11月25日
(前生)
〈神〉
昨日は強い言い方をしまって悪かったね。でも私は君に本当に感謝している。
君がどんなに幼稚な質問をしたとしても、
その事により私には、そう言えばそうだったと思い出す事が一杯でてくる。
君にとっては、私は神という立場です。
しかしどっちが偉いという事ではなく、私は神で、君は人間です。
神というと万能に見えるけど、人間である君は、私の持っていない、私の欲しがるすべてを持っている。
目だよ、耳だよ、口だよ、手や足だよ。
肉体というものを持っているから、この地球上で何かを為し得るんだ。
人間と違って、この小さな荷物すら、神というのは、右から左に移動出来ない。
こんなにうらやましい事が出来るのに、まだ何か不満があるのですか?
〈私〉
別にそういう事に不満はなく、はっきり言ってこの地球に人間として生まれてきた事には
なんとなく感謝出来るんですが、私の過去がわからないんで、イライラするんです。
一体今の私は、元は何だったろうと。
〈神〉
君がそう考えてくれたお陰で、私も少しずつ思い出し始めたよ。
すっかり忘れていたというか、記憶を消されていた事を思い出してきた。
そういえば私は君の中に入る前は、確かに別の人の中に入っていたよ。
300年以上も前の事さ。
私は母親の卵子の中に、飛び込んでいったのを思い出した。
だけどその時には、それ以前の記憶は消されたというか、前世の体験という衣を脱ぎ捨てていたので、
体験が白紙となった私、という神の体験も、1からやり直しさ。
赤ちゃんとして見る、聞く、話す、歩く、学ぶ等の体験を通して、私も又、成長していったのを思い出した。
そうだ、私は前世というのを体験していたよ。
そうだ、そうだ。鮮明に記憶が甦ってきたぞ。
君が何故と考えてくれたお陰だ。
ところで神という私の姿を君に伝えるのは難しい。
何しろ私はちっちゃくて、この小さなものを君が見ようとしても、
その視線で変わってしまうものだから、見ようとしても、本当の私は見られない。
まぁ、見ることが出来ない、小さな粒とでもしておこうか。
その粒のまわりに、赤ちゃんから死ぬまでの体験が、一重、二重と重なって皮となっていくんだ。
きれいな言葉でいえば、衣服をまとっていく。
その衣服は、すべて私の人生の体験が作り上げていく。
神である私が、人間の体の中に入って、その人間そのものとして生きて、体験を積み重ねていく。
その体験というのは、嬉しいも悲しいも、希望も絶望も、気持ちいいも痛いも、
感情や心それらのものが、すべて体験だ。
今の君と同じ事だ。
でも君の肉体というものは、神様からの借りものです。
ドロ人形みたいなもので、体験そのものではありません。
体験は、後から出来ていく、見えない世界のひとつです。
さぁ、様々な体験の後、私は借りていた肉体を宇宙にお返しして、体外に脱出した。
お返しした体は数ヶ月の後、いわゆる死亡して最後には土にかえった。
借りた肉体は、君の知っている元素が集まったドロ人形で、
返し終わった肉体は、又、元素に戻っていったというわけだね。
君のいうところの前世という、体(たい)を持った私の人生は終わりを告げた。
でもそれからが大変なんだ。
小さな小さな粒のまわりには、ビッシリ、体験という衣服がまとわりついている。
正確に言えば、硬い皮になっちゃってる。
その皮の芯には、私という粒がいるんだけど、ところが私はその皮から脱出できない。
あんまりにも皮が汚れきっているからさ。
さぁ、ここからが話は大事になる。
私は誰にでもない、私という私に話しかけていくから、君は黙って聞いていてくれ。
何故なら今の私は、以前の私を知らないから。
長い間に、生まれ変わり死に変わり、それを繰り返してきた私が、今の人生しか知らない私に話しかけるんだ。
大神様は、大不調和ゆえに、私という神をつくってくれた。
この‘つくってくれた’という文字に、どの漢字を当てはめたらいいのか、わからない。
そんな小さな意味の‘つくってくれた’ではないのです。
こうして私は大不調和ゆえにつくられた存在ではありますが、
しかし、その存在には責任というものがついてまわります。
元の元である大不調和の陰と陽には、善悪はありませんが、
それを分割していった末の「みたま」にとっては、善と悪は違います。
ここを間違えてはいけません。
分かり易くするために、方便として善と悪を用いましたが、
実は大不調和のゆがみを説明する時には、この二文字以外は使ってはいけません。
(陰)と(陽)
しかしながら、大不調の末端である、私という神と人間には、
殺してはいけない、盗んではいけない、えこひいきはしてはいけない等の規則が、神様から渡されています。
神様が決められた規則ですから、これを今後、「神規」と呼びます。
この神規ゆえに、神も人間も結果的に苦しむ事になるのです。
何故なら、人間は生きて、そして子孫を残さねばなりません。
アダムとイブの楽園の話がありますね。
もし、最初の人間が、何もしなくて生きていけるのであれば、神規に触れる行いはする必要はありません。
しかし、例えば今の君は生き残らなければなりません。
一見、君は誰も殺していない。しかしそれは見せかけなのです。
君の今の生活は恵まれています。
望むものは、過分でなければ何でも手に入ります。
でも、それは世界の貧しさの上に成り立っているのです。
貧しさゆえに、世界の多くの子供達が今でも死んでいっています。
みせかけの人道主義の上に、文明国は成り立っています。
辛い言い方をしますが、間接的に君が生きるという事は、貧しい子供達を殺しているのです。
食べ物と薬さえあれば死なずにすむ子供が一体何人いるのでしょうか。
それを寄付したから、私は良い事をしたなどと、すり替えてはいけません。
君が生き残るという事は、結局そういう事なんです。
みせかけの行為で、すべては許されるというわけではありません。
勿論、ボランティアを良くない事だと言っているわけではありませんよ。
それは人間として素晴らしい事なのです。
でも生き残るという本質には、目をつぶってはなりません。
他人を押しのける、それが人間に課せられた宿命なのです。
人間としての原罪と言えるかも知れません。
前生として生きた300年前の私は、もっと直接的です。
闘いという場において、相手を殺さねば私は生き残れなかったのです。
そして、勝てば官軍、負ければ国賊として、私には食べ物が与えられました。
それ故に、前生での私の一族は途絶えることが無かったのです。
それでも私の前生の生活は苦しかった。
子供に食べ物を与える為に、私は盗みもしたのです。
子孫を残す為に、ありとあらゆる悪さをしました。
それとは別に自分の快楽の為に、他人の女房も盗みました。
人を憎みました。
人をおとしめました。
考えられるすべての悪さをしたのでした。
今改めて思い出しても、恥ずかしい事ばかりです。
それらの事が神としての私のまわりにビッシリと、垢としてこびりついていったのです。
前生の人間としての体から脱出した私は、飛び出してみて、とんでもない事に気付きました。
私自神がその汚れた皮から脱出出来ないのです。
そんな状態に陥った私の焦りを、君はわかってくれるでしょうか。
しかし、結果的には私は救われました。
世乃元之神である他の神様のお陰です。
人間として、他の人間に勝たねばならない。
負けるという事は死ぬという事で、子孫を残せない。
その人間としての根元的なジレンマというものを、他の神様は知っています。
知っている故に神様は、霊界で待っていて下さったのです。
宇宙には、始めは、神様の世界と人間の世界しかありませんでした。
神界と現界と言います。
だが、次々と神であった存在が、その粒の表面に体験という衣服をまとって戻ってくる。
しかもその衣服は、生き残る為のやむを得ない事情と、
その神の快楽の為からしてしまった体験という汚れをつけて、幾重にも身にまとってしまっている。
でも待っていて下さった神様は捨てなかった。見捨てはしなかった。
こんな極悪非道の私のこの衣服の汚れを、とってくれました。
申し訳ない事です。
人間の根元である、生き残る為の最低の事ならまだしも、
私のよこしまな快楽の為だけの汚れすらも、取り除いてくれました。
神様があなたを許すというのは、実はこの世界での事なんです。
人として死に際し、今までの罪をお許し下さい、私は罪深い人間でした
と告白すれば許して下さるというのは、大ウソです。
本当の神様は、人間の中に入っていた神の犯した罪は、そのままでは許しません。
死後の世界で1つ1つ自分のやった事を見せられ、その1つ1つにお詫びをせねばならないのです。
並大抵な事ではありませんでした。
でも他の神様は懸命に働いてくれました。
私はそのお陰で汚れのとれた私の衣服を、やっと脱ぐ事が出来たのです。
私は元の神に戻れました。感謝以外の何ものでもありません。
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