きょういく大研究(2003.7.29)

    学習指導要領と法的な拘束性について 


     子どもたちが受けている「授業」は、学校教育法28条第六項「教諭は、児童の教育をつかさどる。」に対応し、教員の中心的な職務(本務)である。もちろん、最近は授業よりも、生活指導や家庭指導(?)にも時間を割くことも多いので、「ああ、授業だけやってられたらいいのになあ」という教員の声は少なくない。

  1. 緊張関係の中で模索された「教育内容」

     戦後は民間教育団体が元気に活動していた。民間の教育団体は、いわゆる「民主教育」を理念として掲げ、官にたよらず、自前で研究会を開催し、文科省の教育内容、教材解釈、指導技術などを批判しながら、自分たちの教育方法論を積み重ねていった。それらの研究活動の成果・方針と、文科省の学習指導要領の方針との対立は当時明確だった。民間教育団体を重視し、ささえていた日教組は、多くの矛盾や問題を含んだ学習指導要領の内容をそのまま鵜呑みにすることの危険性を指摘した。教員自身がそれら文科省や教育委員会の提示する教育内容を吟味検討して、もっと子どもに分かる、楽しい授業を作ろうと「教育内容の自主編成」を重ねた。それは、教科書検定批判につながり、官製研修への批判と「克服」へとつながった。
     今でも、民間の教育団体はたくさんあるが、「民主教育」を標榜する団体は減っているし、教育の理念よりも「教育技術」を中心に、ハウツーものが盛んになっている。若い人たちも、政治・社会状況への問題を教育と結びつけて、教育理念を語りながら教育の内容や指導方法を研究するよりも、すぐに授業で役立つものを求めている。昔からある民間教育団体の構成員は高齢化している。
     ここ十年来、生活科、総合的な学習など多様化している教育内容は大きく変わってきている。とりわけ、文科省の示している教育内容は、一言でいうなら、以前にくらべ、教える内容が増加し、多様化している。そもそも学校の教室では、教える内容はどのように決められているのか、また、それを教員や子どもに押しつける法的な妥当性が本当にあるのか? について述べてみよう。

  2. 学習指導要領は大綱的なもの

     現場で学習指導要領をみんなが読んでいるとはとても思えないが、読む読まないはべつとして、教科書やカリキュラムはそれに強力に縛られているから、無視できるものでもない。学習指導要領に関するトラブルはいくつもの裁判で取り上げられている。現在までの裁判等で定まってきた「通説」では、「学習指導要領全面的ににしばられるものではない」とされている。
     なぜなら理由は二つある。まず、日本は一九四五に敗戦を迎えたが、それまでの国家主義的な教育は「国家の提起した教育内容に疑問や批判をもってはならない」ということを、強いられ、それが天皇制教育に突き進んだ原因だと、教育関係者は認識したからだ。「天皇のために死ぬ」ことをなんの疑問もなく教えていた教員や、それを支えた保護者・市民は、いくら国家がこういうことを命じ、政策提起されても、まず自分で「是々非々」を考えることが重要だ……と、「反省」したのである。したがって、学習指導要領がいくら国家によって作られたモノとはいっても、無批判に受け入れてはいけないということである。
     二番目は、教員が授業で、現実に子どもを相手にしているときに、学習指導要領はあくまで参考書にすぎないということだ。学習指導要領が「自ら考え自ら学ぶ」子どもを目標にしているということは、教員自身が、学習や授業の内容を研究しながら独自性をもって子どもに向かわなくてはならないということである。従って、授業では、学習指導要領にがんじがらめにされないで、教員の内容構成をする責任と自由が伴うのは当然だ。

  3. 教育内容について文科省や教委などができるのは指導助言

     法的には、教育にかかわる一切は、憲法、教育基本法に則って価値判断されるのが当然である。教育基本法の前文や各条項、憲法の二三条学問の自由、二十六条教育を受ける権利などを、学習指導要領のみならず、教育の基本にして行かなくてはならない。
     学習指導要領が「告示」の形式をとり、法的性格を持つという解釈もあるが、告示形式が当然のごとく「拘束力」を持つという根拠は薄い。
     それよりも、そもそも現行教育行政法の中では、教育に関することは「指導助言行政」が通説になっていると言って差し支えない。つまり指導要領も補助的な文書であり、手引き、指針的なものであるという理解だ。なぜなら、文部省設置法第五条六項および九項、六条十項、と二項、は、学校の自律性と自主性を尊重しているのである。例えば、文部省の所掌事務として「地方教育行政に関する……指導、助言および勧告」という表現がされている。第六条の文部省の権限についても、「指導助言と勧告」と限定している。しかも、権限行使については「運営上の監督を行わないものとする」とまで述べている。

  4. 教育改革と学習指導要領

     今回の教育改革では、総合的な学習の時間などの設定から、その文科省的な内容拘束性が和らいだと見る見方もある。つまり、環境教育や人権教育など、今まで民間教育団体や教職員組合が盛んに授業で取り上げ、訴えてきたことを、文科省は受容したかに見える。むろん、現象的にはそういう部分も無いとは言えない。日の丸君が代以外は、学習内容は柔軟に考えている。
     ところが、それなら教員はみんな元気になって、水を得た魚のごとく、創意工夫がなされているのだろうか? といえばそうではあるまい。学習内容が豊富になったから、逆に教員の研究活動が必要になるし、時間がなくてはできない。ところが、全体に多忙化している現状では、時間も余裕もない。ちょっと元気の良い教員が、むつかしそうで、手間のかかることをやろうとすると「そんなしんどいことを計画して、今以上に疲れてしまうわ」とため息混じりでつぶやく。そうした現実もある。
     出世研究授業のためか、研究指定校に「あたった」か、あるいは「教研の発表」当番か何かでなければ、教育研究もできない。むろん、過剰な疲労の中で行う以外にないのだが。
     教育研究者らも、「総合的な学習はいいですねえ」などと言っていないで、現実に学校でどのように勤務時間を守りながらやれるのか?それを提示しなくてはならない。どこかの学校へ入り込んで、いくら良い実践を見たりしたって、、実際に話してみるとよく分かる。それが、学校労働者の慢性疲労や過労死と引き替えならそんなものは、一瞬の花火でしかない。
     私は、「一生懸命やらないのは、動かないのは、おかしい」と批判しているのではない。それほど現場の労働条件が悪いのである。新しい教科への取り組みや、新しい試みをするなら、今までの内容に積み重ねるのでなく、削除するか、簡便化することを含んで提案すべきなのだ。精選や厳選でなく、「削除」を。もう、教育のシステムや学校の幻想を相対化しながら、自分が教員としてやりたい内容を等身大にすべく、再検討すべきときなのだろう。新しい指導要領は、ちっとも「新しくない」し、教育改革は、ちっとも「改革」ではないからだ。
    (2003.07.29)



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