児童心理(金子書房2008年4月号)

子どもの居場所とは?

  1. 学校は楽しいところであれ

     学校は、子どもにとって、まず楽しいところでなくてはならない。すべての教員は、この原則をしっかりと銘記しておかなくてはならない。
     楽しい活動や楽しい授業を保障できるかどうかが、教師の仕事の一番重要な肝といってよい。この楽しいということの優先順位は、一番目でなくてはならない。
     むろん、楽しさと言っても、多種多様である。「ワハハワハハ」という笑いが起きるような楽しさもあれば、「ドキドキハラハラ」の息を詰めての楽しさもあるだろう。あるいは、できるまで、分かるまで何度も繰り返してチャレンジや修練をする楽しさだってある。
     だが、その楽しさは「子ども自身の判断」が、まず優先されなくてはならない。「楽しいはずだ」と教師がいくら自信を持っていても、子どもがそれを楽しんでくれないとするならば、残念だが、その活動や授業は「楽しくない」と言わざるを得ない。
    (1)楽しい材料・学習題材を選ぶ
     子どもたちがとり組んでいる内容が、楽しいものであるか? あるいは、楽しい質を持っているか? それを指導者は吟味しなくてはならない。教科であれ、特別活動であれ、「教えるに値する楽しさを持っているか?」という吟味は必要だろう。
    (2)教師自身が面白い、やってみようと思えるものを選ぶ
     教師が教えたい、面白がらせたい、知らせたい、驚かせたいという、楽しさをこどもたちと共有できるものを創造したり、選ぶことだ。
     様々な実践報告や、マニュアルはすぐに手に入る。しかし、教師が楽しそうにやっているのかどうかは、また別の話である。
    (3)指導方法に工夫が必要
     指導方法はある程度の原則があると思っている教師が多い。しかし、その原則が楽しさを邪魔している場合もある。たとえば、やさしいことから難しいことへという「易から難へ」、「基礎から応用へ」というような原則は、時として楽しさを奪う。  バスケットボールの授業で、パスやドリブルの練習ばかりさせられて、試合はほんのちょっとという授業はいただけない。子どもたちはゲームがしたいのだ。まず、ゲームをしながら、そこで不足しているものを実感してからこそ、ドリブルやパスの練習もできるし、生きたパスとは何かを考えることもできる。
     いっそ難しい文章をふりがな付で読ませてみる方が興味をそそることだってある。指導の工夫には発想や先入観の見直しも必要なのだ。
     こう考えていくと、必ず「楽しいだけでいいのか?」という反論をする人達がいる。だが、考えて欲しい、楽しいだけで意味のないつまらないものを、実際に授業や活動でやったことがあるのだろうか? 子どもたちが楽しいというものは、その殆どすべてが彼らにとって「ためになる」ことだと断言しても良い。
     私たち教員は、もっと自信を持って楽しいことを子どもたちに教えていいのだと思う。逆に、「ためになるはずだ」と思って、自信を持って強引にやることで失敗したり、子どもたちから不評だったことはなんどもあるのではないか?
     そのときに、「こんなにためになることをやりたがらない子どもたちは、彼ら自身に問題があるのだ」と思っていないだろうか。
     今、低学力批判がキャンペーンがなされ、子どもたちは受難の時期を迎えようとしている。学力は艱難辛苦に耐えてこそ身に付くものだという誤解と曲解が、世論形成されている。学校が、子どもの居場所であるとするなら、それは、子どもが、幸せで、楽しくなくてはならないのだという確信に充ちたものでなくてはならない。

  2. 学校は厳しいところでもある

     学校は家庭とは違う。家庭はいわゆる一対一、親対子という対の関係を基本としている。それに、異年齢少人数である。しかも、養育する者と養育される者がはっきりしている。しかも、長い間の協働生活者として、お互いを認識している。
     だが、学校は、教師対子どもたち、子どもたち対子どもたちという、集団の関係が基本となっている。だから、子どもたちの居場所となるためには、集団のルールをうまく守りながら、仲間と折り合いを付ける「方法」を学ぶ必要がある。
     したがって、「家庭のしつけ」と「学校の集団生活のしつけ」とはかなり違いがある。家庭でよい子が学校でよい子とは、限らないし、その逆も言える。家庭でよい子は、親の過剰な世話で問題が見えていないだけのことも多い。学校へ来たとたんに、困った子どもになることもよくある。
     こうした集団での生活が営めるようにすることこそが、学校の大きな役割の一つでもあるのだ。その原則とポイントをいくつか挙げよう。
    (1)自分のことはできるだけ自分でやろうとすること
     当たり前のことではあるが、この原則は、子どもたちが学校、教室を自分の居場所とする上で極めて重要なことである。入学したばかりの子どもだけでなく、高学年になってもこのことは難しい。
     しかし、勘違いしていけないのは、「何でも自分でやるべきだ」ということではない。何でも自分でやってみること、自分でやるのが原則であるが、できないときの対処も、同じくらいしっかりと学ぶべきだということである。
     簡単なのだ、できないときに「友だちや教師に助けを頼む方法」「誰かに借りて代替できないかを考える」「このさい、あきらめる」など、ケースバイケースで自分が判断することが重要なのである。
     他者に頼むときは、どんな言い方をしたらいいか。どんな、説明の仕方をしたら分かってもらえるか。そういう人間関係を具体的に体験して学ぶことが重要なのだ。親ならば、生活を共にしているので、言わなくても分かることは多いが、学校はそうはいかない。
    (2)自分の考えを表現し、他者の考えを尊重する
     学校では自分の考えや思いをしっかりと、みんなに伝えるということが大切である。このことは、大人社会でも同じなのだ。現代社会の特徴とも言えるかもしれないが、「きちんと伝える」ことが苦手な子どもが多い。
     つまり、「きちんと伝える」ときに生じるストレスに弱いのだ。表現をすれば、賛否、評価、印象が必ず他者からもたらされる。それが、子どもにはプレッシャーとなるのだ。多数派に属そうとし、意見表明の責任を回避もしくは、過小にするように動いている子どもたちは多い。
     教師は彼らを励まし、どんな発言にも良いところがあると評価しなくてはならないし、発言の仕方を教えなくてはならない。近年、国語科では、コミュニケーションの能力を教える内容として重視しているが、こういう生活の中で、しっかり自己主張する力を養っていかないと、その力は教科の外に出ていかない。つまり、生活の役に立たない。
     そして、他者の言葉をしっかりと受容すること、そして、その内容について、自分なりの評価を持つことが重要である。
    (3)迷惑をかけあうことを恐れない
     人間関係は、迷惑を前提としている。「人に迷惑をかけないようにしよう」と言っても、それは無理なのだ。もちろん、悪意や故意に迷惑をかけることは避けるべきだが、注意していても、迷惑をかけてしまうことをなくすことはできない。
     だから、迷惑をかけたあとの修復作業をしっかりとやることを学ぶ必要がある。言葉を変えて言うと「失敗してもいいから、どうやって、そのあと折り合いをつけるか」を考えようということだ。
     私は、よく子どもたちに「人に迷惑をかけたら、その迷惑を、親切と思いやりで取り返そう」という。「決して、謝罪を繰り返すだけですませないこと」と。
     迷惑は、自分のために、相手の自由を奪ってしまったら、こんどは、自分の自由を他者のために使おうという原則である。
     子どもたちが集団で生活すると言うことは、波風が立たないということでなく、波風をうまく乗り切るということなのだ。順風満帆な子どもなどいるはずがない。

  3. 居場所は学校を「生活の場」にするということ

     学校という場所が、子どもたちの生活の場であるということを、考える必要がある。「学校は勉強するところである」というのは、いいとしても、「勉強するだけのところ」ではない。  子どもに「テストの点数」というラベルを貼ったり、平均の物差しで「種分け」するようなことは、学校には必要ない。とりわけ、義務教育の公立学校はそうだ。
     今、家庭で親と子どもの関係が、非常に希薄になるか、逆に、煮詰まってしまっているか、そんな危うさがある。もちろん、「危うさ」の基準や客観的な指標があるわけではない。しかし、現代の給与格差は著しく、今までの生活水準を守るためには、親たちが長時間労働を選択せざるを得ないことは誰しも認めるところだろう。
     子どもたちの世話をする親たちが、残業の連続で子育てを楽しむどころか、必要だと思うことすらできないという状況が少なくない。
     また一方で、親自身が子育てを、生活の中で優先順位を高くせずに、趣味やレジャーに、「教育費を流用する」こともある。
     子育て・学校教育は、給与格差、文化格差、意識格差、価値格差などに包囲された中で、揺さぶられている。こうした激動する社会が人間的尊厳まで危うくさせるようなことになりかねない。
     人々の生活を自己責任論、受益者負担論、自由競争賛美に収斂させることは、あきらかに間違っている。子どもたちの生活を保障するためにも、弱者や、声の小さい子どもと一緒になり、学校は「いかにして協働生活を営むか」を大きな目標として立てなければならないだろう。  そのとき、教員、親、地域の人々自身が、しっかりした「居場所」をもっていなければならない。学校は生活の場であり、居場所であり、けっして「避難所」や「檻」ではないのだ。

    (2008.4)


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