あなたは08新学習指導要領を知っていますか
    すぐにわかる八つの解説と応用問題

岡崎勝(名古屋市小学校教員)

     学習指導要領というものを読んだことのない教員は多い。読んだことのない親はもっと多い。基本的に学習指導要領の論議をするときに、理解しておかなくてはならないことは、「誰も読んでいないのに、学校現場が大きく左右される」という現実だ。もちろん、これだって、意味不明の理解できないことである。
     キッチンタイマーは説明書を読まなくても操作できるし困らないが、パソコンだとその説明書があっても、うまく操作できない。学習指導要領は、説明書そのものが、なんだか分からない(笑)のだ。
     子どもたちが学校へ通って、授業を受けているという現実があるのに、教員も親も、学習指導要領を読まないし、研究しようとしない。つまり、逆にいうなら、学習指導要領なんかなくても子どもは教育できるということなのだ。
     学習指導要領があるから、教育の自由がないという論理も成立するが、学習指導要領があっても「そんなの関係ねえ」というのも、一方の現実にある。
     そこで、今回の学習指導要領について書いてもしょうがないので、やめます……というわけにはいかないか。じゃあ、巷に並び初めている「新学習指導要領」の解説書や、教育関係雑誌の特集を読んでください、おしまい……というわけにもいかない?
     では、今回の新学習指導要領の問題を、少しでも多くの人達に理解してもらえるように、できるだけ分かりやすく解説していこう。これを書いているボクが、ひょっとしたら、学習指導要領について一番勉強させられることになっているのかもしれない。

  1. 学習指導要領はけっきょく何か?

     学習指導要領は、小学校、中学校、高校の、学習内容が並べて書かれているものである。たとえば、国語の教科書に「走れメロス」(原作:太宰治)が載っているとすると、学習指導要領にある「話すこと聞くことの能力を育てるために、関心のあることなどから話題を決め、必要な事柄について調べ、要点をめもすること」(国語科)に従って、「走れメロス」と同じような経験を子どもたちに出させ、悪い役人の例をいくつか挙げて、その中から、さらにテーマを広げ、自分の興味のあることを調べて、ポスターセッションをさせるのである(そんなことをやっている教員はほとんどいないだろうが)。
     つまり、学習指導要領には、「どんなことを学習するのか」「どんな能力を身につけるか」「どんな方法を用いればいいのか」「どこにポイントを置いて学習させるか」と言ったようなことが、書かれている。
     題材や教材は、教科書会社が決めるから、それを使って学習指導要領の中にある目標や方法を工夫して子どもたちに提供するわけだ。
     算数なら、「加法及び減法が用いられる場面を式に表したり」するために「具体物(くだものとか、おはじきとか)をまとめて数えたり等分したりして整理して表す活動」をさせるのである。
     学習指導要領は、手引き書でもあり、題材や教材を選ぶときの元にもなるし、授業の時間数を決めたり、「総合的な学習の時間」のように活動や教科などの大枠を決めるものでもある。
     もちろん、この学習指導要領を持ち歩いて、熟読している教員はいない。もちろん、学習指導要領を金科玉条のようにして、庶民教員の授業をチェックしているような人は、ほとんど現場にはいない。せいぜい、教育委員会の手先、いや、末端の監視カメラ役人くらいのものである。
     現場では、新学習指導要領の「伝達講習会」がたいてい開かれる。だが、市町に降りてくる間に、何階もコピーされたレジュメを配布して「読んでおいてください」と言う程度で、疑問があっても、「私に質問されてもわからない」と言われてしまうのがオチだ。
     「伝言ゲーム」をやっているようなもので、制作に関わったこともない教員や教委の人間を何人もつないでいる間に、伝達内容が希薄になり(もともと希薄な内容だから)、よく分からないということになるのは、当然だ。

    (問題1)学習指導要領は「学校教育内の大綱的基準」と言われているが、その「大綱的基準」の「基準」は何が基準になっているか? 簡潔に答えなさい。

  2. 中心となる「総則:安直なイデオロギー」

     学習指導要領には、最初に「総則」がある。この「総則」は、これからの学校教育の方針や大まかな筋道を述べたところであり、言葉としては空虚ではあるが、これを作成した、文科省−政府の意図が比較的分かりやすく述べられている。
     とりわけ、今までの「総則」と違い、小泉・安倍教育改革の中での改訂であるため、そのイデオロギーが鮮明に出ている「総則」となった。
     「生きる力をはぐくむことを目指」そうということである。そのためには、「基礎基本の知識技能習得」「主体的な意欲」「課題解決能力」の三つを養うことであると述べている。
     教育業界関係者ならともかく、一般的には、こういう言い回しは抽象的でイメージが湧きにくく、「何言ってんだ?」という感じになる。
     だが、続いて「道徳教育は道徳の時間を要として学校の教育活動全体を通じて行うものであり」と述べている。そして、その中身は、今回「伝統と文化の尊重」、「我が国と郷土を愛し」となっており、道徳教育か強化されるだろうことが予想される。
     「我が国と郷土を愛し」という文言は、一般的にはよく使われるかもしれない、ありふれた言葉である。だが、使われるその文書や、使われている場所によっては、意味が大きい。だが今回は、道徳教育を独立した教科として、教科書を作るまでにはいたらず見送られた。
     道徳教育が好きな大人は多い。自分が子どもとうまくつきあえない、あるいは、「最近の若い者は」的な人は特にその傾向が強い。謙虚な大人なら、子どもたちが「よくない」のは、自分を含め大人や社会の問題と思うのだろうが、教育で「我が国と郷土を愛し」と強調したときに、中身も、どんな風に教えたらいいかも、なんにも考えていないのだろう。だから、何とでも言える。
     また、「社会生活上のきまりを身に付け、善悪を判断し、人間としてしてはならないことをしないように」とも述べている。これも、かなり井戸端会議的な文言である。もちろん、これを聞いて「そりゃーそうだろー」と思う。だが、世の中には、それほど善悪が簡単に決められることは少ないし、人間として「してはならない」と言っても、難しいものがある。
     子どもの世界だから「簡単」というか、「分かりやすい」とは言えないのだ。非常に複雑な価値観と多様化の中で、この「善悪」「人間として」は、取り扱いが困難である。ある意味で、単純思考しなさいと、いや、深く考えない人間になることを要請されているのかもしれない。

    (問題2)チベットの人が、自由自立のために聖火リレーで批判的な態度を示すことは「我が国と郷土を愛している」ことになるか、また、中国の留学生達の行動の「愛国心」とどのように関係するか? 小学生に分かるように答えなさい。

  3. 「総合的な学習の時間」は重視か軽視か?

     総合的な学習の時間が、週あたり三時間から二時間に減る。一年間で105時間程度あったものが、70時間に減るのだ。
     こうした減少を歓迎する教員も多い。もともと、総合的な学習は、よく分からない活動と現場では受け止められている。つまり、教科の学習のように伝統的な内容ならば、だれでも「ああ、そういうことをやっているのね」と理解も進むのだろうが、国際理解教育といって、在日外国人と食事をしたり話を聞いたり、福祉教育といって車いす体験をしたりする。「なんで、そんなこと学校でやるのかしら」と、総合的な学習の時間の経験のない親たちは、教科の学習にくらべあまり評価しない。
     当然、教員も、総合的な学習では、外部講師や資料の収集、コンピューターの基本作りなど、一時間の授業をするのにも、準備が大変だ。そういう私も、今四年生の環境教育では、毎回資料やワークシート作りで四苦八苦している。
     教員にも総合的な学習はお荷物として受け止められている。だから、授業時間数が減ることは歓迎されやすい。
     また、総合的な学習の時間の評価も、最初は「評価しない」と言っていた文科省が、「文章表現で」と言い出して、今ではしっかり?評価している。
     この総合的な学習の時間は、私自身は、色々な学習ができておもしろいと思ってはいる。だが、忙しさを極めた中での準備はつらすぎるというのも事実だ。本来この時間は、体験したり、学校の外へ出たり、教科にはないおもしろい題材で、しかも、社会と直接的につながっている課題にとり組むという良さもないわけではない。
     今回の学習指導要領では、安直に時間数を減らすという。導入の時と同じように、朝令暮改的な取り扱いとなっている。目標にある「自己の生き方を考える」というのは、新旧の指導要領にあるのだが、「生き方を考える」というたいそうな文言のわりには、時間数を簡単に減らしてしまっている。おそらく、これは、後で述べる「英語活動」の時間を確保するためなのだろうが、文科省自身が、こんなに簡単に「行き方」を「変える」のでは、子どもたちに総合的な学習活動を求めることはできないのではないだろうか?

    (問題3)5年前、各学校で苦労して作ってきた「総合的な学習の時間」のカリキュラムや「評価規準」が無駄になるのではないか? 明確に応えなさい。

  4. 英語活動の導入という学校のカルチャーセンター化

     学習指導要領には、「英語活動」でなく「外国語活動」と書かれているのに、「外国語活動は英語を取り扱うことを原則とすること」とある。
     今までは、総合的な学習の時間の中の一つの分野として、国際理解教育があげられ、その中で「英語活動」が位置づけられていた。ところが、この英語活動を重視して、週一時間を確保しようと言うのだ。
     すでに、英語活動は、低学年から、インストラクターなどを導入して、それなりにとり組んでいる学校も多い。しかし、相当の時間数とり組まないと、英語を話せるなどということにはならない。ここで話すというのは、簡単な挨拶や日常的なものいいを言うのだが、それすらも、定着などしない。せいぜい、リズム遊びのような英語会話や、ゲームがおもしろいという程度である。だが「そんな英会話習得をめざしているのではない、親しむのだ」という。
     これも、おかしな話で、一体だれが言い出したのか知らないが、馬鹿なことをやったもんだ小さい頃から英語をやれば国際社会で通用するのだから、日本人が海外で儲けるためには、英語が話せないとまずいよ、学校でも取り入れたらどうなのか……などという話なのだろう。どこかのおぼっちゃんの「ぼくちんも小さい頃家庭教師について英語会話をやっていたから、今はお金持ちなのだもの」的な発言を、文科省・政府が、庶民ウケしようと取り入れたのだろう。
     しかも、学習指導要領の中では、「コミュニケーション能力」の素地を養うことがこの英語活動の目標になっているからすごい、というか浅薄で幼稚で、かつ論理性もなにもない。
     何もコミュニケーションの能力なら、まず日本語でやればいいだろう。「日本語もちゃんとできないのに、英語なんてなんだ」ということではない。別に、日本語大事で、英語がどうでもいいというのではない。問題は、英語を小学校高学年で学ぶ、その必然性がないということだ。
     そもそも、コミュニケーションのためと言うならば、英語を使うことなどない。そりゃあエリートは、海外で経済競争するために英語が必要になるかもしれない。だが、エリートなんだから、学校なんかにたよらずに、自腹できちんと会費を払いECCなどの英語塾で自学自習すればいいのだ。
     国際競争力に勝ち抜くために英語教育を煽っておいて、コミュニケーション教育などとは、不遜な話である。まったく、分かっていないのだ。なんとなく、「小学生の頃から英語をやっていれば、将来いいんじゃないの?」とか、「英語って小さい頃からやれば大きくなっていいのよねえ」という早期カルチャーセンター通い感覚で始まったようにしか見えないのだ。

    (問題4) 学校にやってくる英語の外国人先生(ALT)の話す英語に、アジア系などの「なまり」があったときには、どうすればよいか明確に答えなさい。

  5. 「確かな学力」と「生きる力」の不確かさ

     新学習指導要領では「確かな学力の育成」という言い回しがウリになっている。文科省御用達的解説では、「知識・技能に加え、思考力・判断力・表現力、さらに関心や意欲の三つの要素が有機的に結び付いている学力」であり、「その育成においては、習得・活用・探求の三つの学習形態が重視されています」と述べている。
     これを「理念」というのか、「念仏」というのかは別にして、結局、毎回改訂される学習指導要領は、「あれも大事、これも大事、そういえば、あっちの方も大事だし、こっちの方も大事だよね」という感覚で、言葉をかえて、戦後、いや、ひょっとしたら教育理論・学習理論ができたころからずーっと同じことを「言い換え」てきただけではないだろうか。
     基本は「子どもと教員、教材」(学習主体、教育主体、文化・活動内容)の三つをうまくまわしながら、関係を円滑にして、文化を身につけさせようと言うコトにすぎない。百文字以内で言える。
     学校に関わっている者としては、「確かな学力」っていうが、いままでは確かじゃなかったのかい? この無責任さ、自己責任感覚の無さには、本当に腹が立つのだ。日本の義務教育制度の特徴は、お上から下々へというイデオロギー教育であるが、反省もなく、謝罪もなく、「明日から、とにかく値上げだぜ」「明日から、保険料も別徴収だぜ」というのと同じ感覚で教育方針も変えていくことに羞恥心はないのか!ということを言いたいし、それに唯々諾々と従って……というか、やらされてしまう私たち教員も、非常に恥ずかしい。
     「確かな学力」を基本・土台にして、「生きる力」が育まれるという考え方は、誤解を恐れずに言うなら、「学力テストでいい成績を取れない者は、生きることができない」ということに帰結する。もちろん、これを極論だとか短絡的だというのはやさしい。だが、現実がすでにそうなりつつあるではないか。学校選択制で、親たちは、進学率が高いか、補習をやってもらえるかどうか、学校が荒れていないか(つまり、学習をしっかりやってもらえるかであって、けっして、みんなが仲良く遊んでいるかではない)、そんな基準をもって選んでいるのは周知のことだ。
     つまり、そこには、「学力のないものは生きられない」というイデオロギーが蔓延しているのだ。それを、補強しようとしているのが、この「生きる力」論である。さらに、今回は、生きる力が「グローバル社会で日本が生き残る力」を国民教育として要請している。「生きる力」は「生存競争に生き残る力」であり、その生きる力をメインにすえれば、「個人的努力」「個人的責任」がクローズアップされ、決して「教育環境の整備」つまり、おおざっぱに言えば「福祉の充実」を軽視する政府の意向と一致させられる、非常に都合の良い話となる。
     その意味で、今回の新指導要領の「生きる力」はけっこうヤバクない?!

    (問題5)全国学力テストでは、「生きる力」をどのようにテストしたでしょう?例にならって述べなさい。例:全国学力テストでは、無意味なテストに子どもたちは四時間も耐えられるかどうか。

  6. 授業時間の増加は、教育条件、労働条件の悪化を招く

     今度の学習指導要領で、現場的に一番関心のあるのは、授業時間が増えることである。申し訳ないが、労働者の関心が、給料と労働時間であるのと同じで、教員も労働者だから、当然「労働時間」が増加することについて大いに気になる。
     もともと、教員の労働時間は、「8時間。残業手当は無し。」という二つの原則があり、前者の8時間は守られず、後者の残業手当無しは厳守されている。だから、授業時間数が増えれば、当然、8時間労働はますます守られなくなり、残業手当は出されないから、無賃サービス残業、持ち帰り残業が増える。
     「子どもはもっと勉強させなきゃダメだ」という意識が大人の中にまんえんしている。実は、この惰性的思考に右翼左翼はない。文科省の動きに反対している人だって、子どもはもっとのびのび遊ばせなければならない「けど」勉強もしっかりやらせよう……と言う。世の中の大人は、自分の子どものころを忘れてしまっているし、週に二日も学校が休みの子どもに嫉妬しているからしょうがないのだが、子どもはその無理解なご都合主義的な大人の裏をかきながらサボる技術を身につけるのが常である。だから、安直に子どもの味方をするだけがいいとは思わない。
     だが、現場で小学生相手に仕事をしていると、今でも、午後になると、子どもは「助さん、もういいでしょう」と勉強に忌諱反応を示すのが普通だ。ボク自身、現在四年生を担任しているが、六時間授業が火曜水曜金曜と三日間あり、五時間授業が月曜木曜の二日間だ。すると、六時間目の授業になると、やはり、お疲れモードで、細かい学習はやめている。どちらかというと作業的な内容にしておく方がいい。ボクの場合は、六時間目は読書、総合、体育などを入れる。もちろん、最近は、非常勤講師が多くなって、そのケチケチ勤務制度(できるだけ連続して授業を担当させようとする)を行政が押し付けるから、自由に時間割がくめなくなっている。
     これで、低学年は、今までより、一週間当たり二時間、高学年は一時間増量となる。授業時間を増やすと学習効果は低下するという研究成果は出ているのだ。どこにその成果がでているかというと、日本全国の教員に聞いてみればいい。
     一時間の影響は、大きいとも小さいとも言える。つまり、「どうせ時間数が伸びても、今までだって午後はなかなかはかどらないのだから、まあ、適当にまったりと過ごすしかないよな。効果なんか何にもないんだから」と考えて、影響は少ないとみる。あるいは、「時間数が増えると、今まで以上にしんどくなって、子どもたちはますます疲れるなあ」と影響は大きいとみる。効果が出ないと言う点においては共通している。
     だが、もし、教育効果を上げたいとするならば、教え方の工夫である。しかも、目の前の子どもを見ての工夫である。つまり、教員が余裕を持って教育研究をすれば、相当に効果は上がるだろう。ところが、授業時間が増えれば、当然、勤務時間内の教育研究する時間は減る。
     会議のない、五時間授業の後の時間は、本当に貴重なのだ。この原稿を書いている新学期はとくに大事だ。学級園を耕したり、遠足の下見、総合的な学習の計画、学級内活動の細々としたプラン、学習プリントの作成、学校全体の行事や教科学習計画の立案、学年初めの書類の提出、年間予算計画の立案、教材教具の点検と準備など、つまらない書類や会議はできるだけ遠慮しているボクでさえ、いっぱいある。
     授業時間が増えるのは、仕込みの時間が減るということである。子どもの授業時間数の増加は、単に子どもだけでなく、教員にも厳しい労働条件を迫るのである。「労働条件は教育条件」という現実なのだ。

    (問題6)a.文科省が昨年実施した教員の勤務実態調査で、一日の休憩時間が平均十四分(本来四五分間)という結果が出ました。現場では校長はどんな工夫をして、改善しようとしているでしょうか?
    b.子どもたちの授業時間数が増えて、帰るのが遅くなるとどんな問題がおきるでしょう。例:塾から苦情が来る。警報ブザーがよく売れる。体力が落ちる。など具体的に書きなさい。

  7. 学習のイメージと言語活動の重視

     今回、教科の内容的に変化が一番目立つのは、国語をはじめとする各教科における言語活動の重視である。言語活動というのは、具体的に言うと、記録文、説明文、討論活動などをもっと増やそうということだ。
     PISAの言う、「リテラシー」のコトだと思われる(厳密には違うとボクは思っているが)。まあ、この辺が、日本の文科省、というか、それに群がる文化人の習性ではあるが、中央教育審議会でも、報告を読んでみると、色々と述べている。読解力が低下しているということなのだが、それが、言語活動を重視していくことによって改善されるというのだ。
     もちろん、教育活動には、理屈はいくつでも、なんでもくっつくのだから、別にいいのだが、そんなことは、もう現場ではとり組んでいるのだ。だって、もし、言語活動を軽視していないとするなら、一体、ボクたち教員は国語で、何をやってきたのだ?
     読解力が大事だなんてことは、誰だって知っているし、一番難しい課題なのだ。算数のテストができないときに、「問題文が読めない=理解できない」からできない子がたくさんいることも事実だ。少なくとも、読解力などというものは、経験、生活ぶり、文化環境、人間関係など様々な要因が絡み合いながら培われていくものだ。
     そもそも、読解力というのは、文化や人とのコミュニケーションであり、それは、フレイレ的に言うなら「伝達」でなく「対話」であるということだ。要するに、社会的政治的なものであるということだ。PISAのテスト内容だって、考えようによっては、かなり社会的政治的なリテラシーテストである。その観点からすれば、リテラシーが安直に、捉えられてはいないだろうか? 
     それほど深く考えてはいないらしい文科省は、リテラシーの力はないと断言してもよいだろう。今後、学校で予測される事態は、話し合いが意識されて、結果的に形式的になり、声の大きい者が優位に立ち、表現のヘタで効率の悪い、効果的に話せない子どもたちがどんどん沈黙していくだろう。
     おそらく、教員が大事にしていくべきは、声を出せない弱者の言語活動だろう。生活のしんどさに押しつぶされそうな子どもたちの表現をどのように保障し、育てていくかという課題なのだ。「雄弁な沈黙」をどう捉えるかという大きな課題もあるだろう。  だけど、それは、今までだって、心ある教員はみーんなやってきたはずだ。今更、文科省に言われたくはない。

    (問題7) 障害を持っており意志の伝達が難しい子どもたちの言語活動をどのようにすべきか、どのように研究し工夫すべきか、勤務時間内にできる方法を三つ述べよ。

    終わりに「公教育の行き方」

     どんな時代であろうと、基本的に公教育は国家が政策として企て、ある一つの方向に進めようとするものである。その方向は、「国家の存続のためには」という前提つきで、「国民を権力者のもとに支配する」とか「国民全体を幸福にする」とか「多少の犠牲を払っても国際競争に勝つため」という方向選択肢があるのだろう。
     「子どものため」と言っても、何が子どものためかは人それぞれである。だから、公教育の行き方が子どものためになっている場合もあれば、真逆の場合だってある。だから「子どものため」などと簡単に決められないし、その論議は、かなり謙虚にする必要がある。この単純な考え方すら、新学習指導要領では、失われている。いや、今までも、政府文科省は常に、そうだった。教育改革についてもしかり、教育再生会議についてもしかりである。
     権力を持つ人々の一番の罪は、現場を主体にして、現場から改革させようとはせずに、現場を一方通行で改革しようとしてきたことである。だが、これが今の公教育に、ボクが実感できる「正体・本質」なのだ。
     近時、「公共性の喪失」というタームが流行している。前世代が、後世代を「近ごろの教育は、近ごろの親は、近ごろの先生は、近ごろの若者は、みーんな なってない!」という批判(ぶーたれ)をする。それに、そのまま行政の改革が乗っかってしまっている。
     このときに、私たちができることは何か? すでにいい年をしたボクが、偉そうに言えることはないが、公教育の本質を見極めながらも、自分でできることは何か? と問うて、それなりに用意してきた答えがある。
     それが、「自分がまず自由であること」という、まことに陳腐なことなのだ。自分が自由であるかどうか? それは、教員として、このせちがらい世の中で、かつ、つまんない管理や官僚制に毒された学校という組織の中では、けっこう重要だなと思っている。
     ボク自身の子ども時代、思想性はともかく(子どもだからよく分からないし)、自由に生きている教員が、とにかく好きだった。別に、自由奔放だったということだけでなく、どちらかというと、「まじめに自由だった先生」に学んだことは大きかった。「まじめな楽天主義」とも言える先生は、人間として良かったし、それなりの戦略や節度があった。決して聖人ではないし、ボクも良く叱られた。だが、結局は、「お前次第なんだよ、世の中は」という生きる原則を知らされた。
     新学習指導要領や教育改革に埋め込まれている「自己責任」と「自分次第なのだ」ということの大きな違いを「読み取る」能力が必要なのは、私たち大人自身だなと思う。「自由には、危険がともなう」のだ。

    (2008.9)


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