きょういく大研究(2007.8.16)

改訂版 NO!教職員人事評価制度
ああ言われたら、こう言ったるぎゃー

がっこうコミュニティユニオン・あいち
(アスク)岡 崎  勝
2006年8月16日

0 はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2
1 教員評価制度の問題点とねらい・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3
2 人事評価制度のエラーについて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6
3 「人事考課・成果主義」と「教員評価制度」を労働法的に考える・・・・・・・・6
4 本質論を欠いた「公正な評価」を求める心性・・・・・・・・・・・・・・・・・8
5 裁量権の逸脱と濫用を糾す・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10
6 質問集 教員評価するあなた! ここが聞きたい100の問い・・・・・・・・11
  参考文献等

(多くの人々は)教員評価になぜ反対しないのか? (HP掲示板から)
 逆に言えば、なぜ、教員以外の人たちは教員評価制度の導入に賛成しているのか?
被評価者である教員の大きな反対理由を見る限り、「評価の恣意性の恐れ」、「評価の客観性の担保が疑問」でしょう。
 が、しかし、それでは、反対する教員諸君にお尋ねしたいが、「生徒評価の恣意性」についてはそれを回避するために自分たち自身は従来、どう担保してきたのか?
保護者や生徒の誰にでも「内申評価の客観性」についての話題を振ってみたら、出るわ、出るわ、えこひいき、恣意性、不平等についての不満のオンパレード。教員の機嫌を損ねたために内申を下げられ、希望の高校へ進学できなかった話なんぞ、あたりまえにありすぎて、話題性に乏しい。
まあ、半分に割り引いたとしても、従来、公務員教師諸君が一般国民やその子弟をかなり「権力的に」「恣意的に」「好み」によって評価付けしてきたことは、紛れもない事実であろう。
であるなら、その張本人たる公務員教師諸君が自分たちが好き勝手にやるのはいいが、「それと同様の事をされてはたまらない」と声を上げたとしても、教員とその利害関係者以外は誰も同情なんぞしないし、また、その理由付けに「あきれて物が言えない」のである。
黙って事の成り行きを傍観している保護者や市民は、実は「そりゃ、少々、恣意的であろうが、自分たちがやってきたことに比べりゃ、マシじゃないの?」と思っているのである。
教員評価が行われることによって、ちょくちょくいる「主観を大幅に評定に繰り入れる気まぐれ教師」が減るならば、大いに結構なことではないかと感じているのである。
ゆえに生徒保護者、市民の大半は教員評価に積極的であれ、消極的であれ賛成なのである。

投稿時間:07/08/03投稿者名:流征四郎(ハンドルネーム)

0.はじめに
 一昨年に書いた「NO!教職員人事評価制度」を改訂してみた。若干の加筆修正がしてあるが、以下の二つの視点があることを念頭において考えてみた。
(1) そもそも「教員評価制度」は、私たちにとって必要ないものであり、それを拒否していく闘い方が求められている。「よりましな教員評価制度」を求めず、「不必要性」論拠をしっかりと構築する努力が必要だと思うこと。だが、困難性もある。
(2) 力業的に政治権力によって「教員評価制度」が導入されようとしている現場では、「よりましな教員評価制度」という土俵に乗りつつも、とにかく無化、形骸化、無意味化していくための方法、アイテムを考えていくこと。
 このレポートは、まず、この二つを同時に展開しているところに、限界もあることを述べておく。しかし、労働法的な側面から、考えることは重要だろう。また、職場によっては反対が多数でない場合もあるので、そういう場合は、(1) を前面・前提・根本しながらも、(2) を無視できないと思っている。
 学校へ導入された教員評価制度は、学校の新しい教員操作と教員の奴隷化の端緒でもあるし、現代教育改革の象徴的かつ、最終的には、労働者であろうとする教員のスポイルと、あたらしい「魂なき専門家&労働者」の量産ということに帰結する……と私は思っている。
 で、それを現場で、跳ね返す、あるいは、問題点を指摘しながら、学校を普通の人間が働ける場所にしようと考えてこのレポートを作った。
 なにせ、言葉足らず、時間足らず、脳みそ足らずのレポートなので、先日同様、話題提供的なものだということで読んでいただきたい。
 なお、今回も、私が所属している自立独立組合のASCU(がっこうコミュティユニオン・あいち)の了解を全部得たわけではないので、ASCUの他のメンバーがこのレポートを厳しく批評することも十分あるのでご承知ください。
 また、このレポートには、あえて教員評価制度が子どもへ与える悪影響については、特に大きくは、ふれていない。それは、今後の課題かもしれないが、現在は保留しておく。

1.教員評価制度の問題点とねらい

(1) 教員の徹底した管理制度
 この評価制度は、建前的には、「教員の人事管理を適正に行うことを狙っている」ことに尽きる。しかし、「適正」とは何を持って「適正」というか不明だが、実際に教員間を対立・分断させて、「一生懸命頑張るが、文句を言わない教員」を増やそうという隠された戦略を持っている。
 仕事を成果主義的に評価し、最終的には給与差別を、正当化しながら導入しようということだ。しかし、現実には、評価項目、評価規準の非常にあいまいな表現、そして困難な評価方法をして、評価者である校長らは、権力的自由に評価できる。彼らは、「恣意性」「主観性」を排除できない、自由裁量になってしまっている。
 結局、校長の視線を気にし、周囲とトラブルを起こさずに、無難に、しかも、やや目立っても、大きくは目立たないような仕事ぶりを、教職員は要求されていく。また、あるいは、リーダーシップを率先して担い、校長の顔色をうかがい、視線の先を読みとりながら働くという仕事ぶりも要求されているだろう(今以上に!)。
 ただでさえ、無邪気に「校長のリーダーシップを発揮する」ことで、職場を混乱させている校長だが、さらに評価制度がはじまって、いっそうヒラ教員の「もの言いが難しくなっている」という声が多くなる。気軽に話しかけても、それが、評価の対象になっているのではないかと、心配になるのだ。とにかく実際に成果主義を取り入れた企業では、多くの問題がおきていることは周知の事実である。
  ときどき、御用学者、研究者が、「『教員評価=職員分断=悪』というのは単純な図式化である」と批判する。「なんでも反対の組合的発想」だというのだ。残念ながら、今時「なんでも反対してくれる組合」(笑)なんて、まずない。だが、この単純な『教員評価=職員分断=悪』の図式は、だれがなんと言おうと正しいのだからしかたがない。
 たとえば、教員評価制度を批判すると、すぐに「単純だ!」と言って反批判したり、あるいは問題だと主張したりする人の気分は、「職場で、十分仕事をしていない人がいる。周りの教員が尻ぬぐいをしているのだ。けしからん。勤務の評定をきちんとして、困難な仕事をしている人こそそれに見合う給与を与えるべきだ」というようなことなのである。
 だが、根本的な間違いを犯している。なぜなら、文句・異議があるなら、自分でその教員にちゃんと言えよ!と言えばよいのだ。ましてや、上司でなく同僚なのだ。教員評価制度というような制度、しかも精度の低いシステムを使って、憂さ晴らしをやるくらいなら、自分で、きちんと相手の目を見て文句を言えばいいのだ。「異見」に対して、ただ反対しているのか? その理由は何なのか? 賛成している人の提案・意見は妥当なのか?等々。検証し、考える題材は山とある。
 実は、この仲間を売るような大衆的俗情(ポピュリズム)と、徹底した教員支配と、反抗の根絶やしという、文科省や教委の政治権力的なもくろみが、見事に一致してしまっているところを見ることが肝要だ。
 自分たち自身で職場の問題を解決していくことが原則ではないのか? 今までの教員社会が相互批判を嫌い、もたれ合ってきたことが悪かったという反省もあるだろう。どこも、話がしやすい職場ばかりだと、一概にはいえないことも分かる。しかし、もし、もたれ合い、依存し合って同僚同士がまずいことになっていても、その問題を指摘したり、援助したりしないならば、それは評価制度以前の問題だ。
 こうした制度に依存することは、権力を他者にあずけることであり、自分自身の仕事の自律性を失うことであると気付かなければならない。

(2) 協働性を無視した、精度の低い評価制度
 この教員評価制度は、「評価基準(規準)」が設けられ、それをABCなどで段階評価をする。しかし、この評価基準はそうとうお粗末なものである。
 たとえば「学校運営」に対し「A評定:学校の取り組みに意欲的に参加し、協力・連携に大きくする。」「B評定:学校の取り組みに概ね意欲的に参加し、協力・連携する。」「C評定:学校の取り組への意欲的に欠け、協力・連携が不十分である。」とある。しかし、私が、その取り組みに対し批判的だったり、問題点を挙げて改善を迫るような態度だったりときに、果たして、どんな評定がつけられるのだろう。
 「概ね」「不十分」それらは、ABCという評定記号に比べなんと「あいまいな表現」であることか?
 つまり、学校の仕事に置いては、一つ一つの活動が、子どもたちの状況、学校内の教職員の価値観、保護者とのせめぎ合い、そして、子どもたちにとって何が今一番いいのか?という適時性、選択等々、矯(た)めつ眇(すが)めつ指導をしている。それほど簡単に活動を評価できるものではない。
 ましてや、子どもたちと接するときは、教員一人の頑張りや努力でなく、何人もの教員の阿吽の呼吸もある。先に批判された、一見怠け者で、やる気のなさそうな教員が、はみ出した子どもの相手をして説諭したり、ただ一緒にいるだけで子どもが落ち着いたりすることもある(少ないけど)。
 教員は個性的で価値観も色々と違っているからこそ、個性的で多様な子どもたちとつき合い、学校全体としては「まずまずのバランスのとれた生活の場」にできている。
 ABCDなどで、明快に段階で分割できるものではない。
 こうした、教育の現場では、そもそも客観的な評価などは無理なのである。たとえテストの点数でも、基準をあげたとたんに、はみ出していく子どもたちをどうするか? という課題が出てくる。もし、学級平均の点数が良い学級担任が評価を上げられるとするならば、「できない子は担任したくない」と言い出す教員がいてもおかしくない。「できない」原因はなんだという話もある。学校は、まだまだ「面倒な子どもだけど、私が担任しますよ」という協働性が残っている。あえて、「今年は、みなさんの嫌がる×年生でいいですよ」などという会話が交わされている学校は多い。
 もちろん、この「協働性」は無条件に肯定できるものでない。私たちは、協働性に単純な肯定賛意をしめすことはできない。卑劣な教員いじめや、管理職のSS(Schutz-Staffel:ヒットラー親衛隊)化した協働性もある。その点は注意が必要だろう。
 とりあえず、学校は理念的に「同僚の間の相互信頼を基に協力する」と言うこと(それが幻想であり物語であるとしても)をあらかじめ前提にしている。もちろん、いつもだれとでも相互信頼しているわけではないが、そういう物語を作っておかないとやっていけないだろうということもある。学校の現場は、それだけ、せいぜい主任がいるくらいの階級の少ない職員構成の現場を持つ職種である。いちいち、命令や指示で動くことは少ない。逆に、そんな命令や指示でしか動かないようでは、困ることの方が多い。なにせ、あいてはナマモノだから。
 こうした、学校教育現場に教員評価制度を持ち込み、それをまた、給与格差に利用するなどと言うことは、明らかに学校の協働的な仕事を破壊する。仲が悪くても、性格が合わなくても、なんとか協力しないと、学校現場は動いていかない場合が多い。
 教員評価制度の精度は、学校の教職員の協働性の精度に比べればいかに低いことか。足下にも及ばないだろう。「学校運営」でA評価ばかりの教職員を集めたら、さぞ良い学校になるだろうと揶揄したくなる。

(3) 成果を「計測」できうるものなのか?
 教員評価制度では、「何を成果とするのか」「それ成果がはかれるのか」という根本的な問題がある。学校は、上記のようにチームワークとして、協働性の中で仕事をする。メンバーの相互扶助や関係強化があればあるほど、個人の成果を取り上げて評価するのは難しい。個人性がでるのなら、組織論は無化してしまえばいい。
 ましてや、「数値目標」を立てるなどが流行しているようだが、数値目標を立てるのは自由だが、そこに到達しなかったとしても、到達したとしてもそれで「成果評価」できるものか? 数値目標を低く見積もっていくようなことをどう考えるのか? あるいは数値化できない内容はどうするのか? 多くの矛盾がある。

(4) 成果を外部の環境や条件と区別して評価できるものか?
 「前の教員の指導が十分でなかったから指導ができなかった」「子ども自身の成長を待たないとできない内容もある」というような目標達成における外部環境をどのように評価するのか? このことは、逆もあり得る。「能力評価」(ストックとしての能力)を評価するのでなく、「成果主義=目標達成度」はプロセスも評価の対象としているので、とくに条件や外的な状況が大きく左右する。このプロセスから、本人だけを取り出して評価できるのか??

(5) 仕事と仕事の間(隙間労働)をどのように評価するのか?
 本務労働Aと本務労働Bの間で、そのバランスを取るような仕事はどうするのか? だれがやるのか? 「個人の成果を追求しすぎると『隙間』を埋める者がいなくなる」という指摘(土田道夫、山川隆一編『成果主義人事と労働法』13頁 2003年、日本労働研究機構刊)もある。
 また、モラルハザードを心配する声も多い。どちらか言うと、個人の競い合いになるので、相手の失敗を喜ぶとか、成果獲得競争が「パイの輪切り競争」となる可能性が大きい。

2.人事評価制度のエラーについて

 一般的な人事考課のマニュアルにも「人事考課が陥りやすいエラー」というのがある。『人事考課のポイントがわかる本』(楠田丘監修、経営書院、改訂3版、2000-9刊、2000円)によって列記してみる。

(1) ハロー効果:Haloとは月にかかる傘。その人の一部の特性であとを判断してしまう(ハレーションを起こす)こと。先入観を排除せよということ。

(2) 論理的誤差:知識があれば理解力もあるはずだというような、一見論理的関連性がありそうに見えることを、勝手に理屈をつないで評価すること。

(3) 対比誤差:自分という考課者を基準にして評価する傾向。適当な校長が、「君はいい加減だな」と言っても、たいしたことないとか。

(4) 近接誤差:よく似た要素を近似して評価する。規律性と責任感は関連性があるからと、類似して評価する。

(5) 寛大化傾向:甘くつけがち。

(6) 二極化傾向:優か劣のどっちかにしてしまう傾向。

(7) 中心化:Bなどのように、評定の真ん中に偏ってしまうこと。「普通」の多用。

 ……とまあ、いろいろとエラーについては書かれている。そして、対応策も述べられている。だが、対応策も相当難しい。たとえば、最初の「ハロー効果」への対策として「人を見るのでなく能力を見よ」「印象や先入観を排除するとともに、それに惑わされない客観性を持つ」などと書いてあるのが笑える。
 実際に、これだけでなく、外的要因とか環境によって「成果」「目標達成度」は変化するので、評価者は極めて困難な仕事をしているといってよい。
 このようなエラーについて校長にどう思うかを聞くこともよいと思う。

3.「人事考課・成果主義」と「教員評価制度」を労働法的に考える

(1) 賃金が労働時間でなく、職務遂行能力や業績・成果によって決定される。したがって、使用者たる校長の裁量次第によって集団的労働者としての平等性のある賃金決定がなされなくなる可能性が高くなる。賃金格差が当然化し、賃金闘争が変質する。自分で、つまり個人で賃金決定の交渉をするしかない?

(2) 労働契約概念が変わるのか? 教員は請負労働ではないので、労働それ自体(サービス労働)を目的とする契約だから、一定の成果達成を目的とする債務を負っていない。「児童の教育をつかさどる」ということの再吟味がいる。
 「学力テストの平均を80点にする」という請負労働が、教育労働の本務労働か?

(3) そもそも教員はどんな労働契約をしているのか、これってハッキリしていない。労働契約は普通、長期にわたって継続する内容だから、成果によって、毎回というかそのたびに賃金が変わるというのも変だなあ。
 今までは、使用者としては、包括的に労務を指揮し、人事を握ってきた。それは、雇用保障=生活の保障であるので、解雇を避ける義務が、雇用者には、まずあった(ホントは)。
 労働者の労働義務は、「成果達成を目的とする結果債務」でなく、「誠実に労働することを内容とする手段債務」である。能力を要件とした解雇は制限されてきた。
 それが、だんだん変化している。成果に至る行動特性・能力・プロセスを重視するコンピテンシー(competence/cy:適性能力「成功者の行動特性から抽出された能力を評価基準とすること」 *「法的制限」の意味もある)

(4) で、人事考課による賃金査定をすると、色々と制約も出てくるだろう。

(5) 「公正」を保障するためには

(6) 主観性・恣意性そのものを問いただすというよりも、手続きの違法性を問うことになる。なかなか評価の本質に迫れない。 だから、手続きがちゃんとできていなけりゃ、まず、不公正だ!と言おう。

(7) 校長の裁量権の濫用なら、損害賠償責任(評価者本人には民法709条、教委には715条の使用者責任を問う)を追求できる。

(8) 普通の会社なら、賃金交渉は、権利義務関係だろう。人事考課は賃金確定のための付随義務ならば、それを怠れば「債務不履行」構成できる。学説的には「職業的能力の適正評価義務」と「職業的能力の尊重配慮義務」を怠ったということになろう。教員も使えるかな?

(9) 使用者の成果を評価することを法的なコントロールする
(あ:債務不履行構成)ちゃんと評価していれば、もらえるはずの賃金が請求できる。本来のあるべき評価を求める権利。使用者の契約上の義務として構成される。賃金支払い義務との関連で、職業能力の尊重配慮義務=適正評価義務、成績評価を正しく公正に行うべき信義則上の義務=債務がある。債務不履行なら損害賠償請求が可能。(民法415条)
(い:不法行為構成)使用者が労働契約上成立している処分権=裁量権行使を正しく行使しなかった場合。法に違反、裁量権逸脱、恣意的な査定なら損害賠償責任がある。

(10)判例によると以下のような成果主義人事制度における適正要件を挙げている。
「……もとより、労働契約の内容として、成果主義による基本給の降給が定められていても、使用者が恣意的に基本給の降給を決することが許されないのであり、降給が許容されるのは、就業規則等による労働契約に、降給が規定されているだけでなく、降給が決定される過程に合理性があること、その過程が従業員に告知されてその言い分を聞く等の公正な手続きが存することが必要であり、降給の仕組み自体に合理性と公正さが認められ、その仕組みに沿った降給の措置が採られた場合には、個々の従業員の評価の過程に、特に不合理ないし不公正な事情が認められない限り、当該降給の措置は、当該仕組みに沿って行われたものとして許容されると解するのが相当である。」(エーシーニールセン・コーポレーション事件/東京地裁平成16年3月31日判決)

4.本質論を欠いた「公正な評価」を求める心性

 人によっては、「公正な評価であればよい」という。しかし、私は、「公正」な評価は、「公正」であるが故に、正統化の教員管理のネットワークによって、権力の構造をつくり、上意下達の絶対的服従、あるいは主体的な服従を呼び込み、管理の徹底をもたらすと考える。
 つまり、公正であるということは、誰にとって公正なのか? ということや、公正に評価するという言い方で、批判を無化してしまうことになりかねない。この教員評価制度には評価に対する「苦情申し立て」「異議申し立て」が保障されていないところが多い。つまり、この場合には、苦情申し立てがないからダメなのだ!と言える。しかし、苦情を申し立てて、「公正」であると判断されたら、異議申し立てなど意味はない。
 もちろん、校長による、一方的な人事評価に、客観的で公正な評価などないだろうと思うから、闘う戦略としては、労働法的にも、とことん「公正」を求めることはおもしろいし、効果があるだろう。
 例えば、労働法上、成果主義賃金や能力主義賃金は、今までの年功序列式の賃金体系とは全く異なる。それは、労働時間によって労働力を売買するという近代の労働法そのものの基盤を変えるような事態をもたらしている。
 そこでは、労働契約上、どのような問題が起きるのかということにも注目する必要がある。前述したが、そこでは、労働者のいわゆる集団的な「平等主義的賃金決定」でなく、「個別的決定」が求められていく。だが、その際に、その一人の労働者をどう評価するのかが極めて重要な問題になる。当然、使用者、評価者の恣意的あるいは評価規準の逸脱という不公正な評価は、裁量権の濫用になる。損害賠償請求の成立もあり得る。使用者の賃金支払い義務に伴う公正評価義務という考え方もあるだろう。その点では、評価されっぱなしで終わることは有り得ない。
 だが、この評価する前提の「基準」など、裁量基準が果たして、学校教育における労働に適した妥当なものが作れるのだろうか? それを考えると、実際に「公正な評価」があると思ったら大間違いである。どうやったって公正な評価などできはしない。安易な妥協をするならば、別だが、そうでないなら、とことん「公正」とは有り得ないということだ。
 教員評価制度という正統化された関係を労働者の中に持ち込まれたことに対抗して、「私たちがどのような協働性を作り上げればいいのか?」 ということを考えるのを辞めてしまう恐れもある。「同一労働、同一賃金」の理念を学校に持ち込む可能性をどう考えるかも重要なのである。
 さらに、この教員評価制度は、教員が子どもたちに行う通知表や指導要録に関わる評価とも通底している。つまり、教員評価制度を支持している親や市民には、「先生が子どもを評価しているんだから、先生も評価されて当然だろう」(最初のHPへの書き込み)という理屈がある。
 ここには、「学校における評価・評定」というアポリア(行き詰まり的難問)が存在する。教員評価制度に反対しながら、子どもを評価しているという事実を私たちはどう考えればよいのか。「次元が違う」「なんでも一緒にしてはならない」という理屈も当然ある。
 だがしかし、教委の教員評価制度の進め方を見ていると、教員が子どもを評価するその方法や考え方と、子どもへの評価は、酷似している。勤評闘争の時にも、この問題が出てきているが、当時は、教師専門職論や聖職論的ヒューマニズムがその防波堤になっていた。が、その戦後民主主義お貯金がなくなっている市場主義原理の中では、組合もなかなか有効なパンチがヒットしない。この市場主義原理や新自由主義の中における、市民・保護者の心性を考慮せずには闘えないと思う。私にとって、具体的には、今後の課題なのだが。

5.裁量権の逸脱と濫用を糾す

 教員評価制度における評価者の評価は「自由裁量」ではあるべきではない。校長には、労働者の納得や、信頼を得られるような公正評価の責務がある。
 つまり、これは、大きく言うと、裁量権の問題になる。行政権の発動には、法律や条令によってその権利制限・授権・規制をする。校長の判断、命令、指示は「裁量」である。その法的根拠は、校長が裁量権を持つと考えるからである。
 ところが、なんでも裁量できるとすると、「恣意的」「不当」「不適切」な裁量までも、権能として校長が持っているのだから「しょうがない」となる。
 むろん、裁量には、責任が伴うが、責任を取るからと言ってなんでも裁量できるというのも無理である。
 行政事件訴訟法第30条:行政庁の処分については、裁量権の範囲をこえ又はその濫用があった場合に限り、裁判所は、その処分を取り消すことができる。
 では、適切な裁量、職務命令はどういう性質を持っていなければならないか?
 統制基準として「裁量権の逸脱と濫用」になる場合の要件を以下に述べる。

  1. 事実誤認:事実をどう判断しているのか?その事実判断は適正か、妥当か?
  2. 目的違反・動機の不正・他事考慮:悪意があったり、陥れたりして裁量する
  3. 比例原則・平等原則違反:社会通念、著しい均等無視、不合理な基準の不平等取り扱い。
  4. 裁量基準が公正でない:判断の準則など内部的にも定立してあるか?専門的知識を生かしているか?
  5. 裁量の手続きは適正か?:権利保護がされているか? 判断が公正な手続きで行われたか? 判断形成をしっかりやっているか?
  6. 裁量判断の方法と過程が適法か?:考慮すべき要素を考慮しないとか、不当に軽視していないか?

 また、何もしない「裁量せず」も、不作為の違法性が認められる場合がある。
 たとえば、休憩を取らせない、休暇を取らせないは「労基法の罰則規定」では、校長に「六ヶ月以下の懲役、または30万円以下の罰金」を求めることができる。
 さらに、恣意的な評価をして労働者の生活を脅かすような「経済的損害」を及ぼしたときは、人事考課権(裁量権)の濫用として、不法行為(民法709条)が成立し、損害賠償責任を負う。

6.質問集 教員評価するあなた! ここが聞きたい100の問い

  1. 教員評価をあなたはなぜするんですか? いままでしていなかったのに? どんなふうに教育委員会に指導されたのですか? その資料を見せてください。
  2. ILOの勧告を貴方はどう捉えていますか? 教えて下さい。
  3. そして、その資料を見て、校長はどう思いましたか? 教員評価しないと、学校運営がうまくいかないのですか? どうしてそう思うのですか?
  4. 「世間の目」「社会の流れ」と言いますが、その具体的なところを説明してください。苦情なり、異議申し立てがあったのですか? あったとしたらそれを教えてください。
  5. 「世間の目」の苦情や異議申し立てについて、どのような説明をしたのですか? 学校の実情をきちんと伝えて説明していますか?
  6. 「世間の目」と学校の自律性とはどのような関連があるのですか? 校長は不適切な事実に基づかない「世間の目」に対しては、断固一緒に闘ってくれますよね?
  7. 苦情や、異議申し立てをしてくる人に、法律的な話はしていますか? 単純な印象批評をしていませんか?
  8. 苦情や異議申し立ては、どのようにして保障されていますか? 苦情を受けない場合の担保はどのように制度上配慮されていますか?
  9. 学校運営上、校長・教頭の役割は重要であるが、管理職への評価は誰がするのか? 彼らの日常的な活動・勤務実態を見ることもできない教育委員会は評価の能力も機会もないと思うがいかがか?
  10. 管理職は評価者であるが、評価者研修はどのように実施され、資格なり能力なりは、どのようにして判定されているのか?
  11. 自己評価の際、「目標を上回る成果をあげた」「ほぼ目標どおりの成果を上げた」「目標には到達できていないが、かなりの成果を上げた」「目標をかなり下回る成果に終わった」と言うそれぞれの判断基準は具体的にあるのか? 
  12. 目標によっては、成果を上げたかどうか判断のむつかしいものもあるが、そういう判断に迷うような場合は、どのような解決方法を考えているのか?
  13. 基準判定が、あいまいにならない「客観的、公正なもの」という根拠はどこにあるのか?具体的に示して欲しい。
  14. 上記のような場合に、評価者が「そう考えたから……」「そう思ったから……」ということで、よいのか? 具体的にその根拠を示すものが必要なのか?
  15. 学校経営について、本来、担当校務分掌が無理矢理やらせていることだったり、予想外の仕事の難しさがある場合に、それが影響して、仕事がはかどらない場合に、低い評価をされてしまっては困るのですがどう考えているのですか?
  16. 問題の子どもがいる場合、その子を担任または担当しようとする場合、うまくいかないことも十分考え得るのですが、結果主義で判断されては困るのですが、どう評価するのですか?
  17. 上記のような場合に、万が一うまくいかなかった場合に、評価はどうなるのか? あるいは、責任の所在はどこにあるのか?
  18. 保護者に問題がある場合については、教員はどん保護措置がされるのか?
  19. 子どもとはうまくいっていても、親や地域の理解が得られない、または苦情が多くくる場合、その検討に管理職は参加し、対応してくれるのでしょうか? その場合の評価は、教員一人の責任という評価になるのでしょうか?
  20. 学校には同僚と一緒に行う仕事がたくさんあります。成功したり失敗したりすることによって、「個々人」の教員の評価はどうなるのですか? 成功や失敗の原因が特定の個人に求められるのは間違っているように思いますが、いかがですか?
  21. あたらしい提案をした場合、その提案が無理かどうかやってみなければわからない場合も多いのですが、失敗したら私のせいですか?
  22. 自己目標を立てるときに、「ほぼ達成した」というような表現ではいけないのですか? 数値目標を立てなくてはならないのですか?
  23. 校長が、「数値目標が低い」と言ってきましたが、可能な限りの私が考えて出した目標です。それを校長とはいえ、書き換えさせると言うことは、職権の濫用ではないですか?
  24. この評価が悪いときには校長に責任をとってもらっていいですか?
  25. 毎年、子どもたちの成績はある程度こんなレベルだと思っているのですが、それを低いと言われても困る。実際に、担任してやってみないとわからないことが多いが、どう考えるのか?
  26. 一年でなく、三年かけてやっと達成できるような目標は、行きつ戻りつの実践効果しかでない場合がある。そういう目標をたてることはどうか? 単年度の目標が立てにくい場合も多い。
  27. 「具体的に書くこと」と言われても、具体的に書けるような内容ではない。子どもたちのテストの成績ですら、間違いの多様性、本人の資質や家庭環境など様々な要因が混在して絡み合っているのだ。数値評価、記号評価だけで理解できないものも多い。どうするのか?
  28. 校長は、日常的に私たちの授業を見ているわけでもない。せいぜい学期に一度でも見ればいい方ではないか? どうやって、授業者の評価をするのか?
  29. 日常的に、子どもと話しているわけでもない、保護者の相談にのっているわけでもない。なのに、どうやって評価できるのか? 子どもたちを評価するときに「きめ細かい観察」等々を要求しているのに、私たちを評価するときは、それでいいのか?
  30. 校長は、どんな方法で授業など私たちの指導を評価するのか? 授業も、同じ学校の職員として助け合い励まし合うことで成り立っている。授業を見学する時間があったら、もっとゆとりのある仕事ができるように、授業を引き受けよ。
  31. 校長は常日頃、職務の遂行を把握し、状況を把握する責任がある。過労や、精神的な疾患、行き詰まりなどやるべきことは他にたくさんあるのではないか?具体的にどんな方法で、把握をしているのか?
  32. 面接などをいつやるのか? 日常的に忙しく、授業の準備や子どもとの対応で大忙しである。休憩休息をとる時間もないのに、そこへまた、面談をやるのか? 面談で失った時間をどこで取り戻せるのか? 何度面談をすればよいのか? 
  33. もし、わたしの評価が低いとすれば、毎日忙しい、余裕のない学校の勤務実態にあると思う。授業の準備や研修も十分ではない。その問題をどう解決するのか?具体的に数値目標を上げて説明してほしい。
  34. 評価の個人票は本人に開示されると思うがいかがか? さらにSABCDなどの判定の理由もきちんとせつめいしていただけるのだろうな?
  35. また、評価の説明の際に、どういう基準でもって、どうしてこういうランクに判定したのかを具体的に述べよ。
  36. 養護教諭の場合、保健室へも来ないでどうやって、判断しているのか不思議だ。いったいどのような手順を踏んでいるのか?
  37. いったいこのような形式的な評価をして、どのような意味があるのか? また、その評価をすることで、現場の教員の士気が高まるのか? 高まった事例を挙げよ。
  38. 自己申告は厳しい方がいいのか、それとも、ちょっと甘くなってもいいのだろうか。人によって、スタンスはいろいろあるろう。軌道修正しながら行うのが常である。それを最初から、確定したようにしていてはいけない。
  39. 校長は、わたしに対する偏見をもってないか? その偏見をなんとか払拭する努力を校長はしてくれているのか?
  40. 校長は教育委員会に対して、あるいは、指導主事や管理主事に対して、おかしいと思ったことは断固おかしいと言っているか? そういう上司にきちんと苦情など提言できる校長でないと、職員が校長に対して述べる意見などを、的確に受け止めることはできないのではないか?
  41. 校長に苦情や要求をする人間を低く評価することはないか? 学校運営に積極的であるということが、常に校長に対して「YES」をいうことではないだろう。
  42. 校長が行う評価が「主観的でない」という根拠はどこにあるのか示してほしい。
  43. こういう評価チェックをすると「目標を持ててよかった」という教員がいるが、こういう評価をしなくても「目標をもってやるのが教育の仕事」ではないのか? この評価制度をやったから目標が持てたというのは日常的にやっていないという証左になっているのではないか?
  44. 自己申告シートに記入する時間は勤務時間内か否か? いつそれを保障するのか? 絶対に書かねばならないものなのか? 法的な根拠を示してほしい。
  45. 適正に評価されていないという場合、どこでその問題を明らかにするのか? 事実誤認や違法な行為によって判断された場合、評価そのものが無効になるが、いかがか?
  46. この評価制度によって学校が活性化すると思うか? その理由は?
  47. 教職員の中には、仕事のやりかたを個性や、経験でやってきたところがある。それはそれで非常に仲間意識を大事にしたし、子どもたちへの立ち向かい方も工夫してきた。ところが、こうした評価制度はそれを、分断してしまう。なぜなら、S〜Dまでのラベルを貼られた教員がいれば、「Sががんばるしかないでしょう!私はCなんだから」というようなムードが流れるのは必至だからだ。それは、どうする?
  48. 管理職の人間性はどこで評価されるのか、それとも評価しないのか?
  49. 目立つ人だけが、高い評価をうけるのではないか? 下積みをしたり、縁の下でがんばったりしている教員を評価できるのか?
  50. 教科担任制の場合に専門性をきちんと備えた形で校長は評価できるのか?
  51. いろいろな教員がいるのだから、それなりに指導や援助をすべきなのに、それをしないで評価するとはおかしいと思わないのか?
  52. 「児童・生徒の学習状況に目を向け、児童・生徒理解のための情報収集に努めているか?」と問われるような場合に、簡単に情報収集ができると思っているのか? 観察、面接、聞き取りなどさまざまな方法が必要となるし、精神や生活が不安定な子どもたちも多い。情報収集という事自体が困難な場合がほとんどである。日常のいつやるのか?示して欲しい。時間と手間もかかるがそれでもよいか?
  53. 「児童・生徒の実態に即した指導計画を作成しているか」と言う場合、即していると100%断定できるものではない。どの程度が合格ラインと考えているか?
  54. 積極的に研修や研究に努めているか? と問われても、いつそれをするのかが全く明示されていない。時間外に及んだ場合、それは、時間外勤務と考えて良いか?
  55. 「生徒との人間関係作りに努めているか?」と言われても、人間関係作りがうまくいかない場合は、私の責任なのか? 簡単に人間関係が作れたら苦労しない。成果はなくても、努めればいいのか?
  56. 一見、自己評価をもとにしているように見えるが、最終的には「差をつける」ことが目的になっているのではないか? 給与と関連づけたときには「相対評価」となるのか?
  57. 自分の評価が、校長の好き嫌いで決まっているのではないかという不安があるのだが、大丈夫か? その保障はどんな風にされるのか?
  58. 自己申告書を提出する義務はどこにあるのか? 法的な根拠はあるのか? また、提出は職務命令なのか?
  59. 自己申告書に設定した目標や目安が、高すぎるとか低すぎるという判断を校長はするのか?もしするのなら、その判断基準を教えて欲しい。
  60. また、自分としては、高い目標を設定していきたいが、それでも高すぎるといわれたら心外だ。もちろん逆もあるだろうが、そうなると 「やる気を出す教員評価」ではなくなる。自分で設定した目標に対する指導は必要ないのではないか?
  61. 「自己申告に基づく目標管理」という考え方に立つと、学校経営目標だとか、学年の目標を批判したり、望ましくないと言う意見を持っていたりしたら、そもそも「自己目標」自体の意味が無くなるがどうか?
  62. 教員評価制度における自己申告による目標管理は、タテマエでは「教員一人一人の自主性・自発性を高め、職務遂行の意欲を向上・増進させ、職能成長を図り、教員それぞれの取り組みの方向を学校の経営目標と整合性を持たせ、学校教育課題の達成に資することにある」岡大:北神正行)というが、私たちが子どもを前にして考える目標が、そのような美辞麗句の学校目標と一致するはずはないし、その関連性を評価できるのか?
  63. 学校管理職と私たちが「双方向的なコミュニケーションを通して情報の共有化を図り、お互いの信頼感を高めること」とが必要だというが、部下を差別賃金につながるような、あいまいで恣意的な評価をしておいて、信頼関係ができると思われるか?
  64. この教員評価には「能力のない同僚への、いらだちや、年齢の割に仕事をしていないのに給料をたくさんもらっていることへの不満」が根本的にあるのか? もしそういう自体があるのなら、それは教員評価などでなく、教員の協同性をためる方向、チームワーク重視でやるべきではないか? 「能力のないものは、ダメだから、評価も下げればよい」というのは、教員をバラバラに分断することになる。そうなれば、帰って学校機能は低下するのではないか?
  65. 校長先生たちもA〜Dまでの評価をされるのか? 自分の校長がDだから、仕事をやる気がしないので、一生懸命やるのはやめようということになったらどうするのか?
  66. 教員評価制度に賛成する人間は優秀で、反対する人間はダメだという先入観があるのではないか? 正直にいいなさい。
  67. そもそも、主観的な評価しかなし得ないことを、あえて客観化する無理をすることになっていないか? 子どもたちの精神的な成長などは、とくに客観化できるはずはない。
  68. 教員評価制度に関して投下したエネルギー(時間と労力)がどの程度であったか、あるいはどの程度なのかと予想しているか教えて欲しい。
  69. 毎年評価をされ、それが給与に結びつけるというなら、一年で成果(見えるものに限り)のでるものにすることになるから、先を見据えた仕事ができないのではないか?
  70. 低めの自己目標を立ててやる方が、評価が良くなるのか?
  71. 評価の観点が、具体的であれば、そこを集中ねらいして頑張り、あとは放置するし、抽象的なら、つじつま合わせの理屈を考えるだろう。それでもよいか?
  72. 「想定外」「責任外」「担当外」ということでリスクを避けるという方法をとっても良いか?
  73. だれの担当かがあいまいな仕事(ポテンヒット)が、学校では多いがそれをだれもしなくなるけどいいか?
  74. 創造的な新しい試みはリスクを考えるから、もうみんなだれも挑戦しなくなるけど、学校ってそれでいいわけ?
  75. 「失敗」責任をたらい回しにするような職場に、確実になっていく可能性がある!
  76. 自分が一生懸命やっているのに仕事がはかどらないのは、上司のせいだから、上司(管理職)を交換して欲しいと要求するのも正しい選択だと思うがどうか?
  77. 今、学校の何が問題になっているのかを、じっくりと話し合うことが必要ではないか? その上で、教員評価制度が必要だというのならまだしも、学校内で話し合いもしていないのに、導入するのはいかがな者か? 評価項目の主体的・自発的は、なんでも引き受けることをいうのか?
  78. 教員評価制度は、上司に意見を言いにくくなるという欠点があるとは思わないか? あなたに意見をしている私は、当然評価がいいんでしょうね?
  79. 年功序列は本当にダメなのか? 具体的にダメな例を挙げて欲しい。それは教員で修正できるのか?
  80. 部活動や時間外勤務は評価制度の対象になるのかどうか? 「夏休みのラジオ体操や地域の祭り等の行事に教職員が積極的に参加している。」を高く評価し信頼されているというのなら、教員評価制度は単なる滅私奉公の評価にすぎないのではないか?
  81. 校長の面接では、どのような観点で実施するのか? どんなことを聞くのか? 論議をしていくのか? 意見や話しを一方的にされたり、したりすることで やったという既成事実をつくるものではないよな? 記録は開示されるのか?
  82. 授業を見に来るときに、「了解」をとるのか? 教員評価制度用の授業観察なのか? 後で助言や指導はあるのか? ないのか?
  83. 面談も、単なる世間話の程度でいいのか? それともしっかりと要点を述べておしまいにするのか?
  84. 評価評定の基準があるようだが、それを説明できるか? できないか?
  85. 自分の家族や、自分自身が病気がちで,療養休暇などを取得することが多い場合に評価は悪くされることはないか?
  86. 教員評価制度において評価者は、私たちが相手をしている児童生徒のことをどの程度理解しているのか? 指導している対象について分かっていないのに評価はできないでしょ?
  87. 問題が起きたから、私の評価が下がるなどというのは、問題が起きそうなときに、校長が指導助言しなかったせいではないかとは思わないか?
  88. 自分の自己評定と校長の総合評価があまりにも違いすぎるときに問題はどこにあると考えるのか?
  89. 突出したかたちで、校内のリーダーにでもならないとA(S)は無理だと噂が出ているが本当か?
  90. 自分は、教員評価制度とは関係なく、やるべきコトはやっているつもりだ。だから、自己申告書などを出す必要を感じないが、どうか?
  91. あなたが担任として児童生徒とつき合っていた頃、こういう評価制度が必要だと感じたことはあるか? 不必要で時間ばかりかける、百害合って一利なしのものを導入する気持が知りたい。
  92. こうした評価制度が職場の雰囲気を明るくすると思うか? 評価による人間関係の破壊がはじまるぞ! 責任をとれるのか?
  93. 最低評定Dを「該当者なし」でいいのか? 相対評価になれば、どうしても評定Dを無理矢理付けることになるが、それが正しいのか?
  94. こういう、上から下への評価評定は、確実に「やる気」を失わせ、上のご機嫌取りや、上の価値観に無理矢理合わせるという方向で仕事が進められる。みんなでよりよいものを作っていくという意思は無くなるがいいのか?
  95. 校長と教頭だけの二人で20人以上の人間の仕事能力を、的確につかむことができるのか?そんなに能力が高いのか?
  96. 「正しい評価」ができないときは、「何もしない」よりはるかにリスキーなものとなる。信頼感や相互扶助の精神は木っ端微塵になるだろう。
  97. 民間の成果主義や人事考課の不十分さや間違いをどの程度学習しているのか?
  98. 校長が我々ともに、仕事をしていたら、教員それぞれに差をつけることになるこの制度を必要とするだろうか? 何にもせずに高見から眺めているからできるのではないか?
  99. 内心の自由に関わるような政治的な態度を、この評価制度で「断定的に評価」していいのか?君が代や日の丸についての考えはどのように評価されるのか教えて欲しい。
  100. 最後の問いは……あなた自信で考えてください。


最初のHPへの、私なりのレス
大変、刺激的な書き込みだと思います、流征四郎さん。ボクの感想を書いてみます。
こういう、教員自身が為してきた「子どもへの評価」を無視しての「教員評価批判」は時として、当事者以外からは傲慢に映るのは当然だと思います。
日本の労働者のストライキが、他の労働者にはわがままとしか映らないのと全く同じですね。
さて、ボク自身は、子どもへの評価についても、問題意識を持っているつもりですし、これはそもそも「教える側の評価権」論議として昔は論議されました。さらに、1968年頃の「教員の勤務評定闘争」でも、類似の意見が保護者から出されたことがあります。
ですが、それでも「教員評価制度」は間違っていると思います。つまり、教員評価制度は何のために(タテマエとホンネ)導入されつつあるのか? という問題。さらにその方法においての恣意性と無責任性です。
そして流征四郎さんが言われる、教員の子どもや保護者に対する「権力的に」「恣意的に」「好み」による評価も、同時に問題なのです。つまり、おかしいことは、おかしいとして、それぞれ別個あるいは関連づけて論議していくしかないのだと思います。
ボクが一番、避けたいのは、間違いに居直った形で、お互いをおとしめ合うようなやり方です。特に、教員が「俺たちもめちゃくちゃな教員評価されて我慢してるんだから、子どもだって親だって我慢して俺たち教員の評価に我慢するのが当然だ」という間違いの連鎖を認めることです。
教員評価制度を考えながら、自分が為している教育評価をも同時に考えていくしかないなあと 思っています。その意味で流征四郎さんの指摘は重要だと思います。

おわりに
 最後になるが、結局は、この教員評価制度も次の問題に収斂されるように思う。

以上

参考資料

  1. 日本労働法学会編集「講座21世紀の労働法」3〜5巻 有斐閣 2000年
  2. 土田道夫・山川隆一編「成果主義人事と労働法」日本労働研究機構 2003年
  3. 樋口美雄・八代尚宏編著「人事経済学と成果主義」日本評論社 2006年
  4. 道幸哲也「成果主義時代のワークルール」旬報社 2005年
  5. 木元進一郎「能力主義と人事考課」新日本出版 1998年
  6. 高橋伸夫「育てる経営の戦略」講談社 2005年
  7. しんぶん赤旗「成果主義を追って」日本共産党中央委員会出版局 2006年
  8. 天笠崇「成果主義とメンタルヘルス」新日本出版局 2007年
  9. 佐竹勝利編集「教員評価・人材育成」教育開発研究所 2006年
  10. 木岡一明編集「学校組織マネジメント」教育開発研究所 2004年
  11. 八尾坂修編集「新たな教員評価の導入と展開」教育開発研究所 2006年
  12. 廣島憲一郎「教員評価と上手に付き合う本」明治図書 2007年
  13. 大阪労働者弁護団他「成果主義に抗して」研究報告 2005年


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