きょういく大研究(2003.1.13)

機関誌あすく(2003.1月号)より

「不適格」排除の排他性

 愛知県で、「不適格教員」が十数名指名された。名古屋でも、今年(2003年)四月から、「指導力向上を要する教員への対応について」が出された。「指導力不足」教員の抽出と研修、その後の「復職・分限・通常勤務」の「対応フロー」が作成された。
 詳細は、いずれ検討するとして、ここには、大きな問題があると思う。
 この問題で、一番最初に組合で話題にしたのが、「教委・管理職に反抗的な教員」が、この制度を口実に、処分=処理されるだろうということだった。現実に、いくつかの都道府県で、「うるさい教員」は職場から追い出され、理不尽な職場替えがされている。
 このことの問題は、教育の現場における、自由闊達な論議とは逆の方向にある。
 しかし、そのこととは別に、私にはもう一つ大きな疑問があるのだ。
 つまり、「正しく、論理的で、きちんとした不適格の診断」をすれば、それでいいのだろうか?例えば、審査委員が公平で、合理的な判断をすればいいんだろうか?という疑問だ。さらに、「まあ、不適格と言われてもしょうがない人もいるから、制度自体はいいんじゃないの」と、どちらかというと熱心で立派な教員や、父母が言うとき、「そうだね」とうなずきそうになりながらも「ほんとうにいいのかなあ」と私は思う。
 ある管理職が「百人中の、百人が、あの教員はイカンぞ!というくらいの人が、不適格になるんだから、そんなメチャクチャナ抽出にはならないんだ」と言った。私は「それなら、いいけど……」と思いながらも、「で も、その百人に否定された教員はどうすればいいんだろうか?」とか「否定した百人の側には責任がまったくないのだろうか?」とか、「百人に否定されたことと、八〇人に否定されたこととの違いはどれだけあるのだろう?」とか、「どんなに否定されても、一〇〇%否定できるのだろうか?」などと考えてしまう。
 私は、こういう「不適格教員」を排除する前に、本当は、一緒に職場にいる人が「君は、ここがまずい、考えなおした方がいいよ」と直接言うべきではないかと思う。あるいは、「もうちょっと頑張ったらどうだい、手伝おうか」と声をかけているだろうか?とも思う。きびしい忠告や助言、言われたら嫌なこと、そして、それに反論や批判ができる職場を作るのが、まず先ではないか。そんなことを、直接相手に言える職場がまずなくてはならない。一緒に働いている人には、色々な人がいる、だからおもしろい。
 今、東京などで、「不適格教員」として攻撃を受け、それを跳ね返している人たちは、私から見ると、極めて有能な教育実践家である。それだけに、当局の非道さが分かる。でも、「有能でない不適格教員」も、この制度によって排除されてはならないのではないか。
 「不適格教員」を生み出した、職場に全く問題がないとは言えないだろう。この制度は一番その人に近い人間でなく、一番遠い人間が判断することに問題がある。
(2003.1.13)


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