きょういく大研究(2003.5.12)

教員は、何に「いじめ」られているか? 

はじめに
 教育改革は現場無視の施策である。現場を変えようとするのに、現場を無視すると いう無謀。教育改革が、実際に現場にどのような影響をもたらしているか、言葉を換 えて言うなら教員を、いじめているか! それを、ここでは具体的に述べていきたい。
 もっとも、読者にとって、ここで述べることは、さほど目新しいことではないかも しれない。というのも、愛知の状況は、舘崎正二さんが、『僕らは愛知の学校労働者』 として、本誌で精力的に、かつ詳細・緻密に報告と分析を連載しているからだ。した がって読者の満足のいくものが書けるかどうかは心許ないが、とりあえず、少しでも、 「いじめ」の元凶への解析と反撃が構成できるようなヒントでも提供できればと想い つたない筆を、いやキーボードをたたくことにする。

  •  愛知の管理教育における教員いじめと権力関係
     教員はずっと、いじめられてきた。昔からだ。私が教員になった1976年ごろに は、愛知の管理教育が有名になり、いろんなところで「教員いじめ」が多発していた。
     子どもに対する指導が悪いと、教員自身が丸刈りにされたり、正座させられたりし ていた時代である。私は、体育科出身のせいか、そういうことには慣れていた(笑) ので、あまりショックを受けなかったが、愛知以外の教員と話をするとえらく驚かれ、 逆に、それに驚く始末であった。
     しかし、人間が集まれば、そこで、権力関係は必ず形成される。だから、集団の構 成員どうしで、いじめや、そのしかえしくらいは、いくらでもあるだろうと私は思っ ている。逆に、それくらいの「活気」(笑)は必要なのだとさえ想う。しかし、問題 なのは、そうした「反撃」「報復」が皆無であり、いじめられっぱなしで、弱い教員 が追いつめられていくことだ。そして、それを他の教員が見て、「やっぱりがまんし よう」と傍観学習してしまうことが、一番の問題なのだ。
     いじめる側は、「みんな和のため、子どものため」と無理矢理のヘ理屈を言いなが ら、たいていは「上司の飼い犬」となって攻撃してくる。一方、いじめられる側は 「人権の侵害だあ!」と言いながら、徒党を組んでケンカするような状態があるなら ば、ある意味で「健全」ですらある。
     しかし、愛知の管理教育はそういう意味で、健全ではなかった。被害者が徒党を組 むどころか、仲間を裏切り、密告したり、また、出世や昇進をエサに、密告を強要さ れたりしてきた。
     現在でも、職場で口を利いてもらえない、会話ができない、管理職が「連帯して」 恫喝するなどの事件は、私の身近にもある。そう言う意味では、愛知の管理教育はい まだ、健在(笑)なのだ。

  •  進化したいじめ
     だが、誤解を恐れずに言うなら、愛知の管理教育の現場で起きていた、教員いじめ が、今次の教育改革によって全国化し、進化したといえなくもない。
     進化したいじめには、特徴的なことがある。一つはいじめが「世間の目という正論」 の形でやってくるということだ。だから始末が悪い。そして、もう一つは、いじめる 側も、いじめられる側も、お互いが被害者になる可能性が高い。関わり合うものは、 だれもトクしていない状況がつくられている。その結果、全体の教員が無力化し、虚 無意識が蔓延してくるのだ。いじめは、いつも陰湿だが、陰湿を超えて嗜虐的になっ ているとさえ感じる。

    1)異常な持ち時間数の増加=労働強化、酷使多忙
     全国が学校五日制になって、一週間の教員の持ち時間数を変えないようにとの文科 省の指導があったので、授業日数が減った分、一日の持ち時間数が増えた。つまり、 今まで専科教員がやっている間は、担任は「空き時間」だった。しかし、その時間に 他のクラスの補助指導にまわる(T.T)システムを作るように強要されている。し たがって、その空き時間がなくなり、事務作業がほとんど持ち帰り残業か、居残り残 業になっている。むろん、いままでだって、授業の準備は自宅への持ち帰りになって いたのが、それ以上になったということだ。持ち帰り残業は増加し、土日も出勤しな いと仕事が終わらないということもめずらしくない。
     それらは、「手厚い指導」を求める、世間の要求に応えているという「正論」なの だ。しかし、聞こえの良い「手厚い教育」という現実は、教員の過密長時間の労働に 支えられている。
     現実に、こうした過密長時間の仕事が積み重ねられればどうなるか? 教員の多く はまじめにやろうとする。しかし、人間だから疲れがたまる、病気も人ごとではない。 結局は、どんな会社の社員でも同じだろうが、とりあえず、やるけど、余分なことは しない! 必要なことも、最小限にするという身の処し方をする以外にはない。自分 の生活や体と心を犠牲にしないように……と。しかし、まだ、そうならばいい。それ でも、教員はまじめに「バカ」がつくから、くたくたになるまでやる。
     単純なことなのだが、「持ち時間を増やす」と言うことは、「勤務時間を増やす」 ということとは違う。「以前と同じように、8時間労働なのです」と、名古屋市の教 職員課のO氏は言う。しかし、教員が準備もいらない、その場限りの授業だけをやっ ているのならそれでもいい。料理で言うなら、材料選びも、下ごしらえも、準備も、 火を入れたり、道具を手入れしたりしないで、即材料を調理するだけを「勤務時間」 というならば、それもいいだろう。しかし、現実はそんな学校教員はどこにもいない。
     それどころか、授業とは無関係の仕事をたくさん押しつけられている。例えば、集 金事務だ。集金事務といったって、ただ集めるだけではない。未納者への催促、出納 の整理、業者との折衝、そういうことが、労働を一層過密にしていく。
     最近は予算枠の絞りによって、さらに、工夫して)?)「無駄をはぶく」ようにと の「ご指導」がある。
     しかし、本来、「無駄をはぶく」ためには、何がむだか? 優先順位はどうするか?
     そんなことをよく考える時間=余裕がいる。無駄をしない工夫をするためには余裕 が必要なのだ。資源やエネルギーの無駄を排除するためには、多少はめんどうでも、 じっくりと仕事をすすめるために、時間的余裕を覚悟しなくてはならない。ところが、 そんなことは全く不可能な勤務形態だ。結局、子どもとじっくり付き合う時間が減っ ていく。

    2)タテマエの「とりあえずやっとるがや的研修制度」
     こうした、状況下に、さらに、「正論」である、研修が追い打ちをかける。
     愛知県知多市では、二六年目と三一年目研修がもくろまれた。二五年働いても、レ ポートや指導案の作成に、追われることになった。むろん、「研修がよくない」とい うというのは「正論」に対しては、説得力がない。しかし、ハッキリしているのは、 研修は自主的主体的であるからこそ意味がある。押しつけの研修は、要するに、教員 に過重な労働を改善もせずに、研修を上乗せ的に押しつけて、有無をいわさずにやら せるということだ。これは、教員をさらに奴隷化しようということに他ならない。な ぜなら、この研修の「重要なポイント」は、思想を、技術を、感性を磨くような研修 と言うより、何も考えなくても、やれる、無思考研修というところにある。
     今、文科省や教委のやろうとしていることは、考えるな!という習慣的な心性を培 うことである。はみ出さないで、与えられた線路の上を、とにかく「スピードを上げ て」走りなさい! とういことに他ならない。
     こういう研修を見ていると、愛知の管理主義教育の「強制的部活朝練夜練」を想起 する。つまり、「中学生はヒマがあると悪いことをするから、部活でも入って、四六 時中練習し、悪いことを考える余裕を与えないようにすることがいいのだ」という考 え方である。
     生徒どころか、センセイまでも研修部活にどっぷりとつかり始めている。しかし、 これも、世間の目が気になる、文科省や教委の発想だ。内容はともかく、やればいい のだ。そういうところで、人権教育の研修をやっても、「教員の人権」はすっとばし ている。
     とりあえず、「教員はみんな一生懸命研修していますよ」と世間に「正論」を宣伝 したいのだ。当然、このレポートを勤務時間中に書ける時間など無い。そんな時間的 な保障をしている校長がいたら是非教えて欲しい。

  •  「世間の目」と実態を説明しない文科省
     文科省は「超過勤務の実態」を決して調査しようとしない。なぜなら、現場でのそ のひどさは眼を覆うばかりだからだ。調査して、実態が明らかになったら、違法行為 がハッキリするし対策を講じなくてはならないから困るのだろう。
     ところが、「世間の目」とやらに対して、文科省や教委は、先に述べた「強制研修」 とは全く反対に「自主的な権利研修」については、よろしくない事例ばかりをあげて、 どんどん権利研修をさせないようにしていく。
     愛知では、夏休み等の長期休業中に「限り」、職免「研修」(比較的自主的にやれ る研修)を認めると言い出した。しかし、なんで長期休業中に限るのか?それを追求 すると、「指針だから、授業日に研修することが違法ということではない」という。 教員がやる気になっている研修にはストップをかける。夏休みに学校へ出させたいの だ、自宅や施設で研修させると「世間の目」がうるさいというのだ。しかし、学校へ 出てきて、光熱費をつかうことをやめて、できるだけ自宅で研修させればよいのだ。
     研修したいという自主的な申し入れを拒む権利など、校長には無い。しかも、校長 たちがする、研修の承認非承認の判断は、実態や研修内容によるのでなく、教委から の通知だけが、理由である。
     「自ら学び、自ら考え」なくてはならないのは、校長・教委・文科省ではないのか? 「世間の目」という亡霊をでっちあげて、教員の権利を剥奪するという巧妙な、そし て、陰険なやりかたが、愛知では蔓延している。
     文科省や教委は、教員がどんなに研修する機会を奪われているかを、きちんと「世 間の目」に説明しないまま、教員に過重な労働をおしつけ、さらに教育の自由を奪っ ていく。そのやりかたは、有事立法や教育基本法の改悪とつながって、「国民」に対 する「戦争への参加」のための準備教育として見ることさえできる。

  •  「教員いじめ」は「殺人予備罪」
     愛知では、勤務時間の見直しと称して、休息休憩を取らせない、長時間労働を押し つけてきている。それが、当たり前になったときには、教員は、心身共に崩壊してい くだろう。そして、それは、とりもなおさず、子どもたちの崩壊を意味する。
     考えてみよ。不幸せで不健康な教員に教えられた子どもが、幸せになるか?自己犠 牲を美化する教育は、自己犠牲という名の下に差別を正当化する。教育を良くしよう として、教員が努力するとき、それは、社会全体が良くなる方法をとらなくてはなら ない。それは、「先生も人間です」というあたりまえの常識を深化させることしかな い。
     教育改革という教員いじめは、教員という人間を「殺す準備」という殺人予備罪に あたる。それは、とりもなおさず、子どもや親を追いつめ、生きることに希望を持て なくする、精神の死をもたらすだろう。
    『月刊 むすぶ』389号(5月26日発行予定)
    (2003.5.12)


    きょういく大研究     ホームページへ戻る