(現代書館「福祉労働」120号 2008年9月25日刊)

格差・差別社会と公教育の生きる道
    迷惑をかけながら生きることの意味

     教育再生会議の最終まとめが出された。一体それがどういう中身で、どのように学校に影響を与えているかもはっきり吟味されないまま、忘れ去られようとしている。ところが、教育基本法改正から新学習指導要領改訂まで、きっちりと教育行政当局は新しい国民管理体制を着々と進めてきた。
     教育の現場は、混乱し、希望を見失い、上から、下から、そして横から、監視と管理の壁で押し付けられ、生きたまま死亡宣告をなされているように見える。ここでは、いくつかの視点から、その死亡宣告を跳ね返すような現実が、公教育にあると確認したい。

  1. 教室の格差 百円ショップ文化の意味すること

    生活の格差について、学校では、いままでだってずっと話題になってきたし、今更の感もある。もちろん、統計的に……とか、現代社会の特徴として……という、新しい課題もあるだろう。でも、学校に来る子どもたちは常に生活をかかえてやってくるのだ。格差だけでなく、価値観、人生観さえ抱えてやってくる。

    1)三〇度も一五〇度?
     算数の時間に、角度を測るための分度器を用意して欲しいと子どもたちに話す。すでに、「三角定規を買ったときにセットになっていたよ」とか、「お姉ちゃんがもっているものを借りてこようかな」と、みんな口々に言う。
     でも、私は「はいはい、静かにして、あのね、できれば、兄弟で使うのは止めて欲しいな。算数が同じ日にあったり、お姉ちゃんが分度器使う日だったりすると困るから。自分のを用意してください」と話す。
     ところが、実際に彼らが用意してくる分度器は「百円ショップ」で買ったものがけっこうある。最初は、そのことに気付かずに授業をしていたが、ノートを提出してもらって、点検していると、どうも、変だ。簡単な角度が作れていない、測れていない。
     そこで、私の机の前で、実際にやってもらうことにすると、持ってきた分度器の中心がずれているのだ。つまり、分度器自体がおかしいのである。あるいは、一度刻みでなかったり、角度の途中が無かったりする。
     また、普通の分度器は、右からでも左からでも角度が数えられるように目盛りの数字が打ってあるが、0が片方からしかなく、三十度を一五〇度と読み間違えている。
     もちろん、「分度器を裏返して使いなさい」、「本当の中心はココだよ」とか、「一〇と一五の間だから一三度にしておきなさい」と教えても良いのだが。
     百円ショップの分度器は、分度器の形をしているが、教えにくい道具になっている。以前は、分度器や物差しに「キャラクター」がついていると、目盛りが読みにくいので、「授業では使うのやめてくれよな」と話していた。だが、百円ショップは、キャラクターも印刷されているし、目盛りもばらつきがある。
     百円ショップ文化は学校にどんどん入り込んでいる。絵の具もそうだ。最近は、百円ショップの絵の具を持っている子には、使う前に注意が必要になる。「そのまま、フタを開けて出すと、最初は水が出てくるから、まず、フタをしたまま、よく振って、揉んでから、ゆっくりと出すように」と指導している。
     ノート、下敷き、オモチャ。この間は、書道の筆まで百円ショップで買える。
     「お母さんが、『これでいいの』と言って買ってくれたんだもん」と子どもたちは話す。もちろん家庭の事情があるから、買い換えるようなことを強くは言えない。ところが、いざテストになると、やはり角度がうまく測れなかったり、作れなかったりするので、×にせざるを得ないことになる。
     結局、自分が持っている手持ちの数個の分度器を、テスト中に貸すことにしているが、「分度器忘れたら、もう×だからね」と言っていた時代が懐かしい。
     コンパスになると、もっとすごいのだ。百円ショップのコンパスは使い捨てかよ?と思うくらいひどい。ねじは動かない、あるいは、動きすぎる。「先生、ぼくのコンパスは、途中で、半径が変わります」と言われ、以前なら、小さなドライバーで締めればよかったが、ねじがなかったりするのだ。

    2)問われる学校文化
     実際に、私が言う普通のコンパスは二五〇円くらい。百円ショップとの一五〇円の差がある。象徴的ではあるが、これは、学校教育や子育てへの意識の差になっている場合もある。
     たとえば、百円ショップ文化は、教える側からすると、家庭での学習をあまり期待できない。家で勉強すると言っても、使いすぎると壊れるコンパスを子どもは持ち帰らない。勉強道具を大事にしようという「意識」は薄い。
     これは、生活における学校教育の優先順位が著しく低下していると考えられる。逆にお受験組のように、同じ教育でも、私学受験にはお金をかけても抵抗がない親は増えている。「教育への意識」が変わり、そこからまた、差を生む。
     以前だって、生活というか、親の所得の格差が学校に来る子どもに見え隠れすることはあった。しかし、最近は、「買えない」のでなく、「買える」のである。ただし、品物にはっきりとした差が出ているのだ。
     子どもたちの筆記用具からは、確かに、今の子どもたちの生活実態が見て取れる。だが、そこにあるのは、「単純な貧富の差」と同時に、「文化・意識の差」であり、学校教育への関心の低さである。
     しかも、百円ショップは産業的な国家間の格差に他ならない。グローバリゼーションの問題が、学校を巻き込んで、とても身近な問題として実感できるのである。
     このことは、学校をいたずらに尊重して、絶対化するような学校の呪縛にがんじがらめになるよりは、善いことなのだろう。だが、それに変わる自前の教育・子育てを追求するということでもない。けっこう、やばくない? 状態である。

  2. 職員室の格差 教員評価制度の本質とは?

     子どもが教室で見せるのが生活格差・文化格差なら、教員が今向き合っているのが「教員評価制度による差別化」である。

    1)評価制度で職員室は従順となる
     教員評価制度は、学級での学習指導、生活指導の「成果」報告、面接による指導、保護者からの学校評価と教員評価という、様々な側面から成立している。それが、四段階、五段階と給与格差に直結していくことになる。
     「こんな制度で、教育がよくなるとは思えない」と思っている校長は少なくないだろうが、公然と言えるはずもない。「面接にも、時間がかかるし、忙しい先生方に申し訳ない」と、「心苦しく」思っている校長もいる。
     教育委員会は「至上命令」で進めている。上意下達を疑ったこともない教育委員会と校長たちだから、「やれと言われたら、やるしかないのだ」とある教頭が私に言った。「俺たちはロボットさ」とも自嘲的にいう。
     校長以下の管理職が、教員評価制度はおかしいと思いながらも、実施していけば、そのうちに、欺瞞的な正当化をするようになる。大多数の教職員に「ラベルを貼る」特権をもつことに、だんだんてらいが無くなり、最後は、支配のツールとして利用する。
     成果主義、人事考課など、一般企業ではその効果が疑問視されていても、学校の校長達は、ほとんど、何も考えず、ノウハウだけをそのまま導入していく。教員評価制度における課題や矛盾は腐るほどあるのに、研究すらしない。
     子どもとのつき合いには、なんの役も立たない、このつまらない評価制度を、きちんと実施することができるかどうかと、評価されているのは、校長自身である。おかしいことをおかしいと言わない、不完全なところに目をふさいでやる、教育委員会に現場を代表して苦情、苦言を述べるなどということをしない、そういう資質が、校長には備わっていないといけないのだろう。
     「みんなが、おかしいと思っていても、命令だからやる」という校長の資質は、今まで以上に、ロボット的無反省な惰性的思考を学校の中に拡大再生産する。

    2)「正しく評価して欲しい」という「正しい差別」の要求?
     教員の中には、教員評価制度に反対しつつも、その理由が「正しく評価されていないからだ、しっかりと評価して欲しい」という者がいる。しかし、こうした学校での、教員評価を正しくするとは一体どういうことなのか?
     誰でも、すでに気付いているこの制度の矛盾は、学校での教育指導が、常に他の教員との協働的な作業でしかないのに、それを、一個人の教員Aの評価にずらしてしまうところにある。教員Aだけでなく、教員B、教員C……と多くの仲間で、生活指導もするし、カリキュラム設定、授業なども相談して進めている。小学校ですら、学級だけでなく、学年全体での取り組みは沢山ある。
     こうしたときに、個人を特別に抽出して、ランクを決め、ラベルをはるようなことに、意味はない。こうした分断的な評価は、理屈も通らないし、共感もついていかない。
     各地で実施され始めたように、S(スペシャル)、A、B、C、Dと分けて、教員を評価するなら、いっそ「教員の評価別に色別にした腕章を教職員はつけたらどうか?」と冗談でいう同僚がいた。その理由を聞くと、「もし、何か、子どもが問題をもちこんできたときは、『その問題は、S級の紫の腕章の先生に聞きに行きなさい。私は、C級の橙色の腕章だろ、だから無理なんだよ』と言って、仕事を逃げる……」と。そんなことが実際にできるとは思わないが、気分はそんな感じになるだろう。つまり、職場の志気は確実に落ちていくことになる。
     「能力や技量の高い人には、給料も高くして優遇するべきだ」という能力主義的な発想は、差別化、序列を必ず正「統」化する。どんなに努力を重ねても結果が出ないときは、だれがなんと言おうと、その努力は「無駄」として社会的評価を受ける。その過ちを、学校の中に持ち込んでいくのだ。なぜなら、この「無駄」に見える作業の累積によって、学校は根底で支えられているからだ。

  3. 生活の拠点 地域の学校、地域の公教育

     公教育の民営化、自由化で、子どもは救われるのかというと、それはありえない。規制緩和論者は「学校が競争しないことで、機能が低下している」「子どもや親が、学校を自由に選べればよい」と言う。「競うことで切磋琢磨する」という、非常に分かりやすい競争の論理である。みんな、これにひっかかっている。

    1)個性を生かす教育は、個性を排除する教育でもある
     学校選択制の推進論者は、「自分の個性に合わせて選ぶ?こともできる」などという。そんなことは、金輪際ありえないというか、そういう場面を私は想像できない。だいたい、個性などというのが、そう簡単に自分でわかるのか?と言いたい。好き嫌いで学校を選ぶことはできる。だが、あとの責任も取るのだと言われたら、これはトンデモナイ話である。
     教育において個性を生かすという言い方が、自明のごとく「肯定的」に語られすぎ、そこに異存を挟むことはほとんどなかった。「みんなちがって、みんないい」という金子みすゞの詩をすすんで謳う先生たちは、そこに「不協和音としての個性」を前提としているだろうか。金子みすゞは、その時代の不協和音そのものだったと自覚していたからこそ、血の出るような思いで「みんなちがって、みんないい」と謳った……と思っている。
     「みんなちがって、みんないい」を覚悟していけるのか? そこが問題なのだ。「授業中に教室を飛び出す」行為は、個性として認められないのが学校である。「友だちにいきなり殴りかかる」行為も個性としては認められない。だが、これも実は個性なのだ。つまり、個性の本質は、善し悪しとは次元を異にした「違い」「異質性」である。
     ところが教室では「勉強はできないが、スポーツはできる」「国語はできないが、算数はできる」「走れないが、詩を作ることが得意」という、要するに、個性は「できない」ことでなく、「できること」に収斂されていく。
     所詮、学校の評価は「できるーできない」ことだけが、評価されるのだ。だが、できない子どもだって、学校での生活は送っている。学校は勉強するところであるというタテマエは、タテマエであるからいい。
     たしかに、「できない」ことが「できること」に変わるとき、それは、学校の物語になる。だが、努力の過多に関わらず、結果が「できないまま」ということだってあり得る。この視点が無くなってしまったら、特定のできる個性は生かすが、特定のできない個性は排除対象となる。
     気持ちがささくれだったまま学校に来て、荒れている子どもが、とりあえず、1日みんなといっしょに過ごし、帰っていった……ということだって、私は学校の存在価値の一つとして掲げたい。それを個性とよぶのがふさわしくないのなら、「彼らしい」「彼女らしい」と言えばいい。そして、とりあえず、公教育の学校は、その個性をいったんは引き受けるのである。

    2)子どもと生活する学校
     もちろん、集団に歓迎されざる個性の持ち主は多い。手のかかる子は、最近特に増えた……と感じるのは、私が高齢になって、対応エネルギー(サービス能力)の低下が著しいからだろうか? 増えたかどうかは別にして、集団の安定性や安全性をおびやかす個性の持ち主には、もちろん、いろいろなケアが必要である。放っておいて済むことばかりではない。
     だが、覚えておくべきことは、「あるがまま」とか「君らしさ」を肯定すると言うことは、否が応でも、他者との関係性を構築するということだ。自分一人で「私はあるがままでいよう」と道行く人に告白しても、いぶかしく思われるだけだ。
     いまある、特別支援教育が、理論的な論議の割には、現実性にとぼしく、「いままでとあまり変わらない」と言われるのは、インクルージョンということを、障害を持つ子どもを人と人との関係性の中(=生活)で存在すると捉えずに、個別な診断の中にその存在意義を求め、そこから出発しているからではないか。
     生活の論理は、好き嫌いにかかわらずすでにそこにあるのだ。あるがままというより、そこにあるんだからしょうがない。「それでいいんだよ」などと言われなくても、もうすでにあるんだから、子どもたちも私たち親も教員も逃げられないのだ。
     公教育は、おそらく、「国家・社会に有用な人間に育てる」というタテマエを超えて、「子どもたちの生活をみんないっしょに引き受ける」そして「集団の中で、なんとか折り合いを付けて暮らしていく」場所なのだ。強く揺るぎない、リアルな社会のインフラなのだと確信している。だからこそ、公教育は「みんないっしょに」、お互いに迷惑をかけながら、なんとか、毎日を暮らしていこうということを、大前提にするべきなのだ。迷惑をかけない生活なんて、ありえなぁーい!

    (2008.9)


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