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第四章 今という夢の終わり

 朱色の絨毯が敷かれたニーヴル本部の執務室で、カルネはアンティーク机の上にある資料を手に取り、立ってそれらを眺めていた。
 右目を眼帯で多い、左目だけで項を追っているにもかかわらず、資料をめくるペースは常人よりもかなり速い。瞬きをしている様子もなく、淡々と無言のまま資料を読み進めていた。
 ふとドアの向こうに気配を感じ取ったように、カルネが顔をあげてドアの方へ首を向けた。するとノックもなく、ギィィと音を立てながら木造の扉が開かれ、廊下から長身の男がカツカツと足音を響かせながら執務室へと踏み入ってきた。
「ハルモニカ大陸よりの長旅、お疲れ様です、社長」
 カルネは手に資料を持ったまま入ってきた人物に軽く頭を下げた。
「カルネだけか」
 濁った灰色の瞳でカルネを見据え、男は机に歩み寄り、背もたれを軋ませながら立派な作りの社長椅子へ腰を下ろした。
 赤茶けた短髪は整然としており、無駄なく体に張り付く黒のスーツ姿はまさに社長そのもの。ニーヴルの社長、ルシフェル=ガブリエスタは、カルネから資料を受け取って視線をそれへ落とした。
「レミネーラ様は、キャロル、ミゲルと三体の天使、数名のエインフェリアと上級兵士達を率いて“無垢なる獅子”を捕らえに行かれました」
「報告にあった通り、レオの居場所を特定できたようだな」
「ええ。結局キャロルの透過を使うことになりましたが、致し方ないことだと思います」
 カルネがルシフェルにそう説明したとき、開けっ放しだった執務室の扉から線のように細い目をした青年が姿を現し、
「思った通り、キャロルに任せておけば問題なかったね。ダークジェムさえ十分なら、キャロルの透過で視えないものはないからさっ」
 嬉々とした表情で明朗にそう言いながら執務室へ入ってきた。
「アルフレッドもここに戻るのは久しぶりだな」
 栗色の髪の青年にカルネが声を掛けると、アルフレッドと呼ばれた青年は線のように細めていた瞳を少しだけ開き、えんじ色の瞳が瞼の下に浮かぶ。
「うん。ずっと国王の隣で監視を続けていたし、戦争が始まってからはずっとハルモニカ大陸に居たからね。カルネに会うのも一年半ぶりくらいかな?」
 笑みを絶やさないアルフレッドとは対照的に、カルネの表情には一ミリの変化もない。まるで仲間意識というものを感じさせない凍てついた表情にもかかわらず、アルフレッドは冷淡なカルネに向ける笑顔を一グラムも減らさない。
「レミネーラがレオを連れ戻すのは時間の問題か。ならばこちらは先に準備を進めておこう。ハルモニカからフリズスキャルヴは引き上げてきた。天使が揃い次第いつでも宴を始められるよう、準備を進めろ」
「はっ!」
 起伏なく言ったルシフェルの言葉にカルネが一礼する。
「いよいよですね」
「ああ。もうすぐだ。世界はもうすぐ生まれ変わる。俺達の神が封じたもう一つの神を復活させ、世界を再生させる時が近づいている」
 ルシフェルの低音が床を這うようにして部屋中に響き渡る。くぐもった笑い声を漏らしながらルシフェルはうっすらと白い歯を見せ、それを見たアルフレッドは一層華々しい笑みを咲かせていた。
 ただ一人、カルネだけは無表情のまま、音もなく執務室を後にしていた。

* * *

 アダムの固有空間では閃光が迸り、フラッシュの続く中心にはシェドとアダムの姿がある。互いに武器は持っていないが、空間内に広がるのは大口径の銃を連射しているかのような轟音、爆音。
『随分とその力の扱いに慣れてきたな』
「ああ、お前のお陰だ。今なら、本気を出せばお前をぶっ倒せそうだぜっ!」
 手元に銃があれば、今ならアダムと対等以上に渡り合える。それは実感としてシェドの中で芽生え、目の前のアダムもそれを否定したりはしない。
 強くなっていることが自覚できる。今までがむしゃらに獲得してきた力とは根本的に異なる新しい力を体得し、以前おくれをとった敵組織の男とも互角以上に戦える自信が湧く。胸の奥にある、生きがいという名の自分の本心を貫くだけの力が、シェドの心を強くする。
 護れる。この手であいつの幸せを護ってやれる。
『自惚れるな。確かにお前はすでに私よりも強い。だが、お前の本当の力はまだ半分も発揮されていない』
「……そうだな。確かにまだ感覚が追いつかずにもどかしい時がある。慢心は自身だけではなく他をも滅ぼす心の油断か」
『なるほど。成長したのは力だけではないようだ』
「ああ。それもこれも、お前のお陰だっ!」
 シェドは一気にアダムとの距離を詰め、至近距離で手のひらをアダムにかざす。心を研ぎ澄ませて意識を集中させると、手のひらが熱を帯び、紅蓮の炎が手のひらより舞い上がった。
 もはやジェムなしで魔法を扱える。トリガとなるジェムを使わない分、魔力の消費は激しいが、その許容量だってアダムとの修行でかなり上昇した。
「はあああああっ!」
『ぬおっ!』
 アダムは魔力で出来た剣を具現化し、シェドの放った炎を剣の腹で受け止める。完全な無属性の剣にもかかわらず、アダムの剣はシェドの炎をかき消すことができず、アダムの足が炎に押されてズズズと後方へ滑っていく。
 その間にシェドは再び意識を溜め、アダムの周囲に氷の刃を放った。アダムの周囲をぐるりと取り囲む十二の刃は、炎を受け止めたまま身動きの取れないアダムへ一斉に襲いかかる。
『えげつないではないか』
「まだまだ――」
 もっと、もっと自分の中にある力を最大限に引き出せるようにとシェドが意気込んだとき、ふと微妙な空気がシェドの五感を撫でた。思わず攻撃の手を緩め、シェドは固有空間内の薄気味悪い空を仰ぐ。
 目の前でアダムが力任せに炎を払い、更に剣で円を描きながら氷の刃をすべて斬り落とした。やはりあの程度ではアダムには傷一つ与えられない。もっと連続して魔法を叩き込むつもりだったが、今はそれどころではない。
「シールが帰ってきたのか?」
 漠然と、でも確信に近い感覚がシェドを包む。固有空間内からでは外で何が起きているのか感知できないが、何故かシールディアの帰還だけは感じ取れた。
『そのようだ。……ふむ、お前も随分感覚が鋭くなったようだ』
「かもな。……一旦修行を止めてくれるか?」
 シェドの言葉を聞くまでもなくそのつもりだったのか、すぐに周囲の景色が歪んでシェドの頭に一瞬だけ自分が分裂したような錯覚が走る。
 気が付けば周囲は竜の里の平原だった。遠くには竜王の居城が見え、ポツポツと他のドラゴンの姿もある。
『イヴが里の扉を開きに行ったようだ。直に来るだろう』
 アダムの言葉がシェドの頭に響く。
 待つことほんの数十秒。ふいにシェドの目の前の空間が輝きだし、瞬きをした刹那の間に、シールディアとイヴの姿が現れた。まさに忽然と現れるという表現がふさわしい。
「ずいぶん早く帰ってきたな。ミレーヌのところでゆっくりしてくればよかったのに」
「……それどころではなかった」
 数日ぶりに見るシールディアは、別れる前よりも表情が曇っていた。竜王の話を聞き、シェド以上に落胆していたシールディアだったが、エイルのお陰なのか、里を離れるときには少しはマシな表情になっていた。
 だが帰ってきたシールディアは、今にも泣き出しそうなほど沈痛な面持ちだった。
「どうした?」
 押し黙ったまま、シールディアが眉根を寄せている。隣のイヴはおそらくシールディアの思考を読んだのだろう。何故シールディアがあんな表情をしているか納得したらしく頷いている。
「シェド、落ち着いて聞いてほしい」
「何だ? ミレーヌのヤツに何かあったか?」
「違う。何かあったのは、ミレーヌではなくアリアだ」
「……ッ……!」
 シールディアの言葉を聞いた瞬間、背中を氷の手で撫でられたような気がした。シールディアがこれほど深刻な表情を浮かべている以上、かなり悪い話かもしれない。
 シェドは大きく深呼吸し、何とか冷静を維持する。そしてしっかりとシールディアの瞳を見つめると、シールディアが静かに頷いて口を開いた。
「シルヴァランスの所属していた組織。彼らがアリアを狙って、ジペインを目指しているらしい」
「な、何ッ……!」
「シルヴァランスの妹が、シルヴァランスの居場所を知っていたらしい。おそらくは魔波計の一種だろう。何故今まで黙っていた彼女が兄の居場所を仲間に伝えたのかはわからない。だが実際問題、かつてシルヴァランスの仲間だった者達が、アリアを倒すべく、ジペインへ向かったらしいのだ」
 シールディアの表情がそれが嘘でないことを物語っている。それに口べたなシールディアが、こんな手の凝った嘘をつけるほど器用じゃないことをシェドは知っている。
 ならばすべてが事実。今このときも、アリアの身に危険が迫っている。
「……ガネットも、アリア襲撃に加わったのか?」
「いや、私とガネットが彼らの基地を訪れた時には、すでに天使討伐部隊が発った後だった。ガネットが残っていた仲間から聞き出した話によれば、彼らの移動速度から考えて、現在からおよそ三日後に彼らはジペインに到達するだろう」
「…………」
「私はドラゴンであり、ヒトとは戦えない。例え大切な友達を護るためであっても、私は戦えないのだ」
 シールディアが悔しげに呟く。本当なら今すぐにでもアリアの側で護ってやりたいのだろうが、ヒトを護るために創られたドラゴンであるが故にそれは叶わない。だからこそ、こうしてシェドを呼びに来たのだろう。
 何も迷うことはない。まだアダムとの修行が完全に終わったわけではないが、必要なときに使えない力など無用だ。そして、その力が必要なのは今。
「シェド……」
「ああ、わかってる。アルフォードに寄ってからアルトレアに戻るぞ!」
 アルフォードは竜の里を訪れる前に立ち寄ったハルモニカ大陸の村だ。そこに予備の銃器や弾倉を預けてある。
 シェドの言葉にシールディアが力強く頷いた時、それを遮るようにイヴがシェドとシールディアの間に割って入った。
『竜王が最後に話があるそうです。それほど時間を取らせたりしませんので、どうかお願いします』
 イヴはそう言って腰を折る。シェドはシールディアと顔を見合わせ、
「わかった。すぐに行く」
 即答した。
 焦る気持ちが無いわけがない。アリアの身に危険が迫っていると知った以上、いてもたってもいられない気持ちに駆られるのは事実だ。一秒でも早く竜の里を飛び出したいという衝動が常に全身を包んでいる。
 だが、ドラゴン達はシェドの思考など容易に読むことができる。シェドが焦っていることを知っている。その上で敢えて呼び止めるのは、それなりの理由があってのことだろう。
 シェドとしても、竜王を求めて世界を旅し、ようやく竜の里にたどり着けたのだ。その竜王の呼びかけであるのならば、聞かずに去ることはできない。
「歩いていくのは面倒だ。一気に竜王の間に飛ばしてくれ」
『わかりました』
 シェドが頼むと、イヴが両手をシェドとシールディアに向ける。
 その手が眩く輝いた瞬間、シェドの視界は歪み、気づいたときには周囲の景色がガラッと一変した。


 竜王の間では、竜王の里を訪れた初日と全く変わらぬ風貌で竜王が玉座に佇んでいた。
 まるで鏡に映った自分自身。だが、同じ容姿をしているとは言え、竜王の表情はまるで本物の人間の少女みたいに可憐で愛らしい。
 ゆったりとした白のワンピースドレスに、首には金のロザリオを身につけ、腕にはシルバーブレスレットが巻かれている。それは王というより、華族の令嬢という称したほうがしっくりくる感じだ。
「話って何だ。こっちが急いでいるのは知ってるだろ。さっさとしてくれ」
 シールディアの隣でシェドが不躾な物腰で竜王に問う。あれはかなり大袈裟に、嫌悪感をあらわにしているつもりなのだろう。
 内心かなり焦っているはずなのに、シェドはそんな素振りを微塵も見せない。普段と同じ、気怠そうな表情を浮かべている。
「わかりました。では、手短に話しましょう。シェドさん、あなたは自分の生まれについてアダムから多少、聞き及んでいるはずです」
「……俺の両親のどちらかが純血のドラゴンだって話か?」
「そうです」
 竜王とシェドの会話に、シールディアは耳を傾ける。エイルに、シェドの母親のことは話さないよう頼まれていることもあるし、シールディア自身、進んで話そうとも思わない。
 だが、竜王が話すのであれば別だ。それをシールディアに止めることはできない。
「つまりあなたには私達ドラゴンの血が半分流れています。ですが、あなたにはドラゴンをドラゴンたらしめるもので、決定的に欠けているものがあります」
「別に俺はドラゴンじゃねぇよ。ハーフなのかもしれないが、俺自身はただの人間だ」
「いいえ、あなたは、ヒトの姿をしているときの私達のような存在です。私達純血のドラゴンも、ヒトの姿をしているときは少し身体能力が高いだけのヒトですから」
「……確かに、人の姿しているときのシールみてりゃあ、人と殆ど変わらないってのは納得できるが、……一体何が言いたい?」
 シェドが怪訝そうに竜王を睨む。すると今までシールディアと同じ表情で笑みを繕っていた竜王が、ふと真面目な顔つきになった。
「あなたに欠けているのはドラゴンとしての本能。つまり、天使を倒さなければならないという本能的な使命です」
「…………言っただろ。俺は、ドラゴンじゃない」
 竜王の言葉を受け、シェドがグッと拳に力を入れながら視線をより鋭くする。そんなシェドの視線を受け流しつつ、次に竜王はシールディアの方を向いた。
「ではシールディア。あなたはどうなのですか? 本能的な部分。あなたの中に、天使を倒さなければならないという衝動はありますか?」
 再び竜王の表情には笑みが戻っていた。すべてを見透かし、すべてを理解しているような笑みを前に、シールディアは一瞬言葉に詰まったが、
「ある」
 ハッキリと肯定した。
 シェドが少し表情を曇らせながらこちらを振り向いたが、何も言わず、ただただシールディアの目をじっと見つめていた。
 ずっとシールディアの中でせめぎ合っている二つの意志。ヒトとしてアリアを護りたいという思いと、ドラゴンとして天使を討ち滅ぼさなければならないという使命感。
 その葛藤が決着しないからここまで来た。もし答えを見つけていたのならば、今シールディアはこの場にいないだろう。
 本能としての自分は天使を倒せと言っている。だが、しかし――
「確かに本能的には天使は倒さねばならないとわかっている。だが、私自身は天使を、アリアを助けたい。護りたい。それが私、シールディア=エガンフィスとしての意志だと自覚している」
 シールディアはそう口にしながら竜王を見つめる。ドラゴンとしての本能よりも、今はヒトとしての意志が勝っていることを、相手に明瞭に示す。
「あなた方の意志はわかりました」
「ふん。それを確認したいためだけに呼んだわけじゃないだろ?」
「ええ。実はあなた方が天使のもとへ行くことを阻害するのが目的で、この場に足止めしようと思いまして」
 険しくしていた表情をゆるめ、竜王が麗らかな笑みでシェドを見つめる。シェドはピクリと眉を動かした程度で、顕著な反応は見せない。
「――というのは嘘です。正直に言うとそういう意図もないわけではありませんが、あなた方が天使を助けに行くというのであればそれを邪魔するつもりはありません」
「じゃあ何の用だ」
「話があるのはシールディアだけです。申し訳ありませんが、シェドさんは一足先に里の外でお待ち頂けますか?」
「…………わかった」
 シェドは一瞬チラリとシールディアをうかがってから、イヴと共にその場から霞のように消えていった。竜王の間にはシールディアと竜王だけが残り、竜王はまるで愛娘を見ているような慈愛に満ちた視線をシールディアに向けてくる。
 その時、ふと後方から足音が響いてシールディアが振り返ると、銀色の重たそうな扉が開かれており、扉から竜王の腰掛ける玉座まで続くシルクのような真っ白い絨毯の上を、若い女の姿をしたドラゴンがゆったりとこちらへ歩み寄ってきた。
『お呼びでしょうか、竜王』
「ええ。あなたにも参席してほしかったから」
『…………』
 竜王の間に現れたドラゴン。それは長い年月をヒトと過ごし、シールディアよりも格段に人間らしさを獲得したエイルだった。
 エイルはどこか沈痛な面持ちで、昨日までの暖かな笑顔ではなかった。
「エイル……。すまない、帰ってきたらそなたとまたゆっくり話したいと思っていたが、状況が変わってしまった」
『ええ、聞いています。私はシールディアさんの意志を尊重しますし、私自身もドラゴンとしての本能以上にヒトとしての自我を持っていると自覚しています。ですから私はシールディアさんが天使の少女を救い出せたらいいと願っています』
 シールディアの言葉に一瞬だけ笑顔で応じ、すぐにまた表情を曇らせるエイルを不思議に思いながらも、シールディアは竜王と向かい合って言葉を待った。
「シールディア。実はあなたには一つ、大きな嘘を付いていました」
「嘘……?」
「はい。あなた方が最初に私のところへ訪れたとき、たくさんのお話をしたと思います。その中で一つだけ、私は嘘を付きました」
 竜王はどこまでも優しい声音で語っている。その言葉をシールディアは黙って聞き、隣までやってきたエイルは、ずっと沈痛な面持ちで聞いていた。
「天使から聖石を外す術。本当は、一つだけ手段があるのです」
「なッ……!」
『…………』
 思わずシールディアは声を漏らす。ずっと探してきた手段、一度はその存在が否定され、絶望的な気持ちに陥ってしまった。しかし今、竜王は確かにその術があると言った。
 シールディアは大きく目を見開き、口を半分開いたまま呆然と竜王を見つめた。
「でも、その術は私からは話しません。知りたければ、エイルに尋ねて下さい」
「エイル? そなたも知っていたのか?」
『……ええ。ごめんなさいね』
 エイルは悲しげな表情のまま謝ると、そのまま口を閉ざしてしまった。
 何故竜王はあのとき嘘を付いたのか。そして何故、エイルも黙っていたのか。さらに今、どうしてエイルはああも辛そうな表情を浮かべているのか。
 答えがすぐそこにあるにも関わらず、シールディアはなかなかエイルにその答えを尋ねられなかった。エイルが尋ねて欲しくないという空気を放っており、つついたら泣き出してしまいそうなぐらい、弱々しい面持ちだった。
 だがいつまでも黙っているわけにもいかない。一刻も早くアリアのもとへ行かなければならない。だから、ハッキリと口に出して尋ねる。
「教えてくれエイル。聖石に適合してしまった少女からそれを取り除く術を。天使となってしまった少女を救う術を!」
『…………』
 エイルはうつむき加減にあごを引いたままシールディアをしばし見つめ、その後スッと視線を竜王の方へスライドさせた。
 竜王は何も言わず、ただコクンと一度だけ頷く。それを見たエイルが観念したように瞳を閉じ、キュッと唇を噛みしめた後、シールディアに向き直してゆっくりと瞳を開いた。
『あなたは本当に、あの子に似ていますね』
「え……?」
『わかりました。……嫌ですね、こういう時は本当に、ヒトとしての心など無ければいいと思います』
「エイル……」
 悲しげな笑みのまま、エイルが低いトーンで語り始める。今にも消えてしまいそうなほど儚いエイルの表情を見つめたまま、シールディアは静かにその言葉に耳を傾けた。
 これは希望になるのだろうか。アリアを救うための希望になるのだろうか。
 シールディアは期待と不安を胸に抱えたまま、その答えを待った。


 竜の里を出て、グラズヘイムの遺跡で待機しているシェドは、焦る気持ちを落ち着かせる意味も込めて大きく深呼吸した。
 体の中の淀んだ空気と共に焦る気持ちを吐きだし、新鮮な空気と共に気持ちを切り替える。ここからアリアの居るジペインの町まではどんなにシールディアが飛ばしても三日近くかかる。焦って十分、二十分程度早く発っても、到着時刻にはほとんど影響しないだろう。だから、焦るだけ無意味だ。
 それで納得できない部分もある。一分一秒たりとも無駄にしたくないという衝動。それは、それほどに助けたい少女の存在がシェドにとって大きなものである証だろう。
 今ならそれを素直に認められる。受け入れられる。
『そうだ。確固たる信念は、無心と同じくらいに純粋なものとなる。それこそがドラゴンとしての力を使いこなすために必要なことだ』
「……お前はいちいち人の心を読んでから話しかけてくるな」
 シェドの前にはアダムとイヴの姿がある。見送りのつもりなのか、二人はシェド達がこの場に初めて訪れたときと同じようにこちらを見据えたまま佇んでいる。
『私もドラゴンであるが故、本能的に天使は敵だと見なしている。だが、同時に私はお前がその天使のために戦うことを認めている。いや、興味深いといった方が近いだろう』
「確かに、天使の味方をするとわかっている相手に稽古をつけるなんざ、ドラゴンとしてみりゃ矛盾した行為だな」
『私は単純にお前の力を知りたかっただけだ。そして、その生き様、行く末を見てみたいと思った。だから稽古をつけたのだ』
「ま、お前の思惑なんざどうだっていいさ。結果として俺は強くなれた。それでいい」
『お前が強くなれたのは、お前自身が自分の本心と向き合ったからだ。私は何もしていないさ』
 不敵に笑いながらアダムが目を細める。その隣で、イヴがアダムの言葉に同意するかのように優雅に微笑んだ。殆ど無表情に近いにもかかわらず、何故かシェドには、二人の表情がまるで成長した子供を眩しく見つめる両親のように思えて仕方ない。
 子供扱いされているのは正直面白くないので、シェドは軽くため息を漏らして視線を二人から逸らした。
 丁度その時、目映い閃光が遺跡内を駆け抜けた。シェドは一瞬瞼を閉じたが、すぐに目を開いて突如として現れた二つの影を見遣る。
『遅くなって申し訳ありません』
 現れたのは浮かない顔つきのシールディアと、同じくどこか暗い気を背負ったエイルだった。
「エイルも見送りに来てくれたのか」
『はい』
 覇気のないエイルの隣で、シールディアはそれ以上に元気がない。アリアのことを心配しているというより、何か別のことで思い悩んでいるような感じがする。
 おそらくは竜王の話で何か聞き、そのことを考えているのだろう。竜王が先にシェドを行かせた以上、シェドの耳には入れたくない話のはずだ。ならば、聞くだけ野暮というもの。
「シール、すぐに行けるか?」
 だから元気のない理由を尋ねたりしない。何を悩んでいるかわからないが、その答えはきっとシールディア本人が見つけるだろう。
「……ああ、問題ない」
「よし、じゃあすぐに出発だ。エイル、それにアダム、イヴ、世話になったな」
 何となくシールディアの頭にポンと手を乗せ、軽く撫でながら見送りの面々を見つめる。
 エイルは儚げな笑みで、アダムとイヴは感情の薄い笑みでそれぞれ視線を返し、シェドは首肯してシールディアを見つめる。
 シールディアが数歩シェドから離れ、美しい銀竜へと姿を変える。シェドはその背中に勢いよく飛び乗り、翼の付け根を右手で強く掴んだ。
『シェド……』
「何だ?」
 ゆっくりと上昇を続けながら、ふいにシールディアの声がシェドの脳裏で木霊した。怯える子猫のような力ない声に、シェドは優しく尋ね返す。
『必ず……、必ずアリアを助けよう』
「ああ。もちろんだ。……何も心配するな。俺が必ず、あいつを助けるさ」
『うむ……。では、行こう』
 銀色の巨体が空を裂く。シェドの耳にビョウビョウと風切り音が鳴り響き、バサバサと茶色の髪が暴風でなびく。
 シールディアの言葉には覇気がなかった。助けようという言葉だったが、それは助けてくれと懇願しているように感じられた。そう感じたからこそ、シェドは力強く答えた。
 それは同時に、自分自身に対しての宣言。アリアを護るという言葉を強く心に刻み込み、シェドはシールディアの背中から世界をジッと凝視する。
 何処までも澄んだ青い空。青々と茂る森の木々。群れで空を泳ぐ白い羽の鳥。
 世界は平和そのものだ。この世界に住まう者は、それぞれの人生を謳歌し、必死に今を生きているのだろう。
 だがたとえ世界の敵であり、平和のうちに生きる人々に忌み嫌われる存在であったとしても、シェドは天使と呼ばれる少女を護る。それこそが、シェドの生きがい。
「待ってろ、アリア!」
 護りたい者の名前を蒼穹に吼え、シェドは強く拳を握りしめた。

* * *

 アルトレア大陸の南東部に位置し、発達した都市には馬を使っても数日かかるという辺鄙な場所にあり、また土地柄、古代遺跡なども周囲にないため、ジペインの町はまさに田舎の片隅にひっそりと佇む長閑で穏やかな町だった。
 青い空から太陽が燦々と日光で大地を照らす夏場には、町のあちこちの畑で夏野菜の収穫がピークを迎え、市場には新鮮な野菜が毎日並ぶ。
 だが今、青果を実らせていた畑は焼け、長閑で平和のうちに生きていた人々は理不尽な魔の手によって力なく大地に倒れ伏せていた。
 それが彼らのやり方。このアルトレア大陸最大の王国トルメキアを古来より影で支え、世界を影ながら支配し続ける秘密組織ニーヴルの手口だ。
 シルヴァランスはウインドジェムの埋め込まれた細身の剣を構え、目の前でこちらに凄まじい殺気を送りながら戦闘態勢を整えているうり二つの容貌をした女達を見据えた。
 突然の襲撃。その目的は間違いなく、世界を滅ぼすとされる天使。平和な世界で安らかに自分の幸せを見つけつつある無垢な少女から、再び幸せと感情を奪い、少女を世界の敵に仕立て上げることは、決して許されるものではない。
 シルヴァランスがここに居る理由。自分の中にある確固たる信念。それを貫くため、シルヴァランスは負けられない。決して、退くことはない。
「これだけの戦力差を目の当たりにして絶望しないなんて、あなた、柔な顔してる割には芯が強いのね」
「お姉様、今ならまだ間に合います。こちら側に、私達の元へ帰ってきて下さい。私達姉妹が姉と慕った、あの頃のお姉様に戻って下さい」
 藍色の髪を短く切りそろえ、萌葱色の双眸をやんわりと緩めているフレイデリカとアンリエッタ。二人はかつて、中立都市デオラガーンで戦った相手で、セシリーと二人がかりで何とか倒せた相手だ。
 紺色の装束の下には鉛色に光る鎖帷子が見え、ショートパンツのような装束と黒のニーソックスの合間にのぞく肌は透き通るように白い。フレイデリカは右に、アンリエッタは左に小刀を構え、反対の手にフレアジェム、アイスジェムの埋め込まれた手っ甲を装着している。
「私はもう、ニーヴルに帰るつもりはないわ。いいえ、帰るという表現はおかしいわね。初めからあそこは私の居場所じゃなかった。だから、私はもう二度とニーヴルに関わったりしない。今、私には帰るべき場所が、この人の隣という帰る場所があるのだから」
「……ッ……。お姉……様……」
 フレイデリカが下唇を噛みしめながら恨めしそうにセシリーを見つめ、その後、キッとシルヴァランスに殺気に満ち満ちた視線を投げつける。
「確かに、これだけの戦力差で僕たちに勝ち目はないでしょう」
「あら、わかってるじゃない」
 アンリエッタが、穢らわしいものを遙か頭上から見下ろすような視線をシルヴァランスに向ける。
 敵は目の前の二人だけじゃない。町中に入り込んだニーヴルの兵士達。シルヴァランスが護りたい少女のところにはエインフェリアと呼ばれるニーヴルのエリート兵士が三人。さらにデオラガーンでシェドを完膚無きまでに圧倒したミゲル。レミネーラ、キャロルと呼ばれたニーヴルの幹部クラス。そして、世界を滅ぼす存在とされる天使が三人。
 今の状況は数人の町の傭兵が、一国の軍隊を敵に回しているよりも不利な状況だろう。シルヴァランスも何度かアリアが天使化して戦う様を見てきた。その圧倒的な力を間近で見たシルヴァランスには、この状況を打破できる手だてなど何も考えられない。
 それでも、絶望して諦めてしまうわけにはいかない。それが信念。貫き通すと誓い、共に歩んでいこうと言ってくれた大切な人と共有する思いなのだから。
「たとえどんなに状況が不利であっても、僕は決して諦めません。絶対に護ると誓った少女のため、そしてこれからも同じ時を刻んでゆきたい愛しい人、生まれてくる新しい家族のためにも、絶対に負けられません!」
 シルヴァランスは物怖じ無く吼え、一歩前に出る。それに続いて前に出ようとしたセシリーをシルヴァランス手で遮った。
「何のつもり?」
「僕一人で戦います。セシリーさんは安全な場所で待機していて下さい」
「えっ……!」
 驚いたように目をまん丸と見開いたのはセシリーだけではない。双子の姉妹もまた、驚きを隠せない様子で呆然と佇んでいた。
「な、何言ってるのよ! あなた一人で太刀打ちできる相手じゃないことくらい、わかっているでしょう!」
「はい。ですがそれでも、セシリーさんを戦わせるわけにはいきません。セシリーさんの体は、今はセシリーさん一人のものではないのですから」
「……ッ……!」
 突然の状況できっと意識の外にあったのだろう。だがシルヴァランスの言葉でようやく自分の体のことを思い出したのか、セシリーは悔しそうに下唇を噛んで眉をハの字に曲げながら、今にも泣き出しそうな表情でこちらを見つめてくる。
 護りたい人がいるのに、その時自分は何も出来ない。そんな時の辛さ、不甲斐なさ、申し訳なさを、シルヴァランスもよく知っている。
「大丈夫です。僕は絶対負けません」
 シルヴァランスは笑顔でセシリーにそう言い残し、剣を構えたまま双子達に歩み寄っていった。
 セシリーを後方に残し、シルヴァランスと双子の距離は五メートルを切る。互いの表情がはっきりと確認でき、双子は寂しさの入り交じったような憎悪の表情を浮かべていた。
「……一つだけ教えなさい」
 腰を落として小刀を構えたまま、フレイデリカが静かに尋ねる。
「お姉様を下がらせた理由。お姉様の体がお姉様一人のものじゃないって意味は……」
「先ほど宣言した通りです。生まれてくる新しい家族のためにも、今セシリーさんを戦わせるわけにはいきません」
「…………」
 数分前まで、ようやく待ちに待った宿敵に出会えたという愉悦に歪んだ笑みを浮かべていた二人が、今は苦虫を噛み潰したような憎悪と困惑に満ちた表情を浮かべている。
「……そう、あなたはお姉様の心を完全に私達から奪ってしまったのね」
「私達があなたを殺したら、お姉様はもう二度と、私達にあの暖かい笑顔を向けてはくれないのでしょうね」
 姉妹のシルヴァランスに向ける視線は恋敵を見つめるそれに似ていた。その視線に含まれる嫉妬という感情は、姉妹が未だにセシリーに対して捨てきれない思いを抱いている証拠だろう。
 相手は困惑している。例え卑怯だと言われようが、今はそれを好機と捉える。
「はあああっ!」
「――ッ!」
 シルヴァランスは大地を蹴って一気に間合いを詰め、剣を横に薙いで二人同時に斬りつける。ウインドジェムに意識を注ぎ、体を風の膜で覆い、最初からアクセラレータを全開でいく。
「あぐぁッ!」
 反応しきれなかったフレイデリカが悲痛な叫びを上げてよろめく。鎖帷子のせいで直接致命傷を与えることはできなかったが、体勢を崩すには十分だった。
 しかしシルヴァランスが追い打ちを掛けようと剣を振り上げた瞬間、咄嗟の判断で初撃をかわしていたアンリエッタが、側面から右手の手っ甲に埋め込まれたアイスジェムを輝かせながら仕掛けてくる。
「お姉様を狂わせた罪、その命で償いなさい!」
「遅いっ!」
「……ッ……!」
 アクセラレータを発動中、肉体的な速度は飛躍的に上昇するが、感覚的にはそのスピードに追いつけない部分がある。かつては自分自身のスピードについて行けないというもどかしさに苦汁を飲まされたが、今は違う。体のスピードに、感覚がちゃんと付いてくる。
 シルヴァランスはアンリエッタの攻撃をかわしながらその背後に回り込み、左手の指輪に埋め込まれたジェムへ意識を注いで魔力を解き放つ。
 凝縮された空気の塊が弾丸のようにシルヴァランスの左手より放たれ、風の弾丸は生じた次の瞬間にアンリエッタの背中に激突する。
「ああああっ!」
「アンリエッタッ! ――くっ! おおおおおっ!」
 体勢を崩していたフレイデリカが体を持ち直してシルヴァランスの後方より小刀を手に迫ってくる。シルヴァランスは体を翻しながら剣を両手で握り直し、フレイデリカの攻撃を剣の腹で受け止めた。
 周囲に甲高い衝撃音が広がる。ガチガチと、剣と小刀の刃がぶつかり合いながら火花を散らし、その向こうでフレイデリカが必死な形相でこちらを睨んでいる。
「お前だけは、お前だけは必ず私達が殺すっ!」
 フレイデリカが咆えると、左手の手っ甲に埋め込まれたフレアジェムに光が灯った。シルヴァランスの剣を小刀で制したまま、フレイデリカが朱色に燃え上がる手っ甲を振り上げ、それをシルヴァランスの顔面目掛けて振るう。
「そんな攻撃で――……ッ!」
「はああああッ!」
 シルヴァランスが剣を強く押してフレイデリカの体勢を崩し、そのまま一歩後方へ跳んで手っ甲による攻撃をかわした瞬間、いつの間にフレイデリカの後方へ回り込んでいたのか、フレイデリカのすぐ後ろよりアンリエッタが飛び出してきた。そしてそのままアイスジェムの魔力を帯びた手っ甲でシルヴァランスの懐を抉るように殴りつけてくる。
「ぐっ――ッ!」
 反射的にアクセラレータに回していた魔力を障壁に切り替え、ダメージを最小に抑える。アクセラレータが解除され、シルヴァランスの速度が普通に戻った瞬間、今度は両サイドから姉妹がそれぞれの魔力を帯びた手っ甲で殴りかかってきた。
 姉妹の二つ名は“双身”。さっきの攻撃、フレイデリカの攻撃をかわすまでその後方にアンリエッタが控えていることに気づけなかった。それほどに、姉妹の連携は完成度が高い。
「死になさいッ!」
「それはできません! おおおおおおっ!」
 姉妹が両サイドから同時に攻撃を仕掛けてくる。シルヴァランスは腰を落として剣を片手で握り、その柄に埋め込まれたジェムに意識を注ぐ。
 眩く輝くジェム。シルヴァランスはカッと目を開き、咆えながら剣先で円を描くようにその場で回転した。
「なッ!? ――ぐっ!」
 シルヴァランスを中心に風の障壁がシルヴァランスを包む。まるで小さな竜巻のようにシルヴァランスを包んだ風の壁が、姉妹の攻撃をはじき飛ばす。
 弾かれた姉妹は一度シルヴァランスから距離を取り、憎らしげに睨め付けてきた。
 何度かぶつかってみて、シルヴァランスは直感した。あの時あんなに苦戦した相手だが、今ならシルヴァランス一人でも十分対等に戦える。だがそれは、シルヴァランスが身体的に強くなったわけではない。
 ジェムから魔力が溢れてくる。いや、ジェムの消費量は今までと同じはずなのに、少量の魔力で今まで以上の力が発揮できる。
「この男、あの時より強くなっている? ……くっ、でも、私達だってあの時のままじゃない!」
「そうよ! A級に降格されて、苦汁を飲まされた恨み、今日こそ晴らす!」
 今まで二人で掛かれば余裕で倒せると思っていたのだろう。その上セシリーのこともあり、姉妹は本気ではなかったはず。出来れば相手が油断しているうちに片方でも倒しておきたかったが、シルヴァランス自身、予想以上に軽い自分の体に戸惑っていた。
 本当の戦いはこれから。向こうではアリアが必死に自分の幸せを守るために戦っている。そして後方では心配そうな顔つきでシルヴァランスの戦いを見守っているセシリーの姿もある。
 全力で戦っても勝てるかどうかわからない相手だが、それでも時間を掛けるわけにはいかない。早く倒し、アリアの援護に回らなくてはならない。
 きっとあの人が来てくれる。そう信じ、今はそれまで時間を稼ぎ、必死にアリアを護り続けるしかない。
 シルヴァランスは再度、アクセラレータを全開にして大地を蹴った。


「やっと逢えたぜ! この時をどれだけ待ったことか!」
 目の前で愉悦に歪んだ笑みを浮かべる赤髪をセミロングで切りそろえた少女。後頭部に目立つ黄色い大きなリボンをつけ、亜麻色の瞳には狂気じみた眼光が奔っている。
 胸元に蝶々を模るような黄色の紐リボンを結び、トップもプリーツスカートも朱色。細身の足を包むニーソックスは薄紅色で、全体的に赤で統一されている少女は、燃えるような情熱的な赤と言うより、鮮血で包まれた狂気の赤という印象を他に与える。
 かつて一度対峙したことがあるバーバラが、両手にハンドガンを一丁ずつ握ってこちらを見つめてくる。アリアはバーバラから視線を逸らさず、不慣れなアサルトライフルを手に臨戦態勢を整える。
「あん時、魔弾のおっさんが邪魔さえしなけりゃ、オレが勝っていたはずだ。魔弾のおっさんにも礼をしなきゃいけねぇが、まずはお前だ、レオ!」
「あらあら、熱くなるのは構いませんが、殺しては駄目ですよ、バーバラちゃん。レミネーラ様の命令は、あくまで生かして捕らえること。別に五体満足でなくても構いませんが、殺しては駄目です」
 バーバラの隣でラズベリーが優雅に笑う。バーバラと正反対に、バーバラは瞳も長い髪も水色。衣装もブルーのワンピースドレスで、目には丸レンズの眼鏡を掛けている。武器はサブマシンガンで、確かウインドジェムを扱えるはずだ。
「そっちの男、誰? 魔弾の仲間?」
「違いますよ、スピカちゃん。どうやらトルメキア王国の軍人さんらしいです。ま、そちらは殺してしまって構わないので、別に誰か知る必要もないでしょう」
 自分の身長ほどあるスナイパーライフルを両手で抱えているスピカ。夏の若葉のようなフォレストグリーンの長い髪をサイドテールにまとめ、まるで天使のように感情の薄い瑠璃色の瞳はガラス玉のように煌めいている。
 首に黒のチョーカー、白の長袖ブラウスの上に黒のベストを重ね、白波のようなフリルが縫いつけてあるショートスカートの下に黒のスパッツを穿き、小さな足を守る靴も漆黒で太陽光をすべて吸収している。
「見くびられたものだな、この俺も」
 アリアの隣でスルトが米神に汗を滲ませながら呟く。苦戦はするだろうが、単体なら少女達よりスルトの方が実力は上だろう。だがそれでもスルトの表情に余裕がないのは、少女達が複数であるからではなく、その後方に控えている存在に、自分と圧倒的な実力の違いを感じ取っているからだろう。
 アリアも同じだ。例え平和の内に過ごし、過酷な現実から離れていた今のアリアでも、目の前の少女達なら何とかなると思う。だがその後方、かつてあの人を追いつめた男は、同じ空間に居るだけ圧倒されそうなほど強い。
 そして何より状況を絶望的にしている存在。それがニーヴルの副社長、レミネーラの隣で焦点の合ってない瞳を虚空に向ける三人の少女達。かつてのアリアの姿であり、天使と呼ばれる世界の敵。
「レイチェル、同時に仕掛けてまず一人を倒すぞ。その後二手に分かれ、各個撃破する」
「うん、わかった。でも私、ライフルじゃうまく戦えない」
「そうだな。ならば最初にあの赤い髪の女を狙い、その武器を奪おう」
「……あの子、ジェムは使えないけど三人の中で一番強いと思う」
 以前戦ったとき、バーバラはジェムこそ使えないが接近戦における戦闘力は他の二人を凌駕していた。アリアの最大の武器である素早さですら互角。それ以外のスキルでは完全にアリアが押されていた。
「倒すならスピカがいいと思う。遠距離攻撃で援護射撃されるのは厳しい」
「なるほど、正論だ」
 スルトがアリアに笑みを見せる。アリアは頷いて応じ、アサルトライフルを両手で握って腰を落とした。
「行くぞっ!」
 スルトの掛け声で、二人は同時に攻撃を仕掛けた。身構えるバーバラとラズベリーの脇を駆け抜け、スピカに狙いを定めてアリアは銃口を向け、スルトが剣で斬りかかる。
 だがアリアがライフルのトリガを引こうとした瞬間、ラズベリーの右指に埋め込まれたウインドジェムが眩い光を放った。
 多少のダメージは覚悟している。無傷で倒せるほど生やさしい相手ではないことくらい十分理解している。だからアリアは、ラズベリーのジェムによる攻撃と、バーバラの二丁拳銃による攻撃を受け流そうと思っていた。
 だが、アリアの頭の中で出来上がっていたシミュレーションと現実に、大きな差違が生まれる。
「行きますよぉ。我慢して下さいねぇ」
「……くぅッ……!」
「なッ……!」
 思わずスルトが驚きの声を漏らす。アリアも目を見開いて立ち止まり、急遽すぐ脇まで迫っていたバーバラに体を向けて攻撃に備える。
「テメーがスピカを狙うことくらいお見通しだっつーの!」
「はい。こちらとしても、相手がスピカちゃんを狙ってくることは当然想定していますのでぇ、これは型どおりの行動ですわ」
 ラズベリーがサブマシンガンを構え、スルトが舌打ちしながらラズベリーに向かい合う。
 アリアとスルトがスピカ目掛けて飛びかかった瞬間、ラズベリーはアリア達にではなくスピカに向けて魔法を放った。空気を圧縮させた塊を放ち、鈍器で殴ったような打撃音と共にスピカが苦悶の表情を浮かべ、その小柄な体は宙に舞って後方へ勢いよく吹き飛ばされた。
 型破りな方法で距離をとったスピカに追撃をかけようものなら、背後からバーバラとラズベリーに蜂の巣にされる。この距離では、スピカの元にたどり着く前にやられるだろう。
「私、接近戦苦手。でも、レオには負けない」
「――ッ!」
 紅蓮の閃光に続き、吹き飛ばされた遠方よりスピカのスナイパーライフルが火を噴く。打ち出された弾丸は猛々しい炎を巻き上げ、あの人が得意だったのと同じ、魔法を付加した銃弾が迫る。
「レイチェルッ!」
「大丈夫。……お父さん、こうなったらスピカの攻撃をかわしながら二人を各個撃破するしかない」
 スピカのフレイムショットの着弾点を見極めて左方へ大きく飛翔し、空中でスルトの指示を仰ぐ。だがすでにアリアはバーバラをターゲットとして攻撃する態勢を整えており、指示を待つと言うより確認作業だ。
 スルトが苦々しい表情で首を縦に振り、剣でラズベリーに斬りかかった。それを確認し、アリアは完全に標的をバーバラ一人に限定する。
 遠方からのスピカの援護射撃はやっかいだが、バーバラはラズベリー以上に接近戦を仕掛けてくるタイプだ。接近戦になれば、そうそうスピカも仲間を巻き込まんと援護射撃できないだろう。
 アリアは大地に降り立つとすぐにバーバラとの距離を詰める。嬉々とした笑みを浮かべるバーバラを見据え、不慣れなアサルトライフルの銃口を向ける。
「それでいい! テメーの相手はこのオレさ!」
「……何であなたは戦うの? 私とあまり歳は変わらないはず。どうしてそんなにも楽しそうに他の人を傷つけることができるの?」
 アリアはバーバラにそう問いかけながら引き金を引く。ライフル弾をかわし、バーバラの両手に握られたハンドガンが幾度も閃光を放ち、弾丸の嵐がアリアを撃ち抜くべく襲いかかってくる。
 ライフルの銃身で直撃コースの弾丸だけを弾き、皮膚の表面や衣服を裂く軌道の弾丸はすべて無視する。すべてを回避する余裕など無い。
「楽しそうじゃねぇさ。実際楽しいんだよ! テメーは違うのか? 自分の力が他人の力を凌駕し、その上に立っていると実感したときの制圧感! あの快感を求めて戦いに身を委ねていると、高揚感が溢れてくるだろ!」
 歯を剥き出しにして笑いながら銃を連射するバーバラを見据え、アリアは軽く下唇を噛む。
「あなたも力に囚われている。あなたも、ニーヴルに心を壊された犠牲者の一人。私には大切な心を取り戻すまで側で見守ってくれた人がいた。あなたにも……、ううん、あなただけじゃなくて、ラズベリーやスピカ、私と同じく心奪われた天使、みんなにも、側で支えてくれる人が居たなら、きっとこんな風には……」
「ごちゃごちゃ言ってんじゃねぇよ! 下手な考えは、取りあえず両腕両足ぶっ飛ばされてからにしなっ!」
「……っ!」
 銃弾がアリアの頬を裂き、少量の血が宙に飛散する。皮膚を裂かれるのと同時に傷口を灼かれるため、傷口がズキズキと痛覚を刺激するが、この程度の痛み、あの頃に比べたら気にするまでもない。
 アリアは傷による痛みではなく、他のことで表情を険しくする。
 バーバラにしろ、ラズベリーにしろ、スピカにしろ、みな年齢的にはアリアと大差ない。
 そんな彼女たちを縛るもの。歪んだ心にせしめたもの。かつてアリアの心を奪い、感情を封じたもの。それらはすべて共通であり、すべての闇の元凶。
 何故犠牲者であるアリア達が互いに傷つけ合い、そう仕立て上げた元凶は後方で傍観者を演じているのだろうか。
 それが悔しくて、憎くて、憤りを隠しきれない。
 アリアは唇を噛みしめ、表情を歪めながらバーバラの攻撃を受け流す。戦いでしか変えられないのなら、今は戦うしかない。
 バーバラを倒し、ラズベリーやスピカ、ミゲル、キャロルを倒し、他の天使達を退け、そして本当の敵、レミネーラを倒す。そのためには、目の前のバーバラを倒すしかない。
「ハハハハハッ! 平和ぼけしてるかと思えば、あの頃より動きがいいじゃねぇか!」
「…………」
 バーバラの嬌声を耳に入れながら、アリアは心の宿る怒りを銃弾に込め、本当の敵を倒すべく大地を駆けた。


 セシリーはシルヴァランスの背中を見つめたまま拳を強く握って佇んでいた。
 何も出来ない。何の役にも立てない。一緒にアリアを護っていくと誓った相手は今、必死に戦っているのに、セシリーは何も出来ず、見守ることしかできない。
 そっと腹部に手を添えてみる。まだ命の息吹を感じるほどの反応はないが、間違いなくここに新しい命が宿っている。だからこそ、セシリーは戦うことを許されず傍観している。
 もう長い時を一緒に過ごしてきたシルヴァランスの背中。あの背中は、あんなにも大きかったのかと、今更ながら再認する。
 いつもは少し頼りないシルヴァランスも、今はその大きな背中をセシリーに向け、戦えないセシリーと、その中に宿るもう一つの命、そして二人で護ろうと誓った少女のために凛然と敵に立ち向かっている。
 その隣に立って共に戦えないことを情けなく思うと同時に、護られる立場、護ってくれている相手に対して言葉では言い尽くせないほどの感情を覚える。今まで以上の愛しい気持ちが、心から溢れてくる。
「負けないで……」
 セシリーは静かに、祈るようにそうつぶやいた。かつてセシリーを姉と慕った双子の姉妹を圧倒するシルヴァランスだが、決して余裕で優位に立っているわけではない。
 それにアリアを護るために倒さなければならない敵はまだまだいる。役立たずのセシリーは、シルヴァランスやスルト、護られるべきアリア自身が戦っている様を見守るしかできない。
「……早く、早く来なさいよ」
 何も出来ない自分を棚に上げてと言われるかもしれない。でも、自分が何も出来ないからこそ、強く願うことがある。
 セシリーは歯を食いしばりながら激しい戦闘を見つめ、心の底から小さく小さく虚空に呟く。
「アリアを助けに来なさいよ、シェド……」


 シルヴァランスの剣がアンリエッタの肩口を裂き、アンリエッタの後方から飛来したフレイデリカの小刀による攻撃を避けながら、シルヴァランスはウインドジェムで空気の塊を放ってフレイデリカを吹き飛ばす。
 さらに、体勢を立て直して手っ甲による攻撃を仕掛けてきたアンリエッタの背後にアクセラレータで回り込み、鎖帷子で守られている胴に思いっきり回し蹴りを叩き込んだ。
「あぐぁっ!」
 よろめくアンリエッタに斬りかかる直前、シルヴァランスが後方から気配を感じ取って左方へ跳ぶと、一寸先をフレイデリカのフレアジェムの炎を纏った拳が駆け抜けた。
「ちぃっ! ちょこまかと!」
「あなた達こそしぶといですね!」
「ぐッ!」
 体を横に回転させながら遠心力で威力を高め、シルヴァランスは横薙ぎにフレイデリカの脇に剣を奔らせる。咄嗟に剣を小刀で受け止めたフレイデリカだが、シルヴァランスの剣を包んでいた爆風が小さな竜巻のようにフレイデリカに直撃し、フレイデリカは苦悶の表情を浮かべながら後方へ数メートル吹き飛ばされた。
 空中で身を翻し、フレイデリカは大地へ降り立つと同時に強く右足を蹴り出して再び真っ向からシルヴァランスに迫ってくる。決して敵に背を向けようとしない姿勢は、まさにニーヴルの猟犬。
 だが、想いも信念もない相手にシルヴァランスは負けられない。もしかしたらセシリーをシルヴァランスの元から奪い返したいという思いがあるのかもしれない。しかし双子がどんな思いを胸に戦っていようと、自分の想いが二人に劣っているとは微塵にも思わない。
 シルヴァランスは腰を落として剣先を大地に付け、迫り来るフレイデリカを睨め付けた。
「はあああああッ!」
 小刀を大きく振り上げて、フレイデリカが叫ぶ。シルヴァランスは大地を裂きながら剣を振り上げ、その攻撃に真っ向から立ち向かう。
 しかしシルヴァランスの剣は空を裂いた。フレイデリカが攻撃するモーションを見せておきながら、すぐに左方へ飛んで攻撃をやめたからだ。
「――ッ!」
 そしてフレイデリカのすぐ後方にはアンリエッタが張り付いており、フレイデリカが飛んだ瞬間にはシルヴァランスの目前にまで迫っており、まさに氷に包まれた手っ甲でシルヴァランスを殴りつける瞬間だった。
 アクセラレータでも回避は不可能だと直感し、シルヴァランスは剣の腹で氷の拳を受け止める。剣と拳がぶつかって衝撃は防げても、凄まじい冷気は空気を伝ってシルヴァランスの頬や衣類を凍り付かせる。
「終わりだッ!」
 アンリエッタが自ら拳を引いて右方へ飛ぶ。するとその背後にはフレイデリカの姿があり、その炎に包まれた拳がまさにシルヴァランスを穿とうとしていた。
「私達姉妹の氷炎拳で死になさい!」
「……それはできません」
「なにっ!?」
 双子の攻撃はデオラガーンで一度直撃を受けている。それがどれほどの威力を持っているかわかっている。だが、それでも当たらなければ意味を成さない。
 絶対的な一撃を持っている以上、相手がそれを狙っているのはわかっていた。シルヴァランスはそれを逆手にとり、敢えてそれを可能に仕向けていた。
「あなた方の技は凄まじい威力と同時に最大の欠点を抱えています」
「……ッ! それは、アンリエッタの!?」
 フレイデリカが驚愕の表情を浮かべる。それはシルヴァランスの剣に、ウインドジェムではない別の魔力が付加されていたからだ。
 剣を包む氷のオーラ。それはすべて、アンリエッタの攻撃で放たれた魔力。シルヴァランスは剣の腹で受けた魔力を風の膜で覆い、次に来るフレイデリカの攻撃を予測していた。
「超高熱と絶対零度。あなた方の技はそれらを組み合わせ、壮絶な威力を生みます。しかし同時に、初撃をもし反射された場合、正負のエネルギーは打ち消し合い――」
 シルヴァランスの剣とフレイデリカの手っ甲が激突し、眩い閃光に続き、氷が一瞬で溶けて水蒸気が爆ぜる。視界が一瞬にして真っ白になり、高温の水蒸気が空間内のものを灼き尽くす。
「――こうして、隙ができる!」
「あああああああッ!」
 悲痛な叫びが白い世界に響き、白い霧が赤く染まる。シルヴァランスが振り下ろした剣は、熱で脆くなった鎖帷子を裂き、フレイデリカの肩口から脇腹にかけて肉を断った。
 無意識のうちに力を抜いてしまったようで、決して傷は深くない。だが戦闘不能に陥らせるには十分の致命傷を与えることができた。
「ぐっ……! こ、こんなはずは……」
 胸元を押さえ、口から血の塊を零しながらフレイデリカの膝が大地に落ちる。
「フレイデリカッ!」
「……すぐに手当てをすれば痕も残らないでしょう。セシリーさんを姉と慕うあなた方とこれ以上戦いたくありません。退いて下さい」
「貴様……! 手加減したと言うのか!」
 肩で息をつくたびに口から血を零すフレイデリカの脇に駆け寄ったアンリエッタが、シルヴァランスを射殺すように睨み付けてくる。
 アンリエッタに肩を抱かれながら、フレイデリカもアンリエッタ同様にシルヴァランスへ殺気に満ちた視線を送り続けていた。あの二人にとって、セシリーがどれほど大切な存在だったのか、そんな存在を奪ったシルヴァランスをどれほど憎んでいるか。二人の表情はまるで親を殺された子が敵へ向けるようなものだった。
「許さない! 絶対に許さない! 殺す! 貴様だけは絶対に私の手で殺す!」
「もうやめてっ!」
 必死の形相で、自由の利かないはずの体に鞭を打って小刀を握り直そうとフレイデリカが手を伸ばした時、ふいに絶叫に近い叫びとともに飛来した影がフレイデリカを覆った。
 蒼い髪が戦場に靡き、一瞬、時が止まったような静寂が辺りを包む。
「セシリー……お姉様……?」
「もうやめて。お願いだから」
 フレイデリカを抱きしめながらセシリーの嗚咽混じりの声が響く。シルヴァランスは剣を引き、黙ってその様子を見守ることにした。
 セシリーの瞳に浮かぶ涙。あれはアリアやシールディアの姉を務めたセシリーが、アンリエッタとフレイデリカの姉を務めていた頃と変わらず今も二人を大切に思う証なのではないだろうか。ニーヴルに囚われているせいで歪み、狂い、壊れてしまっている妹達に、何もしてやれなかった自分を申し訳なく思っているのかもしれない。
「何を……なさってるんですか……。あなたは、もう、私達のお姉様では……」
「そうね、こんな私ではもう、あなた達に姉と慕われる資格はないわ。あなた達を見捨て、自分の幸せを求めて組織を去った私は、姉失格よ」
 戸惑うフレイデリカの手が虚空を彷徨う。セシリーに強く抱きしめられたまま、フレイデリカはどんな感情をどこへ吐き出せばいいのかわからないように、まるで泣き出しそうな表情でアンリエッタを見つめ、そしてシルヴァランスを見た。
 アンリエッタもフレイデリカ同様、フレイデリカを包むセシリーの背中を見つめたまま微動だにしない。ジッと、どうしたらいいのか困惑しているようにセシリーの背を見つめている。
「私は、私が護れなかったシェミニールの代わりとして、歳の近いあなた達を他のエインフェリアと別扱いするようになった。それはただの自己満足、自己欺瞞だったわ。でもね、言い訳に聞こえるかもしれないけど、あなた達のことを本当の妹みたいに思っていたのも事実なのよ。そして、あなた達が私を姉と慕ってくれて嬉しかったことも、嘘じゃない」
「……なら、何故私達を見捨ててあんな男と一緒に組織を去ったのですか!」
「シルヴァランスと出会ったのは組織を去って半年以上過ぎてからのことよ。私が組織を去った理由は単純。魔弾のシェドに敗れた私は、おめおめ組織に戻ったところでどうなるか目に見えていたから」
「え……?」
「私はしばらくシェドと一緒に旅をすることにしたわ。そして私は、シェドの傍らにいた幸せを知らない無垢な少女のことを知り、その子を側で支えてあげたいと思った」
 セシリーがアリアとシェドの旅に加わった理由。シルヴァランスの知らないところで始まった三人の旅であるはずなのに、どうしてかその光景が、その時のセシリーの気持ちがわかるような気がする。
 それはシルヴァランスもセシリーと同じ思いでアリア達の旅に加わった、言わば似たもの同士だからかもしれない。
 シルヴァランスが見つめる先で、フレイデリカの手から小刀が大地にこぼれ落ちた。
「今さらこんなこと言っても言い訳にしかならない。けれど、ちゃんと自分の足で立っているあなた達と違って、あの頃のあの子は、感情を失っていて、幸せを感じることができない可哀相な少女だった。だから私は……」
「もう、結構です。お姉様の気持ちは、わかりました」
 虚空を彷徨っていたフレイデリカの手が、すっとセシリーの背に降りた。自分を抱きしめるセシリーを、フレイデリカがギュッと抱き返す。
 それを見たアンリエッタも、その場に腰を落とし、そっとセシリーの背に頬を貼り付けた。
「お姉様は、その子の姉にもなろうと思ったのですね。私達に優しくして下さったように、その子にも優しくしてして差し上げたのですね」
「お姉様は私達のことを見捨てたわけではなく、私達のことを信じて、新しくできた下の妹の世話に従事したのですね」
「……いいえ、私は、自分の……」
「わかってます、お姉様。でもお姉様、今こうして私達のために泣いて下さる、そのことが、今も私達のことを想って下さるお姉様の本心だと思います」
「フレイデリカ……」
「私達にシェミニールと変わらぬ愛情を注いで下さり、そしてきっと、新しくできた妹の幸せのためにお姉様はずっと戦ってこられた。ならそろそろ、お姉様自身が幸せに願ってもいい頃なのに、それを私達は自分たちの幸せを求める余りに……」
「アンリエッタ……」
「ごめんなさい、お姉様っ……!」
 二人の声が重なり、セシリーにしがみつく手に力が籠もる。幼い子供のように必死にセシリーの温もりを求め、泣きつく双子にそっとセシリーは手を差し伸べ、赤子をあやすように二人の頭を優しく撫でていた。
 もう彼女らと戦うことはないだろう。そんな安堵がシルヴァランスを一瞬満たす。
 だがすぐに気持ちを切り替え、シルヴァランスはセシリー達に背を向けた。
 倒すべき敵はまだまだいる。アリアとスルトが三人の少女を抑えている今、二人を信じてシルヴァランスは敵の本陣に突撃する以外、圧倒的な戦力差を跳ね返すことはできないだろう。
 狙うはかつてシェドを追いつめたミゲルという男。自分と相手に圧倒的な力の差があることくらいわかっている。だが、それでも戦わなければならない。
 シルヴァランスが強く大地を踏みしめ、剣を手に敵の本陣へ突貫しようと飛び出した瞬間――
「……ッ! なっ……!」
 世界を衝撃が駆け抜けた。
 不可視の衝撃波がまるで木刀のようにシルヴァランスの全身を打ち、突如として吹きだした圧倒的な存在感が殺気のようにシルヴァランスの全身を竦ませる。
 この威圧感にシルヴァランスは身に覚えがある。
「まさか……!」
 振り返ったシルヴァランスの視界に、光り輝く純白の翼が映し出された。


「オラオラオラオラッ!」
「……っ……」
 バーバラの放つ止まない銃弾の嵐をアリアは必死に避け続ける。不慣れなアサルトライフルで応戦するが、バーバラは目障りな羽虫をはたき落とすようにアリアの銃弾をハンドガンの銃身で弾いている。
 アリアもアサルトライフルの銃身で避けきれない銃弾を防いでいるが、数多の銃弾を受けてライフルの銃身はあちこち弾痕だらけだ。長くは持ちそうにないし、銃身が曲がってしまっては暴発を誘発する。
「ハハハッ! そう言えばテメーはオレと同じでハンドガンタイプの扱いを得意としてたな! 不慣れなその武器じゃ戦えませんってか!」
 バーバラもアリアがライフルの扱いに戸惑っていることを知ってか、かなり積極的に攻撃を仕掛けてくる。互いの顔つきがハッキリ見えるほどの近距離で銃弾をかわし合い、時折体術を交えて攻撃に彩りを付ける。
 これだけ近距離ならスピカの援護射撃はそれほど気にする必要はない。スピカもそれをわかっているのか、アリアよりもスルトに重きを置いた射撃をしているようだ。スルトが接近戦を得意とするのに対し、ラズベリーは中距離戦を得意とするタイプであるため、必要以上にスルトをラズベリーに近づけさせないよう、スピカはアリアよりもスルトを重点的に攻撃しているのだろう。
「これじゃ、あの時の雪辱は果たせねぇよ! もっとオレを楽しませろ!」
「……銃なんか、どんなに撃っても決して楽しくなんかない」
「なに? ――ぐっ!」
 アリアは後方へ飛び、間合いを詰めようとするバーバラの足下に銃弾を放つ。放たれた銃弾を無駄なくかわしたバーバラだが、銃弾は転がっていた小石に命中し、弾かれた小石が銃弾を避けたバーバラの米神に直撃した。
 同じ武器を得意とし、同じようにジェムを使えないアリアだからこそ、バーバラの動きはある程度予想が付く。今のも、バーバラが避ける方向を予想した上で故意に小石を狙ったのだ。
「銃を撃っても、それは人の幸せを奪うだけで何の喜びも生まない。戦いは心にトゲを刺すことと同じで、苦痛以外の何物でもない。戦いは、全然楽しいものじゃない!」
「……ハ、“心なき天使達”とは思えないセリフじゃねーか」
「私には心がある。今、心を失ってしまっているのはあなたのほう。人を思う気持ち、穏やかな生活の中で小さな幸せを得たときの喜び、ささやかだけど掛け替えのない大切な時間を送るために必要な心を、見失っているのはあなたのほう」
「………」
 バーバラが米神から流れる血を手で拭い、自分の血を見つめてから鋭い視線をアリアに向ける。
「は……、はははは……。オレに心が無い、だ?」
 鋭い眼光を奔らせたまま、バーバラが狂気じみた笑みを浮かべる。あまりの禍々しさに、アリアは自分とそれほど年の違わぬ少女がこんな表情を浮かべるのかと、一瞬背筋が氷りついたよう錯覚する。
 ニーヴルが内包する底なしの闇。それに囚われている人間は、ああも哀れな存在なのだろうか。そしてアリアも、かつてはその闇に溺れていたのだろうか。
 そう考えるだけでゾッとする。もし闇から抜け出せなかったら、きっとアリアもバーバラのように大切な何かを失ったままニーヴルの傀儡と化していたのだろう。
「バーバラ、それ以上闇に身を委ねちゃダメ! 勇気を出して外に踏み出せば、きっと暖かい光が迎えてくれる!」
「黙れッ! テメーの戯れ言なんざ聞きたくねぇっ!」
 バーバラの銃が火を噴く。二丁の拳銃から放たれた弾丸がアリアの頭上を駆け抜ける。
「――っ!」
 直感的にアリアは左方へ飛んだ。明らかにアリアの頭上を越えていきそうな銃弾だが、何故バーバラがそんなことをする必要があるのか考えれば自ずと答えが見えてくる。
 放たれた銃弾は虚空で交差し、アリアの頭上で弾ける。弾丸同士の衝突で弾道が変わり、一発が天へ上り、もう一発が垂直落下でアリアに襲いかかる。
「くうっ!」
 避けきれなかった弾丸がアリアの右肩を深く抉り、真っ赤な血が吹いた。左方へ交わさなければ、弾は間違いなくアリアの脳天に突き刺さっていただろう。
 レミネーラが殺すなと言っていたことなど忘れているようだ。完全に狂気に身を任せたバーバラが、殺気を全身から迸らせながら次々と跳弾を繰り出してくる。
「闇を抜け出せ? 光が迎える? テメーのいう幸せが何か知らねぇが、オレに必要なのは相手をぶっ殺した時に感じる喜びだけだ! それがオレの生きがいだ!」
「……生きがい……。――くっ!」
 先程までの直線的な攻撃だけじゃない。跳弾を駆使したバーバラの攻撃は、もはや多角的な空間全体を支配する攻撃。アリアの四方八方で銃弾同士が弾け、あらゆる方向からアリアに襲いかかってくる。
 勘だけを頼りに避け続けているが、完全に避けきれるものではない。あちこちの衣服を裂かれ、アリアの皮膚を銃弾が鋭い刃のように裂いていく。
 本気を出したバーバラはアリアよりも圧倒的に上だった。それでもアリアの心を支配するのは、自分の背後に迫る敗北ではなく、人を殺めることにしか喜びを見いだせない悲しいバーバラの心に対する同情。
「……そんなものは生きがいじゃない。人を傷つけることが生きがいなんて、そんなの悲しいだけ」
「レオッ!」
 もはや言葉だけでバーバラは止められない。このままでは一方的にやられるのを待つだけだ。
「……なら、やるしかない」
 必死に銃弾を避けながら、アリアは心を落ち着ける。自分の幸せを守ること、バーバラの心を救ってあげたい気持ち、レミネーラに対する怒り、すべてを抑え、自分の感情を制御する。
 さざ波のように心を穏やかに保ち、強い意志を持って己を維持する。そうすることで、あの力を使ってもアリアはアリアで居られる。
「死ねぇっ!」
「イヤ」
「――ッ!」
 アリアは己の中に眠るすべての力を解放する。本当はもう二度と使いたくなかった力。両親の前では一度も見せたことのない、アリアが天使である証。レイチェルという存在を壊してしまうかもしれないけれど、それでも今、その力を使わなければ現状を打破できないと理解している。
 胸に埋め込まれた聖石が熱く眩い閃光を放つ。聖石の光が世界を真っ青に染め上げ、アリアの体を金色のオーラが包んでいく。
「な、なんだよ……! こ、これは……天使……?」
 驚愕の声を漏らすバーバラの瞳には何が映っているだろうか。
 虚空に浮かぶ光の翼。アリアの背中から伸びた実体のない翼が、アリアの身をフワリと地面から浮かび上がらせる。バーバラの言うように、その姿は天使と呼ぶべきもの。
 視界から色が消え落ち、世界がセピア色に映る。色と共に抜け落ちていきそうな感情を必死につなぎ止め、アリアは聖石から噴き出すどす黒い感情を抑えながら自己を維持する。
『アアアアアアッ!』
 天を裂く咆吼を上げ、天使化したアリアはバーバラに襲いかかった。
 倒すためではなく、深い闇の底から救い出すために。


 重傷のフレイデリカを連れて去っていったアンリエッタを見送り、セシリーはその場に立ちつくしていた。
 二人の過去を知っているセシリーには、どうして彼女たちがあれほど歪んでしまっているか、どうしてセシリーとシルヴァランスを執拗に狙ってきたか大体理解している。
 かつてセシリーがシェドに戦いを挑んだ理由。それは組織の命令で天使を捕らえるためではない。セシリーが勝手に求めていたシェドへの憧憬、それを裏切られたという自分勝手な逆恨みで、セシリーはシェドに戦いを挑んだのだ。
 アンリエッタもフレイデリカも、セシリーに何か偶像を重ねていたのだろう。組織を去ったセシリーに、その期待、憧れ、思慕の情をすべて裏切られた、そう思い、またそうなった原因をシルヴァランスに向けたのだろう。
 人の心は簡単に歪み、人と人は簡単にすれ違い、そして一度絡んだ糸を解きほぐすのは容易ではない。けれど、決して不可能ではないことを今回改めて確認できた。
 きっと妹たちはわかってくれただろう。セシリーはそう思いながら、気持ちを切り替えて再び緊張の糸を張り直そうとした。
 だがその時、世界を閃光が駆け抜けた。
「……ッ! アリアッ!」
 大気を揺らす圧倒的な存在感。大地を鳴動させる凄まじい衝撃。振り返ったセシリーの視界に映し出されたのは、世界の敵と呼ばれる天使と化した、護るべき無垢なる少女の姿だった。
「アリアさん!」
 セシリーの前方でシルヴァランスが声を張り上げる。その力は使ってはいけない、まるでシルヴァランスの声はそう言っているように聞こえた。
 凄まじい威圧感を引き下げ、アリアが対峙する赤い髪の少女を睨め付けていた。少女は自分と相手の実力に、越えられない絶対的な壁を感じ取ったらしく恐れ震えている。その表情は、まるで絶対の死を悟った哀れな子羊のようだ。
「駄目よアリア! その力を使っては駄目!」
 セシリーも必死に声を張り上げた。駆けだして止めたいと思うのに、アリアの放つ不可視の衝撃波がそれを許さない。立っているだけ、遠目に見つめることしか許されない。
 恐怖に歪んだ表情を浮かべる赤い髪の少女。それに対するアリアの表情。アリアの顔を遠目に見つめ、セシリーは思わず顔を顰めて唇を噛みしめた。
 かつて、デオラガーンでアリアが天使化したときの表情。それは猛々しく荒々しく、まるで獰猛な獣のような、殺気に満ちた表情だった。
 そして、テムルの村を去った後、シルヴァランスの同志だった男と戦っていた時の表情。天使化を初めて制御したあの時は、必死に何かを堪えているような苦痛に歪んだ表情だったとシルヴァランスが言っていた。
 今、赤い髪の少女の懐に拳を叩き込み、さらにスルトと戦っていた水色の髪の少女を蹴り飛ばし、そして光速で遠地にいた緑色の髪をした少女の肩口を強打したアリアの表情。それは苦痛に歪むあの時を凌駕し、ボロボロと涙を零しながら強く唇を噛みしめている悲痛な表情だった。
 溢れる涙が頬を伝い、噛みすぎて切れた唇から血が滴っている。あんなにも辛そうな表情を浮かべるアリアを、セシリーは今までに見たことがない。
「やめて……。もう、それ以上その力を使わないで……」
 祈るように呟くセシリーの手前で、アリアの攻撃は止まらない。スルトが驚愕の表情で見つめる先、アリアは三人の少女を圧倒的な力で粉砕していく。
 少女が悲鳴を上げて血の塊を零す度、アリアの表情が一層悲痛に染まっていった。
「もう止めて! そんな辛そうなあなた、見たくない!」
 心の中であの男の名前を叫ぶ。アリアに戦いを強いるのはセシリー達に力がないから。アリアを護れるだけの力がないからだ。
 自分たちの無力さを棚に上げ、それをわかってる上であの男が来てくれることを願う。
 けれど、アリアを止めたいと願うセシリーの思いに答えたのは、あの男ではなかった。
「そうねー、止めさせた方が良さそうねぇー」
「え……?」
 すぐ背後で声がした。その主を確認しようとした時――
「あうっ……!」
 セシリーの全身に何かが絡みついてきた。目を凝らしても、自分の体には何も付着していない。なのに、まるで粘土で塗り固められたように体を動かすことができなくなってしまった。
「う……、こ、これは……」
 辛うじて声を漏らしたセシリーの脇を、小さな人影が通り抜けていった。赤毛のカールした髪に、戦場には似つかわしくない白衣で身を包んだ女。
「んもう! レオってば何時の間に自分で天使化を制御できるようになったのよぅ」
「キャロル……?」
「これ以上レオに暴れられて、もしもその器が壊れるようなことになったら大変だもんね。そろそろ観戦してるのも飽きたし、さっさとレオを大人しくさせて帰ろうかなぁ」
 思案顔を浮かべた後、今度は闇を含んだ笑みをセシリーに向け、そしてキャロルはチラッとセシリーの後方に目配せした。
 セシリーの手前に、後方で待機しているはずの少女が一人現れた。赤に一滴の黒を落としたような蘇芳色の髪をまるでウールのようにふわふわと流したブローヘアに、双眸に灯るのはカナリヤ色の光。紫紺の着物を桜色の帯で留め、頭には金のかんざしを付けている。
「タウラスはその元エインフェリアさんを見ていてね。ま、あたしが“影縫い”で動きを封じてるから、その人自身は動かないでしょうけど」
 キャロルにタウラスと呼ばれた少女は、小さく頷いてセシリーと向かい合う。感情のない瞳に映った自分の姿を見つめ、セシリーは恐怖を覚える以上に、過去のアリアを見ているような気がして心が締まる思いに駆られた。
 体を動かせない焦りが、汗となってセシリーの米神を流れる。そんなセシリーへ不敵な笑みを見せつつ、キャロルが、
「タウラス、天使化しておいて」
 少女にそう命令を下した。
 少女はコクンと首肯し、次の瞬間、カナリヤ色の双眸が一瞬にして金色に染まった。
 背中から伸びる実体無き純白の翼と、体を包む金色のオーラ。すべての生物が畏怖の念を抱くほどの存在感を引き連れ、タウラスと呼ばれた少女はアリアと同じ、天使と呼ばれる存在へと変化した。
 自然と足が竦む。もし体が動くのなら、きっと後ずさっていただろう。それくらいの恐怖がセシリーの全身を支配していく。
 タウラスが天使化した衝撃波だけでセシリーの髪が激しく靡き、毛根に激痛を覚える。ただ向かい合って対峙しているだけなのに息苦しさを覚える。
「セシリーさんッ!」
「シル……ヴァランス……」
 セシリーの窮地をいち早く察したシルヴァランスが剣を手にこちらへ駆けてくる。私のことはいいからアリアを、という言葉が喉までこみ上げてきたのに、結局口から出すことはできなかった。
 怖い。何がどう怖いのかわからない。けれど、セシリーの体を恐怖が縛り上げていく。それは自分の身に迫る危機からくるものなのか、圧倒的な力を持つ天使を目の前にして、絶対にアリアを護りきれないと悟った絶望感からくるものなのかわからない。
 ただ言えるのは、何らかの方法でキャロルがセシリーの自由を奪っているようだが、たとえ動けたとしても、恐怖を押し殺して行動することなどできないだろうという、完全な敗北感がセシリーを縛り上げていることだ。
「キャンサーはあの男に張り付いて動きを封じなさぁい」
「わかりました」
 面倒くさそうに肩眼鏡の位置を直しながら命令したキャロルに、別の少女の声が応じる。
「――ッ!」
 声の主がセシリーの後方から飛び出し、あっという間にこちらへ向かっていたシルヴァランスの真ん前に立ちはだかった。
 ブラウンヘアをポニーテールに結い上げ、枯れ草色の瞳は他の天使同様に感情がない。天使達は皆、それぞれ独自の服飾を身につけており、キャンサーと呼ばれた少女も、まるで女学校の制服みたいな、胸元に黄色のリボンを結った白のブラウスに赤色のチェック柄が入った緑色のプリーツスカートを穿いていた。
 シルヴァランスと対峙し、シルヴァランスが困惑したように目を大きく見開いた瞬間、キャロルの指示を待つまでもなく、キャンサーがタウラス同様に天使化して世界に衝撃を放つ。
「ぐうっ!」
 タウラスが何か攻撃を仕掛けたわけでもなくシルヴァランスが唸った。それは目の前の存在があまりに人間離れしているため、その存在感に圧倒されたのだろう。
 天使化した少女達はもはや自分たち普通の人間が太刀打ちできる相手ではない。セシリーの心を支配する絶望は、さらに深みを増していった。
「さて、準備は整ったかなぁ」
 身動きの取れないセシリーとシルヴァランスを楽しそうに見つめた後、キャロルは両手を口の脇に添え、
「おーい、レオーッ! こっち見てぇーっ!」
 緊迫した戦場とかけ離れた、晴れ晴れしく爛々とした声を張り上げた。
『……ッ……!』
 三人のエンフェリア達を圧倒していたアリアがこちらに気づく。その口から声にならない声が零れ、大泣きして泣きやんだばかりの赤子みたいな表情を浮かべた。
「そろそろ駄々をこねるのはやめて頂戴。あたし達もまだやることが沢山あって後がつかえてるんだ」
『…………』
「早く天使化を解いて投降しなさい。じゃないとぉ、この人達がどーなっちゃうか知りませんよぉ?」
『ッ……!』
「何ですって!」
 アリアの声にセシリーの驚きが重なる。キャロルはまるで向日葵のような笑みを携えたまま、悠然とアリアを見つめていた。
 子供を身籠もったセシリーは役立たずだった。けれど今は役立たずどころか足手まとい、アリアの弱点以外の何物でもない。
 セシリーの心を縛る恐怖が増す。それは自分のせいでアリアが自らの幸せを放棄するという、悔やんでも悔やみきれない結末を予期してしまったから。
『セシリー、シルヴァランス……。ワタシハ……』
「アリア! 私達に構わないで! あなたはあなたの幸せを必死に守って!」
「そうです! 僕達のことは僕達で何とかします!」
『ソンナ……。ソンナコト、デキナイ……』
 シルヴァランスが意を決してキャンサーに斬りかかる。だが微動だにしないキャンサーに、シルヴァランスの剣が届くことはなかった。刀身はキャンサーを包む金色のオーラで防がれ、まるで木の棒のように呆気なく根本から折れてしまった。
『シルヴァランスッ!』
「くそっ! ま、まだっ!」
「はーい、そっちの人。鬱陶しいですから黙って下さい。さもないとぉ、こっちの元エインフェリアさんから殺しますよ?」
「ぐっ!」
 その言葉にシルヴァランスの動きが止まる。タウラスがセシリーの喉元に鋭い鉄扇をあてがい、感情のない金色の瞳をシルヴァランスへ向けた。
 今一番戦場で足を引っ張ってるのは誰か。それはもう、火を見るよりも明らかだった。何よりも自分がアリアを苦しめている、そのことがセシリーには辛くて悲しい。
「お願いアリア……。私に構わず、戦って……」
『セシリー……』
 天使化して辛そうな泣き顔を貼り付けたまま戦っていたアリアの表情が、困惑に包まれている。そんな表情をさせている自分自身を情けなく思うと、セシリーの瞳からも止め処なく涙が溢れていた。
「どーするのぉ、レオ? 別に他人なんか見捨てて、自分のために戦うぅ?」
 キャロルの追い打ち。まるでセシリーやシルヴァランスとアリアの関係を完全に理解した上で人質としての価値を知っているような、悪魔の笑顔。
 今一度、セシリーは心の中で叫ぶ。今助けに来ないでいつ助けに来るのか。今アリアの側に居ないでいつアリアの隣に居てやるというのか。
 この場にいないあの男。誰よりもアリアの幸せを願っていたあの男。
 たった一人の人間がこの戦局を変えられるとは思えない。けれど、あの男がアリアの隣に居てくれれば何とかなるのではないかという根拠のない希望を抱いてしまう。
 けれど――
『ワカッタ……。ワタシ、オトナシクスルカラ、フタリニハナニモシナイデ』
 希望が現実となることはなく、アリアの口から零れたのは自らの幸せを放棄するという、投降宣言だった。


 結局こうなる運命だったのだろうか。
 天使化を解き、徐々に色を取り戻していく世界を見つめたままアリアは心の中でそう思った。
「くぅ……ッ! はあっ……、はあっ……」
 胸の聖石が灼けそうなくらいの熱を発している。朦朧とする意識の中、アリアは必死に両足に力を籠めて立つ。
「駄目よアリアァ!」
 セシリーが泣きながら叫んでいる。キャロルに動きを封じられており、また目前に天使化した少女が居るにも関わらず、セシリーはアリアのためだけにああも必死に藻掻いてくれている。
「アリアさん! くそっ……、くそっ! 僕はっ!」
 セシリーを人質に取られたシルヴァランスが自分の無力さを憎むように歯を噛みしめている。もしセシリーが人質に囚われていなかったら、絶対に敵わぬ相手だとわかりながらも天使に立ち向かっていっただろう。
 でもアリアは理解していた。例え二人が天使に真っ向から挑んでも、その先に待っている結末は変わらないと。いや、キャロルがああしてセシリーを人質にアリアの投降を促すのは、むしろ最悪の結末を回避する最良の道を用意してくれたのかもしれない。
 自分が大人しく捕まれば、二人は無事ですむ。アリアが自分の幸せを諦めれば、二人は生まれてくる新しい命と共に自分たちの幸せを掴むことができる。
 アリアの幸せはアリアだけのものじゃない。アリアを護ろうとしてくれるみんなの幸せの中にアリアの幸せはあると思っていた。けれど、それは違った。
 みんなを不幸にする幸せなど望んではいけない。二人を死なせてまで幸せを望んではいけない。
「はあ、はあ……。お、大人しくするから、二人には何もしないで。あなた達の狙いは私。他のみんなは、か、関係ない……」
「ええ。貴女が戻ってくれるなら、私達はこれ以上何もしないわ」
 いつの間にかキャロルの脇にレミネーラの姿がある。我が儘を言っていた娘を笑顔で迎える母親のように、そっと手のひらをこちらへ向けた。
「さあ、戻っていらっしゃい」
「アリアッ!」
「アリアさんッ!」
「…………。ごめんなさい、セシリー、シルヴァランス」
 止め処なく溢れる涙を袖で拭い、アリアは出来るだけ穏やかな笑顔を二人に見せた。
 心の中を様々な思いが飛び交っている。
 両親と別れたくない。自分の幸せを守りたい。もう二度とニーヴルの傀儡となって人を殺めたくない。大好きな人達と一緒に居たい。
 これらの願いを叶えることはそんなにも難しいことなのだろうか。普通の人が望むようなことを、アリアが望んではいけないのだろうか。
 もしかしたら過去にアリアが犯してきた罪に対する罰なのかもしれない。自らの意志ではなかったにせよ、多くの人の幸せを奪ってきた事実は変わらないのだから。
 この先、ニーヴルに戻ればどのような未来がアリアを待っているか。それはもう考えるまでもない。再び心を奪われ、そしてアリアは他人の幸せを奪う世界の敵になるのだろう。
 それは嫌だ。ならばどうするか。自ら命を絶ち、他人の幸せのために自分の生を擲つのか。
「…………」
 それはできない。何故なら、今もアリアは心の奥底で願っているから。あの人が助けてくれることを。
 自分勝手だと思われるかもしれない。我が儘だと言われるかもしれない。けれど、一度願ってしまったその思いを断つことは、もうできそうになかった。
 アリアは一歩、また一歩と歩を刻み、手招きするレミネーラ達へ近寄っていく。後方からセシリーの嗚咽が聞こえるが、後ろ髪を引かれる思いを断ち切って前へ進む。
 その時だった――
「レイチェルッ!」
 静けさが覆っていた戦場に走る声。アリアは一瞬、あの人が来てくれたのかと錯覚した。けれどアリアを呼ぶその声は、あの人の声ではなく、今、もっと身近でアリアを守ってくれている人の声だった。
「お父さん……?」
「お前の幸せは俺が守る! あの時は何も出来ずお前と引き裂かれたが、もう二度と、そんなことはさせない! 二度もニーヴルに娘を奪われてたまるものか!」
「……ッ! やめ……、やめて……。やめてっ! お父さん!」
 希望に似た錯覚が困惑と驚愕に変わり、そして恐怖へと変わる。いきなりアリアの後方から飛び出したスルトが真っ向からレミネーラに迫り、その離れていく背中にアリアは声に出せない恐怖を覚える。
 結末が見えている。終焉が見えている。だからこそそれに恐怖し震える。
 そして、アリアの恐怖は現実となる。
「ピスケス」
 レミネーラが放ったのはその一言だけ。キャロルは微動だにしていない。けれど、それだけで十分だった。アリアの心を壊すには、それだけで十分だった。
「はい」
 レミネーラとキャロルの後方で待機していたもう一人の天使が小さく返事をする。セピア色の瞳を携え、若葉色の髪をツインテールに結っている少女。
 かつてデオラガーンで対峙した天使、ピスケスは、あの時とまったく同じ様相だった。カラーや袖口にフリルをあしらった白いブラウスに、胸元で結ばれた黒のリボン。ワインレッドのキュロットスカートは膝上二十センチくらいで、灰色のニーソックスを穿いているその姿は、アリアと戦ったあの時と同じ服飾。
「おおおおおっ!」
 スルトがレミネーラに迫る。両手で握りしめた剣を振りかぶり、吼えながら剣を振り下ろす。だがスルトの剣がレミネーラに届く直前に、アリアはピスケスの瞳が金色に染まり、その背中から純白の翼が生えるのを見た。
「あ……、ああ……」
 アリアの恐怖が、声ならぬ声となって口からこぼれ落ちる。
 天使化したピスケス。閃光が一瞬世界を純白に染め上げ、誰もが瞬きを余儀なくされた後、瞳を開いた先に映し出される現実。
 ピスケスの拳が、スルトの懐を抉って背中から突き出ていた。


「いや……、いや、こんなの……。お、父さん……、お父さああああああああん!」
 アリアの絶叫を聞き、シルヴァランスはようやく我に返った。
 突如アリアの後方から飛び出したスルトと、レミネーラの背後から飛び出したピスケスと呼ばれる天使の激突は、時間にしてみればほんの一瞬だったはず。なのにまるで時が止まったように長い静止が続き、その間、世界は永久に溶けることのない氷に閉ざされていたように思えた。
 その氷が溶けた今、目の前でこちらの動きを封じるキャンサーなど最早気に留めることもなく、シルヴァランスはただ呆然と、大粒の涙を零しながら必死に父を呼ぶ娘の姿を見つめていた。
「レイ……チェ……ル……」
「お父さん! お父さん! いや、いやああああっ!」
 突き出したピスケスの拳は朱一色に染まり、ボタボタと大地へ血がこぼれ落ちる。視界に映し出される景色全てが赤に塗りつぶされ、風の止んだ浜辺のような静けさが周囲を包んでいた。
 ピスケスが拳を引くと、スルトの体が糸の切れた操り人形のようにカタリと力無く大地へ倒れ伏せた。同時にアリアの膝が折れ、シルヴァランスの見つめる先でアリアがへたり込む。
 焦点の合わない瞳から大粒の涙をボロボロ零しながら、開いたままの口をパクパクさせるアリアと、先程から微少にも変化していない笑みをアリアへ向けるレミネーラとキャロルの姿を見つめ、シルヴァランスの真っ白な思考に怒りと悲しみがこみ上げてくる。
「そんな……。スルトさん……」
 キャロルに動きを封じられたまま、セシリーが絞り出すように声を漏らす。乾いた風がシルヴァランスの頬を撫で、膝をついて俯いているアリアの髪を揺らした。
 ピスケスの足下でスルトは微動だにしない。流れ出る血が大地に赤い泉を湧かせ、ピスケスが感情のない金色の瞳をスルトへ向けていた。
「……ああ、あああア、アアアアアアッ!』
「ア、アリアさんッ!?」
『ウ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ァァァッ!』
 突然、顔を俯けていたアリアが奇声を発しながら顔を持ち上げ、獣のような咆吼を天に上げた。凄まじい衝撃が奔り、世界を閃光が駆け抜ける。
 漆黒に染まるアリアの瞳。その身を包む金色のオーラ。雄々しくも実体のない幻想的な純白の翼。胸元で輝く青白い聖石の光。
 この世界に生きるものすべてに畏怖の念を抱かせる圧倒的な存在感を伴い、アリアが世界の敵とされる天使へと変貌する。
『ア゛ア゛ア゛ア゛ァッ!』
「アリア……?」
 アリアの雄叫びに重なるセシリーの困惑。その困惑は、おそらくシルヴァランスの全身を包む困惑と同じだろう。
 先程の変化とは違う、アリアの天使化。悲痛に顔を歪め、ボロボロと涙を零していた表情と打って変わり、今のアリアの表情は、まさに獰猛な獣。
 凄まじい殺気を全身から迸らせながら、宙に舞ったアリアが光速でレミネーラに迫る。
「あららぁ、デオラガーンの時と同じ野蛮なレオに戻っちゃったみたいですねぇ」
「野蛮? いえ、むしろこちらの方が良いのではなくて?」
「ま、そうですね」
 遠目に見ているだけで殺気に気圧されてしまいそうなシルヴァランスに対し、レミネーラとキャロルは野獣のようなアリアを前にしても一向に余裕を崩さない。
 天使化したアリアの拳がレミネーラを穿とうとした瞬間、背後からピスケスがアリアを羽交い締めにした。
『ウガッ! ガアアッ! ウアアアアアッ!』
 ピスケスに動きを封じられながらもアリアは檻の中の獣のように暴れ狂う。セシリーがそんなアリアを見ていたくないと言わんばかりに顔を逸らし、シルヴァランスも砕けそうなくらいに奥歯を噛みしめる。
 命に代えてもアリアを護ると誓った。それが己の信念だと、それを貫き通すと覚悟したはずだった。なのに、どうしても体が動かない。
 目の前のキャンサーと呼ばれた天使、奥でセシリーの前に佇むタウラス、アリアの動きを封じるピスケス。天使という超越的な存在を前に、絶望の一色がシルヴァランスの心を塗りつぶしていった。
 どうあがいても勝てない。アリアを護れない。戦っても、ただ死ぬだけ。無駄死に以外の何物でもない、ただ、死ぬだけの結末。その結末以外の未来が見えない。
 膝が折れた。手から剣がこぼれ落ちた。自然と涙が溢れた。
 セシリーももう、瞳を閉じたままボロボロと涙を零している。それはセシリーもすでに、この結末がどうあがいても変えられないものだと悟ってしまったからだろう。
「そちらのお二方は観念したみたいね。ならタウラス、キャンサー。レオを大人しくさせて頂戴」
『ワカリマシタ』
 タウラスとキャンサーが、張り付いていたシルヴァランス達から離れ、天使化したままアリアに迫る。
『ウガアアアッ! アアアッ!』
『…………』
 シルヴァランスが呆然と見つめる先、必死に藻掻くアリアの懐に、キャンサーが鋭く拳を叩き込んだ。
『ガハァッ!』
 アリアはそれでも怯まずピスケスに羽交い締めにされたまま足掻く。再度、キャンサーの拳がアリアを襲う。
 もう一発。さらに一発。キャンサーの攻撃は終わらず、口から血の塊を零しながらもアリアは抵抗をやめない。アリアの、獣の悲鳴みたいな喘ぎ声が響くたび、シルヴァランスの心にもヒビが入っていくような気がした。
「キャロル。撤退の準備を」
「わっかりましたでぇーす。ところでレミネーラ様、この二人はどーします?」
 キャンサーがアリアを一方的に殴りつける手前で、まるでその様子に関心がないようにレミネーラとキャロルの会話は行われている。二人が何を話しているか、今のシルヴァランスにそれを聞いて理解するだけの思考力は残っていなかった。
「今までレオを預かって下さった大切な方達ですもの。そっとしておいてあげなさい」
「了解でーす」
 二人が何を話しているかわからない。もう、何も考えられない。
『ウガ……ァ……。…………ア……ゥア……』
 何度殴られたのかもう数え切れなくなった頃、ついにアリアの抵抗が終わる。どんなに藻掻こうが、足掻こうが、決して変わることの無かった結末が、静かに近づきつつあった。
 ぐったりと頭を垂らし、アリアの背中から伸びていた天使の翼が虚空に消える。金色のオーラが輝きを失い、自身の血で真っ赤に染まった衣類を身につけたまま、アリアは完全に動かなくなった。
 大地に倒れ込もうとしたアリアをピスケスが後ろから支え、そのまま天使三人に囲まれたアリアがレミネーラの元へ運ばれていく。シルヴァランスはただただ呆然とその様子を見つめることしかできない。
「おかえりなさい、レオ」
 血や涙でぐしゃぐしゃになっているアリアの頬にそっとキスをして、レミネーラがアリアをまるで我が子のように抱きかかえる。そして踵を返し、シルヴァランスとセシリーに背を向けた。
 遠ざかっていく足音。小さくなっていく人影。薄れゆく現実感。
 キャロルから解放されたセシリーがバタリと大地へ倒れ込む。シルヴァランスは呆然としながらも、フラフラとセシリーのもとへ歩み寄った。
 もはや周囲に敵の気配はない。町の人間も避難しているため、その場に残されたのはシルヴァランスとセシリー、そして物言わぬスルトだけだった。
 アリアがニーヴルに奪われた。その事実はイコール、世界の破滅を意味する。だが今のシルヴァランスにとって、そんなことはどうでもよかった。ただアリアを護れなかった絶望感だけが全身を支配し、もう、何も考えたくなかった。
 シルヴァランスはそっとセシリーを抱き起こし、強く抱きしめた。そして、泣いた。
 セシリーもシルヴァランスの胸で声を漏らして泣く。大の大人が二人、子供のように声を上げて泣き続けた。
 自分たちは何もできなかった。守りたい少女を守ることができなかった。
 失意と絶望。無力感と喪失感。すべてが涙に形を変えて体から溢れだしてくる。
 幸せだったジペインでの生活。皆が笑顔で居られた、今という名の夢が終わり、新しい今という名の悪夢が始まる。
 今のシルヴァランスには、この先の未来に絶望以外の何も見えなかった。

* * *

 アルトレア大陸の東南端に位置するジペインという町に元同志であるシルヴァランスが居るという情報をシルヴァランスの妹であるヴィクトリアが白状し、ガルバトロス達はヴィクトリアの愛馬であるペガサスに乗ってジペインへを訪れた。
 世界を滅ぼす存在。人間の敵であるもう一つの神を復活させるために必要な十二体の天使のうち、“無垢なる獅子”というコードネームの天使がシルヴァランスと行動を共にしていることはわかっている。おそらく今も、シルヴァランスのいる所にその天使は居るだろうという確信があった。
 だがガルバトロス達がジペインにたどり着いたとき、そこに待っていたのは思いも寄らぬ事態だった。
「こ、これは……。一体何が起こったんだ?」
 町にたどり着き、その惨状を目にしたアイザックが声を漏らした。
 近くに古代遺跡も大都市もないジペインは長閑な田舎町だと聞いていた。だがそんな田舎町は、本来の長閑で平和な空気など欠片もなく、無惨に破壊された家屋や灰と化した畑がガルバトロスの視界を埋め尽くしていた。
 道端に倒れている人々に生命の息吹は感じられず、まだ火の手が消えていない小屋が轟々と音を漏らして燃えている。
 おそらく数時間前まで何者かの襲撃にあっていたのだろう。そしてその襲撃者が何者なのか、解答の選択肢は一つしかない。
「まさかニーヴルが私達より先に“無垢なる獅子”の居場所を突き止めて?」
「それ以外に無いだろう。どうやらすでに連中の姿はないようだが、果たしてシルヴァランスは天使を護りきれたのか?」
 周囲に敵の気配がない以上、すでに戦闘は終わっているはず。結末として考えられるのはシルヴァランスが天使を襲撃してきたニーヴルの兵士をすべて倒して天使を護りきったか、敗れて天使がニーヴルの手に落ちたか。
「お兄様……」
「……心配するなって。アイツがお前を残して死ぬわけないだろ」
「…………」
 必死に何かを堪えているような面持ちのヴィクトリアが、ぐるりと周囲を見渡す。兄の姿を探しているだろう。
 先程考えた二つの結末。そのどちらにしても、ヴィクトリアにとっては辛いものとなるだろう。シルヴァランスが天使を護りきっているとしても、今度はヴィクトリアがシルヴァランスの敵となる。そして天使が敵の手に落ちているという結末は、同時にシルヴァランスの死を意味している。
 周囲を警戒しながらガルバトロス達は町の中を進む。町の中に生存者の姿はなく、おそらく逃げ延びた人はどこか別の町か村へ移動したのだろう。
「あっ!」
 ふいにヴィクトリアが声を上げた。ガルバトロスの横を駆け抜け、髪を乱暴に振りながらヴィクトリアが走っていく。
 ガルバトロスがそっとヴィクトリアが駆けていった方へ視線を向けて目を凝らすと、寄り添うように重なる人影が見えた。アイザックとナイがヴィクトリアの後を追って駆けだし、ガルバトロスも三人の後を追う。
「お兄様ッ!」
 ヴィクトリアの叫びが人気のないジペインに響いた。
 駆けつけたガルバトロスの視界に映ったのは、あぐらかいて大地に腰を下ろし、呆然と虚空を見つめるシルヴァランスと、その膝を枕代わりに瞳を閉じる蒼い髪の女だった。
 目立った外傷はない。だがシルヴァランスの瞳には生気がなく、ヴィクトリアの呼びかけに反応を示さない。
「お兄様っ! お兄様、しっかりなさって下さい! 一体何があったのですか! どうなされたんですか!」
「落ち着けヴィクトリア。……おいシルヴィー、何があった?」
 アイザックに肩口を掴まれてようやくこちらに気づいた様子のシルヴァランスが、ヴィクトリア、アイザック、ナイ、そしてガルバトロスの順で視線を寄越した。
 シルヴァランスの膝に頭を乗せていた蒼い髪の女が瞳を開き、スッと体を起こして朧気な瞳でこちらを見つめてくる。
「ヴィクトリア……ちゃん?」
「…………」
 ヴィクトリアの顔を見つめてほんの少し反応を示すが、蒼い髪の女もシルヴァランス同様に生気のない瞳をしていた。そんな女を、ヴィクトリアが何か言いたげに眉を顰めて見つめ返している。
 ガルバトロスは周囲を見渡す。この二人以外には周囲に人影がない。標的である天使が居ないことから、おそらく天使は――
「ニーヴルの手に落ちたのだな?」
「…………はい」
 ガルバトロスの問いに、シルヴァランスは呆然とこちらを見つめた後、微かに頷いた。緩慢な動きで、本当に頷いたかどうかも疑わしいほど曖昧な動作に、思わずガルバトロスは手を出した。
「あぐっ!」
「た、隊長さん! 何を!」
 殴り飛ばされたシルヴァランスが大地を滑る。咄嗟にヴィクトリアが駆け寄り、肩に手を乗せて上半身を起こした。
 いきなりかつて同志や大切にしているはずの妹が現れ、リーダーであるガルバトロスに殴られたにもかかわらず、シルヴァランスは尚も焦点の定まらない瞳をしていた。
「お前は事の重大さを認識しているのか! お前達が天使を匿い、そしてその天使を護りきれず、奴らの手に十二体の天使がすべて揃ってしまった。それはすなわち、世界の崩壊を意味しているのだぞ!」
「……はい。天使がすべて揃ったとき、世界が崩壊するということは知っていました」
「お前が高々一人の少女を救いたいなどという似非正義感を抱いたがために、世界中全ての人間が死ぬことになるのだぞ!」
「……そうですね」
 まるで他人の話をしているかのような淡泊な反応を示すシルヴァランスに、ガルバトロスは再度殴りかかろうと拳を振り上げた。
 しかしシルヴァランスをかばうようにヴィクトリアが間に割って入ったため、やむなく拳を降ろして奥歯を噛みしめた。
 シルヴァランスと蒼い髪の女の様子を見るに、二人とも天使を護れなかったことに絶望し、最早世界がどうなろうと構わないと、完全に希望を見失っているのだろう。だが世界がまだ現状を維持し、もう一つの神が復活していない以上、ガルバトロスはまだ諦めるわけにはいかない。
「アイザック、ナイ。ニーヴルの本拠地に乗り込むぞ!」
「……なっ、俺達だけで、ですか?」
「一刻の猶予もない。奴らがもう一つの神を復活させたら、それこそ打つ手はなくなるだろう。それまでに天使の一体を討ち滅ぼすことができれば世界を救うことができる!」
 ガルバトロスの言葉に、シルヴァランスと蒼い髪の女の肩が微かに動いた。天使を倒す。その言葉に反応したのだろう。
「わかりました。では一度セカンドベースへ帰還し、ポニーちゃんの一族を招集しましょう。短期間で生き残りの同志達を集めて戦力を整え、ニーヴルが表上魔練器工場としてカモフラージュしている本部へ攻め込みましょう! 天使を倒すことが出来れば、わたくし達の勝利です!」
「ヴィクトリア……?」
 毅然とした態度をみせたヴィクトリアにシルヴァランスが驚きの眼差しを向ける。ヴィクトリアがシルヴァランスに申し訳なさそうな視線を送った後、凛と表情を整えてこちらを見つめてくる。
 このままニーヴルを追っていきたいところだが、戦力差を考えれば確かに一度基地へ戻る方が無難だろう。明日にでも世界が崩壊する可能性はあるが、今のまま攻め込んでも勝ち目はない。
 ヴィクトリアの的確な判断に、ガルバトロスは無言で頷いてみせる。そしてヴィクトリアが呼び寄せたペガサスに歩み寄ろうとした、その瞬間――
「当てが外れたか。だがまあ、お前でも悪くない」
「……ッ……!」
 静かな廃墟に響く低い男の声。今まで感じなかった気配がガルバトロスの背後にフッと湧き、同時に隠そうともしない殺気がガルバトロスの背中へ突き刺さる。
 ペガサスへ向いていた体を翻し、ガルバトロスは声の主を確認する。立っているのは白髪交じりの黒髪をオールバックにした大男。野獣のように鋭いオリーブ色の瞳には殺気と狂気が入り交じり、顎髭や額にある大きな傷が他者に威圧的な印象を与える。
 まるで軍服のような、重厚でしっかりとした深緑色の戦闘服。両手に一本ずつ剣を握り、その刀身にはライトジェムが埋め込まれている。
「レミネーラ達は先に帰ったが、待っていて正解だったぜ。本当はシェドが来るんじゃねぇかと期待してたんだが、まあ、お前との決着を付けておくのも悪くない」
「ミゲル……。貴様……」
 男の名はミゲル=キルヒューム。ニーヴルの中で指折りの戦闘力を誇る“ガンズ”の一角であり、かつてのガルバトロスの部下。そして、幾度かガルバトロスと対峙し、その度にガルバトロスは辛くも退却している。
 ミゲルの後方にはワイバーンの姿もある。ペガサスに乗って逃走を図ろうにも、速力ではペガサスよりもワイバーンの方が上だ。
「逃げるなんざ考えるなよ」
「…………」
 ミゲルが自身の剣に埋め込まれたライトジェムに光を灯し、対の光天剣とする。もはや向こうは臨戦態勢であり、こちらの逃走を許してくれる気配はない。
 ならばやるしかないだろう。どのみち天使を倒す上でガンズは必ず障害となる。
「アイザック、ナイ、そしてヴィクトリア! この男の相手が俺がする。お前達は一度セカンドベースへ戻り、体勢を整えてニーヴルの基地へ迎え!」
「んなっ! ガルバトロスさん、その体じゃ無理だ! 俺も残って一緒に――」
「間違えるな! 倒すべき敵は天使であり、この男ではない。お前達は先にニーヴルの基地へ赴き、何としても天使を倒すのだ!」
「……隊長さん……。わかりました。隊長さんも、御武運を」
 ガルバトロスは背負っていた槍を両手で握る。戦闘態勢を整えるガルバトロスにヴィクトリアが一礼して踵を返し、アイザックとナイが呆然としているシルヴァランス、蒼髪の女を背負ってヴィクトリアに続く。
 ペガサスの元へ駆けていくヴィクトリア達をミゲルが笑顔で見送る。ミゲルの狙いはあくまでガルバトロス一人であり、他の人間が逃げようが別に構わないのだろう。
『ヒヒィィ――――ン!』
 ペガサスが嘶き、羽ばたく音と共に空高く舞い上がっていく。一通りその光景を見つめた後、ミゲルはこちらに狂気じみた笑みを向けた。
「ようやく戦えるぜ。言っておくが、前みたいに逃げようなんざ考えるなよ」
「わかっている。どのみちここで退いても、天使を倒すためにはどうやってもお前を倒さなければならんようだしな」
「フッ。俺を倒す、か。面白ぇ。やってみろ!」
 ミゲルが光天剣を手に迫ってくる。ガルバトロスは腰を落として槍を構え、迫り来るミゲルへ矛先を突き出した。
 迸る閃光。光の粒子に包まれた光天剣とガルバトロスの持つ槍の矛先がぶつかり、光子が周囲へはじけ飛ぶ。
 まだ完全に傷が癒えたわけではない。今の状態でミゲルを振り切って逃走を図ることはできないだろう。そして戦った場合、どうなるかもわかっている。
「オラァッ!」
「……ッ……!」
 実力差は明確。かつてはS級エインフェリアとしてニーヴルトップの実力を誇ったガルバトロスだが、寄る年波には敵わない。かつての二つ名、“不止の槍”も、今は過去のことだ。
 ミゲルが光天剣の柄をつなぎ合わせ、一本の光天双剣と成す。止まない連続攻撃の嵐を避けながら、ガルバトロスの槍は止まらずに光の粒子と弾けて世界に軌跡を描く。
「はああああっ!」
 未来を若者達に託し、ガルバトロスは槍を突く。
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