(北海道新聞2007年8月23日夕刊)

現場から見た教育再生会議

岡崎 勝

 教育再生会議の報告書を、我慢して、何度読んでも、そこから、子どもたちへの気づかいや、大人の暖かい心づかいは全く感じられない。「『美しい国、日本』を目指して」という再生会議一次報告のキャッチコピーも「ダサイ」が、どの見出しも、売り出しバーゲンセールの広告レベルの言葉が羅列されている。内容は、無い。もちろん読む者をして、嘆息と怒りは誘発させても、納得させるような論理は皆無だ。
 この教育再生会議の一番の欠点というか、実は、もうそれだけでこの会議の「論議」は崩壊しているのだが、それは「学校現場の現状認識がまったくない」というところにある。
 この会議には、現場の教員はおろか、教育学者すらいない。学校教育の複雑で込み入った現実から逃避した形での四方山#よ も やま#話しかできていない。
 現場理解の水準が低いので、出てくる提案も粗雑で幼稚なものしかない。
 たとえば「一○%授業時間を増やす」というのも学力低下への対策として考えているのだろうが、思いつきもここまでくるとあきれる。
 現場では、まず学力とは何か?が問われねばならないし、低下というが、何が低下しているのか? その原因は? 子どもたちの学力がどのように形成されているのかが検証されなければならない。この学力低下論には、まだしっかり論議されていないことがたくさんある。
 今、学力論ではっきりしているのは、学習への意欲が低下しているということだ。「勝ち組、負け組」の競争原理は、学習の根本的な動機付けにはならないということも分かっている。やはり、学ぶことのおもしろさをどう子どもに体験させるかという点での、教育の研究がされなければならないということまでは分かっている。
 暗記中心、例題訓練主義の受験教育用としては、「学習時間の増量」が肯定されるかもしれない。だが、学習と時間の関係は、それほど単純ではない。
 授業時数を増やして学力が向上するならこんなラクなことはない。「薬がたらないから、もっと投与しなさい」という話ではないだろう。
 二番目におかしいのは、再生会議には「学校はどんな子どもでも生活できる」そして「いろいろな子どもたちがくる」という「常識」がない。公立義務教育の学校では、どんな育ち方をしていても、どんな家庭環境でも、学校へ来た子どもは、一緒に生活しようということが重要なのだ。「エリート」を育てる場ではない。有名校へ何人入学させたかは、あえて言うが、どうでもいい話だ。
 私は、公立の義務教育学校は「学べる託児所」だと考えている。教員は、子どもを一定時間預かり、世話をし、勉強も教える。彼らは、仲間とうまく生活する術#すべ#を学び、学習して、かしこくなり、思いっきりエネルギーを発散し、成長する。
 教員は、自分たちの努力が報われないことだってあるのだと知っているし、子どもたちだって頑張ってもできないことがあることを知っている。それでも、できる子もできない子も一緒に生活しながら、お互いが、楽しくなることを企画したり、気分良く生活したりするにはどうしたらいいかと、子どもに問いかけながら仕事をしているはずだ。
 こうしたもっとも基本的な学校の役割を、「勉強するところ」、しかも、非常に狭い見方で学力を限定し、ともすると「テスト成績」のよい子が「学力がある」と勘違いしているそんなとらえ方をしていないだろうか?
 そして、最後に「学校で働く者の劣悪な環境」に触れていない。最近の文科省の教員勤務実態調査では、一日に取得できた休憩は七分程度である。これは、事実である。膨大な長時間労働も当然のことながら表面化している。やっと、世間が認め始めた。だが、再生会議の委員は、不勉強なのか、その実態さえ知らないようだ。教える者にゆとりがなくて、教育が充実するはずがない。「日本の教員はキツイ労働条件の割によくやっているよ」という認識が最近やっと出始めた。
 教育再生会議は、安倍政権の羅針盤無き教育改革の道具にされたにすぎない。学校や子どもの実態、また親たちの子育ての苦労を知ろうとしない、わけ知り顔の大人たちの「俗情」に流された「居酒屋談義」に得るものは何もない。


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