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第二章 変わりゆく今 夏の間は辺り一面美しい緑色の平野が広がり、遠くに見える山々は快晴の青空を如実に浮かび上がらせるほどに木々が青々と茂っている。 アルトレア大陸の北北東に位置する魔練器製造会社の工場の地下には研究施設と銘打った地下空間がひっそりと広がっていた。そこを根城としているのが、世界を裏から操るニーヴルと呼ばれる組織。 広大な地下空間に点在する数多の部屋の一つ、執務室には、この場に居ないニーヴルの社長、ルシフェル=ガブリエスタに代わって副社長のレミネーラが木製のがっしりとした社長椅子に腰を下ろしていた。 紫紺のスーツで身を包み、ストッキングで包まれた長くしなやかな足を組んで、紫色の双眸を手に持った資料へと落としている。時折、腰まで伸びた長い黒髪を掻き上げながら、小さく息を零している。 「レッミネーラさまぁ〜」 ふいに、姦しい声と共に執務室の扉がバンと開かれ、白衣を身に纏う小柄な少女が姿を現した。レミネーラは資料から現れた人物、キャロルへと視線を切り替える。 カールした赤毛はお世辞にも手入れが行き届いているとは言えず、そばかすだらけの肌も決して綺麗とは言えない。カナリア色の瞳に片眼鏡をかけ、キャロルは満面の笑みをレミネーラに送っていた。 「どうしたの?」 「ついに準備できましたーっ。いやぁ、結構時間かかっちゃいましたねぇ〜」 「……そう。ふふっ、ついに“透過”を使えるだけダークジェムが集まったわけね」 レミネーラの瞳に鉛色の光が走る。キャロルは腰をキュンキュンと振りながら、まるで喜びを全身でアピールするかのように振る舞っていた。 「レミネーラ様、失礼します」 「あらカルネじゃない。先日ここを出たばかりなのに、もう戻ってきたの?」 いつからそこに居たのか、キャロルの後方、執務室のドア付近には赤い髪をした隻眼の男が立っていた。凍てついた、体温を感じさせない表情を顔に貼り付け、長身の体を紺のスーツで包んでいる。 「ガルバトロス=サーベルが立ち上げた組織の壊滅は完了しました。なお、“セイクリッド・スピア”と呼ばれる幹部クラスには逃げられてしまいましたが、大方敵組織の戦力は壊滅させたと言っても差し支えないでしょう」 カルネが淡々と事務的な口調で話す。 「カルネは本当に仕事が早くて助かるわ」 「そうですねぇ。あたしももっと頑張んなきゃいけないなぁ」 「……キャロル、必要な量のダークジェムが揃ったというのは本当か?」 カルネが別段興味なさそうな、無関心そうな顔のまま尋ねると、キャロルは破顔の笑みでニカッと白い歯を見せた。 「本当ですよぉ〜。いやぁ、もともとダークジェムは他のジェムと比べて産出量がむっちゃくちゃ少ないですからねぇ、一年かけてようやく一回分の量に達しましたよぉ」 「あなたの“透過”は大陸全体をカバーする能力ですものね」 真っ赤なルージュを引いた唇を華やかに緩め、レミネーラが妖艶な微笑を浮かべる。 ふと、カルネが何かの気配を感じ取ったように、ドアの手間で立ち止まっていた体を動かして執務室内へと踏み入ってきた。そして後方を振り返る。 「どうしたの?」 「…………」 カルネの行動にレミネーラが首を傾げていると、 「これから“透過”を使って奴らの位置を割り出し、襲撃しに行くのか? ふっ、丁度いいタイミングで戻れたようだ」 低い男の声がレミネーラの鼓膜を揺らす。レミネーラとキャロルが執務室のドアへ視線を向けると、背が高くてがたいのいい、中年の大男が姿を現した。 オールバックの黒髪には若干白髪が交じり、厳つい顔の額には深い傷が刻まれている。口の周りの髭が覆い、オリーブ色の瞳には狂気じみた鋭い眼光が迸っている。 「ミゲル……。あなた、いつ帰ってきたの?」 「…………」 レミネーラの問にミゲルは答えず、代わりに鋭い眼光で睨むような視線を送る。 「ふぅ、まったくあなたは……。ガルバトロスを追って居なくなったかと思ったら一年近く音信不通。もう少し、ガンズとしての自覚を持って貰いたいものね」 「ふん。それより、あの出来損ない天使のもとへ行くんだろ? ならさっさと“透過”を使って奴らの居場所を特定しろ」 ミゲルは鬱陶しそうにレミネーラを睨め付けた後、そのままキャロルへ視線をスライドさせた。威圧的で、目があっただけで体が硬直してしまいそうな眼光を浴びながらも、キャロルはへらっとした笑みを消さない。 「ミゲル、ガルバトロスはどうしたのです?」 カルネがミゲルに尋ねると、ミゲルは目を側めてカルネを一瞥し、 「七回に渡って戦ったが、結局最後は逃げられた。これ以上は“追跡”できねぇと判断して戻ってきた」 簡素にそう告げた。カルネは一瞬だけ、無能を見るような目でミゲルを見据えたが、ミゲルがそんなカルネの視線に気づいた様子はなかった。 「いくらガルバトロスが生きていようとも、組織本体にはカルネが壊滅的な打撃を与えてくれたわけだし、当分は大人しくしてくれるでしょうね」 「あたし達はその間にレオを捕獲して、遂に計画を実行しちゃうわけですねっ」 男二人の陰湿な空気と違い、キャロルの放つ風はどこまでも爽やかで威勢が良い。ミゲルはそんなキャロルの様子を気にくわない様子で見つめていたが、他に何か思うところがあるのか、時折不気味な笑みを交えていた。 「さっさと“透過”を発動させて奴らの居場所を割り出せ。……今度こそ、俺があいつの息の根を止めてやる」 「ふぅ、相変わらずね。先日までガルバトロスを追っているかと思いきや、次は“魔弾”なの?」 呆れたような顔でため息をもらすレミネーラを睨め付け、ミゲルが再びキャロルへ視線を戻す。皆の注目を集めるキャロルは一層晴れ晴れしい笑みを浮かべた。 「キャロル、“透過”の準備をお願い。それからカルネ、あなたはレオの居場所を特定できたらすぐにここを発てるよう、兵士とエインフェリアの手配を済ませて。……そうね、S級を五人くらい連れて行きましょう」 「わっかりましたでーす」 「……レミネーラ様、もしかしてレミネーラ様自身もご同行なさるのですか?」 「ええ。社長の理想を叶えるための最後の仕事ですもの。私も現場でそれを見届けるわ。ミゲルも当然付いてくるのでしょう?」 「……ふん」 流し目を送るレミネーラを鬱陶しそうに一瞥した後、ミゲルは執務室を後にした。それに続いてカルネが一礼してから部屋を出て行く。 「アルフレッドも居れば、きっと喜んでレオのお迎えについてくるだろうねぇ〜」 「そうね。でも、アルフレッドはハルモニカで社長の右腕として頑張ってくれているみたいだし、向こうへ送った天使達の世話もしてもらっているからね。滅多なことがなければ呼び戻せないわ」 「まあ別にアルフレッドが居なくても、ミゲルさんが居れば大丈夫ですよ」 「ええ。でも、万が一の時に備えて、天使も数名連れて行くわ」 レミネーラの言葉にキャロルが一瞬困惑した表情を浮かべるが、すぐにまた笑みに戻る。 「本気ですね、レミネーラ様」 「今回は絶対に失敗が許されないわ。蝕までもう残された時間は少ないし、こちらも全力で行きましょう」 「はいでーす。じゃあ、あたしは“透過”を使う準備を進めてきますでーすっ。明朝にはすべての準備が終わると思うのでぇ、レオの位置を特定できたら皆さん揃って出発しんこーでーすっ」 嬉々とした笑みを浮かべたままキャロルが執務室を後にする。レミネーラは一人になった執務室で不気味な微笑を携え、静謐な空気が漂う中で長い髪をサッと掻き上げた。 「いよいよね。社長の望む世界、もうすぐそれが現実となる……」 真っ赤に染まったリップを緩めながら、レミネーラは静かにそう呟いた。 * * * シェドは鉛色に紫色を落としたような空が広がる異空間の大地を蹴りながらアダムの攻撃を避け続けていた。 シールディアと同じく自我を持つドラゴンであり、シェド達がずっと探し求めてきた竜王の存在を知るアダムは、琥珀色に薄い感情を映してシェドを見つめてくる。セルリアンブルーの髪を揺らしながら、アダムは次々と光に包まれた物体をシェドへ投げつけてくる。 「ちぃっ!」 シェドはフレアジェムを埋め込んだ銃を前面に押し出し、障壁を張って迫り来る光弾を遮る。リング状の光弾は障壁に弾かれると不可解な軌跡を描いてアダムの手元に戻り、アダムは腕を軽く振るって再び光弾をシェドへ放つ。現在アダムが操っている光弾は四つ。それらが多角的にシェドへ襲いかかってくる。 「鬱陶しい攻撃だな!」 『どうした、シェド=ガンブレイブよ。お前の力はその程度か?』 「うるせぇ! いちいちフルネームで呼ぶんじゃねぇよっ!」 左右から迫る光弾に対し、シェドは片方を銃身で弾き、そのままもう片方へ魔弾を放った。紅蓮の魔弾を受けた光弾は砕けることなく、再び湾曲した軌跡を描いてアダムへ戻っていく。 シェドは奥歯を噛みしめ、腕輪に埋め込まれた七種類のジェムへ意識を注ぐ。相手がドラゴンで、こちらの思考が読める以上、切り札を隠しておいたところで意味はない。最初から全力で行き、それが通用しなければ背後にあるのは敗北のみだ。 炎、氷、雷、風、土、光、闇の属性を帯びたジェムが眩い光を放ち、シェドの右腕から光の筋が虚空に伸びる。光が集って魔力の剣が具現化し、銃に埋め込まれたフレアジェムが無属性の剣に朱色の炎を灯す。 「はああっ!」 迫り来る三つの光弾を魔剣で薙ぎ払う。魔弾でも破壊できなかった光弾が真っ二つに裂け、アダムが一瞬驚いたように目を見開いた。 全属性のジェムが扱えるシェドにしか扱えない魔剣を持ってすれば、この世に斬れないものなど何もない。シェドはここぞとばかりに踏み込み、一気にアダムとの距離を詰める。 『それがお前の力か……。確かに面白いが、古代人の置きみやげに頼っているようではまだまだ本来の力を活かせておらん』 「なんだとっ!?」 シェドは真っ向から迫ってきた光弾を一閃にて斬り捨てる。これでアダムが操っていた光弾はすべて破壊した。一気に勝負を決めるつもりでシェドは魔剣を担ぎ、アダム目掛けて一直線に斬り下ろす。 「うおおおおっ!」 『その力は、本来こうして使うものだ』 「――っ!?」 シェドの魔剣がアダムの首筋を捕らえたかと思った瞬間、シェドの腕に衝撃が走った。見れば、いつの間にかアダムの手には半透明の光を帯びた剣が握られており、その剣がシェドの魔剣とぶつかり合ってバチバチと火花を散らしている。 「くうっ!」 アダムが無造作に剣を薙ぎ、シェドはその力に押されて後方へ追いやられた。間合いを取り直し、シェドは改めてアダムが手にしている剣を凝視する。 「そ、それは……」 『そう。お前の持つものと同じだ』 静かに言い放ちながら、アダムが光に包まれた半透明の剣を構える。魔力が凝縮された、魔法力のみで構成された実体のない剣。 シェドの魔剣と同じとアダムは言ったが、それは明らかに魔剣とは異なっていた。魔剣は銃を依代にしてジェムから溢れる魔力を集め、銃に埋め込まれたジェムをつなぎに使わなくては具現化できない。そのためどうしても銃に埋め込まれたジェムの属性を帯びることになるのだが、アダムの剣はどの属性を帯びているようにも見えなかった。 つまり、完全に無属性の剣。あれは決してシェドの魔剣なんかと同じではない。 『そうだな。厳密な意味では同じではない。お前は古代人の置きみやげに頼っているため、本来の使い方が出来ていないのだ』 シェドの思考を読んだようにアダムが言う。まるで、アダムの手に宿った剣こそが本物であるかのような口ぶりで。 「完全な無属性の剣。なのに、魔力が分散してしまうことなく剣の形を維持できるのか」 『それが本来の使い方だ』 「……っ……!」 呆然とするシェド目掛けてアダムが迫ってくる。光を帯びた無色透明の剣を振り上げ、勢いよくシェドへ斬りつけてくる。 シェドは咄嗟に魔剣を振り上げてアダムの剣を受け止めた。雷鳴のような轟音が周囲を襲い、火花や氷片、稲妻や爆風など様々な魔力の固まりが周囲へ散っていく。シェドの魔剣とアダムの剣がぶつかる度に零れるのは、何かしら属性を帯びた衝撃波だった。 「くうううっ!」 『その程度か、シェド=ガンブレイブよ』 「……るせぇ、フルネームで呼ぶなっつっただろ!」 強引に魔剣を払ってシェドは紅蓮の魔弾をアダムへ撃ち放つ。しかしアダムは無駄のない動作で舞い上がった炎を剣で振り払い、魔弾が一瞬にして霧散する。 さらにアダムが剣を担いで突貫してくる。スピードはシェドよりも劣るが、一つ一つの動作に無駄がない。その分、互角以上のスピードに感じる。 「ちぃっ! させるか!」 シェドも退かずに魔剣を奔らせる。互いの剣先がぶつかりあった衝撃で、異空間の大地に敷き詰められた茶褐色の土がえぐれて音のない空間に爆音に近い衝撃音が広がる。 「――っ!」 例え完全な無属性の剣であろうと、シェドの魔剣ならば互角にやりあえると考えていたが、それは誤算だったとシェドは認識を改める。 魔剣が、アダムの剣にとけ込むかのように輪郭を失いつつあった。衝撃波に混じって様々な属性の欠片が周囲へ散っていけば散っていくほど、魔剣の輪郭が薄くなっている。 「なっ……、そんな!」 『気づいたか。先程から零れ出ている魔力の欠片は、私とお前の剣がぶつかり合ったがために、互いの剣の魔力が削れていったのではない。私の剣は何の属性も帯びていない完全な無属性。つまり、散っているのはお前の剣を構成している魔力だ』 「……っ……!」 シェドは思わずアダムの剣を受け止めたまま自身の右腕に巻き付いた腕輪へ視線を落とす。腕輪に埋め込まれた七種のジェムは、まだ取り替えて日が浅いというにも関わらず、 憔悴しきったように色褪せていた。 『完全な無属性は、属性を帯びたものすべてを融解させ、その魔力結晶を崩壊させることができる。これこそが、お前の持つ異質な力の本来の使い方だ』 「な、何でそんなことを知っていやがる! 俺の本来の力だなんて、何故わかる!」 すべてを見透かしたようなアダムにシェドは焦りを隠せない。魔剣が通用しないのであれば、シェドに勝ち目がないのは火を見るよりも明らかだ。 それに何故、アダムはまるでシェドの力、全属性のジェムを扱えたり魔剣を具現化できたりする力を知っているような口ぶりで話すのか。すべてを知り、まるで天上から見下ろすような色を琥珀色の双眸に感じるのは、シェドの内心で渦巻く恐怖の顕れなのだろうか。 『知っているようなではない。知っているのだ』 「……っ!」 『お前の持つ異質な力に私は興味を抱いた。それは私達の血を継承しているように感じたからだ。そして今、何度か直接お前の魔力を感じ取って確信した』 アダムが剣先を下ろし、微かに笑みを浮かべた。シールディアと大して変わらない、少しぎこちない笑み。いや、シールディアの方が表情に暖かみがある。目の前のアダムは、まるでそれが作法だからと言わんばかりの事務的な笑顔のように感じられた。 『シェド=ガンブレイブよ』 名前を呼ばれてビクッと肩が震え、シェドはそのことに奥歯を噛みしめる。シェドの中で、アダムに敵わないという恐怖心が渦巻いていることを、必死に押し殺す。 そんなシェドの内心を読んだのか読んでいないのか、アダムの微笑は崩れない。 「……何だ。何が言いたい」 『端的に事実を述べよう。お前の異質な力、それは私達を同じだ』 「どういう意味だ。わかるように話せ」 決して警戒を緩めず、米神や背筋を流れる嫌な汗を自覚しながらシェドはアダムを見据える。 もったい付けているのか、アダムが少し間を置く。風もなく、シェド達以外には羽虫の一匹も見当たらない異空間は静寂に包まれており、ポタリとシェドの汗が大地に落ちる音が何倍にも拡張されて響いた。 そのまましばらく静止状態が続いた後、 『お前は、私達ドラゴンの血を継いでいる』 静寂な空間に、アダムの声が凛と響いた。 目の前に立つ、イヴと名乗った女。見た目は二十歳前後の人間の女性であるが、その実はシールディアと同じドラゴンなのだと言う。確かに瞳の色はシールディアと同じ琥珀色であり、そこには顕著な感情が見受けられない。それはガネットも同じであるかもしれないが、それ以上にイヴの表情に浮かぶ感情は薄かった。 ガネットは目を側めて、先程から困惑の表情を浮かべるシールディアを見つめた。イヴの口から出た『竜王』という言葉を聞いて以来、シールディアの動揺が手に取るようにわかる。普段感情を表に出すことが少ないシールディアが、これほどまでにハッキリとした感情を示すのを、ガネットは初めて見た。 『あなたは竜王に会い、そして己の存在理由を知りたいのですか?』 「……そなたには私の思考が読めるのであろう? ならば、そなたの問に私が答える必要はないはずだ」 『フフ』 頭の中に直接響いてくるような微笑みがイヴから零れる。 『あなたの中には二つの対立する思考が存在しているようね』 今度はガネットへ視線を向け、イヴがぎこちない微笑を携えたまま長いローズレッドの髪に手を添え、少しだけ顎を引く。 「……そうですね。私は天使が何故世界の敵とされるのか、何故天使の存在が世界の崩壊を招くのか、その事実を知り、その上で私なりの答えを見つけたいと思っています。ですがもう一人の私は、そんな回りくどいことを嫌い、すぐにでも天使を殺してしまえばいいと考えているようです」 『もう一人のあなたの考えは正論だと言えます。たとえどんな理由があろうと、天使が世界を滅ぼす鍵となっていることは事実なのですから』 「……っ」 ガネットの隣で、シールディアが小さく声を漏らす。 分かっていた、頭の中では理解していたつもりの事実でも、こうしてそれを知る者にハッキリと告げられると戸惑ってしまうものだろう。シールディアはそんな表情を浮かべているように見えた。 「やはり、私が創られた理由も……。ドラゴンとしての私の存在理由は、……天使を討ち滅ぼすためなのか」 『そうです。あなたは天使の力を宿す聖石の護り手として創られただけの存在です』 「…………」 『聖石を護れなかった後も、あなたはあの古代都市に居座り、その事に何の疑問も感じていなかったはずです』 「その通りだ。私の存在理由は、あの遺跡に居座る。……それだけだったのだ」 寂しげな目で遠くを見つめるシールディアを、ガネットは心苦しい気持ちで見つめていた。 シールディアは何かを護るためだけに創られて古代遺跡に配置され、そしてそれを奪われてしまった後も、その事を認知できずに遺跡に居座り続けていた。シールディアとシェドとの出会いを知らないガネットには推測でしか言えないが、きっとシェドとの出会いがなければ、今もシールディアはその古代遺跡で失われた聖石を護るために存在していたのだろう。 『あの頃のあなたには自我がなかった。遺跡に居ろという存在理由だけで生きていたはずです。しかしあなたは自我を獲得した。それ故、ドラゴンとしての本能、天使が敵であることを認識し、そして同時に、何故天使が敵であるのか、何故ドラゴンは天使を討ち滅ぼさなければならないのかと疑念を抱いた』 「私の中にはいつでも二つの思いがせめぎ合っている。ドラゴンとして天使を殺せという本能、そしてヒトとしてあの少女を護りたいという自我。私には、どちらを選択すればいいのかわからない」 「シールディア……」 ガネットは、申し訳なさそうにイヴへ自分の思いを告げるシールディアを見つめた。ヒトしてのシールディアはまだまだ幼さが残る少女と変わらず、今の言葉は、まるで自分の考えに自信のない少女が母親に相談しているようだ。 『あなたの心には迷いが満ちています。私にはわかりませんが、それはきっと苦しいことなのでしょう』 「…………」 『いいでしょう。竜王の間へ、あなた達を招待します』 事務的なイヴの言葉に、シールディアがクッと顔を上げる。そんなシールディアを見つめて、イヴが微かに笑みを浮かべた。それは先程までのぎこちない笑みより、幾分人間味を帯びた笑顔のように思えた。 『あの人間……、シェド=ガンブレイブと言いましたか? 彼とアダムが固有空間より戻ってきたら、竜の里への扉を開きましょう』 「シェドは無事なのか?」 『大丈夫です。アダムは彼の力を見極めたいだけですから、彼を殺したりはしないでしょう。そもそもドラゴンである私達は、決してヒトを殺したりはできません』 まるで自分がドラゴンであり、ドラゴンはヒトを護る存在であることを失念していたかのように、シールディアがホッと息を漏らした。 「イヴさん、私も、その竜の里へ足を踏み入れてもよいのですか?」 しばらく間を置いて、ガネットはイヴにそう尋ねる。ドラゴンであるシールディアと、アダムというドラゴンに興味を抱かれたシェドはともかく、自分には竜の里に踏み入る権利があるのだろうか。 『構いません。本来人間が踏み入っていい場所ではないのですが、先程竜王より許可が下りました。あなた方三人を、竜王の間へ案内しなさいと』 「そうですか。では、失礼させて頂くことにします」 ガネットは腰を折ってイヴに頭を下げる。 シールディアの中でがドラゴンとヒトの思いがせめぎ合っているように、ガネットの中でもAの意見とCの意見が対立している。もしかしたら、ここにその答えを導くためのヒントがあるかもしれない。 そう思いながらガネットが顔を持ち上げると、まるでその心を読んだかのように、イヴが笑みを浮かべてこちらをうかがっていた。 「俺が……ドラゴンの血を継いているだと?」 シェドは銃のグリップを握り直し、魔剣の剣先をアダムに向けたままアダムの言葉を復唱した。アダムは淡い光を帯びた無色透明の剣先を地につけ、銅像のような笑みを浮かべてシェドを見据えている。 『そうだ。正確には、私達ドラゴンの血を色濃く引いていると言ったところだ』 「……どういう意味だ?」 『お前は知らぬようだが、かつてドラゴンとヒトが共存していた頃、我々の間には双方の血を引くハーフが生まれたことがある』 「――なっ!」 淡々と語るアダムの言葉に耳を傾けていたシェドは、思わず目を見開いて驚きの声を漏らした。今の言葉を直訳すれば、人とドラゴンが交わって子をなしたことがあるということだ。そんな話は、どんな古文書を読み解いたところで記されてはいなかった。 『書物が残っていないのも無理はない。それは我々の神がヒトを創って間もない頃だ。まだそなた達ヒトの先祖は言葉というものを獲得していなかった』 「神狩りよりも前の話か」 『そうだ。ドラゴンと交わったヒトは魔力を得た。それ故、ヒトは魔法を使えるようになったのだ』 「――っ!」 剣先を下げていたアダムが一足飛びで間合いをつめ、シェド目掛けて斬りかかってくる。シェドは咄嗟に魔剣を押し出してアダムの剣を受け止めた。衝撃が奔り、シェドの魔剣から魔力が零れ散っていく。 『この世に存在する七種の属性。魔力を得たヒトは、それぞれに与えられた先天的な属性の魔法を扱うことができ、ヒトは他の属性の魔法を扱えるヒトと結びついてより大きな力を行使した。それ故に、かつてヒトの文明は栄華を極めたのだ』 「くっ! それが、俺達が知っている古代文明か!」 力任せに剣を振り払い、シェドは続くアダムの攻撃を半身でかわす。余裕の笑みにも受け取れる事務的な笑顔を浮かべたまま、アダムの手に握られていた剣が四つの光弾へと分解し、それらが一斉にシェド目掛けて迫ってきた。 「ちぃっ! またそれかっ!」 シェドは迫り来る光弾に魔剣で斬りかかる。しかし、先程はあっさり寸断できた光弾が、今は魔剣をもってしても裂けなかった。剣先とぶつかった光弾は、眩い閃光を発して軌道を変え、ブーメランのようにアダムの手元へ戻っていく。 魔剣の威力がかなり弱まっている。そのことを実感しながら、シェドは次々と迫り来る光弾を魔剣ではじき返す。 『その後はお前の知るとおりだ。神狩りが起き、我々の神は死んだ。そしてヒトは魔力を失い、古代人の置きみやげであるジェム無しでは魔法を使うことができなくなった』 「そうかい。それが正しいのなら、俺に限らずジェムを扱える人間すべてがドラゴンの血を継いでるってことだろ。別に、俺だけが特別ってわけじゃないはずだ」 『いや、お前は特別だ。先程言ったとおり、ヒトは与えられた先天的な属性しか扱うことができぬ。だが、お前は違うであろう? お前は我々ドラゴンと同じく、すべての属性を扱うことができる』 「ドラゴンと……同じ?」 アダムが腕を振るって光弾を飛ばし、再び四つの光弾がシェドへ迫ってくる。すでに輪郭がぼやけてきた魔剣でこれ以上防御すれば、たちまち何かしらジェムの魔力が枯渇し、魔剣を維持できなくなる。 シェドは四方向から迫る光弾を必死にかわす。光弾がシェドの頬を裂き、衣類を引き裂くが、致命傷だけは喰らわないようにシェドは異空間の大地を懸命に蹴り回る。 『希に、ヒトとドラゴンのハーフにドラゴンの血を色濃く継ぐ者が生まれることがある。ただしその確率は極めて低く、クオーター以降に至ってはゼロだ』 戦慄の汗を滲ませ、鮮血を宙に散らせながらシェドはアダムの言葉に耳を傾ける。光弾が耳元をかすめて風が鳴き、無音の空間にシェドの足音と荒い息遣いが響く。 『わかるか? 私の言った言葉の意味が』 「……くっ! 涼しい顔してえげつない攻撃しやがって!」 決して冷笑しているわけではないのだろうが、感情の薄いアダムの笑みはシェドにとって侮蔑を含んだ冷めた笑みに見えた。それにカッとなったシェドは、最後の魔力を振り絞って魔剣を眩く輝かせ、一閃にて四つの光弾を引き裂く。 虚空に消えた光弾と共に、硝子にヒビが入ったような音が木霊し、シェドの腕に巻き付いたリングからジェムが砂のようにサラサラと崩れていった。 「くそ!」 『ふむ。これでお前は攻撃の術を失ったわけか。なら、ここまでとしよう』 「な、なに?」 アダムが戦闘態勢を崩す。シェドが焦りを押さえきれず警戒を解けないにもかかわらず、アダムはゆったりとした歩調でシェドに詰め寄ってくる。 『私はドラゴンだ。ドラゴンは本来ヒトを護る存在。これ以上、お前に危害を加えることはない』 「……俺を殺すつもりだとか言ってたくせに、本当は最初っからそんな気なかったのか」 『フッ』 この状況では鼻で笑うのが筋。まさにそんな空気を漂わせながらアダムが演技っぽい笑みを浮かべた。無性に腹立たしいが、いちいち言葉にしなくとも、こちらが憤っていることくらいアダムには手に取るようにわかるだろう。 『では元の空間へとシフトしよう。これ以上竜王を待たせられん』 アダムが片手を天に掲げる。鉛色に紫色を落としたような空に亀裂が走り、ひび割れて空いた部分から眩い光が異空間へなだれ込んでくる。 『ああ、そうだ。先程の続きだが』 シェドが眩い閃光に顔をしかめ、目陰を差しながら辛うじて片眼を開いていると、アダムの幾分暖かな感情を帯びた声が響いてきた。 「……何の話だ?」 『お前がドラゴンと同じという話だ。結論から先に言おう』 異空間全体が真っ白に染まっていく。もはや目陰を差したところで光を遮ることは出来ず、シェドはクッと両目を強く閉じた。 『お前の両親のどちらかは、我々と同じ純血のドラゴンだ』 「な――っ!?」 純白の世界に、シェドの声が広がった。 『帰ってきますね』 イヴがそう呟いた瞬間、まるで始めからその場に居たようにシェドとアダムの姿がシールディアの瞳に映った。ランバーグの図書館にあった、パラパラ漫画なる書籍で、前ページまで描かれていなかったものが突如描かれたように、シェドとアダムの姿はこの世界に無理矢理割り込んできたように見えた。 「シェドさん、無事ですか?」 「……ああ」 シェドは全身傷だらけで、頬からも赤い血が滴り落ちていた。腕輪に埋め込まれたジェムの大半が姿を消しており、辛うじて残っていたヒールジェムで傷を癒し始める。 一方アダムと名乗ったドラゴンは、姿を消す前と全く変わったところはなく、本当にシェドと戦闘を繰り広げてきたのかと疑いたくなるくらい平然としていた。 『待たせたな、イヴ。では、彼らを竜の里へ招待するとしよう』 『そうね』 ドラゴンの二人が勝手に話を進めるのを、傷口を癒しながらシェドが憎らしげに見つめている。これだけ近くにいれば、鈍化した感覚とはいえシールディアでもシェドの思考を多少は感じ取れる。シェドの内には、怒りと畏れ、そして困惑が入り交じっていた。 「大丈夫か?」 「傷は大したことはねぇよ」 「傷のことではない」 ジッと睨むようシェドを見据えると、シェドは勘弁してくれといった顔で首を左右に振った。まだ自分でもよく整理ができていないといったように、シェドの表情から零れてくる困惑を汲んで、シールディアはそれ以上の追求を避けた。 『準備はいいか? 扉を開くぞ』 「――っ!?」 一瞬、自分という存在を忘れてしまったような不思議な感覚がシールディアの体を突き抜ける。だがそれはほんの一瞬で、ハッとした時には、シールディア達は今までいた場所は全く異なる場所に立っていた。 倒壊した遺跡や森の木々などはもう見当たらない。今目の前に広がるのは、なだらかな丘を描くどこまでも続いていそうな草原。草花は仄かに輝きを放っており、シールディア達の足下はまるで光の絨毯のように煌めいていた。 ふと空を見上げれば、見慣れた蒼い空と白い雲ではなく、サーモンピンクからピーチ色のグラデーションがこの世界の空を覆い、雲と思われるものは見当たらない。 遠目には大理石のような白い石材で出来た建築物が見える。この位置からではよくわからないが、シールディアには何故か見覚えがあるような気がした。 「ったく、またもいきなり場所が変わりやがったな」 「不思議な感覚でした。シェドさんが異空間に連れて行かれた時も、あのような感覚だったのですか?」 「ああ」 シェドとガネットが周囲をうかがいながら警戒を強めている。周囲に人影はなく、アダムとイヴの姿もなかった。 「行こう。おそらく、竜王はあの建物の中に居る」 「何でそんなことがわかるんだ?」 「私にも分からぬ。だが、何故か私はここを知っているような気がするのだ。そして、竜王があの場所に居ることを知っているような気がする」 感覚は鈍化したままで、周囲から思念は感じ取れない。だが不思議と居心地がよく、シールディアは暖かな気に包まれているような錯覚を覚える。足下で仄かに輝く優しい光のように、全身を何か心を満たす液体で包まれているような安らぎ。何とも言えない、懐かしい気持ちがこみ上げてくる。 「……あそこに竜王が居る。私が探し求めた答えが、きっとここにある」 「不安か?」 ふと遠い目で向こうに見える建造物を眺めていると、シェドが腰を折って顔をのぞき込んできた。シールディアの独り言が聞こえたのだろう。その表情はまるで娘を心配する父親のようだ。 「大丈夫だ。私はそのためにここへ来た」 「そうか。……じゃあ、行くとしよう」 シェドが歩を刻み始め、シールディアはその後をガネットと並んで進む。一歩足を踏み出すたびに草花から光が溢れ、蛍のように宙へ舞っては消えていく。 神々しいとはこのような場所を指すのかもしれない。かつて人々は白銀に輝くシールディアの本来の姿を見て、恐れおののき、神が創った造形美に畏怖の念を抱いたはずだ。それと同じように、今この場に居るだけ、ドラゴンであるシールディアですら畏れ多い気分に浸る。 神々の住まう場所。竜の里と呼ばれるこの場所は、不思議とそんな気にさせる。 「……あ」 ふいにシールディアの口から声が零れた。瞳孔が開き、かつてない驚きが渾々とわき上がってくる。 「どうした?」 「ヒトが……、いや違う、あれは、私と同じ」 草原にぽつんと佇む人影が一つ、二つ、三つ。いや、気づけばその数は両手で数えられる数を超えていた。大人の姿をした者、子供の姿をした者、男、女。様々な外見年齢をした人々、いやドラゴン達が、皆感情の薄い琥珀色の双眸でシールディア達を見つめていた。 「いつの間にこんな湧いて出やがった」 「気づきませんでしたね」 シェドが憎らしげに周囲の面々を見つめる中、一人のドラゴンがシールディア達へ歩み寄ってきた。細身で背の高い二十歳前後の女性を模したドラゴンで、髪は純白に少しだけ黄を垂らしたような淡い黄檗色だった。 『ようこそ竜の里へ。事情は聞き及んでおります』 近寄ってきたドラゴンはアダムやイヴと同じ事務的な笑みを浮かべた。だが、その笑みの中に少しだけ他の感情が入り交じっているように感じられたのは、シールディアの思い違いだろうか。 『奥でアダムとイブ、そして竜王がお待ちです。こちらへどうぞ』 そのドラゴンは道案内を買って出てくれたらしく、こちらの同意を待たずに歩を刻み始めた。シールディア達は一度顔を見合わせ、無言のままシェドが女の姿をしたドラゴンに追従し始める。 好奇の目、というよりは淡々とした感情の薄い目で他のドラゴン達が見つめる中、シールディア達は女の姿をしたドラゴンの後をついて遠目に見える白い建築物を目指す。 『私の名前はエイルです。何故、あなた方が竜王を求めていらっしゃったのか、うかがってもよろしいですか?』 歩を刻みながら、背を向けたままエイルと名乗ったドラゴンが尋ねる。そのトーンには幾ばくかの興味という音が乗っていた。 「……わざわざ尋ねなくとも、こっちの思考を読めば話は早いんじゃねぇか?」 シェドが悪態をつくのは、勝手に思考を読まれるのが面白くないからだろう。シールディアも、心を見透かされることをヒトが嫌っていることを知っているが故、極力シェドの思考を読まないようにしている。空気を伝ってくる困惑や怒りなど、感情の色だけは読み取ることがあるが、何を思っているかまでは読まない。 『私はかつて一時だけヒトと共に生きたことがあります。その時に、ヒトは心を見透かされるのを好まないとを学びました。それ以来、私はヒトの思考を読む術を封印しました』 「ほう、そんなドラゴンも居るんだな」 少し意表を突かれたような顔をするシェドに、エイルが振り返って笑みを送った。それは他のドラゴン達と異なり、まるでシールディアのようにヒトと触れあって学んだ本当の笑みのようであり、アダムやイブが浮かべていた事務的な笑顔とは一線を画しているような気がした。 『私は竜の里の生まれではありません。私は神狩りが起こる直前に神によって創られ、かつては遠地で聖石を護るために存在していました』 「……っ! そ、それは……」 『ええ。シールディアさんと同じです』 シェドからシールディアへ視線を切り替え、ヒトと見間違うくらいに感情のある笑みをエイルが浮かべた。思わず胸が高鳴り、熱い気持ちがこみ上げてくる。 「あんたもシールと一緒で古代遺跡にいたクチか。だがそんなドラゴンが何故、シールみたいに自我を持って、しかも竜の里に居るんだ?」 『竜の里に居るのは、自我を覚えると共に竜王の存在を思い出したからです。竜王ならば、自我を覚えた私を受け入れてくれると考え、ヒトの姿をしたまま竜王を捜し求めました』 「本当にシールディアさんと同じですね」 そろそろ遠目に見えていた建物の全景が見えてくる。白い石造りの荘厳な建物には、淡い光を放つ蔓草が伝っており、屋根には立派な体躯のドラゴンの彫像が悠々と佇んでいた。 『私が自我を持った理由は、もう一人、私と同じ自我を持つドラゴンの存在があったからです』 「もう一人? そいつも、あんたやシールと同じで古代遺跡で聖石を護っていたのか?」 『はい』 エイルの言葉にシールディアは驚きを隠せなかった。自分は特異な存在だと思っていた節はあるし、自分のような存在をこれまでに見たことがなかったため、エイルの言葉をすぐに事実だと思えない。 だが、もしエイルの言っていることが本当ならば、シールディアと同じような存在が他にも居るということであり── 「私と同じ……ドラゴンが居る……」 シールディアの独り言が聞こえたのか、エイルが柔らな笑みを見せた。ヒトとの交流を通して知った、感情のある笑み。エイルがそんな笑みを浮かべることができることこそが、エイルの言っていることが正しいという証拠になるのではないだろうか。 『着きました』 そう言ってエイルが立ち止まる。目の前には荘厳で立派な建造物が神々しく佇んでいた。間近で見てようやく、シールディアはそれがかつて、まだシールディアが自我というものを獲得する前に見たことがある、古代文明の頃に見られた建造物であることを思い出した。 入り口には立派な門がある。そして門の前にはアダムとイヴの姿があった。 『では私はこれで。……また後で、シールディアさんとはゆっくりお話がしたいです』 「私もだ。私も、そなたとはもっと話がしたい」 それは本心だった。似たような存在であるエイルなら、もしかしたら自我を獲得したことによる迷いや心の痛みを知っているかもしれない。ドラゴンとしての本能と、ヒトとしての感情との間で生まれる葛藤に思い悩んだことがあるかもしれない。 『ありがとうございます。では、お待ちしていますね』 そう言ってエイルが道を開けた。シェドが先頭を切ってその脇を通り過ぎ、シールディアもガネット共に続く。 門へ続く階段を上る途中、ふと振り返って見つめると、エイルは暖かな笑みで手を振っていた。シールディアも、反射的に手を振って応えていた。 『遅かったな』 門から続く廊下に足音を響かせながらアダムが話しかけてくる。シェドは鬱陶しさと苛立ちを覚えながらも、相手の意図を推し量りながら言葉を選ぶ。 「はっ。わざわざ建物から遠い場所に連れてきたくせに何言ってやがる」 『確かに。だが、ここへ来る過程で何かしら有益なことがあっただろう?』 「ふん。やっぱりわざとだったか。どうせあのエイルってドラゴンと俺達……いや、シールを会わせたかったんだろ」 『お前はなかなか聡いな』 アダムがフッと口角をつり上げる。小馬鹿にしているつもりのなのか、感心しているのか、感情の薄い表情からは判断しにくい。いや、もしかしたらそのどちらでもないかもしれない。アダムは、エイルほど人間くささを感じさせない。 『エイルはシールディアさんと同じ里の外から来たドラゴンですからね。それに、シールディアさんと同じく元は自我を持たないドラゴンでしたから』 シェドの思考を読んだようにイヴが笑う。エイルがこちらの気持ちを考慮して思考を読まずにいたのと対照的に、アダムとイヴはやりたい放題だ。いい加減、思考を読まれたことで腹を立てることすら面倒になってくる。 「シェド、顔が怖くなっているぞ」 「……この顔は生まれつきだ」 「そういう意味で言ったわけじゃないと思いますよ?」 腹を立てることすら面倒だと思いながらも、やっぱり面白くない。そんな気持ちが顔に出ていたせいか、シールディアとガネットが両側面からのぞきこむようにシェドの表情をうかがってくる。 『この先だ。この先に、お前達が探し求めた竜王が居る』 重そうな銀色の扉。その手前でアダムが立ち止まり、扉の脇に移動してこちらを見つめた。どうやらこの先にはシェド達だけで行けということらしい。 アダムとイヴが両脇に立ち、シェドは二人の視線を浴びながら乱暴に扉を開いた。本当は畏怖の念がシェドの体を支配しそうだったが、それを無理矢理抑え込み、恐る恐る開けようとした体を押してがさつに扉を開く。虚勢を張っているのが自分でもよくわかり、矮小な自分にこれほど嫌気が差したことはなかった。 扉を開くと、そこは大きな広間があった。シルクのような真っ白の絨毯が敷かれ、広さは馬を二十頭ほど放牧できそうなくらい広い。両サイドには壁が無くて外の景色がそのまま映り、この建物に入る前には目に付かなかった木々の緑と滝の青が広がっていた。いや、木々や滝など、この建物の側面にはなかったはずだ。 ドラゴンの姿のシールディアでも優々入れるであろう高い天井、部屋の壁、カーテンに床、すべてが白で統一されており、それはかつて訪れた町、スノーレンを彷彿とさせる。 シェドは立ちすくみそうな足に鞭を打って前へ進む。カツカツとシェドの足音が無音の空間に広がり、それを追ってシールディアとガネットの足音も周囲に反響した。 扉から見て真正面に、クリスタルの玉座がある。そこに人影があることを確認し、シェドは無言で歩を進めた。 「来ましたね。お待ちしておりました」 「……え?」 陶器で出来た鈴のような柔らかい音色がシェドの鼓膜を揺らし、その声色に思わずシェドは耳を疑った。目を凝らしたシェドの視線の先、玉座に腰を下ろしているのは年端のいかない少女の風貌をしたドラゴンだった。 「あなた方が用いる言語を標準としてみました。ずっと前にほんの少し使ったことがあるだけですから、変なところがあるかもしれません。もし、こちらの不手際で会話に齟齬が生じましたら、遠慮無く指摘して下さいね」 「そ、そなたが竜王なのか……?」 シェドですら我を忘れかけそうなくらい驚いたのだ。シールディアがそれ以上に驚くのは無理はないだろう。なぜなら、竜王と呼ばれたドラゴンはシールディアと瓜二つの容姿をしていたから。 身長はやや竜王の方が高いだろうが、それ以外、特に顔を構成するパーツはどれをとってもシールディアと瓜二つだった。琥珀色の瞳。磁器のように白い肌。凛とした眉。整った鼻筋。すべてがシールディアと酷似している。竜王とシールディアが異なっているのは、シェドが気づいた限り三点。 シールディアがシェド特製の白いワンピースで身を包んでいるのに対し、竜王は薄紅色のビロードドレスを身にまとっていた。指輪や腕輪などの装飾具も身につけ、髪には金色の髪飾りが光っている。 もう一点は髪の長さ。竜王もシールディアも同じ銀色の髪だが、シールディアが肩に触れるかどうかというのに対し、竜王のそれは腰まで伸びていた。 最後、決定的とも言える違いは表情だった。シェドと旅を始め、アダムやイヴとは比べものにならないほど人間らしい笑顔を浮かべられるようになったシールディアだが、竜王が浮かべている微笑はそれよりもずっと人間らしかった。 「……あら、この姿に困惑しているのね?」 「あ、う……、うむ」 シールディアが曖昧に頷く。 「うふふ。あなたの姿を見て、とても愛らしいと思って真似てしまいました。私は自分の姿を自由に作り替えることが可能ですから、時折こうして姿を変えて遊ぶんです」 「す、姿を変えて、あ、遊ぶ……?」 こんなに動揺しているシールディアを見るのは新鮮で、何故かシェドは笑いがこみ上げてくるのを感じた。いつの間にか恐怖や畏怖の念が消えていることに今更ながら気づく。 竜王という名前から、もっと威厳のある何処ぞの国王みたいな高圧的で高飛車な野郎を想像していた。おそらくシールディアもそうだったのだろう。だからこそ、そのイメージが崩れ去った今、シールディアの困惑は誰が見ても明らかだった。 「シールディアったら、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしてますね」 竜王の笑い方は実に人間くさい。しかもそれをシールディアと瓜二つの風貌でしてみせるものだから、シェドとしてもまるでシールディアが笑っているように思えて仕方ない。シールディアが完全に人間の感情を体得したら、きっとあんな風に笑うのだろうなどと考えてしまう。 「想像していた竜王とずいぶん違いますね」 ガネットも多少困惑している様子だが、AはCほど感情の起伏が顕著ではないし、その冷静沈着具合といったら、長い歳月を生きてきた狐のような老獪さがある。シェドですら、Aの落ち着いた物腰には正直敵わないと思っている節はある。 「確かに、想像していたのとは随分違うが、そんなことはこの際どうでもいい。重要なのは、その竜王が俺たちの知りたいことをすべて知っているかどうかだろ」 「はい。ここにシェドさん達が探し求めた答えがあるのかどうか。確かにそれが最重要事項ですね」 「ああ。……ほらシール。そろそろ落ち着いたか?」 シェドは口を開いたまま呆然と竜王を見つめていたシールディアに声を掛ける。シェドの呼びかけにハッとした様子のシールディアが、「すまぬ」と言いながらコクンと頷いたのを見て、シェドは竜王へと視線を送る。 「ごめんなさいね。楽しくてついついシールディアをからかってしまいました」 「そんなことはいい。一応確認するが、お前が本当に竜王と呼ばれる存在なんだな?」 「ええ、そうです。私たちの神が最初に創ったドラゴン。それが私です」 シールディアの顔で笑みを浮かべる竜王は、他のドラゴンと違ってちゃんと口の動きと言葉が合っている。耳から入ってくる声には、感情という確かな音が乗っていた。 「こっちの思考は読めるだろうし、読むまでもなくどうして俺たちがここに来たのかは知ってるだろ」 「はい。私はあなた方が知りたがっていることをすべて知っています」 嘯く素振りも見せず、竜王は穏やかな表情のままさらりとそう言った。だがそこには天上から見下ろす気配はなく、好意的であるように感じられるほど暖かな声音だった。 「聞けばすべて答えてくれる。そう解釈していいのか?」 「あなたはそのために私に会いに来たのでしょう? ならば、私はそれに応じてすべてを答えるまでです」 「何ともありがたい話だ」 シェドは焦りや動揺を覆い隠して飄々とした態度をとる。もし竜王がシールディアの姿ではなく、本来のドラゴンの姿でシェドの前に現れたのなら、今頃足が竦んでとてもではないが立っていられなかっただろう。本来は人が口を利くことすら畏れ多い、そんな畏怖がシェドの全身を縛り上げたはずだ。 気後れするわけにはいかない。探し求めた答えがここにあるとわかった以上、もう後には引けない。今さら、引く気などさらさら無い。 「何故、天使は世界の敵なんだ。まず、それを教えてくれ」 シェドは口火を切り、これから語られるであろう真実への門をゆっくりと開いた。 シェドが問いかけた後、シールディアと瓜二つの顔をした竜王がおもむろに口を開いた。その小さな口から真実が語られるのであろうと思うと、いくら冷静なガネットですら緊張が走る。 「天使が世界の敵だとされる理由は、天使が我々の神とは違う神によって創られた存在だからです」 「……違う、神?」 「はい。小出しに説明するのは逆に収拾がつかず困惑させてしまうおそれがあります。よろしければ、時間はかかりますが順を追って最初から説明してもよろしいですか?」 竜王が首を少しもたげながらシェドの目を見て尋ねる。ガネットとシールディアが習ってシェドを見つめると、シェドは挑むような目つきで竜王を見据えたまま、「頼む」と言った。 「この世界は二つの神によって創られました。二つの神は二つの大陸、二つの種族をそれぞれ創り、それぞれの大陸に創世した種族を住まわせることにしたのです」 「それは、まさか人と魔物のことか? 古代都市ラーミアの遺跡で見た壁画のように」 「いいえ違います。おそらくあなたが見たのは世界創世紀よりももっと後に描かれたものでしょう。最初に二つの神が創った種族は、男と女です」 シェドが困惑を絵に描いたような表情を浮かべる。ガネットも、表情には出さないものの内心はかなり困惑していた。 「二つの神は自分たちの姿を模した二つの種を創り、それぞれの大陸に住まわせました。創世紀、人々は男女別々の種族だったわけです。しかし人は異性と出会い、共生するようになりました」 「まるで聖マリア教の聖書に書かれていそうな話だな」 シェドが茶々を入れると、真剣に聞き入っている様子のシールディアが渋い顔でシェドを睨め付けた。シェドは引きつった顔を浮かべて白い歯を見せる。 「しかし一つの神、女を創った神はそれをよしとしませんでした。自分を模して創った美しい女が、もう一つの神が創った穢らわしい男と共に居るのを不快に思ったからです」 竜王は少し表情を曇らせる。まるで実際にその光景を目の当たりにしており、それを喚起させてしまったかのように。 「女を創った神の怒りは男を創った神ではなく、あなた方ヒトへ向けられました。自分の意図通りに生きないヒトなど要らない。女を創った神はそう思ったのです。そして女を創った神はあなた方が魔物と呼ぶ醜悪で残虐な存在を創りました。男と交わった女などもはや自分が創った存在ではなく、ただの穢らわしいヒトだと決めつけ、自我を持たない魔物にヒトを殺し尽くすよう本能に刻み込んだのです」 「……それが本当ならひでぇ話だな。まるで親が、自分の思い通りに育たなかった子供を殺すようなもんじゃねぇか」 「まさにその通りです。女を創った神は、自分が創った存在が意図した通りにいかなかったことに激昂し、すべてを壊して無に帰してしまおうと思ったのです。しかし我々の神はそれをよしとしませんでした。ヒトを魔物の手から護るために、私達ドラゴンを創りだしたのです」 シールディアを鏡に映したような顔で、竜王が儚く微笑む。その寂しげな笑みの理由が分からず、ガネットは眉をひそめた。 「ドラゴンと交わり、魔力を得たヒトは魔物を圧倒するほどの力を得ました。そしてヒトは獲得した魔法をもってして栄華を極めたのです」 「古代文明……か」 「はい。しかし当然、もう一つの神はそれをよしとしませんでした。そして魔力を持ったヒトと、それを護るドラゴンに対抗するためにもう一つの神が創った存在。それが……」 「天使……なのか」 シールディアが認めたくない事実を確認するように小さく尋ねる。竜王は悲しげに微笑みながら頷いた。それを見て、シールディアの表情に一層の悲しみが浮かんだ。 無言のまま、ポンとシェドがシールディアの頭に手を乗せる。視線は竜王に向けたまま、険しい表情でシールディアの髪を撫でるシェドに、竜王がそっと笑む。 「もう一つの神が創った天使は全部で十二体。天使は魔物と同じく自我を持たず、無差別にヒトを殺し、ドラゴンと敵対しました。神と神、ドラゴンと天使、ヒトと魔物の戦いは何百年も続きました」 竜王が話を再開する。シェドはシールディアの髪を撫でながら聞き入り、シールディアもシェドの手を払わずに竜王を見つめていた。 「永遠に続くかと思われた戦の結末はあっけなく訪れます。我々の神が、自らの命を賭けて神を抑制する魔法、ラグナロクを発動させたからです」 「出たな、ラグナロク。何度シールの口から聞いたことか。つまり、ラグナロクっつーのは俺たちを創った神が、天使を創った神をなんかするための魔法だってわけか?」 「そうです。神を抑制する。言葉通り、もう一つの神の行動を一切封じ、完全に自由を奪ったのです。その代償として、我々の神はその力を殆どすべて失うことになります」 ガネットは一切口を挟まず竜王の言葉と、時折言葉を挟むシェドの声を聞いている。もし表に出ているのがAではなくCだったら、今頃間違いなく寝入っているだろう。 「天使との激戦で、多くのドラゴンが倒れました。ですがそれは天使も同じで、私たちはラグナロクが発動している間にすべての天使を討ち滅ぼし、そしてもう一つの神を倒しました」 「もしかしてそれが神狩りなのか?」 「……いいえ、違います。神狩りで倒されたのはもう一つの神ではなく、我々の神です」 「んなっ! ど、どういうことだよ」 シェドが問いただした瞬間、ほんの一瞬だけ、竜王が憎むような目でシェドとガネットを見つめた。時間にして僅かな間だというのに、たったそれだけでガネットの背筋に冷たい汗が滲む。 「もう一つの神が倒れ、天使達がすべて滅び、まだ魔物がすべて消えたわけではありませんでしたが、世界にはほぼ平和と言っても差し支えないほどの平穏が訪れました。その時に、あなた達ヒトは、もう二度とこのようなことが起きないようにと、我々の神を殺したのです」 「それは、どうしてですか?」 「先ほどと同じです。いつ気が変わって殺されるかわからない。そんな神の玩具でいることをヒトは嫌ったのです。自分たちを手のひらで転がし、気が変わったら殺す。そんな存在を恐れたのです」 それでは子供が親を殺すようなものなのではないか。ガネットはそう思ってすぐ、竜王が先ほど浮かべた表情を思い出して俯く。もしかしたら、竜王にとってヒトは自分達の親を殺した憎むべき存在なのかも知れないと。 「そんなことはありませんよ、ガネットさん」 「え……?」 「すいません、あまりに強く懺悔の念が感じられたので思考を読んでしまいました。あなたの思った通り、私にとって神は親のような存在であったのかもしれません。ですが、私たちドラゴンにはあなた方ほどの豊かな感情はありませんでした。神がヒトを護るために創った存在。それは、親が子供を護るために買ってきた番犬のような存在だったのかもしれません。……おそらく、神はあなた方ヒトのことを子供のように思っていたとしても、私たちドラゴンのことはそう思っていなかったでしょう」 竜王がシールディアの顔で悲しげに微笑むので、一層ガネットの中にある心苦しさは強くなるばかりだった。そんなガネットの心情を察したのか、「この姿は失敗でしたね」と竜王が舌を出しながら元気なく言った。 「話が逸れました。大戦の後、ヒトはラグナロクを発動させて弱っていた神を殺し、この世界から二つの神が共に消えました。さて問題です。この後、何が起こったか知っていますか?」 敢えて明るく振る舞おうとしているのか、竜王が声を弾ませた。気が遠くなるような時を生きてきた老獪さなど微塵も感じさせず、シールディアの姿をした竜王から伝わってくる空気はまるで少女のように儚げで柔らかい。 「神狩りの後に起こったことと言えば、どの古文書にも黒い影が世界を覆ったくらいしか書いてなかったと思うが?」 「そうです。正解ですが、特に景品は用意していません」 「……シール、お前はもっと竜王を見習った方がいい。その容姿なら、あれくらい茶目っ気があってもおかしくないぞ」 「う、うむ。竜王がそうならば、きっとそれが正しいのだろう。これからはもう少し茶目っ気とやらを学習するとしよう」 冗談で言っているシェドと、それを冗談ではなく真剣に受け取っているシールディアのやりとりを聞きながら、ガネットは人知れずため息を漏らす。 「黒い影は、もう一つの神の残留思念と言えば差し支えないでしょう」 「残留思念?」 「はい。もう一つの神は完全には滅んでいません。その力を無数の粒子に粉砕されただけと言った方がわかりやすいでしょうか。その粒子が黒い影の正体です」 「んなっ! ちょ、ちょっと待て! じゃあ俺たちヒトを憎んでいるっていうもう一つの神はまだ生きていやがるのか?」 シェドの焦りももっともだ。もしもう一つの神が生きているのなら、自分たちの神を失ったヒトはそれに太刀打ちできるのであろうか。 「封印されているとでも言った方が近いかもしれません。もし黒い影の正体である残留思念の粒子がすべて集った時、もう一つの神が復活する可能性はあります」 「そんな……」 「そしてもう一つの神が復活するために必要なもの。それが、天使と玉座なのです」 「……っ……」 シールディアの声にならない声がガネットの鼓膜を揺らす。いつの間にかシールディアはシェドの袖口をギュッと握っており、今の言葉を聞いてさらにその手に力が籠もったように見えた。 「かつて大戦の折に私たちは天使を打ち倒しました。しかし完全に滅することはできず、聖石と呼ばれる石の内にその力を抑えこむことで精一杯でした。もし聖石をその身に宿す天使がすべて復活し、玉座と共にヴァルハラの丘に集った時、もう一つの神は復活を遂げるでしょう」 「そ、そんな……。じゃあ天使が十二体揃うと世界が滅ぶっていうのは、その圧倒的な力のことじゃなくて……」 「はい。天使が世界の敵だというのは、天使がもう一つの神を復活させるための鍵だからです。そしてもう一つの神が復活してしまったら、世界は崩壊を免れません」 シェドが唇を噛みしめ、拳を強く握った。何かに対する怒りに打ち震えている様子のシェドを横目でうかがいながら、ガネットは努めて冷静に口を開いた。 「その天使から聖石を取り除く術はあるのでしょうか?」 その言葉に、ハッとしたようにシェドとシールディアが竜王を見つめる。その答えを探してはるばるこの場所までやってきたのだ。シェドもシールディアも、そしてガネットも。 天使が本当に世界の敵なのかということが重要なのではない。本当に知りたいのは、聖石に適合してしまった無垢なる少女から聖石を取り外すことができるのか。 だが── 「残念ながら、適合者を殺す以外に取り除く術はありません」 竜王の口から出たのは、あまりに残酷で無慈悲な答えだった。 竜王との話は後味の悪いまま終わり、シールディアは竜王の間と呼ばれる白い建物を後にした。シェドはアダムに呼び止められ、ガネットは一人で竜王の話を整理したいからと言ってどこかへ行ってしまった。 一人で光る草原を歩いていると、向こうから竜の里に来てから出会ったエイルの姿が見えた。どうやら竜王との話が終わるまで、ここで待っていてくれたらしい。 黄檗色の短めの髪を揺らし、ヒトに近い感情を表に出すエイルには聞きたいことが沢山あった。 『立ち話もなんですし、私の住処へご案内しますね』 エイルがそう言ってシールディアの手を取り、シールディアがきょとんと呆けた瞬間に周囲の景色がガラッと変わった。先程と同じ、一瞬だけ自分という存在を忘れてしまいそうになる感覚が奔ったため、おそらくは竜の里に踏み入る時と同じ空間転移か何かだろう。 『ここは私の固有空間です。本来固有空間を持つことができなかった私は、竜王に空間を生成する力を与えてもらいました。他のドラゴンは味気ない固有空間で寝食を行っているようですが、私はかつてヒトと共に生活をしたことがあるせいか、このような有様です』 エイルがこのような有様と称したのは、小さな街へ赴けばごく当たり前に見られる煉瓦造りの家が草原の丘の上にぽつんと立っていることだった。 見渡す限り背の低い草花が繁茂する緑色をベースに黄色や赤が混じった絨毯。そして遙か遠方には白い尾根を持つ高い山脈が輪郭をかたどり、空は青くてウールのような雲が泳いでいた。言ってみれば、どこでもありそうな長閑な草原の上に、一軒の家が寂しく佇んでいる。 『私が住んでいた地方では玄関で下履きを脱ぐ習慣があります。お手数ですが、よろしくおねがいしますね』 「わかった。私も、以前立ち寄ったデオラガーンと呼ばれる中立都市で上履きという概念を知った。作法は把握しているつもりだ」 クスリとエイルが微笑んで、木製の扉をキィと開いた。玄関だけ敷石が詰められており、そこで下履きを脱いで木製の靴箱へ収めてエイルから革のスリッパを受け取る。 木目が美しい床を、スリッパでペタペタと音を鳴らしながら進み、シールディアは案内されるがまま、リビングと思われる一室へ通された。 内装や家具に至るまで、すべてにおいてヒトの住居と相違なかった。曇り硝子をシルクのカーテンが覆い、木のテーブルの上には果物が入ったバスケットと薔薇のブーケがアクセントとして置かれている。火は灯ってないものの立派な暖炉もあり、その前にあるリクライニングチェアで編み物をしているエイルの様が何故か脳裏をよぎった。 『何かお飲み物を淹れますね。シールディアさんは、コーヒーよりも蜂蜜入りの紅茶の方がお好きですか?』 「うむ。シェドに薦められて一度だけコーヒーを飲んだことがあるが、私には苦くてすべて飲むことはできなかった」 『うふふ、では紅茶にしますね。椅子に腰掛けて少し待っていて下さい』 エイルはそう言って奥のキッチンへ歩み寄り、手慣れた手つきで窯に火を灯した。フレアジェムを使った気配はなかったが、道具を用いた様子もなかったので、おそらくは魔法を使ったのだろう。 キッチンにある裏口からエイルが外へ出て、しばらくして瓶に入った水を持って現れる。瓶の水を鉄のやかんへ移し、それを窯にかけて今度は棚から紅茶の葉を取り出す。 エイルの行動を傍観しながら、シールディアは逐次それがヒトの行動そっくりだと感じていた。かれこれ二年という歳月をシェドと共に過ごしてきたシールディアですら、まだあそこまでヒトの行動は板に付いていない。きっとエイルがヒトと共に過ごした時間というのは、シールディアよりもよほど長かったのだろう。 テーブルの上に湯気の上がる紅茶を含んだ陶器のカップが置かれ、陶器の皿とぶつかって小気味よい音が木霊した。エイルは盆をキッチンへ戻してから、シールディアと向かい合うように椅子へ腰掛ける。 『……竜王とのお話は、あまり楽しいものではなかったようですね』 エイルがそう切り出し、シールディアは最初思考を読まれたのかと思ったが、すぐにエイルが思考を読むことをしないと考え直し、自分の頬に手を添えた。 「そんなに露骨に表情に出ていたか? 私は、自分で言うのも何だが、まだまだヒトとしての表情は薄い部分があると自覚している」 『確かにそうかもしれませんが、それでも、シールディアさんの表情は普通のドラゴン、この場合は竜の里に住まう自我を持ったドラゴンを指しますが、そんなドラゴン達に比べたらシールディアさんの笑顔はとても人間らしくて温かなものだと感じます』 「その言葉は素直に嬉しい。だが、私はそなたの方がより人間らしい感情豊かな表情を浮かべていると感じる」 『私がヒトと共に生活していたのは十年以上ですからね。年期が違うだけですよ』 楽しそうに笑うエイルにつられ、シールディアもはにかむように頬を緩めた。互いにドラゴンであることなど忘れてしまいそうなくらい、エイルの表情は人間らしく、シールディアもまた、ヒトとして話しているような気持ちになる。 『たぶん、シールディアさんが私に聞きたいことは沢山あると思います。私も人生の先輩として――ふふ、面白い表現ですね。ドラゴンなのに人生なんて』 本来なら竜生とでも言うべきなのかと、シールディアも思わず笑ってしまう。 『あまり参考になる話はできないかもしれませんが、より長い時間をヒトと過ごした身として、出来る限り何でもお答えします。遠慮無く尋ねて下さい』 「感謝する。ではまず、そなたは私と同じく聖石を護りしドラゴンだったはず。それが何故、自我を持ち、そして竜の里へ住むことになったのか教えてくれぬか?」 竜の里に着いた時は焦りにも似た動悸がシールディアを包んでいた。だが今は少し違う。先に竜王の話を聞いたせいか、悪く言えば諦めてしまっている部分があるのかもしれない。だから、今のシールディアはとても冷静で落ち着いていた。 『はい。今から約二十年前、私は大陸中央部にある古代遺跡で聖石の守護に当たっていました。しかしある時、ヒトの軍勢が遺跡に押し寄せ、私は聖石を護ることが出来ずに重傷を負いました。ヒトであったから手出しが出来ないというのもありましたが、それを除いても、遺跡へ攻め込んできたヒトの中にはドラゴンに匹敵するくらい強い力を持った者がいました』 「……おそらくニーヴルと呼ばれる組織の者だろう」 『私も後々になってその組織の名を知りました』 ニーヴルがいつ聖石と天使のことを知ったのかわからない。二十年前に聖石を奪いに来た連中が本当にニーヴルだという証拠はないのだが、それ以外の解答など思いつかない。 『ヒトに敗れて重傷を負った私を助けてくれたのは、一人の青年と二人の少女、そして一人の赤子でした。青年はドラゴンの姿のまま倒れている私にヒールジェムで手当てを施し、それだけでは効果が薄いと判断して薬草を煎じて塗り薬を調合し、それを私の全身に塗ってくれました』 シールディアの脳裏に、かつて傷を負った自分の手当てに来てくれたシェドのことが浮かぶ。シールディアの場合は傷つけたのも傷を癒したのも共にシェドであるため、若干エイルとは境遇が異なるが、それでも同じようなと括ってしまえるようなものだと思う。 『赤子は青年の息子でした。そして青年の傍らに居た二人の少女。一人は普通のヒトの子で、もう一人が、私と同じドラゴンだったのです』 「ではそれが、そなたが自我に芽生えるきっかけとなった存在なのか」 『はい。彼女もまた、私と同じ聖石を護るドラゴンでした。そしてヒトに聖石を奪われた後、青年と出会って自我が芽生え、共に行動するようになったと聞きました。私の自我が産声を上げたのは、そんな彼女に出会った瞬間でした』 その感覚は何となくシールディアもわかった。一体自我とは、自分とはいつどこで生まれたのか。漠然とした答えなら用意できる。それはシェドに出会ったから。だがそれなら、自我が芽生えるまでの自分は何だったのか。一体、自我とは何なのかという疑問が残る。 『私は青年について行くことにしました。青年は考古学を専門とする学者で、遺跡巡りをしては本を執筆し、街の学問所へ売り込みに行っていました。およそ五年の間、私は彼らと共に世界中を旅して回ったのです』 「五年か。私はまだその半分にも満たない」 『ふふ、そうですね。……そして私と青年が出会ってから五年経った時、私達は小さな町に定住することを決めました。青年、いえ、その頃にはもう立派な男性でしたね。彼の息子が六歳になるのをきっかけに町で生活することにしたのです。町の人間からは、若い女を三人も託った男が居ると吹聴されたものです』 苦笑いをするエイルに、シールディアも笑いながら眉根を寄せて応じる。 『しかし、ここで一つ、大きな問題が生じてしまいました。何だかわかりますか?』 「……? いや、想像もつかぬ」 『実は、私が彼のことを好きになってしまったんです』 「なっ……」 その言葉を聞いたときのシールディアといったら、それはもう鳩が豆鉄砲を食ったどころの騒ぎではなかっただろう。それくらい、エイルの言葉には破壊力があった。 ドラゴンがヒトに恋をした。セシリーの言っていた、好き以上の好きという感情を、ドラゴンがヒトに抱いたというのだ。 『横恋慕とヒトは言うのでしょうね。私の彼に対する想いは募るばかりでした。ですが私にはどうしても彼を好きになれない事情がありました。彼は妻子持ちですから』 舌を出しておどけて見せるのは、よくヒトが使う照れ隠しに似ていた。あれも、エイルが長年ヒトと接してきて体得したスキルなのかもしれない。 『私はそれ以上彼と居られないと思い、竜の里を目指して旅に出ました。彼と二人の女、六歳になる彼の息子に見送られて、私はその町を後にしたのです』 「そして今に至るのか」 『はい。ですが、この間にもう一つだけエピソードがあります。それは私にとってとても辛く、悲しい出来事でした。あの時の気持ちを思い出すだけで、今でも胸が締まる思いに駆られます』 そっと両手で胸を包むように抱くエイルを見て、シールディアには今のエイルがヒト以外の何物にも見えないと感じる。今の表情は、ヒトが愛しい故人を想うそれだった。 『私が彼らの元を去って五年後、風の便りで彼と共に居たドラゴンが死んだことを知りました。彼女は息子を救うために、その命を代償にしたと聞きました』 「命を代償にして息子を救う? いや待て、その息子というのはそなたを助けた青年の息子であろう? 何故、そのドラゴンは青年の息子を救うために命をなげうったのだ?」 『当然のことです。なぜなら、その息子は青年とそのドラゴンの間に生まれた子供なのですから』 今度こそ、シールディアは鳩が豆鉄砲を食ったようどこではなく、ドラゴンが魔弾を食ったような顔で目を瞬かせた。 後悔しているかと聞かれたら、一抹もしていないと答えられる自信はない。 シェドは竜王の間から出てすぐにアダムに呼び止められ、何か話があるというアダムに追従しながらそう思っていた。 正直、神が二つ存在しただとか、何で神狩りが起こったのだとか、結局ラグナロクは何だったのかということはどうでもよかった。もっと言えば、天使が世界の敵だということすらどうでもよかった。 だが、一つだけ、どうでもよくなかったことがある。それが、聖石に適合してしまった人間から、その者の命を奪うことなく聖石を取り除く術だ。 シェドはその術を探し求め、そのためだけに護りたいと本心では想っていた少女と別れてまで旅を続けていたのだ。口では誤魔化すための言い訳ばかりをこぼしていたが、その根底には無垢な少女に対する言葉では言い表せないほどの感情があった。 しかし、希望を求めてやってきたシェドの思いはあっけなく砕かれてしまった。かつて古代都市ラーミアの遺跡で出会ったばかりのシールディアが言った、曖昧で不明瞭な答えではない。竜王が紡いだ言葉は、そこに微塵も希望を挟む余地のない、断言だった。 “適合者を殺す以外に取り除く術はない” それが答えで、シェドはその答えを受け入れなければならない。 『先程からお前の思考には同じパターンが何度も繰り返し現れている』 光る草原を歩いていると、前を進むアダムがシェドに背を向けたままそう呟いた。どうせまた思考を読んだのだろう。 「ふん。……で、一体何の話だ?」 『――なるほど、お前は生き甲斐とやらを求めて旅を続けていたのか』 アダムがこちらを振り返り、感情の薄い表情でほんの少し口角をつり上げた。不敵に笑ってるつもりなのかわからないが、アダムが浮かべている笑みはどちらかと言えば面白くない冗談を言った人間へ送る冷笑だ。 ただ思考を読まれるだけなら幾分免疫が出来て腹も立たなくなってきたが、生きがいを探しているなどという根底部分まで読まれると、少々カチンとくる。だが、シェドはそれを辛うじて抑え込み、アダムを睨め付ける視線に怒りを込めた。 『ヒトは感情がある。だからこそ、お前は本来の力をすべて活かすことができず、ジェムなどという古代人の置き土産に頼る羽目になるのだ』 「……はっ。感情があるから全力が出せないってか? 何処ぞの戦闘狂が言っていたセリフを思い出すな」 『そうではない。確かに感情はヒトの力を抑制し、戦闘能力を低下させる場合があるのだろう。だが逆もある。確立した感情をもつヒトは、本来の力以上の力を発揮することができる。そう、例えば生き甲斐とかな』 「今度は何処ぞの正義の味方みたいなセリフだな」 シェドの軽口にアダムはまったく動じない。それどころか、まるで反抗期の子供を暖かい目で見守るような眼差しを送ってくる。それが無性に腹立たしかったが、ここで怒りに身を任せればますますみっともない。 『シェド=ガンブレイブよ』 「フルネームで呼ぶな」 『時間があるのなら、しばしこの竜の里に留まって私の稽古を受けぬか?』 一瞬、アダムが何を言っているのかわからず、シェドは怪訝な顔つきでアダムを見つめた。そして脳裏でアダムの言葉を反芻し、一層眉根を寄せる。 「そんなことをしてお前に何の得がある?」 『ドラゴンは損得では動かぬ。強いて言うなれば、私はお前の能力に興味を抱いた。だから、お前の力を磨き上げ、その真価を目の当たりにしたい。おそらく、お前は私達と同じ力が使えるはずだ』 ドラゴンと同じ力。それはアダムが用いていた無属性の剣のような力なのか。もしそうだとしたら、それはシェドにとってとてつもない力となる。そしてドラゴンに匹敵しうる力があれば、その力を持ってしてあらゆる敵から無垢なる少女を護ることができるかもしれない。 竜王の話を聞いてしまった後悔がすっと引いていき、ゆっくりと希望が息を吹き返す。 「……俺は強くなれるか? たった一人の少女を護れるくらい、俺は強くなれるのか?」 尋ねる、いや、懇願するようにシェドはアダムを見た。無様にすがる自分を情けなく思う反面、それでも今より強くなれるのならプライドなど捨ててしまってもいいと思う自分が居る。 アダムはシェドの思考を読んだのか、小馬鹿にするような憎らしい笑みを浮かべた。そして―― 『お前次第だ』 シェドの背中を強く押した。 * * * 「ここがアリアちゃんの故郷なんだね」 「うん」 アリアにとって一番最初の友達である辺境の街トラキアの少女、フィオナがジペインの町並みを見つめながら言った。ジペインの町はトルメキア王国の王都カラトスから馬を走らせれば三日で着くという距離にありながら、農作物以外にさしたる特産品もなく、近場に古代都市の遺跡もないことからトルメキアの監視は緩い。 何処までも続いていそうな草原に砂利道が走り、その脇にぽつぽつと小さな家が建っている。見渡す限りの田んぼと畑。丘の上には牧場もある長閑な町で、アリアは魔練器が乏しいという不便さなど気にならないほど、ジペインの穏やかな時の流れが好きだった。 「私の住んでるトラキアも随分田舎の小さな町だけど、ここはそれ以上ね」 フィオナが二年前と変わらぬ金糸を風に靡かせながら微笑む。トラキアは田舎とはいえ魔練器がぽつぽつとあり、人口もジペインの十倍以上だ。比較に値しないだろう。 「あそこが私の家」 「ええ、知ってるよ。町の人にアリアちゃんの家を聞いて教えて貰ったから。その上、実はもうアリアちゃんのお母さんにはお会いしたんだ」 「そうなの?」 「うん。アリアちゃんのお友達のフィオナです。アリアちゃんは居ますかって聞いたら、向こうの草原で馬に乗ってますって教えてくれたの」 フィオナの手に旅路の荷物がないと思ったが、もしたしたらすでにアリアの家の中に鎮座しているのかもしれない。トラキアからジペインまでの旅路といえば相当なものなので、当然荷物も多くなる。それを持ったままでは移動も制限されてしまうだろう。 アリアはフィオナの手を引いて家の扉を開いた。フィオナが「お邪魔します」と言いながら家へ上がり、二人は居間へ移動する。 「あらレイチェル、お帰り。それにフィオナさんでしたね」 「ただいま、お母さん」 居間へ移ると、そこではアリアの母、ミハルが朝食で使用した食器を水洗いしてから乾いたふきんで拭っていた。エプロンをつけたまま笑顔を見せるミハルに、フィオナが腰を折って会釈する。 しかし、笑顔でミハルに会釈したフィオナだが、顔を持ち上げた瞬間にまるでとんでもない忘れ物をした学生のように目をまん丸と見開いた。アリアの通うジペインの学校にも、忘れ物をしてあんな顔をする友達がいる。 「お帰りアリア。それに……、あら、あなたは……」 「セシリーも来てたんだ」 居間にあるテーブルの椅子に腰を下ろして悠々と紅茶を楽しんでいるのは、腰まで伸びた長い蒼髪を垂らすセシリーだった。今日みたいに学校のない日はしばしば離れから母屋であるこの家に来て、こうしてミハルと談笑している。アリアも、その輪に加わって同じ時を過ごすことは多い。 「あ、あなたは!」 アリアとセシリーが互いに穏やかな表情を送りながら見つめ合っていると、どういうわけかフィオナが怯えたような、憤っているような表情でセシリーを見つめていた。 「こんにちは。あの時はごめんなさいね。あなたのお店の壁を壊してしまって」 「やっぱり! あなたはあの時シェドさんに襲いかかった人じゃないですか! そ、その人が何でアリアちゃんと一緒に暮らしているんですか!」 フィオナがアリアをかばうようにアリアの前に立ってセシリーを睨め付ける。どうやらフィオナはセシリーのことを敵だと思っているようだが、もうそれはずっと過去の話だ。 突然フィオナが声を張り上げてアリアをかばおうとしたことに少し驚いたが、それ以上に、不意に出たあの名前に反応してしまったことがアリアの心をチクッと刺した。 「フィオナ、大丈夫。セシリーは私の大切な仲間。フィオナと別れた後、ずっと一緒に居てくれて、色んなことを教えてくれた。フィオナがさっき私に言ってくれた、いい表情が出来るようになったって言葉、あれはセシリーのお陰」 「あらあら、そこまで言われるとさすがに照れるわ」 本当に照れたのか、セシリーは少々ばつの悪そうな笑みで髪を掻き上げた。フィオナは呆気にとられたような顔でアリアとセシリーを見つめている。 「でもフィオナさんから見れば、私はお店の壁の壊した挙げ句、次の日の朝食を平然とした顔していただいて、しかも何の弁償も代金の支払いもなく飛び出した、壊し逃げ、食い逃げの悪女でしょうね」 「そういえばそうよ! あの後すっごく大変だったんだからね! あの壁を直すためにお父さんの遺産を全部使っちゃったんだから!」 クスクスと肩を震わせるセシリーに、フィオナが警戒を緩めて今度は批難の目を浴びせる。セシリーのことを敵ではないと認めてくれたようだが、どうも煮え切らない部分はあるらしい。 アリアはフィオナと共にセシリーと向かい合うように椅子に腰掛ける。ミハルが蜂蜜入りの紅茶を淹れてくれたので、フィオナと一緒に笑顔を返した。 「そうだ。アリアちゃん、実は先に会ったときにお母さんからアリアちゃんの本名を聞いたんだけど、その、どうもレイチェルちゃんって呼ぶと違和感があるんだ。だから、もし嫌じゃなかったら、今のままアリアちゃんって呼びたいんだけど、いい?」 「うん。フィオナと友達になったのはレイチェルじゃなくてアリアだから、フィオナにはアリアって呼んで欲しい」 フィオナと別れてから二年の間に体得した笑顔を見せると、フィオナはにっこりと笑って頷いてくれた。 「そう言えば……」 ふと、フィオナが何かを探すような素振りを見せて周囲をぐるぐるとうかがった。アリアが首を傾げて見つめていると、フィオナは不思議そうな顔でアリアを見つめてくる。 「シェドさんの姿が見えないけど? どこか出掛けているの?」 「……っ……」 フィオナの言葉に思わず肩が震え、アリアは俯いて下唇を噛みしめた。ずっと心の外に追いやっていた名前を聞くと、何でそれを思い出させたのかという黒い感情が浮かぶ。けれどフィオナは別にアリアを苦しめるために聞いたわけではない。それはわかっているのだけれど、でも、やはりその名前は出して欲しくなかった。 「私は両親が見つかったから旅を止めた。でも、シェドはまだ自分の生きがいを見つけてない。だから旅を続けた」 それだけ答えるのが精一杯だった。ふと上目遣いにセシリーを見つめれば、セシリーは困ったような笑みでアリアを見つめていた。アリアの内心に気づいているセシリーは、この一年間一度もアリアの前でその名前を口にしなかった。 「そう……なんだ」 フィオナが申し訳なさそうに眉根を寄せる。悪いのはその名前に過剰な反応を示したアリアなのに、フィオナはまるでそれが自分のせいであるような表情を浮かべている。それが申し訳なくて悲しいのに、アリアの口からは何も言葉が出なかった。 重たい沈黙が広がり、アリアは口をつぐんだまま、セシリーは事の推移を黙って見守り、フィオナは言葉を探しているように目を伏せている。 「キューッ!」 突然、その重たい空気を払拭するかのように声を張り上げたのはヒューイだった。まるで重い空気反対とでも抗議しているように、普段は垂れている耳をピンと立ててアリアの頭に飛び乗った。 「……ありがとう」 「キューッ!」 「うふふ。ヒューイはまるでアリアちゃんを影ながら支えるナイトね」 以前、アリアが大切にしていた髪飾りを烏に取られてしまったとき、ヒューイがそれを取り返してくれたことが脳裏をよぎり、思わずナイトと称したフィオナの言葉に頬が緩む。 「さてと、お邪魔虫は退散するとしますか」 「セシリー?」 「今日はお友達と水入らずで過ごしなさい。私は離れでゆっくりするわ」 セシリーがフィオナに流し目を送り、フィオナはジッと睨むようにセシリーを見つめ返していた。 そのまま何も言わずにセシリーが居間を去り、いつの間にかミハルの姿も居間から消えていた。どうやらアリア達に気を遣ってくれたらしい。 「二人っきりになっちゃったね」 「キューッ!」 「ああ、ごめんなさい。そう言えばヒューイはまだ居たのね」 わざとからかっているような素振りを見せながらフィオナがくすくすと笑う。アリアの頭の上でしばらくヒューイが唸っていた。 結局、その日一日ずっとフィオナと一緒に同じ時間を過ごし、アリアは友人と過ごす時間の愛おしさを実感した。 ただ、アリアの口からもフィオナの口からも、もうあの名前が零れ出ることはなかった。 かつてセシリーがニーヴルの追っ手としてアリアとシェドに襲いかかった、その時に巻き込んで壊してしまった店の看板娘であるフィオナという少女が、アリアに会うためにジペインを訪れて早一週間。 フィオナはほぼ一時も離れずアリアと一緒に居て、それは学校のある日も同じだった。セシリーが担当する授業中も、幼い子供達に混じってアリアの席の隣に座るフィオナは、てんでセシリーの話を聞く素振りを見せずにアリアの様子を伺っている。そしてアリアが何か問題に詰まった様子を見せればすぐに横から手やら口やらを出している。 あとでアリアに聞いたところ、放課後には他の子供達にもアリア同様、勉強の面倒をみてやっているらしい。 「ん……?」 非番の日の朝。セシリーは顔を洗ってタオルで水を拭いながら、ふと自分の顔をジッと見つめて違和感を感じた。いや、別に顔に何か付いているというわけではなく、もちろん急に老け込んで皺が増えてしまったというわけでもない。これでも、まだまだ十代だと言っても通用すると自負しているくらいには肌の張りに自信がある。 別に太ったというわけでもない。病気にかかったのとも違う。でも、何とも言えない違和感が体全体を支配しているような気がしてならない。 「……もしかして」 ふと一つ、思い当たる節があった。そう言えばもうかれこれ二ヶ月遅れている。 そっと腹部に視線を落とし、セシリーは目を瞬かせる。もしそうなら、それは一大事だ。セシリー一人の問題ではなくなってしまう。 「どうしましたセシリーさん?」 「あ、ううん。何でもないわ」 いつまで経っても流しから帰ってこなかったからだろう。居間の方からシルヴァランスがひょっこりを顔を出してセシリーの様子をうかがってくる。セシリーは曖昧に笑いながらシルヴァランスの言葉を流し、髪を紐で縛ってから居間へ戻る。 何故か、見慣れたはずのシルヴァランスの顔を見ていると頬が上気する。もうかれこれ一年以上同じ屋根の下で寝食を共にしているというのに、まるでつきあい始めたばかりの相手を目の当たりにしているような気持ちだった。 まだ確信はない。けれど、決して可能性は低くないと感じている。 「ねえ、シルヴァランス」 「はい?」 居間で朝食を摂りながら、セシリーはそっと上目遣いに向かいに座るシルヴァランスを見つめた。呼びかけに答えたシルヴァランスは、「どうしました?」と言いたげに首を傾げている。 「えっとね、えーっと……」 何故か歯切れが悪い。もし本当ならとても嬉しいことだ。けど、まだ確信を持てない今は、嬉しい気持ちと気恥ずかしい気持ちが混在している。 でも、目の前の人物は極度の鈍感男だ。同じ時を共有してきたセシリーにはわかる。ハッキリと言葉にしない限り、シルヴァランスはセシリーの言いたいことに気づいてくれないだろう。 「来ないの。もう、二ヶ月も」 「は……い?」 「生理がね。もう二ヶ月遅れているの。……この意味分かる?」 さすがにこれだけ言えばシルヴァランスとて理解できたのだろう。見てるこちらが恥ずかしくなるくらい、みるみるシルヴァランスの顔が真っ赤に染まっていく。 「あ、その、それは単に体調不良とかで遅れているわけでは……、ないのですね?」 セシリーが「たぶん」と言いながら頷くと、シルヴァランスが頬を赤く染めたまま目を丸々と見開いて、オロオロと取り乱し始める。 「え、えっと。じゃあ、その、えっと。ぼ、僕は何をすれば……」 「しっかりしなさい」 「うっ……。は、はい」 あまりに挙動不審となったシルヴァランスに、思わずセシリーは怒るように声を掛けた。しょんぼりとするシルヴァランスを見てセシリーは肩を震わせつつ、それでも、心の内では動揺したり喜んでくれたりするシルヴァランスを愛おしく思っていた。 「でもまだ本当にどうかはわからないわ」 「そ、そうですね。オロオロする前に、まずは真偽を確かめなければなりません」 少しは夫らしいところを見せようと必死なのか、シルヴァランスが机に両手をついて立ち上がる。今更ながらな気もするが、それでもやっぱり頼ってみたくなる。 「まずは医者のところへ行きましょう。そしてもし本当にそうだったら、えっと……、ミハルさんにいろいろとアドバイスしてもらうというのはどうですか?」 「そうね。なら、あなたはスルトさんにいろいろ聞いておいたら?」 「は、はい。そうします」 仮定のまま話を進めたところで、もし違っていたら二人揃って恥ずかしい思いをすることになるだろう。でも、違ったら違ったでまた次の機会に今回のことを活かせばいい。 決して遠くない将来に、きっと大切な家族が増えるだろう。今回違っても、いつか、必ず。 それはきっと、本来見えないはずの自分と相手の絆が目に見える形で示された結果であり、これからもずっと、新しい存在を加えた家族として生きていく絆になるだろう。 それをセシリーは望んでいる。より強い絆が生まれることを心から祈っている。 けど、相手はどうだろうか。相手は自分との間に深い絆が出来ることをどう思うだろう。 「シルヴァランス……」 「は、はい?」 「これからも、よろしくね」 「……。はい。こちらこそ」 笑顔で応じてくれる相手がいる。相手もこちらと同じ気持ちなのだと安心できる。 シルヴァランスがセシリーの手を取り、セシリーはその手に引かれて立ち上がる。そして軽く互いの唇を重ねてから居間を後にして、揃って町に一軒しかない医者の元へ向かう。 二人揃って町を歩く姿はどう映っているだろう。今はまだ、ただの恋人にしか見られないかもしれない。でもそこに、新しい家族が加わったらどうだろう。 そうすれば、誰が見ても自分達は家族と映るだろう。 そのことを脳裏に描いて心の内を温めつつ、セシリーはシルヴァランスの手を握ったまま、青空が広がる小道をゆったりと進んでいった。 かつてほんの一時だけ同じ時を共有しただけ。でも、時間的に捕らえればたった一時のことだったとしても、その時の記憶はとても大きな思い出となって自分の中で光り輝いているような気がする。 そして今、自分はその時に出会ったあの少女と再会することができた。 「どうしたの?」 「ううん。何でもないわ。それより、アリアちゃんってこんなに料理上手だったんだ」 「旅の途中でセシリーに教わった。この町に着いてからも、お母さんに教えて貰ってる」 はにかみながら包丁で丁寧に芋の皮を剥いていくアリアを見つめ、フィオナはその笑顔の柔らかさに嬉しさを感じずにはいられなかった。 アリアの家のキッチンで、フィオナはアリアと共に夕食の準備を進めていた。アリアの母親であるミハルに頼んで割烹着を貸して貰い、二人だけで調理したいと申し出たのだ。 本当のことを言えば、あれこれと教えてあげながら料理したかったのだが、フィオナの予想を裏切ってアリアの腕前は料亭の一人娘であるフィオナに肉薄するほど達者だった。 「フィオナ、そろそろ鍋いいと思う」 「うん」 記憶の中にあるアリアはまだまだ誰かが付いていてあげなければならないほど子供だった。でも今目の前にいるのは、あの時から一体どれだけの時が流れたのかわからないほど大きく成長したアリアだった。 でも、とフィオナは思う。 アリアは確かに変わった。とても女の子っぽくなったし、料理だって出来るしお洒落にも気を遣うようになった。背も伸びて出るところも出て女の子らしくなったアリアだが、それでも、フィオナには切なく思わずにはいられないことがある。 あの人。アリアをずっと側で支えていたあの人。その名前をアリアは決して口にしようとしない。ジペインを訪れた当日にふとフィオナが尋ねた時、アリアはとても寂しそうな表情でその人との別離を語ってくれた。 アリアは女の子になったと思う。そして同時に、少し大人になったのだと思う。 「フィ、フィオナ、鍋が噴いてる」 「え……? ああああっ!」 アリアの言葉にハッとして、フィオナは慌てて竈から鍋を遠ざけた。テーブルの上の鍋敷きへ鍋を移動し、ちらりと鍋の中をうかがう。 「どうしたの? ぼーっとしてた」 「ちょっとね。アリアちゃんの包丁さばきがあまりに巧いから、見とれちゃった」 実際視線はアリアの手元に固定されていたわけだから、この嘘でも通るだろうとフィオナは思っていた。しかしアリアはじっとフィオナの目を見つめ、 「考え事?」 そう尋ねてきた。 以前のアリアならきっと今の嘘で誤魔化せただろうに、今はもう通用しない。その点一つをとっても、アリアは大きく成長したということなのだろう。 ならばこちらとしても嘘をつくことはない。 「そうね。本当のことを言うと、アリアちゃんの口からシェドさんの名前が出てこないことを色々考えていたの」 「……っ……」 「ごめんね。アリアちゃんがシェドさんのことを考えないようにしていることはわかってるの。私も極力シェドさんのことには触れないようにと心がけていたけど」 フィオナがシェドという名前を口にする度にアリアの表情が歪む。包丁を握る手がカタカタと小刻みに震えている様子を見つめながら、それでもフィオナは話を続ける。 「アリアちゃんが怖がっているのがわかったから。私がシェドさんのことを尋ねないか、心配だったんでしょ?」 「……うん」 「うん。それが確認できればいいんだ。もう、これ以上シェドさんのことには触れないから安心して」 そう断ったところでアリアの表情がパッと明るくなるわけでもない。そう簡単に大切な人のことを心の奥底へ追いやることなどできないはず。 特に、アリアにとってシェドはフィオナよりももっともっと大切な人なのだ。 ただの父親代わりだったはずがない。父親に対する想いとは異なるものが沢山、シェドへの感情には籠もっていたのだろう。だからこそ、こうして別離を忘れて頭の中からシェドを追い出そうと必死になっているのだろう。 「さあ。大方料理も終わったし、そろそろ盛りつけに掛かりましょうか」 「うん。わかった」 消沈気味だったアリアに笑顔で話しかけると、アリアはコクンと頷いて棚から食器を取りだしてテーブル上に並べ始めた。 フィオナのせいで脳裏に浮かんでしまった面影を消そうと必死になっているように、アリアが忙しく動きながら食器を並べて料理をよそっていく。フィオナはそんなアリアを見つめながら小さなため息を漏らし、この場に居ないあの男に心の中で苦言を吐く。 “シェドさんの生きがい。案外簡単に見つかるかもしれませんよ” あの時フィオナがシェドに言った言葉を頭の中で反芻してみる。あの時、フィオナは漠然と、例えアリアの両親が見つかろうがシェドの生きがいが見つかろうが、アリアとシェドはいつまでも共に居るものだと感じた。 だが再会を果たしたアリアの隣にシェドの姿はなかった。その事が腹立たしい。 アリアはシェドが自分の生きがいを探すために去っていったと言ったが、そうではないとフィオナは思う。きっとアリアのため、聖石というアリアの胸に埋まっている石に関係することなのだと思う。それなら、あの時フィオナが言った言葉もあながち間違ってはいない。 でもフィオナが描いたのはシェドがアリアの側で支えていくことを生きがいにすることで、遠く離れた場所でアリアを救う術を探すことではない。頭では聖石を取り外す事の方が大事だからシェドがその術を探してアリアの元を離れることが正しいと理解できても、感情はシェドにアリアの側に居て欲しいと思う。 両立することはできない。ならばどうするのが理想か。 「……シェドさん、早くアリアちゃんの隣に帰ってきてあげなさいよ」 フィオナはアリアの背に向けて小さく呟き、軽く首を左右に振って暗い表情を払拭した。 ジペインの町から少し離れた山の麓には、鬱蒼と木々が茂る深い森がある。シルヴァランスは山菜を採りに森を訪れていた。 木々が邪魔をして空は見えないが、今日も天気が良くて気温も高い。比較的森の中は涼しいのだが、それでも厚着をしているとじんわりと服の中で汗が滲む。 シルヴァランスはひさびさに袖を通した純白の長袖ローブの肌触りに懐かしさを覚えながら、久しぶりに握った相棒の感触を確かめる。 柄にウインドジェムを埋め込んだ細身の剣。ジペインの町で落ち着いた生活を送るまで、激動の日々を共に過ごしてきたシルヴァランスの愛剣。 「……ふぅ。よしっ!」 剣を握る手に力を籠め、シルヴァランスはウインドジェムへと意識を注ぎ込む。エメラルドのようなウインドジェムが眩く輝き、シルヴァランスの身を風のオーラが包み始めた。 「はあああああっ」 木々の枝がバサバサと靡き、大地に落ちている葉が舞い上がっていく。シルヴァランスの体を包む爆風は徐々に弱まっていき、薄い膜のようになってシルヴァランスの体の表面だけを覆った。 実戦を離れて久しいため、感覚が随分鈍っている。忘れかけた感覚を取り戻すには、基礎からきちんとやった方がいいのだろうが、それでははやる気持ちを抑えられない。 最初から大技。それで一気に感覚を取り戻す。 シルヴァランスはそう決意して腰を落とす。すでに体を包む空気の膜はさざ波のように穏やかになっており、周囲には静寂が戻っていた。 「アクセラレータッ!」 シルヴァランスは大地を蹴って疾走する。ウインドジェムが閃光を放ち、シルヴァランスの体が音速に肉薄するほどの超高速で世界を駆ける。 空気抵抗を極限まで減らし、風の力で速力を急激に上昇させるシルヴァランスの特技。しかしいくらスピードが上昇しようとも、感覚自体は元のままだ。アクセラレータを制御するには並はずれた集中力を要する。 シルヴァランスは複雑に木々が入り組んだ森の中をアクセラレータを全開にして疾走する。次々と木々が迫り、一瞬判断が遅れれば正面衝突を避けられない極限状態で止まることなく森を駆ける。 「くっ!」 飛び出していた枝がシルヴァランスの頬を裂き、鮮血が宙に飛散する。 あの頃の反応速度に比べたら、今はまるでウインドジェムの扱い方を覚え始めた子供みたいなものだ。今の体たらくを、ジェム使いとしての師、かつての同志であるナイに見られたら、怜悧な瞳で睨め付けられるだろう。 「……っ!」 今度は枝ではなく幹が真正面に迫る。迂回路に体を翻す余裕はない。 シルヴァランスは音速の世界で剣を握る手に力を籠め、幹との衝突寸前に横に薙ぐ。根元と離れた幹を蹴り飛ばし、アクセラレータを緩めることなく疾走する。 ずっと忘れていた感覚。少し平和にかまけすぎたかもしれない。自分が何故アリアの側に残ったのか。去っていったシェドはシルヴァランスに何を託したのか。それを失念して安穏に身を任せていた。 けれど、それではいけないとようやく気づいた。それはセシリーが身ごもった、シルヴァランスとセシリーの新しい家族のお陰で。 守らなければならないものがまた一つ増える。大切な存在がまた一つ増える。 今の自分にすべてを守るだけの力があるだろうか。いや、すべてだなんて欲張りなことは言わない。欲しいのは、本当に守りたい人達を守れる強さ。 「おおおおおっ!」 シルヴァランスは咆吼を上げながら駆ける。 これから生まれてくる子供のためにも。そしてセシリーと共にずっと守っていこうと誓った少女が、本当の意味で幸福な世界に身を委ねるその時が来るまで、シルヴァランスは戦い続けなければならない。 足腰が悲鳴を上げ、すでに喉が潰れそうなほどカラカラだった。体力もすっかり落ちている。これは一朝一夕で取り戻せるほどの衰えではない。 それでも、止まるわけにはいかない。 シルヴァランスは決意を胸に、かつての半分もの時間すらアクセラレータの状態で維持できない自分の体に鞭を打って進む。 シルヴァランスが欲する強さは、きっともっとずっと先にある。立ち止まっていた足を再び進め、そのゴールを目指して徐々に加速していかなければならない。 走れ。もっと早く。もっと逞しく。もっと、強く。 深紅の双眸で世界を捕らえながら、シルヴァランスは一歩でも前へと歩を刻み続けた。 「長いことお世話になっちゃったね」 夏空は何処まで蒼く澄んでいて、白い雲は混じりけのないピュアホワイト。草原の草が新緑を輝かせて風に靡き、太陽がすべてを燦々と照らしている。 そしてアリアの目の前には、しっかりとした茶色い皮のつなぎと、その上に外套を羽織ったフィオナの姿がある。フィオナの流れるような金髪が世界に新しい色を加え、茶色の瞳には浮かない顔つきの自分が映っている。 「そんなことない。ホントはもっともっと居て欲しい」 「私もよ。でも、いつまでも家の仕事を投げ出してお母さんに迷惑かけちゃ悪いから」 フィオナは丈夫そうなブーツを履き、もともと大きなバッグをさらに物でパンパンに膨れあがらせて背負っている。ジペインからフィオナの故郷であるトラキアまでは、快速馬車と呼ばれる運賃の高い馬車を使ってでも二週間はかかる。 「今度は、私からフィオナに会いに行くから」 アリアはそう言いながら頑張って笑顔を繕う。今はそれが精一杯。いつだって、寂しいときはこうやって偽りの笑みを辛うじて浮かべることぐらいしかできない。 アリアの後方にはミハルとセシリーの姿がある。スルトは仕事で、シルヴァランスも何やら町を出ているらしい。 「うん。約束だからね」 フィオナが小指をアリアの前に出す。アリアが首を傾げていると、 「トラキアでの約束の仕方。互いの小指を絡ませて、約束を守ると誓うのよ」 柔らかい笑顔を浮かべてフィオナがそう言った。 「……うん」 アリアは自身の小指をそれに絡ませ、そのまま軽く腕の上下に振る。満足げに指を離したフィオナは、いつの間にかアリアの隣へやってきていたセシリーへ視線を向けた。 「セシリーさんも、またトラキアに来て下さいね。前に壊した店の弁償として、夜間営業の時のママになってもらいますから」 「あなたの店は酒場も兼ねているの? ……そうね。じゃあいつか、アリアと一緒に働きに行くわ」 「待ってますから。あと……」 フィオナが少し睨むように鋭くしていた瞳を和らげる。 「健やかで元気な子を産んで下さいね」 「ありがとう」 フィオナがセシリーと握手をかわし、そしてミハルとも握手をかわす。 向こうでは行者がまだかと言いたげにこちらをうかがっており、フィオナもおそらくそれに気づいているだろう。 別れの時はもうすぐそこまで迫っている。 「ヒューイともお別れ」 「キュゥゥー……」 白い毛に覆われた体をフィオナに抱きかかえられたヒューイが、普段から垂れている耳を更に垂れ下げ、別れを嫌がっているように寂しげに鳴いた。 ヒューイはもともとフィオナからの預かっていた友達。フィオナが、「ずっとアリアちゃんの側に居てもいいのよ」とヒューイに言ったのだが、ヒューイが飛び込んだのはアリアの胸ではなくフィオナの胸だった。 それはヒューイがアリアよりフィオナの方がいいと思ったからではないだろう。長い間ずっと側に居たアリアならわかる。 ヒューイは、トラキアを去るときにアリアが寂しい思いをしないようにフィオナが貸してくれた友達。そしてずっとアリアの側で寂しさを紛らわせてくれた、アリアにとっても大切な友達となった存在。 けれど、もうその役目も終わったということなのだろう。無事に両親と再会できたアリアを見て、ヒューイもきっと安心して本当の主のもとへ帰ることができる。 「今までずっと側に居てくれてありがとう」 「キュウッ!」 アリアはフィオナに抱かれたままのヒューイの頭を撫でる。くすぐったそうにヒューイが目を細め、耳がクイッと機敏に動く。 別れはいつだって寂しい。でも、別れはどんな人との間にも必ず訪れる。いや、人だけではない。物でも動物でも、どんな相手との間にも必ず別れの時は来る。 「また会いに行くから」 「キュキュッ!」 今生の別れというわけでもない。互いの場所を知っていれば、いつでも会いに行ける。 本当に辛いのは、相手の場所を知らないこと。会いたい相手の場所を知らないこと。 「……じゃあね、アリアちゃん」 「うん」 フィオナが最後に微笑みを残し、アリアに背を向けた。そのまま行者の方へ歩いていき、乗車席に乗る前にもう一度だけ振り返って手を振ってくれる。 アリアは大きく手を振り、滲んだ涙を袖で拭った。フィオナは満足そうにこちらを見つめた後、馬に繋がれた車内に消えた。 行者に鞭を打たれた馬が嘶き、蹄の後を大地につけながら去っていく。 カラカラと馬車の車輪が回り、パカパカと馬の足音が響く。これと同じ光景を、アリアは一年前にも目の当たりにした。 大切な人との別れ。でも、今回は前とは違う。 「また、会いに行くから」 小さく呟き、アリアは小さくなった馬車を見つめたまま凛と表情を整えた。 * * * 自分が生きていられるのは、同じ思いの元に集った同志達が身を挺して逃げる時間を稼いでくれたからだ。同志達の屍の上に、今、アイザック達は立っている。 「もうすぐセカンドベースに着きますわ。長距離の移動でポニーちゃんも疲労が溜まっています。二日ほどはセカンドベースでお休みさせてあげなきゃ駄目です」 「わかった。シルヴィーの所へこのペガサスを休ませてから出立するとしよう」 「……はい」 純白の翼に雄々しい体を持つペガサスの背中で、アイザックは手綱を握るヴィクトリアの小さな背を盗み見る。中にコルセットでも着ているんじゃないかと思えるくらい細い胴と、シルクのローブから伸びる四肢はとても戦闘に参加できる力強さを感じさせない。 かつての同志、シルヴァランスと同じ金髪をポニーテールに結い、それがアイザックの視界で本当の馬の尾のように揺れている。 「大丈夫か?」 「……ポニーちゃんは、この程度でへこたれる柔なお嬢様じゃありませんわ。いざというときは一族全てを率いていけるような貴族の令嬢ちゃんなのです」 アイザックが黙っていると、普段寡黙なナイがヴィクトリアの背中に話しかけた。主語が欠けていたが、当然ペガサスの容態ではなくヴィクトリア本人の精神状態について尋ねたはずだ。 ヴィクトリアも自分の心配をしてくれていると分かっている上で、敢えてペガサスのことだと勘違いしてみせたのだろう。ナイがアイザックを見つめて肩をすくめ、アイザックもそれに苦笑で応える。 無理して気を張ろうとしているのは見え見えだった。本当ならば溺愛している兄の居場所を同志達に告げ、その敵になることを心から嫌っているはずだ。 だがもうそんな甘いことが許される局面じゃないことをヴィクトリアは知ったのだろう。そしてシルヴァランスと異なる結論に達し、兄と決別する覚悟を決めた――いや、決めつつあるのだろう。 「大丈夫か?」 今度はナイに替わってアイザックがヴィクトリアの背中に尋ねる。また答えをはぐらかされないように、ポンとその小さな肩を叩きながら。 どうせ鬱陶しそうにアイザックの手を払い、キッとアイザックを睨め付けながら気丈に振る舞ってみせるだろうと思っていた。だがそんなアイザックの予想に反し、 「……大丈夫、なわけありませんわ」 ヴィクトリアは弱々しくそう呟き、肩に乗ったアイザックの手に自身の小さな手を重ねた。手の甲から、ヴィクトリアの体温がやんわりと伝わってくる。 手綱を握りながらそっとこちらを振り返ったヴィクトリアは、その紅蓮の双眸にうっすらと涙を滲ませて、すがるような目をアイザックに向けてくる。 小刻みに肩を震わせ、小さな唇を微かに開いたまま、ヴィクトリアは凛と眉尻を上げたいつもの表情ではなく、儚げに悲壮な表情を浮かべていた。 「そうか」 どんなに強がっていようと、中身はまだまだ少女。特にヴィクトリアは、元はランバーグの上級貴族の出で、他の十六歳と比べたら甘やかされて育った部類に入るだろう。 そんな少女にとって今がどんなに過酷な現実か。アイザックは境遇を加味しながらヴィクトリアの内心を推し量る。 「無理はするな。もしシルヴィーの敵になるのが嫌なら、俺がお前を脅して天使の居場所を無理矢理聞き出したってことにしてもいい。そうすれば、あいつの怒りの矛先は俺だけに向くだろう」 「それも検討しましたわ。嫌われ役がお似合いのアイザックさんに、何でもかんでもすべて丸投げ、押しつけ、なすりつけてしまえば、お兄様もわたくしを咎めることはないのではないのかと」 「……おい」 「ですが、それはできません。わたくしは今までずっと逃げてきました。でももう、逃げるわけにはいかないのです。多くの同志達が倒れた上に今のわたくしは立っています。みなさんの思いは唯一つ。世界の平和と安定です。そしてそれは、わたくしも同じです」 アイザックの手に重ねていた手を外して手綱を握り直し、ヴィクトリアはこちらに背を向けて前を向いた。 「わたくしは自分の意志でお兄様と敵対するのです。お兄様の思いもわかりますが、わたくしにもわたくしの決意があります。いえ、できました。わたくしはその決意を胸に、自分自身の足で進まなければならないのです」 「……そうか。そこまで意志が固いのならもう何も言わねぇ。だが、あんまり無理はするなよ」 小刻みに震えている背中にアイザックは出来るだけ優しい声音で語りかける。こちらに背を向けたのは、おそらく今にも泣き出しそうな表情を見られるのが嫌だったからだろう。シルヴァランスを追って同志に加わってからもずっと、ヴィクトリアは他人に弱みを見せるのを意固地に嫌っていたから。 アイザックは一回りも年下の少女が気丈に振る舞っている様を見て、思わずその小さな背中を後ろから抱きしめてやりたい衝動に駆られた。だがすぐ次の瞬間には凄まじい剣幕でこちらに剣を向けるシルヴァランスの姿が脳裏に浮かび、断念して自嘲気味に笑む。 昔からアイザックはこの手の女が好きだった。本当は弱くて、常に誰かに頼りたい、すがりたいと思っているくせにそれを見せず、気丈に強く見せかけようとする女。庇護欲とは違う気もするが、それに似ている感情を覚えてしまう。 「まったく。よく似た兄妹だな、ホントに」 「そうですね。揃いも揃って頑固な兄妹だと思います」 アイザックの独り言にナイが苦笑しながら答える。ヴィクトリアの背中がぴくっと反応したことから、どうやらこちらの話は聞こえていたようだが、反応を返すことはなかった。 そのまま沈黙が続き、やがてペガサスの眼下に鬱蒼と茂る広大な森が姿を見せる。この中にセカンドベースはひっそりと佇み、普段は数人の同志達が待機しているはずだ。 セカンドベースは独自の命令系統を持ち、あまりアイザックやナイ、ガネットとは直接関わりがない。リーダーであるガルバトロスのみが、先の襲撃で陥落したメインベースとセカンドベースの両方に顔を出していた。 『キィィィン』 「……なっ!」 足下一帯が緑色に染まる森の上空で、突如、アイザックの腰に携帯されている魔練器が反応を示した。それは特殊な魔波を感知して共鳴する魔練器で、リーダー格の同志のみが所持している代物だ。 ここにいるヴィクトリアとナイはアイザックの持つ魔練器との共鳴を避けるためにジェムが外してある。そしてセカンドベースに待機しているメンバーで共鳴する魔練器を持っている人間は居ないはずだ。 「どうしました?」 「魔波計が反応している。ガネットがセカンドベースに居るのか?」 「いえ、ガネットはまだハルモニカ大陸に居るはずです」 「じゃあ一体誰の? ――っ! まさかガルバトロスさんか!?」 思わずアイザックは声を張り上げた。思い当たる人物の中で魔波計を携帯しているのは全同志の中心に立つガルバトロスだけだった。 そしてガルバトロスはここ一年ほど所在不明が続いている。もし本当にセカンドベースに居るのならば、何故連絡を取らないのか。 「……この場で考えても仕方ありません。もうセカンドベースは目と鼻の先です」 「そうだな。よし、ヴィクトリア、ペガサスに最後の一踏ん張りだと言ってやれ」 ヴィクトリアが強く手綱を引き、ペガサスはその純白の両翼を大きく羽ばたかせる。 セカンドベースもメインベース同様にライトジェムで外部からは見えないようになっている。本当ならもう見えてもいい距離なのだが、アイザックの視界に入るのは森の木々ばかりだ。 何処までも広がっていそうな森を見渡しながら、アイザックは共鳴を続ける魔波計をぐっと握りしめていた。 「た、隊長さんっ!」 深い森の奥、さらにライトジェムで基地の建物をすべて覆い隠したセカンドベースの一室に、ガルバトロスの姿があった。 三ミリほどの長さで整えられていたはずの顎髭が乱雑に伸び、もともと長かった黒髪はさらに長く伸びている。そのマリンブルーの瞳に自分の姿が映っていることを確認した上で、ヴィクトリアは全身に包帯を巻かれたガルバトロスが横たわるベッドに駆け寄った。 「ヴィクトリアにアイザック、ナイか」 「どうしてガルバトロスさんがセカンドベースに居るんですか?」 ヴィクトリアに続いて廊下から部屋の中へ踏み入ってきたナイが尋ねると、ガルバトロスが横になるベッドの脇で待機していたセカンドベース常駐の同志が前に出た。 フォレストグリーンのショートカットに蜜柑色の瞳をした少女。歳はヴィクトリアと同じくらいだろう。白の長袖ブラウスの上に紺色のベストを羽織り、胸元には緋色のリボンがついている。ボトムはスリットの入った深緑色のチェック柄ショートスカートだった。 「ガルバトロス様は先日目を覚まされたばかりです。全身傷だらけでここにたどり着き、そのまま意識を失って、今までずっと眠っておられました」 「……俺は本部を出て各地で暴れ回っているドラゴン退治を行っていた。その折りにニーヴルの人間に遭遇し、何度も何度も激戦を繰り返して何とか逃げ伸びた。だが戦いで重傷を負い、ここにたどり着くのが精一杯でお前達に連絡を入れられなかった」 セカンドベースに常駐しているという少女に続いてガルバトロスが淡々と今に至る経緯を説明する。ヴィクトリアは久しぶりに聞くその重低音の声色に黙って耳を傾けた。 「ここにいるパーラはまだ同志に加わって日が浅く、メインベースへの連絡を取ることができなかった。パーラ以外、ここに常駐していた他の同志達はドラゴン退治の折りに命を落としたらしい」 「申し訳ありません」 ガルバトロスの言葉にパーラと呼ばれた少女が腰を折る。それはセカンドベースを守る同志達全員の代表として言ったのだろう。今は亡き同志達の分も。 「俺の事情は今話した通りだ。次はどうしてお前達がここにいるのか話してくれ」 パーラを一瞥してすぐにガルバトロスがそう切り出してくる。ヴィクトリアはアイザックを顔を見合わせ、アイザックが、俺が話すと言わんばかりに頷いて見せたので、任せるという意味を込めてベッドから離れた。 アイザックがベッドに近寄り、ガルバトロスの脇に立つ。その隣にナイが並び、ヴィクトリアは二人の後方にパーラと共に立った。 二人がガルバトロスにメインベースでの出来事を伝えていると、ふとパーラがこちらを見つめていることに気づき、ヴィクトリアはその蜜柑色の瞳を見つめ返して首を傾げてみせた。 「どうかなさいました? わたくしの顔に何かついていますか?」 「あ、いえ。私はこの組織に加わった当初からセカンドベース常駐で、他の同志のことをほとんど知らなかったんです。ここにいた先輩方はみんな二十代後半から三十代の方だったから、あなたのような私と同い年くらいの同志も居るんだって知って、ちょっと驚いただけです」 「そうでしたか。メインベースにはわたくし以外にも大勢、十代の同志もいらっしゃいました。ですが、先日のニーヴル襲撃の折りに、多くの方が命を落とされました。わたくし達を逃すため、中にはわたくしよりも若い方まで」 ヴィクトリアは脳裏にメインベースで知り合った同志達の顔を思い浮かべる。目の前で散っていった同志。ドラゴン退治に出掛けて戻ってこなかった同志。ヴィクトリアと面識のある同志だけでも、大勢の同志が世界を護るために倒れていった。 自分はまだ生きている。多くの犠牲の上に立ち、生きることを許されている。だからこそ、死んでいった者達の思いを引き継ぎ、彼らの信念と遺志を受け継がなければならない。 「ヴィクトリアさん……でしたね。あなたは、その、死ぬのは怖くないんですか?」 パーラが、今まで同年代が居なくて聞けずにいたことを聞くような様子でヴィクトリアに話しかけてくる。 不安や恐れ。そんな感情を綺麗サッパリ捨てることなどできない。自分は弱い人間で、常に様々な恐怖に身を震わせている。けれど、強がりでも虚勢でもいいから立ち上がって剣を握らなければならない時だってある。 「怖いですわ。ですが、それはあなたも同じではありませんか? きっと、隊長さんやアイザックさん、ナイさんだって、完全に恐怖を抱いてないわけではないと思いますわ。それが人間だと思います」 「……そうですね」 ヴィクトリアの独白に近い言葉をパーラは安堵したような表情で受け取った。ちょうどガルバトロス達の話も一区切りしたようで、ガルバトロスの鋭い視線がヴィクトリアへ向けられる。 今までシルヴァランスの居場所を黙っていたこと。極論を言えばそのせいでメインベースが陥落して大勢の同志が命を落としたと言ってもいいこと。だから、ガルバトロスの視線には、決して言葉に出さずとも怒気が籠もっている。 ヴィクトリアはその視線から逃げずにガルバトロスを見つめ返し、 「明後日の早朝までポニーちゃんを休ませて、その後、シルヴァランス=グレインの居る場所へ向けて出立します」 そうハッキリと断言した。 迷いはある。逃げられるのであれば逃げたい。だが、ガルバトロスの視線はそれを許す気配がなく、またヴィクトリア自身、逃げるわけにはいかないと決意したのだ。 「俺も付いていく。シルヴァランスと共に居るという天使を討ち滅ぼし、何としてもニーヴルの目的を阻止せねばならん!」 「……目的? 何かわかったんですか?」 珍しく意気込むガルバトロスに、アイザックが尋ねると、ガルバトロスは重々しく頷いてから口を開いた。 「奴らの狙いは、もう一つの神を復活させることだ。かつて天使や魔物を生み出して人間をすべて滅ぼそうとした、我々人間に敵対する神を」 「なっ! そ、そんなっ!」 「もはや一刻の猶予もない。奴らが天使をすべて揃えたとき、この世界は終わりの時を迎えることになる。そうなる前に、何としても奴らが探し求めている“無垢なる獅子”を打ち倒さねばならん」 ガルバトロスの言葉が何度もヴィクトリアの頭の中で反響する。 脳裏に浮かぶのは桃色の髪をした自分よりも幼い少女の姿。両親に会いたいと寂しげで儚げな表情を浮かべてつぶやいた少女の顔が脳裏から離れず、ヴィクトリアは強く固めた決意が揺らぎそうになる。 けれど、胸が詰まりそうな思いを押し殺してでも貫く決意が今のヴィクトリアにはある。たとえそれが非道であっても、兄と敵対するものであっても、ヴィクトリアを突き動かす確固たる物がある。 だからもう迷わない。もう、逃げない。 「ポニーちゃんなら、おそらく三日もあればたどり着けますわ。天使の周囲にはシルヴァランス=グレインを始め、元ニーヴルのエインフェリアが二人居ました。彼らを倒し、そして天使を倒して世界に平和をもたらしましょう」 すべての思いを眼光に込めてガルバトロスを見つめ、ヴィクトリアはハッキリと強くそう言った。 |
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