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第一章 初恋の面影 シルヴァランスの故郷だというランバーグはセシリーにとっても故郷の街だった。しかしこの街にはあまりいい思い出がない。 早くに両親を亡くしたセシリーは妹と共に街頭を彷徨い、ひもじくて辛い日々を過ごした。妹の病が発病したのも、セシリーがニーヴルのスカウトに声を掛けられたのも、全部ランバーグでの出来事だ。 けれどそんな思い出したくもないランバーグでの日々の中で、唯一輝いている時があった。セシリーを救ってくれた初恋の人。その人と過ごした日々だけは、ランバーグの記憶の中で一点の光となっている。 「はあ……」 窓からランバーグの街並みを見つめながらセシリーは小さくため息をついた。 変わってしまった街並み。それはそのまま、セシリー自身が変わったことも意味する。最初で唯一の淡い恋心を抱いた、少女だった日々。あれからもう、十年も経ってしまった。 そんなアンニュイな気持ちをさらに加速させるのが、先ほどから宿の一室に充満している重たい沈黙。 前の戦いの最後に、ちょっとした気持ちでしでかしたことが原因で起きたシルヴァランスとの喧嘩がまだ決着していないにもかかわらず、今部屋にいるのはセシリーとシルヴァランスの二人だけ。気まずいことこの上ない。 チラッとセシリーは横目でシルヴァランスの様子を窺った。シルヴァランスはセシリーの背を向け、明後日にはランバーグを出るためか、荷物の整理を黙々とこなしている。 喧嘩を始めて以来、シルヴァランスは事務的な言葉以外一切セシリーと会話を交わそうとしない。子供っぽい意地でも張っているのか、頑なにセシリーを無視し続けている。 こういう時、普段のセシリーなら強気に攻めて無理矢理でも自分のほうを向かせるだろう。前ならそうだった。けれど何故か、今はそれが出来ずに困惑している。 あの時、ぼろぼろと涙を零しながらセシリーに怒りをあらわにしたシルヴァランスを見て以来、セシリーはどうしてもこちらから強く言い迫ることが出来ない。 まさかあんなに真剣に心配してくれるなんて思わなかった。いつもみたいに小馬鹿にされたことに怒って、拗ねて、でもしばらくすれば元通りに戻る。そう思っていた。 なのに喧嘩はすでに一週間以上続いている。なかなかこちらから言い出すきっかけがない。でも、だからといっていつまでもこんな状態ではいられないとも思う。本音の部分では、やはり仲直りしたいと思っているから。 頑固なシルヴァランスは放っておけばいつまでも黙っていそうだった。だからやはりセシリーから話しかけるしかない。 「えっと……、ね、ねえ、シルヴァランス……」 「…………」 セシリーの呼びかけにシルヴァランスは微塵も反応を示さない。やっぱりか、とセシリーは小さくため息をもらす。 本当はわかっている。セシリーが誠実に謝ればきっとシルヴァランスは許してくれる。それはわかっているのだが、ずっと変な意地や別の思いが邪魔して実行できないでいた。 でももう迷わない。セシリーはグッと拳を握りしめ、もう一度シルヴァランスに声を掛けることにした。ただし、今回はただの呼びかけではない。 「シルヴァランス……。ごめんなさい……」 「…………え?」 一週間後の謝罪の言葉。その言葉に、ようやくシルヴァランスが反応を示した。 「あの時、私のことを心配してくれたあなたをからかったこと。本当にごめんなさい」 言ってしまえば簡単な言葉。けれどどうしてもそれが言えなかった。その理由は至極子供っぽくて、少しだけ恥ずかしいものだった。 「……どうしてあんなことしたんですか。ちゃんとその理由を言うまでは許しません」 セシリーをジッと見つめ、そんな子供っぽくて少し恥ずかしい理由を問うシルヴァランスに、セシリーは頬が熱くなるのを感じた。 「その……、私を心配してくれるシルヴァランスを見たかったの」 「……はい?」 「そ、そういうことなの。ごめんなさい」 「意味がわかりませんよ」 シルヴァランスが本当に何も分かっていない様子で眉を顰める。ここまで正直に白状したのに、まだセシリーの口から詳細を聞き出そうと言うのだろうか。 「私みたいな女でも心配してくれる人が居るんだってこと、確認したかった。……ううん、そうじゃない。あなたが、シルヴァランスが私を心配してくれるか知りたかったの……」 「セシリー……さん?」 ここまで言ってまだわからないのか、シルヴァランスは相変わらず訝しげにセシリーを見つめてくる。 言うしかないのだろうか。ラーミアの遺跡で出会って以来、ずっと感じていたことを。テムルの街で、一瞬別の人と見違えてしまった理由を。 「どうして、僕に心配してほしいなんて思ったんですか?」 「…………」 「セシリーさん。ちゃんと答えて下さい」 「……絶対、絶対アリアやシールには言わないって約束する?」 「は? ……は、はい。約束します」 こんな恥ずかしい話を妹分のアリアやシールディアの耳には絶対入れたくない。セシリーが培ってきた、母であり姉であるような立ち位置を失ってしまう可能性があるから。 「あなたが、初恋の人に似てたから。だから、私……、あなたに心配して欲しかった」 「えっ……、そ、それは……」 「……そう。ごめんなさい、他人の面影を求めるなんて、あなたに対する侮辱でしかないとわかっているのに、私……」 そこまで白状してセシリーは口をつぐんだ。今度はセシリーがシルヴァランスの答えを待つ番だ。 呆れられたかもしれないし反感を買ったかもしれない。セシリーが内心ビクビクしていると、 「そう、だったんですか。……まったく、だからといってああいうのは止めて下さいよ」 シルヴァランスの柔らかい声がセシリーの耳に響いた。ハッと見つめると、シルヴァランスは穏やかな笑みをセシリーに向けていた。一週間ぶりに見る自分へ向けられた穏やかな笑みに、セシリーは思わず顔を赤らめる。 「ごめんなさい……」 「はい、わかりました。……けれど、その、僕に他の人を重ねたってことに関しては、僕も実はセシリーさんに別の人を重ねてしまったことがありますので、それについては僕もセシリーさんに謝らなければいけません。すいませんでした」 「……そうなの?」 「ええ」 シルヴァランスのどこか恥ずかしげに後頭部を掻く仕草に、セシリーはピンと来た。セシリーに面影を見るなんて相手は間違いなく女だろう。そしてシルヴァランスのあの表情、あの仕草。間違いなくその相手とはシルヴァランスの初恋の相手だ。 「……ねえ、私に重なって見えた人のこと、聞いてもいい?」 「え、ええっ!? だ、駄目です! 絶対駄目です!」 「何でよぅ、お姉さんに教えなさいよぅ。……初恋の人なんでしょう? ね? ね?」 「……いきなり元気になりましたね、セシリーさん」 恨めしげに目を細めるシルヴァランスにセシリーは肩をぶつけながら迫る。異性に免疫のないシルヴァランスが、みるみる顔を真っ赤に染めた。 初恋絡みのネタは仲直りのいい材料になりそうだし、単純に興味もあった。 「う、うう……。じゃ、じゃあこうしましょう。セシリーさんが、僕に面影を見たという初恋の人の話をしてくれたら、僕も話します」 「うぐっ……。あなたも言うようになったわね」 「そうそうセシリーさんのおもちゃにされるわけにはいきませんから」 しばし逡巡しながらセシリーは唸った。ラーミアでアリアとミレーヌには語った過去だが、シルヴァランスに話すとなるとやはり迷う。何故迷っているのかセシリー自身よくわかってはいないのだが。 けれどシルヴァランスの過去が気になるのも確かだった。そう考えれば、対価として自分の過去を晒すのは仕方ないかもしれない。 よし、と拳を強く握り、セシリーは挑むような顔つきでシルヴァランスの顔を見上げた。覇気に圧された様子で、シルヴァランスが少しだけ身を引く。 「わかったわ。……じゃあ、少し長くなるし、初恋の話とはいえ、少し重たい話になるから覚悟して」 そう断ってから、セシリーは大きく深呼吸して口を開いた。 * * * 今から十一年前。セシリーは幼い妹、シェミニールと共に当てもなくランバーグの裏通りを彷徨い歩いていた。 雨に打たれて濡れたショートボブの蒼髪が頬に張り付き、セシリーはそれを何度もどけながら雨道を進む。 セシリーより五つ年下のシェミニールは、セシリーと同じく蒼い色の髪をツインテールに結って、手には薄汚れた熊のぬいぐるみを抱いていた。 二人とも身につけているのは泥を被って茶色く変色したワンピース。元は白かった生地も、今や見る影もないくらい汚れている。 「お姉ちゃん、おなか空いた……」 「……ごめんね。もう少し、もう少しだけ我慢、ね?」 「うん」 シェミニールに幾度と無くそう言って聞かせ、すでにお金が尽きて食べ物を買えないことを悟らせまいとセシリーは必死だった。両親を失い、知人や親戚など身寄りのない姉妹は、貧富の格差が激しいランバーグの街では何処にでもいるような存在だった。 雨の中をかれこれ何時間歩いただろう。足が棒のように重く、繋いだ手から感じるシェミニールの体温もずいぶん冷たくなっていた。 何度も何度も雇ってくれるところを転々とする日々。しかしランバーグのダウンタウンを幼い姉妹が生きていくのは容易ではなかった。特にシェミニールは体も弱く、過酷な仕事に向かない。だからこそ姉であるセシリーが頑張らなければいけないのに、薄汚い小娘を雇ってくれる場所など殆どなく、例え雇ってくれても向こうの都合で長続きすることはなかった。 もう、最後に物を食べて以来、四日が過ぎていた。 このまま姉妹二人、路上で倒れて死んでしまうのだろうか。だが自分はともかく、妹のシェミニールだけでも絶対に助けないと。セシリーはお姉ちゃんなのだから。 そう強く心の中で繰り返しても、セシリーの体力はみるみる落ちていく。シェミニールも先ほどから一言として口を開かず、ずっと無言のままセシリーに手を引かれている。 そしてついに、シェミニールが道に倒れ込んだ。バシャッと水たまりに膝を沈め、ぐったりと瞳を閉じたまま動かない。 もう駄目なのかと、セシリーもその場にしゃがみ込んだ。意識のないシェミニールを抱きあげ、自分の膝にシェミニールの頭を置いてセシリーも瞳を閉じた。 その時遠くから水音が聞こえた。いや、それは雨水でぬかるんだ道を駆ける足音だった。 セシリーは辛うじて首を持ち上げ、半分だけ瞳を開く。 「だ、大丈夫?」 雨粒が遠のき、セシリーの視界に傘を差した少年の顔が映った。年の頃は自分と同じか少し年上くらい。美しい金髪に、ルビーのような朱色の瞳。女の子と見間違うほど整った顔つきの白い肌をした少年が、心配そうにセシリーを見つめていた。 「…………」 セシリーは少年に何か言葉を伝えようとしたが声が出なかった。すでにまぶたは鉛のように重く、意識も朦朧としていた。 「しっかり! しっかりしてっ!」 少年の声がどんどん遠のいていき、セシリーは意識を失った。 「……ん……」 まぶしい光。そっと瞳を開くと、セシリーは真っ白な光の洪水に包まれていた。 あまりに眩しくてしっかりと目を開けられない。ここが天国なのかと思いながら、セシリーは仰向けに横たわっている自分の体を上半身だけ持ち上げた。 混濁した意識の中で周囲の様子を伺うと、広くて綺麗な部屋のベッドにセシリーは寝かされていた。薄汚れたワンピースではなく、感じたことのない肌触りのネグリジェがセシリーの身を優しく包んでいる。 シルクのように美しいカーテンが窓から流れ込む風に揺られて輝き、触れたこともない高級家具が立ち並ぶ部屋の床には、朱色の高そうな絨毯が敷かれている。セシリーが寝かされていたベッドはふかふかなプリンセスベッドで、ベッドの周りを薄いヴェールが包んでいた。 「……?」 天国じゃないのかな、とセシリーは首を捻る。少しずつハッキリしてきた意識で自分の頬にそっと手で触れてみると、確かに温もりを感じた。どうやらまだ生きてるらしい。 「――っ! シェミニールッ!」 生きていることを実感した直後、セシリーの脳裏に浮かんだのはここが何処でどうしてセシリーがここに居るかではない。両親が死んで以来一時も側を離れなかった妹の存在だった。 セシリーはシーツをはね除けてベッドから飛び降りた。くまなく部屋中を見渡すが、そこにはセシリー以外に人の気配はない。 愕然とセシリーが部屋の中央で佇んでいるときだった。ふと部屋の扉が軋む音を漏らしながら開き、セシリーは反射的に扉の方を見つめた。 「気がついたんだね。……よかった」 そこに居たのはシェミニールではなく金髪の少年だった。その顔を見た瞬間、セシリーはその少年が意識を失う直前に現れた少年だということを思い出す。 「……シェ、シェミニールが、シェミニールが居ないの!」 おそらく目の前に居る少年がセシリーを助けてくれたのだろう。けれど、感謝の言葉より先にセシリーの口から出たのは、やはり妹のことだった。 「大丈夫、落ち着いて。一緒にいた子なら、先に目を覚まして元気に食事を摂ってるよ」 どこまでも柔らかな笑みを浮かべて少年が優しい声音で言う。セシリーは軽い虚脱感を覚え、もう少しのところでその場にしなっとしゃがみ込んでしまうところだった。 「安心したみたいだね。君も随分衰弱してるみたいだから、ちゃんと食事を摂った方がいい。……こっち、ついてきて」 少年が手招きするので、セシリーは恐る恐るその後に続いた。見ず知らずの少年であったが、少年が見せる笑みは演技などではなくとても自然で暖かなものだったため、セシリーは少年を信じることにした。 「シェミニールッ!」 「あっ、お姉ちゃんっ」 少年に案内されて着いた部屋で、セシリーは元気に食べ物をがっつくシェミニールの姿を見つけた。痩せこけた体を少しでも元気づけようとしているのか、シェミニールはセシリーが今まで見たこともないくらいの勢いで食べ物を口に運んでいる。 そんなシェミニールの元気な姿を見て、今度こそセシリーはカクンと腰砕けに床へしゃがみこんだ。緊張がほどけ、足に力が入らなかった。 シェミニールと肩を並べて食事を取りながら、セシリーは向かいに腰掛ける少年とチラチラとうかがった。 少年はセシリーと視線が合うとニコッと日だまりのような笑みを返してくれた。思わずセシリーは顔を赤らめて視線を料理に落とす。よくよく考えてみれば、今セシリーを包んでいるのは薄いピンクのネグリジェのみで肌の露出はかなり多い。そんな姿を少年に見られていることが、一層セシリーの動揺を加速させた。 「セシリーにシェミニールだったね。僕はパーシヴァル。裏通りで君たちが倒れているのを見たときは焦ったよ。でも、無事でよかった」 「ありがとう、えっと……パー……。…………。ありがとうお兄ちゃん」 シェミニールが口の周りをソースで汚したまま、にっこりとパーシヴァルと名乗った少年に眩しい笑みを零した。 「えっと……、す、すいません、私達みたいな乞食に、その、パーシヴァルさんのような高貴な方の手を煩わせてしまって」 セシリーは努めて丁寧に振る舞った。相手の身なりや物腰を見れば、相手がかなりの上流階級に位置する貴族だということぐらいわかる。少女としての恥じらいと場違いな貴族の屋敷に居るため、セシリーは緊張で食事がうまく喉を通らなかった。 「そんなこと気にしなくていいよ。困ったときはお互い様だから」 パーシヴァルはどこまでも優しかった。セシリーの中にある貴族のイメージは、傲慢で高飛車。自分が世界で一番偉いと思っているような、支配欲独占欲の強い人間だった。だから、そんなイメージを根底から覆すパーシヴァルの存在はセシリーを困惑させる。 ますます熱くなる頬を自覚しながら、セシリーは必死に動揺を隠して食を進めた。 ぬるま湯に浸かっているような穏やかな空気が漂う空間。でも、セシリーはそんな空気を純粋にはなじめなかった。こんなにも居心地がいい場所に、長く居られるはずがない。 「どうしたの? ……美味しくなかった?」 「あ……、ううん。そうじゃないんです。私、こんなすごい料理見たことなくて……」 心配そうに眉根を寄せるパーシヴァルに、セシリーは気持ちを悟られないように笑顔を見せる。親切にしてくれる相手に不快な気持ちは抱かせたくない。 しばらく和やかに時が過ぎていった。だが突然、 「ここにおったかっ!」 部屋のドアがバンと大きな音を立てながら乱暴に開かれ、そこから中年の大男が姿を現した。 輝き褪せた金髪に威厳を感じさせる顎髭。深くて濃い皺が顔全体に張り付き、表情はまさに激昂を絵に描いたようなものだった。豪奢な宝石や衣類で身を固め、これこそセシリーが抱いていた貴族のイメージそのものだった。 「ち、父上!」 「フン、こやつらが連れ込んだという乞食か……。この、たわけがっ! 貴族ともあろうものが乞食を屋敷に招き入れるとは……。さっさと追い出せっ!」 「きゃっ!」 いきなり現れた男がシェミニールの椅子の足を蹴飛ばし、衝撃でシェミニールが床に倒れ込んだ。 「シェミニールッ!」 「薄汚い乞食がっ!」 「あああっ!」 とっさに駆け寄ろうとしたセシリーに、今度は直接男の蹴りが飛んできた。避ける暇もなく、セシリーはみぞおちに直撃を食らってその場にうずくまる。 さっき食べたものを吐いてしまい、男がセシリーの吐瀉物を見てさらに表情を歪め、 「床を汚しおって、このゴミ風情がっ!」 「あぐぁっ!」 今度は腹ではなく顔面を蹴りつけてきた。セシリーは床に仰向けに倒れ、口の中が切れて口内に酸っぱさと錆びた鉄の味が広がる。 「止めて下さい父上っ!」 「黙れ馬鹿者がっ!」 さらにシェミニールを踏みつけようとした男を、パーシヴァルが背後から胴を抱えこんで止める。セシリーは痛みを堪えながら顔を持ち上げ、床を這いながらシェミニールの元に近寄ってギュッと強く抱き寄せた。 自分はいくら殴られようとも構わない。けれど、シェミニールだけは絶対に傷つけさせたりしない。 その一心で、セシリーは必死にシェミニールを男の視界から隠す。 「この子達は僕が責任を持って世話をします。いくら父上と言えど、勝手に追い出させたりはしません!」 「なんだと! 貴様、儂に逆らうつもりかっ!」 「僕は先月元服を迎え、すでに家督の一部を継ぎました。この離れの所有権はすでに僕にあります」 凄まじい顔で睨みをきかせる男に、女の子みたいに肌が白くて気弱そうなパーシヴァルは一歩も引かず、セシリーは二人の睨み合いを端から息を飲んで見守った。 「……ちぃっ、勝手にしろっ!」 ついに男が折れ、殺気の籠もった目でセシリー達を一瞥してから踵を返した。去っていく男の背中を見つめ、セシリーは震える体を必死に堪えてシェミニールを包んでいた。 「ごめん、セシリー。……僕がもう少し早く止めに入って居れば……」 「あっ……、いえ……。……っ! ハンカチが汚れてしまいます!」 男が去った後、パーシヴァルがサッとセシリーのもとに歩み寄り、血や吐瀉物で汚れたセシリーの口元を綺麗な白いハンカチで拭ってくれた。セシリーの制止も聞かず、申し訳なさそうに表情を曇らせたままハンカチを動かすパーシヴァルに、セシリーは気恥ずかしさを覚えながらも大人しく身をゆだねた。 「もう二度と、父上だろうとこんな真似はさせないから。……だから、君たちは安心してここに居ていいんだよ」 「そんな……。長々とお世話になるわけにもいきません。傷の手当てと食事をさせてもらっただけで十分です。……すぐに出ていきますから――」 「出ていく必要なんて!」 ハンカチを止め、パーシヴァルがのぞき込むようにセシリーの顔を見つめてきた。その真剣な眼差しに、セシリーは言葉を失って呆然とパーシヴァルを見つめ返す。 「もし今のままこの屋敷を出て、行く当てがあるのですか? お金を稼ぎ、生きていく術があるのですか?」 「それは……。でも、申し訳ありませんし、こんな……」 こんなにも優しくしてくれる人の側に居たら、その後に訪れる辛くて苦しい日々に耐えられなくなってしまう。セシリーはそう思っていた。 「……なら、こうしましょう」 唇を噛みしめて俯くセシリーの耳に、パーシヴァルの凛とした声が響いた。セシリーがそっと顔を持ち上げると、パーシヴァルが真面目な顔つきでセシリーを見つめていた。 「先ほど二人が召し上がった食事代を、二人には働いて返して貰うことにします」 「え……?」 「まさか、ただで施しを受けられると思ってはいないでしょう? もし今手持ちがないのであれば、その分は従者として働いて返却して貰います」 パーシヴァルの言葉を、セシリーはシェミニールと顔を見合わせながら黙って聞いていた。シェミニールはよく意味がわからないといった様子で首を傾げている。 「わかりましたね? 今日から二人はこの屋敷に住み込みで働いて貰います」 「そ、それは……」 「嫌でしたら、先ほど食べた食事代を置いて屋敷を去って下さい」 そう言ったときのパーシヴァルは、とても穏やかな表情を浮かべていた。セシリーが一文無しだということを十分承知した上で、労働で返すために屋敷に残れと言う優しい言葉に、セシリーは感謝と共に罪悪感にも似た痛みを覚えた。 人を頼ってはいけない。幸せに身を置いてはいけない。 それがシェミニールを自分が守っていくと決めた時にセシリーが自分自身に誓ったことだった。でも、パーシヴァルはそんなセシリーの誓いを簡単に崩そうとしている。 自然と涙が溢れた。それは堪える間もなく頬を伝い、シェミニールの髪へとこぼれ落ちていった。不思議そうにセシリーの顔を見つめるシェミニールに、セシリーは笑顔を取り繕うことすら出来なかった。 優しくしないで欲しかった。幸せなんて与えて欲しくなかった。そんな暖かな世界に自分を招かないで欲しかった。その先に見える不幸が、苦痛が、絶望が怖くなるから。 でも本当は欲していた。幸せを。温もりを。 涙はとりとめなく瞳からこぼれ落ち、いつの間にかセシリーは嗚咽を漏らしていた。今だけは、シェミニールの前とはいえ気丈な姉を取り繕うことはできなかった。 こうしてセシリーとシェミニールはパーシヴァルの屋敷で働くことになった。 * * * 「まあ、こんな経緯で私達はその少年の家で働くことになったの」 「…………」 少年に出会うまでの経緯を話したところで、シルヴァランスが難しい顔つきでセシリーを見つめていた。先ほどから、一方的に話すセシリーの言葉にシルヴァランスは相づちすら打たずに聞き入っている。そんなに面白い話だろうかと疑問に思いながらも、セシリーは気にせず話を進めていた。 でもやはりシルヴァランスの様子はおかしい。セシリーの顔を見ては決まり悪そうに視線を逸らし、そして俯いたかと思うと急に真面目な顔つきで何やら考え込んでいる。 「……どう、したの?」 「は? ……あ、いえ、すいません、少し考え事をしていました」 セシリーが話しかけると、ハッと我に返った様子でシルヴァランスがハハハと作り笑いで誤魔化した。どうも様子がおかしいシルヴァランスにセシリーは眉を顰める。 「話を中断させてしまって申し訳ありません。……続き、お願いします」 あたふたしながら続きを急かすシルヴァランス。セシリーは首を傾げながら、 「……そうね、じゃあ……」 と、話を続けた。 * * * パーシヴァルの家で働くようになって四日。すでに一通りの仕事を覚えたセシリーは、他の給仕達に混じって何の遜色もない仕事ぶりを発揮していた。 シャカリキに働くのには訳がある。それは体の弱いシェミニールに負担を掛けるわけにはいかないため、妹の分も自分が働こうと思っていたからだ。 シェミニールにはパーシヴァルの弟、妹の話し相手を任せ、そんなシェミニールの分もセシリーは窓ふきに廊下の掃除、花瓶や絵画の手入れ、食事の準備など肉体労働をこなしていった。 仕事自体はきつかったが、嫌だと思うことはなかった。むしろ、行き倒れ寸前だった自分たちを屋敷にあげてくれたパーシヴァルに対する感謝を考えれば、この程度の仕事でいいのだろうかと申し訳なく感じるくらいだった。 「あっ! ミニのお姉ちゃんっ!」 セシリーが白と紺のエプロンドレスを身に纏って窓拭きをしていると、幼い少年の声が響いた。手を止めて首を声の方へ向けると、八、九歳くらいの少年が元気な笑みを浮かべ、その影には少年に隠れるように少年の袖を掴む四歳くらいの少女が立っていた。 「あら、ギン君にクレアちゃん。こんにちは」 「こんにちはっ」 「こ、こんにちは……」 声の主を確認してセシリーは笑みを零す。二人はパーシヴァルの弟と妹で、揃って金髪に赤い瞳をしていた。 ギンは次男ということもあって家督を継ぐ必要がないため、いずれトルメキア王国がハルモニカ大陸に侵攻する際にランバーグにも援軍を求めるだろうということから、学芸よりも武芸をたたき込まれており、頬や腕などには生傷が後を絶たない。色白なパーシヴァルとは違い、肌は小麦色に焼けている。 そしてギンの後ろで気恥ずかしそうに上目遣いでセシリーを見つめるクレア。ふわふわの金髪を赤いリボンで結い、ピンク色のドレスがよく似合っていて、いいところのお嬢様を絵に描いたような少女だ。 「今日はもう訓練終わったの?」 「うん。だからミニとお話しようと思って」 セシリーの問いに威勢良く答えるギン。ちなみにミニとは、シェミニールのことだ。ギンが考えたあだ名のようで、シェミニールの中に含まれる文字列で、しかも小柄な、という意味を持っている言葉なので、シェミニールのあだ名として定着したらしい。そのせいか、ギンはセシリーをミニのお姉ちゃんと呼ぶ。きっと本名は覚えてないだろう。 「……お兄ちゃん、こっちに来てることがお父様に知られたら、また怒られるよぅ」 「だったらクレアは母屋に戻りなよ。僕は一人でミニに会いに行くから」 「うー、……あ、あたしも行くもん!」 そんなやりとりをしながらギンとクレアが廊下を駆けていった。以前シェミニールと話しているところを父親に見つかって、ギンは両頬が腫れ上がるくらいに強くぶたれ、きつく叱られたようだが、懲りずに今日もシェミニールに会いに来てくれたらしい。姉としては嬉しいような、申し訳ないような、複雑な気持ちだった。 去っていく二人の背中を見つめて頬を緩めていたセシリーは、同僚の給仕が廊下を通り過ぎるのを見て、ハッと我に返って窓ふきを再開した。同僚だが相手はセシリーより何歳も年上の人。さぼっているところを見られては何を言われるかわからない。 それから一時間。セシリーは窓を拭き続けていた。離れとはいえ、そこは貴族の屋敷。廊下に並ぶ窓はザッと百を数える。 「ふう……。疲れた……」 ようやく全部拭き終わった時、セシリーは魂が抜けるくらい大きなため息をついた。 「だいぶお疲れみたいだね」 「――っ!? パ、パーシヴァルさんっ!」 「やあセシリー、お疲れ様。はい、これ差し入れ」 突然背後に現れたパーシヴァルに動揺するセシリー。パーシヴァルはオロオロするセシリーの前で、包み紙にくるまれたキャンディを取り出す。 しばらく固まってしまったセシリーが慌ててキャンディを取ろうと手を伸ばすと、 「頑張って。じゃあ、また夕食の時に色々話そうね」 パーシヴァルは少しいたずらっぽく微笑むと、ひょいっとキャンディを持つ手を引っ込めてササッと包み紙を外し、 「うきゅっ」 キャンディを親指と人差し指で掴んであれよあれよと言う間にセシリーの口に突っ込んだ。突然のことで、思わずセシリーの口から異音が漏れる。 パーシヴァルは微笑みを残して去っていき、セシリーはしばらく動悸がままならずその場を動けなかった。 何でこんなにも動揺しているのか自分でもよくわからない。何でこんなにも頬が熱を帯びているのかわからない。 ずっと前、両親が生きていた頃に一度だけ食べたことのあるキャンディ。甘くてコロコロとしたお菓子で、ずっともう一度食べたいと思っていたキャンディ。 けれど今、口の中に広がる味をセシリーは甘いと感じることができなかった。 そっと人差し指で唇に触れるだけで、体温が上がる気がした。 「あっ、お姉ちゃん、お帰り」 「うん。体調はどう?」 「大丈夫だよー。聞いて聞いて。今日ね、ギン君がね」 「はいはい、話は後で。先にお風呂行こう。ね?」 今日の仕事を終えたセシリーが、パーシヴァルに与えられたシェミニールとの二人部屋に戻ってくると、シェミニールがベッドに横たわったまま上体を起こして表紙に綺麗な絵が描かれている本を読んでいた。ギンがシェミニールのために持ってきてくれたものだ。 着替えを持って屋敷で働く給仕用の風呂へと足を運び、誰も居ないことを確認してから二人は湯船に浸かった。 一番格下のセシリー達は決まって一番最後にお風呂へ入り、食事も他の給仕達がすべて取り終えてからになる。かなり遅い時間帯の夕食となるが、食事を取ることができるだけでもありがたい二人にとって、時間など些細なことだった。 「でね、でね、今日ギン君に聞いたんだけど」 湯船に浸かると、シェミニールがコロコロと笑いながら口を開いた。 シェミニールはパーシヴァルに拾われてこの屋敷で生活するようになってから見違えるように生き生きとしていた。きっとこれが本来の姿で、今までは苦しい生活の中で小さいながらも色々な我慢や制約を感じていたのだろう。 こうしてシェミニールの笑顔を見ていられる。それだけで、セシリーの心は温かい気持ちで満たされていた。 「もう、お姉ちゃん聞いてるのぉ?」 「あっ、ごめんごめん。……で、ギン君がどうしたの?」 ふと考え込んでいたセシリーだったが、シェミニールの言葉で我に帰った。 「だから、今日の訓練で、初めてじぇむを使ったんだって」 「ジェム……」 「お姉ちゃんもじぇむ使えるもんね。ギン君とお揃い」 「うーん、ジェムって言っても何種類かあるからね。一緒かどうかはわからないよ」 ジェムは数多くの種類があり、そしてそれらの根本は七種の属性で構成されている。その中で、セシリーが使えるのはサンダージェムだ。ジェムは先天的な才能ではなく、後天的にも体得できるものらしいが、多くの場合は才能の一言で片づけられる一部の先天的な素質を持った人間しか使えない。 「クレアちゃんもじぇむ使えるんだって。パーシヴァルさんも使えるのかなぁ?」 「……さあね。ほら、さっさと髪洗って、夕食食べに行くわよ」 髪を洗うのを嫌がるシェミニールを無理矢理シャンプー付けにして洗い、ザプンと湯船に浸かって百数えた後に二人は風呂からあがった。 貸し与えられた衣類で身を包み、二人は給仕用の食堂へと足を運ぶ。そこは本来、この時間には食事当番の給仕が一人居るだけなのに、もはやもう一人、当たり前のようにセシリー達を待っている人物が居る。 「今日もお疲れ様」 パーシヴァルはいつもこうして、女の子のような優しい笑みで二人を迎えてくれる。食事は母屋で食べるのが当然なのに、父親の反感を買ってまでこうして給仕用の食堂でセシリー達と一緒に取ろうするパーシヴァルに、セシリーは罪悪感を覚えずにはいられない。 いつもはこの三人で夕食を食べるのだが、その日は違った。もう一人、パーシヴァルの隣に細身の美しい女性の姿がある。 「こんばんは。あらあら、本当によく似たご姉妹ね」 「あっ、ソフィーネ様」 シェミニールがまるで犬のように尻尾を振りながらテクテクと見知らぬ女性に歩み寄っていった。セシリーが目を白黒させながら女性を見つめていると、 「そう言えばセシリーはまだ会ったことなかったね。僕の母で……」 「ソフィーネよ。シェミニールのお姉さんで、セシリーさんね? いつもギンやクレア、パーシヴァルがお世話になってるわ」 同性ながらも見とれてしまいそうなほど美しい女性が笑みを浮かべて名乗った。 パーシヴァルの母親だということも納得できる、肌の白い美人。髪は輝くブロンドで、瞳は子供達とは正反対で蒼かった。三人も子供を産んだとは思えぬほどボディラインもシャープで、外見年齢は二十代半ばにしか見えない。 「あっ、あの、いえ……。こちらこそ、パーシヴァルさんにはご迷惑ばかりかけて……」 「そんなことないわ。あなたが来てくれた後、この子は随分いい顔をするようになった」 「や、止めて下さい母上」 いつもはセシリーにとってもお兄さんのような余裕ある態度のパーシヴァルも、母親の前ではまだまだ子供らしい。うまいように扱われ、少し困惑した様子で頬を掻いていた。 あの穏やかな空気にかつてはセシリーもシェミニールも身を置いていた。両親と姉妹の家族四人。慎ましくも穏やかで暖かな世界にセシリー達は居た。 けれど幸せは長くは続かない。両親の死をきっかけにセシリーの人生は一転し、その日その日を生きていくのが精一杯という毎日を生きてきた。 自分はいい。もう十三になったセシリーは、生きていく術も学んだし、それまでに親からの愛情も十分注いで貰った。でも可哀相なのはシェミニールだ。親の愛情を受けたい真っ最中に親を失い、我が儘を言いたい盛りにその機会を失った。 今こうしてソフィーネを無警戒に慕うシェミニールは、きっとソフィーネの中に母親への愛情を重ねているのだろう。 「あら、どうしたのセシリーさん?」 「い、いえ……」 いつの間にか熱くなってきた目頭をそっとさすりながら、セシリーは動揺を悟られないよう気丈に振る舞う。 「うふふ、パーシヴァルに聞いていたとおり、しっかりしたお嬢さんのようね」 「そんなっ、私なんか、全然……」 セシリーは両手を顔の前で振りながら必死に否定した。 「謙遜しなくてもいいって。セシリーは十分に屋敷の仕事も、姉としての責任も果たしてるんだから。立派すぎるくらいだよ」 「あらまあ、よく知ってるわね。本当、最近のパーシヴァルったらセシリーさんばかり見ているものね」 「だ、だから母上っ!」 「どうしたの? お兄ちゃん、顔真っ赤だよ?」 パーシヴァルとソフィーネのやりとりを見ながら、シェミニールが不思議そうにパーシヴァルを見つめていた。パーシヴァルは決まり悪そうに作り笑顔で応じ、セシリーを見ては気恥ずかしそうに視線を泳がせていた。 穏やかな空気。だからこそ、セシリーは徐々に怖くなっていった。 いつの日か必ず訪れるであろう、この幸せの終わりが。 すでにセシリーとシェミニールがパーシヴァルの屋敷で働くようになって一月余りの時が過ぎていた。最初は訝しげに邪険にされていたセシリーも、今では他の給仕達とうち解けて随分仕事がしやすくなり、そのお陰かパーシヴァルの父親も強く物言いにくることはなくなっていた。 「セシリーちゃん、こっちのもよろしくね」 「はーいっ」 「ねー、こっちもー」 「はーいっ」 こき使われるというのは大して変わっていないが、それでも給仕達の態度は当初に比べて激変していた。それは負の感情を持ってセシリーをあしらうのではなく、良い意味でセシリーにいじわるしているような、そんな態度だった。だからこそ、仕事の後には餌付けのごとくお菓子やらお古の衣類やらをこぞって分け与えてくれた。 そんな日々は純粋に幸せだった。それでも、最後の扉を開けずに一歩本当の幸せから身を引いていたのは、やはりその先に見える不幸が怖かったからだ。 幸せにならなければ、不幸になったときのショックは小さい。 「はああっ!」 廊下を進んでいると、窓の外から威勢のいい声がセシリーの耳に飛び込んでくる。スッと窓際によって外を眺めると、母屋の前の拓けたスペースでギンが剣を握って訓練をしている最中だった。 ギンの前には険しい顔つきの父親の姿があり、ギンが手合い相手の攻撃を受けるたびに叱責している様子だった。時折手に持った杖でギンを殴り、それでもギンは訓練をやめずに大きく声を張り上げている。 「お姉ちゃーん」 しばしその光景に見入っていると、今度は背後からセシリーを呼ぶ声がした。振り返るとシェミニールがセシリーと同じエプロンドレスを身に纏い、手には箒とちりとりを持っていた。 「何見てるのぉ?」 「えっ……、ああ、ギン君も頑張ってるんだなぁって……」 シェミニールがセシリーの懐に潜り込むよう近寄ってきて、窓に張り付くと外の様子を伺った。丁度そのとき、父親の杖がギンの頬を打ってギンの口から少量の血が飛散するのが見えた。 「……ギン君、可哀相……」 心配そうに眉根を寄せるシェミニール。同い年くらいの男の子だし、今まで話し相手の居なかったシェミニールにとって初めて出来た友達だから、心配するのも当然だろう。 「そうだ」 「……?」 「シェミニール、ちょっとついてきて」 セシリーはふといいことを思い立ち、バケツを廊下に置いたままシェミニールの手首を掴んで廊下を駆けた。 連れて行ったのは給仕用の医務室。給仕用とはいえ、一応一通りの薬草や丸薬の類は揃っている。勝手に使っていいということになっているため、セシリーは擦り傷や切り傷用のセットを一式箱に詰めて、シェミニールにそれを持たせて部屋へと戻った。 「……お姉ちゃん、これ、どうするの?」 「きっと今日も訓練が終わったらギン君がここに来るでしょう? その時に、シェミニールがギン君の傷の手当てをしてあげなさい」 「私が?」 目をまん丸にしながらシェミニールが不思議そうに救急箱を見つめる。セシリーはその手前でガーゼや塗り薬を取り出し、一つ一つ丁寧に、どんな時にどんな要領で使うかを説明していった。 体は弱いが物覚えのいいシェミニールは、一回の説明でちゃんと扱いを覚え、十分医務室当番が務まりそうなくらいの技術を体得した。それに満足したセシリーが微笑んでいると、部屋の扉がコンコンとノックされる。 「ミニー、居るー?」 「あら、丁度いいタイミングね」 セシリーは少し困惑気味のシェミニールにウインクして立ち上がり、そっと扉を開いた。 「あ、お姉ちゃんも居たんだ」 「私はもうそろそろ仕事に戻らなくちゃいけないの。……だから、シェミニールのことをお願いね」 「うんっ」 ギンは頬や脛に大きな傷が出来ており、まだ少し血がにじみ出ていた。セシリーは再度シェミニールにウインクを送り、部屋を後にした。 廊下をカツカツと進み、自然と歩幅が大きくなる。何故かとても、穏やかで清々しい気持ちでいっぱいだった。 徐々に徐々にではあったが、セシリーは幸せな日々に馴染んでしまっていた。最後の扉だけは開けずとも、つねにその周りをうろうろしているくらい、そして何度もドアノブに手を近づけたくらい、幸せな日々に身をゆだねようとしていた。 ある日、セシリーは生まれて初めてランバーグの表街を歩いていた。辛うじて見たことはあるが、決して着たことなどない豪奢な白いビロードのドレスで身を包んで。 靴はクリスタルで出来た半透明。髪は御髪を撒いてうなじを出し、初めて化粧も少し施した。ふと足を止めて道端のショーウインドウに映った自分の姿を見ながら、 「こういうのを、馬子にも衣装って言うのよね……」 と小さく呟いた。けれどそんなセシリーの独り言が聞こえていたのか、隣を歩くパーシヴァルが、 「そんなことないさ。……に、似合ってるよ、そのドレス」 照れくさそうに頬を赤らめながら言ってくれた。セシリーは恥ずかしさのあまり声も出ず、上目遣いにパーシヴァルを見つめ返すのが精一杯だった。 きっかけはソフィーネだった。買い物に行くから従者として付いてきてと優しい口調で言い渡され、外に出るのだからおめかししなきゃいけないと言われてドレスを着せられ、そろそろ化粧の仕方も覚えないと駄目ねと言われて化粧の仕方を習い、そしていざ屋敷の外に出てみると、待っていたのはソフィーネではなくパーシヴァルだった。 聞けばパーシヴァルもソフィーネに出掛ける用事があるから付き合ってと言われていたらしい。どうやら今回の黒幕はソフィーネで、どういう理由かはわからないけどセシリーとパーシヴァルを二人きりにさせたかったらしい。 「本当に、母上は一体何を考えているんだか」 パーシヴァルはシックな黒っぽい衣類で身を固め、普段はあまりセットされていない髪も丁寧に流していた。それだけで随分大人びて見えて、それがますますセシリーを困惑させる。 二人はそのまま街を歩き、時折立ち止まっては綺麗な表通りに面した店のショーウインドウを見つめた。 始終笑みを絶やさないパーシヴァルと違い、セシリーは曇りがちな作り笑みで街を歩いていた。貴族の中でも格式の高いパーシヴァルと一緒に居ると嫌でも目立ってしまう。その結果、「あの子誰?」といった、訝しげな視線を全身に浴びることになるからだ。 自分でも分かってる。いかに場違いな存在であるかを。ちゃんと、わきまえている。 「……セシリーは」 セシリーが堅い表情で俯き加減に歩を刻んでいると、パーシヴァルがおもむろに口を開いた。 「僕と一緒じゃあ、楽しくない?」 「あ……、いえ、そんな……」 「そんな?」 「……そんなこと、ありません」 それは嘘だ。いや、本当を嘘で誤魔化しているのかもしれない。 パーシヴァルと一緒に居られるのは嬉しいし、幸せだと感じられる。けれどそれを必死に楽しくない、幸せじゃないと言い聞かせて自分を偽っている。 キュッと唇を噛みしめながらセシリーは瞳を閉じた。しばらく溢れる感情を押し殺した後、セシリーが瞳を開くとそこにパーシヴァルの姿はなかった。 「……パーシヴァルさん?」 辺りを見渡すが、何処にもパーシヴァルの姿が見えない。街を歩くのは、ダウンタウンに住んでいた頃に見てきた人と同じ街に住んでいるとは思えないほど、豪奢で瀟洒な貴族ばかり。そんな場違いの空気漂う所に、セシリーは一人取り残されてしまった。 「怒らせ……ちゃったかな……」 一緒に居てもずっと表情を曇らせていたセシリーに憤りを覚えるのも無理はない。セシリーだって、もし一緒に出掛けた相手が嫌そうに眉を顰めていたら寂しいし、悲しくて、きっとやり場のない怒りを覚える。 でも、これでよかったのかもしれない。優しくされるよりは、突き放して不誠実にあしらってくれた方が、必死に幸せから逃れようとする必要がなくなるから。 「う……うう……」 突然セシリーの喉から嗚咽が漏れた。同時に頬を熱い液体が伝い、ポロポロと地面に零れ落ちていく。 何で泣いているのかセシリー自身わからなかった。でも色々な感情が次々と押し寄せ、抑えられる器の量を超えてあふれ出している。情緒を維持できず、どうやって涙を止めればいいのかわからない。 「セシリー、い、一体どうしたの!?」 「……う、あ……」 涙に暮れるセシリーの視界に、驚きと焦りを滲ませるパーシヴァルの顔が映った。手には女性向けのお洒落な白い日傘を持っており、おそらく、日差しが強いためセシリーのために買ってきてくれたのだろう。 何で、と心の中で叫びながらセシリーはパーシヴァルを見つめた。 どうしてこんなにも自分が弱く感じられるのだろう。シェミニールを守るために強くあろうとした自分が、何でこんなにも脆くて弱い人間になってしまったのだろう。 「セシリー……。大丈夫、大丈夫だから」 混乱するセシリーの手を取り、パーシヴァルが少し寂しげな笑みを浮かべた。その口から紡がれるのは、まるで赤子をあやすような優しい言葉。 反射的にセシリーはパーシヴァルの胸に飛び込んでいた。考える間もなく体が動いた結果、セシリーはパーシヴァルの胸に自分の顔を埋める。 パーシヴァルは無言のままセシリーを抱きしめてくれた。でもそんなパーシヴァルの優しさが痛くて、辛くて、そして怖くて、セシリーはバッとパーシヴァルの胸を突き離して身を翻す。 甘えてはいけない、そう思っているのに、そう決意しているはずなのに、どうして今日に限ってこうも自分は弱いのだろう。 そのことを噛みしめながらセシリーはパーシヴァルに背を向けた。今度こそ本当に怒らせてしまったかもしれない。 「私に……、優しくしないで下さい……」 「…………」 パーシヴァルはセシリーを置いて立ち去ろうとしない。だからセシリーは続けた。 「私を、幸せな側には招かないで下さい。幸せを教えないで下さい……お願いです……」 また涙腺が緩んで涙が溢れる。ドレスの袖で涙を拭い、セシリーは必死に気を張ろうと唇を噛む。 「もう、嫌なんです。幸せに身を委ねるのはとても暖かいし、居心地がいい。けれど幸せは決して長くは続かない。その先には必ず、辛くて苦しい日々が待っている」 「……セシリー」 「……両親が死んだとき、私は死にたいくらいに辛かった。すべてが真っ黒で、絶望で潰れそうだった。でもそんな私を引き留めて、希望を与えてくれたのがシェミニールなの」 あの時、側にシェミニールが居てくれなかったらセシリーは自ら命を絶っていたかもしれない。辛い現実に見切りを付けて、楽になろうとしたかもしれない。 「私はあの子の姉。あの子を守らなきゃって思いだけで、私は今まで生きてこられた。でももし今、幸せに身を沈めてそこから追い出されたとき、今度はもう、たとえシェミニールが側にいても立ち直れない……」 セシリーがシェミニールを守ってきたのではない。シェミニールの存在を盾に、セシリーがシェミニールに守られてきたのだ。だからこそ、今セシリーは生きていられる。 幸せは怖い。それは一度失ったことがあるセシリーだからこそ、痛いほどわかる。 「そんな……風に考えていたのか……」 「はい。だから、お願いします。私に、優しくしないで下さい……」 優しくされてはその決意が揺らいでしまう。今度こそ、何があってもシェミニールを自分が守るんだという決意が。 セシリーは駆け出そうとした。パーシヴァルに背を向けたまま、その場を立ち去ろうとした。だがそんなセシリーの腕をパーシヴァルが掴み、セシリーが「あっ」と思った瞬間には、セシリーの体はパーシヴァルに包まれていた。 「僕は、絶対にセシリーを追い出したりしないから。だから安心して。セシリーはずっとあそこに居ていいから」 「う、うう……。お願い……優しく……しないで……」 「――嫌だっ! 僕は、君に幸せになってもらいたいから。幸せになって、笑っていて欲しいんだ」 パーシヴァルがセシリーをより強く抱きしめる。 どうしてそこまでパーシヴァルは優しいのだろう。乞食と貴族、今は従者と主。情けを掛ける義理も義務もない、薄い関係だというのに。 「僕は……」 どうしたらいいのかわからないセシリーにパーシヴァルがそっと呟く。 「セシリーのことが、好きだから」 「――っ!?」 「だから僕はセシリーにずっと側に居て欲しい。僕の想いがセシリーを苦しめるのなら、僕はセシリーに近づかないと誓う。でも、セシリーが僕のことを受け入れてくれなくても、僕は決してセシリーを屋敷から追い出したりはしない。決して!」 最後の扉が開いていくのがわかった。もう、頑張れない。もう、どうしようもない。 「う、あ、うあああ……」 セシリーの瞳からぼろぼろと大粒の涙が零れ、もはや取り留めなく流れるそれを止める術はなかった。パーシヴァルの胸に顔を埋め、大声を漏らしてセシリーは泣き続けた。 * * * すでに話し始めて一時間以上経っている。セシリーもシルヴァランスも、ほとんど話し始めからの姿勢を崩さず、淡々と時だけが流れていた。 「まあ、それが私の初恋かしら。まだその時は恋だって思わなかったけど、パーシヴァルさんの優しさを受け入れてもいいと思ったわ」 セシリーはチラッとシルヴァランスの様子を伺う。相変わらず何処か上の空というか、俯き加減に他事を考えているようにも見えるが、一応ちゃんと聞いてくれているのだろう。なんと言っても向こうから話すよう促したのだから。 「ふぅ……。でもね、やっぱり幸せっていうのは長く続かないものなのよ」 結局、後で考えればあそこでパーシヴァルの言葉を受け入れたせいで、セシリーは一層幸せに身を置くことを恐れるようになってしまった。それは今でも変わらない。 シェドと再会してニーヴルをやめるまでずっと籍を置いていたのも、ニーヴルに居る限り幸せになれない、ならなくて済むと思っている節があったからだ。 「屋敷での生活は確かに穏やかで幸せだった。でも……」 * * * 桶に水を張り、綺麗なタオルを数枚用意してセシリーは部屋へ急いだ。ちゃぷちゃぷと桶の中の水が零れそうなくらいに揺れ、スカートを翻して淑女らしからぬ行為ではあったが、そんなことに気を遣う余裕は今のセシリーにはなかった。 「はあっ……はあっ……。シェミニールッ!」 バンと部屋の戸を開け、セシリーはベッドに横たわるシェミニールのもとに駆け寄った。シェミニールは汗をびっしょりかいて呼吸を荒らげている。顔色も悪く、目の下にはハッキリとした隈ができていた。 シェミニールの脇にはギンとクレアが心配そうにシェミニールを見守っていた。ギンがシェミニールの片手を握り、何も出来ない無力さを痛感しているかのように歯を食いしばっている。 セシリーはタオルを水で濡らして絞り、シェミニールの顔を拭いた。そしてしばしギンに部屋から出て貰い、クレアと一緒にシェミニールの全身をタオルで拭いてあげる。 シェミニールが倒れたのは三日前。最初は風邪だと思っていたがどうもそれだけにしては様子がおかしく、ついに昨日の晩、高熱を出して倒れ込みそれっきり今の状態が続いている。 「お姉ちゃん、ミニ……大丈夫だよね?」 「当たり前よ! 絶対……絶対に大丈夫に決まってるんだから……」 それが自分自身に対して言っているのだとセシリーはわかっていた。でも、そうでもしないとどうかなってしまいそうだった。 本当はずっと側に居たい。けれどその気持ちを抑えてセシリーは部屋を後にした。苦しんでいるシェミニールを見るのが辛くて逃げ出したわけではない。セシリーにはやらなければならない仕事が山ほどある。給仕として、姉として。 しかし職場に戻っても、セシリーの脳裏から不安の二文字が消えることはなかった。窓を拭きながらも、廊下を掃きながらも、ふと手を止めてシェミニールのことを心配してしまう。 シャンデリアの魔練器灯を交換する時だった。脚立に足をかけてシャンデリアに手を伸ばしたとき、ふっとシェミニールの苦しそうな表情が脳裏をよぎり、「あっ」と思った瞬間にはすでに遅く、セシリーはバランスを失って廊下に倒れ落ちた。 「……っつー……」 何をやってるんだろう。普段なら目を瞑ってでも出来る仕事なのに。 「だ、大丈夫っ?」 「え……? あ……」 セシリーが廊下に尻餅をついて腰をさすっていると、廊下の向こうから慌てた様子でパーシヴァルが駆け寄ってきた。咄嗟に立ち上がって飛び退こうとしたセシリーだが、腰に痛みが走って無様にまた尻餅をついていしまう。 「無理しないで! 結構な高さから落ちたでしょ?」 「あ、あの……、見て……たんですか?」 「びっくりしたよ。離れのドアを開けて一歩中へ踏み入ったら、セシリーが突然脚立から落ちるんだから」 パーシヴァルに手を取られながらセシリーは腰を廊下から引き離し、軽くさすりながら痛みが引くのを待った。パーシヴァルが心配そうに見つめてくるので、気恥ずかしくも笑顔で返し、心配を掛けないよう気丈に振る舞った。 「そうだ。シェミニールのことだけど、医者の手配はしておいたから、今日の夕方にでも診察にきてくれると思うよ」 「ほ、本当ですか? ……ありがとうございます。何から何まで……」 「気にしないで。僕が好きでやっていることだから。それにセシリーも、今日は集中できそうにないし、仕事はお休みしてシェミニールの側に居てあげたら?」 「そんな……。シェミニールが働けない分も私が頑張らないと……」 ここに置いてくれているパーシヴァルの優しさに報いるためにも、セシリーは恩を返さなければならない。シェミニールが動けないのならば、その分も姉であるセシリーが働くのは当然のことだ。 「セシリーは本当に真面目というか、頑固な節があるね。……仕方ない、じゃあ今日は僕の侍従として働いてもらおう」 「侍従……ですか?」 「そう。今日、僕がこの離れにいるときは一時も離れず僕の側に居て、色々と世話をしてくれる係。……やってくれるね?」 パーシヴァルが子供っぽく笑いながらセシリーの手を取った。セシリーが困惑して言葉を失っている間に、ずんずんパーシヴァルは手を引いて廊下を進んでいく。 たまにこうやってパーシヴァルは強引な行動をとる。ぐいぐいと引っ張ってくれる存在は、姉であるセシリーには両親を失って以来接したことのない相手だった。 「あっ、あの……、パーシヴァルさん……、どこに……」 「僕はこれからシェミニールの看病に行く。だから、侍従のセシリーにも当然、僕と一緒に来て貰うよ」 「そんな……、でも、私まだ他の仕事が……」 セシリーの言うことに聞く耳を持たないパーシヴァル。いや、聞こえているのだろうがわざと無視しているのだろう。 手を通して伝わるパーシヴァルの体温。優しく笑う笑顔。それらすべてが、セシリーの心のドアを容易に開いてしまう。 ずっと一緒にいたい。パーシヴァルと一緒に、ずっと。 セシリーが心からそう思い始めたのはこの頃だった。いつまでも、この幸せなぬるま湯に浸かっていたい。パーシヴァルの側で、微笑んでいたい。 けれど、それは本当に儚くも短い、一瞬の想いだった。 シェミニールの病は医者に見せても判明せず、すでにシェミニールが体調を崩してから二週間が経っていた。体調のいい日には屋敷の中を一人で歩き回るシェミニールだが、咳や熱がひどい日は一日中ベッドに横たわっている。 ここ一週間パーシヴァルの姿を見ていないセシリーは、シェミニールの病気の心配と共にパーシヴァルのことをずっと考えていた。 夕食時も現れない。もしかしたら屋敷を長期間留守にしているのかもしれないが、前に一週間屋敷を離れる時はちゃんと事前に教えてくれた。 「ふぅ……」 窓に打ち付ける雨を見つめながらセシリーは小さく息を吐いた。ギンやクレアなら何か知っているかもしれないが、ギンは武芸の大会に出場するためここ三日留守にしており、クレアもギンの応援に行っているとシェミニールが言っていた。 セシリーは母屋に立ち入り禁止なので直接確認しに行くわけにも行かず、よって悶々とあれこれ心配を繰り返している。 「あ、お姉ちゃんお帰りなさい」 「ただいま。今日も大人しくしてた?」 「うん。……でも、ギン君が来てくれないから退屈ぅ」 「そうね」 セシリーはシェミニールの意見に同意しながらも、退屈の理由が本当はギンが遊びに来てくれないからではなく、パーシヴァルに会えないからだと自覚していた。 今日の仕事は比較的少なく、まだ夕方だというのにセシリーは部屋に戻ってこられた。しかし夕食を取る時間まではかなりあるため、時間をもてあましている。 「お姉ちゃん、どうしたの? 具合悪いの?」 「えっ? そんなことないわよ。私は元気だけが取り柄なんだから」 パーシヴァルの身に何かあったのかと案じているとそれだけで表情が曇ってしまう。今は隣にシェミニールがいるのだから、妹に心配かけるようなことはしたくないのに。 セシリーは軽く頭を振ってもやもやとした気持ちを払拭した。丁度その時、 『コンコン』 部屋のドアを外側からノックする音が響き、もしかして、とセシリーは反射的にドアノブを回した。 「こんにちは、セシリーさん」 「あ……、はい……」 ドアを開くと、そこに立っていたのはソフィーネだった。 上品な貴婦人の立ち振る舞いに美しい服飾。一人の少女として、セシリーにとってソフィーネはまさに憧れと言うべき理想の大人の女性像だった。 パーシヴァルかと思って期待していたことを恥ずかしく思いながら、セシリーはそれをおくびに出さないよう心がけてソフィーネに笑顔を向ける。 「突然お邪魔してごめんなさい。……実は、パーシヴァルのことで少しお話がしたくて」 「……っ! パーシヴァルさん、どうかなさったんですかっ!?」 ソフィーネの口から零れた名前に思わずセシリーは過剰反応してしまう。無意識のうちにソフィーネに迫っていたセシリーは、ハッと気づいてそそくさと身を引いた。 「あらあら、そんなに心配してくれるなんて、あの子も果報者ね」 「あ……、いえ……、その……」 「実はね、先週末から体調が優れないの。だから、離れに来ることもできずにずっと自室で寝ているわ」 「えっ……、病気……なんですか?」 セシリーの脳裏に不安がよぎる。必死に心の中で蠢く恐怖や不安を抑えながら、セシリーはソフィーネの言葉を待った。 「大丈夫よ。昔からあの子は体が弱いから、時折こうやって寝込むこともあるの。だからセシリーさんに会いに来ることができなくて、あの子すごく落ち込んでいたわ」 「そう……なんですか?」 「ええ。それでお話というのは、今から母屋に来てあの子に会ってもらいたいの。セシリーさんがお見舞いに来てくれれば、きっとあの子はよくなると思うのよ」 「そっ、そんな……、母屋へは、その……」 この離れですら十分に肩身の狭い場違いな思いを感じているというのに、あの堅物の父親がいる母屋へ行くとなっては気後れ程度ではすまない。 「大丈夫。あの人は今日、貴族議会に出席していて、外で会食中よ」 セシリーの心配を察したようにソフィーネは穏やかな笑みでそう言った。 「だからお願い。私と一緒に来て」 「……お姉ちゃん。きっとお兄ちゃんもお姉ちゃんが来てくれるのを待ってると思うよ」 「シェミニール……」 シェミニールの言葉にも後押しされ、セシリーは小さくソフィーネに頷いて見せた。そして部屋にシェミニールを残し、セシリーはソフィーネの後について母屋へと移動する。 すでにパーシヴァルに姉妹で拾われて半年以上が経過していたが、一度たりともセシリーは母屋に足を踏み入れたことはなかった。踏み入れる理由もなかったし、何よりそこはパーシヴァルの父親の領域。一歩でも足を踏み入れようものなら、どんな制裁を受けるか想像もつかない。 内心恐怖に震えながらも、それ以上にパーシヴァルの体調を案じたセシリーは思い切って歩を刻み、一流貴族の名に相応しい大豪邸の廊下を進んだ。 しばらくソフィーネについて屋敷の中を進むと、とある部屋の前でソフィーネが立ち止まり、「ここよ」と小さくセシリーに告げた。 セシリーにドアノブを回すようソフィーネの目は促しているように見えたので、セシリーは意を決して扉を開く。 「……パーシヴァルさん……?」 恐る恐る部屋に入ると、中は薄暗くて魔練器灯が最低量の光力しか放っていなかった。 セシリーは静かに歩を刻み、カーテン越しに部屋へ流れ込んでくる夕陽に浮かび上がるベッドを発見した。そこに横たわるのは額に汗を浮かべたパーシヴァルの横顔。 寝ているのかと思って静かに歩み寄ると、スッとまぶたを開いたパーシヴァルがセシリーの顔を見るなりガバッと目を見開いた。 「セ、セシリー? な、なんでここに!?」 「あっ、……安静にして下さい」 セシリーは動揺を抑え、起きあがろうとするパーシヴァルの肩を押してベッドに寝かし直した。パーシヴァルが口をパクパクさせながらセシリーを眺めているので、いつもの余裕を感じさせないくらい動揺しているのが見て取れた。 「パーシヴァルさんが体調を崩されたと聞いて、その、ソフィーネさんの許可を得てお見舞いに……」 「そ、そうなんだ……」 パーシヴァルがセシリーの後方に立つソフィーネに子供っぽく膨れた顔を見せてから、今度は暗い表情でセシリーを見つめてくる。まるで弱った自分を見られたことを恥じるように眉を顰めて。 「体の具合は大丈夫なんですか?」 「え、ああ……。その、あまり心配しなくていいよ。もともとあまり体が強くないから、こんなのよくあることだし」 「でも……」 心配しないでと言われても心配なものは心配。不安が心から溢れてくる。それほどまでに、セシリーの中でパーシヴァルの存在は大きくなっていた。 「……奥様、御主人様が……」 不意に廊下から若い女従の声が聞こえてきた。セシリーは反射的に振り返ってソフィーネの顔を見つめる。 「思ったより早かったわね。……セシリーさん」 「はい」 「裏口から出て、ぐるりと裏庭を通って離れに戻りなさい。……あなた、案内してあげて」 ソフィーネさんは廊下で待機しているメイドに指示を出し、自分は部屋を後にした。おそらくは時間稼ぎのために主人を迎えに行ったのだろう。 「セシリー、……来てくれて嬉しかった」 「……はい。その、早く元気になって、今度はパーシヴァルさんが会いに来て下さいね」 「ああ、もちろん」 それだけのやりとりを終えてセシリーはパーシヴァルの自室を出た。 本当はもっともっと話したいことがあった。でも、仮に時間があったとしても、心に秘めた思いを語ることはきっとできなかっただろう。 その時はそれでいいと思った。きっとまだ話すチャンスはある。セシリーの、パーシヴァルに対する思いを打ち明けられる日がきっといつか来る。そう信じていた。 セシリーは女従について母屋を後にして、シェミニールの居る離れへと戻った。 この日が、セシリーがパーシヴァルと会った最後の日だった。 幸せの終わりはあっけなく訪れた。それは前奏も、何の前触れもなく突然セシリー達の前にやってきた。 パーシヴァルの見舞いに行った次の日。セシリーがすべての仕事を終えて部屋に戻った時、決してそこに居るはずのない人物の姿があった。 険悪な顔つき。長身でがたいのいい、中年の大男。豪奢な貴族の衣服に貴金属の装飾具を身につける男は、セシリーが部屋に入ると同時にその紅蓮の双眸で威嚇するようにセシリーを睨め付けてきた。 思わず怯んだセシリーは、ビクッと体を震わせて扉に背中を貼り付ける。 立っていた男、それはパーシヴァルの父親だった。 「うむ、タイミング良く姉妹が揃ったか……」 男が重々しい口調で切り出した。シェミニールは部屋の片隅で枕を抱えたまま震えており、セシリーも驚きと恐怖のあまり声が出ない。 「ここに一枚の診断書がある。見てみろ」 男は書物に描かれた悪魔のように口角をつり上げ、一枚の紙をセシリーの方へヒラリと飛ばした。セシリーは恐る恐るその紙を拾って書かれている文字を読む。 「――っ!?」 それはシェミニールの病気の診断書だった。そしてそこに記載されている病の詳細。それを黙読した瞬間、セシリーは言葉を失って心臓が止まるくらいの衝撃を受けた。 シェミニールの病は人から人へ伝染する病で、かかると一生治らない不治の病。そして例外なく、発症から数年で命を落とすというものだった。 「……え、あ……」 何も考えられなかった。そこに書かれていることが嘘なんだと疑うことすらできないくらい、セシリーの頭は真っ白になってしまった。そんなセシリーを愉快そうに見つめながら、男が顎髭で覆われた口を開く。 「その病の伝染力はさほど強くはない。だが弱った人間には高確率で伝染する恐ろしい病だ。そして、この国ではその病にかかった者を国外に追放する法律がある」 「……そん、な……」 「半年以上馬鹿息子の世話をしてくれた情けだ。日付が変わるまではここに居させてやろう。だが刻限を越えても居座るようならば、法に乗っ取って感染者の処刑を行う」 それ以上言うことなどないと言わんばかりに、男はセシリーの脇をすり抜けて部屋を出て行った。震えていたシェミニールがバッと飛び出し、扉をバンと内側から閉めてセシリーに抱きついてくる。よほど怖かったらしく、目からは涙が零れていた。 「お姉ちゃん、お姉ちゃぁん!」 「シェミニール……」 必死に泣きつくシェミニールを前にしても、セシリーは未だ何も考えられずにいた。何もかもが突然で、一体どうすればいいのか全くわからない。 出て行く? 何処を? シェミニールが? 不治の病? 「嘘……よ……」 セシリーの手から診断書がすり落ちた。 もしかしたら全部あの男の嘘なのかもしれない。シェミニールが伝染病で、それが死につながる不治の病だという、その診断書も。 けれど、だとしてもセシリーに何ができるのだろうか。助けてくれる人はいない。パーシヴァルは寝込んだままで、今、セシリーに手を差し伸べてくれる人はいない。 何で、どうしてこんな簡単なことで、あっけなく今の生活が壊れてしまうのだろう。そんなにも儚い夢だったのだろうか。 「嫌……。嘘よ、こんなの……、絶対……」 「お姉ちゃぁん……ひっく……ぐすっ……」 「嘘よっ!」 セシリーはシェミニールを強く抱きしめた。そしてシェミニールと同様に、瞳からボロボロと涙を零して嗚咽を漏らした。 何でこんなことに? 自分達が何かした? 何か悪いことした? 幸せを願ったから? 幸せに身を置こうとしたから? バチが当たった? それならば悪いのはセシリーだ。セシリーが、心の奥にある最後の扉を開いて幸せを受け入れようとしたせいであって、シェミニールは何も悪くない。 だからシェミニールだけでもここに居させて欲しい。もし神様が居るのなら、どうかシェミニールだけはこのまま幸せな場所に。 そう願った時、ズキッと心が痛んだ。セシリーの脳裏に、笑顔を浮かべるパーシヴァルの穏やかな表情が浮かんだ。 離れたくない。シェミニールだけじゃなく、自分も幸せになりたい。 「違う……。私はそんな……。シェミニールが幸せなら……私は……」 それは嘘。本当は自分が、自分だけが幸せになれればいいと思っている自分がいる。 「違うっ! そんなんじゃないのっ!」 妹が憎い。妹さえ居なければ、自分一人で生きていく術など今までいくらでもあった。瀕死の状態でパーシヴァルに拾われるまでもなく生きて行けた。でも妹がいたせいで、あんなにもひもじい思いをした。そして今また、妹のせいでこの居心地の良い場所を追い出される。 「やめてっ! 私はそんなこと思ってない!」 心の奥から聞こえる自分の声。それは紛れもなく本音の一部を含んだセシリーの思いだった。 セシリーはシェミニールを抱きしめたまま床に腰を落とした。もはや頬や瞼は真っ赤に染まり、こぼれ落ちた涙で床に小さなプールが出来ている。 ここに居たい、パーシヴァルと一緒にいたい。そう思うだけで、心が汚れていくのがわかった。このままでは最愛の妹を、絶対に護ると誓ったシェミニールを憎んでしまう。何よりもそれが怖かった。 だからセシリーは決心した。 「シェミニール……。ここを、出ましょう……」 すでに日付が変わったランバーグの街。通りにある魔練器灯がうっすらと輝き、夜空からは明るく月光が街を幻想的に照らし上げていた。 街の中でもひときわ大きな屋敷。その門の前で、セシリーとシェミニールは一人の先輩給仕と一緒に立っていた。 両手に持てるだけの荷物を持ち、先輩達から精一杯の餞別も貰った。それだけで、ここを出て行かなければならないという絶望的な気持ちが和らいだ。 「……セシリー」 「先輩、色々とご迷惑お掛けしました」 セシリーは出来るだけ気丈に振る舞って作り笑顔を浮かべる。本当なら泣き出してしまいそうなほど心はボロボロだった。でも、そんなセシリーを強くしてくれるのはやはり妹の存在だった。シェミニールだってギンやクレアとの別れが辛いはずなのに、今は涙も流さずジッと堪えるように唇を噛んでいた。 「その、先輩……。最後に一つだけお願いしてもよろしいですか?」 「……ああ」 「パーシヴァルさんに、「今までありがとうございました。お体気をつけて」と伝えて下さい。そして、「ごめんなさい」と……」 涙が溢れそうになるをグッと堪える。先輩は「わかった」と小さく頷きながら快諾してくれた。 「あたしも……、ギン君とクレアちゃんに、「お友達になってくれてありがとう」って」 「必ず伝えるよ」 先輩はシェミニールの髪をぐしゃぐしゃっと撫で、堰を切ったように涙を零していた。最初は冷たくセシリーに当たっていた先輩の泣き顔を目の前にして、セシリーは拳を強く握って必死に涙を堪える。 「じゃあシェミニール、行きましょう」 「……うん」 セシリーはシェミニールの小さな手をとり、先輩に背を向けて夜のランバーグの道を歩き始める。 もうこの街には居られない。例えパーシヴァルの父親が持ってきた診断書が嘘だろうと、もうこの街に居ることは出来ない。 セシリー達は一度も振り返ることなく歩を刻んだ。真っ直ぐ、ただ前だけを向いて。 もう二度と、この地に帰ってくることはないだろう。 「さようなら……」 セシリーは小さくつぶやき、そっと夜空を見上げた。 夜空に浮かぶ満月。この満月の輝きをセシリーは一生忘れないだろう。そう思いながら、セシリーは一滴だけ涙を零した。 * * * 「……と、いうわけよ」 二人しか居ない宿屋の一室で話すこと二時間。ようやく最後まで話し終えたセシリーは、ふぅ、と大きく息を吐いてからサッと髪をかき上げた。 かなり最後の辺りは重々しく、話している自分まで辛い過去を思い出して心苦しかった。黙って聞いていたシルヴァランスにはとても聞き苦しかったことだろう。 「その後は言うまでもけど、街を出る直前にニーヴルのスカウトに捕まって、シェミニールの病を治してくれるという甘い誘惑に乗ってニーヴルに籍を置くことになったわけ」 「…………」 相変わらずシルヴァランスは黙っている。だが、いつまでもそうさせているわけにはいかない。セシリーはちゃんと自分の初恋話を語ったわけだし、今度はシルヴァランスがセシリーに面影をみた人の話をする番だ。 「はい。じゃあ次はシルヴァランスの番ね」 重たい空気を払拭する意味も込めて、セシリーは意気揚々とシルヴァランスに笑顔で迫った。しかしどういうことか、シルヴァランスは一向に話を始めようとしない。 「あらあらどうしたの? まさかお姉さんにだけ話をさせて自分は無しとか言うつもりかしら?」 「……そう、ですね」 「んなっ!」 まさかそれはないだろうと思って聞いてみると、見事にシルヴァランスは肯定した。こっちに話すだけ話をさせてそれはないだろうと、セシリーは思わずシルヴァランスに目一杯顔を近づけた。直ぐさま顔を真っ赤にしてシルヴァランスが身を引く。 「えっと、その、話したくないというわけじゃないんです」 「じゃあ何よ。私はちゃんと赤裸々な過去を語ったのよ?」 「あのですね、何と言ったらいいのか……」 シルヴァランスはすごく言いにくそうな顔をしていた。そんなにも恥ずかしい過去なのだろうかと、セシリーはますます興味をそそられる。 けれど、シルヴァランスの口から出た言葉は意外なものだった。意外すぎて、言った瞬間はその意味がわからなかった。それは、 「同じ……なんですよ」 という言葉だ。 同じって、何が同じだというのだろう。主語が欠けていて、何が言いたいのかまったく見えてこない。 セシリーが困惑していると、 「その、僕の言うつもりだった話と、セシリーさんの話は全く同じなんです。だから、わざわざもう一度話す必要もない、かと……」 そう言葉を付け足した。 「えっと……。……どういう意味?」 セシリーにはまだわからない。シルヴァランスが遠回り遠回りに説明しているため、いまいち実態が見えてこない。 恥ずかしげに後頭部を掻きながら、シルヴァランスが顔を真っ赤にして口を開く。 「僕の初恋の人は……、セシリーさんの話に出てきた、ミニのことです」 「……は?」 「ですから、僕がセシリーさんに面影を見た初恋の少女は、セシリーさんの妹であるシェミニールなんです」 「はあああっ? な、なんであなたがシェミニールの事を? え、えっ?」 セシリーは動揺を抑えきれず、目を大きく見開いてシルヴァランスに迫った。一体シルヴァランスは何を言っているのだろう。どうしてシルヴァランスがシェミニールのことを知っているのだろう。何故、何故、何故。 「あのですね、実は、僕の小さい頃のあだ名は、その……ギンと言いまして」 「……ギン……。──っ! ええええええっ!?」 シルヴァランスの言葉に、セシリーは思わず悲鳴に近い大声を漏らして飛び上がった。目の前のシルヴァランスはそんなセシリーに向けハハハと乾いた笑みを浮かべている。 「ギンって……、えっと……、まさか、ギン君……なの?」 「はい」 シルヴァランスは間髪入れずに肯定した。まさに衝撃の事実とかいう状況で、セシリーの頭は真っ白になる。 「セシリーさんは、ランバーグに伝わる英雄、オーディンはご存じですか?」 「……え? え、ええ、小さい頃におとぎ話は読んだわ」 いきなり話題を変えたシルヴァランスに、セシリーは取りあえず相づちを打つ。 「彼の持っていた、悪を滅する神器は?」 「グングニールでしょう? エルフが作った、破魔の力を持つ銀の槍」 「そうです。僕の名前はオーディンが持っていた銀の槍に由来しているんです」 「……ああ、銀の槍はリンドブルーム語でシルバーランスですものね──あっ!」 シルヴァランス、シルバーランス、シルバー、銀、ギン。その流れにようやく気付き、セシリーは思わず声を漏らした。 「はい。ランバーグの貴族には幼少時にあだ名をつける習慣があるんです。ですから、僕はギンと呼ばれてしました」 「じゃ、じゃあクレアちゃんって、まさか……」 「ええ、ヴィクトリアのことです」 もしかして、セシリーがデオラガーンでヴィクトリアに会った時に初対面ではないような違和感を感じたのも、テムルの町はずれで何故かお節介を焼いてしまったのも全部、ヴィクトリアがクレアで、過去に一緒の時を過ごしたことがあったからなのかもしれない。 「っていうと、じゃあ、もしかしなくても、パーシヴァルさんはあなたの……」 「……ええ、兄です」 その言葉を聞いた瞬間、セシリーの心臓が大きく脈打った。ずっと知りたかったことがある。その答えを知ることは絶対にない、そう思っていたのに、ちょっと手を伸ばせば届く位置にその答えはあった。 「あの……、パーシヴァルさん……は? どう、してるの?」 まるで十三歳だったあの頃に戻ったように、セシリーは肩を縮めて上目遣いにシルヴァランスを見つめた。シルヴァランスは寂しげに笑いながら、 「他界しました。もう、七年も前の話です」 そう、静かに答えた。 パーシヴァルが既に死んでいた。それはあまりに漠然としていて、真実みに欠けた。 けれど思ったよりショックは小さく、冷静でいられる自分がいることにセシリー自身が一番驚いた。こんなにも薄情な性格だっただろうか。こんなにもパーシヴァルに対するセシリーの思いは脆いものだったのだろうか。 「セシリーさん、ミニは……?」 今度は逆にシルヴァランスがセシリーに尋ねてくる。答えは、シルヴァランスと同じだった。 セシリーは無言のまま首を左右に振った。それだけで十分伝わるはず。それにもしシェミニールが生きているなら、セシリーが妹を放ってアリア達の旅に参加するはずがない。 「そうでしたか。……セシリーさんも、辛かったでしょう」 「え……?」 「ミニのこと、あんなにも大切にしていたセシリーさんですから。最愛の妹を失った時のセシリーさんの気持ちは、少なからず理解できるつもりです」 その瞬間、シルヴァランスの寂しげな笑みがパーシヴァルのそれに重なって見えた。自然と、セシリーの瞳に涙が浮かぶ。 忘れていたわけではない。でも、ずっと逃げている節はあった。シェミニールのことから、あの辛い過去から。 思い出しても辛いことばかりの過去。でも、本当は違ったのかもしれない。一瞬だったけど、あの時だけは辛い記憶の中で別の色を放っている。それは紛れもない事実だ。 シルヴァランスの笑みはそれを思い出させてくれる。辛い部分だけじゃなく、嬉しかったことや楽しかったこと。そして、パーシヴァルとともに過ごした幸せだった日々。 パーシヴァルに対する思いは脆くて薄いものなどではなかった。心からあふれ出るくらいに、その想いは大きくセシリーを包んでいた。 「私は……パーシヴァルさんのことが好きだった……」 気が付いたとき、ボロボロと涙を零しながらセシリーはそうつぶやいていた。そんなセシリーの独白を、シルヴァランスは静かに聞いていてくれる。 「好きだって伝えたかった。でも伝えられなかったの。……ずっと後悔してた。それが辛くて、悲しくて、必死に強くなろうとニーヴルでの訓練に明け暮れた」 何で自分は泣きながらシルヴァランスにこんなことを言っているのだろう。でも、どうしてもそうしたい衝動に駆られ、口が勝手に言葉を紡ぐ。 「あなたに心配して欲しかった。でも本当は、パーシヴァルさんに心配して欲しかった。あの笑顔で、優しく微笑みかけて欲しかったの……」 あまりに自分勝手で我が儘な行為だった。でも、そんなセシリーの本音を聞いても、シルヴァランスは静かに微笑んだままだった。 「一緒に居たかったの。パーシヴァルさんと、ずっと、ずっと…………。う、うう……」 「……今まで一人でずっと耐えてきたんですね。でも、もう無理しなくていいんですよ。僕はずっと、ここに居ますから」 「う、あ……、うああああああ……」 セシリーはシルヴァランスの胸に飛び込んで大声を漏らしながら泣いた。 パーシヴァルの家を出た時、そしてニーヴルで任務から帰ってきた時にすでに冷たくなっていたシェミニールを前にしても出なかった涙が、一気に堰を切ったように溢れだしてきた。 ずっと堪えてきた涙。ずっと一人で背負ってきた苦しみ。それを全部はき出しながら、セシリーはシルヴァランスの胸で泣き続けた。いや、シルヴァランスには本当に申し訳ないことだけれど、セシリーはシルヴァランスにパーシヴァルを重ねていた。 今だけはあの頃の自分に戻って泣かせて欲しい。パーシヴァルの胸で涙に暮れる、十三歳のセシリーとして。 他人を重ねてごめんなさいと何度も何度も心の中で繰り返しながら、セシリーはシルヴァランスに身を任せる。 泣いた後はまたシャンと前を向いて歩くから。 だから今だけは、ごめんなさい。そして、ありがとう。 |
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