がっこうコミュニティユニオン・あいち
(アスク)岡 崎 勝
2006年8月16日
0 はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2
1 教員評価制度の問題点とねらい・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3
2 人事評価制度のエラーについて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6
3 「人事考課・成果主義」と「教員評価制度」を労働法的に考える・・・・・・・・6
4 本質論を欠いた「公正な評価」を求める心性・・・・・・・・・・・・・・・・・8
5 裁量権の逸脱と濫用を糾す・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10
6 質問集 教員評価するあなた! ここが聞きたい100の問い・・・・・・・・11
参考文献等
(多くの人々は)教員評価になぜ反対しないのか? (HP掲示板から)
逆に言えば、なぜ、教員以外の人たちは教員評価制度の導入に賛成しているのか?
被評価者である教員の大きな反対理由を見る限り、「評価の恣意性の恐れ」、「評価の客観性の担保が疑問」でしょう。
が、しかし、それでは、反対する教員諸君にお尋ねしたいが、「生徒評価の恣意性」についてはそれを回避するために自分たち自身は従来、どう担保してきたのか?
保護者や生徒の誰にでも「内申評価の客観性」についての話題を振ってみたら、出るわ、出るわ、えこひいき、恣意性、不平等についての不満のオンパレード。教員の機嫌を損ねたために内申を下げられ、希望の高校へ進学できなかった話なんぞ、あたりまえにありすぎて、話題性に乏しい。
まあ、半分に割り引いたとしても、従来、公務員教師諸君が一般国民やその子弟をかなり「権力的に」「恣意的に」「好み」によって評価付けしてきたことは、紛れもない事実であろう。
であるなら、その張本人たる公務員教師諸君が自分たちが好き勝手にやるのはいいが、「それと同様の事をされてはたまらない」と声を上げたとしても、教員とその利害関係者以外は誰も同情なんぞしないし、また、その理由付けに「あきれて物が言えない」のである。
黙って事の成り行きを傍観している保護者や市民は、実は「そりゃ、少々、恣意的であろうが、自分たちがやってきたことに比べりゃ、マシじゃないの?」と思っているのである。
教員評価が行われることによって、ちょくちょくいる「主観を大幅に評定に繰り入れる気まぐれ教師」が減るならば、大いに結構なことではないかと感じているのである。
ゆえに生徒保護者、市民の大半は教員評価に積極的であれ、消極的であれ賛成なのである。
投稿時間:07/08/03投稿者名:流征四郎(ハンドルネーム)
0.はじめに
一昨年に書いた「NO!教職員人事評価制度」を改訂してみた。若干の加筆修正がしてあるが、以下の二つの視点があることを念頭において考えてみた。
(1) そもそも「教員評価制度」は、私たちにとって必要ないものであり、それを拒否していく闘い方が求められている。「よりましな教員評価制度」を求めず、「不必要性」論拠をしっかりと構築する努力が必要だと思うこと。だが、困難性もある。
(2) 力業的に政治権力によって「教員評価制度」が導入されようとしている現場では、「よりましな教員評価制度」という土俵に乗りつつも、とにかく無化、形骸化、無意味化していくための方法、アイテムを考えていくこと。
このレポートは、まず、この二つを同時に展開しているところに、限界もあることを述べておく。しかし、労働法的な側面から、考えることは重要だろう。また、職場によっては反対が多数でない場合もあるので、そういう場合は、(1) を前面・前提・根本しながらも、(2) を無視できないと思っている。
学校へ導入された教員評価制度は、学校の新しい教員操作と教員の奴隷化の端緒でもあるし、現代教育改革の象徴的かつ、最終的には、労働者であろうとする教員のスポイルと、あたらしい「魂なき専門家&労働者」の量産ということに帰結する……と私は思っている。
で、それを現場で、跳ね返す、あるいは、問題点を指摘しながら、学校を普通の人間が働ける場所にしようと考えてこのレポートを作った。
なにせ、言葉足らず、時間足らず、脳みそ足らずのレポートなので、先日同様、話題提供的なものだということで読んでいただきたい。
なお、今回も、私が所属している自立独立組合のASCU(がっこうコミュティユニオン・あいち)の了解を全部得たわけではないので、ASCUの他のメンバーがこのレポートを厳しく批評することも十分あるのでご承知ください。
また、このレポートには、あえて教員評価制度が子どもへ与える悪影響については、特に大きくは、ふれていない。それは、今後の課題かもしれないが、現在は保留しておく。
1.教員評価制度の問題点とねらい
(1) 教員の徹底した管理制度
この評価制度は、建前的には、「教員の人事管理を適正に行うことを狙っている」ことに尽きる。しかし、「適正」とは何を持って「適正」というか不明だが、実際に教員間を対立・分断させて、「一生懸命頑張るが、文句を言わない教員」を増やそうという隠された戦略を持っている。
仕事を成果主義的に評価し、最終的には給与差別を、正当化しながら導入しようということだ。しかし、現実には、評価項目、評価規準の非常にあいまいな表現、そして困難な評価方法をして、評価者である校長らは、権力的自由に評価できる。彼らは、「恣意性」「主観性」を排除できない、自由裁量になってしまっている。
結局、校長の視線を気にし、周囲とトラブルを起こさずに、無難に、しかも、やや目立っても、大きくは目立たないような仕事ぶりを、教職員は要求されていく。また、あるいは、リーダーシップを率先して担い、校長の顔色をうかがい、視線の先を読みとりながら働くという仕事ぶりも要求されているだろう(今以上に!)。
ただでさえ、無邪気に「校長のリーダーシップを発揮する」ことで、職場を混乱させている校長だが、さらに評価制度がはじまって、いっそうヒラ教員の「もの言いが難しくなっている」という声が多くなる。気軽に話しかけても、それが、評価の対象になっているのではないかと、心配になるのだ。とにかく実際に成果主義を取り入れた企業では、多くの問題がおきていることは周知の事実である。
ときどき、御用学者、研究者が、「『教員評価=職員分断=悪』というのは単純な図式化である」と批判する。「なんでも反対の組合的発想」だというのだ。残念ながら、今時「なんでも反対してくれる組合」(笑)なんて、まずない。だが、この単純な『教員評価=職員分断=悪』の図式は、だれがなんと言おうと正しいのだからしかたがない。
たとえば、教員評価制度を批判すると、すぐに「単純だ!」と言って反批判したり、あるいは問題だと主張したりする人の気分は、「職場で、十分仕事をしていない人がいる。周りの教員が尻ぬぐいをしているのだ。けしからん。勤務の評定をきちんとして、困難な仕事をしている人こそそれに見合う給与を与えるべきだ」というようなことなのである。
だが、根本的な間違いを犯している。なぜなら、文句・異議があるなら、自分でその教員にちゃんと言えよ!と言えばよいのだ。ましてや、上司でなく同僚なのだ。教員評価制度というような制度、しかも精度の低いシステムを使って、憂さ晴らしをやるくらいなら、自分で、きちんと相手の目を見て文句を言えばいいのだ。「異見」に対して、ただ反対しているのか? その理由は何なのか? 賛成している人の提案・意見は妥当なのか?等々。検証し、考える題材は山とある。
実は、この仲間を売るような大衆的俗情(ポピュリズム)と、徹底した教員支配と、反抗の根絶やしという、文科省や教委の政治権力的なもくろみが、見事に一致してしまっているところを見ることが肝要だ。
自分たち自身で職場の問題を解決していくことが原則ではないのか? 今までの教員社会が相互批判を嫌い、もたれ合ってきたことが悪かったという反省もあるだろう。どこも、話がしやすい職場ばかりだと、一概にはいえないことも分かる。しかし、もし、もたれ合い、依存し合って同僚同士がまずいことになっていても、その問題を指摘したり、援助したりしないならば、それは評価制度以前の問題だ。
こうした制度に依存することは、権力を他者にあずけることであり、自分自身の仕事の自律性を失うことであると気付かなければならない。
(2) 協働性を無視した、精度の低い評価制度
この教員評価制度は、「評価基準(規準)」が設けられ、それをABCなどで段階評価をする。しかし、この評価基準はそうとうお粗末なものである。
たとえば「学校運営」に対し「A評定:学校の取り組みに意欲的に参加し、協力・連携に大きくする。」「B評定:学校の取り組みに概ね意欲的に参加し、協力・連携する。」「C評定:学校の取り組への意欲的に欠け、協力・連携が不十分である。」とある。しかし、私が、その取り組みに対し批判的だったり、問題点を挙げて改善を迫るような態度だったりときに、果たして、どんな評定がつけられるのだろう。
「概ね」「不十分」それらは、ABCという評定記号に比べなんと「あいまいな表現」であることか?
つまり、学校の仕事に置いては、一つ一つの活動が、子どもたちの状況、学校内の教職員の価値観、保護者とのせめぎ合い、そして、子どもたちにとって何が今一番いいのか?という適時性、選択等々、矯(た)めつ眇(すが)めつ指導をしている。それほど簡単に活動を評価できるものではない。
ましてや、子どもたちと接するときは、教員一人の頑張りや努力でなく、何人もの教員の阿吽の呼吸もある。先に批判された、一見怠け者で、やる気のなさそうな教員が、はみ出した子どもの相手をして説諭したり、ただ一緒にいるだけで子どもが落ち着いたりすることもある(少ないけど)。
教員は個性的で価値観も色々と違っているからこそ、個性的で多様な子どもたちとつき合い、学校全体としては「まずまずのバランスのとれた生活の場」にできている。
ABCDなどで、明快に段階で分割できるものではない。
こうした、教育の現場では、そもそも客観的な評価などは無理なのである。たとえテストの点数でも、基準をあげたとたんに、はみ出していく子どもたちをどうするか? という課題が出てくる。もし、学級平均の点数が良い学級担任が評価を上げられるとするならば、「できない子は担任したくない」と言い出す教員がいてもおかしくない。「できない」原因はなんだという話もある。学校は、まだまだ「面倒な子どもだけど、私が担任しますよ」という協働性が残っている。あえて、「今年は、みなさんの嫌がる×年生でいいですよ」などという会話が交わされている学校は多い。
もちろん、この「協働性」は無条件に肯定できるものでない。私たちは、協働性に単純な肯定賛意をしめすことはできない。卑劣な教員いじめや、管理職のSS(Schutz-Staffel:ヒットラー親衛隊)化した協働性もある。その点は注意が必要だろう。
とりあえず、学校は理念的に「同僚の間の相互信頼を基に協力する」と言うこと(それが幻想であり物語であるとしても)をあらかじめ前提にしている。もちろん、いつもだれとでも相互信頼しているわけではないが、そういう物語を作っておかないとやっていけないだろうということもある。学校の現場は、それだけ、せいぜい主任がいるくらいの階級の少ない職員構成の現場を持つ職種である。いちいち、命令や指示で動くことは少ない。逆に、そんな命令や指示でしか動かないようでは、困ることの方が多い。なにせ、あいてはナマモノだから。
こうした、学校教育現場に教員評価制度を持ち込み、それをまた、給与格差に利用するなどと言うことは、明らかに学校の協働的な仕事を破壊する。仲が悪くても、性格が合わなくても、なんとか協力しないと、学校現場は動いていかない場合が多い。
教員評価制度の精度は、学校の教職員の協働性の精度に比べればいかに低いことか。足下にも及ばないだろう。「学校運営」でA評価ばかりの教職員を集めたら、さぞ良い学校になるだろうと揶揄したくなる。
(3) 成果を「計測」できうるものなのか?
教員評価制度では、「何を成果とするのか」「それ成果がはかれるのか」という根本的な問題がある。学校は、上記のようにチームワークとして、協働性の中で仕事をする。メンバーの相互扶助や関係強化があればあるほど、個人の成果を取り上げて評価するのは難しい。個人性がでるのなら、組織論は無化してしまえばいい。
ましてや、「数値目標」を立てるなどが流行しているようだが、数値目標を立てるのは自由だが、そこに到達しなかったとしても、到達したとしてもそれで「成果評価」できるものか? 数値目標を低く見積もっていくようなことをどう考えるのか? あるいは数値化できない内容はどうするのか? 多くの矛盾がある。
(4) 成果を外部の環境や条件と区別して評価できるものか?
「前の教員の指導が十分でなかったから指導ができなかった」「子ども自身の成長を待たないとできない内容もある」というような目標達成における外部環境をどのように評価するのか? このことは、逆もあり得る。「能力評価」(ストックとしての能力)を評価するのでなく、「成果主義=目標達成度」はプロセスも評価の対象としているので、とくに条件や外的な状況が大きく左右する。このプロセスから、本人だけを取り出して評価できるのか??
(5) 仕事と仕事の間(隙間労働)をどのように評価するのか?
本務労働Aと本務労働Bの間で、そのバランスを取るような仕事はどうするのか? だれがやるのか? 「個人の成果を追求しすぎると『隙間』を埋める者がいなくなる」という指摘(土田道夫、山川隆一編『成果主義人事と労働法』13頁 2003年、日本労働研究機構刊)もある。
また、モラルハザードを心配する声も多い。どちらか言うと、個人の競い合いになるので、相手の失敗を喜ぶとか、成果獲得競争が「パイの輪切り競争」となる可能性が大きい。
2.人事評価制度のエラーについて
一般的な人事考課のマニュアルにも「人事考課が陥りやすいエラー」というのがある。『人事考課のポイントがわかる本』(楠田丘監修、経営書院、改訂3版、2000-9刊、2000円)によって列記してみる。
(1) ハロー効果:Haloとは月にかかる傘。その人の一部の特性であとを判断してしまう(ハレーションを起こす)こと。先入観を排除せよということ。
(2) 論理的誤差:知識があれば理解力もあるはずだというような、一見論理的関連性がありそうに見えることを、勝手に理屈をつないで評価すること。
(3) 対比誤差:自分という考課者を基準にして評価する傾向。適当な校長が、「君はいい加減だな」と言っても、たいしたことないとか。
(4) 近接誤差:よく似た要素を近似して評価する。規律性と責任感は関連性があるからと、類似して評価する。
(5) 寛大化傾向:甘くつけがち。
(6) 二極化傾向:優か劣のどっちかにしてしまう傾向。
(7) 中心化:Bなどのように、評定の真ん中に偏ってしまうこと。「普通」の多用。
……とまあ、いろいろとエラーについては書かれている。そして、対応策も述べられている。だが、対応策も相当難しい。たとえば、最初の「ハロー効果」への対策として「人を見るのでなく能力を見よ」「印象や先入観を排除するとともに、それに惑わされない客観性を持つ」などと書いてあるのが笑える。
実際に、これだけでなく、外的要因とか環境によって「成果」「目標達成度」は変化するので、評価者は極めて困難な仕事をしているといってよい。
このようなエラーについて校長にどう思うかを聞くこともよいと思う。
3.「人事考課・成果主義」と「教員評価制度」を労働法的に考える
(1) 賃金が労働時間でなく、職務遂行能力や業績・成果によって決定される。したがって、使用者たる校長の裁量次第によって集団的労働者としての平等性のある賃金決定がなされなくなる可能性が高くなる。賃金格差が当然化し、賃金闘争が変質する。自分で、つまり個人で賃金決定の交渉をするしかない?
(2) 労働契約概念が変わるのか? 教員は請負労働ではないので、労働それ自体(サービス労働)を目的とする契約だから、一定の成果達成を目的とする債務を負っていない。「児童の教育をつかさどる」ということの再吟味がいる。
「学力テストの平均を80点にする」という請負労働が、教育労働の本務労働か?
(3) そもそも教員はどんな労働契約をしているのか、これってハッキリしていない。労働契約は普通、長期にわたって継続する内容だから、成果によって、毎回というかそのたびに賃金が変わるというのも変だなあ。
今までは、使用者としては、包括的に労務を指揮し、人事を握ってきた。それは、雇用保障=生活の保障であるので、解雇を避ける義務が、雇用者には、まずあった(ホントは)。
労働者の労働義務は、「成果達成を目的とする結果債務」でなく、「誠実に労働することを内容とする手段債務」である。能力を要件とした解雇は制限されてきた。
それが、だんだん変化している。成果に至る行動特性・能力・プロセスを重視するコンピテンシー(competence/cy:適性能力「成功者の行動特性から抽出された能力を評価基準とすること」 *「法的制限」の意味もある)
(4) で、人事考課による賃金査定をすると、色々と制約も出てくるだろう。
(5) 「公正」を保障するためには
(6) 主観性・恣意性そのものを問いただすというよりも、手続きの違法性を問うことになる。なかなか評価の本質に迫れない。 だから、手続きがちゃんとできていなけりゃ、まず、不公正だ!と言おう。
(7) 校長の裁量権の濫用なら、損害賠償責任(評価者本人には民法709条、教委には715条の使用者責任を問う)を追求できる。
(8) 普通の会社なら、賃金交渉は、権利義務関係だろう。人事考課は賃金確定のための付随義務ならば、それを怠れば「債務不履行」構成できる。学説的には「職業的能力の適正評価義務」と「職業的能力の尊重配慮義務」を怠ったということになろう。教員も使えるかな?
(9) 使用者の成果を評価することを法的なコントロールする
(あ:債務不履行構成)ちゃんと評価していれば、もらえるはずの賃金が請求できる。本来のあるべき評価を求める権利。使用者の契約上の義務として構成される。賃金支払い義務との関連で、職業能力の尊重配慮義務=適正評価義務、成績評価を正しく公正に行うべき信義則上の義務=債務がある。債務不履行なら損害賠償請求が可能。(民法415条)
(い:不法行為構成)使用者が労働契約上成立している処分権=裁量権行使を正しく行使しなかった場合。法に違反、裁量権逸脱、恣意的な査定なら損害賠償責任がある。
(10)判例によると以下のような成果主義人事制度における適正要件を挙げている。
「……もとより、労働契約の内容として、成果主義による基本給の降給が定められていても、使用者が恣意的に基本給の降給を決することが許されないのであり、降給が許容されるのは、就業規則等による労働契約に、降給が規定されているだけでなく、降給が決定される過程に合理性があること、その過程が従業員に告知されてその言い分を聞く等の公正な手続きが存することが必要であり、降給の仕組み自体に合理性と公正さが認められ、その仕組みに沿った降給の措置が採られた場合には、個々の従業員の評価の過程に、特に不合理ないし不公正な事情が認められない限り、当該降給の措置は、当該仕組みに沿って行われたものとして許容されると解するのが相当である。」(エーシーニールセン・コーポレーション事件/東京地裁平成16年3月31日判決)
4.本質論を欠いた「公正な評価」を求める心性
人によっては、「公正な評価であればよい」という。しかし、私は、「公正」な評価は、「公正」であるが故に、正統化の教員管理のネットワークによって、権力の構造をつくり、上意下達の絶対的服従、あるいは主体的な服従を呼び込み、管理の徹底をもたらすと考える。
つまり、公正であるということは、誰にとって公正なのか? ということや、公正に評価するという言い方で、批判を無化してしまうことになりかねない。この教員評価制度には評価に対する「苦情申し立て」「異議申し立て」が保障されていないところが多い。つまり、この場合には、苦情申し立てがないからダメなのだ!と言える。しかし、苦情を申し立てて、「公正」であると判断されたら、異議申し立てなど意味はない。
もちろん、校長による、一方的な人事評価に、客観的で公正な評価などないだろうと思うから、闘う戦略としては、労働法的にも、とことん「公正」を求めることはおもしろいし、効果があるだろう。
例えば、労働法上、成果主義賃金や能力主義賃金は、今までの年功序列式の賃金体系とは全く異なる。それは、労働時間によって労働力を売買するという近代の労働法そのものの基盤を変えるような事態をもたらしている。
そこでは、労働契約上、どのような問題が起きるのかということにも注目する必要がある。前述したが、そこでは、労働者のいわゆる集団的な「平等主義的賃金決定」でなく、「個別的決定」が求められていく。だが、その際に、その一人の労働者をどう評価するのかが極めて重要な問題になる。当然、使用者、評価者の恣意的あるいは評価規準の逸脱という不公正な評価は、裁量権の濫用になる。損害賠償請求の成立もあり得る。使用者の賃金支払い義務に伴う公正評価義務という考え方もあるだろう。その点では、評価されっぱなしで終わることは有り得ない。
だが、この評価する前提の「基準」など、裁量基準が果たして、学校教育における労働に適した妥当なものが作れるのだろうか? それを考えると、実際に「公正な評価」があると思ったら大間違いである。どうやったって公正な評価などできはしない。安易な妥協をするならば、別だが、そうでないなら、とことん「公正」とは有り得ないということだ。
教員評価制度という正統化された関係を労働者の中に持ち込まれたことに対抗して、「私たちがどのような協働性を作り上げればいいのか?」 ということを考えるのを辞めてしまう恐れもある。「同一労働、同一賃金」の理念を学校に持ち込む可能性をどう考えるかも重要なのである。
さらに、この教員評価制度は、教員が子どもたちに行う通知表や指導要録に関わる評価とも通底している。つまり、教員評価制度を支持している親や市民には、「先生が子どもを評価しているんだから、先生も評価されて当然だろう」(最初のHPへの書き込み)という理屈がある。
ここには、「学校における評価・評定」というアポリア(行き詰まり的難問)が存在する。教員評価制度に反対しながら、子どもを評価しているという事実を私たちはどう考えればよいのか。「次元が違う」「なんでも一緒にしてはならない」という理屈も当然ある。
だがしかし、教委の教員評価制度の進め方を見ていると、教員が子どもを評価するその方法や考え方と、子どもへの評価は、酷似している。勤評闘争の時にも、この問題が出てきているが、当時は、教師専門職論や聖職論的ヒューマニズムがその防波堤になっていた。が、その戦後民主主義お貯金がなくなっている市場主義原理の中では、組合もなかなか有効なパンチがヒットしない。この市場主義原理や新自由主義の中における、市民・保護者の心性を考慮せずには闘えないと思う。私にとって、具体的には、今後の課題なのだが。
5.裁量権の逸脱と濫用を糾す
教員評価制度における評価者の評価は「自由裁量」ではあるべきではない。校長には、労働者の納得や、信頼を得られるような公正評価の責務がある。
つまり、これは、大きく言うと、裁量権の問題になる。行政権の発動には、法律や条令によってその権利制限・授権・規制をする。校長の判断、命令、指示は「裁量」である。その法的根拠は、校長が裁量権を持つと考えるからである。
ところが、なんでも裁量できるとすると、「恣意的」「不当」「不適切」な裁量までも、権能として校長が持っているのだから「しょうがない」となる。
むろん、裁量には、責任が伴うが、責任を取るからと言ってなんでも裁量できるというのも無理である。
行政事件訴訟法第30条:行政庁の処分については、裁量権の範囲をこえ又はその濫用があった場合に限り、裁判所は、その処分を取り消すことができる。
では、適切な裁量、職務命令はどういう性質を持っていなければならないか?
統制基準として「裁量権の逸脱と濫用」になる場合の要件を以下に述べる。
また、何もしない「裁量せず」も、不作為の違法性が認められる場合がある。
たとえば、休憩を取らせない、休暇を取らせないは「労基法の罰則規定」では、校長に「六ヶ月以下の懲役、または30万円以下の罰金」を求めることができる。
さらに、恣意的な評価をして労働者の生活を脅かすような「経済的損害」を及ぼしたときは、人事考課権(裁量権)の濫用として、不法行為(民法709条)が成立し、損害賠償責任を負う。
6.質問集 教員評価するあなた! ここが聞きたい100の問い
最初のHPへの、私なりのレス
大変、刺激的な書き込みだと思います、流征四郎さん。ボクの感想を書いてみます。
こういう、教員自身が為してきた「子どもへの評価」を無視しての「教員評価批判」は時として、当事者以外からは傲慢に映るのは当然だと思います。
日本の労働者のストライキが、他の労働者にはわがままとしか映らないのと全く同じですね。
さて、ボク自身は、子どもへの評価についても、問題意識を持っているつもりですし、これはそもそも「教える側の評価権」論議として昔は論議されました。さらに、1968年頃の「教員の勤務評定闘争」でも、類似の意見が保護者から出されたことがあります。
ですが、それでも「教員評価制度」は間違っていると思います。つまり、教員評価制度は何のために(タテマエとホンネ)導入されつつあるのか? という問題。さらにその方法においての恣意性と無責任性です。
そして流征四郎さんが言われる、教員の子どもや保護者に対する「権力的に」「恣意的に」「好み」による評価も、同時に問題なのです。つまり、おかしいことは、おかしいとして、それぞれ別個あるいは関連づけて論議していくしかないのだと思います。
ボクが一番、避けたいのは、間違いに居直った形で、お互いをおとしめ合うようなやり方です。特に、教員が「俺たちもめちゃくちゃな教員評価されて我慢してるんだから、子どもだって親だって我慢して俺たち教員の評価に我慢するのが当然だ」という間違いの連鎖を認めることです。
教員評価制度を考えながら、自分が為している教育評価をも同時に考えていくしかないなあと 思っています。その意味で流征四郎さんの指摘は重要だと思います。
おわりに
最後になるが、結局は、この教員評価制度も次の問題に収斂されるように思う。
以上
参考資料