きょういく大研究(2004.11.19)

「わし教員だわ」 (月刊「家族」誌)

現代の教育改革の傾向と対策(1)

 教育改革が,まだまだすさまじい勢いで現場を席巻しておるわな。今回と次回でその 要点をできるだけわかりやすく書いてみるぎゃあ。よう、読んで勉強してちょ。

 教育改革は「新自由主義」だといわれとる。まあ、そうだわな。でもよ、もうちょっ とわかりやすく言うとな、「説得力付きで、子ども全体、心も体もを差別化」するこ とだわな。
 たんなる「言われなき差別」とは違うでよ。ちゃんと「理由」付けて、「単なる点 数で差別しとるんではないよ。差別でなく、個性なんだでよ、あんまり気にせんでえ えよ」と言う。けど、まあ、同時に「分相応に生活しなきゃいかんよ!」って、刷りこ んどる。人をうらやましがったり、ねたんだりして「反抗」したらいかんに、という こと。

 勉強できんでも、ええ学校へ入れんでも、「ええよ」っちゅことだ。「学校だけが 人生じゃない。そりゃ給料も安いし、生活も不安かもしれんけど、まあ、あんたはそ れくらいの人間なんだから、あきらめないかんよ……」ということだ。
 ほんだでその「理由」付けのために、学力テストやろう、学校ごとに平均点出そう、 意欲関心態度を評価しよう、学校どうしで競争させようということになる。

 で、今までの市民の批判やオールタナティヴ教育を考えてきた人たちの意見も取り 入れるフリをして、「学校なんか別に行かなくてもいい」「勉強なんかたいしたこと じゃない」「人間、成績だけじゃない」という、聞こえの良い話をしながら、結局、 「成績の悪い子はそれなりに、不幸になるけどね、身から出たサビ」と言うことを教 化しておるわけだ。

 つまり、学校なんかたいしたことはない、……といいながら、でも「できる子は優遇 します、できない子は冷遇されてもしょうがないよね!」という価値観がまき散らされ ておるんだわ。

 自由はすばらしいから、みんな満喫してね。でも、その自由に甘んじて生きたら、 ソンするよー という。そうすると、自由が怖くなるし、自由からどんどん遠ざかっ ていくわな。
 新自由主義教育改革は、結局は、「自由は怖い」「従順はすばらしい」を教えてお るようだ。
 差別する自由と、貧困になる自由が「正当化」され、世間の差別の実態が「正統化」 していくんだでいかん。

 ほれで、二つ目。教育改革の根本にあるのが、競争原理の徹底だな。競争原理は、 みんな好きだなぁ。負けても勝っても大騒ぎだ。

 スポーツやゲームに、競争がなかったらみんな馬鹿らしくてやれせん。わしは、こ の近代からの競争という構造がとにかく、人間を不幸にしたと思っとる。
 勝者があれば、敗者が必ず生産される。敗者へのきちんとしたケアが制度としてな いと、勝者の「お恵み心」にすがるしかないので、敗者は自己肯定感が得られないが ね。

 競争の怖さは、スタートラインがまったく違うことや、すごい不平等な条件で始ま るのに、一見、平等に見えてしまうことだ。
 世の中に平等な競争なんか絶対にない。スポーツゲームをやるときに、どんなチー ムや選手でも競争に参加する時には、すでに条件が様々と違っとるわな。

 勉強だっておんなじだ。子どもが平等であるわけがない。子どもには、生活があり、 性格、「収入」とか「文化資本」、準備の条件など、必ず、違いがあるがや。それが、 競争のスタートラインに立つと、単なる違いが不平等性になるわな。みんな家庭や育 ち方、もっと言うなら「収入」「文化資本」が違うでしょ。

 商品の値打ちが一本のものさしの「お金」の値段できまるように、子どもにも値段 をつけて、「有用・不用」のレッテルを貼ろうとしているのが、現代教育改革だがや。

 古い野菜が百円均一のカゴに入れられておいてあるがね。「古いし、色も変わっと るでしょうがない」という理由は「つおい」わな。子どもたちも「能力ないでしょう がない、できねえ奴はしょうがない」とされて、本当にそれで、ええもんだろうか?

 「能力」という一本のものさしを作ったのは誰じゃ?とか、作った人間自体を問うこ とが一番問題なんだけどな!つづく
(2004-11-19)


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