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第三章 溢れる想い トルメキア王国の王都、カラトス中心にあるトルメキア城の一室は緊張に包まれていた。多くの将校らが真剣な眼差しで壇上に立つ小麦色の髪をした男、レイナスを見つめ、レイナスの脇には栗色の髪に細いえんじ色の目をした青年、アルフレッドが立っていた。 いや、正確には将校らの視線はレイナスではなく、その後方に直立する四人の幼い少女達へと向けられていた。 髪の色、瞳の色、どれをとっても全く共通点の無い少女達。いや、そこには一つだけ、不気味なほどよく似た特徴があった。 四人とも、表情から感情がほとんど読み取れなかった。無表情と言って相違ないくらい、少女達の顔に喜怒哀楽は微塵もない。 「作戦会議は以上だ。各自遠征に備え、今夜は体を休めておけ」 レイナスの言葉を最後に、会議は閉廷。将校らは口を固く閉ざしたまま会議室を去っていった。 「では、僕も明日に備えておきます」 「…………」 アルフレッドが含みのある笑みを浮かべ、少女達を引き連れて部屋を去った。レイナスはアルフレッドの背を睨むように見つめた後、ガタッと椅子から身を起こした。 「将軍!」 レイナスが会議室を出ると、一人の男が怒りを露わにしながら駆け寄ってきた。燃えるような赤い髪に空色の瞳をした男、スルトは、自分より位の高いレイナスを捕まえてキッと鋭い視線を送りつけていた。 「何故、私には出兵の任が与えられないのですか!」 「……お前だけではない。家族を持つ者はすべて、今回の出兵から外している」 「どうしてです! 国に仕える軍人として、戦争で命を落とすことは恐れておりません!家族も……、ミハルもそれは重々承知してるはずです!」 激昂するスルトをレイナスは目を細めながら見つめた。そして無言で歩き出すレイナスに、スルトが食らいつくよう脇に並んだ。 「今回の戦争、私達国王軍はただのお飾りに過ぎん」 「え……?」 「お前も見ただろう? ……あの、“天使”と呼ばれる少女達の圧倒的な戦闘力を」 レイナスもスルトも、先ほどの四人に先駆けて王都に配備された三人の天使をすでに見知っている。そして、彼女らの人知を超えた力も何度か目の当たりにしていた。 「天使が四人も前線に投入されるのだ。……我ら一般兵など、有象無象の雑兵に過ぎんだろう。ならば、無為に頭数を多くする必要はない」 「……ですがっ!」 一向に納得する様子のないスルトに、レイナスは重い息を漏らしてから一枚の紙を差し出した。怪訝な顔つきでスルトはレイナスの顔を一瞥し、ゆっくりと紙を受け取った。 「こ、これは……」 紙を両手で握り、そこに書き記された文字を目で追っていったスルトが紙をぐしゃっと握りつぶしてレイナスを睨むよう見据えた。レイナスは静かに口を開き、 「スルト=ヴァレンシア。本日をもって王都警護の任を解き、新たな任を命ず」 威厳ある、重低音ではっきりと言った。スルトは瞳を閉じ、俯いて拳を握りしめている。 「トルメキア王国の領地、ジペインの町の守備隊に君を配属する。いいか、これは命令だ。変更は一切ない」 やりきれない思いを払拭するよう、スルトが踵をサッと返してレイナスの元を走り去っていった。 「スルト……、死に急ぐなよ。お前にはミハルさんがいる。それに、何処かできっと、娘もお前を捜しているはずだ」 小さくなっていく背中に、レイナスは小さく語りかけて、スルトとは反対の方向へ歩き出した。 王都カラトスから延々伸びる公道。大陸の東南端にある半島の先に、ジペインの町はあった。 人口が百人にも満たない長閑で落ち着いた田園風景が広がる田舎町。農作物を都会に売り込むことで生計を立て、中には織物などに使う染料の材料を栽培している家もある。 都会では至る所で見られる魔練器も、ジペインの町では殆ど見られなかった。夜道には魔練器灯の代わりに灯籠が輝き、火を起こすのにフレアジェムを内蔵した魔練器を使う家庭などまったくない。 「ただいま」 「お帰りなさい」 王都から馬を走らせ、約三日間の旅路を終えたスルトは、妻、ミハルの居る木造平屋の自宅へと一年ぶりに帰宅した。 ミハルは銀色の髪を紐で縛り、割烹着を着て何やら掃除をしていた。スルトが首を傾げていると、その水色の瞳をやんわりと細めて微笑み、 「あなたが戻ってくるって聞いたから、あなたの書斎を掃除していたの」 「そうか。……俺も手伝うよ」 「いいんです。あなたは長旅で疲れているでしょう? ちょっと早いですけど、昼食の準備は終わってますから先に召し上がって下さい。その間に掃除を終わらせて、お風呂をご用意しますから」 「……いや、やっぱり手伝うよ」 「あらまあ、強情ですね」 スルトはクスクスと微笑むミハルから雑巾とバケツを受け取り、書斎へと足を運んだ。久しく見てない自分の書斎でスルトが呆然と部屋中を覗っていると、ミハルが箒とちりとりをもって現れる。 スルトは王都からの旅路であったことを淡々と語った。ミハルは時折「そうなの」といった相づちを挟みながらスルトの話に耳を傾ける。 しばらくそうしていた時、スルトがふと会話を切った所でミハルがおもむろに口を開いた。 「戦争が、始まるんですよね」 まるで自分の国とは無関係な、他人ごとのように話すミハル。スルトはピタッと作業をやめ、少しだけ視線を下げた。 「ああ。……しかも、戦うのは俺たち軍人じゃない」 「え……?」 「詳細は言えない。だが、俺がこっちに戻らされたのも、俺のような一般兵が戦う必要がないからだ」 口惜しいのか、スルトは拳をグッと強く握って瞳を閉じていた。ミハルは眉根を寄せ、そっと後ろからスルトに歩み寄ると、自分より随分背丈の高いスルトを包むように抱きしめた。 「……ミハル」 「私は戦争のことも、軍のことも何も知りません。けれど、そんなこと別に知りたいとも思いません。あなたがこうしてここにいてくれる、ただそれだけで私は十分です」 スルトはそっとミハルの手に自分の手を添えた。 「ミハル、俺は……。ずっと君を一人にして……。あの子が……、レイチェルが居なくなって以来、君の顔を見るのが辛くて俺は……」 「わかってます、わかってました。……あなたは私の顔を見るたび、悲しい表情を浮かべていましたから」 ミハルはしばらくずっと、スルトを後ろから抱きしめていた。外からは子供達の楽しげな声が響いてくる。 争いや喧噪とは無縁の町。スルトはミハルと共に、忘れかけていた長閑で安らぎのある生活を再開しようとしていた。 * * * ただで居候するのは心苦しいと訴え、シルヴァランスはアリカから家の掃除を言いつかった。自ら何か仕事はないかと尋ねた時、隣に座っていたセシリーが「生真面目ねぇ」と人を小馬鹿にしたような言い方をしたが、シルヴァランスは聞き流して掃除を始めた。 居間にある食器棚を雑巾掛けしていると、奥からギャムルの罵声が繰り返し繰り返し響いていた。今日もシェドはこってりしぼられているようだ。 セシリーはふらっと家から出て行き、シールディアの姿もない。居間には、アリアがヒューイを頭に乗せて黙っているだけだ。アリカは自室の掃除をしているのだろう。 「シェドさん、頑張ってますね」 「……うん」 雑巾を絞りながらアリアに話しかけ、シルヴァランスはちょっと手を休めた。 「昨日の晩、シェドさんは深夜に作業場へ戻ってきたんですけど、……聞いてました?」 聞いてました、という言葉の主語は、帰ってきた後のシェドとシルヴァランスの会話。アリアがもし起きていれば、聞こえていたはず。 アリアは口を閉じたまま首を左右に振った。髪飾りがリンと鳴り、綺麗にカットされた桃色の髪が靡く。頭の上のヒューイが少し驚いた様子で耳をピクと動かした。 「そうですか。その、僕は寝付きが悪くて起きていたんですけど、その時、少しだけシェドさんとお話したんです。そしたら、何て言ったと思います?」 眠気は感じていたものの、その言葉があまりシェドに似つかわしくなかったから、シルヴァランスは鮮明に覚えていたのだ。 アリアが再度首を振った。シルヴァランスは少し得意げに微笑んで、 「シェドさん、こう言ったんです。“服職人になるのも悪くないな”って」 「え……?」 シルヴァランスの前でアリアが驚いた表情を浮かべた。普段あまり感情を読み取れないアリアであるが、今のは間違いなく驚きの表情だと、シルヴァランスは確信を持って言える。昨日のシルヴァランス同様、かなり驚いているようだ。 「驚きますよね。確かに裁縫の腕前とかすごいですけど、まさかそれを生業にしていこうと考えているほど、服作りに思い入れがあるとは思いませんでした」 「…………」 シルヴァランスは一方的に話し込んでいると、アリアの表情は何処か悲しみに満ちたものに変わっていた。昨日ベンチで話した時のような、寂しそうな表情。 「キュキュッ?」 先に、何かを感じ取った様子でヒューイが鳴いた。 「どう、しました? 何かありました?」 「…………」 シルヴァランスの言葉に、アリアは全く反応を示さない。心ここに在らずといった具合で、虚空を見つめていた。 「キュー?」 しばらく、シルヴァランスが雑巾掛けをする音だけが静かに響いていた時、ふいに外から騒がしい声が聞こえてきた。アリアがハッとしたように顔を持ち上げ、シルヴァランスもアリアに習ってドアを見つめる。 「騒がしいですね。……ちょっと様子を見てきます」 シルヴァランスはアリアを居間に残し、雑巾を握ったまま家を飛び出した。 すると、各フロアに点在する家から多くの人が顔を出し、皆一点を見つめて驚きの表情を浮かべていた。シルヴァランスが視線を皆が見つめる先に持って行くと、そこでは先日シルヴァランス達が落ちた池がザバザバと波打っていた。 「あれ……?」 シルヴァランスは池から上半身だけ浮かべている一人の少女に気が付いた。テムルの町人達に囲まれ、池の中を漂う黒い髪の少女。少女が乗ってきたであろう馬が、池の畔でブルッと水滴を周囲に散らしている。 「ミレーヌさんっ!」 池の中心に駆け寄りながら、シルヴァランスは声を張り上げた。すると池の中で漂っていた少女が、パッと表情を切り替えて畔まで泳ぎ切り、池から出てシルヴァランスへ駆け寄ってきた。 「シルヴァランスさん! っていうことは、やっぱりこの町にシェドも居るのね?」 「ええ、そうです」 ようやく知っている顔に出逢えた、そんな安堵感を前面に出したような笑みを浮かべ、その後でミレーヌは怪訝そうに周囲で自分を取り囲む町人達を見つめた。 シルヴァランス達がここを訪れた時同様、取り囲う人の中には武装した人間も多い。ここを一種の秘密基地みたいに考えれば、外部からの訪問者を快く思わないのは当然だろう。 「……君たちの知り合いかね」 前回同様、町人の中から町長がすっとシルヴァランスへ歩み寄り、矯めつ眇めつミレーヌを見つめながら尋ねた。 「はい、僕たちの仲間です。普段は別行動をとっていて、定時連絡や物資補給の際に合流します」 「何故この場所がわかった?」 「えっと、その、この魔波計の対となるのをアリアちゃんに持たせているから……」 そう言いながらミレーヌが手のひらに収まる程度の懐中時計みたいな魔練器を取り出した。シルヴァランスはあまり詳しくないが、互いに同じ波長の魔波を放っているため、互いの場所を認知しあえるという物らしい。ジェムの大きさによって距離が伸び、今使ってるのであれば大陸の半分はカバーできるようだ。 「すいません、その事をお話ししていませんでした。けれど、彼女は大丈夫です。物事の分別がしっかりでき、この年でかなり高度な技術を体得している優秀な魔練器技師です」 シルヴァランスが町長の顔を見つめてそう言うと、あまりにストレートな褒め言葉だったせいか、ミレーヌが照れくさそうに頭を掻いていた。 しばらくミレーヌに向かう敵意や訝しげな視線は続いたが、徐々に緩和していき、最後は町長が認めたことですべて払拭された。 「勝手に踏み入ったことをお詫びします。あたしは、まだ未熟ではありますが魔練器に関する知識があります。もし何かあれば、私に出来る範囲でお手伝いしますから、いつでも声を掛けて下さい」 去っていく町の人々に、ペコリと腰から上半身を折って礼をするミレーヌ。その行動を、シルヴァランスは目をパチパチさせながら見つめていた。 「なぁに?」 「あ、いえ……」 シルヴァランスは適当に言葉を濁しながら、ミレーヌが乗ってきた馬を引いてアリカの家へ案内した。内心、ミレーヌが落ち着いた大人の立ち振る舞いをしたことに驚いていた。まだどちらかというとかしましい少女のイメージが強かったため、そのイメージとのギャップに驚いたなど、本人に言うのは失礼極まりない。 「へぇー。じゃあ、みんなもあたしみたいに怖い顔で最初睨まれたんだね」 「ええ。いきなりですし、驚かせてしまったのも無理はありません」 「しっかし面白い所よねー、ここは。階層構造になってる地下空間かぁー。うーん、天然でこんなものが出来るなんて不思議よねー。自重のバランスとれてるみたいだし、実に興味深いなぁ」 キョロキョロと周囲を好奇心に充ち満ちた瞳で見渡すミレーヌ。目新しいことや普段シルヴァランスが気に留めないようなことでも真剣に理屈で判断しようとするところは、実に技術屋らしいというか、もっと言えばそれがミレーヌらしかった。 シルヴァランス達が乗ってきた馬がつなぎ止められている横穴の手前、ミレーヌが晴れ晴れとした満面の笑みを浮かべ、小躍りしながら家の中へ押し入っていく様子を、シルヴァランスは後方から微笑みながら見つめていた。 「やっほーアリアちゃーんっ!」 壊れそうなくらい威勢良く扉を開けて入ってきたのはミレーヌだった。今日は両目とも緑色をしているため、魔眼レンズは装備していないようだ。扉の開いた大音に、頭の上のヒューイが驚いて奥の作業場の方へ走っていってしまった。 「…………」 「あれぇ? どうしたの? 何か元気ないじゃん」 「そんなこと……ない」 ミレーヌはアリアの様子を窺いながらも、落ち着き無くキョロキョロと何か探し物をするみたいに周囲を覗っていた。 「シェドさんなら奥の作業場です。でも今ちょっと取り込み中ですから、やめておいた方が懸命だと思います」 落ち着き無いミレーヌに、答えを用意したのはシルヴァランスだった。アリアが見つめる先、「えーっ!」と項垂れながらミレーヌは肩を落とした。 「……あら、お客さん?」 玄関から入ってくるシルヴァランスに続いて、今度は奥からアリカが顔を出した。片手でバケツを握り、もう片手で車椅子の車輪を押しながらアリア達へ近寄ってくる。 「……?」 ミレーヌが、この人誰、みたいな顔でアリカを見つめる。アリアが黙っていると、またもシルヴァランスが口を挟み、 「僕たちがお世話になっている、この家の方です。何でもシェドさんのお知り合いだそうで」 と、丁寧に説明した。 「シェドの……知り合い?」 ミレーヌの顔に、明らかな敵意にも似た訝しげな表情が浮かぶ。どうせまた、トラキアの街で会ったフィオナの時のよう、シェドとの関係をあれこれ勘ぐっているのだろう。早とちりしてフィオナに迷惑掛けたと、風呂場でミレーヌ自身が言っていた。 だが今回、それはアリアも同じだった。シェドとアリカの関係。出来ることなら、シェドから直接聞きたい真実。けれどアリアはそれを聞けずにいて、ずっと悶々としている。 「こんにちは。私はアリカ=ハーフレットです」 落ち着いた口調で話しかけるアリカに、ミレーヌは若干及び腰になりながらも、キッとアリカの目を見つめ返した自己紹介をした。 「それでアリカさん、あなたとシェドは一体どういう関――」 「おーい! シルヴァランスーッ!」 ミレーヌがアリカに敵意むき出しで問いただそうとした瞬間、その声は玄関の外から響いたセシリーの声音によってかき消された。 タイミングを逸したというか、一気に気力を消費したようにうなだれるミレーヌを後目に、玄関の戸がバンと開いてセシリーが顔を出す。 「ちょっとセシリー! あんた……」 わなわなと震えるミレーヌに、「あら来てたの?」と淡泊な反応を返したセシリーは、ミレーヌの罵声を受け流しつつシルヴァランスの元に歩み寄っていった。 「な、何ですか?」 「んふふー。いいから、ちょっとお姉さんについてきて」 セシリーが妖艶な笑みを浮かべて、困惑した面持ちのシルヴァランスの腕を捕ってそのまま外へ引きずっていった。 すると二人と入れ代わるように、玄関先に見知らぬ中年の女性が顔を出した。それに気付いたアリカが女性の元に車椅子を寄せ、何やら話しかける。 「……ああ、そう言えば今日でしたね。……ちょっといいですか。――お父さーんっ!」 アリカが家の奥に向かって声を張り上げると、しばらくしてギャムルとシェドが姿を現した。ミレーヌを見て、ギャムルは、はて? といった表情を浮かべ、シェドは、うわっ、といった表情を浮かべる。 シェドは朝からずっと、正確には昨日からずっとギャムルの厳しい指導を受けてげんなりした様子だった。それだけ一生懸命に裁縫の技術を学んでいる。そう思うと、アリアは胸の奥がキュッと締め付けられる思いに駆られた。 「おお、すっかり忘れとった。今日は共同武芸訓練の日か」 ギャムルが中年女性と話ながら家を出て行った。シェドがアリカに、「武芸訓練?」と眉を顰めながら尋ねると、 「この町はこの町に住む私自身の手で守っているの。森の奥にあるせいか、魔物の襲撃だって少なからずあるし、少数精鋭で他の街に買い出しに行く時は、武芸に秀でた者が行く決まりになってるわ」 「ほー」 「訓練とは言ってるけど、実際は大会みたいなものなの。参加者が、勝ち抜き方式でトーナメント戦を行うのよ」 アリカは説明を終えると家を出て行った。取り残されたアリア達は互いの顔を見合わせ、無言でアリカの後に続いた。 アリア達が外に出ると、池の周辺に大きな訓練会場みたいなスペースが設けられており、町の人々、おそらく参加者だと思われる面々が、各々準備運動を繰り返していた。 「あら、あなた達も参加するの?」 「ん……? 何だ、お前ら参加するのか?」 ふと、人混みの中にセシリーとシルヴァランスの姿を見つけ、アリア達が駆け寄ると、二人の手には参加者の証である木彫りのバッチが握られていた。晴れやかな笑みを浮かべるセシリーと、対照的に困ったような顔で恨めしそうにセシリーを見つめるシルヴァランス。 「セシリーさんが、どうしてもスノーレン郊外で戦った時のリベンジがしたいと言い出しまして……」 「実行委員の方にお願いして、一回戦でシルヴァランスと戦えるよう計らってもらったの。その代わり、どちらが勝っても二回戦で棄権するよう約束したけど」 「はあ。ったく、何やってんだか。……ん? どうした、アリア?」 シェドがやれやれと首を振った時、アリアはシェドの瞳をジッと見つめていた。 セシリーが何を思ってシルヴァランスと戦うのか、正直アリアにはわからない。単にお遊びで戦うだけなのかもしれない。けれど、仲間同士で戦うという言葉にアリアはとても衝撃を受けていた。 シェドにアリカとの関係について何も聞けないアリアは、八方塞がりで活路が見いだせない。自分のこと、シェドのこと。考えれば考えるほど思考は悪循環を続け、シェドが今何を思っているのか、どうしてこんなにも胸が苦しいのか、ずっとわからないでいる。 けれど何だろう。理屈ではない何が、アリアの内から語りかけてくる。漠然とした一つの選択肢が脳裏に浮かび、それはアリアの意識を支配していく。 気付いた時、アリアはシェドを見つめて口を開いていた。 「シェド……。私、シェドと戦いたい」 ゼロスフロアの中央にある池。その周囲に設けられた四つのフィールドではテムルの町人達が拳、または木刀を手にぶつかり合っている。訓練とは銘打っているが、実際はかなりハードに互いを攻撃していた。 そのフィールドの一つで、セシリーは髪留めの紐をもう一度結び直して目の前に困った顔でこちらを覗っているシルヴァランスに微笑みかけた。 セシリーは黒のノースリーブにパレオのようなロングスカート。シルヴァランスはいつもと同じ白いローブ。セシリーが素手であるのに対し、シルヴァランスは木刀を握りしめていた。 ルールは特にないが、急所攻撃とジェムの使用は禁止されている。以前、スノーレンの郊外で戦った時はシルヴァランスのアクセラレータに不意を突かれてやられたが、今回はその心配はない。純粋に互いの身体能力、戦闘能力が物を言う。 「さあて、覚悟はいいかしら?」 「はあ……。本当にやるんですか? その、あまり気乗りしないんですけど……」 「言っておくけど、私は手加減しないからね。あなたがどうするかはあなたに任せるけど、手を抜こうなんて思ったら痛い目見るわよ?」 「……わかってます。こういう時のセシリーさんは怖いですから。気を引き締めませんと、本当に何されるかわかりません」 シルヴァランスがやれやれと頭を振りながら木刀を身構える。セシリーも腰を落として身構え、笑みを消して鋭い表情を浮かべる。 「行くわよっ!」 セシリーは一気に間合いをつめ、シルヴァランスの懐に潜り込もうとする。だが、シルヴァランスが一瞬早く木刀を振るい、セシリーは攻撃する前に身を翻して一歩引いた。 さらに追い打ちを掛けるシルヴァランスを蹴撃で弾き、体を捻って拳を奮う。シルヴァランスが木刀でセシリーの拳を受け止め、そのまま力任せに木刀を薙ぐシルヴァランスに、セシリーは後方に飛んで攻撃をかわす。 たった数回ぶつかっただけだが、やはり腕力においてはシルヴァランスに分があるとセシリーは直感した。その上、頼りの身軽さ、身のこなしにおいても決してセシリーが優位とは言えない。互角か、あるいはシルヴァランスの方が敏捷性もあるかもしれない。 ならば自分が勝つためにはどうするか。セシリーは髪を乱暴に振りながらシルヴァランスの攻撃をかわし、思考を巡らせた。 「……くっ!」 攻撃し倦ねている間に、シルヴァランスの木刀がセシリーの肩口を襲う。決して直撃ではなかったが、思わずセシリーは顔を歪めた。その瞬間、シルヴァランスが、しまったという顔つきでセシリーを見つめる。 「…………油断したわ!」 シルヴァランスが見せた戸惑い。それはセシリーの内心に火を付けた。 セシリーがシルヴァランスに戦いを挑んだのは、以前負けたことだけが理由ではない。しかし、ではそれ以外にどんな理由があるのかと尋ねられても、セシリーははっきりした答えは用意できなかった。 端的に言えば気に食わない。シルヴァランスの余裕というか、その強さが。今もセシリーのことを気遣って、絶好の攻撃チャンスを無駄にした素直すぎる優しさが。 こちらのことを思って攻撃しないでくれたシルヴァランスに対して怒りを覚えるのは、自分でも嫌な女だと思う。だがそれでも、セシリーはシルヴァランスに対するやりきれない思いをぶつけるまでは、この戦いをやめるわけにいかない。 「うふふっ。絶っっ対ぶん殴るってあげるわ!」 「セ、セシリーさん、何か怖いですよ? それに、あまり怖い顔をしてますと、あの、しわが……」 「――っ!?」 シルヴァランスの一言で、セシリーの中で理性の糸が一本切れた。 「……お姉さんに向かって結構な言いぐさじゃない」 「え? あ、あの……、何を怒って……」 「はあああああっ!」 動揺するシルヴァランスに、セシリーは問答無用で突進していく。慌てて木刀を握り直すシルヴァランスだが、セシリーが半テンポ早く攻撃を仕掛けていた。 懐に思いっきり拳を叩き込み、さらに身を翻して回し蹴りを繰り出す。シルヴァランスは初撃で体勢を崩したが、すぐに持ち直してセシリーの回し蹴りを木刀で受け止めた。 しかし回し蹴りはあくまで布石。シルヴァランスが守備に自身の体ではなく、すぐ武器に頼るのは悪い癖だ。 「はいっ!」 「――ぐぅっ!」 セシリーは木刀で左足を支えたまま、右足で大地を蹴った。そして右足と左足をすり替え、戸惑うシルヴァランスの肩口を左足で蹴り飛ばした。 さらの反動で空中に舞い、捻りながら一回転してシルヴァランスの後方に降り立ち、シルヴァランスが振り向くより早く足払いを掛ける。 しかしセシリーの足が大地を払った時、すでにシルヴァランスの両足は宙に浮いており、シルヴァランス木刀がセシリーのすぐ目の前まで迫っていた。 「なっ……」 「はああっ!」 隙を衝いて、今度は躊躇無くシルヴァランスが木刀を振り下ろす。鈍い音が響き、セシリーの左肩に鈍痛が走った。思わず顔を顰め、セシリーは右手を肩口に添えて後方に飛ぶ。 退いたセシリーに、シルヴァランスが追い打ちをかける。体勢を立て直す時間はなく、セシリーが直撃もやむを得ないと覚悟した瞬間―― 「――っ!?」 突然、シルヴァランスの動きがピタッと止まった。ガバッと天井を見上げ、目の前のセシリーに一目もくれず呆然と立ち尽くす。 戦いの途中によそ見など、これは怒りを通り越して呆れてしまう。セシリーが拳を強く握りしめ、憮然とした面持ちでシルヴァランスに歩み寄ろうとした時、シルヴァランスは何を思ったのか突然駆け出し、瞬く間にセシリーの脇を駆け抜けていった。 「ちょ、ちょっと! 何処行くのよ!」 「すいません! この続きはいずれまた!」 シルヴァランスはそれだけ言い残すと、フロア間を結ぶ階段を一気に駆け上がっていった。しばらく逡巡したセシリーは、「もうっ!」とやり場のない怒りを吐き出してから走り去ったシルヴァランスの背中を追った。 目の前でアリアが入念に準備運動をしている。シェドが作ったフリフリの白いドレスを身につけて準備運動する姿は、端から見れば何ともアンバランスであろう。 「おーいアリア。何でまた、いきなり戦おうだなんて言いだしたんだ?」 ボリボリと後頭部を掻きながらシェドが尋ねると、アリアは少しむくれたような顔つきでジッとこちらを一瞥し、すぐに視線を逸らした。 「……ったく、この町に来てから変だぞ?」 セシリーが旅に加わって以来、アリアの女の子的な部分の世話をすべてセシリーに任せていた。今みたいに何か悩んでいるような時でも、シェドが相談に乗るより同性のセシリーの方がいいだろうと、悪く言えばほったらかしにしていた。 旅に出た頃は感情の乏しかったアリア。だが今は、随分色々な感情を覚え、凄い早さで女の子として成長している。しかしそれは同時に、シェドにとってはアリアという少女がどんどんわからなくなっていくということでもあった。 何を考えているのかわからない。何を悩んでいるのかわからない。 「準備できた。……シェドは?」 「……ふう。俺はいつでもいいぞ」 「じゃあ、行く!」 アリアが待ったなしで突っ込んでくる。身軽な体を最大限にし活かした突貫。少し油断していた、というよりアリアが本気だとは露程にも思っていなかったため、シェドは虚を突かれる形で反応が遅れた。 「ぐおっ!」 アリアの短い腕が滑り込むようシェドの懐に潜り、その小さな拳が抉るようにシェドの腹を穿つ。シェドの半分もない体重すべてを乗せた一撃に、シェドは思わず顔を顰めた。 さらにアリアは止まらず連続で拳を叩き込んでくる。だが、助走無しのゼロ距離攻撃なら、いくら体重移動がしっかりしていようと威力は薄い。 シェドはアリアの拳を弾き、適度に力を抜いたカウンターを繰り出す。だが、シェドの拳は空を打ち、その先にアリアの姿はなかった。 「……っ!」 頭上からアリアの踵落としが襲いかかり、シェドは両手をクロスさせて弾く。さらにアリアは地面に降り立つと同時に深く腰を落としてシェドの股下をスライディングで滑り抜け、シェドの後方から回し蹴りを繰り出す。 「ちょ、ちょっと待て! おま、本気かよ!」 シェドが慌てて左足でアリアの右足を受け止め、左手をブンブンと振った。しかしアリアは攻撃の手を緩めず、一歩後方に飛んだかと思うと助走を付けて鋭い蹴りをシェドの懐目掛けて打ち込んでくる。 「だから待てって! うわっ、あ、あぶねーだろっ!」 「待たない! シェド、本気で戦って!」 「ほ、本気でって……」 戸惑うシェドに、アリアの連続攻撃は止まない。シェドは防戦一方で、ひたすらアリアの攻撃を受け流し続けた。 紛れもなくアリアは本気だ。まるで組織の追っ手と戦うがごとく、己の持てる力をすべて発揮してシェドに向かってくる。何故、アリアはシェドと戦うのだろう。シェドは必死にその答えを模索した。 何か怒らせるようなことをしたのか。何か気に障るようなことを言ったのか。もしかしたら元々嫌われていたのか。思考は堂々巡りで解を見いだせない。 シェドの戸惑いに気付いたのか、アリアがふと攻撃の手を休めて数歩後方へ退いた。ジッとシェドを見つめるアリアに、シェドはただ困った表情を浮かべるしかなかった。 「お願い、シェド……」 アリアの顔に、ここ数日ずっと浮かんでいる寂しさやもの悲しさのような色が浮かぶ。あの表情の意図するところが、シェドにはまったくわからない。 「アリア……」 アリアが身構える。だが、仕掛けてくる様子はない。おそらくシェドを待っているのだろう。シェドが戸惑いを捨て、本気でぶつかってくることを。 アリアの想いはわからない。しかしアリアがあそこまで真摯な瞳で訴えている以上、シェドも覚悟を決める必要がある。 「わかった。……先に言っておくが、素手同士の戦いでは体重差が物を言う。いくらお前が早くとも、威力のない攻撃では俺の体勢は崩せないぞ」 シェドの言葉に、アリアがコクンと首肯した。 「よし。……じゃあ、行くぞ!」 「…………ありがとう」 アリアの小さな言葉が響いた直後、シェドは大地を蹴ってアリアに迫った。アリアに拳を向ける、その事すら躊躇われるというのに、本気でとは相当の心労だ。だがきっと、ここで本気を出さなければアリアはシェドを許さないだろう。 「はあああっ!」 シェドの拳がアリアに迫る。アリアが間一髪でかわし、すかさずカウンターを仕掛けてくるが、助走無いアリアの攻撃ではシェドの体勢は崩れない。 短い足から繰り出される蹴撃だが、攻撃したアリアが逆に顔を顰める。シェドはそんなアリアの懐に掌を鋭く打ち込む。 「あうっ!」 シェドの攻撃で軽いアリアの体が持ち上がり、そのまま後方へ吹き飛ぶ。空中で回転して体勢を整え、両足と右手を大地に付けて滑るアリアに、シェドは間髪入れず突進した。 「着地の際は一番気を張れ! 油断したら致命傷だっ!」 口ではアドバイスを送りながらも、シェドは一切手を抜かない。そう宣言した。 シェドの踵が大地を抉り、破片が周囲に飛び散る。直撃を受けていれば脱臼以上、下手すれば骨折を免れない一撃だったが、シェドの踵が落ちた先にアリアの姿はなかった。 側面からアリアの拳がシェドに迫り、シェドは上体を反らして攻撃をかわす。だが、アリアの拳による攻撃はあくまで威嚇で、すぐさま両足を使った回転蹴りがシェドを襲った。 アリアの両足から繰り出される連続蹴りをすべて受け流し、シェドが反撃に転ずる。アリアとは随分リーチに違いがあるシェドの足が空を裂き、脇からアリアを打った。 「あああっ!」 アリアが悲痛な叫びを上げながら大地を転がる。辛うじて受け身はとっていたが、苦痛に表情を歪めていた。 「ちょっとシェドーッ! あんた今、アリアちゃんを本気で蹴ったわねーっ!」 フィールドの外ではシェドとアリアの戦いを呆然と見つめるテムルの町人達に、眉をつり上げて声を張り上げるミレーヌの姿がある。 外野が騒ごうが、今のシェドには届かない。今、シェドの瞳に映っているのはアリアだけだ。必死に体を起こし、小さい体を引きずりながらも決して退こうとしないアリア。 さっきの蹴りは本気だった。助走もなく、早さ重視の反撃だったため体重移動もしっかり出来ていたとは言えない。だがそれでも、二人の間には圧倒的な体重差があるため当たり所が悪ければ致命傷となる。 呼吸を整えたアリアが再度シェドに迫った。幾分落ちたスピードに、シェドは難なく攻撃を見切ってカウンターを叩き込む。 何度も何度も、アリアはシェドのカウンターを喰らって吹き飛んだ。アリアの拳は一度もシェドを打つことはなく、かわりにシェドのカウンターはすべて的確に決まっていた。 それはアリアが弱いからではない。もともと体術においてはそこまでシェドに劣っているわけではないが、リーチの長さ、体重差が素手による格闘では顕著に表れる。 普段は銃を主軸に攻撃を組み立て、体術は命中率向上の足がかり程度に過ぎない。だからもし、銃撃戦で戦うことになれば緊迫した接戦となるのは必至だ。 「はああああっ!」 「きゃうっ!」 いつしかアリアのドレスは所々裂け、アリアの白い肌にもあちこち痣や擦り傷が出来ていた。呼吸のテンポは早く、もう立ってるのがやっとな様子だ。 それでもアリアはシェドに立ち向かってくる。あの表情は苦痛で歪んでいるのか、それとももっと別の、何か心に思うところがあるせいなのか、シェドにはわからない。 アリアが拳を振ろうとした瞬間、腰砕けによろめいて体勢を崩した。シェドはサッと駆け寄り、倒れそうなアリアを抱きしめた。 「……はあ……、はあ……」 「今日はここまで。お前が望めばいつでも相手してやるからよ、そう焦るな……」 「……イ、イヤ……。まだ戦える……」 シェドの胸に、アリアが体を離そうと両手をつく。しかしシェドは包むようにアリアを抱きしめて、決して離すまいとした。 「まだ、まだ何もわからない……」 「……アリア?」 「いつでも、じゃダメ。今、今じゃないと……ダメ……」 次第にアリアの声が小さくなっていき、シェドの胸を押す両手からも力が抜けていった。 「どうしたんだ? 何で今じゃないと駄目なんだ?」 「……シェドが……、いなく……なっ……ちゃう……か……ら…………」 アリアの意識が途切れ、力なくシェドの胸にもたれ掛かってきた。 シェドの耳に響くアリアの呼吸音。服を通して伝わる熱。旅を始めた頃はしょっちゅう側で感じていたアリアの息吹を、久しぶりに肌で感じたような気がした。 一体どうして、アリアは今じゃないと駄目だと言ったのだろう。どうして、シェドが居なくなるなどと言ったのだろう。 考えても答えは出ない。今思えば、シェドはアリアのことを何もわかっていないのではないだろうか。心に秘めた想いや、願い、信念。すでに一緒にいるのが当たり前、一番同じ時を共有した時間が長いアリアのことを、シェドは何もわかっていない。 「アリア……」 規則的な寝息を立てるアリアを優しく抱きかかえ、シェドは曇った表情のままアリカの家へと引き上げた。 階段を駆け上がり、地下空間でもっとも地上に近いフォースフロアまで移動した後、町の人間が地上に出る時通るという、隠し通路のような細い小道を抜けて、シルヴァランスは地上へと駆け上った。 町からの道は滝の裏に繋がっていた。そこには外部の人間が町へ侵入しないよう見張っているのであろう、門番らしき二人の男がいた。 ここで気付かれてしまっては厄介だと思い、シルヴァランスはそっと物陰に隠れて様子を窺い、一瞬の隙をついて指輪に埋め込まれているジェムを輝かせる。アクセラレータを発動させて、二人に気付かれることなく滝の外に出たシルヴァランスは、木々の生い茂る森の中をゆっくりと進み、少し拓けた場所で歩みを止めた。 「……いつまで隠れてるつもりですか?」 シルヴァランスは目を側めて、周囲に響くくらい大きな声を発した。しばらくして木の陰から一人の少女が姿を現し、俯き加減に頭を垂らしながら静かにシルヴァランスへと近寄ってきた。 サラサラとした金髪に、ルビーのように輝く瞳。清潔な白のトップに薄ピンクのキュロットスカート。その上に赤いカーディガンを羽織った少女は、愁いに帯びた瞳でシルヴァランスを見つめた。 「お兄様……」 「ヴィクトリア、どうしてここがわかったんです?」 シルヴァランスが目を細めて問いただすと、ヴィクトリアが申し訳なさそうにスカートのポケットから懐中時計のような、チェーンのついた銀色のものを取り出した。 「魔波計……ですか。じゃああの時、僕の服に何か仕込んだのですね」 「はい。お兄様のことを信用していないわけではありませんが、もう何を言われず置き去りにされるのは嫌でしたから」 ヴィクトリアの目には涙が浮かんでいた。シルヴァランスはヴィクトリアに黙って姿を消したことを、心の奥ではずっと申し訳ないと思っていた。過去に二度、いや、デオラガーンのことをカウントすれば三度、ヴィクトリアを置き去りにしたことになる。 一度目は家を出る時。父親と決別し、元々次男で家督を継ぐ必要がなかったシルヴァランスは迷うことなく家を出た。その時、ヴィクトリアには何も告げず、夜の明けぬうちにランバーグを去った。 二度目は同志達の元を去った時。任務でラーミアを訪れ、そこでシェド達と出会った。そしてそのまま、同志達にはもちろん、シルヴァランスを追って同志の一員となったヴィクトリアにも何の相談もせず音信不通。聞けば、ヴィクトリアはシルヴァランスが去ってすぐ家出をし、自力でシルヴァランスの居場所を突きとめたという。シルヴァランスはそんなヴィクトリアを置き去りにしたのだ。 「そうだね。……確かに、僕はヴィクトリアに黙って居なくなってばかりだ。首輪を付けておきたい気持ちもわかる」 「……おわかりなのでしたら、黙って居なくなったりしないで下さい」 「ごめん。でも、どうしてもそうしなきゃならなかったんだ。ヴィクトリアにも、知られるわけにはいかなかった」 「…………それは、“天使”のことですか?」 シルヴァランスがハッとヴィクトリアを見つめると、ヴィクトリアは曇った表情のまま申し訳なさそうにシルヴァランスを見つめていた。 「何故……それを……?」 「わたくしとて、今は世界を救うために戦う同志の一人です。そのくらいの情報は持っていますわ」 シルヴァランスが居た組織の目的はニーヴルの野望、世界崩壊を阻止すること。つまりそれは、天使の討滅とほぼ同義である。 「……ヴィクトリア以外の同志も、ここに来ているのか?」 探るようにシルヴァランスは周囲を覗ったが、自分たち以外の気配は微塵も感じられない。同志達もニーヴルを相手取るぐらいだ、かなりの戦闘力を有しているのは重々承知している。もしかしたら気配を消して潜んでいるのかもしれない。 「いえ、今お兄様とお会いしていることは隊長さんにも伝えておりません」 明らかに周囲を警戒するシルヴァランスを見て、ヴィクトリアが釈明するよう言った。だがその瞬間、シルヴァランスは後方に気配を感じ取って腰の鞘から刀身を抜いた。 「あら、物騒ね」 「え……? あ、セシリーさん?」 振り返った先に立っていたのはセシリーだった。髪を揺らしながら、ゆったりとシルヴァランスのもとに歩み寄ったセシリーが、シルヴァランスを一瞥してからヴィクトリアに柔らかな笑みを浮かべる。 「あなたの後を追ってみたら……。ふふ、こんな所で逢い引きかしら?」 「ち、違います! セシリーさんだって知っているでしょう? この子は僕の妹で……」 「ヴィクトリアちゃん……だったかしら?」 動揺するシルヴァランスには一目もくれず、セシリーがヴィクトリアに優しい声音で話しかける。まるで自分の妹にでも話しかけるような声だ。 だがヴィクトリアの表情は硬い。やはり、天使と同行している人間として敵意を抱いているのだろうか。 「……あなたは?」 探るような目で尋ねるヴィクトリアに、セシリーは微笑みを崩さず自己紹介をした。普段シルヴァランスと対峙している時同様、余裕に溢れる態度だ。 「それで? あなたは何をしに来たの? ただお兄ちゃんの顔を見に来たってわけでもないのでしょう?」 「うっ……」 「あら、もしかして本当にそれだけだったかしら?」 「ち、違います! そそ、それに何で、何処の馬の骨とも知らぬ、ちょっと顔立ちが良くてちょっとスタイルがいいだけの、天使をかくまうような人間に、わたくしがお兄様に会いに来た理由を語る必要がありますの? ありません! ええ、ありませんとも!」 ヴィクトリアは何をいきなり興奮しているのか、ビッと人差し指をセシリーに突きつけて一気にまくし立てた。清楚で大人しい少女、というイメージを持っていたのだろうか、セシリーの表情から微笑みが抜け落ち、唖然とヴィクトリアを見つめていた。 「……大体わかったわ」 「えっ!」 しばらくヴィクトリアに睨まれていたセシリーが、再び笑みを顔に戻した。チラッとシルヴァランスを一瞥し、意味深な微笑みをこちらに送る。一体何がわかったというのか、シルヴァランスにはまったくわからなかった。 「あ、あなたなんかに、わたくしの何がわかったというのですか!」 「ここで言ってもいいけれど、いいの?」 セシリーが優雅に微笑むと、気後れした様子でヴィクトリアが一歩引いた。すでに二ヶ月近く寝食を共にしているシルヴァランスでさえ、未だにあの笑顔には敵わないのだ。今日初めてまともに言葉をかわすヴィクトリアに、それを防ぐ手段はないだろう。 「い、いいですわよ! どうせあなたのような、軽薄そうで色香で男を翻弄する以外に能のない女に、わたくしの考えていることなどわかるはずもありませんから!」 確かに普段からお転婆なところはあるが、今日のヴィクトリアは少しおかしい。たまに口悪くなる時もなかったわけではないが、こうしてほぼ初対面の相手に際限なく罵声を飛ばすことなど、シルヴァランスの記憶にある限り初めてだ。 「そうかしらね? ……じゃあ言ってみるけど、ヴィクトリアちゃんはシルヴァランスを連れ戻しに来たんじゃないかしら? 天使は倒すべき敵だと説得しに来たんじゃない?」 「うっ……」 「それでもしシルヴァランスが頑なに拒んだら、私達の旅に同行すると言い出して隙を見て天使を自分の手で倒すつもりだった。そうすればシルヴァランスが自分たちの所に帰ってくると思った。……違う?」 セシリーの言葉にヴィクトリアは何を答えなかったが、両手でギュッとスカートの裾を握って悔しそうに下唇を噛む仕草が、セシリーの言葉が正しいことを認めていた。 シルヴァランスも内心そうではないかと思っていた。決して他者の心情に敏感というわけではなく、とりわけ女性の心情には疎いと自覚のあるシルヴァランスだが、肉親であるヴィクトリアのことなら少なからず理解している。 過去、毎日毎日愛らしい笑顔で「お兄様」と言って寄ってくる妹が、兄が居なくなったと知ってどれほど悲しむか考えもせず、自分のことだけを考えて黙って家を出た。あの時は悪かったと、今でもずっと思っている。 だがその時と今は違う。ヴィクトリアがどんな気持ちでいるかを知っていた上で、同志達の元に何一つ連絡を入れずにいた。そうするだけの理由があった。 「……すまない、ヴィクトリア。僕はもう同志達の元に帰る気はないし、もし君が天使を倒しに来たというのであれば、全力でそれを阻止する」 「お兄……様……」 瞳の縁に涙を浮かべるヴィクトリアを、シルヴァランスはただただ申し訳ない気持ちで見つめた。妹のことは大切だ。けれど、今は他に守らなければならない存在が、貫き通さねばならばい信念がある。 「ヴィクトリア……」 そっとシルヴァランスが、震えるヴィクトリアの肩に手を伸ばそうとした時だった。急に顔を持ち上げたヴィクトリアは、キッと睨むようにシルヴァランスの目を見つめ、眉をピンと引き上げる。 「お兄様は、あの無駄に巨乳で無駄に肌が綺麗で無駄に艶やかな唇を持ったあの女の色香に惑わされてしまったのですね! ええそうよ、そうに違いありませんわ!」 「……は? えっと、ヴィクトリア?」 「待っていて下さいお兄様! わたくしがきっと、いえ絶対、あの女の邪悪な波動からお兄様をお救いいたしますわ!」 「あ……、いや、僕は別に……」 ヴィクトリアは鋭い視線を更に鋭利に研ぎ澄まし、殺気が籠もっているような目でセシリーを見つめた。そんな視線を浴びても、セシリーは優雅に口角をやんわりとつり上げている。 「覚えてなさい! お兄様は絶対、あなたのような意味無く長い睫をした、意味無く鼻筋の整った女なんかに渡さないわ!」 それだけ言い終えると、ヴィクトリアはガバッと踵を返して森の奥へと走っていった。シルヴァランスはその後を追うことができず、右手だけが行き場を失ったように虚空を掴んでいた。 「うふふ。あの子は私のことを褒めていたのかしら? けなしていたのかしら?」 ヴィクトリアの背中が見えなくなった後、セシリーが楽しそうに言った。どう聞いても罵倒されているような感じしかしなかったが、セシリーの笑みはまったく崩れていない。 「お兄ちゃん思いの、いい妹じゃない」 「……そうですね」 だからこそシルヴァランスの心は晴れない。自分のせいでヴィクトリアに辛い顔をさせるのはとても胸が痛む。だが、ヴィクトリアを説得して自分たちの仲間に加えようと言う選択肢はまったく考えなかった。ニーヴルに追われ、同志達に追われ、そしてドラゴンと対峙するという旅に、大切な妹を巻き込むわけにはいかないから。 いつかすべてが終わって、その時シルヴァランスがまだ生きていられたならば、必ず迎えに行ってやろう。今はそう思って凌ぐしかない。 「……ところで、セシリーさんはどうやって滝の所を通ったのですか? あそこには門番の方々がいましたけど」 「お花畑でお花を摘んでくるって言ったら通してくれたわ」 それは嘘だと思ったが、悪びれた様子もなく嘘をつくセシリーに本当のことを問いただしても無駄だろうと思ったシルヴァランスは、それ以上何も尋ねずため息と共に踵を返した。 「でも、一つだけ、間違ってるわよねぇ」 ふと、セシリーが考え込むような素振りでつぶやいた。シルヴァランスが見つめると、セシリーは柔和な笑みを携えて、 「ヴィクトリアちゃんが私に言ったこと」 と、言った。ヴィクトリアが言ったこととは、何故かセシリーを指す時、余計に追加された数々の形容を指すのだろう。 「一つだけ……ってことは、それ以外は全部当てはまってるってことですか?」 「ええ。……まあ、自分で言うなって話だけど、胸の大きさにも、顔立ちにも、ちょっとは自信あるからね」 クスクスと笑うセシリーに、シルヴァランスはただ、「はあ」と相づちを打つしかなかった。ちょっと、ではなく、かなり、の言い間違いでは無いだろうか。 「じゃあ、その当てはまらないことって何ですか?」 滝の方へ歩を刻みながら、シルヴァランスは首を傾げて見せると、セシリーはシルヴァランスの隣で前を向いたまま口を開いた。 「色香で男を翻弄するしか能がないってこと。……実際は、組織での生活が長かった私に男をどうこうするなんて芸当出来ないわ」 何故か、シルヴァランスには今のセシリーが自信なさげに見えた。普段は凛として余裕と共にシルヴァランスの一歩前を歩くようなセシリーには珍しい、少し愁いを帯びた表情だった。自分より五つも年上の女性なのに、今は同い年、もしくは年下の少女みたいな錯覚を覚えた。 「どうか、しましたか?」 「……ううん。何でもないわ」 セシリーがまるで何かもやもやとした気持ちを払拭するかのように、頭を左右に振って瞳を閉じた。その時吹いた風が、セシリーを包む香水の温かい香りをシルヴァランスの鼻孔に届けてくれる。 思わずセシリーの横顔に釘付けだった視線を反対側に逸らしながら、シルヴァランスは心の中で思った。 ヴィクトリアの言った言葉は、全部当てはまってるのかも知れないと。 シールディアがパットの居る古本屋を訪れた時、パットはゼロフロアで行われているという武芸訓練に参加、もしくは観戦しているらしく、ブルゾンがパイプを燻らせながら古びた書物に目を通していた。 奥にはミカが暇しているのだろうが、どうしてかシールディアは一人でミカに会うことを躊躇った。パットを挟み、三人でなければ嫌、というより会話を続けられる自信がなかったのかもしれない。 シールディアは適当に店の中を徘徊した。ヒトが残した書物には幾分興味はあったが、今までそれに触れあう機会がなかった。 「ふむ……」 ずらりと本棚に並んだ書物の数々を見つめ、シールディアは自分の内に興味という言葉が込み上げてくることを実感した。当初、竜王に関する書籍が無いかと考え、何かしらの情報が得られないかと思っていたが、そんな目的とは別に、純粋に本を読みたいという衝動がシールディアの中でうごめいている。 シールディアは最初の一冊をどうしようか逡巡したが、童話らしきパステルタッチのイラストが入った絵本を皮切りに、次々ともの凄いペースで本をむさぼり始めた。 一冊、また一冊と、読み終わった本を山に重ねていく。すでに選ぶのが面倒になり、棚を端から端へ順に本を抜き、その棚の本をすべて読み終わった時点で本を棚に戻すという作業を延々行った。 すでにシールディアが本を読み始めて六時間近く経った時、玄関口からパットが姿を現し、シールディアを見つけて、 「お前、な、何してんだ? ま、また遊びに来てくれたのか?」 片っ端から本を手に取るシールディアをキョトンと見つめながら、パットはシールディアが遊びに来たと思ったらしい。どういう思考でそのような結論を導いたのか、シールディアにはわからなかった。 「今まで、こうして手に取る機会もなかったが、本というものは中々興味深い」 「……は、はあ?」 「ここにはヒトの英知、情愛、信条、探求といった様々なものが見て取れる」 シールディアの言葉に、パットが眉を顰めた。 「ミ、ミカには会ったか? あいつ、シールのこと気に入ったみたいでよ、またお話したいって言ってたぜ?」 「……む」 ミカがシールディアに会いたいという言葉を聞いて、シールディアは本を取ろうと伸ばした手を止めた。シールディアは漠然と、ミカが自分のことを恐れているように感じていた。二人きりで会おうとしなかった理由にはそれもある。そんな折、ミカがシールディアに会いたいなどと言われ、少なからず動揺した。 「……私はもう少しここで本を読んでいる。後で顔を見せるとしよう」 シールディアはパットの顔を見ずに答えた。パットが何やら言いたげに口を半分開いていたが、言葉が見つからなかったのだろうか、何も言わずに奥へと消えていった。 シールディアは伸ばしていた手を引っ込めた。そして何故か、勝手に首が店の奥へと向いてしまう。 外見年齢で言えばパットやミカは同世代と言って差し支えない。今の人格のベースとなっているのも、十代半ばの女性である故、その観点で言っても感性が近いと考えられる。だが、それでも埋めようのない隔たりは、シールディアがドラゴンだと言うことだ。 今、ミカやパットと一緒に居たいと願うのは擬似人格のせいだろう。本来、ドラゴンであるシールディアにそんな感情が芽生えるはずもない。 自分の心は偽りの心。ふと、そんな想いがシールディアの中に宿った。 「……いかんな」 シェドに言わせればこのような考えは後ろ向きだと言うのだろう。そんな事を考えていると知れば、アリアのようにくすぐりの刑は免れない。 シールディアは気を取り直して本の選定を再開した。今度は何でもかんでも手を伸ばすのではなく、じっくりと本の題目を見てから決めることにした。 「……うむ?」 あまたの本が並ぶ古本屋で、シールディアの目に付いた本。そこには、“ヒトとドラゴンの歴史”と記されていた。 「ブルゾン、これは?」 シールディアがその、触れただけで破れてしまいそうなくらい古びた本を手にとってブルゾンの所へ戻ると、ブルゾンがたいそう驚いた顔を浮かべ、 「おお、それは……。どこにしまったかと思っておったが……」 懐かしそうに本を手にとって、サッサッと表紙に付いた埃を払った。 「儂は若い頃、古代文明とその歴史について調べることが好きじゃった。この本はその時に手に入れた、貴重な古文書じゃよ」 「貴重な古文書?」 「そうじゃ。古代都市の繁栄と滅亡を、当時の人間が克明に書き記したという書物で、歴史家の連中なら誰もが喉から手が出る程欲する書物じゃろう」 そのような貴重な書物が地図に記されない隠者達の町に存在するとは、正直疑念を払拭しきれないが、ブルゾンの書物を見る目はとても穏やかだった。 「ただ、ここに記載されている文字は古語の中でも解読が難しい言語でな、儂もがむしゃらに解読を試みたんじゃが、結局、一部を訳せた程度じゃった」 シールディアが本をブルゾンから受け取り、開いてみると、中には読みあさった書物らとは全く異なるいびつな文字が各ページびっしり並んでいた。 「…………」 一見すれば何が書いてあるかわからぬ代物。だが、シールディアにとってそれを解読することは造作もないことだった。いや、解読という言葉自体当てはまらない。 シールディアは本来、特定の言語を扱わない。相手の思念にあわせ、脳に直接情報を送るという手段を用いるからだ。こうして人間の姿をし、言語を固定している場合は話す言語も読める言語も固定されてしまうが、本来はそのような制約はない。 「ブルゾン、一晩だけこの本を賃借してもいいだろうか?」 「ん? 一晩……だけ? まあ、別にかまわないが……」 「感謝する」 この本に何かしら有益な情報が記されているかもしれない。そう直感したシールディアは、ボロボロの書物を丁寧に布で包んで小脇に抱えた。 丁度その時、店の入り口から若い男女が姿を現した。そしてシールディアを見つけて、笑みを浮かべる。 「ここに居たのね」 「セシリー、それにシルヴァランスも。どうしてここに?」 「町の人に聞いたのよ。……あなたがお昼ご飯食べに帰って来なかったから」 「ああ、すまない。本を読むことに集中し、昼食を摂ることを失念していた」 セシリーと会話を交わしながら、シールディアはシルヴァランスの様子がおかしいことに気付いた。シールディアが小首を傾げて見つめると、シルヴァランスは曖昧な笑みを浮かべ、何かはぐらかそうとしているように見えた。 「昼食を用意してくれたアリカには申し訳ないことをしたな」 「ああ、大丈夫よ。ミレーヌが代わりにあなたの分食べたから」 「……ミレーヌが来ているのか?」 ふと、シールディアの脳裏にミカの車椅子のことが浮かんだ。町に住む魔練器技師が手こずっているという、魔練器車椅子。ミレーヌならば何か良策を思いつくかもしれない。 シールディアは一度店の奥をジッと見つめてから、二人と共に一旦アリカの家に戻ることにした。 シェドはアリアとの戦いが終わってアリアの家に引き上げて以来、奥の部屋に籠もりっきり。ゆっくりと話をする機会がない。 それならばアリアと話そうかと思っていたが、両親を捜しに行ったのか、それとも何か思うところでもあるのか、アリアは知らぬ間に一人で散歩に出かけたようだった。 セシリーとシルヴァランスも今は居ない。居間には、ミレーヌが一人ポツンと取り残されていた。 時折奥の部屋から、この家の住民でシェドの知り合いだというアリカが車椅子に乗って現れ、タオルを絞ったりお茶を淹れたりしてまた奥へと消えていく。ミレーヌは立ち入り禁止だとシェドにきつく言われているにも関わらず、アリカは入りたい放題だ。 「なんでよー! もうっ!」 ミレーヌは独り言ち、テーブルに突っ伏した。やり場のない感情を、取りあえず両足をジタバタさせることで発散する。 シェドが自分を恋愛の対象として見ていないことなど知っている。けれど、それでも今まではシェドの周囲に女の影が皆無だったことで安心しきっていた。もっとも、セシリーが旅に加わった当初は一時もシェドの側を離れず監視していたいと本気で思案したが、今はもうそんな気はサラサラない。 「アリカさん、美人だよなー。うう……、しかも何か互いに通じ合っちゃうものとかあるみたいだしぃ……」 目には見えないが、二人の絆の強さは一目瞭然だった。見えないのに一目瞭然とは言い得て妙だが、二人一緒にいる姿を眺めていれば自然と感じ取れるものがある。 この先ずっと、シェドがミレーヌのことを好きになってくれることなどあり得ないと内心わかっていた。だがそれでも、目の前でシェドが別の女とイチャイチャ(ミレーヌにはそう見えている)のは腹立たしかった。これを一般的にはヤキモチというのだろう。 「はふぅ〜」 「あら、どうしてそんなしょぼくれた顔をしてるのかしら?」 ミレーヌが極大のため息を漏らした時、家の扉が開いてセシリーとシルヴァランスが戻ってきた。二人の後ろにはシールディアの姿もあった。 「うるさいわね。……シールディアちゃん、お久しぶり〜」 「そなたも元気そうで何よりだ」 相変わらずの口調で話すシールディアを見て、ミレーヌは雨が降り出しそうなくらい曇っていた表情を、雲間から太陽光が見えるくらいにまで回復させた。 「唐突ですまない。少し頼みたいことがあるのだが……」 「へ? あたしに?」 ミレーヌは自分を指さしながら瞬きを繰り返した。シールディアが無言で頷き、「付いてきてくれ」と家を出て行く。 シールディアが旅に加わったのはシルヴァランスと同時期なのでまだ二ヶ月程度に過ぎず、その中でもミレーヌと共に行動したのはかなり短い。その上シールディアがドラゴンと呼ばれる存在であることも起因してか、あまり積極的に接触する機会があまりなかったため、こうして頼まれごとを受けたことに正直かなり驚いた。 家を出ると玄関先でシールディアが待っていた。ミレーヌは隣に並び、シールディアが進む方向へ歩を刻む。 「頼み事ってなぁに? あたしに出来ること?」 「私の知る人間の中では、そなたしか該当する者はいない。……魔練器に関することだ」 「ふーん。まあ、確かにあたしは魔練器技師だけどさぁ、その……、まだまだヒヨッ子の半人前だよ?」 父親に比べたら、ミレーヌはまだまだ技術的にも知識的にも未熟。アリアの胸から聖石を取り除くなど、夢のまた夢の話だ。だからもっともっと努力しなければならない。 「シルヴァランスに聞いたが、セシリーはそなたを十分に評価している。年齢に不相応なほどの高い技術と、人並み外れた努力を続ける優秀な魔練器技師だと評していたらしい」 「……随分と買いかぶってくれたわねぇ」 ミレーヌは両腕を頭の後ろに持って行き、小さく息を吐いた。 セシリーがミレーヌを評価してくれたことに、少し歯痒くも嬉しい気持ちが込み上げてきた。けれど同時に、普段はミレーヌには年長者の余裕を持って応じるセシリーが、本人の前では言わずともミレーヌのことを信頼、期待してくれていることに、責任というか、自分がその期待に応えられる魔練器技師になれるかという不安がよぎった。 「ここだ」 シールディアに連れてこられた場所は、古びた書物が立ち並ぶ古本屋の手前だった。あまり魔練器とは関わりの無さそうな場所であったため、意表を突かれた気分になる。 「あれ? お前、帰ったんじゃなかったのか? ……そっちの姉ちゃんは?」 店に足を踏み入れると、十歳くらいの少年がシールディアに気付いて声をかけてきた。随分と親しげ、というより、少々怯えたような、動揺しているような、落ち着き無い態度でシールディアを見つめている少年が、ふとミレーヌに気付いてこちらを向いた。 「パットよ、ミカのために車椅子を作っているという技師の工房はどこだ?」 「あ? そんな事聞いてどーするんだ?」 「こちらの女性は魔練器技師だ。彼女なら、ミカのための車椅子をどうにか出来るやもしれん」 シールディアと、パットと呼ばれた少年の会話からおおよそ事情を察し、ミレーヌは思案顔でシールディアの顔を見つめた。 ミカ、というのはおそらく女の子の名前。そしてシールディアがミレーヌに頼もうとしているのは、その子のための魔練器車椅子。一体、ミカとシールディアはどういう関係なのだろう。そしてパットとも。 「ねえシールディアちゃん。そっちの子はお友達? それに、ミカって子も」 「……え?」 ミレーヌが尋ねた瞬間、シールディアが目をまん丸に見開いて一切の動作を止めた。 「やっぱりそうなんだ。……うん、わかった。あたしに出来るかどうかわからないけど、その車椅子作り、手伝ってみるよ。でも、その前にミカって子に会ってみたいな」 笑顔で応じると、パットが少々気後れした様子で、「お、おう」と返事をする。シールディアは何やら逡巡している様子で視線が泳いでいた。 パットが足早に店の奥へ駆けていき、ミレーヌとシールディアはその後をゆっくりと追った。硬い表情のシールディアにミレーヌは、 「初めて友達が出来て、戸惑ってる顔してるよ」 と微笑みかけた。シールディアは何か言いたげに、けれど言葉が思いつかないといった表情でミレーヌを見つめ返してくる。 「シェド達と出会う前はずっと一人だったもんね、動揺して当たり前だよ。アリアちゃんだって、初めてあたしの家に来た時なんかさ、ずっとシェドの後ろに隠れてあたしの顔を見ようとしなかったんだもん」 「私は……」 「……でーもぉ、言っておくけどね。あたしだって、アリアちゃんだって、あなたのこと友達だって思ってるからね。まあそりゃあ正直、ドラゴンだって知った時は驚いたけど、今はそんなことない。シールディアちゃん、とっても可愛いし」 「ミレーヌ……」 「シールディアちゃんのお友達番号、一番がアリアちゃんで、二番があたしだからね。ヒューイが三番目で、シェド達は四から六番目。パット君は七番目だから。いい?」 シェドやシルヴァランスを指して友達と称すのもどうかと思ったが、言葉上、その方が都合良い。シールディアも嫌な顔は微塵も見せなかった。それどころか、 「ありがとう、ミレーヌ」 ミレーヌは初めて、シールディアが心から笑った笑顔を見た気がした。 |
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