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第五章 悲哀の天使

 アルトレア大陸の北東部に広がる広大な平野の一角にある、魔練器製造会社の研究所の敷地内、武装した兵士が巡回する中、庭の片隅に六人の少女が横一列に腰を下ろしていた。
 暖かな太陽の光を全身で浴びながらも、少女達の瞳は微塵も輝いていなかった。会話を交わしている素振りもなく、焦点の合わない瞳でジッと虚空を見つめている。
「では、実戦に投入するのですか?」
 遠くから少女達のもとへ近づく二つの足音。サクサクと歩を刻み、事務的な男の声が響く。
「ええ、国王ったらせっかちよね。天使がすべて揃うのを待っていられないみたい」
 女の声に続き、二つの影が少女達の視界に立った。赤い髪に赤い瞳。右目を眼帯で隠したスーツ姿の男と、長く艶やかな黒髪に切れ長の紫色の瞳を持つ、妙齢の女。
 隻眼の男、カルネが、大地に腰を下ろす少女達を見つめて目を細めた。感情のない目で自分を見つめる少女達に、カルネも感情無く見つめ返している。
 その隣で黒髪の女、レミネーラは妖艶な笑みを浮かべ、まるでショーウインドウ内のビスクドールを鑑賞するかのように少女達を端から端まで愛でるように見つめた。
「ハルモニカ大陸侵攻のため、この中の四人を前戦に投入。それだけ尻尾振っておけば、国王も上機嫌になるでしょう」
「……どの天使を投入するのですか?」
「そうねぇ。社長の計画を遂行するためには、聖石を多くの血で穢す必要があるわ。丁度いいし、この機会を利用させてもらいましょう。まだ血が足りないのは……」
 グルッと少女達を見渡し、レミネーラは顎に手を添えて目を細めた。そしてクスリと優雅に微笑み、
「アリエス、リブラ、スコーピオン、サジタリウス」
 優しげな口調で呼びかけた。
「はい」
 レミネーラの呼びかけに呼応し、四人の少女が立ち上がる。
「カルネ、私はこの子達を連れて王都に行くわ。すぐに戻るけど、例の件、お願いね」
「わかりました」
 事務的に礼をするカルネ。レミネーラは四人の少女を引き連れ、施設の中へ消えていった。少し遅れてカルネもその場を後にし、庭には三人の少女が取り残された。
 三人の少女は似たような印象の四人の少女が居なくなったにも関わらず、別段変化無く、ジッと虚空を見つめていた。

* * *

 ジッとシェドと対峙するオールバックの大男。セシリーはその男の顔に見覚えがあった。いや、セシリーに限らず、ニーヴルに携わった者なら誰しもその男を知っている。
 ニーヴルが誇る最強の戦闘要員、エインフェリア。その頂点に君臨する四人の戦士、通称“ガンズ”と呼ばれる一角、ミゲル=キルヒューム。組織での二つ名は、“追跡”のミゲル。
 それには言葉通り、相手の残した痕跡などからその所在を追う能力に長けているという意味の他、もう一つ、一度狙った獲物は必ず殺すという執念深さも表している。
 過去にどんな因縁があるのかわからないが、ミゲルの眼中にはシェド以外の何者も映っていなかった。
 そしてミゲルの後方に待機する二人の女。彼女らもセシリーは見覚えがある。
「ミゲル様、指示を」
 女の片割れがミゲルに声を掛ける。
「俺は決闘の邪魔をされるのが一番癇に障る。絶対に俺とシェドの戦いを邪魔させるな」
「御意」
 ミゲルの指示を仰ぎ、別の女が後方の少女に耳打ちする。その後、二人の女がセシリーの前に立ちふさがり、少女がアリアのもとへゆっくりと歩み寄っていった。
「お久しぶりです、セシリーお姉様」
「相変わらずお美しいですね、お姉様」
 セシリーの前に立ち、二人の女が同じ顔、同じ声で、同じ笑顔を浮かべた。
「……ええ、久しぶりね。アンリエッタ、フレイデリカ」
 セシリーの脇で、シルヴァランスが驚いた顔でセシリーを見つめた。
「“双身”のエーギル姉妹。A級のエインフェリアよ」
 アリアとシルヴァランスに、セシリーは敵のことを簡素に伝えた。
「あら。お姉様、実は私達、晴れてS級に昇格しましたの」
「お姉様が組織を抜けた時の階級はA。……姉より先に昇進してしまった妹たちを、お許し下さいね?」
「……そう、それはおめでとう。昇進祝いは何がいいかしら?」
「何か下さるのですか?」
 クスリと笑うアンリエッタ。
「私達の欲しいものはただ一つ。……お姉様の心です」
 フフッと笑うフレイデリカ。
 セシリーは邪魔なコートを一枚脱いで身構えた。体にフィットした黒のノースリーブと、太ももの真ん中辺りまでスリットが入った白いハーフスカート姿。両腕のリスト、両足のアンクレットに埋め込んであるジェムの色で魔力残量を確認する。
「ピスケス、あなたはレオの相手をよろしくね」
 フレイデリカが、セピア色の瞳を虚空に泳がすツインテールの少女に優しい口調で声を掛ける。ピスケスと呼ばれた少女は、コクンと首肯し、スカートの中から一対のグラブを取り出すと、おもむろに両手に装着し始めた。
「……アンリエッタ、その子は、まさか……」
「お察しの通りですわ。そこにいるレオと同じ“心なき天使達”の一人、“憐憫の魚”」
「アリアをそんな風に言うのはやめなさい!」
 セシリーは目を細めてピスケスを見つけた。少女はきっと、コードネーム以外の名前を持ち合わせていない。シェドに出会う前のアリアと同じ、感情のない瞳を携えている。
「セシリーさん……」
「……出来ればあの子と戦いたくないわね」
「はい……」
 シルヴァランスが表情を歪めてピスケスを見つめる。こちらの動揺など関係無しに、ピスケスはグラブを付け終わると、腰を落としてグッと身構えた。
「私が……戦う」
 セシリーとシルヴァランスが戸惑いを隠せずに居る手前、アリアが銃を構えて一歩前に出た。髪飾りの鈴がリンと響き、太陽の光を受けて薔薇の髪飾りがキラッと輝いた。
「アリア?」
「あの子は昔の私。……私が、私が止めてあげなきゃ駄目……」
 アリアの目に浮かぶ同情と使命感。そして、恐怖と哀憐。
「…………。わかったわ、あの子はあなたに任せる」
「うん」
「シルヴァランス、私達はアンリエッタ達をやるわよ!」
「わかりました」
 シルヴァランスが鞘から細身の剣を抜き、戦闘態勢を整える。
 しばし沈黙が続いた後、誰ともなく一斉に両者は飛び出し、戦いが始まった。


「向こうは始まったようだ」
 シェドの手前、ミゲルが楽しそうに呟いた。シェドが横目で覗うと、アリア達がすでに戦闘を開始し、アリアは深緑色の髪をした少女と、セシリーとシルヴァランスが、同じ顔をした二人の女を相手にしている。
「さて、こっちも楽しくやろうじゃねぇか。なあ?」
「……ミゲル!」
 シェドは銃を握る手に力を込めた。目の前に佇む男ミゲルと、シェドは組織にいた頃に何度かやりあったこともある。結局、一度もシェドはミゲルに勝てたことはない。
 だが、それ以上にシェドを駆り立てるものがミゲルにはあった。かつての自分、忘れようと封をした記憶の底に、決して消えないミゲルへの憎悪が燻っている。
「貴様だけは……、貴様だけは許さねぇ!」
「フン……、まだあの女のことを引きずっているのか。……なまじ殺さずにいたせいか、未練がましくこだわりやがって」
「……なん、だとっ!?」
「ちゃんと息の根を止めてやっていれば、忘れることも出来たか? チッ、俺としたことが……」
 ミゲルが口惜しそうに拳を強く握る。その様子を見て、シェドは全身を走るどす黒い感情を抑えることができない。
「あの女のせいで貴様は腑抜けになり、組織を抜けた。……俺はあの女が憎くて仕方ない。いずれ必ず、この手でなぶり殺してやる!」
「黙れっ! 貴様に二度もあいつを殺させるわけにいくかっ! 貴様はこの場で、俺がぶっ倒す!」
「いい目だ……! その殺気に満ちた目。……俺を、俺を楽しませろっ!」
「ミゲルッ!」
「来いっ! シェドッ!」
 シェドは右手に握る白銀銃に意識を注ぎ、銃口付近の穴に埋め込んだジェムを朱色に輝かす。体内の魔力がジェムへ注がれる感覚を実感し、大地を蹴って一直線にミゲル目掛け距離を詰める。
 シェドの手前、ミゲルがおもむろに腰から無骨な二本の剣を抜いた。一見するとただの棒きれにしか見えない剣の柄同士をつなぎ合わせ、一本の長い双頭剣を成す。それぞれの柄の部分にはダイヤモンドのようなジェムが埋め込まれており、ミゲルはそれらのジェムを純白に輝かせた。
「ぬおおおっ!」
 ミゲルの握る双頭の剣が空を踊る。ジェムの魔力で光に包まれた刀身は虚空に光の軌跡を描き、目映い閃光がシェドの視界に広がった。シェドが知る限り、ミゲルの使う“光天双剣”の切れ味を超える威力を有するのはシェドの魔剣のみ。光の粒子を刃の表面で超振動させ、凄まじい威力を誇るそれに一般の武器では対処できない。もちろん、人体など触れた瞬間に蒸発する。
 シェドは迫り来る光天双剣を半身でかわし、銃口をミゲルに向ける。シルヴァランスなどが使う剣と違い、双頭剣を扱うミゲルの攻撃は、一回の攻撃で二度、剣が襲ってくる。止まっている隙など、与えられない。
「はああっ!」
 白銀銃が咆え、紅蓮の業火に包まれた銃弾がミゲルに迫る。銃弾はミゲルの光天双剣と激突し、激しい閃光と凄まじい衝撃を生んだ。
「はははっ! 懐かしいな、貴様の魔弾! そう、これだ! 俺が求めていた力と力のぶつかり合いはっ!」
「なら、思う存分その体に撃ち込んでやるぜ! あいつが受けた苦しみ、貴様にも味合わせてやる!」
 シェドは、眩い光を放つミゲルの光天双剣を恐れることなく無謀とも見える接近戦を繰り返す。明らかに今の間合いが銃より剣に分があることは承知していた。しかし、それでもミゲルに対する憎悪が、距離を開けることを許さない。
 豪雨のごとく次々と襲いかかる光天双剣。ブォンと重低音を漏らしながら空間を裂く剣を紙一重でかわし続け、シェドは一瞬の間をついて魔弾を撃つ。その度にミゲルが魔弾を剣で弾き、衝撃波が大地を駆けめぐる。
「うおおおおっ!」
 シェドが放つ魔弾はことごとく弾かれるが、シェドは決して怯んだりしない。ジェムが徐々に鮮やかな朱色からサーモンピンクのように色褪せていき、魔力が低下していくが、予備ならいくらでもある。
 ミゲルが魔弾を裂き、再度シェド目掛けて光天双剣で襲いかかった。シェドは初撃を避け、二撃が襲いかかる寸前、ミゲルが半身になっている隙に魔弾を――
「――っ!?」
 銃口を身構える直前、ミゲルの剣先はすでにシェドのすぐ目の前まで迫っていた。とっさに攻撃態勢から回避行動に移行したものの、完全には避けきれず、紺色の上着の袖口がジュッという音と共に焼き消えた。
 ミゲルは柄の結合を解き、両手に一本ずつ光り輝く光天剣を握り、不敵な笑みを浮かべていた。
「ぐっ! ……そうだったな」
 ミゲルの剣の厄介な所はそこにあり、結合と解除にかかる間が殆どないということだ。初撃の後、すぐさま解除を行うことで間髪入れずに二撃目を繰り出すことができる。そこには一瞬の隙もない。ミゲルのしなやかで無駄のない筋肉がそれを可能とし、並大抵のことではそれを防ぐ術はない。しかし、解除後の二撃の後には少なからず隙が生じるため、それを見抜くことができれば、勝機がないわけではない。
「くはははっ! どうした、動きが鈍いぜっ! あの頃の貴様はこんな攻撃、あっさりかわせただろう!」
「……そうだな」
 シェドは焼き焦げた衣服の一部を一瞥し、ギリッと奥歯を噛みしめた。わかってはいたことだが、やはりミゲルの強さは今まで対峙してきた他のエインフェリアの比ではない。その事をもう一度、深く心に刻み、全身の神経を研ぎ澄ませる。
「はああああっ!」
 一瞬の静止を挟み、シェドは迷うことなくミゲルへ迫る。ミゲルは依然余裕の笑みでシェドを見つめ、再び二つの剣を結合し、光天双剣と成してシェド目掛けて襲いかかる。
 紅蓮と閃光。激しい衝撃の連続。二人の周囲だけ、大気が振動し、大地が呻いていた。


 一度大きく衝突した後、シルヴァランスとセシリーは敵から距離をおいた。相手の武器は共に短刀。刀を持つ手とは反対の手に、ジェムらしき石が埋め込んである手っ甲を装備している。埋め込まれている石は、鮮やかな朱色をしていた。
 シルヴァランスがそっとセシリーの顔色を窺うと、あまり穏やかとは言えない表情を浮かべていた。目の前にいる双子の女もさることながら、少し離れた場所で戦っているアリアとピスケスと呼ばれた少女のことが気がかりなのだろう。
 アリアはピスケスと一対一で対峙し、アリアは両手に銃を、ピスケスはグラブを付けた拳を奮わせていた。ピスケスは、少女のそれとは思えない身体能力で執拗にアリアへ攻撃を仕掛けている。
「お姉様……。いつからお姉様はそんなにも冷たいお方になってしまったのですか?」
「え?」
 ふと、シルヴァランスとセシリーの前に立つ双子の片割れ、セシリーがアンリエッタと呼んだ方が冷たい笑みを浮かべてセシリーを見つめた。そして何故か時折、針のような視線でシルヴァランスを射抜く。
「……レン」
「――っ!」
 ボソリと呟くフレイデリカ。シルヴァランスには聞き覚えのない名前だが、その名を聞いた瞬間、ピクッとセシリーの肩が震えた。
「私達双子が本当の弟のように可愛がっていたあの子を、お姉様はお見捨てになったのでしょう?」
「あの子は全身の神経や腱を損傷し、今も寝たきりの生活を強いられているのですよ? 天使との戦いで受けたショックで言葉を忘れ、ただ生きているだけの状態で」
「あの子はあんなに苦しんでいるのに、お姉様は……」
 瞬間、アンリエッタとフレイデリカが鋭い視線でシルヴァランスを見据えた。全身の総毛が逆立ち、殺気に充ち満ちた萌葱色の二対の双眸がシルヴァランスの体を硬直させる。
「そこにいる男と一緒に、さぞ楽しい日々をお過ごしになってきたのでしょうね」
「…………」
 全身で感じる凄まじい殺気に押し負けないよう、シルヴァランスはグッと剣を握る手に力を込めた。側面から、表情を確認せずともセシリーの動揺が空気に乗って伝わってくる。
「帰りましょう、お姉様。レンも、きっと許してくれますわ」
「……私は組織を離れてから、少しはレンのことも気に掛けていたつもりよ。あいつは性格がねじ曲がっていたから、正直あなた達ほどの思い入れはなかった。それでも、組織に連れ込まれたせいであんな風になってしまったのかと考えたら、憐れで、可哀想だと思ったわ。だから今、あの子が生きてると知って、少なからず安心してる」
「……組織に連れ込まれた? 何を言ってるんです、あの子は選ばれたんですよ?」
 フレイデリカの言葉にセシリーは首を左右に振った。シルヴァランスはセシリーの痛々しい表情を見て、思わず下唇を噛む。
「それにシェミニールも、きっとお姉様の帰りをお待ちしてますわ」
「……わかってる。わかってるわ。……でも、それでも、私はもう組織に戻らない」
「どうしてです! 何故あんなに大切にお思いしていた妹を捨ててまでそんな男らと一緒に行動なされるのですか? お姉様が帰って来られないと、誰がシェミニールの側に居るというのです?」
「……いつか、心の整理を着けてから、あの子のお墓にはちゃんと行くつもりよ。でも今は、まだその時じゃないわ」
 アンリエッタとフレイデリカが口をつぐむ。セシリーの頑なな意志がテコでも動かないと知ったのか、口惜しそうに少し表情を歪めた。しかし次の瞬間、その寂しさを一部含んでいた表情を一変させ、先ほど以上に殺気の籠もった視線をシルヴァランスに向けた。
「その男がお姉様をたぶらかしたのね……。許さない……、許さないっ!」
「殺すっ!」
 アンリエッタとフレイデリカが同時に大地を蹴り、一直線にシルヴァランス目掛けて迫ってくる。シルヴァランスは刀身の付け根に埋め込まれたエメラルドグリーンのウインドジェムに魔力を注ぎ、刀身を仄かなグリーンで包み込んだ。
「セシリーさん!」
 シルヴァランスはとっさに声を張り上げた。アンリエッタ達が話していた内容がセシリーの心をどのように揺さぶったかはわからない。だから、動揺して呆然としているのではないかと心配だった。
 だがそんなシルヴァランスの心配をかき消すよう、シルヴァランスの脇で目映い閃光が迸る。セシリーの両腕両足に装着されたリング。それに埋め込まれたサンダージェムの輝きだ。
「お姉さんの心配をしている暇があるのかしら? 行くわよっ!」
 セシリーはシルヴァランスより先に攻撃を仕掛けた。姉と慕った相手が迷い無く攻撃してきたせいか、一瞬双子の反応が遅れる。セシリーの長くてしなやかな足から繰り出される雷撃を纏った一撃を両手で受け、アンリエッタが苦悶の表情を浮かべた。
 シルヴァランスはすかさず飛び出し、剣を振りかぶってフレイデリカに斬りかかった。爆風を巻き起こしながら、シルヴァランスの握る烈風の剣が虚空を引き裂く。
「はああっ!」
「ちっ! ……この程度の攻撃でっ!」
 シルヴァランスの剣を小刀の柄で受け止め、荒れ狂う風にも負けずフレイデリカがシルヴァランスを睨め付ける。金属音が響き、シルヴァランスの剣を受け流したフレイデリカが、手っ甲に埋め込まれたジェムを輝かせ、続いて猛々しい炎が舞い上がった。
「たああっ! 燃え尽きろっ!」
「なっ! ――ぐっ!?」
 炎を纏った正拳突きが正面からシルヴァランスを穿つ。剣の腹でガードしたものの、激しい炎の威力がフレイデリカの拳からシルヴァランスの身に飛び火し、シルヴァランスの身を包む純白のローブの一部を燃やす。焼き焦げて黒ずんだ衣服に視線を落とし、シルヴァランスは歯を食いしばった。
「団扇で扇ぐ程度の風しか操れない貴様など、私の敵ではない! セシリーお姉様をたぶらかした狼藉者、私がこの手で始末してくれる!」
 右手に小刀、左手に燃えさかる手っ甲を武器に、フレイデリカがシルヴァランスに襲いかかる。あの炎は手っ甲をガードしたところで容赦なく相手の身を焼き尽くす威力を有しているため、ただ受け止めるだけでは防御不能だ。
「セシリーさんをたぶらかした……、ね。僕にそんなことできるわけないのに」
 緊迫した戦闘であるというのに、シルヴァランスの顔に微かな笑みが浮かんだ。それがどうしてなのか、シルヴァランス自身よくわからない。
「……団扇で扇ぐ程度の風しか操れないかどうか、あなた自身の目で確かめて下さい!」
 シルヴァランスは左手の人差し指にはめた指輪に意識を注ぐ。指輪にはめ込まれたもう一つのウインドジェムが輝き、その光が淡いグリーンのオーラとなってシルヴァランスの全身を包み込んでいく。
「はああああっ! アクセラレータッ!」
「――なっ!」
 全身を覆う風の膜。空気抵抗を極限まで減らし、さらにシルヴァランスの素早さを風の力で援護する。素早さが倍加しても、感覚自体は元のままであるため、アクセラレータを使っている時は全神経を研ぎ澄まさなくては制御できない。
 シルヴァランスのスピードは音速に肉薄し、瞬く間にフレイデリカの背後をとった。シルヴァランスは剣を振り上げ、一直線にフレイデリカ目掛けて斬りつけた。
「あああっ!」
 悲痛な叫び。だが、シルヴァランスの手に伝わった感触は、肉を斬るそれではなく、何か固い金属に斬りかかった感覚だった。
「……っ! 鎖帷子ですか……」
 表面の黒っぽい衣類が裂け、その下に鉛色の光沢のあるベストがシルヴァランスの瞳に映った。シルヴァランスの剣は決して切れ味が悪い物ではないが、どうしても軽量化重視で刀身が細く、威力は弱い。鋼鉄の鎧と勝負したら、確実に剣の方が先に折れる。
「ぐっ、やるな……。だが、何度も同じ手は食わん!」
 フレイデリカが鬼のような形相でシルヴァランスを見据える。シルヴァランスは一旦間合いをとり、剣を身構え直した。
 アクセラレータは極限まで精神を研ぎ澄ますため、何度も不用意に使える技ではない。今の一撃で仕留めたかったのが本音だが、そうそううまくはいかなかった。
 シルヴァランスはこめかみに流れる一滴の汗を感じつつ、剣を握る手にもう一度力を込め直した。


 茶色い皮のグラブで両拳を包み、凍り付いているかのようにピクリとも表情を変化させず、ピスケスというコードネームを持つ少女がアリア目掛けて拳を投げつけてくる。
 あのセピア色の瞳に、果たしてアリアはどのように映っているのだろうか。いや、アリアだけでなく、自分以外の他人が、あの瞳にはどう映っているのだろうか。
「……くぅっ!」
 避けきれない攻撃を、アリアは両手をクロスしてガードする。小柄な体に似合わず、ピスケスが繰り出す拳撃は鋭く、重い。
「あなたも、無理矢理組織に連れて行かれたの?」
「…………」
 アリアの問いにピスケスは微塵も反応示さない。両手両足を使って目にも止まらない連続攻撃を続け、アリアに銃の照準を合わせる隙を与えない。最大の武器である素早さも、ピスケス相手ではさほどの威力を発揮しない。
 しかし、もしピスケスが隙を与えてくれたとしても、迷いなくトリガを引くことができるだろうか。かつての自分。凍てついた表情に鉛の心。そうなりたいと願ったわけでもない少女に、銃弾を撃ち込むことができるだろうか。
「――っ!」
 ハッとした時、ピスケスの踵がアリアの頭上より急降下してきた。アリアは左の銃で攻撃を受け止め、右の銃口をピスケスに向ける。
 しかしアリアが一瞬躊躇した間にピスケスの姿は銃口より沈み、深く腰を落としたピスケスが足払いをかけてアリアの体勢を崩す。
 仰向けになったアリア目掛けて迫る拳を左に避けると、ピスケスの拳が大地を抉った。直ぐさまアリアは跳ね起き、回し蹴りを繰り出しながら反動で間合いを開ける。
「はぁっ、はあ……」
「……オマエ」
 間髪入れず攻撃を仕掛けてくると警戒し、アリアが身構えていると、ピスケスがおもむろに小さな口を開いた。そこから響いてくるのは少女の高い声音。だがそこに、少女らしい感情が一抹も含まれていない。
「何故イエに戻らない? オマエは私と同じ存在。私達はイエに帰らなければいけない」
 そう言いながらピスケスは小首を傾げた。表情から何を考えているかは読み取れなくとも、その行動が示す意味をアリアは何となく感じ取れた。
 何故、帰ってこないのか。ピスケスは組織を家だと思っている。ピスケスにとって不思議なのは、何故アリアが組織を抜け出したのかではなく、何故アリアが組織へ帰ってこないかなのだ。帰ることが当然。そう命令されているのだから、アリアが何故帰らないのかが疑問なのだろう。
「あそこは私の家じゃない。あそこに私の家族はいない」
「カゾク? カゾクの所に帰れなどという命令は受けていない」
 ピスケスは小首を傾げたまま大地を蹴り、再びアリアに攻撃を仕掛ける。アリアは銃身でガードし、近い距離でジッとピスケスの瞳を凝視した。
 感情のない瞳。それはいつも鏡で見る、自分の瞳によく似ている。でも、似ているかもしれないけど、アリアの瞳はピスケスのそれと決定的に異なっている。
 アリアには感情があるから。感情を思い出させてくれた人が、側にいるから。
「……あなたにも、誰か居てくれたら……」
 小さくアリアはつぶやいた。
 感情を失いかけていた組織での生活。消えゆく感情の光をつなぎ止めたのは両親に会いたいと願う切実な想い。それは簡単に千切れてしまいそうなくらい、儚く脆い想いだった。追っ手とはいえ、人に銃口を向ける度、アリアの心から感情の欠片がこぼれ落ちていった。
 でもそれは最後まで潰えたりはしなかった。組織を抜け出した後に出会った、シェドのお陰で。シェドがずっと側に居てくれたから、アリアは感情を完全に失なわずにすんだ。
 アリアはピスケスを弾き、さらに銃を握ったままの手でその肩口を殴りつけた。ピスケスは上半身を仰け反るようにしてダメージを和らげ、止まらず蹴撃で反撃してくる。
「――っ!」
 ピスケスの蹴りを肘で左に逸らし、アリアは右手の銃をすかさず構え、そして引き金を引いた。
 乾いた銃声に続き、ピスケスの左肩から鮮血が噴き出す。ピスケスは一瞬肩口から噴き出した血を見つめたが、別段気にする様子もなくアリアへの攻撃の手を休めない。
 引き金は引けた。迷いはまだ消えていないけど、それでもアリアは引き金を引かなければならない。シェドが居てくれたアリアと違い、ピスケスの側には誰もいない。だから、誰かが気付かせてあげなくてはならない。誰かが思い出させてあげなくてはいけない。
 感情という、かけがえのない大切な色を。胸がほうってなるような優しい思いや、ギュッとなるような悲しい思いを。まだまだ知るべき感情があると教え、それを探していけるように誰かが背中を押してあげなければならない。
「私は組織に戻らない。そして、あなたももう、あそこへ戻ってはダメ!」
「……私の任務はオマエをイエに連れ帰ること。それだけ」
 今のままではいくら言葉を投げかけてもピスケスの心には届かない。だから、止めるしかない。
 アリアは銃を握る手に力を込める。キッとピスケスを見据え、初めて自分から攻撃を仕掛ける。
 肩口をやられたとはいえ、全く怯まず機械人形のように精確な攻撃を繰り返すピスケス。アリアは左の銃をガード専用にし、ピスケスの攻撃を受け止めながら右の銃から銃弾を撃ち出す。
 鈍い打撃音。乾いた銃声。小さな二つの影が幾度も衝突し、衝撃が周囲に広がる。その空間には掛け声や悲鳴といったものはなく、無機質な音だけが響いていた。


 激戦の繰り広げられる場所から少し離れた教会先、ライオットとスザンナ、ミュールがシェド達の戦いを驚愕の表情で見つめていた。
「な、何なんだ……。シェドさん達は一体、何者と……」
「あ……。ああ……」
「……ミュール?」
 スザンナの隣で、ミュールはシェド達の戦いを見つめて表情を歪めている。そこには驚き以上に、恐怖の色が浮かんでいた。
 ミュールの視線の先では、ミュールと大して年の変わらぬ二人の少女が激しいぶつかり合いを続けている。剣技の覚えのあるライオットや修練を積んでいるスザンナですら、目で追うのがやっとなくらい凄まじいスピードで戦う二人の少女。
「スー、ミントさんは?」
「武器を取りにリオの家まで行くって言ってたけど……」
 でも私達が手を出せる様子じゃないわ、とスザンナが小さく呟いた。
 今日新たな門出を迎えたライオットとスザンナを祝福するかのように穏やかで暖かな光で大地を照らしていた太陽は、いつの間にか灰色の厚い雲に覆われて見えなくなり、まるでこの後起こる不吉な出来事を予感させるように世界は暗闇に包まれていた。
 シトシトと雨が降り始め、三人の体温を奪っていく。
 三人が不安そうに見守る中、繰り広げられる戦いは更に激しさを増していった。


「お姉様っ! 目を醒まして下さい!」
 小刀を機敏に走らせ、氷の拳で殴りかかるアンリエッタの攻撃をセシリーは真っ向から受け止める。アンリエッタの手っ甲に埋め込まれたアイスジェムとセシリーの腕輪に埋め込まれたサンダージェムが共に輝きを放ち、冷気と雷がぶつかり合う。
「あら、別に寝ているわけじゃないわよ?」
「……ふざけないで下さいっ!」
 アンリエッタの小刀がセシリーの右腕に巻き付いた腕輪とぶつかり、周囲に甲高い金属音が響いた。そして正面から迫る氷の拳をセシリーは雷光で包んだ左手で受け止める。
「ふざけてなんかいないわ。シェミニールが死んだ時から、私はもう組織に居る理由がなかったのだもの。こうして組織を離れて生きている今、私は自分の生を満喫しているわ」
「シェミニールの事はもう過去ですか? 過ぎたことはもう、お姉様の心に何のしこりも残さず消え去ってしまったのですか?」
「そんなことはないわ。けれど、過去に捕らわれて今を見られなかった頃と違って、今は今という時を大切にしている。それだけよ」
 もし全く後悔してないというのであれば、ラーミアの遺跡でアリアに自分の過去を話したりしなかった。あれは仲間であるアリアに過去を晒すという以外、自分自身にまだ後悔の念が消えていないことを確認させるためでもあった。
「もう一度だけ言うわ。私はニーヴルに戻らない」
「そうですかっ!」
 雷光が煌めき、衝撃が広がった。アンリエッタが後方に宙返りしながら間合いを開け、俯き加減に少し顎を引き、キッとセシリーを睨み付ける。
「……あなたはお姉様じゃない。あなたはもう、私達姉妹が愛した、シェミニールの姉ではないわっ!」
「…………」
 アンリエッタが吐き捨てるように叫び、手っ甲に埋め込まれたジェムを一層輝かせた。目にも止まらぬ早さでセシリーに迫り、小刀をセシリーの喉元に突き立てる。
 セシリーは右手で小刀を流し、腰を沈めてアンリエッタの懐目掛けて左足を叩き込む。アンクレットに埋め込まれたジェムが輝き、蹴撃と同時に雷撃が迸る。
「私はもうA級止まりのあなたとは違うわっ!」
「――っ!」
 アンリエッタがガシッと手っ甲を付けた右手でセシリーの足を受け止め、凄まじい冷気が直接セシリーの肌を侵す。雷光で威力は半減しているにも関わらず、長く触れられていては凍傷を起こしてしまう。
 セシリーは右足で大地を蹴り、宙に舞いながら体を捻った。体のバネを使ってアンリエッタの手から自身の足を振りほどき、アンリエッタの肩口を蹴りつけながら飛翔して上空から雷撃を迸らせる。
「なっ! ――くぅぅぅっ!」
 激しい雷撃の直撃を受け、アンリエッタの表情が苦悶に歪んだ。セシリーは大地に降り立つとすかさず身を翻し、アンリエッタの脇腹に回し蹴りを叩き込んだ。
「ぐはっ!」
 アンリエッタの体は大地を滑り、左後方へ吹き飛んだ。セシリーはさらに両腕の腕輪を煌めかせ、極光を投げつける。
 アンリエッタが小刀を握ったままの左手を大地につき、右手で青白い障壁を生み出して雷撃を防ぐ。閃光と轟音が連続し、衝撃となって周囲へ散っていった。
「はあっ……、はあっ……」
「……さ、流石ですね……」
 肩で息をつくセシリーを見つめながら、アンリエッタが苦しそうながらも微かな笑みを浮かべた。先ほどより降り出した雨が両者の肌を濡らし、セシリーのポニーテールがぐったりと水分を含んで垂れさがり、蒼髪がしっとりと首筋に張り付いてくる。
「堕落した生活を続けていても、勘は衰えていないようですね」
「あら、組織にいた頃より今の方が大変よ? 実際、組織の人間とこうして戦う羽目になるわけだし」
「なるほど。それもそうですね……」
 徐々に雨脚が強まり、遠く雷鳴が木霊し始めた。アンリエッタがゆらっと体勢を整え、再び小刀と手っ甲を身構える。
「……覚えていらっしゃいますか? 私達姉妹の二つ名」
「“双身”でしょう? あなた達姉妹は、二人で一つのコードネームを持っていたわね」
「そうです……」
 瞬間、アンリエッタの表情に不敵な笑みが浮かんだ。セシリーが悪寒を覚えた瞬間、アンリエッタの向こうよりシルヴァランスの声が響いた。
「セシリーさんっ! 危ないっ!」
「え……?」
 アンリエッタが大地を蹴る。凄まじいスピードで一直線にセシリー目掛けて迫るアンリエッタに、セシリーは反射的に真っ向から受ける構えをとる。
「はあああっ!」
 ジェムを煌めかせ、両腕両足が眩い光を放つ。そして迫るアンリエッタ目掛け、セシリーは飛び出した。だが刹那、アンリエッタの体が分裂した。
「――っ!?」
 目の錯覚。光のジェムで虚像を見せられたのかと一瞬困惑したが、再度アンリエッタの二つ名を思い起こす。分裂したのではない。アンリエッタのすぐ後方には、寸分違わぬ動きでフレイデリカが張り付いていたのだ。
 鏡に映ったように同じ顔の二人が両面からセシリーに襲いかかる。異なっているのは利き手とジェムの種類。ハッとした瞬間には、炎の拳と氷の拳が正面よりセシリーに襲いかかっていた。
「あああっ!」
 とっさに雷光障壁でガードしたものの、殆ど威力を抑えることができずセシリーはエーギル姉妹の氷炎拳の直撃を受けた。灼熱の炎と絶対零度の冷気。両極の凄まじいエネルギーが、セシリーの身に襲いかかる。
「セシリーさあああんっ!」
「……シル、ヴァランス……?」
 気が付いた時、シルヴァランスの声がすぐ耳元で響いた。ゆっくり瞳を開くと、いつの間にかシルヴァランスの苦痛に歪んだ顔が目の前にあり、セシリーを襲った氷と炎の衝撃が消えていた。
 困惑する思考を律し、セシリーは必死に今の状況を整理した。アンリエッタ達の二つ名を失念していたため、無防備に受けた二人の氷炎拳。その時はまだ遠く響いていたシルヴァランスの声が、今はもうすぐ目の前にある。これは、アクセラレータに違いない。
「シルヴァランス……、あ、あなたまさか……」
「す、すいません。ちょっと油断した隙に……」
 シルヴァランスが苦しそうな表情で呟く。よく見れば、シルヴァランスの身を包む純白のローブがボロボロの塵と化し、さらにシルヴァランスの背中には大きな火傷のような黒い傷が張り付いていた。
 ようやく事態が理解できた。シルヴァランスの不意をついてフレイデリカがアンリエッタと連携してセシリーに襲いかかり、その直撃を受ける瞬間、シルヴァランスがアクセラレータを使ってセシリーと氷炎の間に割り込んで身代わりとなってくれた。
 ほんの数ミリ秒間だけ直撃を受けていただけなのにセシリーの頬や腕には熱と冷気によ重度の火傷を負っていた。そんな凄まじいエネルギーをすべて受け止めたシルヴァランスの体は――
「ぐ……うぅ……。かはっ……」
「シルヴァランスッ!」
 シルヴァランスの身が大地に倒れ伏せた。力なく、脚が自身の体を支えきれずに人形のように倒れた。
「……すい、ません。ま、まさか、こちらに背を向けてセシリーさんを攻撃に行くなんて、よ、予想もしてません、でした、から……」
「あなた……。馬鹿ね! 私の身を庇う余裕があったのならその間に攻撃しなさいよ!」
 アンリエッタ達の双身の攻撃は一対一でしか使えない技。発動中は一切の防御を投げ捨てている。シルヴァランスのアクセラレータを使えば、その間にどちらか片方くらい致命傷を与えられたはずだ。
「あ……。そ、そうですね……、ははは……。でも、セシリーさんが危ないと思ったら、勝手に体が動いてしまったもので……」
 弱々しい笑みを浮かべながら、消え入るような声でシルヴァランスが言った。深刻な表情を浮かべないのは、致命傷ではないからか、それとも強がっているだけなのか。
「……くっ、くぅぅぅっ!」
 シルヴァランスが剣を大地に突き立てて体を持ち起こそうとする。ガクガクと足が震えており、片目も力なく閉ざされていた。
「あら、私達の氷炎拳を受けて生きているなんて、ヤワそうな顔して結構タフじゃない」
「お姉様の雷光障壁と、その男のウインドジェムを使った障壁でかなり威力が削がれたようね」
 アンリエッタとフレイデリカが悦に入ったような笑みで満身創痍のシルヴァランスを見つめる。シルヴァランスは必死に体勢を整えようと、奥歯を噛みしめていた。
 シルヴァランスは自分がフレイデリカの行動が予測できなかったせいだと、すべての過失を自分で背負っている。しかし、セシリーとてエーギル姉妹の二つ名は知っていた。今の攻撃を予測することは、十分可能だった。
「…………。シルヴァランス、あなたは少し休んでなさい」
「え……?」
 セシリーは一歩前へ踏み出した。予想できた攻撃を避けきれず、結果として庇ったシルヴァランスが大打撃を受けたのはセシリーのせいでもある。
「だ、大丈夫です! まだ……、まだ戦えます! ぐっ!」
 強がりながらも、ガクッとシルヴァランスの膝が大地へ落ちる。
「お姉さん、あなたのこと少し見直したわ」
「こんな時に、変なこと言わないで下さいよ」
「ふふ、大丈夫。大丈夫だから、あなたは少し休んでなさい。……お姉さんの言うことは聞くものよ?」
 これ以上シルヴァランスを戦わせるわけにはいかない。シルヴァランスは無茶をしてまで戦ったのだ。セシリーとて、まだ可能な手はある。
 セシリーは数歩前へ歩き、そして天を仰いだ。真っ黒な雲が天を覆い、大粒の雨が容赦なく降り注いでくる。そして雲間で煌めく閃光。
 何でこんな悲しい天気が自分の能力を活かせる天気なのだろう。セシリーは自嘲気味に笑ってから、キッと鋭い視線を姉妹に向けた。
「オーバーライドッ!」
 一筋の雷光が天よりセシリーの身に落ちる。目映い閃光と共に爆音が響き、大気がビリビリと振動する。
「な……、そ、それは……」
「お姉様、一体何を……」
 セシリーの体はバチバチと唸る眩しい雷光に包まれていた。髪留めの紐が切れ、毛先が広がってパリパリと静電気を生じながら光の中で長い髪が揺らめく。
「私は確かにA級エインフェリアだったわ。……けれど、雷雲の下なら、私はS級の力を発揮できる」
 オーバーライドは自然の雷エネルギーをジェムの魔力に上乗せする技。だがそれは自身の体が許容できるエネルギーを超えているため、反動でダメージを負う可能性がある自爆技。
「セシリーさん……、その技は、まさか……」
「ええ。長く使えば私の体がボロボロになってしまうわね」
「そんなっ!」
 大地に片膝をついたままシルヴァランスが声を張り上げる。本当に、シルヴァランスは他人の事ばかり心配する甘い人間だ。シルヴァランスがアリアを守りたいと言って自分たちの旅に加わった理由。それは本当に純粋で真っ直ぐなものなのだろう。
「大丈夫。お姉さんを信じなさい! 伊達にあなたより長生きしてないわっ!」
 セシリーはクルッと振り返ってシルヴァランスを見つめ、にこっと笑いかけた。そして直ぐさま前を向き直し、身構える。
 激しい雨の中、轟く閃光。自然がセシリーの背中を後押ししてくれる。アリアに本当の笑顔が戻るその時まで、セシリーは負けられない。
「はあああああっ!」
 咆吼に続き、セシリーは大地を蹴った。


 息つく間も与えないほど、ピスケスの攻撃は無駄なく容赦なく連続していた。アリアは必死に銃身で攻撃を受け止め、反撃を試みるがまるでアリアの動きを読んでいるかのようにピスケスの体が銃口の先から消える。
「くぅっ!」
 ピスケスの攻撃は重く、直撃せずともアリアの華奢な体に鈍痛が走る。すでにガードを繰り返した腕や太ももには無数の痣が出来ている。
 無言のまま無慈悲に拳を振り回すピスケスを、アリアはジッと睨め付けながら、決して背中を見せたりしない。同じ境遇の子を何としても救い出したい一心で、銃を握る手に力を込める。
「……オマエ、悪い子。イエに帰らない子は、お仕置きされる」
「違う。あそこは家なんかじゃない! あそこに帰っちゃダメ!」
 アリアの叫びはピスケスに届かない。ピスケスは凍てついた表情のまま、微かに瞳を細めた。
 ピスケスの拳が雨粒を打ち消しながらアリアに迫る。アリアが反射的に銃でガードしようとした時――
「っ!? きゃうぅっ!」
 突如ピスケスの拳が歪んだ。いや、歪んだのではない。刹那の感覚でタイミングをずらしたのだ。何度も同じ攻撃を繰り返し、アリアの頭の中でピスケスの攻撃が一つのパターン化されようとしていた頃合い、ピスケスはそれを逆手にとった。
 ミリ単位でずれたピスケスの正拳突きがアリアの腹部に直撃し、アリアは後方へ吹き飛ばされた。すでに水たまりがあちこちに浮かびはじめた大地を滑り、シェドに作ってもらった赤と白の生地でできたドレスのスカートが泥で変色する。
「くうっ……」
 たった一撃の攻撃ではあるが、まるで体の芯を抉られるような攻撃にアリアは吐き気を覚えた。だが気力で持ち直し、体を起こして左手で腹部をさする。
 今のが計算通りの攻撃なのかわからない。だがアリアは直感した。戦闘能力においてはピスケスの方がアリアより上だ。
 ピスケスはアリアの捕獲が任務だと言った。だから、決して急所に攻撃は仕掛けてこないだろう。しかしそれはアリアにも言えることだった。ピスケスを救いたいと考えている以上、アリアとて急所目掛けて銃口を構えることは出来ない。
 同じ条件下で戦う以上、要求されるのは単純な戦闘力。それはピスケスに分がある。
「……でも、負けられない……。負けちゃ……ダメ……」
 アリアは唇を噛みしめ、水分を含んで重くなったドレスを引きずりながら駆け出す。両手の銃のマガジンを確認し、アリアは跳躍した。ピスケスが真っ向から迫ってくる。
 アリアは両手の銃のトリガーを引く。銃口はピスケスの頭部よりも高い位置を向いており、飛び出した銃弾が虚空に十字を描く。
「あああっ!」
 ピスケスの悲鳴。アリアの放った二つの銃弾がピスケスの上空でぶつかり合い、一つが天へ、もう一つがピスケスの肩へ垂直落下したからだ。すでに血が滲んでいた左肩に加え、ピスケスの右肩から鮮血が噴き出す。
「…………」
 ピスケスが自身の肩を一瞥する。だが悲鳴を上げた瞬間歪んだ表情は、すでに凍てついた表情に戻っていた。あれが“心なき天使達”。かつてのアリアの姿。
「お願い。もうやめて。私もあなたも、もうあそこに居てはダメ……」
「私の任務はオマエを連れ帰ること。オマエの言葉を聞けとは言われていない」
 右腕をブランと垂らしたままピスケスがアリアに迫る。とっさにガードしようとしたアリアの手前でピスケスの体が失速し、拳ではなく、今度は蹴撃がアリアに襲いかかる。
「くぅっ!」
 頭上で両手をクロスさせ、振り下ろされる踵をガシッと防ぐ。瞬間、無防備になったアリアの懐目掛け――
「……あ……」
 乾いた銃声。しかしアリアの手に握られた銃が火を吹いたわけではなかった。白い硝煙が上るのは、ピスケスの手に握られた黒い物体。何時の間に持っていたのか、その手に握られたそれは、自動小銃。
 ドレスの胴部に小さな穴が空いている。そこから徐々に、白い生地が朱色に染まっていく。ミルクの中央に苺ジャムを垂らしたように、鮮やかな赤がみるみる広がっていった。
「急所は外した。任務に違反していない」
 ピスケスの声が遠く響く。アリアはそっと胴部に左手を当てた。ズキッと内部まで響く痛みを覚え、手のひらを持ち上げる。手にはべっとり、アリアの赤い血が付着していた。
 膝が折れ、水たまりの水をバシャッと吐き出しながらアリアの体が沈む。まだ戦えるはず。まだ戦えると思っているのに、体が何故か言うことを聞かない。
 両手から銃がこぼれ落ち、口から微かに血が溢れ出る。濡れた桃色の前髪が視界を遮り、したたる水滴と鮮血が混じって白い生地をアリアの髪のようにピンクに染め上げる。
 戦う前と変わらぬピスケスの凍てついた表情。その顔を見つめたまま、アリアの意識が少しずつ薄れていった。


「アリアァァァーッ!」
 アリアが相手の少女に撃たれた瞬間、シェドはミゲルに背を向けて駆け出そうとしていた。しかし戦慄するほどの殺気を覚え、とっさに身を翻して左に飛ぶと、シェドが立っていた位置を光の軌跡が走り抜ける。
「くっ! ミゲル、邪魔をするなっ!」
「寝言言ってんじゃねぇっ! 貴様の相手はこの俺だろうがっ!」
 全身から殺気を迸らせ、ミゲルが禍々しい形相でシェドを睨め付ける。決して背を見せることを許さない、圧倒的な威圧感がミゲルの視線には籠もっている。
 だがそれ以上にシェドの内心を揺さぶるのはアリアのことだ。ミゲルに対する憎悪、畏怖以上に、シェドの心を掻き乱すのは頭の中で木霊するアリアの悲鳴。アリアの苦しみに歪んだ表情が、心臓の鼓動を加速させる。
「そこをどけぇぇぇっ!」
 シェドの腕輪に埋め込まれた七色のジェムがすべて輝き、虹色の光がシェドを包む。シェドの腕から伸びた光が白銀銃にまとわりついて剣を形取り、実体のない魔法の剣が具現化する。無色透明の剣。そこへ銃口のフレアジェムが炎の属性を付加し、最強無二の魔剣がシェドの手に宿る。
「…………」
 ミゲルの表情が歪む。それが驚きなのか、恐れなのか、そんなことはどうでもよかった。シェドは咆えながら凄まじい早さでミゲルに迫り、魔剣を振り上げる。
「はああああっ!」
「馬鹿がっ!」
「――っ!? ぐおおっ!」
 渾身の力を込めてシェドが魔剣を振り下ろした瞬間、ミゲルが光天双剣を分解し、片方の光天剣で魔剣を受け止めると、もう一方の剣でシェドの肩口を斬りつけた。鮮血が迸り、激痛が全身を駆け抜ける。
「ぐはっ……」
「もし今、俺が光天剣で攻撃していたら、貴様は確実に死んでいた」
 冷淡に、だがそこには溢れんばかりの怒りが籠もっているミゲルの声。シェドは左手で肩を押さえながら、顔を歪めてミゲルを見つめる。ミゲルが握る剣の一方は、光の粒子を纏っていなかった。
「俺を失望させるな。貴様の力はこんなものじゃないだろう! 俺が待ち望んだのは紙一重をかわし合う殺し合いだ!」
「……はあ……、はあ……、そこを……どけ……」
 シェドの言葉に、ミゲルが怒りを表面に押し出す。
「本気で言っているのか? あの出来損ない人形のような天使に、何故そこまで肩入れする?」
「……黙れ」
「他を気にしながら本気が出せるはずがない。人間は所詮、孤独な生き物だ。信じられるのは自分の力のみ。それがわからんようじゃ、貴様は死ぬ」
「黙れっ!」
 シェドは魔剣を引きずりながら線を描く。瞬く間にミゲルの懐に潜り込み、魔剣を突き立てるが――
「ぐおっ!」
 またもミゲルがシェドの攻撃を受け流し、ジェムに魔力を注いでいない状態の剣でシェドを斬りつけた。今度は肩から懐までバッサリ斬られ、三十センチ以上の長い傷がシェドの前面に浮かぶ。さほど傷は深くないが、溢れ出す鮮血は留まることを知らない。
「これで貴様は二度死んだ。……いい加減目を覚ませ!」
 ミゲルの声が低く響く。シェドがぐっと顔を持ち上げると、ミゲルの背中の先、両膝を水たまりに落とし、両手で懐を押さえるアリアの後ろ姿が見えた。
「アリア……。アリアァァーッ!」
「この期に及んでまた戦いに専念できねぇのか!」
 ミゲルがギリッと奥歯を噛み、凄まじい目つきでアリアを見つめた。シェドはそんなミゲルの行動に、悪寒を通り越して恐怖を覚える。
「な、ミゲル……、貴様まさか……」
「レミネーラのヤツは殺さず連れ帰れと言っていたが……、俺とシェドの戦いを邪魔するのだと言うなら、……先に出来損ないの天使からぶち殺してやるか……」
 ミゲルが歪んだ笑みをシェドに向ける。そしてピィーッと口笛を鳴らし、シェドの上空で大きな気配が揺らめいた。シェドがバッと顔を持ち上げると、分厚い雲を引き裂いて、エアバーンがシェドの視界に飛び込んでくる。
『ギャオオオオオンッ!』
 エアバーンはアリアの上空をしばし旋回した後、ドスンと大地を揺らしながらアリアの目の前に降り立った。咆吼を上げ、唸りながらアリアに狙いを定める。
「アリアッ!」
 シェドはなりふり構わず銃口をエアバーンに向け、紅蓮の魔弾を射出した。だがそれはミゲルの光天双剣によってかき消され、微塵もエアバーンへ届かない。
「うおおおおおおっ!」
 シェドは叫びながら魔剣を振り回す。ミゲルの光天双剣とぶつかるたびに凄まじい衝撃が広がり、閃光と轟音が連なる。シェドのがむしゃらな攻撃を、ミゲルは見下すような表情で軽々と受け流し続ける。
 その間にもエアバーンはドシドシと大地を揺るがしながらアリアに迫る。ミゲルに魔剣で攻撃しつつも、シェドは何度も魔弾をエアバーン目掛けて撃ちはなった。だがすべて、ミゲルによってかき消されてしまう。
 シェドはかつてないほど焦りを感じていた。どうして、頭の中が真っ白になるくらい動揺しているのか、シェド自身よくわからなかった。
 アリアとシェドは、互いに違う目的のため世界を一緒に旅する、ただの同乗者に過ぎなかったはず。アリアは両親を、シェドは自分の生きがいを求め、それぞれ目的を達成した時点で別れるという、ただそれだけの関係であったはず。
 いつからシェドは単なる同乗者以上の感情をアリアに抱くようになったのか、もう覚えてはいない。アリアの純粋で直向きな両親への思い。普通で在り来たりな、だけど平和で穏やかな生活に対する羨望。それを知ったからだろうか、シェドはアリアを、まだ幼い無垢なる少女を守りたいと、心の何処かで思った。
 だが今、目の前でその少女の想いが引き裂かれようとしている。今すぐ助けに行きたくとも、目の前に立ちふさがるミゲルはシェドの実力を凌駕し、圧倒的な高さを誇る壁となってシェドの邪魔をする。
 このままではあの時の二の舞だ。アイツを守れなかった自分。また今、この場で、シェドはアリアを守れないのだろうか。
「くそっ! くそっ! くそぉぉぉっ!」
「あの出来損ない天使が死んだ後、少しはやる気を見せろよ! このままじゃ、ちっとも楽しめねぇぜっ!」
 魔剣を流し、ミゲルは斬りつける瞬間だけジェムを抑え、殺さないようシェドをいたぶる。圧倒的な実力の違い。シェドの黒い瞳に、アリアの直前まで迫ったドラゴンの姿が映った。
「やめろぉぉぉっ!」
 シェドが叫んだ瞬間――
「!?」
 黒い影がエアバーンとアリアの合間に割って入った。ミゲルが驚きと共に、怒りの眼差しで現れた姿を睨め付け、シェドは呆然とその背中を見つめた。
 現れたのは、長い赤髪を揺らす、女の後ろ姿だった。


 霞がかったような視界の中に、見覚えのある背中がボンヤリと浮かび上がった。アリアは両手で撃たれた箇所を抑えながら、そっと顔を持ち上げる。
「よう。大丈夫か?」
 ニカリと、独特の笑みを浮かべる赤い髪の女。銀色の鎧を身につけ、小柄な体格には余るほど巨大な大剣を身構えていたのはミントだった。
「……はあ……、はあ……。大丈夫……」
 途絶えそうだった意識が繋がる。アリアはグッと膝に力を入れ、重たい体を持ち上げようとした。
「無理すんなよ。女の子の体はヤワなんだから。こいつの相手は、オレがしてやるさ」
『グゥゥゥ……』
 ミントが不敵な笑みを浮かべてエアバーンを見つめる。だがアリアの目には、ミントの米神を流れる一滴の冷たい汗がハッキリと見えた。
「へへ。しかしまあ……、さすがに強そうじゃねーか……。ゾクゾクするぜ……」
 エアバーンは、レッドドラゴンなど他のドラゴンに比べれば力のないドラゴンだとシェドは言っていた。だが、それでも人間がまともに戦って敵う相手ではない。しかもジェムが使えない人間となれば、なおさらのこと。
「……ミント、くぅっ……。に、逃げて……」
「まさか。自分の半分くらいしか生きてない子を見捨てて敵に背中を見せるような真似、死んでもできねーな!」
 アリアの前で、ミントは両手でしっかりと剣を握りしめる。エアバーンの向こう、ピスケスは命令されていない事態であるせいか、ピクリとも動かず静観している。
「いくぜっ! おおおおおっ!」
 ミントが大地を蹴ってエアバーンに迫る。重そうな大剣を軽々しく一直線に振り下ろすと、刃とエアバーンの皮膚が衝突して金属音のような甲高い衝撃音が広がった。
「ぐっ!」
『ガアアアアッ!』
 衝撃でミントが表情を歪めた次の瞬間、エアバーンが鋭い爪を振り下ろしてミントの脇腹を引き裂いた。鮮血が舞い、白銀の鎧がまるで紙のように引き裂かれる。
「ちぃっ! やるじゃねーか!」
「ダ、ダメ……。逃げ……て……」
「へんっ!」
 アリアの声はミントに届かず、ミントは体を捻ってエアバーンの側面に回り込む。エアバーンが巨体を回転させるよりも早く、ミントは深く腰を落として矢のような突きを繰り出した。
「これならどうだっ!」
『ギャアアッ!』
 ブスッという低音と共に、ミントの大剣がエアバーンの太い脚に突き刺さる。ドクドクと緑色の体液が溢れ出し、大地を変色させていった。
「けっ! どんなもんよっ!」
「――っ!? 危ないっ!」
 アリアが声を張り上げた瞬間、すでにエアバーンが鋭い牙を覘かせながら巨大な口を開いてミントの頭上より襲いかかっていた。
「な――っ!? しまっ――」
 突き刺さった大剣を抜こうとするミント。だが深く突き刺さった剣はエアバーンの太ももから離れない。
 閉じたいけれど閉じない瞳。聞きたくないけど響く悲鳴。アリアの視界に映ったのは、エアバーンがミントの右肩を引き裂く瞬間。
 肉の裂ける痛々しい音。噴き出す真っ赤な血。絹を裂くようなミントの叫び。
「うあ、ああ……」
 目の前が真っ赤になる。開いた瞳孔はコロコロと震え、喉の奥から声にならない声が零れ出る。
「いやあああああっ!」
 アリアの叫びが広がる。瞳から溢れ出る涙で歪んだ景色の中、エアバーンがのっそりとミントの体から顔を離し、そして、ミントの体がバサリと大地に倒れ伏せた。
『ギャオオオオオンッ!』
 朱色の泉が大地に浮かび、エアバーンが喜びを表すかのような咆吼を上げた。ミントの体はピクリとも動かず、銀色の鎧に雨粒が落ちてカツカツと小さな音が木霊する。
「あ……、ああ……」
 アリアの瞳からこぼれ落ちる涙はもはやとりとめがなかった。組織を抜けて以来、ずっと恐れてきた見知った人間の死。恐れていた、ずっとずっと恐れていた死。それが今、目の前に広がっていく。
『グウウウ……』
 エアバーンが獲物を切り替え、ギロリとアリアに体を向けた。アリアはエアバーンに対する恐怖ではなく、ミントの死への恐れが体を縛り、体がまるで石像のように動かない。
 アリアが瞳に涙を浮かべたまま、力なくエアバーンを見上げている時だった。ふいに、アリアの目の前に一人の少女がふらっと現れた。呆然としながら、アリアはそれがピスケスだと最初思ったが、現れた少女の髪は、美しい銀髪だった。
「え……?」
 濡れた白いワンピースドレスに、セミロングの銀髪。背は少しアリアより高いが、アリア以上に腕や脚は細くて容易く折れてしまいそうな少女。シールディアなのかとも思ったが違う。それは結婚式の時、シェドの隣に立っていた少女だった。
「…………」
 少女がムクッとエアバーンを見上げる。アリアの位置からでは、少女がどのような表情を浮かべているか確認できない。
「あ……あ、危ないっ! ダメ、逃げてっ!」
 アリアは必死に叫んだ。もうこれ以上、目の前で誰にも傷ついて欲しくない。もう決して目の前で――
『ギャアアアアアッ!』
「えっ……?」
 突然目映い閃光が迸ったかと思った瞬間、エアバーンが凄まじい咆吼をあげた。巨体をねじり、苦しみ悶えながら大地にドスンと倒れ伏せる。
 眩しすぎてとても目を開いて居られない。細めた瞳で辛うじて映る映像の中、アリアにはエアバーンの体が光の中へ沈んでいくように見えた。何がどうなっているのか全くわからない。ただ、エアバーンの悲痛な咆吼と眩い光だけが周囲に広がっていく。
 光が収まり、アリアがハッと気付いた時、エアバーンの姿は欠片もなくなっていた。アリアが呆然と少女を見つめると、少女は両手を虚空に掲げており、その後、スッと手を下ろし、ガクッとその場に倒れた。


 オーバーライドで稼働可能な時間は決して長くない。
「はああああっ!」
 セシリーは凄まじいスピードで戦陣を駆ける。全身を包むオーラがバチバチと唸りを上げ、残像が幾重にも連なって光跡を描く。
 雷光を帯びた蹴撃を繰り出し、アンリエッタの懐を抉り、更に右左右と両足を交互に使って連続攻撃を仕掛け、フレイデリカに雷撃を叩き込む。
「くっ! ぐはっ!」
「ああっ! くぅっ!」
 二人の悲痛な声が響く。しかしセシリーは攻撃の手を休めない。いや、休むことはできない。止まっている間にも、オーバーライドの影響で体が蝕まれていくのだから。
 理由はそれだけではない。先ほど響いたシェドの咆吼。セシリーの視界に映ったアリアの姿。それらがセシリーの焦りを掻き立てる。
「そこをどきなさい! どいてっ!」
 セシリーの叫びに、アンリエッタとフレイデリカが少し体を引く。だが、それでも決して敵に背を見せたりはしない。それがエインフェリアと呼ばれる存在。
「そうはいきませんわ! 私達の任務は“魔弾”の処理と、レオの捕獲。……お姉様を行かせるわけにはいきません!」
 フレイデリカが肩で呼吸しながらキッと鋭い視線でセシリーを射抜く。組織にいた頃には見た覚えのない、敵に対するフレイデリカの目。もはやセシリーは、姉と慕われた存在ではない。
「なら、力ずくで通して貰うわっ!」
 セシリーは腕輪のジェムを光らせる。オーバーライドによる魔力を注ぎ込み、光の弓と光の矢を具現化させる。
 アンリエッタとフレイデリカが、意を決した面持ちで真っ向からセシリーに迫ってきた。アンリエッタの影にフレイデリカが重なり、二人で一身と化す。
「はああああっ!」
 氷炎拳が迫る。セシリーは光の矢を構え、狙いをアンリエッタに向けた。セシリーの手から矢が放たれた瞬間、アンリエッタの体が左にぶれ、右にフレイデリカの体が現れる。
「終わりですっ!」
「……そうね」
「――っ!?」
 セシリーの手から放たれた矢が、双子の中央を駆け抜けようとした瞬間、天から極光が矢に降り注いだ。凄まじい轟音が大地を駆け抜け、衝撃波が辺り一帯を貫く。
「ああああああっ!」
「きゃあああっ!」
 落雷のエネルギーは矢の周囲全体を包み、凄まじい衝撃がアンリエッタとフレイデリカ双方を襲った。そして二人はグラッとよろめき、腰砕けに大地へ倒れ込む。
「ぐ……は……。く、そ、そんな……馬鹿な……」
「お姉……様……」
 相手の攻撃を知っているからこそ出来た技。セシリーは、無念そうにセシリーを睨め付ける双子をしばし見つめた後、アリアのもとへ駆け寄ろうと踵を返した。
 だが、セシリーの視線の先、すでにアリアを襲っていたエアバーンの姿はなかった。代わりにいたのは、無惨に大地に倒れ伏せているミントと、シェドの側にいた銀髪の少女。
「え……? エアバーンは……? ミ、ミントさんがどうして……」
 セシリーは呆然と見つめる。セシリーの元へシルヴァランスが重そうに体を引きづって歩み寄り、セシリー同様、愕然と倒れ伏せているミントへ視線を送った。その時――
『ギャオオオオンッ!』
 再び分厚い雲を引き裂いて別のエアバーンが姿を現した。あっという間にセシリーの上空を飛び去ったエアバーンが、凄まじい勢いで銀髪の少女とアリアの元へ飛んでいく。
「アリアッ!」
 セシリーの叫びに反応するかのように、アリアが迫り来るエアバーンをかわして左後方へ飛んだ。エアバーンが爆風を巻き起こしながらアリアの脇を駆け抜ける。
「――っ!?」
 エアバーンが上空に飛び去った後、セシリーは銀髪の少女が居なくなっていることに気が付いた。アリアは脇に避けて無事だが、少女はエアバーンにやられてしまったのだろうか、姿が見当たらない。
「あららん。どうせだったらレオも一緒に捕獲しちゃおーと思ったんだけど、失敗しちゃったー」
「え……?」
 ふいに、上空から聞き覚えのない声が響いてきた。セシリーが顔を持ち上げて目を細めると、そこにはバサバサと両翼を羽ばたかせるエアバーンの姿。そしてその背中に、見知らぬ赤毛の少女が銀髪の少女を脇に抱えて乗っかっていた。銀髪の少女の瞳は固く閉じており、赤毛の少女の腕でぐったりとしている。
「まあ私の獲物はこっちだし、レオはミゲルさんの獲物だから別にいいけどねー」
 右目に片眼鏡をつけ、そばかすの多い頬に丸くて大きな瞳。あどけなさの残る少女は、戦場には適さない爛々とした笑みを浮かべていた。身につけている服も、決して戦場には似つかない白衣。
 セシリーは呆然とエアバーンと赤毛の少女を見つめていた。一体、何が起こっているのかわからない。
 何故ミントが倒れているのか。何故銀髪の少女が戦場居たのか。何故もう一体エアバーンが居るのか。何故エアバーンの主がアリアではなく銀髪の少女をさらったのか。
 まとまらない思考でセシリーが呆けている時だった。天で唸る雷鳴にも負けないくらい大きな声で、
「ミュールッ!」
 シェドの咆吼が響き渡った。


 新たに現れたエアバーンの背中。赤毛の女に抱きかかえられている少女は、間違いなく神竜教の教会で知り合った少女、ミュールだった。
 ぐったりとまるで眠っているかのように、ミュールは女の腕でピクリともしない。
「ミゲルさーん。別件で来たんで、邪魔しに来たわけじゃありませんよー。だから怒らないで下さいねー」
 赤毛の女が飄々とした声でミゲルに話しかける。ミゲルは鬱陶しそうに女を一瞥した後、シェドへ視線を戻した。
「あの小娘も貴様の知り合いみてぇだな……。ちっ、組織を抜けて以来、腑抜けになりやがって……」
「ミゲル! 貴様、ミュールに何をするつもりだ!」
「俺は知らん。キャロルに直接聞けばよかろう」
 シェドは傷だらけの体を起こし、キャロルと呼ばれた女を睨め付けた。
「キャロル……? まさか、ガンズの一人、“透過”のキャロルか!」
「やっほー! お久しぶりね、シェドちゃん! あ、年上に向かってちゃん付けは失礼かな? ごめんなさーい! っていうか、もしかして初めましてだったっけ?」
 キャロルはまるで親しい友人に見せるよな笑みを浮かべ、ブンブンと片手を振った。
「貴様、ミュールに何をするつもりだ!」
「この子、ミュールちゃんって言うんだ。可愛い名前ねー。実はー、この子、私達が探してるたーいせつな子なんだよ?」
 キャロルの笑みが、一瞬無邪気な少女のそれから闇を含んだものへと変化した。シェドはミュールの持つ不思議な力を思い起こし、愕然とキャロルを見つめた。そんなシェドの表情が面白かったのか、キャロルが黄色い笑い声を零す。
「あはははー! お察しの通りですよ、シェドちゃん。いやいや、シェドさん?」
「まさか……。そんな……」
 シェドが予期した最悪の結果。キャロルが、それを何の躊躇もなく口にする。
「この子が、最後の天使よ」
「――っ!」
 考えるより先に、シェドは魔弾をエアバーンに向けて放っていた。しかしエアバーンは機敏な動きで弾道をかわし、さらにはミゲルがシェドの攻撃を遮る。
 光天双剣と魔剣がぶつかり合い、閃光と衝撃がはじけ飛ぶ。
「どけっ! そこをどけぇっ!」
「……見苦しいぜ、シェド。貴様はその程度じゃないはずだ。怒りを、感情を忘れ、昔みたいに敵を殺すためだけに生きろ! 戦力を削ぐ感情など、貴様には不要だ!」
「黙れぇぇっ!」
 ミュールは孤児院で自分より幼い子供達の面倒を見る優しい心を持った少女。両親はいないのかもしれない。けれど、それでもミュールは笑顔で今を生きている。そんな少女の生活を奪い、感情を奪い、世界を滅ぼす存在に仕立て上げるなど、絶対に許すわけにはいかない。アリアのような被害者を、増やすわけにはいかない。
「うおおおおおっ!」
「…………」
 猛々しく魔剣を振り回すシェド。ミゲルは無言で、淡々とシェドの剣を受け流す。
「これ以上、貴様らにアリアのような犠牲者を出させるわけにはいかねぇっ! 絶対に、ミュールを連れて行かせはしねぇっ!」
「…………」
 迸る閃光。ジェムの魔力が徐々に薄れ、魔剣が少しずつ光を失っていく。それはミゲルも同じで、光天双剣の輝きが色褪せていく。だがそれでも、互いの剣がぶつかる度に凄まじい衝撃が巻き起こる。
「はああっ! おおおおっ!」
 咆え続けるシェドに対し、ミゲルは依然沈黙を続けていた。シェドの視界に映っているのはミゲル。だがシェドの脳裏に浮かぶ映像は、その先のエアバーンに乗るキャロルとミュールの姿だった。
 守りたい。いや、絶対に守らなければならない。
 シェドの旅において、ミュールの存在は別段意味を成すものではない。だがそれでも、体の中の何かがシェドを突き動かす。ミュールを守れと。決してアリアのような犠牲者を増やしてはならないと。
「おおおおおおっ!」
 魂の咆吼。シェドの魔剣が虚空に軌跡を描く。そして――
「……失望したぜ……」
 ミゲルの低く、失意に満ちた言葉。
「ぐ……かはっ……」
 ミゲルの剣がシェドの懐を貫いていた。ジェムは輝いてはいない。だが、それでも突き出した剣先にはシェドの血がべっとり付着し、夥しい量の血が大地に流れ落ちる。
 ミゲルが剣を引き、血を払った。シェドの腕から魔剣が消え去り、白銀の銃も大地へと落ちる。
「自分のために振るえない力など、無力同然だ。他を守ろうなど、馬鹿も甚だしい……」
 吐き捨てるように言ったミゲルの言葉は遠くに響き、視界が徐々に霞み出す。思考が鈍化し、もはや何も考えられない。
「アリ……ア……」
 最後に浮かんだのは泣き顔。アリアが、顔をくしゃくしゃに歪めて泣き崩れる、悲痛な表情だった。
 シェドは大地に倒れ、辛うじて繋がっていた意識の線が途絶えた。


「シェド……?」
 全身の震えが止まらない。歯がカチカチと音を立てながら震え、全身から血の気が引いていく。
 アリアの視界で大地へ沈んだシェド。大地を赤く染めるシェドの血液。
「あ……うあ……ああああ……」
 瞳は瞬きを忘れ、喉は過呼吸でカラカラに渇く。表情は絶望に歪み、体が恐怖で凍り付く。
 シェドが、やられた。シェドが、負けた。
「シェド……、シェド……」
 声にならない声で何度も繰り返す名前。だが、その主が体を起こすことはない。
「イヤ……。こんなの、イヤ……」
 アリアは自分の体を抱え込み、首を左右に振る。もはや自分の体のことなどどうでもよかった。口元から零れる血は顎から大地へ落ち、腹部から溢れ出る血は一向に収まる気配がない。でも、今はそんなことどうでもよかった。
 シェドが。ずっと側でアリアと共に旅を続けてきたシェドが死――
「いやああああああああああっ!」
 咆吼と共に、アリアの体の中から熱い何かが噴き出した。胸元の聖石が目映い閃光を発し、ドレスの下から世界を青く染め上げる。
 アリアの体から溢れ出す力が大気が振動させ、大地を揺らす。アリアの背中から光に包まれた翼が伸び、アリアの体がふわりと宙に浮いた。そして感情という名の想いが体から抜け落ちていき、瞳の色が漆黒に染まっていく。
 圧倒的な威圧感を引き下げ、アリアはミゲルを見据える。もはやそこに怒りや悲しみといった感情はない。
 天使化。アリアの体は空を舞い、ミゲルに目掛けて襲いかかる。


 シルヴァランスはその様子を驚愕の表情で見つめていた。全身の痛みを忘れるほど、アリアの天使化による威圧感は凄まじかった。
「ぐおおおおっ!」
『グアアアアアッ!』
「ぬぅっ! こ、これが天使の力だとっ! ぐっ! くそ、馬鹿なっ!」
 一瞬にしてミゲルに迫ったアリアの拳が鋭くミゲルの懐を抉った。それはもはや目で追うことすら出来ないスピードだった。ミゲルはガードすら出来ず、直撃を受ける。
『グアッ! グオオッ! ウアアッ!』
 荒れ狂う波のように、アリアの拳が次々とミゲルに打ちつけられる。先ほどまであれほど一方的にシェドを攻めていた男が、天使化したアリアの前では為す術もなくやられている。
「ピスケスー、レオを止めてー」
 息を飲む展開で、不意に上空より少女の間延びした声が響く。すると、ずっと大人しかったピスケスがピクリと体を反応させ、次の瞬間、ピスケスの背中からも光の翼がバサッと開かれた。
「なっ――」
 シルヴァランスが目を見開いて呆然と見つめる中、ピスケスの胸がオレンジ色に輝き、セピア色の瞳が金色に染まっていく。アリアと同等、もしくはそれ以上の威圧感を覚え、自然とシルヴァランスの足が竦む。
 天使化したピスケスが空に舞い上がり、ミゲルとアリアの合間に割って入る。アリアとピスケス。二人の天使がぶつかり、その衝撃がビリビリと大気を揺らした。
『アアアアアアッ!』
『オオオオオオッ!』
 天使化した少女達の声はもはやドラゴンのそれに匹敵するような咆吼。ぶつかり合うたびに広がる衝撃波で木々が倒れ、建物の壁が削げていく。障壁でガードしていなければ、シルヴァランスとてその場に居合わすことすら出来ない。
「アリアッ! 駄目よっ! その力は使っては駄目っ!」
 シルヴァランスの脇でセシリーが叫ぶ。だがその声がアリアに響いている様子はなく、アリアとピスケスの衝突は激しさを増すばかりだった。
 天使達がぶつかり合う脇をバッとエアバーンが駆け抜ける。エアバーンに乗った少女が傷ついたミゲルを引き上げ、上空に高く飛翔する。
「ぐっ……」
「大丈夫ですかー、ミゲルさん?」
「…………。あれが、天使の力か……」
「そうですよー。どうです? すごいっしょ!」
 天使達の戦いを憮然とした面持ちで見つめるミゲルと、爛々と見つめる赤毛の少女。ほんの数十秒アリアと戦っただけだというのに、ミゲルはぐったりとエアバーンの背に膝をついていた。
 アリアとピスケスの衝突は止まない。猛々しく荒々しく拳を奮うアリアを、ピスケスがガシッと受け止めるたび、周囲には轟音と衝撃が広がる。両者とも光の翼を羽ばたかせ、天空で光の塊となってぶつかり合う。
「ミントさん! しっかりして下さい!」
 不意に、シルヴァランスの後方でライオットの声が響いた。シルヴァランスが振り返ると、大地に倒れ伏せているミントの脇にライオットとスザンナが駆け寄っており、両者とも悲痛な表情でミントに大声で呼びかけていた。
「ミントッ! お願い、目を開けてっ!」
 スザンナの悲鳴があがった瞬間、微かにミントの指が動いた。ピクリと、右手の人差し指が雨に打たれながら微動する。
「……リ……オ……。へ、へへ……、何、しけた面……して……」
「ミントさんっ!」
 体は微動だにさせず、とても声量の小さなミントの声が響く。
「よかった……。ここは危険です、取りあえず教会の中へ移動しましょう」
 ライオットがミントを背負い、教会へ引き上げていく。シルヴァランスの脇でセシリーも微かに表情を緩ませてその様子を見守っていたが、すぐに沈痛な表情でアリアへ視線を戻した。
 アリアの攻撃には野獣のごとき殺気、怒気といったオーラが溢れていた。あれがあの純粋無垢なアリアという少女なのだろうかと、シルヴァランスは愕然とする。
『ウウウ……』
 余裕でアリアの攻撃を受け流していたピスケスの動きが、急激に鈍り始めた。一方、アリアの攻撃は全く衰えない。
「うわ、やっばー。ピスケスの方が先にガス欠ですかー?」
 赤毛の少女が、あまり焦りを感じさせない口調で呟く。少女が考え込むように唸ってる間にも、ピスケスの旗色がどんどん悪くなっていく。
 アリアの拳がピスケスの肩口を殴り飛ばし、短い足が繰り出す蹴りが懐にめり込む。さらには抉るようなアッパーでピスケスの体が旋回しながら上空へ持ち上がり、光速で先回りしたアリアの両手がピスケスの背中を容赦なく強打した。
「むー、ピスケス失っちゃレミネーラ様に殺されちゃうよぅ。……んじゃあ、この辺で引き上げるとしますかー。おーいピスケスー、帰るよー。レオは放っておいていいよー」
『…………』
 少女の声にピスケスが攻撃をピタリとやめ、アリアに背を向ける。天使化して、まるで野獣のように拳を振り回していたかと思っていたが、ちゃんと命令を受け付けるようだ。
『ガアアアッ!』
 だがアリアは攻撃を止めようとしない。翼を羽ばたかせ、エアバーンを追って舞い上がっていくピスケスを追いかけながら、光の弾を両手から迸らせる。まるでシェドの魔弾のごとく、光の弾がエアバーンとピスケスを背後から襲う。
「おっと! きゃっ! んもー、レオは野蛮ねーっ!」
 アリアの追い打ちは止まず、アリア自身も上空へ高く舞い上がっていく。このままではまずいとシルヴァランスが懸念した時――
「ア……、アリア……」
 微かに、だが確かに、シェドの声がアリアの名前を呼んだ。シルヴァランスの位置からシェドが倒れている場所まで距離はあり、雨音や雷鳴が轟く中、その消えそうな声が響いたのは奇蹟に近い。
 瞬間、アリアの攻撃がピタッと止まる。その間にエアバーンとピスケスの姿はみるみる小さくなり、やがて肉眼では確認できなくなった。
「シェドさんっ!」
 シェドは腹部を押さえながら、両膝片肘を大地に付けながら辛うじて頭を持ち上げていた。シェドの声に反応したのか、アリアが上空でゆっくりとシェドへ振り返る。
「アリア……。もう……、やめ……ろ……。ぐっ……」
『ウウウ……。……ア、アア……、シェ……ド……』
「早く、か、帰ってこい……」
 優しい口調でシェドが囁く。距離的に届くはずの無い言葉。だが遙かな上空で、アリアが小さく頷いたようにシルヴァランスには見えた。
 アリアの背中から伸びていた光の翼がパッと散る。光の羽根が宙に散乱し、やがて空気に溶け込むよう消えていく。ふっとアリアの瞼が閉じ、その瞬間、ぐらっとアリアの体が傾いたかと思うと、そのまま無防備に力なく大地目掛けて落下し始めた。
「アリアッ!」
 シルヴァランスの脇からセシリーが飛び出す。だがアリアの位置はかなり遠く、またシルヴァランスほどでなくともセシリーの体もオーバーライドでボロボロのはず。走るスピードは決して速くない。
 アリアの体が大地へ迫る。一瞬、シルヴァランスの脳裏に最悪の結果がよぎった。
「アリア――ッ!」
 セシリーの叫びが木霊した瞬間だった。
「――っ!?」
 突如上空より現れた影。一陣の風と化して大地に旋風を巻き起こし、その影は落下中のアリアを掴むと、一度高く飛翔してからゆっくりと大地に降りてきた。
 それは純白の馬だった。ただ、胴体から白鳥のような翼が生え、頭には二本の金色に輝く角が生えていた。鬣は白く、蹄も白い。
「ペガ……サス……」
 シルヴァランスが驚きの声を漏らす。そしてその背に乗る、アリアを抱えた少女を見つめてシルヴァランスは言葉を失った。
 短めにカットされた金髪に、意志の強そうな緋色の瞳。純白の衣服で上下を包み、仄かに青みを帯びたショールを肩に掛ける少女。
 シルヴァランスと少女はしばし黙ったまま視線を絡めていた。


 アリアを背負ったまま目の前に現れた金髪の少女を、セシリーは無言で見つめていた。スラリとした四肢に、整った顔立ち。年の頃はミレーヌと同じぐらいだろうか。いや、もう少し幼い感じもする。十五歳といったところだろう。
 敵意は感じられないにしろ、得体の知れない少女をセシリーはジッと見つめる。だが少女の視線はセシリーに向いておらず、セシリーの後方、シルヴァランスを見据えたまま、鋭く目を細めていた。
 シルヴァランスが重そうに体を引きずりながら、ようやくセシリーの隣まで歩み寄ってくる。上半身の衣服はすっかり焼き切れ、背中には大きな傷が痛々しく張り付いている。
「…………」
 シルヴァランスは苦痛に歪んだ表情のまま、目の前の少女をジッと睨め付けていた。同様に少女も、シルヴァランスを見つめたまま動かない。
 この二人はもしかして顔見知りなのだろうかとセシリーが思っていた時、向こうから、ヨロヨロとシェドが近寄ってきた。右手を腹部にかざし、シェドは腕輪のヒールジェムを輝かせながら覚束無い足取りで歩み寄ってくる。
「アリア……」
 シェドのか細い声。少女は横目でシェドを一瞥すると、
「表面上の傷の手当てはしてあります」
 と、簡素に答えて背負っていたアリアをシェドに渡した。シェドがアリアを両手で抱え込み、そのまま大地へ崩れるよう腰を落とした。セシリーの瞳には、シェドの目にうっすらと涙が滲んでいるように見えた。
 シェドにアリアを任せた後、少女が再びシルヴァランスへ鋭い視線を送る。シルヴァランスは、背中の痛みなのか何なのか、険しい表情で少女を見つめ返している。
「……酷い怪我ですね」
 ふと少女がシルヴァランスに話しかけた。シルヴァランスは、「そうだね」と何処か申し訳なさそうに答える。
 敵ではなさそうだけど、何処か雰囲気がおかしい。今までに付き合った女性はいないと言っていたシルヴァランスだが、もしかしたらこの少女と過去に何かあったのではないだろうかと邪推してしまう。
 一歩、もう一歩と少女がシルヴァランスに歩み寄り、そっとシルヴァランスの肩に白くて小さな手を添えた。すると中指にはめていた銀色のリング、その中心に埋め込まれていた白い宝石が輝き、シルヴァランスの体を柔らかな光が包んでいく。
「ヒールジェム?」
 セシリーが驚き表情で見つめていると、シルヴァランスの背中にあった大きな傷がみるみる癒えていった。だがそれでも、シルヴァランスの表情は何処か悲しげで、申し訳なさそうに歪んだままだった。
「どうですか?」
「……ありがとう。もう、大丈夫だ」
 言葉を一言二言交わすたびに沈黙が降りる。居づらそうな顔を貼り付けながらも、シルヴァランスは少女から目を逸らさない。
「何か、何か言うことがあるんじゃありません?」
 少女が、凛とした表情を崩してシルヴァランスの胸にそっと自分の額を付けた。セシリーは思わず、「きゃっ」と柄にもない声をあげてしまった。
 シルヴァランスは一度ギュッと少女の肩を抱きしめ、ゆっくり少女の体を離した。やっぱりこの二人、過去に何かあったのかと、セシリーは瞬きを繰り返す。
「わたくし、ずっとお待ちしてましたのよ?」
「そうだね」
「家を飛び出し、世界を救うだなどと寝言を繰り返し、危険なことばかりして、そして音信不通……。わたくしがどれほど心配したか、わかってらっしゃいますの?」
「ごめん」
 シルヴァランスの表情は硬い。これは恋人を遠方に置いてきた男が、再開した彼女に何て言葉を掛けていいか困惑している時の顔だと、セシリーの邪推は止まらない。
「答えて下さい、どうしてわたくしに何も告げず、同志のもとを去ったのですか?」
「…………」
「答えて、答えて下さい! お兄様っ!」
「……お、お兄様ぁ?」
 少女の真剣な声の合間に、セシリーの間の抜けた声が割り込む。シルヴァランスがセシリーを見つめ、はははと元気ない笑顔を見せる。
「ヴィクトリア、奥の教会にも怪我人が居るんだ。……手当てしてやってくれないか?」
「なっ……、お兄様っ! わたくしの質問に答えて下さい!」
「一刻を争うんだ。……人の命は替えがきかない。だから、助けられる命は助けなければいけないだろう?」
「……う」
 ヴィクトリアと呼ばれた少女が口をつぐみ、シルヴァランスを恨めしそうに見つめる。だがシルヴァランスの言っていることが正論だとわかったのか、無言のままシルヴァランスの脇を通り過ぎ、教会へ駆けていった。
「セシリーさん、シェドさん。ヴィクトリアが教会の中へ消えたら、すぐにここを離れましょう」
「え……?」
「ニーヴルの追っ手が再び現れないとも限りませんし、それに――」
 シルヴァランスが去っていくヴィクトリアの背中を見つめ、眉を細める。
「彼女も、今は僕が所属していた組織に籍を置いています。もしかしたら、他の同志が近くまで来ているやもしれませんから」
「で、でも、あの子はあなたの妹さんなんでしょう?」
「僕たちの組織の目的、それはセシリーさんもご存じのはずです。僕みたいに甘い考えを持つ人間ばかりじゃない。……本気で天使を殺そうと考えている方も多く居ます」
「……わかった。今の状況で敵に襲われたら太刀打ちできないからな」
 シェドが苦しそうに体を起こし、アリアを抱きかかえたまま馬車へ歩み出す。セシリーは何かシルヴァランスに声を掛けようと逡巡したが、結局何も思いつかず、シェドとアリアの武器を回収して馬車へ引き上げることにした。
 馬車に乗り込む直前、シルヴァランスが小声で、「ごめん」と呟く。セシリーがそっとシルヴァランスの横顔を見つめると、シルヴァランスは瞳を閉じて拳を強く握りしめていた。
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