児童心理(金子書房2007年2月号)

集団体験の中で育む子どもの社会性

     学校の存在意義というものの一番に、「子どもが、集団の中で生活し、成長すること」をあげたい。学校は、子どもたちにとってかけがえのない生活の場である。それは、仲間の中で自己主張をしたり、集団での学習や仕事に関わったりすることによって、人間関係をうまくとりむすぶ現実的な対応を学び、ひいては社会で通用する、一人前の大人になるための基本を身につける場所である。

  1. 対(つい)関係から、集団の関係へ
         〜 家庭の「しつけ」と学校の「しつけ」

     家庭と学校の人間関係の決定的な違いは、次のようなところにある。家庭には、親子、兄弟姉妹など、近い距離での「対の関係」が多く、幼い頃から身に付いてきた、無意識化された慣習的な「暮らしの作法」に則って生活できる。一方、学校には、価値観の異なる、生育歴も違う、多くの子どもたち(成員)がいる。場を共有してはいるものの、関係の不安定な集団の中で生活しているのだ。
     したがって、いくら家庭でしつけをしっかりしたとしても(無駄とは言わないが)、即、学校生活の中で必要な行動様式や価値判断に結びつくとは限らない。そこには、いわゆる「学校のしつけ」というものの存在がある。
     単純な例を上げよう。学校給食の時間に、お代わりが欲しい場合には、自分から「欲しい」と言わなければならないし、多ければ、じゃんけんなり、分け合うなりして、共同的な調整が必要となる。
     しかし、家庭では、兄だけお代わりができて、弟にはできないなどということはない。つまり、家庭では、最初から、ある一定のきまりによって、あるいは、親の指示によって、お代わりの仕方については、平等に配慮されており、意識せずに、安心していられることが多い。
     学校では、「お代わりしたいのに、できないで我慢する人」も当然いる。
     このように、欲求が満足されないときに、学校では子どもたちには「あきらめる」「我慢する」「わめきちらす」「泣く」などという選択肢がある。そこには、学級集団の中で、みんなが対等に話し合いや子どもたちの力関係によって左右される「方法やきまり」が多種多様に存在する。そして集団によって、その方法・行動様式(ある種の「しつけ」)を身につけることを要請されている。
     学校における集団の生活は、このように、彼らが育ってきた家庭とは、異なる行動様式を身につける場所になっている。

  2. 相手を選べない学校の人間関係
         〜 「席替え」のごった煮を歓迎する強さ

     教室の席順を、原則として「くじびき」でやっている。教員の中には、綿密に席順を考えて子どもたちに示す人も多いが、私は、「くじびき」で、一ヶ月交代にしている。
     番号札の書いてある、木札を布袋に入れて順番に引いてもらい、その席に座ってもらう。もちろん、視力が弱いなど身体的な理由がある子どもは、「別くじ」にしている。
     男女も、背の高さもまるで関係がないので、グループ学習で机を寄せ合うと男子ばかりのグループもできれば、女子の中に一人だけ男子がいる場合もある。
     比較的仲良しの子ども同士が隣り合わせになれば、「やったー」と叫んでいるが、男子と女子、あるいは、それぞれ学級での有名人と隣同士になったり、仲のよくない子ども同士だったりすると、その場での空気は冷たくなる。
     私は、くじ引きの直後、あたらしい席に座った子どもたちに「さて、みなさんどうですか? どうしてもこの席では困るなぁーという人はいますか? みんなに理由を話して納得できれば変えましょう」と必ず言う。
     しかし、ここでは、そんなことを言う子どもはいないという確信があるから言うのだ。つまり、みんなの前で「隣がイヤだ」などということがいかに失礼か分かっているし、「そういうことを平気で言える子ども自身が、そうとうイヤなヤツ」という暗黙の了解が成り立っている。
     こうした席替えで、私は話す。「隣の席の子が、仲のいい子だといいけど、あまり知らない子、仲の良くない子、やんちゃな子って、色々あるかもしれない。でも、相手もそう思っているかもしれないよな。どんな子でも、そこそこうまくつき合うことができるようにならないといけないよ。意外と、相手と楽しくやれるかもしれない。くじで偶然、近くに座ったっていうのも何かの縁だから、神様がくれた、みんなが成長するチャンスかもしれない。どうしても困ったら相談にのるからね」と、毎回同じようなことを言いながらやってきた。
     子ども達には、こうした情況にも柔軟に対応できる強さが、自ずと求められる。

  3. 集団成員の平等性を維持して仕事を完成させる
         〜 グループがトラブルを越える強さ

     掃除当番のグループ、給食配膳当番のグループになると、人間関係がいっそう複雑となる。集団の複雑さや問題も、ある種「進化」する。最初は、役割が明確になっているから掃除にしろ給食にしろ、じゃんけんや順番で大丈夫なのだが、慣れるに従って、集団構成員の中で、甘えによる無責任行為が出たり、力の強弱関係が「主従関係」をつくったり、集団としての課題や問題が起きてくる。
     私は、みんな全員が仲良くなれるはずだという予定調和は、時として「机上の空論」だと思っている。子どもであろうと、大人であろうと、社会生活で「仲良し」ばかりであるはずがない。たいていは、イヤなヤツ、仕事ができないヤツ、うるさいヤツ、いじわるなヤツ……そんな仲間と一緒に仕事をしなければならないことがよくある。
     子どもたちだって別ではない。教室のタテマエは「みんな、なかよくしよう」となっているが、実態は困難であることは、分かっている。仲良し集団ほど、同調圧力が強く、排除の恐怖にさらされる集団はない。現実的には、集団内に異質な者の存在が許されるようなゆとりやあそびのある方が長続きするし、いごこちもいい。それに、仕事もコンスタントに仕上がるはずだ。
     一致団結しないとダメだという集団は、崩壊も早い。また、あらぬ方向に平気で突っ走り、停止や修正がきかない集団も困る。
     教室では、どんな子どもや集団も、掃除や給食の仕事は、しなくてはならない。そこでは、別に楽しくなくてもいい。毎日の掃除なんか楽しいはずがない。(「楽しいと言う人がいたら、全部やって欲しい」といつも私は言っている。)進んでやれる子は少ない。
     掃除さぼりに業を煮やした教員が、「掃除は進んできれいにしようという人が、進んでやるべきだ。教室がきたないと思う人でやろう」と言って、結局だれもやらず、臭いにおいがする教室になってしまって、最後は、教員がやったという笑い話のような話もある。
     掃除でも給食でも、とにかく「作業をある程度のレベルで合理的にやる」というところに主眼をおくべきなのだ。仕事をやっているときに、子どもたちの気分がどうであろうと、それは二の次なのだ。使ったことのないようなほうきやぞうきんで掃除をする子どもたちに、指導をしながら、私は「口より手!」といって一緒に掃除をする。
     学校の当番活動で大事なのは、みんなが「機械的かつ平等にやる」という了解をすることだ。仕事の上手下手でなく、仕事量が平等かという点で、子どもは「うるさい」。どんな集団・グループでも、トラブルは起きるものだ。
     だが、どんなトラブルであろうと、「とにかく、掃除を淡々とやれ!」なのだ。「手を動かして、時間までにすませよ!」が一番大事なのだ。そのグループが、いかなる困難を抱えていても、みんな全員で、仕事ができた、終了したというそのこと自体が「すばらしい!!」と私は、褒めちぎる。小さないさかいや、つまらない言葉のやりとりなど、仕事が完成することの意義に比べれば「屁」である。そういう仕事が、日常生活には、たくさんあるということを、教えなければならない。

  4. 競争原理から協働原理へ
         〜 価値観を問える集団の知性という強さ

     集団性を高めようとよく例に上げられるのがスポーツである。チームワークや「集団の絆」の礼賛である。
     しかし、私は、こういうスポーツでみんなを束ねていくというやり方に大きな疑問を持っている。とりわけ、個人で自由に選択していくスポーツでなく、義務教育としての学校体育などで、安易にスポーツの競争性を重視して集団を鍛え上げるというやりかたには批判的なのだ。
     私自身が、体育科出身であるということもあって、チームワークの問題性を人一倍強く感じてきた。チームワークは時として自己犠牲を強いるし、指導者の強制的動員を正当化する。また、「汗と涙」という、がんばることに意義があるという努力主義、また逆に「結果を出さなくては意味がない」という成果主義という、異質で能力も多様な子どもたちが参集している学校の集団には、好ましくない価値の枠組みがスポーツにはある。
     本来、スポーツには競争原理が基本にある。この競争原理は、それを選択したものにとっては、優勝劣敗の価値観も自分で選び取ったということになる。だから、敗退して、また頑張ってチャレンジすることも、逆に、そのスポーツから遠ざかることも自由である。
     ところが、義務教育学校においては、遠ざかる選択肢は用意されていない。だから、スポーツにおいて起きる問題を避けることができないまま、傷付き続けるということも起きる。
     たとえば、バスケットボールの授業ときに、パスやシュート、オフェンスとディフェンスの練習をする。ところが、試合が始まると、上手な子ども同士でしかパスをまわさない。もし、下手な子にまわせば、チームが負けてしまう。練習では、イコールチャンスという価値観でも、試合になれば、勝利至上になる。これは競争原理の下では必然なのだ。
     また、リレーの授業でのチームづくりでも、走るのが遅い子が入ると「あーあー」というため息や、聞こえない「落胆の声」はいくらでもある(聞こえない方が、当事者にはよりいっそうこたえるものだ)。それを「勝って奢らず、負けて悔やまず」という道徳的な指導によって改善することはできない。
     こうした、スポーツの持つ競争原理の構造を、協働原理に変換する努力が必要なのではないか? 順位を付けるとか付けないという浅薄なレベルでのことではなく、競争原理の構造や優勝劣敗の価値観にとらわれないのだ。
     野球一つにしても、味方がピッチャーをやって、打ちやすい球をなげてやる、というルールにするだけで、だれでもが打てる、しかも勝敗よりも、「楽しく打てた」という経験が意味あることとして子どもたちの中に醸成されていくように思う。上手だとか下手だということに左右されない、「みんなが楽しむためにはどうするか」という難しい工夫を最優先の課題としてのぼるような活動が、今一度重視されなければならない。これは勝利より難しいだろう。
     柔軟で工夫のある強い集団や個人は、競争原理の中では育たない。

    (名古屋市小学校教員 岡崎勝)

    参考文献
    * 岡崎勝『学校再発見!』(岩波書店 2006年)
    * 影山健・岡崎勝編著『みんなでトロプス』(風媒社 1984年)
    * 岡崎勝編著『がっこう百科』(ジャパンマシニスト 2005年)

    (2007.6.3)


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