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第一章 それぞれの今 アルトレア大陸のほぼ全土を支配下に置く強大な王国、トルメキア。時の国王、グラバーグ七世は、古くより王家を影ながら支えてきた組織、ニーヴルの援助を受け、別大陸ハルモニカへ侵攻を続けていた。 ハルモニカ大陸を支配するヴァレイ帝国も、トルメキアの侵攻を黙って見ているわけがなく、ハルモニカ大陸にトルメキア軍が侵攻して以来、両者の戦争はすでに一年近く続いていた。 数で勝るヴァレイ帝国。その上、トルメキアは二つの巨大大陸を分けるエルトリアオーシャンを越えて食料や弾薬などを本国から運搬する必要があるため、ヴァレイ帝国は当初すぐにでも侵攻を食い止め、トルメキア軍を容易に撤退させられると考えていた。 だがその目論見は辛くも裏切られる。天使という、超越的な存在によって。 天使という存在を武器に、トルメキア軍の侵攻はもの凄い勢いで進んでいった。たった一年足らずでハルモニカ大陸の西部をほぼすべて制圧し、ヴァレイ帝国本国のある大陸中央部への侵攻も、時間の問題だとされている。それほどまでに、天使という存在は驚異的な力を有していた。 「……ほぼ一年ですべて片がついたか」 「そうですね。いやぁ、もっと早く行きたかったんですけど、流石に天使ちゃん達の体が持ちませんからね。器が壊れでもしたら、間違いなく今度の蝕に間に合いませんから」 前線基地の置かれたとある街の建物の中、ニーヴルの社長、ルシフェル=ガブリエスタと、ニーヴルの幹部、ガンズの一員であるアルフレッド=ランカーが話をしていた。 三十代半ばくらいで、赤茶けた短髪に灰色の瞳をしたルシフェルは、黒いスーツで身を固めて窓から夜空を見上げている。その奥で、線のように細いえんじ色の瞳をした二十歳前後のアルフレッドは、栗色の短髪を手でいじりながら椅子に腰を下ろしている。 そして部屋の隅には、まるでアンティークドールのように精巧な顔つきをした少女達が、あたかも本物の人形のように微動だにせず佇んでいた。その数は七人。 「レミネーラはまだレオの足取りを掴めないのか? もう十八ヶ月以上、見失っているというのに」 「ええ。どうも向こうさんも、聖石が特殊な魔波を発することに気づいたみたいで、どうやら相殺する方法を思いついちゃったみたいですね。以前なら、レオが何かしら戦闘を行えば聖石から魔波が放たれて居場所を特定できたんですけど」 「……ミゲルはどうだ?」 「ミゲルさんも“追跡”能力で頑張ってくれましたけど、何分扱いにくい人ですからね。今はガルバトロスさんっていう、かつてのガンズメンバーに首っ丈みたいです」 ルシフェルの重々しい口調に対し、アルフレッドの口調は何処までも軽い。精悍な顔つきで外を見つめるルシフェルの表情には、喜怒哀楽のどれもがにじみ出て、どれもが欠如しているように見えた。 「天使の目覚めも終わった。“玉座”も手に入った。後はレオを捕獲し、計画を実行するだけなのだ。……蝕まで、もうあまり時間はない」 「そうですね。なあに、大丈夫ですよ。今に“透過”のキャロルがレオの居場所を見つけますって。その点に関してはホント天才ですからね、彼女は」 アルフレッドはそう言いながらクスクスと気味悪く笑う。ルシフェルは別段アルフレッドの笑い声に反応を示さず、ただ黙って夜空を見上げていた。そして―― 「あと少し、もうじき私の願いが現実となる」 拳を握りしめながら、ほんの少し愉悦に歪んだ表情でそう呟いた。 前線基地のトルメキア軍司令本部がある建物、その一室に顎髭を生やした一人の軍人が蝋燭しか灯りのない薄暗い部屋で写真入りの手紙を見つめていた。 頬の痩けた細身の男は、白髪交じりの小麦色の髪に鳶色の瞳を携え、襟章の付いた軍服で身を固めている。 「……そうか、スルトの奴、行方不明だった娘と再会できたのか」 軍服の男、レイナスは手紙の文面を追いながら、反対の手に持った写真を時折見つめていた。写真には、赤い髪をした威勢の良さそうな男と、おっとりとした銀色の長い髪をした女が映っており、男女の中心には帽子を目深に被って顔を隠した少女の姿もあった。 少女が恥ずかしがったのか、それとも素顔を見せられない理由でもあったのか、少女の顔は完全に帽子で隠れている。だがそれでも、少女の手を両サイドから握る男女の暖かな表情が、その写真を見た者に仲良き家族という印象を与えている。 「レイチェル……と言ったか。まったく、俺の前では決してこんな表情を浮かべなかったくせに……。それに、ミハルさんとのすれ違いもどうやら改善されたみたいだな」 レイナスは満足げに手紙の文面を追う。しばらくそのまま写真を眺めた後、写真と手紙を封筒へ戻し、レイナスはそれを軍服の内ポケットに収めた。 「しかし気になるな。スルトの文面には、何か他に伝えたいことがあるように思える」 レイナス以外誰も居ない部屋で、レイナスは考え込むよう頬杖をつく。部屋の外からは時折兵士達の号令が聞こえるが、それ以外は物音一つしない静寂が当たりを包んでいた。 「……戦地での手紙は検閲が入る。それを考慮して、何かを包み隠しているような感じがするな。……今度の作戦が終わったら、一度本国に戻って顔を見に行ってやるか」 そんな日が来ることをまるで予期していないような表情でそう呟き、レイナスはそっと立ち上がって静かにその部屋を後にした。 * * * ハルモニカ大陸中央部に広がる、鬱蒼と茂る森の中。今は昼時のはずなのに、視界はとても暗い。背の高い木々は下方に枝がほとんどなく、遙か上方にだけ葉を茂らせている。お陰で大地には太陽光が届かず殆ど植物が繁茂出来ないため、木の根っこや剥き出しの岩に苔が生えている程度だ。 そんな薄暗い森の中、白の振り袖に紅い袴を着て、頭に大きな紅いリボンを付けてガネットは歩いていた。すでに森に入って二週間以上まともなお風呂に入っていないため、自慢のスカーレットヘアは傷み、金色の錫杖の先には苔が付着して緑色に染まっていた。 「……はふー、んもう、シェドったら歩くペース早すぎぃっ!」 手に持った鞄から水筒を取りだし、ガネットはコップへ水を注いで水面に映った自分の顔を見つめる。夕日のような鬱金色の瞳も、まだ十九歳だというのに生気が抜け落ちたように覇気がない。 「あーもう疲れたぁ……。Aに代わって貰おうかなぁ」 水を飲み干し、ガネットは大きな石の上に腰を下ろしてそう呟く。ガネットの中には二人の人格があり、今表に出ているのはCと呼ばれる、幼い人格の方だ。人格と共に扱えるジェムの属性も代わり、Cはアイスジェムを扱える。 実際の所、CとAと区別されることにC自身は快く思っていない。だって、CはチャイルドのCなのだから。 「確かにさ、Aの方が大人っぽいかもしれないけどぉ、体は一緒なんだもん。こんなにおっぱいだって大きいんだし、あたしは子供じゃないもん!」 ガネットはしかめっ面を浮かべながら自身の胸を両手で揉み、もう一人の自分に対する不平を思いっきり吐露する。わざわざ口に出さなくても、心で強く思ったことならばもう一人の自分に伝えることくらい可能なのだが、口に出さなきゃ腹の虫が収まらない。 「……ん? あーっ、シールが帰ってきた」 ふいに、木々の合間から微かに見える青空を泳ぐ美しい銀竜の姿がガネットの瞳に映った。あれはガネットと同じくシェドという男と旅を続ける同乗者で、シールディアという名前のドラゴンだ。ドラゴンとはいえ、普段はヒトの姿に変化することができる。 しばらく大空を泳いでいたドラゴンの体がパッと輝き、木々の合間から光に包まれたシールディアが降りてくる。すでにドラゴンの姿ではなく、十二、三歳くらいの少女の姿をしたシールディアは、大地に降り立つとガネットに歩み寄ってきた。 肩まで伸びた銀色の髪に、感情の薄い琥珀色の瞳。一糸まとわぬシールディアは、雪のように白い肌を惜しげもなく披露していた。 「お帰りシール。ほら、女の子なんだからチャッチャと何か着る」 ガネットは鞄から白のワンピースを取りだしてシールディアに手渡す。シールディアは無言で受け取り、ささっと袖を通した。 「感謝する」 「相変わらず可愛げのない喋り方ね。もっとあたしみたいに砕けた話し方の方が可愛いと思わない?」 「……私はAのような大人びた言葉遣いの方が好ましい」 「ぶー、シールってつまんなーい」 同行するようになって知り合ったシールディアという少女は、まるでAのように感情が薄い。実際Aは感情が薄いわけではなく、ただ単に自己表現が下手なだけだということをCは知っているが、どうもシールディアもAと同じ匂いがする。 ガネットも最初は相手がドラゴンだと言うことで少し警戒したが、今ではそんな警戒心など全く消え失せ、ガネットにとってシールディアは、変わり者の妹のような存在になっていた。 「シェドは?」 「すたこらすたこら先に行っちゃったよー。ホント、マイペースっていうか、自己チューな男だよね」 下唇をぶーっと出しながら、ガネットは両足を上げたり下げたりする。現在、ガネット達のリーダー的存在であるシェド=ガンブレイブという男。ガネットにとって見れば命の恩人というわけだが、ぶっきらぼうというか、少なくともCとはそりが合わない。Aは意外と懇意にしているようだけど。 一年前、ガネットは自分が所属しているグループの命令でドラゴン退治に赴いていた。ガネットは世界を守るために悪の組織ニーヴルと戦う為に集った同志達の一人であり、その中でもトップクラスの戦闘力を誇る“セイクリッド・スピア”と呼ばれる人間だった。 突如としてアルトレア大陸のあちこちで人々を襲い始めたドラゴン。ガネット達は手分けしてドラゴン退治を行っていた。だがその途中、ガネットは一瞬の油断からドラゴンに後れを取り、瀕死の重傷を負った。 その時ガネットを助けてくれたのが、たまたまその場に居合わせたシェドという男だった。シェドとは以前、天使を巡る戦いで対峙したことがあり、Cが懇意にしている同志の仲間、ナイと戦っていた男だ。 その後紆余曲折を経て、ガネットはシェドと共に旅をすることになった。今でも時折シールディアと共にアルトレア大陸に戻り、同志達に定時連絡を行っているが、その点においてはシェドにも了承を得ている。ガネットはあの時の天使が今どうしているか知らないため、シェドにとっても敵に塩を送るような行為だとは思っていないのだろう。 「シェドは先へ行ったのだろう? ならば早く追いつかねば見失ってしまうぞ?」 「あーはいはい。わかってるわよぅ。ちょびーっと休憩してただけだもん」 シールディアに咎められてガネットは嫌々岩から腰を起こし、袴についた汚れをパンパンと両手で払ってから鞄に手を掛ける。 「でもどーせ、この先にある遺跡に居るんでしょ? 場所はわかってるんだし、そんな急がなくたっていいじゃーん」 「確かに急く必要はないが、仲間とは共に行動すべきものだ」 「ぶー……、あたしは別にシェドの仲間ってわけじゃなくて、天使とは何かを知るために仕方なく同行してるだけだもん」 シェドとシールディアが捜し求めているという“竜王”という存在。竜王ならば、天使という存在が何なのか知っているという。別にCは天使がどんな存在だろうが倒してしまえば問題ないと思っているのだが、Aや、ガネットと同じくセイクリッド・スピアである愛しのナイや、アイザックはそう思っていないらしい。 「……ならば私は先に行く。ガネットは自分のペースでゆっくり遺跡へ向かうといい」 「あーっ、仲間はずれはヤだー! もー、シールったらマジ冷たーい!」 ガネットを無視して歩を刻み始めたシールディアを追い、ガネットは小柄な体に似合わぬほど大きな鞄を上下させながら、木の根っこがたむろして歩きづらい森の中を進む。 近隣の村に馬車を止め、大きな荷物は村の人に預かって貰っているため、さほど荷物が多いわけではないが、それでもガネットにとってはなかなか重労働だ。シェドはもっと大きな荷物を抱えてさっさといってしまったが、シェドは長身で力もあるのだから問題ないだろう。 「待ってぇ、シールゥ……。に、荷物を半分持ってぇ……」 動物の気配すら希薄な森の中に、ガネットの弱々しい悲鳴が木霊した。 ハルモニカ大陸には多くの竜に関する遺跡が存在する。アルトレア大陸ではデオラガーンという中立国だけで信仰されていた神竜教も、ハルモニカでは多く信仰されていた。 数多あるドラゴンの遺跡を巡りながら過ごしてきた一年だが、特にめぼしい成果は得られず、ただ無為に時だけが流れていた。その事に多少の危機感と、諦めにも似た焦燥感を覚えつつ、それでもシェド=ガンブレイブは遺跡巡りを続けていた。 ニーヴルを抜け出して以来愛用している紺色の上下。これ以外の服装など長いこと着た覚えがないくらい、その服はシェドの衣服として定着していた。薄暗い森の中なので丸レンズのサングラスは外しているが、これらはもう三年近くシェドと時を過ごした体の一部みたいなものだった。 しばらく森の中が続いているため、茶色の髪はいつにもましてボサボサと四方へ散っており、黒江の瞳も少し濁ってきたような感じがする。辛うじて髭はちゃんと剃っているので、おっさん臭は漂ってはいないだろう。 「……ここが“グラズヘイムの遺跡”か」 拓けた森の中に、太陽光を浴びて浮かび上がる石造りの建造物。広大な敷地に倒壊した建築物がゴロゴロと並び、大理石の白と蔦や苔の緑色が混じり合って荘厳なコントラストを演出していた。 ひび割れた壁や、折れた柱。神話を思わせる神々しい建物の数々が、歩んできた時を物語るように色あせた遺跡と成り果てている。 シェドがハルモニカ大陸に渡って以来、すでに七つめの遺跡だ。だが今のところ、何処にも竜王や天使に関する有益な情報は転がっていなかった。おそらくここも無駄骨に終わるだろう。 シェドは抱えていた大きな荷物を遺跡の入り口に置き、銃器やジェムの確認を行ってから遺跡の中へ足を踏み入れようとした。その時、 「だーっ! やっと着いたぁっ!」 後方から響く少女の黄色い声がシェドの足を止める。シェドが眉を顰めながら振り返ると、そこにはガネットとシールディアの姿があった。 「帰ってきてたのか」 「うむ。ミレーヌの父の研究はこれといって進展はないそうだ。またミレーヌより弾薬とジェムを受け取ってきたが、それらは馬車を止めた村へ置いてきた」 「……そうか、親父さんも行き詰まってるみたいだな」 ミレーヌの父に依頼した仕事。それは聖石を埋め込まれた天使からその聖石を取り除き、普通の少女へ戻してやる方法だ。聖石は無理矢理取り出せばその者の命に関わるが故、何か方法がないものかと模索している。それはシェド達も同じで、学術的、魔練器的アプローチをミレーヌの父親に任し、シェド達は竜王を捜してその術を聞き出そうとしている。 「こらーっ! 頑張って追いついたあたしには何の労いもなしかーっ!」 「遅かったな、ガネット。お子ちゃまの足じゃ歩きづらかったか?」 「む、むむむーっ! うっさいわ! だーれがお子ちゃまよ! これを見てもまだそんなこと言うつもりー?」 ゼイゼイと息を切らしていて俯いていたガネットが、ムンと胸を張ってどうだと言わんばかりに豊満な膨らみを見せつけている。確かにシールディアと大して身長が違わない割に、胸の膨らみはセシリーに引けを取らないくらい立派だ。だが、 「……それがどうかしたか?」 相手がガネットじゃ別に魅力を感じない。そうハッキリ言っては失礼だが、つまりはそういうことだった。 「うぐっ! ……そうだった、シェドは不能だったっけ……」 「誰が不能だっ!」 「不能とは何だ? シェドには何か能力的に不足しているものがあるのか?」 そんなやりとりをしつつ、シェドは軽い疲れを覚える。一年近く前にドラゴンにやられそうだったところを助けて以来同行しているガネットだが、今みたいにCが表に出ているときはとにかくうるさい。極力Aに出てきてもらいたいものだが、ガネットにはガネットなりの取り決めがあるらしく、常にAが表に出てこられるわけではないらしい。 「……少し休憩したら遺跡の中を散策するぞ」 シールディアの質問はさらりと流し、今すぐ出発だと言うとガネットがブツブツ文句を言いそうだったので、シェドはそう言ってその場に腰を下ろした。 ガネットが大きく息を吐いてその場にへたり込み、鞄から水筒を取りだしてコップに注ぎ始めた。シールディアはしばしガネットの脇に立ちつくしていた後、テクテクと歩を刻んでシェドの隣へやってくると、そこへちょこんと腰を落とした。 「ミレーヌは元気だったか?」 「うむ。少し髪が伸びていたようだが、性格的は全く変化していなかった。それと、スラッシュという青年に対して以前よりも好意的なオーラを感じ取った」 「ああ、親父さんに弟子入りしたっていう男か。一つ屋根の下で暮らしてりゃあ、いろいろあるかもしれねぇな」 シェドは一年前に仲間達を別れて以来、シールディア以外のメンバーと会っていない。シールディアは時折ミレーヌと会っているが、それだけだ。 「……ミレーヌに聞いたのだが」 「…………」 「みな、元気でやっているそうだ」 「そうか」 たったそれだけの言葉で、シェドの心に温かなものがこみ上げてくる。こんなに離れて居るというのに、心はまだ、かつて娘のように思っていた少女へ向いているのだろうか。 あいつが平和で静穏な世界で暮らしている。それだけで心安らぐことができる。だが同時に、少しだけ物寂しい気持ちに駆られるのも正直なところだった。 忘れようとしている気持ち。だが竜王を捜すという旅の目的上、決して忘れられない気持ち。矛盾した気持ちを背負ったまま、シェドはこれまで、そしてこれからを生きていく。 「……随分背も伸びたそうだ。ミレーヌが言うには、本当にもう、アリアは普通の女の子と言って遜色ないくらいに可愛く成長したらしいぞ」 「そうか……」 懐かしさにも似た感情を覚える名前を耳にし、シェドは微かに笑んで大地へ視線を落とす。シールディアの言葉は、表だけ聞けばとても喜ばしいことだ。だが卑屈に考えれば、自分が居なくなったことであいつはようやく本当の女の子になれたのだと思ってしまう。 「お前は別に俺に合わせず、いつでもあいつの所へ行ってもいいんだぜ? まあ、その時はガネットに居場所を知られないよう警戒だけはして欲しいが」 「……そなたが我慢しておるのに私だけ会いに行くことはできぬ。次に会うのは、そなたと共に答えを見いだしてからだ」 シェドは暗に話題の対象となっている少女の名を口にしなかった。 「ったく、強情だな」 「それはお互い様だと思うぞ」 以前に比べて口達者になってきたシールディアに苦笑いを零し、シェドはムンと立ち上がる。 「よし、じゃあそろそろ行くか」 「えっ! も、もう休憩終わりぃ?」 予想通り不服そうな表情でこちらを見つめるガネットをさらりと無視し、シェドは鞄を背負って歩き始めた。数歩進んだところで顔だけ振り返り、 「お子ちゃまはそこでお留守番しててもいいぜ? どうせ散策が終わったらここを通って村へ戻るからな」 と飄々とした顔つきで言ってみると、これまた案の定ガネットはぷくーっとむくれて眉をつり上げた。うるさいが、扱いやすいのがCのいいところだ。 「わ、わざわざここまで来たんだもん! あたしだって遺跡の中を見て回るもん! そうじゃなきゃ村で大人しくしてるでしょーがっ!」 「あっそ。ま、勝手にしろよ」 シェドはシールディアと連れ添って遺跡の奥へ奥へと歩を刻む。後ろから足音も聞こえてくるため、ガネットもちゃんと着いてきているだろう。 どうせこの遺跡も徒労に終わる。シェドはそう思いつつ気怠い足の運びで、グラズヘイムの遺跡を探索していった。 ハルモニカ大陸に渡って以来すでにいくつかのドラゴンに関わる古代遺跡を回ってきたが、そのいずれにも有益な情報は存在しなかった。 だが、ここグラズヘイムの遺跡は今までの遺跡とは少々勝手が違う。言葉ではうまく言い表せないが、シールディアの中の一部、ドラゴンとしての本能に近い部分が、この場所が今までと異なることを告げていた。 隣を歩くシェドは気怠そうに半目で先を見据えている。ちらりと後ろを歩くガネットを見つめれば、やつれた顔つきで辛そうに大きな鞄を抱えていた。 「……シェド」 「何だ?」 「この遺跡は、今までと少し空気が異なる」 呼びかけに応じてこちらを見たシェドに、シールディアは遺跡に入ってからずっと感じている違和感を告げる。すると今にも眠ってしまいそうなほど細くなっていたシェドの瞳がわずかに拡大し、詳細を請うような視線をシールディアに向けた。 「まだ私にもよくわからぬ。結界か、それに類する何かが張り巡らされているようで、うまく思念を読み取れない。……だが不思議と、こう……、何というか、穏やかな気持ちにさせられるような空気が漂っているように感じられる」 「お前にしちゃあ珍しく、漠然とした言い方だな」 「うむ。だが、そうとしか今は言いようがない」 ドラゴンであるシールディアはヒトの心、思念を読み取ることができる。それはその場にヒトが居なくても、本や遺留品など、物からでも思念を読み取ることができる。 だから今までの遺跡でも、かつてそこに暮らしていた人々の残留思念を読み取ってきた。だがグラズヘイムの遺跡には、何かシールディアの感覚を狂わせる空気が漂っていた。 さながら、今のシールディアは嗅覚を封じられた犬のようなものだろう。当たり前のようにあった感覚が薄れるだけで、恐怖にも似た感情を覚える。 「……何をお話しなさっているのですか?」 ふと、シールディアの後方からガネットの声が響いた。今までの姦しい口調ではなく、声質は同じでも含まれる落ち着きや大人っぽさは格段に上がっている声に、シェドが驚いたように振り返る。 「いつの間に入れ替わったんだ?」 「つい先程です。どうやらCは、この大きな鞄を運ぶことに疲れて眠ってしまったようですね。片方が眠ってしまえば、もう片方が起きていれば容易に表へ出られますから」 そう言いながら妖艶に微笑むガネット。Cと同じ体型、顔つきだというのに、Aが放つ空気はCとは比較にならないほど色っぽい。シールディアが認める、セシリーと同じ大人の女性像を如実に顕している。 「それで、何かお気づきになられたのですか?」 「あ、ああ。どうやらこの遺跡は今までと少し様子が違うらしい。とは言ってもまあ、具体的に何処かどう違うのかというのはわからんが……」 突然入れ替わられては流石のシェドでも困惑するのか、少し狼狽した様子でシェドがガネットにそう説明した。 「そうですか。見たところ、以前に立ち寄った遺跡とあまり変わったところはないように思いますが、シールディアさんがそう思われるのでしたらきっとそうなのでしょう」 落ち着いた笑みを携えてガネットがそう言った時、ふいに今までは異なる風が遺跡を吹き抜けて、シールディアの肌をサラリと撫でた。その瞬間、シールディアは悪寒と安堵が入り交じったような不可思議な感覚に包まれる。 「――シェドッ!」 「ぐっ!」 咄嗟にシールディアがシェドの名前を発した時、シェドが突如として目の前に迫っていた眩い閃光を半身になりながらかわした。光の固まりはそのままシェドが立っていた場所を駆け抜け、まるでブーメランのように虚空に曲線を描いてから遺跡の奥へと消えていった。 「な、何だ!? ……好戦的なトレジャーハンターでも居るってか?」 「違う。この先にヒトの気配はない」 霞がかって鈍る感覚ではあるが、それでもシールディアの本能はこの先に居るモノの正体がヒトでないことを告げている。 「どうしますか、シェドさん」 「……決まってるだろ。不意打ちしようなんていう根性悪い奴を一発どついてやるさ」 シェドが腰のホルスターから白銀色の輝く回転式の拳銃を取りだし、シリンダーを銃身からスライドさせて中のカートリッジを確認する。右腕に巻き付いていた金色の腕輪からフレアジェムを取りだして銃口付近にある穴へ埋め込み、シェドが大地を蹴って光弾が飛来した方角へ駆けだした。シールディアとガネットもすかさず後を追う。 倒壊した建物の残骸を越えて遺跡の奥へ奥へ走っていく。一歩前へ進むたび、シールディアの感覚を狂わせる空気も濃くなっているような気がした。 「誰も居ねぇじゃねーかっ!」 「言ったであろう。ヒトの気配はない、と」 「じゃあさっきのは何だったんだよ! ライトジェムを使ったみたいなあれは!」 シェドが一向に姿を確認できない襲撃者に対して苛立ちを募らせている。先程攻撃を受けた場所からかなり奥へ移動したが、相手の姿は影すら見当たらない。 「――っ!? 来ますっ!」 「ちいっ!」 ガネットの注意にシェドが反応する。またも前方から迫ってきた光弾に対し、シェドは銃を前面に押し出して埋め込まれたフレアジェムを輝かせた。放出された炎の魔力が障壁を作り、光弾とぶつかって激しい火花と衝撃を生む。 「いい加減に姿ぐらい見せやがれっ!」 シェドが力任せに銃を薙ぎ払い、障壁で光弾が左方へ弾かれた。弾かれた光弾は不可解な軌跡を描いた後、再び遺跡の奥へと消えていった。 「一体何処から攻撃してやがんだ!」 「わからぬ。……私も、肉眼で確認できるほど接近して初めて光弾の存在に気づいた。それまではまったく察知できなかった」 あれほどの魔力が凝縮された魔法なら、たとえ多少距離が離れていても発生元を察知できるはずだった。だが、感覚が鈍っているせいか、視界に入るまでその存在を認知できなかった。 シールディアが自分の鈍化している感覚に歯がゆさを感じているときだった。急に周囲が拓け、広場のような何もない空間が目の前に広がった。 倒壊した建物がぐるりと周囲を囲んでいるが、広場には何もない。ただ真っ平らな大地に石畳が敷き詰められ、その表面を緑色の苔がびっしりと覆っている。 「……ここは?」 シェドが周囲を警戒しながら広場の中央へ少しずつ歩み寄る。ここだけ倒壊した建物が無いのは、違和感を覚えるのと共に何か荘厳な空気に包まれているような気がした。 『警告したにも関わらずここまで足を踏み入れたか、人間よ……』 「……っ……」 突然、シールディアの頭の中に聞き覚えのない声が響いた。それはどうやらシールディアだけでなくシェドやガネットにも聞こえたようで、シェドが極力冷静を装いながら周囲を注意深く見渡していた。 頭の中に直接語りかけてくるような感覚。これをシールディアはよく知っている。 『奇妙な組み合わせだな。一人は我らと同じ空気を纏っている。そしてもう一人は我らの血を継承している。また一人は一つの体に二つの魂を宿している』 「誰だっ! 姿を見せろっ!」 シェドがそう声を張り上げた瞬間、シールディア達の前の空気が揺らぎ、まるで最初からその場に居たように二つの影が虚空から浮かび上がってきた。 一人は若い男の姿をしており、もう一人は若い女の姿をしていた。だが相手を目の前にしても、シールディアの本能はそれがヒトであることを否定した。 蒼髪の男は華奢な体つきで色白。長い赤髪を靡かせる女は細身で片眼を髪で隠している。二人とも身に纏っているのは白っぽいワンピースの布きれだけで、瞳の色はシールディアと同じ琥珀色だった。 『そうか……、お前達は“竜王”を捜し求めているのか』 「なっ……!」 「シェド、間違いない。彼らは私と同じくドラゴンだ。この結界のような空気の中でも、彼らには私達の思考が読めるのだろう」 もはや確認するまでもない事実だ。直接相手の頭に語りかける手法、そしてたった今シェドの思考を読み取ったこと、すべてが相手がドラゴンであることを裏付けている。そしてシールディア自身が感じてきた漠然とした感覚も、その証拠の一つとなるだろう。 「……なるほど、こいつはビンゴだったわけか。そろそろ遺跡巡りも飽きてきたところだし、丁度いいじゃねえか」 冷静を装っているものの、シールディアにはシェドの中にある困惑が手に取るようにわかる。流石にこれだけ近くにいれば、鈍化した感覚でもシェドとガネットの困惑ぐらいは読み取れる。 「おい、こっちの思考が読めるなら話は早いだろ。その竜王って奴に会って話が聞きたいんだ」 『……ふむ、“天使”のことについて聞きたいと申すか』 「そう言うことだ」 シェドがハッキリと答えると、ドラゴンの男がほんの少しだけ微笑んだ。シールディアと同じほぼ無表情な顔つきから、かすかに白い歯が見える。 『私はお前にとても興味が湧いた。……お前の持つ異質な力、我らの血を継承しているように思える。それを目の当たりにしてみたい』 「は? 何を言って――――っ!?」 「シェドッ!」 ドラゴンの男が何やら呟いた瞬間、その言葉に首を傾げたシェドとドラゴンの姿が一瞬にしてその場から消えてしまった。空間が断絶されたような、もともとその場に二人は居なかったよう、一瞬にして二人の姿がその場から消えた。 「シェ、シェドさん……? い、一体何がどうなったの?」 ガネットの声が虚しく周囲へ広がる。シールディアも一瞬だけ思考が止まっていたが、すぐに我を取り戻して残っている女の姿をしたドラゴンへ視線を向ける。 「シェドをどうしたのだ?」 『どうもアダムは彼を気に入ったようで、彼を固有空間に招待したようです』 ドラゴンの女の声は、高すぎず低すぎず、とても穏やかで聞き取りやすい声音だった。だがそれも耳から伝わるのではなく、頭の中に直接響くような声である。 『固有空間内で起きていることは例え同族であっても垣間見ることはできません』 「固有空間? 何だそれは?」 『あなたは遠地で“聖石”を護るために創られた存在のようですね。ならば、固有空間を知らなくても当然でしょう。……ですが、そのような存在であるあなたが自我を持つとは、とても珍しいことですね』 「……私の存在が特異なことは、私自身がよくわかっているつもりだ」 殆どのドラゴンは自分の意志というものを持たない。それは“黒い影”の影響で生まれた亜種に限らず、シールディアのように原種のドラゴンであっても、本能以外に自我を持つことはないはずだ。 『なるほど。……本当に面白い存在ですね、あなたは。本来、私達はドラゴンの思考を読むことはできないのですが、あなたからはヒトとしての思念を感じます』 「そうだろう。私はヒトの心を獲得した。だから、そなた達には私のヒトとしての部分から思念を読み取り、思考を読むことができるだろう」 シールディアには目の前の女が何を考えているか読めない。それは相手がドラゴンだからであるのか、それとも結界のような周囲の空気が影響しているのかわからない。だが、目の前の女にはシールディアの思考が手に取るようにわかるのだろう。 『シールディア=エガンフィスと言うのですか。素敵な名前ですね。私はイヴ。竜の里に住まうドラゴンの一体です』 「竜の……里……?」 『ええ。この先にある、この世界とは少しずれた空間に存在する私達の国。それが竜の里です。そこには私やアダム、そしてあなたのように、自我を持つドラゴンたちが多数存在しています』 「――っ! 自我を持つドラゴンが、他にも居るのか?」 イヴと名乗った女の言葉にシールディアは驚きを隠せなかった。今までアルトレアやハルモニカの至る所で対峙してきたドラゴンたち。そのいずれにも、シールディアのような自我は芽生えていなかった。 『ええ。そして里にはあなたの捜し求める竜王も住んでいます』 竜王。その言葉を聞いた瞬間、シールディアの体中を電気が駆け抜けたような感覚を覚える。 探し続けた答え。その答えを知る存在。今まさに、すべてが始まるような予感がシールディアを包んでいた。 まるで荒野のような、辺り一面何もない空間の真ん中にシェドは居た。地平線はどこまでも続き、空は鉛色に紫を落としたように気味悪い色をしている。ここが何処なのか、何故シェドはここにいるのか、シェドは困惑しながらも必死に自己を維持した。 『ここは私の固有空間。この空間に干渉できるのは我だけだ』 目の前に立つ、蒼髪の男。一見すれば二十歳くらいの青年にしか見えないが、その実はシールディアが言っていたようにドラゴンと呼ばれる存在なのだろう。この頭に直接話しかけてくるような感覚は、かつてシールディアと出会った時を喚起させる。 「……よくわかんねーが、お前の檻の中に俺は閉じこめられたわけか?」 『そう考えてくれればよい。私はお前の持つ異質な力にとても興味がある』 「異質な力? ……ああ、全属性のジェムを使えるってことか?」 それ以外に異質な力と呼べそうな能力を持っていないため、シェドは腕まくりしてフレアジェムを除く六つのジェムが埋め込まれた腕輪を見せる。 ジェムを使える人間は数が少ない。そしてジェムが使える人間とはいえ、本来使えるジェムが一属性に限られる。だがシェドは基本七属性すべてを扱うことができる。ただし使えるとは言っても、魔弾として銃弾に付加することぐらいで、例えば直接フレアジェムを使って炎を飛ばすなどと言った方法は、出来なくはないという程度だ。 『ふむ……? そうか、お前はまだ本来の力に目覚めておらぬようだな。だからジェムなどという古代人の置きみやげに頼っておるのか』 「……? 何を言ってんだ?」 『わからぬのならばそれでいい』 ドラゴンの男はクスリと意味深な笑みを浮かべ、腰を落として身構えた。何が言いたいのか意味不明だが、取りあえず相手は戦う気満々らしい。 『私はお前の力を感じたい。私に力を示せ』 「……何が言いたいのか、何がやりたいのかよくわかんねぇけど、取りあえず戦えばいいんだな? 言っておくが、やるからにはブッ倒すつもりでやるぜ?」 『構わん。私もお前を殺すつもりで相手をする。……私がお前を認めれば、私はお前を竜王の間へ案内しよう』 不敵な笑みと共に挑発的な言葉を投げつけてくる男。シールディアと同じドラゴンとはいえ、確かに自我があるせいか、かなり人間らしい表情を時折浮かべる。 「やっぱ竜王とやらの居場所を知ってるのか……。いいだろう、その言葉、忘れるなよ」 シェドは静かに呟きながら、白銀銃を握る手に力を籠めた。 『我が名はアダム。行くぞ、シェド=ガンブレイブよ』 「……来やがれっ!」 名乗ってもいないこちらの名前が言い当てられたことなど、もはや気にするまでもない。相手はシェドの思考が読める。そんな相手に対し、小細工は無用。 シェドは迫り来るアダムに対し、大きく右足を蹴り出して真っ向から立ち向かっていった。 * * * アルトレア大陸の南東にある半島。アルトレア大陸で一番強大な力を有するトルメキア王国から馬を使えば三日程度で移動できる距離にあるにもかかわらず、半島にあるジペインという街はとても寂れていて、魔練器も殆ど見られない田舎町だ。 何故ジペインの町がこうも寂れているのかというと、単純な理由がある。それは土地が痩せている上、近くに古代遺跡の類もないため、産業に結びつくものが何もないからだ。 だからジペインの町へやってくる人間など殆どおらず、また町の人間も他の街へ出て行ったりせず、とても閉鎖的な町となっている。ほぼ完全な自給自足の町で、時折王都から薬屋などの商人がやってくる程度だ。 見渡す限り田んぼや畑が広がり、小高い丘の上では家畜が飼育されている。とろとろと流れる時の中で、町の人々は健やかに穏やかに生を謳歌していた。 「……ふぅ」 ジペインの中でも南端に近い場所のとある畑。そこで、少し伸びてきた金髪を風に揺らし、燃えるような紅い瞳を細めてシルヴァランス=グレインは空を仰いだ。 何処まで広がっている青い空。天の海原を泳ぐのは、雄々しい翼を持つ気高き鷲。トルメキアやランバーグといった大都市では決して見られない、自然そのままの世界が、ジペインの周辺には広がっている。 シルヴァランスは白のTシャツに薄汚れた黒のパンツを穿いて畑に立っていた。手に持っている籠には、畑で取れた野菜が沢山詰まっている。 「この籠も一杯になりましたし、一度家へ戻りますか」 夏の日差しを全身に浴び、すでに体は汗だくだった。一年前に初めて土いじりをして、ようやく今年の夏にこうして多くの野菜を育てることに成功した。この汗は、シルヴァランスの努力の勲章といってもいいだろう。 シルヴァランスは首に巻いたタオルで顔の汗を拭ってから、籠を背中に担いで畑から徒歩で三分という場所にある建物へ引き上げる。木造平屋の建物で、知り合いの夫婦に借りた現在シルヴァランスの住み家となっている場所だ。 「ただいま」 「おかえりなさい。……あらあら、すごい汗。今日は雲もないし、とても良い天気ですものね」 家へ戻ったシルヴァランスを出迎えてくれるのは、共に天使と呼ばれる少女を護っていこうと約束し、そして一年前に夫婦の誓いを立てた妻、セシリー=フィレンツィアだ。 サファイヤのように蒼く艶やかなロングヘアーをストレートに流し、黒曜石のように美しい瞳をやんわりと細め、セシリーは穏やかな笑みを浮かべていた。 結婚したとはいえ、セシリーのファミリーネームはそのままである。それはシルヴァランスのファミリーネームが偽名であり、それに合わせるのはシルヴァランス自身抵抗があったからだ。 セシリーがシルヴァランスから籠を受け取ろうと手を伸ばしてきたが、シルヴァランスはセシリーが真っ白なローブを身につけているのを見て、野菜に付着している土でローブが汚れてはいけないと思ってセシリーから籠を遠ざける。 「まだ土がついていますから、流しまでは僕が運びます。その後で、洗ってから貯蔵庫へ運んで頂けますか? その間に僕は一風呂浴びて、その後また畑へ行きます」 「わかったわ。それにしても大量ね。明日にでも、ミハルさんのところへお裾分けしてあげないと」 「そうですね」 シルヴァランスは籠を抱えたまま流しへ移り、そこへドカッと籠を下ろす。しばらくするとローブの上に割烹着を身につけたセシリーが流しへやってきて、シルヴァランスはそれを確認してから風呂場へと移動する。 穏やかで暖かな日々。セシリーと共に過ごしてきたこの一年、色んな意味で今までとは違う生活をシルヴァランスは送ってきた。 ランバーグの名門貴族の次男として生まれ、幼い頃から武芸の訓練に勤しんだ日々。兄の死をきっかけに家督を継ぐための英才教育へ切り替わり、毎日のように厳格な父から叱責された日々。それから逃げだし、世界を守るために奔走した日々。そしてその途中で出会った天使と呼ばれる存在の少女を護りながら世界中を旅した日々。 すべてが過去となり、今、シルヴァランスは愛しい人と共に穏やかな時を刻んでいる。激動の過去が嘘のように、まるでぬるま湯に浸かっているような温々とした生活に身を委ねている。 時折、ふとこんな生活をしていていいのだろうかと思う時もある。かつての仲間は今も世界を守るために戦っているだろう。そしてそこには、大切な妹も居るはずだ。 そしてもう二人。かつて共に天使を護るために旅をしたシェドとシールディアは、今もなお、天使の少女のために旅を続けている。 それなのに自分はこんなにも穏やかな場所で、愛しい人の側で暖かな生活を送っていていいのだろうか。幸せに身を委ね、平和な世界に生きていていいのだろうか。 「……いけませんね、こう言う考えは」 シルヴァランスは後ろめたさを覚えつつも、その気持ちを払拭して浴槽から出る。たまにこうしてかつての同志や仲間に思いを馳せてしまうのは、彼らのことを今でも大切な人々だと感じているからだろう。 脱衣所で体を拭き、新しい服に着替えてシルヴァランスが居間へ戻ると、そこにはセシリーの他にもう一人、よく見知った顔があった。 「あれ? 今日はもう学校は終わったのですか?」 「あ、シルヴァランス。……うん、今日はお昼前に終わった」 肩まで伸びた桃色のサラサラとした髪。ジペインの町から見上げる空よりもずっと澄んだコバルトブルーの双眸。色白の肌を愛らしい花のパッチが縫い込まれた服で包み、黄色のキュロットスカートを穿いている少女は、シルヴァランス達が護ろうとしている天使と呼ばれる存在、アリア=フィルガントだ。本当の名前は、レイチェル=ヴァレンシア。 旅をしていた頃はまだ百四十センチちょいだった身長も、一年経った今では百六十に届こうとしている。シルヴァランスはアリアのことをずっと十歳くらいだと思っていたのだが、アリアの両親に本当の年齢を尋ねたところ、アリアはすでに十四歳になっているという。 「どうです? 学校は楽しいですか?」 「うん。友達も出来たし、毎日楽しい」 コロコロと笑うアリア。一年前とは比べものにならないほど、アリアの表情からは感情が溢れている。身長だけではなく、心も一回り大きく成長した証だろう。 「今日は昼から学校の友達が家に来るの。それまで暇だから、セシリーとお話しに来た」 「家にミハルさんやスルトさんは居ないのですか?」 「今日からまた、近くの街に仕事で行ってる」 アリアが少しだけ笑みを曇らせて寂しげな表情を浮かべる。アリアの父親スルトはトルメキア王国の軍人であり、かつては国王の側近を務めたエリート軍人だ。トルメキアがハルモニカ大陸への侵略戦争を開始する直前にこの地方の駐留部隊へ転属され、今は招集が掛かるたびに近隣の街へ赴き、それ以外の時はジペインの町で暮らしている。 そしてアリアの母ミハルは、普段はジペインで畑を耕したり山菜を採ったりしているが、スルトが仕事で他の街へ赴くとき、同行して身の回りの世話をしているという。 「じゃあまたしばらくは帰ってこないかもしれませんね。……ではスルトさん達が帰ってくるまでは、こちらの家で生活しませんか?」 「うん、そのつもり。もうセシリーには言ってある」 シルヴァランス達の家はスルト夫妻から借りた家で、同じ敷地内にある母屋と離れといった関係にある。だから、こうしてアリアの両親が不在の場合、アリアはシルヴァランス達と寝食を共にすることが多い。 「そうですか。丁度良いですね、今日は取れたての新鮮野菜が沢山ありますから、きっとセシリーさんが美味しい料理をごちそうしてくれますよ」 「あ、私も手伝う」 「ありがと。じゃあ今晩は一緒に夕飯を創りましょうか」 「うんっ」 アリアとセシリーが互いの顔を見つめ合って微笑んでいる様子を、シルヴァランスは穏やかな気持ちで見つめていた。一時期、アリアの両親が見つかったときはまるで本当の家族を失ったようにしぼんでいたセシリーだが、それももう過去の話だ。 「では、僕はもう一仕事してきますね」 二人を家に残し、シルヴァランスは外に出る。まだ昼下がり。うだるような暑さがシルヴァランスの肌を灼き、さっぱりした体に早くも汗が滲み始める。 あれから一年。アリアは一度も、「シェド」と口にしたことはない。それは周りの人間にしてみれば、意識して言わないようにしているのが手に取るようにわかるほど露骨なものだった。 「……必死に忘れようとしているのが伝わってきますね。アリアさんにとって、シェドさんは自分の生きがいを探すために旅を続けたと思っているでしょうし」 本当は聖石を外す手がかりを探すために旅を続けているシェド。しかしアリアにしてみれば、アリアの目的が叶い、今度は自分の目的を叶えるためにシェドは旅を続けたと思っているのだろう。だからこそ、一年前のあの日、必死に自分を押し殺してシェドを見送ったのだと思う。 「アリアさんは、天使が世界の敵であることは知っている。でも、それは本当の意味ではない。ただ強大な力を持っているから、天使は世界の敵だと思っている」 天使が世界の敵だと言われるのは、天使が十二体すべて揃ったときに世界が滅ぶと言われているからだ。だがそのことは、アリアは知らないはず。 「シェドさん……。僕は、いつまで黙っていればいいのですか? そしていつまで、こんなにも暖かな生活に身を委ねていていいのですか?」 先程から続く独り言に、もちろん答えてくれる相手はいない。それはわかっている。でも、それでも口にせずにはいられなかった。 シルヴァランスは目を細めながら空を仰いだ後、再び畑で汗を流しながら野菜の収穫を開始した。 かつて妹のシェミニールと共にシルヴァランスの兄、パーシヴァルに拾われて始まった貴族の屋敷での生活。最初は給仕や厳格なパーシヴァルの父に恐怖していたが、時が経つにつれセシリーとシェミニールの環境は変化していった。 とても穏やかで平和な日々。側にいてくれた、シェミニールとパーシヴァル、シルヴァランス、ヴィクトリア。今の生活は、セシリーにあの頃のような安らぎを与えてくれる。 「今日は学校ですか?」 「ううん。今日は非番だから、ミハルさんとお茶してくるわ」 朝の食卓。シルヴァランスと向かい合って朝食を食べていると、シルヴァランスがハムエッグを口に運びながら尋ねてきた。こうして二人きりで朝食を取るようになって、すでに一年以上が過ぎている。 「そう言えば、昨日の晩にスルトさん達は戻ってきたんでしたっけ」 「そうよ」 セシリーは今、ジペインにある学校で子供達に勉強を教えている。組織で一通りの教育は受けているし、もともと面倒見の良い性格をしているため、子供達に勉強を教える仕事をセシリーはとても気に入っていた。 今の生活はとても充実している。それは今述べた仕事のことももちろんある。アリアの側であの子の成長を見届けられることもある。でも、それだけじゃない。 チラリと、セシリーは上目遣いに目の前のシルヴァランスを見つめた。こちらの視線に気づく様子もなく、シルヴァランスは食事を進めながら農業に関する書物を読んでいた。 一緒に居たい人が側に居てくれる。そのことが何よりも、今の生活を充実させてくれる最大の理由だった。 「ねえ、シルヴァランス」 「何ですか?」 「キスして」 セシリーの言葉に、シルヴァランスがゴフッと咳き込んでコーヒーを書物に吹きかける。そろそろ新婚さんという言葉ともお別れという頃合いにもかかわらず、シルヴァランスはやはりシルヴァランスだ。純というか、初心というか、素朴で純粋なのだ。 朝から盛大に噴き出してオロオロするシルヴァランスを、肩を震わせながら一通り笑った後、セシリーは自分からテーブルに身を乗り出してシルヴァランスの唇に自分のそれを押し当てた。 「……ん。――ふふ、まったく。こんなに口の周りを汚して」 「セシリーさんが朝から変なこと言うからですよ」 唇を離して見つめると、シルヴァランスは頬を赤らめながらムスッとした表情を浮かべていた。そんな表情も、愛しい一面だったり……って、少し惚気過ぎている気もする。 「んんっと。じゃあ、私はミハルさんのところへ行ってくるわね。洗い物と洗濯はお願いするわ」 「はい、わかりました」 拗ねたように素っ気なく返事するシルヴァランスに笑みを残し、セシリーは割烹着を解いて椅子の背もたれに掛け、洗面所で軽く髪を梳かしてから家を出た。 今日は少し雲が多めだけれど良い天気。セシリーはノースリーブの白いワンピースを身につけ、両手両足にはサンダージェムが埋め込まれたリストとアンクレットを巻き、そして指には結婚指輪をはめている。最近のデフォルトスタイルだ。 ミハルの家とは母屋離れの関係であるため、歩いてすぐの位置である。夏の日差しが照りつける小道を目陰を差しながらそそくさと歩き、セシリーはミハルの家の西口の戸を叩いた。 「はーい。ああ、セシリーさん」 「おはようございます」 出てきた女性にセシリーは笑顔で挨拶をする。セシリーと同じく腰まで伸びたロングヘアーは磨いた鉄のような銀色。春空のような淡い水色の瞳。容姿は十四歳の娘がいるとは思えないほど整っている女性、ミハル=ヴァレンシアは、まだ朝食の準備の途中だったのか、エプロンをつけて手にはお玉を持っていた。 セシリーがミハルについて居間へ移動すると、赤い髪、蒼い瞳を携えた精悍な顔つきの男がアリアと共にテーブルについて朝食を食べていた。アリアの向かいの三十代半ばの男は、ミハルの夫でありアリアの父、スルト=ヴァレンシアだ。 ミハルがキッチンへ戻り、すぐに良い香りがセシリーのいる場所にまで漂ってくる。 「おはようございます」 「ああ、おはよう。今日は非番なのか?」 「ええ」 「……今日はセシリーの授業無いんだ」 スルトの質問に笑顔で答えると、それを聞いたアリアが少しだけ寂しそうな声をもらした。セシリーはアリアの顔を見て優しく笑み、「ちゃんと宿題やった?」と尋ねる。 しばらくヴァレンシア家の人々と食卓で談笑した後、アリアが学校へ行き、スルトは前の仕事の報告書をまとめるために書斎に籠もった。セシリーは二人が出ていった後、ミハルと共に家を出た。 「シルヴァランスさんは素敵ですね。ウチの人なんか、頼んでもなかなか洗い物や洗濯はしてくれませんよ?」 「そんな。スルトさんだって素敵じゃないですか。さっぱりしてて、その上頼りになるというか、覇気がありますよ。……シルヴァランスは、いまいち腰が引けている部分がありますから」 「それが彼の良いところでしょう? いつも謙虚で、相手を思いやれる良い人です」 「それを言うなら、スルトさんは街の人達にとても信頼されている素晴らしい人じゃないですか」 互いに相手の旦那を賞賛しつつ歩を刻み、セシリーとミハルはジペインの公道をゆったりとしたペースで進む。しばらく道なりに進むと、セシリー達の家が在るところよりも賑わいのある広場に着き、二人はその一角にある喫茶店へと足を運んだ。 「あ、ミハルにセシリー。こっちこっち」 「遅かったわね」 「……何言ってるのよ。まだ本当なら開店前でしょう?」 セシリー達が扉を開けて中へ踏み居ると、中から複数の声が二人を歓迎してくれた。まだ時計の針は九時前を指しており、本来なら喫茶店も開店前なのに、すでに訪れていた面々は堂々とテーブルについていた。 集まっていたのはジペインに住むミハルの友人達。皆、息子や娘を持つお母様方だ。少し前にセシリーはこの輪に加わり、今はこうして井戸端会議に出席させてもらっている。いや、井戸端ならぬ茶店会議というべきだろうか。 すでに店にいたのは三人の奥様方。一人がこの茶店の主の妻であるため、こうして開店前から店の一角を陣取れるわけだ。 「セシリー、この間教えたレシピは試してみた?」 「ええ。少し焦がしてしまったけれど、それでも夫は美味しそうに食べてくれました」 「ええー、成功したあ? ……チッ、わざと火に掛ける時間を間違えておいたのにつまんないわね」 悪びれる様子もなくセシリーの目の前で舌打ちする女性。当初は街の外から来た人間と言うことで色々と邪険にされてきたセシリーだが、今ではうち解けて仲良く奥様トークに花を咲かせている。 女が五人も集まれば会話の種は尽きない。自然と時間だけが進み、気づけば開店時間を過ぎ、それでもなお、奥様方の会話は終局を迎えない。 お昼が近づき、ふとセシリーが軽い空腹を覚えた時だった。 「そう言えば、セシリーはまだ子供作らないのか?」 「え――……?」 先程セシリーをからかった女性がニヤリと口角をつりあげてこちらへ流し目を送ってくる。他の奥様方、ミハル含む、が同様の視線でセシリーを射抜いてきた。 「若い内に産んでおいた方がいいわよ? 年取ってからだと、色々大変だし」 「……はあ」 「もうそろそろ新婚生活も終わりにしたら?」 「う……」 基本的に奥様方は他人の下世話な話が好きだ。特にジペインの街の奥様方は都会の奥様方よりずっと隣同士が密な関係であるためその気質は強い。 セシリーは自分より年上である奥様方に気圧され、小さく唸るしかできなかった。チラッとミハルへ助け船の要請を籠めて視線を送ったが、お淑やかで大人しいミハルは、困ったように微笑むだけだった。 そのまましばらくセシリーの日常生活にまで及ぶ鋭い言及が相次いだ後、やっと話題が次に転がっていく。その間に、セシリーはまるでドラゴン一匹退治したくらいの疲労感を覚えた。 「ミハルのところの、レイチェルちゃん。本当に可愛くなったわよね」 「ええ。……ずっと前に行方不明になって、それで一年前に帰ってきた時は……、何て言うか、少し心を閉ざしていた感じがしたものね」 「そうね。でも最近は目が合えば笑顔で挨拶してくれるし、外見もウチの娘とは比べものにならないほど愛らしいし、あの子は将来絶対美人になるわね」 話題がアリアの話になった瞬間、ミハルが少し照れくさそうにはにかんで見せた。十四になる娘がいるとは思えないほど、ミハルの笑みは少女のように可憐だった。 六、七年前にアリアは両親と共にトルメキアに旅行へ行っていた時、組織の手で両親と引き離されてしまった。スルトが王国軍に入隊したのも、アリアの行方を王都で探ろうと思ったからだという。 そしてそのニュースは二人の故郷であるジペインでも流れ、今セシリーの目の前にいる奥様方も当時はとても心配したそうだ。だから奥様方も、アリアが戻ってきた時はまるで自分の子供が帰ってきたように喜び、そしてアリアが今まで以上に女の子らしく成長していく様子を温かく見守っているのだろう。 アリアの成長を見守れる喜び。でも同時に、ふと考えてしまう、あの男のこと。 本当ならセシリーよりもずっと、アリアの側でアリアの成長を見守っていきたかったに違いない。口では否定するかもしれないが、本心ではきっと、誰よりもアリアの成長を望んでいるあの男。 でも、あの男は今アリアの側にいない。これからもっと先、アリアが本当の意味で普通の女の子になるため、今もセシリーの知らないところで藻掻いているのだろう。 自分はアリアの側に居られる。でも、あの男は―― 「…………」 セシリーは周囲の奥様方に注意を払いつつ、人知れず小さなため息を漏らした。 青い空を白い雲がふわふわと流れていく。太陽の逆光で空を泳ぐ鳶の姿は影にしか見えず、まるで大きな翼を持った烏みたいに見える。 ジペインの街を南門より出てすぐの所にある草原。アリアはそこで乗馬の練習をしていた。乗っているのはもう二年くらい付き合いのある、かつてアリアが乗っていた車を引いていた馬車馬の一頭。 落馬したときに備え、肩に触れるくらいまで伸びた桃色の髪はヘッドギアの中に収まっている。服は汚れてもいいようにと、ミハルに貰ったお古の紅いジャケットに黒のパンツ。首に黄色のスカーフを巻き、手には手綱を握るためにグラブを装着している。 「はっ!」 蒼い双眸で先を見据え、アリアは威勢良く声を発しながら手綱を強く引いた。馬が嘶き、アリアの体を大きく揺らしながら草原を凄い早さで駆けていく。 一陣の風と化して草原を駆け抜け、降り注ぐ太陽の光に身を任せると、まるで自分が自然の一部になったような錯覚を覚える。その一体感がとても心地よく、アリアは学校のない日にこうしてしばしば乗馬の練習に来ていた。 「キュッキュゥ」 アリアの胸元から顔を出しているのは、白くてふわふわの毛で全身を覆う猫科の小動物、チロル。長くて垂れた耳に、今はジャケットの中に収まっていて見えないが、尻尾は団子のように丸い。そんなチロルのヒューイも、アリアを乗せている馬と同様、二年以上の歳月を共にしている。 蟹の月の中頃。夏も真っ盛りであり、長時間乗馬の練習をしているとどうしても服の下で汗が滲んでくる。走っている時は向かい風が心地よく汗を抑えてくれるが、止まるとどうしても長袖のジャケットを着ているせいで中が蒸れてくる。 「ふぅ……。今日も暑い」 「キュ?」 「ヒューイはもともと暑い国の動物だから元気」 手綱を引いて馬を止め、アリアはそっと額に滲んだ汗を袖で拭う。暑さに参ってしまいそうなアリアと違い、ヒューイは何でアリアが疲れた顔をしているのか全くわからない様子。アリアは表情を和らげながら反対の手でヒューイの白い毛を撫でた。 一年前は足や手が短くて一人で馬に乗ることは出来なかった。しかし旅をやめ、ジペインの町で生活するようになってから約一年でアリアの身長は十五センチほど伸び、今では難なく一人で乗馬することができる。 成長したのは手足だけではない。それ以外も少しずつ女らしくなってきている。それをアリア自身自覚していた。 そして身体的な面だけではなく、心に於いてもあの頃から一回りも二回りも自分は成長できた。自信を持ってそう言える。 「…………」 しかし変わったのはアリアの心身だけではない。アリアを取り巻く環境も一年前とは大きく異なっていた。そしてその中で一番大きなことが何かを自覚しつつも、アリアは決してそれを脳裏に描こうとしない。決してその人の名前を呼び起こそうとしなかった。 草原を流れる風がスカーフを揺らす。アリアは馬を下り、ヘッドギアを外して桃色の髪を風に靡かせた。 あの頃はショートボブだった髪を今はセミロングで揃えている。セシリーに習って少しずつ伸ばしているのだが、もともと髪が傷みやすいのかすぐ枝毛になってしまい、なかなか思うように伸ばせない。それでもようやく肩の位置まで伸ばすことが出来た。 「キュキュッ?」 「……? どうしたのヒューイ」 ふと胸元から顔を出しているヒューイが垂れた耳をぴくぴくと動かしながら小さく鳴いた。不思議に思ってアリアが顔を近づけると、 「……アリアちゃーんっ」 白い尾根を持つ高い山から吹き下ろす涼風に乗って、若い女性の声がアリアの耳に届いた。セシリーの声より明るくてミレーヌの声より落ち着きのある声。普段耳にする声ではなかったが、アリアは何故かとても懐かしい響きに聞こえた。 振り向いたアリアの瞳に映ったのは、輝くブロンドの髪。肩胛骨の辺りまで伸びた金髪を揺らしながら、すらりとした若い女性が笑顔で駆け寄ってくる。 「あ……」 思わずアリアの口から驚き声が漏れる。一目見た瞬間アリアはそれが誰なのかをハッキリ認識することができた。思い出すことができた。 「久しぶりね、アリアちゃん」 目と鼻の先まで近寄ってきた女性が、もともと優しげな茶色の瞳をさらに和らげて親愛の笑みを浮かべている。 「フィオナ……?」 「そうよ。手紙ありがとね」 「あ、うん」 フィオナ=ジール。旅の途中で立ち寄った街で知り合った女性で、アリアにとって最初の友達。まだ感情が乏しかった頃のアリアに色々と大切なことを教えてくれた人で、ヒューイの本当の主でもある。 フィオナは夏場だというのに長袖のジャケットに丈の長いスカートを穿き、足には皮の頑丈なブーツを履いていた。どうやら今しがたジペインに着いたばかりで、旅路の格好そのままでアリアに会いに来てくれたようだ。 「手紙を読んでたらさ、もう、無性にアリアちゃんに会いたくなっちゃって。それでお母さんに無理を言って、ここまでの旅費を貰ってきたの。快速馬車に乗って来たから、二週間で来られたわ」 「ごめんなさい。本当は、私がお母さんやお父さんと一緒に会いに行く約束してたのに」 「いいのいいの。我慢できなかった私が悪いんだし」 フィオナは長旅の疲れなど微塵も感じさせず、始終穏やかな笑みを絶やさなかった。突然の来訪で戸惑っていたアリアも、徐々に大切な人に会えた実感が沸いてくる。 「ありがとうフィオナ。私、またフィオナに会えてすごく嬉しい」 「私もよ。こんなにも良い表情が出来るようになったアリアちゃんに会えて、本当に嬉しい」 「キューッ!」 「あら、ヒューイも居たの?」 「キュキュキューッ!」 「冗談よ冗談。ヒューイもちゃんと私のこと覚えていてくれたのね」 いたずらっぽく微笑んだフィオナにプイッとそっぽを向くヒューイ。フィオナが邪険にしたことを謝りながらふわふわの毛を優しく撫でる。 「でも本当にアリアちゃん成長したわね。……もしかして私より胸大きくなってない?」 「……まだフィオナの方が大きいと思う」 服の上からでは精確なサイズは確認できないが、誤差を加味してもなお、まだフィオナの方がアリアよりワンサイズくらい大きかった。 「でも約二年ぶりだっけ? たった二年でこんなにも可愛くなるなんてね」 「そう? ありがとう。フィオナも、前より美人になったと思う。大人っぽくなった」 「ふふっ。お世辞まで言えるようになったのかな?」 フィオナが笑い、アリアも笑う。二年ぶりだと言うのにまるでそんな気がしない。昨日学校で会ったばかりなのに、次の日の朝にまた教室で再会したような、それくらいにしか思えなかった。二年前に初めて会ったときも、それほど長い時間を共に過ごしたわけではないというのに。 「つもる話もあるし、アリアちゃんの家にお邪魔させてもらっていいかな? っていうか、もともとそのつもりなんだけどね」 「うん」 フィオナが片眼をウインクさせながら舌を出し、アリアはそんなフィオナに白い歯を見せる。馬を下りたまま手綱を引き、アリアはフィオナと揃ってジペインへの帰路へつく。 自分と他人の旅路は、普段はまったく別の道を進んでいるかもしれないけど、思わぬところで再び交差することがある。アリアとフィオナの道が交差していたのは、きっと偶然じゃなくて意味のあること。 一つ一つの出会いや再会を大切にしたい。もしかしたらもう二度と交わらない道を進む人だって居るかもしれないのだから。 長い道のりを経て会いに来てくれたフィオナに今出来る最上の笑みを送りつつ、アリアはフィオナと手をつないで歩を刻んでいった。 * * * アルトレア大陸北部に広がる針葉樹林帯に短い夏が訪れている。辺り一面を銀世界に染め上げていた雪は消え、剥き出しの大地に木々が所狭しと根を張り巡らしている。野ウサギたちが駆け回り、背の高い針葉樹の上からは鳥たちの囀りが林の中へ染みいってくる。 そんな林の中にあるとある組織の本部。本部全体をライトジェムを使った魔練器が光の反射を利用して覆い隠し、外からでは拓けたスペースがあるようにしか見えない。 本部の一室で、ヴィクトリア=レンウィッグは疲労困憊な空気を前面に押し出して椅子に腰を下ろしていた。 邪魔にならないよう後ろ髪はポニーテールに結い上げているが、少し伸びてきた前髪が汗で滲んだ額に張り付いて気持ち悪い。鏡に映った自分の顔には疲れが滲み出ており、自慢の金髪は輝き褪せ、緋色の瞳からは十代の少女らしい若さが抜け落ちている。 「ふぅ。暑いですわね。やはり冷房器がない本部に夏場居座るのは辛いですわ。ですからわたくしは以前より空調設備の充実を訴えてまいりましたのに……」 ブツブツと文句を垂れながらヴィクトリアは着替えを始める。身につけている茶色の薄汚れたローブを脱いで、下着も新しい物に取り替える。そして下着姿のまま部屋の片隅にある鏡をのぞき込み、髪を縛っていた紐を解いて簡単なブラッシングを施す。 「髪がかなり傷んでいますわね。でも仕方のないことです。一年ほど前から世界各地でドラゴンが暴れ回っていますから、ヒーラーとしてのわたくしの仕事量も鰻登りですわ」 部屋の角にあるクローゼットに歩み寄り、ヴィクトリアはその中身を物色する。ヴィクトリアが居る部屋は、かつて兄であるシルヴァランスが個室として使用していた部屋であり、クローゼットの中にはシルヴァランスが残していった男物の衣類も多少在るが、今ではヴィクトリアが持ち込んだ服の勢いに押されてクローゼットの片隅に追いやられている。 「おいヴィクトリア。入るぞ」 「えっ!?」 ヴィクトリアが身に纏う服を選りすぐっていると、ふと部屋のドアがノックされて、ヴィクトリアの許可を待たずに二十代後半くらいの長身痩躯の男が中へ踏み入ってきた。茶色の長髪を紐で縛り、鶯色の瞳でヴィクトリアを見つめてくる。 「んなっ! アアア、アイザックさん! は、花も恥じらう乙女であるわたくしの個室に許可無く踏み入ってくるなんて、い、一体どういう了見でございますの! 常識を疑います! 軽蔑します! お兄様に言いつけます!」 ヴィクトリアはとりあえず手近なところにあった、自分が脱ぎ捨てた衣類をアイザックへ投げつけた。しかし空気抵抗を受けて失速した衣類はものの一メートルほど宙をさまよった挙げ句、ヴィクトリアの手元から弧を描くように床へハサリと落ちた。 「おいおい、待たずに踏み込んだのは謝るから、とりあえずさっさと隠せよ」 「……っ……」 にやけた表情で注意を促してくるアイザックにヴィクトリアは唇を噛みしめ、アイザックがこちらに背を向けている間に、クローゼットから白のブラウスと黒のロングスカートを取りだして身を包む。首に紅いチョーカーを巻き、紅い紐で後ろ髪を結い上げ、最後に花の髪飾りを前髪に留めた。 「……こちらを向いてもよろしいですわ」 「ったく、女ってのはどうしてそんなにも着替えに時間がかかるんだ?」 待ちくたびれたという態度を隠すことなく表に出しながらアイザックがこちらを振り返り、欠伸をかみ殺しながら後頭部を掻いた。レディを目の前にしてあの態度は正直いただけないが、それをアイザックに言ったところで無駄だとわかっているヴィクトリアは、口には出さず、淡々と睨むようにアイザックを見据えた。 「それで、一体全体何の用でございましょう。乙女の秘密の花園へ土足で踏み込むだけの理由があってのことでしょうか?」 「理由があると言えばあるし、無いといえばない」 「そういう矛盾を孕んだ物言いは好きではございません。そのような言い回しは、寓話やおとぎ話で悪役がすることですわ」 「端的に言うとだな。ガルバトロスさんとの連絡が途切れて一年近く経つ今、俺達は独自の判断で行動しなきゃあいけなくなってきたってことさ」 ヴィクトリアの言葉になんぞ全く聞く耳持たない様子のアイザックがさくさくと話を進める。もう少し他人の話をちゃんと聞く姿勢を身につけた方がいいと、過去に何度忠告したことかわからない。今ではもう諦めて、忠告するという無駄な行為はとらない。 「薄情だと思われるかもしれないが、もしかしたらガルバトロスさんは各地で暴れ回っているドラゴンか、ニーヴルの人間に殺られた可能性もあると俺は考えている」 「……隊長さんにかぎってそのようなこと……」 「だが事実、一年も連絡が途絶えているんだ」 アイザックが顔を歪める。ヴィクトリアとて、ガルバトロスの身に何かあったのではないかと疑っている。もしガルバトロスの身に何かあったとしたら、自分達の組織はどうなってしまうのだろうか。皆をまとめ上げるだけのカリスマを持っている人間は、ヴィクトリアが知る限りガルバトロスだけだった。 重い空気が部屋に充満しそうだった時、ふいに外が騒がしくなる。アイザックが何事かと窓の外へ視線を移したとき、突然ノックもなしに部屋のドアが開かれた。 「ヴィクトリア! ……アイザックさんもここにいましたか!」 アイザックはノックした後、待たずに踏み入って来たが、次の来客はノックすら無しで乙女の部屋に押し入って来た。本当なら怒りのたけを思い切りぶつけたいところだが、現れた人物の真剣な眼差しと、その人物に対するヴィクトリアの評価がそれを抑えた。 シアン色の髪に群青色の瞳を携えた細身の男。年齢は二十歳前後で、全身を黒のタイトな服で包んでいる。腰に巻き付いたベルトには十丁以上の銃が括り付けられている。 「どうした? この騒ぎは何だ?」 アイザックが現れた男、ナイを見つめながら尋ねた。感情の起伏が小さく、普段あまり表情を変化させないナイの険しい表情を見て、ヴィクトリアはただならぬ空気を感じ取る。 「ニーヴルの奴らが基地に攻撃を仕掛けています。どうやらドラゴン退治に向かわせた同志を捕らえ、ここの場所を吐かせたようです」 「なっ! 奴らにここがバレたのかっ!?」 「ええ。同志達が表で持ちこたえていますが、敵方には多くのエインフェリアが居ます。いつまで持つかわかりません」 アイザックが苦虫を噛み潰したような顔を浮かべ、ナイが指示を待つようにアイザックを見つめる。ガルバトロスが不在である以上、“セイクリッド・スピア”の三人がヴィクトリアを含む同志達の頂点に立っているといっていい。その中でアイザックは、ナイよりも、不在のガネットよりも一回り年上だ。 「まともにエインフェリアどもとやりあっても結果は目に見えている」 「はい。早急に基地を放棄して撤退すべきでしょう」 「ヴィクトリア!」 「は、はい!」 いきなり名前を呼ばれたヴィクトリアは、びしっと背筋を伸ばしてアイザックを見つめた。 「お前は出来るだけの同志を連れてセカンドベースへ行け!」 セカンドベースとは、本部であるこの基地が陥落した時のために用意された予備基地のことだ。同志達の中でもその場所を知っている人間は限られており、ヴィクトリアの先日アイザックから聞かされたばかりだった。 「ア、アイザックさん達はどうなさるのですか?」 「俺とナイでエインフェリアどもを足止めする。どれだけやれるかわからねぇが、時間稼ぎぐらいやってやるさ」 アイザックがナイを見据え、ナイが無言で頷いた。二人とも、生き残れるとは露程にも思っていない、決意の眼差しを浮かべていた。 ヴィクトリアは奥歯を噛みしめながら、それでも二人の決意に水を差さないよう自分の中にある不安や恐怖を押し殺す。 アイザックの部屋に一旦移動し、アイザックが愛用の斧を手に取ってから三人は基地を飛び出した。 「……っ」 基地を飛び出したヴィクトリアの視界に映ったもの、それは今までに見たことがないくらい大勢の人間がぶつかりあっている戦場だった。決して広いとは言えない、森の中の拓けた一角で、同志達とエインフェリアと呼ばれる敵方の兵士が激しい戦闘を繰り広げている。 決して戦場が初めて言うわけではないが、戦う術を持たないヴィクトリアは前線に立ったことなどなかった。戦場でも、いつも後方で支援や救護を務めていたから。 自然と足がすくみそうになるのを気力で押しとどめる。必死に気を張っていないと、すぐにでも恐怖に体全体が支配されてしまいそうだった。 「ちぃ! 結構な数じゃねぇか!」 「ヴィクトリア。ここは私達に任せて貴女は――っ!」 ナイの言葉が途切れ、耳障りな鳴動がヴィクトリアの鼓膜を襲った。瞬間、腰のベルトから銃をむしり取ったナイが、突如として飛来した物体を銃身で弾く。 弾かれたのは淡いグリーンを帯びた光の矢だった。実体のない、光だけで構成された矢は、ナイに弾かれた後に虚空へ消えた。 「……お前達が、“セイクリッド・スピア”か?」 ハスキーがかったバリトンが周囲に響く。ヴィクトリアがハッとして声が響いてきた方へ顔を向けると、そこには血のように赤い髪をし、そしてヴィクトリアと同じ緋色の瞳を携えた長身の男が立っていた。戦場には似つかわしくない紺のスーツで身を固め、眼帯で右目を覆っている。 「エインフェリアか!」 アイザックが斧を構え、その隣でナイが銃口を現れた男に向ける。 「答えろ。お前達が、このグループの幹部クラスであるセイクリッド・スピアと呼ばれる人間か?」 「だったら何だ」 「そうか。……見たところガルバトロス=サーベルの姿は見当たらないな」 赤髪の男はヴィクトリア達を舐めるように見つめた後、感情の薄い表情で後方の基地へ視線を移した。ライトジェムで外部からは基地の造形が見えないようになっているのだが、赤髪の男の目にはまるで基地の全景がハッキリと見えているようだった。 「ガルバトロスは中か?」 「生憎、ガルバトロスさんは不在だ。てめぇの相手は俺達がしてやるぜ」 「……不在? そうか、ミゲルがガルバトロスと追っているのだったな。不在ということは、すでにミゲルがガルバトロスを仕留めたということか」 赤髪の男は、目の前で斧を身構えるアイザックなど眼中にないといった様子で独り言を呟いている。まるで感情を感じさせない冷淡な眼差しに、ヴィクトリアは言いようのない恐怖を覚えた。 「まあいい。ならば、セイクリッド・スピアをすべて消せばお前達の組織はトップを失った雑兵の集まりと化すだろう」 男が左腕に装着したガントレットに埋め込まれている緑色のジェムに光を灯す。あの光はシルヴァランスやナイと同じ、ウインドジェムの光だ。 風の力は清々しさ共に優しい空気を他者に与えることができる。ヴィクトリアはシルヴァランスの放つ暖かい風のオーラが好きだった。だが今、目の前でウインドジェムを輝かせる男から発せられるオーラには、禍々しさにも似た、肌を浸食するような刺々しい空気が渦巻いている。 「アイザックさん、どうしますか?」 「やるしかねぇだろ。……ちぃ、かなりの手練れだな、こいつは」 アイザックの米神に汗が滲んでいるのをヴィクトリアは見逃さなかった。いつも飄々としたアイザックがあそこまで険しい顔つきをするなんて、まるで己の実力と相手の実力の差に天と地ほどの差があることを悟ってしまったかのようだ。 実際、戦闘力のないヴィクトリアですら、赤髪の男が相当強いことは感じ取れた。肌に突き刺さるような威圧感が、矢のように射抜く怜悧な瞳が、金縛りのようにヴィクトリアを動けなくする。 「来ないか。ならばこちらから行くとしよう」 男が左腕を持ち上げる。その瞬間、ガントレットから伸びた光の筋が弦を現し、男が右手を添えると光の矢が弦を引いて具現化した。 「――っ!」 「ヴィクトリアッ!」 男の手を離れた光の矢が一直線にヴィクトリアへ迫った。固まったまま身動き一つできなかったヴィクトリアだが、咄嗟に飛び出して障壁を張ってくれたナイのお陰で九死に一生を得る。 「やべぇぜ、こいつは。あの“魔弾”なんかと比べものにならねぇほど強いぞ、そいつ」 「同感です。もしかしたら、かつてガルバトロスさんが就いていたというニーヴルの幹部クラスかもしれません」 「おいヴィクトリア。……悪いが俺達じゃあ、もって十分だ。その間にできるだけの同志を集めて――」 ヴィクトリアを見つめてアイザックが囁いたとき、突然後方から複数の影が飛び出して赤髪の男に襲いかかった。一瞬だけ頬の筋肉を反応させた赤髪の男は、迫り来る影をすべて障壁で弾く。 「くっ!」 「ちぃっ! 不意打ちを狙ったのに、なんて反応してんのよ!」 赤髪の男に攻撃を仕掛けたのは同志の仲間達だった。何度も基地で顔を合わせ、時には同じ思い出を共有してきた仲間達が、各々の武器を手にヴィクトリア達と赤髪の男との間に割ってはいる。 「お、お前達……」 「アイザックさん、ここは俺達に任せて、アイザックさん達は逃げて下さい!」 「ば、馬鹿! お前達が敵う相手かよ!」 アイザックの制止も聞かず、一人の青年が赤髪の男に持っていた剣で斬りかかる。男は剣をガントレットで弾き、体勢を崩した青年に光の矢を放った。鮮血と共に光の矢が青年の背筋から飛び出し、バタリと青年が大地に倒れ伏せる。 「あ、あああ……」 ヴィクトリアは恐怖に体を震わせる。何度目の当たりにしようとも、決して慣れることのない人の死。その恐怖を完全に押し殺す術をまだヴィクトリアは知らない。いや、そんな術はどこにも無いのかもしれない。 「アイザックさん! ナイさん! お願いです、逃げて下さい! ガルバトロスさんが居ない以上、あなた達だけが我々の希望なんです!」 そう言って同志の女が赤髪の男に飛びかかる。雷光を纏った銀色の槍を目にも止まらぬ早さで突き、男がそれをガントレットで弾いた瞬間に飛び上がって上空から凄まじい雷撃を叩き込む。だが男は雷撃などものともせず、鬱陶しい羽虫を握りつぶすかのように上空に数多の矢を放った。女が愕然としながら障壁を張るが、光の矢は障壁をまるで紙切れのように易々と貫通し、女の体を数多の矢が突き抜けた。 「――――っ!」 ナイが声にならない声を漏らす。普段冷静なナイですら、今の状況に我を失いかけているように見えた。 「世界を崩壊させるわけにはいかないのでしょう! この世界を、決してニーヴルなんかの思い通りにさせないで下さい!」 「や、やめろ、やめろぉっ!」 アイザックの言葉が虚しく響き、次の瞬間、飛び出した少女の鮮血がヴィクトリアの網膜に焼き付いた。 「アイザックさん!」 ナイの感情を必死に押し殺したような声。アイザックが喉にものが詰まったような嗚咽をもらし、そしてヴィクトリアを見つめた。 「ヴィクトリア……」 「わかり、ましたわ」 後ろめたさが心を縛り上げる。だが、同志達が身を挺してまで自分達を逃そうとしてくれている以上、彼らに報いるために自分達が取るべき行動は何か。それを心の中で何度も何度も反芻しながら、ヴィクトリアはキュッと唇を噛みしめた。 三人は同志達を残し、赤髪の男に背を向けて駆け出す。背後から次々と悲痛な叫びがあがり、その度にヴィクトリアの心を鋭い針が突き抜ける。 でも止まるわけにはいかない。そしてヴィクトリアは一つ決心をした。世界を守るために必死に戦う同志達。その仲間として、ヴィクトリアも自身の意志で決断をするべきだと。 『ピィィーッ!』 ヴィクトリアは取りだした笛を思いっきり鳴らす。すると上空より飛来した気配が爆風を巻き起こしながらヴィクトリア達に迫ってくる。 「ポニー! ここですわっ!」 『ヒヒィィ――ン』 木々の合間を縫って現れたのは、純白の雄々しい体に二本の立派な角を持つペガサス。鬣も蹄も白い愛馬のポニーに飛び乗り、ヴィクトリアは手綱を強く握る。 「アイザックさん達も早く乗って下さい! ポニーちゃんは大変繊細で肌の弱い箱入り娘ちゃんです! あの光の矢を一撃でも浴びたらあっという間に天地が反転しますわっ!」 アイザックとナイがポニーに飛び乗ったのを確認して、ヴィクトリアは手綱を引く。ポニーが嘶き、白鳥のような純白の翼を羽ばたかせて大空へ舞い上がった。 戦場が遠くなる。慣れ親しんだ基地が遠のいていく。そして、同じ時を共有した同志達の姿が見えなくなる。 ヴィクトリアはキュッと唇を噛みしめ、もう二度と彼らに会えないことを覚悟する。 そして先程、敵や仲間達に背を向けて駆けだした時に決心したことを、もう一度心に深く刻み込む。今ヴィクトリアが考えていることは、たぶん、いや間違いなく、シルヴァランスと真っ向から対立する。 「アイザックさん、ナイさん……」 静かな上空で、ヴィクトリアは後方の二人を振り返らずに口を開く。 「何だ?」 「セカンドベースへ立ち寄った後、赴きたいところがあります。ご一緒していただいてもよろしいでしょうか?」 「赴きたいところ?」 ヴィクトリアは一度深呼吸して心を落ち着かせる。いつだって心の中は葛藤に満ちていたが、やっと決心が着いた。本当のことを言えばその答えを選びたくなかった。何故ならヴィクトリアが選んだ答えは、溺愛しているといってもいい兄、シルヴァランスや、気にくわないけど不思議と嫌いじゃない女、セシリーの考えと異なるから。 「お兄様……、いえ、シルヴァランス=グレインのところへ。わたくしは、彼の居場所を知っています」 ヴィクトリアの決意。それは世界を崩壊より救うため、心優しい無垢なる少女を切り捨てること。あの少女と世界を、別々の天秤皿に乗せることだ。 それが、世界を守るために散っていった同志達に対するヴィクトリアの答えだった。そして、自分の意志で世界を守ろうと決めたヴィクトリアの、最初の決断だった。 |
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