きょういく大研究(2005.2.20)

石川憲彦さんの講演を聞いて

 「学校教育」については、百家争鳴なのだが、ちょっときちんと、学校や子どもを語ろうとすると、今ひとつリアルでないということがある。私は、どうもこの問題は、みんな自分の考えている、あるいは前提としている状況、現場が、それぞれ違っているからだと思う。その違いをある程度認め合いながら、共有化しないと論議は前に進まないと思っている。
 たとえば、「障害を持った子ども」というくくり方を私もしてきたし、これからもするのかもしれないが、この言い方は、結局、現場的ではないなあと思う。つまり、現場では、子ども一人一人の性格や特徴、まあ、個性でもいいんだけれど、そういう異質性が、友達や教員との関係の中でダイナミックに動き、それが生活という渦になっている。障害一つだって、人の数くらいあるわけだ。
 「低学力」ということばでも、計算の正解率などのように、計量化した枠組みに位置づけると、ある枠にはまり、ランクがつけられるが、実際の学習ではこうした枠を意識するだけでは自分の力を十分発揮できないことが多い。かえって、枠がじゃまになることさえある。漢字テストだって、同じ×でも、千差万別なことは誰でも分かる。低学力克服と称しての教育改革は、また、差別と選別を復活、あるいは今以上に進めるだろう。つまり、子どもをまとめてなんとかしようという発想それ自体が、現場的でないのだ。
 教育は、授業や課題付与などをして、一定の外からの働きかけによって、子どもたちに力をつけることだと理解するのが常識になっている。大筋において間違いではないが、子どもたちの反応は様々で、必ずしも教師や親の来したとおりにはならない。しかし、それも「反応」にはまちがないし、物差しがちがえば、評価も色々されるだろう。
 今回の石川さんの講演は、ある意味で「専門的」に聞こえるかもしれないが、私は、「個が生きている」という現実と、自分以外の他者とどう付き合いながら、社会を創るか? という話だと思って聞いた。多少気にくわない奴(笑)とも、お互い様なんだと、そこそこつきあえるように体験学習することが大事なんだと思いながら聞いた。
 最近では、こうした考えとは「真逆」で、学校に「さすまた」「警杖」をもちこんで安全を確保しようとしている。「武器」を校内に入れることであり、専守防衛?とはいえ、憲法九条違反になるということだと思う。シンプルに、加害者と被害者の両方を視野に入れ(だって、どっちの立場にもなりうるでしょう)、子どもたちを、住みやすい風景の中で生活させようと言う、ごく当たり前のことを、私たち大人は考える方がいい。
 最近、うるさい「土曜日や夏休みも勉強させよう」と言うのって「大人の子どもいじめ」じゃないの?
(2005.2.20)


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