きょういく大研究(2002.7.30)

月刊あすく(2002.8月号加筆)より

元祖管理職講座 第六回:夏休みの「校外・自宅」研修

 夏季休業中の「自宅での研修」が、取りづらくなってきた。名古屋では、休業前に動静表というのを提出する。これは、夏休みに教職員がどんな過ごしかたをするのかを、勤務・出張・休暇等で事前に確認・承認するためのものである。
 この段階で、自主研修が取れない学校が増えてきている。計画書を出しても、それを不承認する校長が出没している。
 ボクは、ああ、学校も地に落ちたなああ!とちょっと呆れている。こうした研修を認められない校長達の後ろには、教委がいて、その後ろには文科省がいるのだろうなあ。
 御上には逆らえない公務員というのが、どうしようもないくらいみじめで犯罪的だということは、六〇年位昔にあった戦争で、教員が人殺しを教唆していたという「事実」で教訓的に証明されている。
 いつもボクが思っていることに、「戦争や殺人は『やむにやまれず』やった」ことになっているものだと思う。一般的な犯罪は、罪を償うということが、個人のレベルでも「ある程度」できるかもしれない。
 しかし、戦前戦中に教員がやった殺人の教唆(戦争意欲扇情的教育)は、結局「やれといわれたからやった」「そういうことになっていた」「上司に逆らえなかった」という「正当な言い訳」を与えられている。
 今回の研修も同じ構造だ。研修ごときが自己判断で承認できない校長、教委が、戦争を美化し必然性を叫び?平和のための戦争」を煽り、テロの論理に向かうのは、目茶苦茶にたやすいことだと思う。
 「夏休みは子どもも学校へは来ません。教職員の皆さんも、教育改革の大変さや、手当もでない超過勤務でお疲れの一学期間の疲れを癒し、幅広く研修をし、家族にも大いに接し、恋人と愛を語り、芸術に親しみ、地域の人たちと交流を深め、教養を積み、また、豊かな気持ちで、二学期に子どもたちに教育をして下さい」と、御上はなぜ言えないのか?
 世間にきちんと言わないとイケナイのは、「夏休みがゆっくり休めなかったら、教員は子どもを人間として扱うだけのゆとりがでないですよ」ということだ。
 「一般の企業はそんなナマ易しいもんじゃない!」という世間には、「学校もそういうナマ易しいものじゃない」と言うしかない。「貴方の子どもを、機械の部品と間違えてもいいのか?」と言うしかない。
 普通の教員を攻撃して喜んでいる人がたくさんいるとは思えない。人が不幸なのを見て自分が安心するとしたら、その心理構造は卑しいとしか言えない。ボクは、「世間の眼が厳しい」などという言い方で教員をオドすのは卑怯としかいえないし、保護者や市民を馬鹿にしているとしか思えない。世間を知らしめるためにも、学校に縛り付けるような「夏休み」勤務を設定すべきでない。
 この不況で自殺者が増加している……という。この原因は、明らかに「総理大臣をはじめ官僚構造の最悪化と、労働者の団結力が低下している(それはボクら一人一人の自立も未熟だという)」ことにつきるとボクは思っている。
 貧しい労働者がグローバリズムの中で相対的に豊かになったのは、「いいこと」のはずだった。しかし、実は、職場に緊張感をつくり、御互いがきちんと意見や不満を表明し、理論的にも精緻にしていくという力を、取り立てて必要としないですんだ。大組合がそこそこ「ボス交」で、うまくやってくれたからだ。
 しかし、今や役に立たない大組合は、組合官僚主義となり、ヒラ労働者を切り捨てる役割を持たされている。ここまで来たら、はらをくくって、理不尽なモノと喧嘩するしかないだろう。「喧嘩しなくても生きてける」と言うのもそうかもしれない。しかし、そのとき、それを「生きている」と言うのだろうかと、ボクは想う。
(2002.7.30)


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