きょういく大研究(2004.7.13)

    ゾンビと学力低下論

  1. ゾンビの再生

     霊幻道士やゾンビというのはボクの好きなジャンルだ。最近は映画バイオハザードでも、そのゾンビの理念は十分生かされていたので、悪趣味と言われるのを覚悟で書く。ゾンビ文化の普遍的な力を強調したい。バイオハザードだって、ま、もとはコンピューターゲームだったわけではあったけど、それなりに高い質のストーリーだ。主演のミラ・ジョヴォヴィッチという女優が、えらくかっこいいなあとおもったら、あの女性革命家ジャンヌダルクという映画に主演したんだよな! つまり、バイオハザードはすごいんだと。(モダンゾンビの原典『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』のJ・ロメロ監督が本来、この映画を監督するはずだったらしいけど)
     さて、死者が生き返るというのは、「死んでも生きている」ということであって、その思想性はグローバルで奥が深いと思う。決して、安直なものではないと思う。死んだはずの物体が、生を持って動き回るというのは怖い。
     もともと、こういう話は、そのもとを探るとどこでも同じように宗教的な考え方や、不死思想につながる。成仏できない幽霊とゾンビの違いは難しいが、ゾンビは要するに基本的には人形であり、カニバリズム(人肉を食らう)主体である。同種の生き物を食するので怖い。
     ものの本によると、ゾンビの宗教的な出自は一九二〇年代の「ヴードゥー教」奴隷で、タヒチではゾンビが農作業に従事していたらしい。意志を持たずに働き、疲れ知らずで、食料も必要としなかったらしい。生きる屍奴隷なのだ。ゾンビがクワをもちながら「今年は芋が小さいな」とか言ったんだろうか?
     このゾンビはその後、いたるところで語られ、話題になり、映画化された。「死霊のはらわた」「サンゲリア」とかは有名だし、ちょっとかわったところでは「ママ、食べないで」、そして「ペットセメタリー」も何度見ても怖い。日本では「死国」なんかもあるでしょ。
     こういう話を平然とかつ面白そうにして話していると、教育的な筋から、「とんでも教員!」とラベルを貼られるかもしれないが、実は、民俗学的にも、いや考現学的にもすごく価値あるテーマなのだ。まず、そこのところをきちんと押さえておきたい。(何を押さえるんだ?(笑い))
     さて、このゾンビが低学力とどういう関係があるかというと、それは非常にむつかしく、簡単には言えない。三日くらいかかりそうだ。コーヒーだって十五はいくらいは必要だ。

  2. 学力の低下は昔もあった

     ゾンビは、ものを考えない。ほとんど無思考というか、判断するときも一部のみ作動させ、他は何も考えないようになっている。また、お互いを、つまりゾンビ同士で、喰い合うことはない(たまにあるが)、生きている人間だけを襲って食べることが、自己生命(死んでいるのに!)の維持にかかせないという一点で存在している。
     例えば、これは、低学力論争(「論争」と言えるかが又問題だが)に似ていないか?「何か欠如している!」というキャンペーンは、「そうか足らないのか」 → それじゃ 「確保しなきゃ」とか「生産しなきゃ」という単純明快な、「行くぞ!一本道」的な、話になる
     こういうキャンペーンが流行ると、岸本さんの『見える学力、見えない学力』が、再版されて、大売り出しになる。「学力がない!」といっている和田さんたちも、「そうだそうだ!の大売り出し」となる。岸本さんの直系弟子の蔭山さんも蔭山メソッドの「学力向上 マニュアル」が大売れで、それでもって、また向山さんが「TOSS(教育技術の法則化運動)のやり方もあるんだよ」と便乗商法となる。
     教育学者のみなさんも、「真の学力とは」とか「学力の歴史」などを書きはじめ、かくいう『お・は』も15号で、特集した。そんなには売れなかったらしい。
     なんか、教育の商売と低学力というのは、大いに関係ありそうだ。
     子どもたちの学力が上がったのか?どうかは分からない。だいたい キョォーインっていつも「ちかごろの子どもはなっとらん!字も書けない!あいさつもできん!」と愚痴っている。それが、習い性だとボクは思っている。さらに、「このやろー」といいながら、「もっと勉強せんかぁー!」と、怒り続けるのが仕事だとも思っている。
     二八年もキョォーインをやっているが、むかしから「学力が低い」と言われていたような気がする。「昔はよかった」じゃなくて「昔もひどかった」のだ。一九五〇年には「先生とも書けぬ:学力低下の実態」という見出しで新聞に報じられている。
    「二部授業・教員の素質低下・社会環境が原因」と。
     つまり、「学力は戦後、五〇年間ずーっと下がりっぱなし」と「言われ続けてきた」というのがホントのところではないか?
     実際に、本当に下がっているのか、どうなのか?は分からないというのが真実だと思っている。よく、試験やテストの結果で「判断」している人がいるが、それはあくまで「推測」にすぎない。「学力を診断するテスト」と「学力低下だあー」と思っている人のイメージが同じかどうか? まず そのあたりか ら、検証すべきなのに、そうしていないのだ。そんなんでいいのかぁ?

  3. 個人の欠如を探す学力の考え方

     教育怪でなされてきた学力論争は、前述したように「足らないことを探すのが基本」 になっている。これは、消費者の商品への欲望をかきたてる構造的手法と同じやり方 だ。足らないこと・モノは「無限に存在する」のだ。つまり充足や満足は、実際の生 活の中では、一つの通過点でしかない。満足に満足していないのだ。
     学力も同じで、「漢字が書けるようになった」というのも、その漢字がどの程度書 ければ、「よい」「満足できるか」などという基準は作りようがない。ところが、た とえば、80%位はテストで書けるようになったとしても、実は、80%クリヤーし たら、「ここで満足するんじゃないんだぞ!」などという慣習的な向上意識が教員の 側に出てくる。もちろん、子どもの中にも、それはある。
     これは、向上心、志向性あるいは「あきらめない根性」などの「肯定的価値観」と して現代社会の中で積極的に受け入れられる行動の枠組みを作る。学力は、それに支 えられており、基準があるようでないのだ。だから、「日本は理科が得意だが、英語 が苦手」などといわれると「英語の基礎学力がないのだ」という論議が「無意識的」 に出てくる。英語ができるとかできないのが生活の中でどの程度、困るのかとか、安 心なのかについては、たいてい「不明」だ。
     どうも学力を、「個人の孤立的な概念」と考えてしまいがちである。そんな習性が 学校をはじめ世間、教育に関わる人にあるような気がする。たとえば、学力を測るテ ストでも「個人」で受けるし、一人一人の力と思っている(これがごく普通なのだが) 。つまり、ゾンビは協力しあうことはないのだ。
     でも、実は、学力が個々に成立していないことに多くの人は気づいていない。たと えば、漢字のテスト一つにしても、学校の教員は、「親がもうちょっと教えてやるか、 ハッパをかけてやれば、ずいぶんよくなるのに」とか、親は「もっと先生が、厳しく 根気よくやらせてくれれば良くなるのに」と思っている。
     これは、漢字を書く力が、単にA女やB男個人の力というよりは、家族や学校のい わば社会的な力としてとらえることができるという視点である。文化が社会的な資本 であるという考え方がないのだ。
     もし、学力がもっと集団的あるいは社会的なるものだとすると、「学力」も違った 見方ができるような気がする。人には、得手不得手とか、生まれつきの習性、あるい は、好き嫌いによって、自分の欠如を補填してもらったり、自分の長所や得意なこと で助けてあげたり、相手とともに学び、ある程度の結果を出すこともできる。そうな ら、学力低下というものも、社会の繋がり・関係のあり方から、その問題を見ること ができるのではないだろうか?
     これは、生活の中で頻繁にあることだ。たとえば、電車に乗るときに駅員の人にサ イフを渡して、「必要なだけ取ってよ」という計算の不得意な子が、ちゃんと生活で きるような現実があることも知るべきだ。

    とりあえずのまとめ

     本当は、現実の読み書き計算ということが学力だと考えた場合に、そのとらえ方は 非常に単純化できる。どれを自分の立場にするのか、あるいは、混合的立場に立つの かは自由だが、すくなくとも、学力の「欠如の押しつけ」が正当なものなのか?それ を明確にする努力は必要だ。恐怖や不安をあおる印象批評だけで、子どもを追いかけ ることだけはやめたい。


     こんなことを、ちょっと考えてみることで学力についても、もう少し前向き(笑) な態度が取れるはずだ。
     学力低下論は、ありもしないゾンビの恐怖におびえるようなものである。大人社会 の行き詰まりのたびに、偉そうな人々は、その政治的無策をごまかすために、なんど もなんども「教育の荒廃」を利用してきた。その教育荒廃宣伝のアイテムの一つが 「学力低下」なのだ。そんなものにふりまわされてはいけない。
     戦後、なんども生き返っては、死んだゾンビとしての「学力論争」をそろそろ火葬 にすべき時が来ているのではないだろうか。


    (2004.7.13)



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