学習の内容になり課題になっているのです。その時「計算ができる」という点で到達度基準を作ろうとすると、例えばテストで、二十題を十分でやって、問題の八割くらい正解なら「よし」としようとします。これでやってみると、わがクラスは、二十七人のうち九十%以上の子どもが「よし」になるでしょう。
 じゃあ、九割くらいを正解とします。すると到達度に達した人が八十%に下がる。この場合、到達度基準は、八割正解か九割正解のどちらが良いか?これをきちんと考えて、客観的評価の方法を述べている文献や研究は、ボクの知り得るところありません。しかも、正解と言ってもその解きかたは、学習の課題によっては、色々複雑なものもあります。
 そして、ボクは経験的には、そういう場合、八割でも九割でも、「どっちでもいいんじゃないの」と思います。
 また、一年生でなく、五年生で、算数の色々な問題を解くとき、九割りの正解率は、そうとうむつかしいと思います。
 つまり、テストで、どれくらいできたらいいのか?と言われたら、だいたい八〜九割りくらいかな?でも、高学年は難しくなるから七割でもいいんじゃない?という、極めて主観的?な意見が、もっとも妥当なのだと思います。  まだ、この程度の内容なら具体的に考えられるからいいのです。さらに、この十までの計算では「関心・意欲・態度」を評価する事にもなっています。ここでは「十までのひき算に親しみをもち、それを具体的な場面で用いようとする」という目標があります。これを、また、到達度として三段階くらいに分けるとすると、どうすればいいのだ!あいまいにならざるを得ないのです。  しかも、一番の問題は、評価するために、「授業中も、教えながら子どもをチェックする」ことが要求されます。
 しかし、評価チェック作業をする前に、授業で、もっと手を変え、品を変え、子どもが理解し、技能・技術が定着するように、時間と手間をかけて教えるという作業を、まず第一にするべきではないか?と思い、ボクは、この「関心・意欲・態度」は、大まかに判断しているのです。
 また、関心がない、意欲がない……といったって、それは「分からないから」「できないから」「他者に『できないのか!』と誹謗されたから」「もともとできない体質だから」というような場合もあるでしょう。そうなると、学校側の問題です。それを子どもの通知表に記載するのはおかしなことになります。
 さて、結局、「絶対評価」の客観的な到達度基準は、考えれば考えるほどあいまいになるのです。だから、どうするかというと、適当なところで「手を打つ」しかないと思っています。
 「九割くらいできてほしい」「県の名前くらいは知っていた方がいい」という到達目標も、実は、「この世の中で、だいたいこれくらいは、必要かな。知らないと困るかもしれない」という、極めて「相対」的な「評価」で暫定的に決めているのです。「絶対評価」などというと、それができなかったら、学習する意味がないくらいの「勢い」を感じるかもしれませんが、まったくそんなことはありません。
 ボクの座右の銘に「諸行無常、諸法無我」というのがあります。これは、世の中は、絶対なんてコトはないんだということです。
 しかし、そうなると、ボクは思うのです、なんのために通知表があるのか?と。ここのところを再度考えてみます。

5 なんのための通知表か?

 大方の一年生の子どもたちは、テストを好みます。なぜか?それは簡単です。自分のでき具合をためすことができるからです。できるから楽しい。テストは自分がどの程度できるか、どれくらい伸びたかをためすためならば楽しいのです。
 むろん、まったくできっこないのに、テストしたいとは思いません。ですから、だいたいできそうになってから、ちょっときちんとしたテストをします。一年生は特に、教員の方が気を遣い、できない子が多いのにテストをするなんてことはまずしません。そして、「みんなできちゃったわ、こまるなあ(笑い)」などと冗談を言い合います。
 みんなができるようになってからテストをすることが、ボクは筋目正しいテストのありかただと思っています。
 通知表もそうです。できれば、みんなができるようになった時点で、はじめてテストをし、ノートや、提出のプリントを見、そして、「みんなできるけど、特に、ここはいいですねえ」という通知表をつくりたいと、ボクは思っています。
 限界もありますが、ボクは、やはり、子どもたちに頑張ってほしいから通知表を作る。それも、ここがすごい!という通知表を作ったつもりです。むろん、「あまりできていない」というところもありますが、それは、本人に、そこは、これからも「お互いに頑張ろう」という事で、説明します。
 保護者の方は、「相対評価」で、自分の子が、クラスのどの位置に(でき具合として)いるか?を気にされるのでしょう。しかし、受験などの競争試験のように、画一的なものさしの上でどう成果をあげるか?ということを、義務教育学校の中で、全面的に導入することはできません。
 過剰な「相対評価」は、他人の眼、世間の眼を必要以上に意識することです。あらゆる能力や技能は人間性の中に含まれています。その子なりの豊かな生活を営むことのできる力をつけるためには、その子の良い面を、しっかり評価することが重要になってきます。
 通知表の限界を知ることで、通知表を生かすこともできます。たかが通知表ですが、されど通知表なのだと思います。 ボクは自分の小学生時代の通知表(八頁)を見て、つくづく思うのです、人は変わらないなあと。小学校時代の七人の担任(三年生は産休の先生にも教えてもらいましたから)は、ボクの性格所見の欄に、ほとんど同じことを書いていました。「もっと、落ち着いて勉強しましょう」と。ボクはじっとしていなかったのです。ですから、テストもまどろっこしいし、興味があればすぐに体が動いたのです。良くも悪くもあります。
 そんな通知表を、母は仏壇に供え、父は「通知表なんかあてになるか」と一度も見たことはありません。母は「もっと、しっかりやらなくては」とボクを叱咤激励し、父は、たとえ良くても「ケッ」と言って、褒めてなんかくれません。
 ボクはそれでも、全然構いませんでした。ちょっと良ければ母のそばにおり、悪い時は、父のそばにおり……と。
 まさに、相対的に存在したのです。

6 最後に

 さて、ボクは復古主義者ではないのですが、昔の人たちが言っていることが、とても的を射ていると思うことがあります。それを、最後に記してみます。
 明治二十八(一八九一)年の文部省がつくった『小学校教則大綱』の説明部分です。
   元来児童の学業を試験するは、前項に掲ぐるが如く、教授の効果いかんを鑑み将来の教授上の参考に供するをもって目的とするものなれば、その成績を評するにはなるべく適当なる語を用い、点数もしくは上中下等比較的の意味を有するものを用いざるを可とす。……
 小学校において児童の卒業を認定するは、単に一回の試験によらずして、平素の行状、学業をも斟酌するを要す。……
 (通知表の作成について)前陳教授上に関する記録の他に、各児童の心性・行為・言語・習慣・偏癖等を記載し、道徳訓練上の参考に供し、これに加うるに、学校と家庭と気脈を通ずるの方法を設け、相提携して児童教育の功を奏せんことを望む。
 評価の到着点は、結局自分で自分の長所と短所を自覚することだと思うのです。つまり、『自己評価』です。それは、身勝手でもダメでしょうし、他人の眼を金科玉条にしても困ります。どこでだれに評価されるかが、けっこう重要です。「あの人に褒められたら、私はおしまいだ」とか「あの人になら、けなされてもどってことはない」ということがあります。そういう意味で、評価するボクら教員も相当な品格と技量が要求されているのだと思っています。
 ボクも二十七年間通知表をつけ続けてきました。一方で、子どもとはいえ、人が人を評価する傲慢さを感じながら、それでも、ポリアンナみたいに、一人一人の良かったさがしをしてきたつもりです。
 はじめての通知表をご覧になって、「学校と家庭と気脈を通ずるの方法を設け、相提携して児童教育の功を奏せん」という気概が伝わるのか?評価されているのは、まさにボク自身なのです。(2002.7.17)


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