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第二章 未来の虚像 「……ではシルヴァランスと接触は出来たが何も聞き出せなかった、というわけだな?」 暖炉の薪がパチパチと音をもらす一室。椅子に深々と腰を下ろして机の上の書類に目を通しながら呟いた大男の声に、その手前で虚ろな瞳で心ここに在らずといった面持ちの少女が、「はい」と力なく答えた。 ぱさついた長い黒髪を左右に分ける軍服姿の中年男。威厳ある顎髭、深い青の双眸が座っている自分よりも背の低い少女へ向けられている。 大男の手前でしおらしく項垂れている金髪の少女は、その燃えるような深紅の瞳を曇らせてギュッとスカートの裾を強く握りしめていた。 「隊長さん……、そろそろ失礼してもよろしいですか?」 「…………うむ」 少女は小さく息を漏らしながら踵を返し、部屋を出て行く。去りゆく少女の背中を、大男はジッと険しい表情で見つめていた。 「よろしかったのですか? 彼女を行かせてしまって」 「…………」 少女が部屋を去った後、大男の影から細身の長髪男が姿を現した。まるで最初から部屋に居たかのよう、いつの間にか大男の影にその男は立っていた。赤いタンクトップにハーフのミリタリーパンツを穿いた男は、長い茶髪を右手で流しながら鶯色の瞳をそっと細める。 「もう情報は掴んでるんでしょう? ヴィクトリアの後を追わせた同志の報告で」 「ああ」 「ほぼ間違いなく、ヴィクトリアはシルヴィーの居場所を知ってますよ? ……無理にでも吐かせた方がよろしかったのでは?」 「その必要はない。……ナイ、ガネット」 「はい」 大男が呼びかけると、キィッと格子柄の扉が開いて部屋に若い男女が姿を現した。 長身痩躯、シアンの髪に群青色の瞳を携えた二十歳過ぎの男は、黒の長袖スーツの上に紺のハーフベストを着て濃い茶色のズボンを穿き、腰回りにいくつもの銃がベルトに括り付けられていた。 もう一人はスカーレットの髪をパーマでふわふわにカールさせ、瞳は夕陽のような鬱金色の女だった。ふくよかなボディラインと対照的に背は低く、顔つきも童顔である女は、赤くて大きなリボンを後頭部に付けて白の振り袖に赤い袴を穿いていた。手には鈴の付いた錫杖を持っている。 「そしてアイザック。君たち“セイクリッド・スピア”の三人に、新たな任務を与える」 大男がそう言うと、先ほどまで飄々とした表情を貼り付けていた茶髪の男がスッと姿勢を正した。 「ヴィクトリアを追って、シルヴァランス=グレインと接触し、情報を聞き出して来い。そして――」 男が一呼吸を置く。ナイ、ガネット、そしてアイザックの三人は、静かに次の言葉を待っていた。 「シルヴァランスと行動を共にしているという、“天使”を……討ち滅ぼせ」 「わかりました」 静かにアイザックが頷き、そして三人が部屋を去っていく。 部屋に残った男はおもむろに立ち上がり、後方のカーテンをサッと開いた。窓の外に広がるのは純白の銀世界。そこには静寂以外の何物も存在しない。 「シルヴァランス……。何を考えているのだ。天使は……、アレは世界を滅ぼす存在なのだぞ」 男は独り言ちて、マリンブルーの双眸をそっと細めながら静かに舞い散る白き妖精達を見つめていた。 * * * シェド達がテムルを訪れた次の日の朝食時、アリカの父、ギャムルがアリアとシールディアを交互に見据えながら、 「その子らの服は、何処の国のモンだ?」 と、二人に尋ねた。アリア達が互いの顔を見つめ合ってから、両者ともクイッとシェドに顔を向ける。 「アイツらの服は俺が作った」 シェドは別に自慢するでもなく、アリカの作った暖かいスープを飲みながら淡泊に答えた。 「ほう。お前さん、なかなか良い腕してるな。どれ……。お嬢さんら、ちょいとご免よ」 おもむろに立ち上がったギャムルがのっそりとアリア達に歩み寄り、二人が着ている服を矯めつ眇めつ目を凝らして見つめ出す。二人が食べにくそうに眉間に皺を寄せている様子を、シェドはカラカラと笑い飛ばした。 「うむ。まだまだ縫い返しや生地のつなぎ目が粗いな。それに袖口や裾の部分の縫い方が甘い」 「お父さんったら……。食事中にそんな話……」 ギャムルの様子に耐えかねたアリカがため息をつきながら注意するが、アリカの言葉など耳に届いていない様子でギャムルはベタベタとアリア達の服に触れることをやめない。端から見れば完全に変態親父だ。娘のアリカが顔を赤らめながら恥じるのも無理はないだろう。 シェドはブスッとしているアリア達に苦笑しながらも、ギャムルのシェドの作った服に対する酷評に内心ざわついていた。今まで腕前を褒められたことはあっても、決してけなされたことのない裁縫技術。それをギャムルが、てんで話にならないと言うように批判したからだ。 「お前、シェドっつったか?」 「…………はい」 ギャムルがようやくアリア達から身を引き、今度はシェドに歩み寄ってくる。シェドは嫌な顔を表に出さないよう気を張りながら、ギャムルの顔を見上げた。 「飯の後、時間いいか? お前さん、筋は悪くないがイマイチ基礎の部分が出来てない。おそらく、お前さんは今まで基礎を無視して独学でやってきたクチだろ。俺が簡単な手ほどきをしてやるからよ、暇なら付き合え」 ニカッと笑うギャムルにシェドは一瞬戸惑ったが、直ぐさま気を持ち直し、 「ご迷惑でないのなら、お願いします」 と、笑顔で応じた。シェドの答えに、ギャムルが満足そうに頷き、奥の作業場へ消えていった。 シェドは自分の裁縫技術にちょっとした自信がある。それを目の前で貶された以上、ここで引いてはみすみす負けを認めたような気がして嫌だった。それほど、シェドの中で裁縫に対する思いは強い。 「シェド、いつの間に裁縫なんて出来るようになったの?」 ギャムルが居なくなった後、今度はアリカが物珍しそうな顔つきでアリアとシールディアの服を見つめる。 「前から簡単なモノは作れたが、本格的に服を作るようになったのはアリアと旅を初めてからだな。……ほら、女の子の服ってのは高いだろ?」 「私も最初は驚いたわ。ずっと組織にいた頃のシェドしかイメージになかったのに、再会して一緒に旅してみれば、料理洗濯裁縫なんでも人並み以上にこなすんだもの」 「へぇ……、知らなかったわ。シェドって、実は結構器用なのね、うふふ」 アリカが優しげな笑みでシェドを見つめる。思わずシェドは食べかけのパンを喉に詰まらせ、慌てて水を一気飲みした。昔も今も、アリカの笑顔はシェドにとって銃弾より凄い攻撃力を誇っている。 「……ご馳走様。じゃあ、ギャムルさん所に行ってくる」 シェドは、セシリーが何か言いたげに笑いを堪えるような表情で見つめてくるのを鋭い視線で一瞥し、居間から奥の作業場へと移動した。 基本的にドーム状の地下空間の壁に横穴を掘った形の家は、横の広がりはほとんど無く、奥へ奥へと縦長の形状をしている。アリカの家をとってみれば、玄関から入るとすぐ居間に繋がり、そこから細い廊下が奥へ延びている。廊下の左右にアリカとギャムルの個室があり、廊下をさらに奥へ進むと今度は左右に風呂、トイレがある。そして廊下の突き当たりに大きな部屋があり、そこがギャムルの作業場だった。 「おお、来たか」 シェドが作業場に踏み入ると、ギャムルは力織機から手を離して背もたれに体重を掛けた。 「立派な織機できすね」 「おうよ。この町には色んなヤツが集まってくるからな、その一人がかなり腕の立つ織機作りでよ。そいつに作らせた、この世に一つしかねぇ織機だ! ガハハハッ!」 満足そうにカツカツと織機を叩き、ギャムルは大口を開ける。シェドも最近曇りがちだった表情を緩め、頬を緩ませようと気を抜いた時、 「……ところで、シェドさんよぉ、あんた、一体何時、アリカと知り合ったんだ?」 ギャムルが、浮かべていた友好的な表情を一掃し、割れた硝子のように鋭く細めた瞳でシェドを射抜く。背筋が凍るような悪寒を覚え、シェドは思わず息を飲んだ。 「俺はあいつの脚のことについて詳しいことは聞いてねぇ。嫁に出して数年後、帰ってきたあいつの傍らに旦那の姿はなく、あいつの脚は…………」 グッと拳を握り、口惜しそうに呟くギャムルに、シェドの脳裏に過去に犯した罪の意識が沸々とこみ上げる。 口に出し、言葉にすることすら躊躇うことは数多くある。決して拭えぬ過去の記憶の中に、一際鋭く、一際深くシェドの心へ突き刺さる一本の槍。それがあの日、アリカが自分の足で立つことを忘れてしまった日だ。 「俺は……」 シェドは逡巡する。今ここで、ずっと黙っていた過去を自身の口でアリカの父親に打ち明けることが出来るのだろうか。ミゲルに敗北を喫した気持ちを引きずり、前を向くことが出来ない今、さらに自分の過去の罪を曝して自分を傷つけることが出来るのだろうか。 ギャムルが黙ったまま鋭い視線でシェドを見据える。シェドは唇を噛みしめ、俯いて瞳を閉じた。 「シェド……」 ふいに背後から不安げな声が響いた。振り返った先には、アリカの困ったような顔があった。 「無理に話さなくていいわ。それに、私の脚がこうなったのはあなたのせいじゃないわ。だってあなたは、必死に私を守ろうとしてくれたもの」 「アリカ……」 「大切なのは今のあなたよ。過去を忘れることは出来ないでしょうし、忘れていいとは言わないわ。けれど、それに固執して今が見えなくなってしまっては駄目よ」 アリカの優しい言葉が響く。耳を傾けているだけで、心が安らぐような、甘い響き。 けれど、本当にそうなのかと思う。過去に固執して今が見えないとアリカは言うが、実際はそうじゃない。固執ではなく、逃げているだけだ。 「ありがとう、アリカ。……でも」 シェドは体を向きを直して、クッと顔を持ち上げた。 「ギャムルさん、長い話になりますが、宜しいですか?」 「シェドッ!」 「……俺の部屋で話そう。アリカ、お茶を淹れてきてくれ」 ゆっくりとした歩調でギャムルが作業場を後にする。シェドがそれに続こうとすると、アリカがすっと車椅子に乗ったまま行く手を遮った。 「アリカ、俺は過去に犯した罪に対し、何一つ償っていない。もともと薄情な人間だからな、罪を償おうと躍起になることなんてなかった」 「…………」 「罪の意識はある。だが、それを強く意識することはなかった。罪を償おうとせず、ただ自分の生きがいが欲しい、それだけで組織を抜けた後を生きてきた」 アリアが罪の意識に苦しむ姿を、シェドは冷めた気持ちで見つめていた。いや、アリアの真っ直ぐ過ぎるくらい純真な心に、アリアを守ってやりたいという気持ちが沸いたのは確かだ。だが同じように自分も罪を重ねてきたことに対しては、棚に上げたままだった。 「そんな俺が唯一、罪の意識をずっと抱いてること。それがあの日、ミゲルからお前を守ってやれなかったことだ。俺を救ってくれたアリカを守れなかったこと、俺はあの時俺が犯した罪を決して忘れることは出来ない」 アリカは何も言わず、ジッとシェドの目を見つめていた。半開きの口から言葉は零れず、黙ってシェドの独白に耳を傾けている。 「思い出すだけで苦しいのに、決して忘れられないんだ。必死で、必死で忘れようとしたのに」 ミゲルと対峙した時蘇ったのは、ミゲルに対する憎悪だけではない。必死に忘れようと蓋をしていたのは、罪の意識という苦痛。 「……でも、逃げてばかりじゃ何も変わらない。だからギャムルさんにすべてを明かす」 「どうして? どうしてそんな結論になるの?」 「誰かに白状することで、俺自身が罪を忘れることが出来なくなる。いや、忘れようとすることすら許されなくなる。逃げ道を潰すってわけさ」 「なんで……。そんなの、シェドが苦しむだけじゃない……」 苦しむだけ。確かにそうなのだろう。だが、今まで逃げようとしてきた苦しみは、決して逃げてはならないものだとシェドは思い始めていた。 再び出逢えたアリカの笑顔。同じ結末に終わったミゲルとの再戦。それらはまるで、シェドに変わるよう促す運命の啓示みたいに思えた。 「大丈夫。……アリカも、辛くなければ同席してくれ」 シェドはそれだけ言い残し、アリカの脇を抜けて作業場を後にした。 過去を見つめる、いい機会だと自分に言い聞かせて。 「あ……」 作業場の扉に張り付いて耳を傾けていると、不意に扉が開いてシェドが顔を現した。 「アリア……? お前、こんな所でなにやってるんだ?」 シェドが少し動揺した様子でアリアを見つめる。 アリカと何を話していたのか、アリアはそれが聞きたくて仕方なかった。しかし、シェドとアリカの間にある見えない絆のような関係がちらつき、アリアは口ごもって何も尋ねられない。 シェドが黙ったままのアリアを訝しげに見つめた後、ポンポンとアリアの頭を軽く叩いてからギャムルの部屋へ入っていった。アリアはそっと両手でシェドの手が触れた髪を触りながら、シェドが消えていった部屋のドアを見つめる。 「あら、アリアちゃん。どうしたの?」 廊下で佇んでいると作業場からアリカが姿を見せる。車椅子に腰掛けているため、小柄なアリアと同じ目線で自然と顔と顔が近い距離になる。 「何でもない」 アリアは顔を左右に振りながら答えた。間近で見ると、セシリーに匹敵するくらい艶やかなビリジアンの長い髪や完全なシンメトリーで美しく整った顔が一層ハッキリとアリアの瞳に映った。美人という言葉は、まさにアリカのような人をいうだろう。 無言で佇むアリアをしばし困った様子で見つめた後、アリカは一度居間へ引き上げていき、その後お盆に急須とコップを乗せて戻ってきた。 アリアが無言でギャムルの部屋のドアを開くと、アリカが春の陽気のような暖かくて優しい笑みを浮かべ、「ありがとう」と聞き惚れるような声音で礼を言った。 アリカが中に入り、パタンと扉を閉めてからも、アリアはしばらく扉の前に佇んでいた。 中でシェドは一体何の話をしているのだろうか。どうしてその場には、アリアではなくアリカが居るのだろうか。 引けば簡単に開く扉が、今のアリアには重い鉄格子のように見えた。 「どうしたんです?」 無言で立ち尽くすアリアに声を掛けたのはシルヴァランスだった。手に持っている籠には、昨日荷台と共に池に沈んだ衣類が大量に入っている。 「何でもない。……シルヴァランスは、洗濯中?」 「ええ、ようやく全部洗い終えました。これから広場に乾しに行くところです。一緒に行きますか?」 アリアが寂しい気持ちで居ることを察したのか、普段はあまり積極的にアリアと行動を共にしようとしないシルヴァランスが優しい笑顔で提案してきた。 「……うん。行く」 「はい。じゃあアリアさん、こっちの籠を持ってくれますか? このままだと視界が悪くて転びそうです」 シルヴァランスは三段重ねぐらいなった籠の一つをアリアに渡した。抱えた洗濯物で半分しか覗いていなかった顔が、ひょこっと姿を現す。 アリアはシルヴァランスに続き、アリカの家を出て広場に向かった。 広場とはドーム状の地下空間で唯一太陽の光が届くところだ。天井の穴から差し込む太陽光が、ゼロスフロアの中央にあるアリア達が落下した池を中心に降り注ぎ、池の周囲は背の低い草木が茂って草原のようになっている。そこが広場と呼ばれ、物干し場として利用されたり、子供達の遊び場となっている。 「これでよしっ!」 シェドが作ってくれた服の中でもアリアがかなりお気に入りである、黒と白の調和が綺麗なドレスを丁寧に乾しながらシルヴァランスが満足そうに声を漏らした。 「綺麗ですね」 「……え?」 「ほら、天井の向こうに見える青空。ぽっかりと開いた場所に、森の木々がぐるっと取り囲むよう若葉色を映して、その先には天の海と流れる白波。綺麗だと思いませんか?」 シルヴァランスが天井に開いた穴を指さし、赤子をあやすような優しい口調で言った。アリアが見上げると、そこには自分の瞳よりも澄んだ青空がひっそりと咲いていた。 「うん。綺麗……」 空を見つめていると、ずっと心を支配していた寂しさが少し和らぎ、アリアは微かに頬を緩めた。 「よかった。アリアさん、元気なさそうでしたから、少しでも元気づけられたらって思ってましたから」 「シルヴァランス…………」 「その、シェドさんに比べたら全然頼りにならないかもしれませんけど、何か困ったこととか悩んでることがあったらいつでも相談して下さいね。僕に応えられることでしたら、何でもしますから」 シルヴァランスはちょっとだけ照れくさそうに頬を人差し指で掻きながら笑顔で言った。シェドのぶっきらぼうな優しさとは違う、真っ直ぐな優しさ。 「うん。……じゃあ、一つ聞いてもいい?」 洗濯物を干し終え、広場にあるベンチに腰を下ろしてアリアは首を傾げながらシルヴァランスを見つめた。シルヴァランスは嬉しそうに、「どうぞ」と応えた。 「シルヴァランスは、好き以上の好き……、レンアイ感情を抱いたこと、ある?」 「え……。ええっ!」 驚いた様子で動揺を隠しきれないシルヴァランスを、アリアは無言で見つめた。 前にセシリーが言っていた、レンアイ感情という言葉。アリアにはまだ理解できない感情の一つで、何故かそれを知りたいと急く気持ちがアリアの心に溢れていた。 シェドの苦しそうな表情。あれは、好き以上の好きで苦しんでいるのではないかとアリアは勘ぐっていた。シェドとアリカは、互いにレンアイ感情を抱いている。そう考えれば、ボンヤリと霞がかった向こうに答えのような物が見えている気がした。 「私、まだよくレンアイ感情という気持ちがわからない。……セシリーはいずれわかるって言ってた。いつかきっとわかる日が来るって。でも、だけど……、私は早く知りたい。早く、早く知りたいの……」 「アリアさん……」 シェドとアリカを見ていると、心の奥がザワザワと波打つ。それがどうしてなのかわからない。どこにその答えがあるのかもわからない。 でも知りたい。気持ちは焦り、霧中の答えを模索し続ける。 「わかりました。……うーん、口に出すのも恥ずかしい話ですよね、そう言うことは」 アリアが真剣な眼差しで見つめていると、シルヴァランスが小さく肩を落としながら照れくさそうに白い歯を見せた。恥ずかしいことだと言いながらも、ちゃんと答えてくれようとするシルヴァランスに、アリアは心の中でありがとうを呟いた。 「僕みたいな男の話じゃ、あまり参考にはならないかもしれませんけど宜しいですか?」 「うん」 「はい。では、その、随分昔の、僕が初めて女の子を好きになった時の話ですけど……」 シルヴァランスは両手をベンチに着き、背筋を少し傾けながら天井を見上げて語り始めた。 まずシルヴァランスはランバーグという国のとある貴族の次男であったことを明かした。そして年の離れた兄が、当時まだ幼かった姉妹を屋敷の使用人として雇うと言いだし、シルヴァランスも共に生活するようになったと語った。 「当時、僕は八歳。姉妹は姉が十二、三歳くらいで、妹は僕と同い年くらいでした」 活発で使用人としても仕事をキビキビこなす姉と、何処か控えめであまり体が丈夫ではない妹。シルヴァランスは当時、次男であるから家督を継ぐ必要がないため、学芸よりも武芸に精を出していずれ来ると言われていた戦争に向けて子供の頃から修練を強要されていたという。 「辛い訓練の後、傷の手当てをしてくれたり、濡れた布巾で体を拭ってくれた同い年くらいの女の子。僕はいつの間にか、その子と一緒に居る時間、話している時間が楽しくて仕方なくなっていました」 遠くを見つめるような目で天井を見上げるシルヴァランス。アリアはそんなシルヴァランスの横顔を黙って見つめていた。 「それが僕の初恋です。辛い訓練も、その子が窓から手を振って応援してくれるだけで頑張ろうって気になりましたし、父上の目を盗んでこっそり持ち出した食べ物を夜中、二人一緒に笑顔を浮かべて食べた時、今でもハッキリと思い出せます」 「シルヴァランスはその子が好きだったの? その子にレンアイ感情を抱いていたの?」 「まだ子供でしたからね、本当にそれが恋愛感情だったのかどうか断言できません。けれど、もしそれに遠く及ばないような気持ちでしたら、別れの時にあれほど悲しい思いはしなかったと思います」 少しだけ目を細め、シルヴァランスの表情が微かに曇る。そんなシルヴァランスの表情に、アリアは何故か胸が締め付けられるような思いに駆られた。 シルヴァランスの初恋の相手である女の子が極めて稀な難病にかかったこと、そしてそのことが姉妹を屋敷から追い出すことになったと、シルヴァランスは辛そうに語った。 「父上は病が伝染することを恐れたのです。ですから、反対する兄を押し切って彼女らを屋敷の外に追いやったのです。二度と顔を見せないよう、釘を刺して」 「それじゃあ、その子とは……」 「……はい。もう、十年くらい前の話です」 シルヴァランスはそう言いながらアリアを振り向いて笑顔を浮かべた。笑顔の裏に潜む、悲しくて寂しい想いがアリアの胸をキュッと締め付けた。 経験のないアリアに、シルヴァランスの気持ちが共感できるはずはない。けれど、何故かシルヴァランスの笑顔に潜む感情が、今、自分の心を包む切ない気持ちに近いような気がしてならなかった。 シェドは生きがいを見つけるためにアリアと旅を共にしている。シェドが生きがいを見つけた時が、アリアとシェドが別れる時。アリアを包む感情は、まさに別れを予期したことで生じているものではないのだろうか。 「こんなところですけど、どうですか? ……あまり面白い話でなくてすいません」 「ううん、そんなことない。……ありがとう、私、聞けてよかった」 自分の心に渦巻く感情を一旦脇に追いやり、アリアは出来る限りの笑顔を繕ってシルヴァランスを見つめた。アリアの笑顔をシルヴァランスがどう受け止めたのかわからないが、シルヴァランスもフッと優しい笑みで応じてくれた。 「あら? こんな所で何してるのかしら?」 「セ、セシリーさん! いえ、別に、その、アリアさんと一緒に洗濯物を干して、ちょっと休憩していただけです」 「……なに動揺してるの?」 急に背後から現れたセシリーを見るや否や、シルヴァランスがあたふたと取り乱す。シルヴァランスを訝しげに見つめながら、セシリーは小首を傾げていた。 アリアはぴょんとベンチから降り、シルヴァランスの正面に立って、 「ありがとう」 もう一度シルヴァランスに礼を言ってからアリカの家のある方角へ駆け出した。すれ違い様にセシリーが疑問符を浮かべて困惑した表情を見せたが、アリアは止まらずに走り抜けた。 シェドのことと、シルヴァランスの話。それらをゆっくり考える時間が欲しかった。セシリーの側ではセシリーの優しさに甘えてしまうから駄目。一人で、静かに考える時間が必要だ。 旅の始めにシェドが作ってくれた鈴付きのリボンを鳴らしながら、アリアは息を切らして走り続けた。 シルヴァランスはアリアが去った後もしばらくベンチに腰を下ろしていた。天井の先に浮かぶ青い空。それを見ていると、あの少女を思い出さずにはいられない。 笑顔が可憐な子だった。笑うと頬にえくぼが出来て、一度えくぼを突っついて怒られたことがあった。 父は少女らに対して否定的だったが、母は違った。嵐の夜、小さな体を一層縮こめて震えるあの子に、シルヴァランスは自室を抜け出して寄り添って寝ようと試みた。けれどそれは屋敷で雇っていた従者に気付かれ、母の耳に届いてしまった。しかし母はシルヴァランスを咎めることなく、シルヴァランスとその子、そしてヴィクトリアの三人を自室に招き、四人一緒に大きなベッドで寝たこともあった。 「どうしたのよ、ジッと空を見上げて」 過去との邂逅を続けていたシルヴァランスを現実に呼び戻したのはセシリーの呆れたような声だった。あの子の髪も、天井の先に浮かぶ空やセシリーの艶やかな髪と同様、澄んだブルーだった。 「いえ……、ちょっと思い出に浸っていただけです」 「思い出?」 セシリーが興味在りそうに瞳を輝かせていたが、初恋の話などセシリーに話した暁には、絶対笑い転げられるに違いないと思い、シルヴァランスは黙って空を見上げ続けた。 「あらなぁに? お姉さんには話せないような内容なのかしら?」 「そうですね。出来ればセシリーさんの耳には入れなくない話です」 「非道いわ」 シクシクとしおれた様子をわざと見せながらも、セシリーは執拗に問いつめてきたりはしなかった。悪のりする時もあるが、基本的には分別がしっかりできる人だ。シルヴァランスの顔色を見て、根掘り葉掘り聞くのは悪いと思ったのだろう。 シルヴァランスは天井から視線を落としてセシリーを見つめた。シルヴァランスの視線に気付いたセシリーは優雅な笑みを返し、流れる蒼髪が太陽光で眩しく煌めいていた。 一瞬、シルヴァランスは息をつくことすら忘れてしまうくらい、セシリーの端正な顔に見入ってしまった。初恋の少女の面影を、何故かセシリーの中に見た気がした。 「うん? ……どうしたの? あ、お姉さんに見とれちゃった?」 口を開いて阿呆みたいに自分を見つめるシルヴァランスに、セシリーがわざとらしく流し目で甘い声を吐きながらサラッと髪を掻き上げる仕草をとった。こちらを動揺させる気でとったセシリーの行動にシルヴァランスはものの見事に引っかかり、耳まで真っ赤に茹で蛸のようになってしまった。それが無性に悔しく、シルヴァランスはそんな顔をセシリーに見られまいとツンと天井を見上げた。 「――え?」 憮然とした表情で空を見上げたシルヴァランスだったが、それは一瞬にして驚きに変わった。 「どうしたの?」 「あ……、い、いえ……。別に何も……」 からかっていたセシリーがシルヴァランスの隣に並んで空を見上げた。しかし、もはや空はただただ真っ直ぐな青さを誇っているだけで、それ以外に何の変哲も見いだせない。 ほんの短い時間だった。天井を見上げたシルヴァランスの瞳にそれが映っていたのは。 一瞬、雲かと見違えるような白くてしなやかな体。雄々しく優雅に広げられた純白の翼。威厳在る、神聖な趣を与える二本の角。 「何で……」 シルヴァランスは小さく小さく呟いた。 朝食の後、手持ちぶさただったシールディアは、昨日知り合ったパットという少年が駆け込んだ古本屋の前まで来ていた。別に深い意味はなく、ただ何となく気が向いたから来たという理由だ。 「お、こんにちはお嬢さん」 「こんにちは」 店に入ると、ブルゾンがパイプを燻らせながら穏やかに微笑んでいた。シールディアはブルゾンに一礼してから、店の奥を一瞥する。もちろん、今の位置からパットやミカという少女の姿が見えるはずもない。 「お嬢さん達は外から来た人間なんじゃろう? もしよかったら、どうして旅していたのか教えてくれないかのう?」 店には客の姿がなく、ブルゾンも退屈しているのだろうか。シールディアはブルゾンが腰掛ける番台近くあった丸椅子に腰を下ろし、ブルゾンへ体を向けた。 「私達の旅の目的は、アリアという少女の両親を捜しだすことだ。幼い頃に両親と引き離されたアリアのため、世界中を回りながら手がかりを追い求めている」 「…………。そうかい、お嬢さん達も色々と苦労しているんじゃのう」 シールディアの話を聞いて、ブルゾンが遠くを見るように店の外へ視線を移した。他の町の人間は大概、「可哀想」とか、「大変だな」と、悪く言えば他人事のように感想を漏らす場合が多いが、ブルゾンはまるで経験があるように、自分自身のことのように表情を曇らせていた。きっと、この町の人間には少なからず辛い経験を負った者が居り、ブルゾンもその一人なのだろう。 「ブルゾン、私からも一つ尋ねていいだろうか」 シールディアは顔を持ち上げて尋ねる。尋ねてから、今の自分の外見年齢より随分目上の老人を呼び捨てにしたのはまずいかと考えたが、すぐにそれは些細な問題であろうと思い直した。 「何かね?」 「話せる範囲でいい。この町の住まう人々の境遇、心に負った傷を教えてはもらえないだろうか」 「…………どうしてそんなことを聞きたがるんじゃ?」 「それは……」 それはシールディアがドラゴンと呼ばれる、ヒトを守る存在であるから。人間の体に身を宿すことで芽生えた自我であるが、その根本、本能と呼ばれる部分では、ドラゴンとしての使命であるヒトを守る、守りたいという思いが強く浮かんでいた。 「私は多くの人々を苦しみから救ってやりたいと願っている。だが、私はヒトの心の傷や苦しみといった感情に疎い。本当の意味で人々を救うため、私は多くのヒトのそれを自身の心に刻んでおきたいのだ」 それはシールディアがドラゴンとして未熟なのではない。ドラゴンは本能的にヒトを守ろうとする。だがシールディアが願っているのは、理性的、自分の意志でヒトを守ることだ。 「……お嬢さんは不思議な目をしている。……うむ、じゃあ、ジジイのつまらん話に付き合って貰うとしようかの」 ブルゾンはパイプの中の煙草を捨て、新しい草を詰めてからマッチで火を付けた。白い煙がほわっと昇り、ブルゾンが口から小さな雲を作り出す。 それからしばらくの時間、シールディアはブルゾンの話に聞き入っていた。 テムルに住む人々が何故生まれ故郷を追われてここに移り住んだのか。理由は人それぞれだったが、共通しているのは皆、自分の意志でここへ流れ着いたわけではないということだ。 「あれ……?」 小一時間ほどブルゾンの話に耳を傾けていると、ふいに背後から驚きの声が響いた。シールディアが振り返ると、パットが瞬きしながらシールディアを見つめていた。 「よ、よう! 遊びに来たのか?」 「うむ、遊びに来たというわけではないが、そう捉えても問題ない」 「え? あ……、遊びに来たんだな? えっと、その、じゃあこっち来いよ!」 何やらオドオドと落ち着き無い様子のパットを怪訝に感じたが、シールディアはブルゾンに一礼してから言われるがまま店の奥へとあがることにした。 ブルゾンの話の中にはパットの境遇も含まれていた。パットの両親はトルメキア王国に楯突き、幼いパットを残して処刑されてしまったらしい。またブルゾンの娘夫婦、ミカという少女の両親も同じように革命に参加して命を散らし、ブルゾンはミカと仲良かったパットを引き取って、放浪の旅に出てこの町に流れ着いたという。 「こっちだ! おいミカ、この姉ちゃんがその服を貸してくれたんだぜ!」 「…………あ」 乱暴に扉を開いてズカズカと中へ押し入るパット。部屋の中から幼い少女の声が零れ、シールディアが静かに踏み入ると、ベッドに横たわる七歳くらいの少女が驚いた表情でシールディアを見つめてきた。予想していたより随分幼い。てっきりシールディアの服を着せようとしているくらいだから、アリアくらいかアリアより年上だと思っていた。 ベージュの髪にライラックの瞳。肌は病人のように白く、頬を痩けていて決して健康的な顔つきではないが、少女ならではあどけなさ、可憐さが際立つ可愛らしい少女だった。 「そなたがミカか。私はシールディア。呼びにくければシールで構わない」 「あ……。ミ、ミカ……です。その、あの……、ふ、服を……」 ミカは恥ずかしそうに布団で顔を半分覆い隠しながら、小声でありがとうと口にした。 「試着してみたか?」 「う、ううん、その……、着方がよくわからないし、あの、私、一人じゃ立てなくて」 「だから、俺が着せてやるって言ったじゃんかっ!」 「だ、だってぇ、は、恥ずかしいんだもん……」 「女性は男性に素肌を晒すことを恥ずかしく感じるものだ。ミカの反応は至極正常な感情であると思うぞ」 チラッとパットの顔色を窺うと、パットは顔を真っ赤にして言葉無く後頭部を掻きむしっていた。ミカも恥ずかしそうに布団をさらに引き上げる。 「ミカは足が悪いのか?」 「……うん。よく、わからないんだけど、足の筋肉が頑張っても成長しない病気なの。だからちょっとの間なら杖を使って立てるけど、普段はずっと横になってるの」 遠い目で玄関の方を見つめるミカ。横穴に作った家には窓がないため、外に出て走り回りたいと思う気持ちが自然とそうさせているのだろうと、シールディアは察した。 「そうか。……アリカのように車椅子を使ってはどうなのだ?」 「アリカお姉ちゃんを知ってるの? ……うん、お祖父ちゃんがこの町の魔練器技師さんに頼んで、立派な車椅子を作ってくれてるって言ってた」 「何時の話だよ。ったく、もう少しもう少しって言って全然完成しねーじゃねぇか!」 パットが怒りを露わにして床に拳を叩きつけた。魔練器に関してシールディアは詳しい知識を持ち合わせていないため、車椅子を作ることがどれほど困難なことなのか想像できない。パットの怒りもわかるが、きっと相手も必死に作ろうとしてくれているのではないだろうか。 「…………。パット、少し席を外してくれないか?」 「あ? どうして?」 「ミカにあの服を着せてやろうと思う」 車椅子のことは町に住むという魔練器技師に任せる他ない。シールディアは今自分に出来ることで、ミカを喜ばせることが出来る方法を探したまでだ。 パットがシールディアの指さした先を見つめる。そこには普段シールディアが身に纏っているシェド手作りの豪奢なドレスが一着、壁に掛けてあった。鞄の中には他にも沢山ドレスが入っていたが、あれだけが壁に掛けてあるところを見ると、どうやらあのドレスが一番気に入ったのだろう。 「いいよ、そんな……。どうせ、私には似合わないし……」 「そんなことはない。そなたは十分愛らしい容姿をしていると思う。……ところでパット、そなたは男性であるから女性が衣装替えする時は部屋を出るべきだと思わないのか?」 「うっ……。わ、わかったよ、出てりゃあいいんだろ!」 シールディアがスッと見据えると、パットはきまりが悪そうに視線を泳がせながら部屋を出ていた。 「あの……。ホントにいいの? 私、立てないから、その、服着たまま横になるとしわになっちゃうよ?」 「問題ない。……さあ、上半身だけ起こせるか?」 「……うん」 躊躇気味のミカに、シールディアはてきぱきとドレスを着せていった。サイズは多少ぶかぶかだが、もともとスカートにパニエをあしらったしてボリュームを出していたドレスなので、大きくてもそういうデザインであるように映る。 漆黒のドレスというと暗いイメージに聞こえるが、それは白を際立たせるための黒いドレス。シールディアに同じく、ミカの肌も磁器のように白いため、黒のドレスはとても似合っていた。 「うわぁ」 最後に胸元のリボンを結び終えると、ミカが顔をほころばせて可愛らしい声を上げた。シールディアの頬が自然と緩み、表現しがたい感情が心にポッと浮かんだ。 「パットよ、もう入ってもいいぞ」 上半身を起こしたまま袖やスカートを嬉しそうに見つめるミカの隣で、シールディアは扉に向けて話しかけた。するとパットが待ちくたびれた顔でミカの脇に駆け寄り、ミカの晴れた笑顔を見て顔を真っ赤にしていた。 「……似合ってるじゃねーか」 「そ、そうかな? ありがとう、シールさん」 「さん付けは不要だ。確かに私の方がそなたより歳は上だろうが、かしこまる必要などない。パットに話しかけるのと同様に接してくれればよい」 シールディアは出来る限りの笑顔を浮かべて見せた。それがちゃんと笑顔になっているか自信はなかったが、ミカは照れくさそうにはにかみながら、 「うん! ありがとう、シール!」 真っ直ぐシールディアに応えてくれた。 「違う! 何度言ったらわかるんだ! 手首の返しはこう!」 ギャムルがそう言いながら、シェドの手に握られている針と布地を奪い取り、何度も何度も同じ部分を縫合してみせる。もういい加減見飽きた手腕だが、何故か頭で理解できても手は言うことを聞かず、結果、繰り返しギャムルに罵声を飛ばされる。 シェドは苛立ちを表面に浮かべながらも、黙ってギャムルの手つきを見つめた。 組織にいた頃、自分の衣類を修繕することから始めた裁縫だが、確かにそれはギャムルの言うとおり独学で基礎がなってないものだった。今まではそれで良いと思っていたが、ギャムルの腕前を見て今よりうまくなりたい、ギャムルのようにもっと器用に針を扱えるようになりたいと思った。 「違ーう! 何でお前はすぐそこで手首を捻ろうとするんだ!」 ギャムルが咆えながらシェドの両手を掴み、二人羽織がごとくシェドを操り人形とする。二十歳過ぎた男が手取り足取り指導される姿なんざ、端から見ればとても滑稽だろう。 ここはアリカの家の食卓。シェドは夕食を摂ることを許されず、ずっとソーイングセットで布きれと格闘していた。時折アリカとセシリーの堪え笑いが聞こえる。 シルヴァランスとシールディアは夕食を食べてすぐに奥の作業場に消えていった。当分の間、シェド達はそこで寝泊まりすることになる。 「シェド、ちょっと休憩したら? 食卓が片づかないわ」 「アリカは黙ってなさい! おらシェドッ! 飯食いたかったら意地でも手首の返しを体得してみせろ!」 「……ちくしょお、くそっ!」 腹立たしい思いを堪えつつ、シェドは必死に針を走らせる。手際よくやっているつもりなのに、すぐにギャムルの罵声で作業は中断し、実演混じりの講義が延々続く。 「もう、二人とも子供なんだから」 アリカが呆れたようにため息を漏らし、流しへ移動して他の人間が使った分の食器を洗い始めた。流しはアリカのために、ずっと低い位置にたらいが置いてあり、綺麗な水が張ってあった。 「あらあら、シェドも形無しね」 「うるせぇ!」 「シェドォッ! よそ見してねぇで手ぇ動かせっ!」 セシリーの軽口に反応すると、ギャムルが問答無用で頭を叩いてくる。流しにいるアリカが少し困ったような笑みでこちらを見つめ、セシリーもニヤニヤと小憎らしい笑みを浮かべていた。 ただ、アリアだけが思い詰めたような、少し愁いを帯びたような表情を浮かべていた。そう言えばテムルに来てからどことなく様子がおかしいような気がするが、一体どうしたのだろう。 「こらあっ!」 「――いでっ!?」 他事考えている暇など今のシェドにはなかった。アリアのことは気になるが、そのことはセシリーに任せておけばきっと大丈夫だろう。 シェドはせっせと針を走らせ、終わりの見えないギャムルの講義は次から次へと新たな手法をシェドに伝授し続ける。 その晩、シェドは夕食を食べることはできなかった。 |
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