きょういく大研究(2002.12.9)

陳   述   書

2002年11月27日

名古屋高等裁判所 民事第2部 御中

原告 がっこうコミュニティユニオン・あいち
  現委員長   時 田 良 一
  元委員長   岡 崎  勝

     1 はじめに
     2 東浦町で以前実施された「交渉」が、なぜ今回、拒否できるのか
     3 教頭をはじめとする管理職の「交渉」に関する認識不足
     4 「話し合い」段階から「交渉」段階へ入っている
     5 職場の状況・関係において実在した「恫喝」
     6 担当する授業時数が増加し、労働が強化されている事実
     7 公然化されている「教職員名簿」はだれでも使用できるはず
     8 交渉にかかる職免は組合活動において十分に保障されるべき
     9 「話し合い」よりも「交渉」で正常な労使関係が形成できる

  1. はじめに
     岡崎勝は1998年4月1日より2001年3月31日まで、原告がっこうコ ミュニティユニオン・あいちの委員長の立場にありました。同4月1日より時田良一が委員長の任を引き継ぎ、現在も委員長の役にあります。
     今回、東浦町立西部中学校(以下、西部中)の教頭、鹿嶋勉氏の陳述書(以下、陳述書)を拝見し、私どもがっこうコミュニティユニオン・あいち(以下、アス ク)が、どうして裁判に訴えざるを得なかったのかを、全く理解しておられないということが分かりました。
     陳述書に書かれてある、交渉要求における私たちに対する「印象」への細かい反論は、最小限にとどめ、幸田校長、鹿嶋教頭が持っておられる、組合交渉に関する認識の間違いを、論述していきたいと思います。

  2.  東浦町で以前実施された「交渉」が、なぜ今回拒否できるのか?
     1991年6月に、アスクは東浦町立東浦中学校(当時は佐藤英夫校長)と交渉をしています。その時は、勤務条件を交渉議題にし、特に問題もなく、お互いの主張を論じ合いながら、確認書も交わし、友好的な労使関係が維持形成されていました。
     ですから、今回、西部中学校が、交渉を拒否することなど、予想だにしませんでした。しかも、拒否理由が、「アスクは東浦町に登録していない」という登録問題だとは、まったく考えもしませんでした。
     「登録問題」に関して、当時と法律・条例等が変わってないのに、交渉を当局が受けないというのは、明らかに不当なものです。

  3.  教頭をはじめとする管理職の「交渉」に関する認識不足
     教頭は陳述書において、「『交渉』は『話し合い』とは違うものなのでしょうか」(陳述書1頁19行)という疑問を呈しています。
     これは、全くの見識不足です。そもそも、地公法上の交渉は、一般的な話し合いにくらべ、記録も公正を期して残します。また、現場の実態把握、確認作業も必要ですし、法律や条例の理解も抜きではできません。しかも、交渉において、当局の立場での発言は、交渉後にも、責任をはっきりと負うべき性質のものです。また、そこでの合意事項は、責任を持って、お互いが尊重しなくてはなりません。
     したがって、「交渉申し入れ書」は、必要な場合、そのつどきちんと提出しますし、やりとりの重要な部分には録音も必要です。職場の中で「人権侵害など」されたことを訴える鈴置に対して、「何をもっていやがらせというのか」と教頭は述べていますが、だからこそ、対等の立場で、当局とアスクとが交渉の席で、多面的に話し合う必要があるのです。
     校長も、教頭も、以前は愛教組(愛知県教員組合)の組合員であります。しか し、愛教組の役員が管理職に登用されていくようなこの愛知県では、当局と組合員が、緊張関係を持ちながら職場で交渉するなどと言うことは聞いたことがないで しょうし、まして、体験すらしたことがないでしょう。したがって、校長や教頭には、交渉に対する嫌悪感や忌諱感だけがあるのではないでしょうか。

  4.  「話し合い」段階から「交渉」段階へ入っている
     教頭は、鈴置に「話し合いで解決を努力しようという姿勢はなく」(陳述書2頁21行目)と、一方的に決めつけています。交渉を実現するためにアスク側も、「話し合いなら受けてもよい」と言った校長の言葉に、とりあえずは、「話し合い」をもとめたこともありましたが、当局からの具体的な日程の提示はありませんでした。このことは、結果として「話し合い」すら受けない態度を示したと言えます。その後、組合は、あいまいな「話し合い」ではなく、きちんとした地公法上の「交渉」を求めています。話し合いで解決ができないからこそ、職場の一個人としてでなく、団結した労働者としての組合交渉を要求しているのです。このことは、組合員の人権を守るという意味で、組合自体の存立基盤に関わることであります。
     つまり、当局は、鈴置個人に「話し合いの努力」をさせることによって、結果的に現状の改善をしないまま、その責任を回避し続けようとしているのだと思いま す。したがって、アスクとしては、「話し合い」段階を過ぎたと判断したがゆえ に、鈴置からの要請を受け、かつ、組合としても看過できないと判断したのです。「交渉」を「鈴置と当局の話し合い」で置き換えることなど、容認できるものではありません。
     およそ、当該校をはじめ、どんな組織体においても、意見の相違はあることであり、組織体内の地位役割によっても、見解は異なります。とりわけ勤務条件については、労使の意見の違いによる対立はあって当然です。だからこそ、できるだけ、法律に則り、客観的な立場で、公平なる場での論議は不可欠なのです。たとえ、教頭が述べるように、管理職が「広く、細かく目を配り、職員の声に耳を傾ける努 力」(陳述書3頁16行目)をしていたとしても、不充分な場合が当然あり、法律や働くものの人権を保護する感覚に乏しいこともありえましょう。今回の校長の言動、および勤務の取り扱い等については、交渉項目に挙げたような多くの問題があるがゆえに、組合との交渉により、さまざまな立場からの意見を交流し、よりよい勤務条件を形成し、より正しい判断を為すのが管理職の責務だと考えます。

  5.  職場の関係・状況において実在した「恫喝」
     教頭は「一方的な『恫喝』という事実はありません」(陳述書4頁23行目)と述べています。しかし、「ありません」という「断定」こそが問題なのです。
     職場の関係から言えば、校長や教頭は鈴置の上司です。つまり、普通の物言いをしても、その場の関係・状況からは「強制」「強要」であったり、「恫喝」であったりするのは当然のことです。それが、誤解であるならば、丁寧にそれを解きほぐす努力をすべきです。
     鈴置からの質問書や要求書に、きちんとした回答もしないで、「事実でない」と言われてもそれは、上司としての責務を放棄した無責任な見解としか言えません。
     セクシャルハラスメント事件や人権侵害事件でもたびたび問題になりますが、 「そんなつもりはない」と言われても、上司や、決裁権を持つ者の言動が、部下や弱者にとっては脅威になりうるのだということを知るべきです。

  6.  担当する授業時数が増加し、労働が強化されている事実
     教頭は「生徒が受ける授業は……」(陳述書5頁8行目)と述べ、「週6日間でしていた仕事を週5日間でこなすことになるのだから、勤務が大変になるという主張は詭弁です。」(同頁11行目)と断じています。全国の中学校長・教員の9割が、「現場の現実を踏まえた教育改革を」(国立教育政策研究所発表:2002年10月4日「日本教育新聞」記事)と述べています。つまり、現場には問題がないのでなく、ますます複雑になってきているのです。
     教育改革等により(裁判提起の時は過渡期でもあり)、少人数学級やティーム ティーチング、習熟度別学級編制、総合的な時間など、現場は混乱を極めていま す。それに伴って授業を行なうのに相当な準備や打ち合わせが必要になります。
     現実に、持ち時間が増加すれば、それに関して準備、研修が必要になってきま す。私達教員が一般的に時間数を問題にするときは、時間数増加に伴う量と質の負担が増えることを問題にしているのです。「自分ばかりが授業時間が多いのはおかしいという主張は的はずれです。」(陳述書6頁1行目)と教頭は述べますが、みんなが無理な過重労働をしているのではないか?あるいは、教務主任らの授業時数を減らしたのは妥当だったか?そういうことを問題にすべきです。
     教育改革で、大きく学校が変わろうとした時に、職員はどう考えているのか?アンケートや実態調査を綿密にしているのか?教育関係諸団体や機関での実態調査と比べてどうなのか?そうした検証もせずに「的はずれ」と断じるのは軽率です。
     また、2001年4月6日には、厚生労働省から「労働時間の適切な把握のために使用者が講ずべき措置に関する基準について」という通達が出ています。 2001年参議院文教科学委員会では、政府から、この通達は「地方公務員にも適用されるわけでございまして、当然のことながら公立学校の教職員にも基本的に適用になるわけでございます」と答弁もあります。教職員の勤務実態の調査や、意見の集約をせずに、単に「熱心で、時間を惜しむことは、ありません。」(陳述書 6頁7行目)ということでは、教職員の健康の維持は図られるものではないと考えます。
     教職員の過労死や精神疾患での退職者が増えている今、こういうことを見過ごしてはならないでのではないでしょうか。
     私たちは、交渉の中で、情報を提供しながら、勤務実態の把握もしようとしな い、当局の怠慢さを、きちんと指摘したいと考えたのです。

  7.  公然化されている「教職員名簿」はだれでも使用できるはず
     職員名簿にかんする「トラブル」について、教頭は「私が校務主任から聞いているのは」「自分は載せない名簿を自分が必要な時には自由に利用していることに対する道義的な主張が(校務主任との:引用者)トラブルの原因だったということです。」(陳述書6頁18行目)と述べます。
     自由に利用できるものを、自由に利用してなぜいけないのか?という単純な疑問が沸きます。しかも、自分の住所等を載せないのは、個人情報に対する認識の違いであり、そのこと自体は教頭が言うように「任意」です。任意になっているものに「道義的義憤」を起すことが、大変に稚拙な態度とはいえないでしょうか?それよりも、抗議書を破棄するような行動に出る校務主任こそ「道義」を失しており、校長自身が、教頭などに任せず、それに関する「トラブル」の仲裁の労をきちんと最後まで取るべきではなかったか?と思います。

  8.  交渉にかかる職免は組合活動において十分に保障されるべき
     この問題は単純な事であり、職免時間が組合側の要求にそっていたかどうかという、意見の違いでしかありません。現実に、鈴置は、各種の組合交渉において、打ち合わせする余裕どころか、遅刻してきており、それは他の組合参加者も現認している事実であり、他の組合の分会では、そのような取り扱いは見られません。
     2002年4月23日の時には、あまりにも、当局の対応が不誠実ではないかと考え、また、このままでは、組合交渉が正常に機能しなくなる危惧もあり、単に鈴置だけの問題ではなくなると、あえて、委員長の時田良一が当局へ電話したものです。
     そもそも、職務専念義務免除(以下、職免)の裁量権は校長にあります。校長がきちんと、申し出者の意見を聞いて、論議し決裁すればいいのです。むろん、何時間を与えるかについては、校長と組合とで論議はあるでしょう。ただ、組合交渉がもたれる場合には、当然、組合からの希望時間を認めるべきだと考えます。また、その経過を見ると、職免時間も以前に比べて、不当に短縮させようという意図が当局側に見られます。
     電話での論議で、「一切受けつけられる内容の電話ではありませんでした。」 (陳述書7頁21行目)と教頭は述べています。しかし、事実は、教頭が「あなたに話すことじゃない」と言って、委員長からの電話を、一方的に切ったのです。

  9.  「話し合い」よりも「交渉」で正常な労使関係が形成できる
     最後に、私たちの組合は、いままで、組合員の所属する学校長とは「地公法上の交渉」をしてきました。交渉の結果、満足のいく結果がいつもでるとは限りませんが、当局にも組合の論理、事情をきちんと伝えることができ、それが、僅かでも前進と捉えるようにしています。
     ところが、この西部中の交渉拒否以来、組合員の所属する刈谷市の小学校でも校長が、「組合との話し合い」も「交渉」も、登録問題を理由にして、すべて拒否しています。
     このことは、組合活動の基本的な労働者の権利をないがしろにする危険なものです。今後こうした学校が増えれば、憲法で保障された、組合の「団結権」「交渉 権」は画餅となり、現場の教職員のかかえる困難や苦痛、健康等の問題は、当局の勝手気ままな裁量によって処理されていくでしょう。
     私達は「学校で働く者は、子どもと自分自身の人権・権利を同時に守らねばならない。自分の痛みに鈍感なものは、子どもの痛みにも鈍感になる」と考えていま す。
     当局が、様々な人権問題に、広く目を開き、組合との交渉を早くはじめ、問題を解決するために、前向きに進むことは当然のことです。

以上




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