『お・は』ウラばなし その7

この原稿は、15号の学力低下特集のために書いた文章ですが、いろいろな都合で本誌には短くしたものが掲載されます。でも、ボクとしては、これを読んでもらいたいという面もあります。で、HPにアップしました。


「そもそも学力低下ってなんだ?」(『お・は』15号用元原稿)

 のっけからなんだが、学校では一度たりとも「最近の子はよく勉強するねえ、学力が随分上がってきたねえ」などという会話をしたことがないし、聞いたことがない。戦後の歴史を調べても、「学力が向上した」などということはないようだ。逆に、いつも話題になるのは「低下」である。「学力低下」「道徳倫理の意識が低下」「体力の低下」「学校の権威の低下」「自主性、自律性の低下」「気力の低下」である。だから、今「学力が低下している」という人たちも、実は子ども時代には、何かが「低下している」と言われていたはずだ。
 さて「学力低下」と言っても、「わああ、なんか大変だぁー大変だぁー」という気分にはなるが、いざ、じっくり考えて、みると、いまひとつピンとこないのだが、本当に、みんな分かっているの?
 そこで、もう少し「学力低下」とはいったい何なんだろう?ということを考えてみたい。
 学力が低下していると主張する西村和雄さんは、一つの例として、17題の計算を1982年、1994年、2000年に実施した調査結果を示し「異なる指導要領で学んだ子どもたちの比較なのですが、小学校、中学校や塾などの教育現場からは、恐ろしいことに、年々学力が低下している報告されています。」(西村和雄編『学力低下と新指導要領』岩波ブックレット)と証拠を上げる。それを見ると正答率が小学校の場合、68.9%→64.5%→57.5%と変化している。そして、私学受験が増えているのだから学力調査も上昇してよいのに低下しているのは「ゆとり教育の負の効果が、私学志向のプラスの効果を打ち消すほどに大きかったということになります」(同書)と言う。つまり、低学力はゆとり教育が原因ではないか?という論調を作るのだ。
 一方、「低下」していないということを主張している瀬沼花子さんは、国際学力比較をもとにして、これも同一問題での結果は、「わが国の平均正答率は、1955年と1999年は変わらない」(加藤幸次他編著『学力低下論批判』黎明書房)で述べている。
 佐藤学さんは「そもそも『学力低下』と言われていますが、小学校、中学校、高校のどの学校段階のどの学力がどう低下しているかについて、いまだに明瞭ではありません。『危機』『危機』と言われますが、『学力低下』と呼ばれる危機は、いったい誰の、そして学力の何が危機なのでしょうか。」(『学力を問い直す』岩波ブックレット)と言う。
 こうした論議は「調査」というものが、説得力を持ったり、持たなかったりする非常に面白い事例だと思う。で、結局、佐藤さんのように「いまだに明瞭ではありません」というしかないが、これも、「ほんならいつ明瞭になるんじゃあ?」とボクは聞きたい。
 テストというもので子どもの学力が測れるのか?という問題提起をする人も多いが、本当言うと、「テストあるいは計測できるものしか学力とよんでいない」のではないか。だから、低学力の論議をするときには、「感想文の質が下がった」とか、「読書の本が変わった」とか「集会のやり方が下手になった率」「朝の挨拶する子の全国平均」などという『平均の移り変り』は問題にしていない。つまり、子どもの力を客観的に計測するのはむつかしいのだ。しかも、客観的には測定不可能な「意欲」なんてのは、学力向上にけっこう重要な要因になると思うが、その調査なんてのは、さらにむつかしい。多分「おおい、次のテストがよかったら、体育は自由時間にしよう」などというなら、確実に子どもたちは頑張って、テストの成績がいつもよりは良くなるというのは、現場の常識である。できない子はできないなりに頑張ってしまうものだ。
 結局は、大方の人は「学力」ということばで、「子どもが学校社会でつける力」という漠然としたイメージをもって使っている。したがって、計算力がついていないなら計算を教えればいいし、研究したり調べたりするような、今で言う総合的な学習で必要な学力ならそれはそれで教えたり経験することで培われていく。また、受験が近づけば、受験を突破する学力が重視される。時にはつまらない問題もきちんとできる力が学力になることだってある。だから、学力は社会がその時々に子どもに要求している力なのだ。学力低下の危機感は社会の価値観が大きく左右していることが原因であることくらいは当然すぎることだろう。子どもの側から学力を考えることはないのだ。「君は何を『君の学力』と呼んで欲しいの?」と子どもに聞いたことはない。
 しかし、学校ではそれほど楽観的ではない。教員も子どもも、けっこう頑張っている。たとえば、総合的な学習でインターネットを使って、調べ、プリントアウトしても、その漢字が読めない、グラフの移り変りが捉えられない。そういうとき、やはり、「漢字も計算も大事だよなあ」となる。だから、いくら指導要領が変わっても、現場では、読み書き計算は教えざるを得ないのだ。
 また、小学校で「円周率が3で計算してもよい」と言ったって、円周率の少数以下がいつまでも続く面白さや、子どもたちが実験して実測したって3.14になんか決してならないこと、3.14だってアバウトな数字なんだということは教えられる。
 勉強時間が減っているなら、ゲームを取りあげ、テレビを放り出せばいい。やることがなくなれば本くらいは読む。でも、ゲームもテレビも日本の社会の「必要性」から生み出されたものだ。そんな勇気は大人にない。今の日本を否定するくらいの気持ちでなかったら、子どもに「楽しいゲーム止めて勉強しなさい!」なんて言えない。それに、大昔から「勉強しなさい」と言ったくらいで子どもがやるはずはない。子どもの低学力があるとするなら、大人がその環境をつくっているのだから、「しょうがない」とあきらめるしかない。
 学校の勉強時間が減ると学力が低下するなどというのは、おかしい話だ。だって、インフルエンザや水痘で一週間くらいみんな休んでるジャない。一年に勉強時間が10日分くらい減ったって、大丈夫、よくも悪くもならない。いや、けっこう行事に使ってた時間を教科の学習に回すから、かえって教科の時間が増えたりする可能性もある。授業で座っている時間と、アタマを使っている時間は同じではない。
 今度の「低学力危機」で、子どもたちが、また、「勉強しろ」という圧力に包囲されるのをボクは望まない。それよりも、もうちょっと「勉強はゆかいなもの(もあるはず)」だということを子どもに味わって欲しい。ボクは今こそ、ゆとり教育を!といいたい。
 学力が低下することより、安易な学力向上政策を批判したい。そして「学力」という言葉に依存して、子どもの力をもっと「総合的」?に考えなくなっている現状を問題にすべきだ。

(2002.4.5.)
(岡崎 勝)


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