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第一章 突撃・1 天空に佇む巨大な城塞――ヴァルハラ。ニーヴルの魔練器工場とその地下に広がっていた研究施設がそのまま上空に持ち上げられたもので、地下だった部分は大地から切り取られる際に周囲の岩盤を一緒に引き上げていったため、まるで空中に浮かぶ島。 魔練器工場は中心が抜けたドーナツ型の建物で、中央部分には植物の緑と水路の青、そして花々の彩りが鮮やかな庭園が広がっていた。その庭園の中心に、純白の大理石で構築された神殿がある。 天井の高い神殿の奥には、クリスタルで出来た半透明の椅子が鎮座していた。神の玉座――フリズスキャルヴに腰を下ろしているのは、赤い短髪に灰色の瞳を持つ精悍な顔つきの男。漆黒のスーツで身を固め、頬杖を付いて微笑を浮かべている。 「ヴァルハラの起動は無事終了ですっ! なーんも問題ナシでぇーす」 神殿に響く甲高い嬌声。玉座に腰を下ろしているニーヴル社長、ルシフェル=ガブリエスタはチラリと声を発した女へ視線を送った後、すぐに視線を何もない虚空へ向ける。 「お疲れ様、キャロル」 嬌声を上げた赤毛の女に声を掛けたのは、ルシフェルの隣に居た長い黒髪をした妙齢の女。キャロルと呼ばれた女は、カナリヤ色の瞳で黒髪の女を見つめ、右目に掛けたモノクルの位置を直しながら白い歯を見せた。 黒髪の女――レミネーラはアメジストのような切れ長の瞳をキャロルに向け、真っ赤なルージュを引いた唇を艶めかしく緩める。 「そういえばアルフレッドとカルネの姿が見えませんね? あっと、ミゲルさんも居ないみたいですけど?」 「ミゲルは満身創痍で休んでいるわ。何でも、レオを捕らえた町で魔弾を待っていたら、ガルバトロスが現れたそうよ」 キャロルの質問にレミネーラが辟易した様子で答える。しなやかな腕を持ち上げて髪を掻き上げながらため息を零すレミネーラを見て、キャロルは一層晴れやかに笑った。 「ガルバトロスは倒したって話だから、今まで散々邪魔してきた組織については片づいたと言っていいでしょう。もっとも、ヴァルハラが起動した以上、その組織が機能していようがいまいが些末なことだけれど」 「ガルバトロスには失望した。俺の片腕として、もう一つの神を復活させる計画に賛同してくれると思っていたのだがな」 「社長……」 ずっと黙っていたルシフェルが、ガルバトロスという名前を聞いてどこか遠くを見るような目を虚空に向けて呟いた。まるで慕っていた師が、自分と正反対の側に行ってしまったことを嘆くように。 「それで、カルネとアルフレッドは?」 ルシフェルを見つめたまま眉をひそめてもの悲しそうな表情を浮かべていたレミネーラに、キャロルが先ほどと全く変わらぬ明るい声音で尋ねた。 「ああ、アルフレッドは逃げ出した研究者やエインフェリア達を“狩って”遊ぶそうよ。カルネは……、さあ、そう言えばさっきから姿を見ないわね」 「アルフレッドと一緒にお掃除をしているのかもしれませんね。……さて、じゃああたしはあたしで自分の仕事をやりますかねぇー」 「お願いね。ヴァルハラの起動は完了したけど、真の天使達はまだ目覚めていないわ。蝕まであまり時間があるわけじゃないし、絶対に横やりが入らないとも限らないしね」 レミネーラの言葉を受けてキャロルがニッコリ笑って神殿の中を駆ける。 神殿の内壁に張り付き、全部で十二の柱が天井を支えていた。アルトレア大陸をほぼ全土支配するトルメキア王国の王都にあるトルメキア城の王の間より広い円形の神殿内部。均等の間隔で十二本の柱があり、その一つ一つの柱は仄かに光り輝いていた。 キャロルは光る柱の一本に近寄り、白衣のポケットから一切の光を放たない漆黒の結晶、ダークジェムを取り出し、手の平で転がす。 「やっぱりレオだけは他の天使達より穢れが少ないなぁ。ずいぶん長い間ここを離れていたし、外でも全然その手を血で穢してこなかったのねぇ。まさに“無垢なる獅子”って感じぃ? アハハッ!」 輝く柱はまるでクリスタルか何かで出来ているように半透明だった。柱の中は無色透明の液体で満たされており、その中で全裸の少女が瞳を閉じたまま漂っていた。 十二の柱にはそれぞれ一人ずつ容姿の違う少女達が漂っている。キャロルはその中の一人が収められた柱に歩み寄り、闇を帯びた瞳を少女へ向けた。 重たく閉ざされた瞼。水の中で踊る桃色の髪。年の頃十三、四くらいの少女が、まるで泣いているような表情のまま微動だにせず佇んでいた。少女と成人女性の中間点くらいまで成長した胸の中心には、不気味に青白い光を放つ宝石のようなものが埋め込まれている。 「もう少し聖石レオを穢しておかないと、真の天使達を目覚めさせられないもんね。あまり効率よくないけど、ダークジェムでちょっとずつ穢しますかぁ」 キャロルは手の平で転がしていたジェムを親指と人差し指でつまみ、その手を掲げて柱の中の少女へかざした。 漆黒のオーラがキャロルを包み、禍々しい気に満ちた負のオーラがキャロルの手から放たれて柱を包んでいく。その瞬間、柱の中の少女が一層苦しげに表情を顰めた。 少女の口から気泡があがり、液体の中を上へ上へ登っていく。だが、少女の苦しみは息苦しいのを堪えているような表情とはどこか異なっていた。 閉じたままの瞳からあふれ出る涙が液体に溶け込んでいく。まるで悪夢にうなされているかのように。 無理矢理消されていく何かを必死につなぎ止めようと抗っているような、そんな少女の苦悶に満ちた表情をまるで嘲笑うかのように、胸元の聖石は不気味に輝いていた。 * * * 魔練器工場の地下に広がっていた研究施設には多くの研究者が天使の研究をしていたという。だがその誰もが天使の器を見つけ、天使を降臨させる本当の意味を知らなかった。 天使はもう一つの神を復活させるための手段でしかない。そしてもう一つの神を復活させる理由、それは世界を一度完全に無に帰して、再生させること。 「ふっっざけんじゃねぇっ!」 そう咆えながら、バーバラは両手に握ったハンドガンのトリガを引いて銃弾を目の前まで迫っていた魔物達に撃ち込んだ。 ニーヴルの幹部達が居るヴァルハラ神殿と呼ばれる場所を除いて、ニーヴルの基地だった場所は魔物達であふれかえっていた。大きな犬のような魔物、ガルムや、コウモリのような翼を持った薄気味悪い肌をした人型魔物、ガーゴイル。トロールやキラースコーピオンなど種類は多岐に渡り、もはや完全にニーヴルの基地は魔物達の巣窟を化していた。 「倒しても倒してもキリがありませんね。バーバラちゃん、残弾は大丈夫ですかぁ?」 バーバラの隣には水色のロングヘアを藍色のリボンで結い、ブルーのワンピースドレスを身に纏ってサブマシンガンを構えるラズベリーの姿がある。ずれた丸いレンズの眼鏡を直しながら、ラズベリーは迫っていたガーゴイルの翼を撃ち抜いた。 「マガジンは腐るほど持ってきたさ! だが、こう数が多いと余裕とは言えねぇ。それに、すでにここは空の上なんだろ?」 「さっきの衝撃。たぶん、もうかなり上空」 ラズベリーの背後でスピカが淡々と答えた。 スピカはフォレストグリーンの長い髪をサイドテールにまとめ、白の長袖ブラウスの上に黒のベストを羽織り、白のショートスカートの下からは黒のスパッツが顔を出している。首に黒のチョーカーを巻くスピカは、スナイパーライフルに次弾を装填しながら瑠璃色の瞳で魔物達の動きを追っていた。 「くそっ! それじゃあどうしようもねぇじゃんかよ!」 バーバラは少し伸びてきたセミロングの赤い髪をボサボサと掻きながら癇癪を起こす。せっかくラズベリーが結ってくれた黄色のリボンがずれてしまったが、今はそれを直す気にならない。 『オオォォォォンッ!』 「――ッ! 鬱陶しいっ!」 不意に一匹の粘土の怪物、ゴーレムがバーバラの直ぐ目の前まで迫ってその泥臭い腕を振り上げていた。バーバラは奥歯をギリッと噛みしめながら飛び上がり、ゴーレムの腕が空を打った後に空中からゴーレムのコアを狙い撃つ。 この手の魔物は核を破壊しない限り何度でも蘇る。ニーヴルのエインフェリア、しかもS級であるバーバラは当然そのことを把握しており、一発の銃弾で見事ゴーレムの核を撃ち砕いた。 赤い長袖の上着は魔物の攻撃で所々裂けている。胸元でいつも蝶を模っている黄色のリボンも、今は死んだ蛇のようにしなだれている。赤のプリーツスカートは辛うじて無傷だが、ピンク色のニーソックスにはあちこち円形の穴が開いてしまっていた。 これ以上お気に入りの衣装を傷めたくないが、そうも言っていられないのが現状。こちらの都合などお構いなしに襲いかかってくるのが、魔物という厄介な生き物だ。 バーバラはキッと亜麻色の瞳をつり上げて一向に数の減らない、それどころか増えているよう錯覚する魔物の群れを睨め付けた。 「ちくしょう! 社長……いや、ルシフェル達は一体何を考えてやがんだよ! オレ達ニーヴルの目的は、世界征服じゃなかったのか!」 「そうですね。私も天使を使って世界征服を揺るぎないものにするのだとばかり思ってました。けれど、社長達の目的は、世界の崩壊で間違いないです。もっとも、その先にある再生っていうのが本当の目的らしいですけど」 「一度全てを滅ぼすのなら、同じだと思う」 スピカの言うとおりだ。再生だか何だか知らないが、一度すべてを無に帰してしまうというのは納得できない。 エインフェリアや天使の研究に従事していた研究者達。皆、何も知らされておらず、最後の最後になってガンズ達よりすべての事実を知らされた。それが、“もう一つの神を復活させて世界を一度無に返す”だ。 つまり今までバーバラ達は、そんなルシフェル達の野望に荷担していたことになる。自分の手で自分の首を絞めているとはまさにこのことだ。 「くそっ! そんなことさせてたまるかよ! この世界はオレのモンだ! 強者が弱者を支配する世界で、オレは力を持って生まれた! オレにとって都合のいい世界を、勝手に壊されてたまるものか!」 「そうですね。私もまだ死にたくはありません。バーバラちゃんやスピカちゃんと、もっと沢山思い出を作りたいです」 「私も。まだ、生きたい」 三人とも気持ちは同じだ。こんなところでくたばってたまるものか。 「取りあえずはこの先の広間まで行くぜ! あそこにはレミネーラのところから逃げ延びた研究者達が居るはずだ! あいつらに聞けば、どうやったら世界の崩壊を防げるかわかるかもしれねぇ!」 「そうですね。それに、あそこにはアンリエッタさんとフレイデリカさんがいるはずです。合流しましょう」 「戦力は多い方がいい」 「ああ! ルシフェル達をぶっ倒しに行くなら、あいつらにも手伝ってもらった方がいいだろ! 行くぜっ!」 バーバラは先陣を切って突き進む。魔物の群れに真っ向から突貫し、ハンドガンから銃弾を次々と射出する。 次々と迫り来る魔物共を素早さで翻弄しながらカウンターで銃弾を叩き込む。威力の低いハンドガンでは致命傷はなかなか与えられないが、トロールやバジリスクのような耐久力の高い魔物には後方からスピカがフレアジェムの魔力を付加したフレイムショットで援護してくれる。 バーバラを先頭にスピカが援護、ラズベリーがしんがりという隊列で一気に魔物の群れの中心を駆け抜け、バーバラ達は魔物で溢れかえるニーヴルの基地内を突き進んだ。 上級のエインフェリアの殆どは常に何らかの任務を帯びているため、今現在、基地内にいる上級エインフェリアは先の任務で基地へ戻ったばかりのバーバラ達と、アンリエッタ、フレイデリカのエーギル姉妹しか居ない。下級エインフェリアは数名基地にいたはずだが、おそらく突如とした湧き出した魔物にやられてしまって、もう生きてはいないだろう。 戦力として考えられるのはバーバラ達とエーギル姉妹のみ。それだけでガンズと呼ばれるニーヴルの幹部達に太刀打ちできるとは思えないが、何もせずにむざむざ世界の崩壊を待つほど、バーバラは聞き分けのいい性格をしていない。 「見えました! あそこに広間にアンリエッタさん達がいるはずです!」 「よっしゃ! テメーら先に行け! オレが魔物共を足止めする!」 三人で一番近接戦闘が得意なのはバーバラだ。スピカやラズベリーは援護射撃が得意で、単体で戦うよりもチームで戦うときに一番力を発揮するタイプ。足止め役は、バーバラが一番適任だろう。 「お任せしますわ、バーバラちゃん。スピカちゃん、急いで!」 「バーバラ、お願い」 スピカとラズベリーがバーバラの脇をすり抜けて駆けていく。バーバラはラズベリーに背後から襲いかかろうとしていた三匹のガルムにそれぞれ銃弾を叩き込んで絶命させ、ガルムの後を追ってきた二匹の樹木の魔物、キラートレントと対峙する。 『シャアアアアッ!』 「植物風情が、けったいな声漏らしてんじゃねぇっ!」 鎌のように鋭いキラートレントの枝を銃身で弾き、枝の付け根を銃弾で撃ち抜き、さらに幹に数発の銃弾を撃ち込む。 もう一体のキラートレントが全身を揺さぶって刃のように鋭い木の葉を撃ち飛ばしてくるのを、ハンドガンの銃身ですべて弾き飛ばし、マガジン内の銃弾をすべて使って枝という枝をすべて撃ち落としてやると、キラートレントは怯えた様子で後退していった。 「バーバラちゃん!」 ラズベリーの呼ぶ声に反応し、バーバラは踵を返す。魔物の群れに背を向け、一目散に駆けだしてラズベリー達がいる大広間を目指した。 視線の先ではスピカがスナイパーライフルを構えていた。朱色に輝く銃口は、バーバラの方へ向けられていた。 「タイミング外すなよ、スピカ」 小さくそう呟きながらバーバラは駆ける。そして細い通路を抜けてバーバラが大広間にたどり着いた瞬間、スピカのスナイパーライフルが火を噴いた。 真っ赤な炎に包まれた銃弾はバーバラの頭上をかすめ、広間と通路をつなぐ天井に命中して大爆発を起こした。バラバラと崩れた天井が通路を塞ぎ、轟音が広間一体に広がっていく。 「はあ、はあ……。ふぅ、これで当分時間は稼げるだろ」 「お疲れ様です、バーバラちゃん」 ラズベリーが極上の笑みと携帯の水筒をバーバラへ送る。バーバラはニカッと白い歯を見せて笑い、ラズベリーの手から水筒を受け取った。 「三人とも無事だったのね。よかったわ」 「こっちはそれほど魔物の数が多くないけど、そっちは大変だったでしょう?」 大広間にはうり二つの顔をしたエーギル姉妹の姿があった。紺色の装束で身を包み、藍色の髪をショートカットで揃えた双子。まるで鏡に映った同一人物のように、萌葱色の双眸に至るまでまったく差違が見られない。唯一異なっているのは、手っ甲を装備している腕が左右逆だということくらい。 「まあな。……それより、ここに逃げ込んだっていう研究者達はどこに行きやがった?」 「制止も聞かずに逃げていったわ。何処へ逃げても、ヴァルハラ神殿以外はもう魔物だらけだというのにね」 「な、なに? くそっ! それじゃあどうやって世界の崩壊を防ぎゃあいいのかわかんねぇじゃんか!」 「……いいえ、それなら、わかるわ」 バーバラが怒りの捌け口に窮してたたらを踏んだとき、優しい声音でアンリエッタが答えた。バーバラが視線を向けると、何故か俯き加減に物悲しげな表情を浮かべて、アンリエッタは床を見つめていた。そんなアンリエッタをフレイデリカも同様の表情で見つめている。 「世界の崩壊を防ぐ術を知っているのですか?」 バーバラに代わって再度ラズベリーが尋ね、今度はフレイデリカが無言で頷いた。 「世界崩壊の鍵になっている存在――天使を一体でも倒すことができれば、世界の崩壊は防げるわ」 「は? ってぇと、それは……、つまり……」 「レオやピスケス、バルゴとか、誰でもいいから天使を一人倒す」 「……ってことなのか?」 スピカに言葉を補ってもらいつつ尋ねると、アンリエッタとフレイデリカは揃って首を縦に振った。 レオ。その名前を聞くと胸がザワザワする。バーバラがレオと対峙したのはたった二回だが、その二回ともバーバラは苦汁を飲まされる結果になった。 レオを殺せば世界を崩壊から救える。バーバラ達も生き残れる。何てわかりやすい構図だろう。 「なるほど、レオをぶち殺せば万事オッケーってことか! 楽しそうじゃねぇか!」 「ですが、確かレオをはじめ、天使達はみんなヴァルハラ神殿に……」 ラズベリーが眼鏡の位置を直しながら不安そうに尋ねると、フレイデリカがそっと頷き、 「ええ。社長やレミネーラ様、それにガンズ全員がいるヴァルハラ神殿に天使達も居るはずです。つまり、天使を倒すためにはガンズや社長、レミネーラ様も倒さなければなりません」 静かにそう答えた。どう転んでもそんなことは不可能だとわかっているように、その表情は一縷の希望も抱いていないように見える。 常に鳴動の止まない基地内。天空に佇んでいるという話だが、バーバラ達の居る場所はかつて地下に埋まっていた屋内であり、未だに自分たちが宙に浮かぶ空間に居るという実感はなかった。 不気味な静けさが覆う大広間で、バーバラは押し黙って唇を噛みしめることしかできなかった。 バーバラ達と合流してから無為に時間だけが流れていた。バーバラ達は各々の銃器の手入れを行っており、その様子をアンリエッタは遠目に見つめていた。 「世界を崩壊から救う方法。それは、“心なき天使達”の誰か一人でもいいから討ち滅ぼすこと」 「ええ、そうね」 アンリエッタの独り言にフレイデリカが答えた。そっと視線を向けると、まるでアンリエッタの考えていることはすべてお見通しだと言わんばかりの視線を返された。 「彼女たちが本当に、心を持たないただのお人形だったら、こうも悲しい思いをしなくて済むのに」 「確かに、一見彼女たちは心を持っていないように見えるけど、それは無理矢理抑え込まれて表に出てこられないだけで、本当は透き通るくらい綺麗な心を持っている子達ですものね」 「だからこそ、お姉様はレオの姉になろうと努めていらした……」 かつてアンリエッタ達が姉と慕った人。彼女が世界の敵だと言われる天使の少女を大切に思い、身を挺して護っていた理由。それは少女の持つ心が、何者よりも無垢で純粋なものであると知ったから。 そんな子を犠牲にしなければ救えない世界。何て、残酷な世界なのだろう。 ずっとニーヴルに身を置いていたせいで歪んでしまったアンリエッタ達の心だが、姉と慕った人のお陰で、幾分まともになってきたと思う。以前のアンリエッタなら、迷うことなく天使の少女を殺してそれでいいと思っただろう。 でも今は違う。迷っている。自分が生きたいという理由で少女を犠牲にすることを、簡単には是とできない。 少女も救い、世界も崩壊させない。その手段だってある。それは世界の崩壊を推し進めるニーヴルの幹部達をすべて倒すこと。だが今のアンリエッタ達の戦力で、それが可能だとは思えない。特に、目の前でガンズの一人、ミゲルの戦い様を見てきたアンリエッタだからこそ尚更、そこに希望があるとは思えない。 何も出来ずにただ迷っているだけ。そんな自分にアンリエッタが自己嫌悪を覚えはじめた頃、不意に不気味な轟音がアンリエッタ達の居る大広間に響いた。 「な、何だ?」 まるで何かが壁をぶつかるような轟音が何処からともなく響いてくる。バーバラが手入れ中のハンドガンを組み直し、マガジンを差して臨戦態勢を整えた。 「――ッ! バーバラちゃん! 正面ですっ!」 「なにッ!」 突然、アンリエッタ達の居る大広間の壁の一部が轟音と共に砕け散り、周囲にその破片が散らばっていった。薄暗い広間に瓦礫が飛び散り、砂埃が舞い上がる。 『ギャオオオオオンッ!』 ぽっかりと大広間の壁に開いた大穴の向こうから、鋭い殺気と地響きのような呻き声が響いてくる。 「チッ! 壁が破られたかっ!」 『ガアアアアッ!』 壁の向こうから魔物達が大広間に雪崩込んでくる。ダムが決壊し、押しとどめられていた水が一気に流れ込むかのように、魔物の群れがあっという間に大広間を占拠してアンリエッタ達をグルリと取り囲んだ。 『グルルル……』 「これはまずいですねぇ。流石の私達でも、この数はちょっとキツイです」 「数が多い。狙撃、間に合わない」 ラズベリーが少しだけ困ったような声音を漏らし、スピカはほとんど表情を変えずにスナイパーライフルを構える。 低級の魔物であるガルムやキラースコーピオンばかりならどうにでもなるのだが、流石に上級の魔物達の群れが相手では分が悪い。単体ならば何とでもなる相手だが、これだけの数がそろえば十分に数の脅威となる。 「くそったれが! オレ達はレオをぶっ殺しに行かなきゃならねぇんだッ! テメーらなんぞ相手にしてる暇はないんだよッ!」 バーバラががむしゃらに銃を乱射するが、気休め程度の足止めしかできていない。特にトロールのような筋肉馬鹿の魔物に物理攻撃はあまり通らないため、弾を無駄に浪費しているだけだ。 ラズベリーがウインドジェムを輝かせて空気の塊を魔物の群れに撃ち込んでいるが、あれも低級魔物のガルムなどを吹き飛ばす程度であまり効果はない。スピカのフレイムショットは比較的ダメージを与えられているようだが、充填から射出に至るまでに時間が掛かりすぎ、壁の向こうから雪崩れ込む魔物の勢いを止めることはできない。 直ぐ目の前まで迫ってきた魔物達をアンリエッタとフレイデリカで撃退しているが、魔物の増殖は止まることを知らない。次々と新しい魔物が壁の向こうから大広間へ雪崩れ込み、消費されるのはこちらの体力とジェムの魔力、弾薬ばかりだ。 「このままでは埒があかないわ! アンリエッタ、どうする?」 フレイデリカが、左手の手っ甲に埋め込んだフレアジェムを輝かせながらトロールを一瞬にして燃やし尽くす。だがすぐに次の魔物がフレイデリカを襲い、反応の遅れたフレイデリカの脇腹がガーゴイルの爪によって引き裂かれて鮮血が飛散した。 「確かにこのままじゃやられるのを待つばかりだわ。けれど……」 アンリエッタは右腕の手っ甲に埋め込んであるアイスジェムへ意識を注ぎ、襲いかかってくるトロールを氷の拳で粉砕した。だが敵は次から次へと容赦なくアンリエッタ達に襲いかかってくる。 じり貧になることはわかっている。だが、だからと言っても解決策がないのが現状だ。いくらS級エインフェリアであるとはいえ、この現状を打破できるほどの戦闘力を有しているわけではない。 背後に迫る死をヒシヒシと感じつつ、アンリエッタは必死に拳を奮った。その時―― 「バーバラちゃん! 後ろッ!」 不意に、絶叫に近いラズベリーの叫びが大広間に響き渡った。アンリエッタがハッとして見つめた先、魔物の群れの中心部へ突貫していたバーバラの背後からまさにキラートレントが鎌のように鋭い枝を振り下ろそうとしていた。 この位置からでは助けに行こうにも間に合わない。 アンリエッタが諦めかけた時、突如、魔物の群れが雪崩れ込んでくる壁とは反対方向の壁が轟音と共に崩れ落ちた。 「――なッ!?」 『ギィィイイッ!』 迸る閃光。あまりに一瞬の出来事に、アンリエッタの思考が遅れる。 気づけば、バーバラを背後から襲おうとしていたキラートレントは氷の牢獄に捕らえられており、バーバラが一瞬反応が遅れた後、それを氷ごと打ち砕いた。 崩れ落ちた壁の向こうからは日光が差し込み、砂埃や逆光のせいで何が起きたのか確認できない。だが逆光の向こうで次々と閃光が迸り、その度に魔物達が氷の牢獄に捕らえられて固められていく。 何が起こっているのかわからない。だが、頭よりも先に体が動く。それこそ、長年ニーヴルで培ってきた勘がそうさせているのかもしれない。 アンリエッタは身動きできずに氷の中で佇む魔物達を次々と拳で打ち砕いていく。フレイデリカも同様に拳で魔物達を破砕し、バーバラが手榴弾を取りだして凍り付いた魔物達の中心目掛けて投げつけた。 手榴弾の爆発に加えてスピカのフレイムショットが魔物達を粉々に破壊し、さらにラズベリーのサブマシンガンとウインドカッターが魔物達を引き裂いていく。 底なしかと思えた魔物達の増殖が鈍ってきた。大広間へ雪崩れ込んでくる魔物の数が徐々に減少、ついには弾切れなのか壁の向こうから入り込んでくる魔物が尽きる。 謎の援護を受けつつ、アンリエッタ達はすべての魔物を打ち倒した。それはアンリエッタ達の実力ではなく、すべて援護のお陰。凍り付いた魔物を倒すのは、動かない的を殴りつけることと同じで、誰にでもできることだ。 「はあ、は……。か、片づいたみてぇだな……」 「はい。な、なんとかなりましたねぇ……」 「……はあ、はあ……」 肩で息をつくバーバラ達。彼女たちの無事を確認してから、アンリエッタは再度逆光の向こうへ視線を送る。 いきなり現れてアンリエッタ達を援護したのは何者なのか。砂埃が収まった今、逆光で浮かび上がるのは、大小二つの人影だった。 アンリエッタの近くにバーバラ達も歩み寄ってくる。武器を手にしたまま、キッと睨め付けるように鋭い視線を送りながら、バーバラが、 「何者だテメーッ!」 と、助けてくれた相手に啖呵を切る。 「…………」 二つの影は何も答えず、一歩、二歩とこちらへ歩み寄ってきた。フレイデリカに目で合図を送り、アンリエッタも腰を落として身構える。 こちらが警戒していることに気づいているはず。だが、それにも関わらず相手は一向に止まる気配を見せない。 静かに二つの足音だけが大広間に響き、ようやく逆光が遮られて影の正体を確認できそうになった時、 「お前達と戦う気はない。知っているのなら、アリアの居場所を教えろ」 若い男の声がそう言った。 「なっ……! テ、テメーは!」 相手を確認したバーバラが驚きの籠もった声を漏らし、同様にラズベリーとスピカも目を見開いて現れた人物を見つめた。 驚きを隠せないのはバーバラ達だけではない。アンリエッタ、フレイデリカも一緒だ。 「あなたは……」 銀髪の少女と共に現れた長身の男。その男を瞳に映しながら、アンリエッタは小さく呟く。 「“魔弾”の……、シェド……」 大切な仲間であり、家族であり、そして、掛け替えのない友達である少女を助け出すために、今、自分はここにいる。 天高く佇んでいた要塞――ヴァルハラに乗り込んだシールディア=エガンフィスは自分が今ここに居る理由を心の中で呟きながら凛と前を見据えた。 ドラゴンであるシールディアが心を手に入れ、そして願った想い。世界の敵とされ、ドラゴンの宿敵であるとされる天使の少女を、悲哀の鎖から解き放ち、共にオンナノコとして成長していきたいという、ささやかで小さな願い。 それを叶えるため、少女を救うために、シールディアはここへ来た。 シールディアの体を包む黒を基調としたゴシックドレスも、元はその少女のために作られたもの。シールディアが少女と共に行動するようになってから、二人の衣服を分ける意味で、シールディアは黒っぽい衣類、その少女は明るい服飾を身につけるようにした。 何故シールディアが黒で衣服を統一しているか。それは肩まで伸びた銀色の髪や、雪のように白く透き通った肌、琥珀色の双眸が、純粋で無辜な印象を他者に与えると同時に、朧気で儚いイメージも内包しているからだと、シールディアの服を繕った男は言っていた。 今にも消えてしまいそうな淡い輪郭を、黒というしっかりとした色で縁取り、そこにその者がいることをしっかり世界へ伝えるために、男はシールディアに黒の衣類を身につけるよう言った。 そんな、シールディアに黒の衣類を着るよう促し、シールディアが心を手にするきっかけを与えてくれた男、シェド=ガンブレイブは、出会った頃からずっと変わらぬ淡泊な面持ちで、シールディアの横で気怠げに佇んでいる。 茶色のボサボサの髪に、黒い瞳。普段は丸レンズのサングラスを掛けているが、建物の中なので今は外している。トレードマークとも言える紺色の襟の高い長袖は、右腕側が肩口から裂けているため、右側だけノースリーブになっている。トップと同じ色の長ズボンを穿き、首には朱色のボロ布をマフラーのように巻き付けている。 肌の露出した右腕の手首には、まるで今まで何かが巻き付いていた名残であるかのように白の包帯が絡まっており、その先の手には白銀に輝く拳銃を握っている。 「ま、魔弾のおっさんが、何でこんなところにいやがんだよ! ここはもう、とっくに天空のはずだろ!」 朱色の髪の少女が、動揺と殺気と混ぜ込んだような表情を浮かべてこちらを窺っている。手には二丁のハンドガンを構え、銃口はシールディアの隣のシェドを捕らえていた。 「そんなことはどうでもいい。アリアの居場所を知っているのなら答えろ。知らないのなら用はない」 「な、んだと、テメーッ!」 「やめなさい、バーバラちゃん」 「こら、ラズベリー、離せッ!」 シールディア達がここへ来た理由。救うべき大切な仲間である、アリアという少女の居場所を淡々と尋ねたシェドに、バーバラと呼ばれた朱色の髪の少女が憤った様子で暴れ出し、それをラズベリーと呼ばれた水色の髪の少女がなだめている。 「休戦が最良。今は、レオを倒す方法を考えるのが先」 「う、うっせーなスピカ! そ、そんなのわかってる!」 スピカと呼ばれた、フォレストグリーンの髪の少女がバーバラとラズベリーの隣で感情の薄い瞳をこちらへ向ける。一瞬シールディアと視線が絡み、スピカは小鳥のように首を傾げた。 「レオを……倒す? お前ら、アリアを殺すつもりなのか?」 「それなら、どうすると?」 バーバラの言葉に眉をピクリと動かしたシェドに、今度は藍色の髪をした女達が話しかけてくる。うり二つの容貌をした双子と思われる女達が、探るような目でシェドを見つめる。 「この場で俺がお前達を倒す。俺はアリアを助けるためにここへ来た。誰だろうと、あいつに危害を加えるつもりなら容赦しねぇ」 「あらあらぁ。シェドさんってば、以前お会いしたときと変わらず、今でもレオに首っ丈なんですねぇ?」 面識があるのか、ラズベリーがニコニコしながらシェドに話しかけてくる。 空中要塞ヴァルハラは、元はニーヴルの基地だ。ここに居る以上、彼女らはエインフェリアと呼ばれるニーヴルの戦士なのだろう。ならば、元エインフェリアであるシェドと面識があってもおかしくない。 ただ、シェドとレオ――つまりアリアが一緒にいる時に会っているという言葉は、少々ひっかかった。シェドとアリアは、組織を抜け出してから出会ったはずだから。 「何とでも言え。……それで、どうする? 俺はあいつを救うためにここへ来た。邪魔するのであれば、誰だろうが蹴散らすだけだ」 「面白ぇっ! やってみ――むぐっ!」 「バーバラ、五月蠅い」 売り言葉に買い言葉。シェドのけんか腰の態度に、血の気の多そうなバーバラがつっかかりそうなところを、スピカがその口を塞いで制す。 「私達はあなたと戦う意志はありません。ただ、いくつか疑問があるので、お聞きしてもよろしいでしょうか?」 双子の片方がシェドの尋ねてくる。シェドが無言で女に視線を送り、質問を促す。 「シェドさんは世界の危機についてご存じですか? このままでは、世界は完全に無へ帰してしまいます。それを防ぐためには――……」 「知っている。アリアがニーヴルの手に落ち、すべての天使が揃ってしまった以上、もう一つの神と呼ばれる存在が復活しようとしている。人間を憎むもう一つの神が復活してしまえば、世界は崩壊を免れないだろう」 「……どうやら私達以上にお詳しいようですね。ならば、どうして天使の少女を“救う”のですか? 鍵である天使を“倒せば”、世界の崩壊を防ぐことができるのですよ?」 もう一人の女が、心苦しそうに尋ねる。 シールディアは女の言った言葉を心の中で繰り返しながら、スッと瞳を閉じた。 何度その問いかけを自分の中で行ったことだろう。世界と少女。普通なら、天秤に掛けるまでもない選択だ。だが、どうして世界と少女を別の天秤皿に分けなければならないのか。どうして少女は両親と共に平穏で安らかな生活を送りたいという小さな想いを願ってはいけないのか。そのことを、何度も何度もシールディアは自問自答した。 決して正しい答えなんかない。でも、シールディアにはシールディアの答えがすでにある。答えがあるからこそ、今ここに居るのだ。そして、それはシェドも同じはず。 「さっきも言ったはずだ。俺はアリアを護る。アリアを護っていれば、ついでに世界の崩壊も防げるだろ」 「つ、ついでに世界の崩壊を防ぐって……」 「だから何としてもあいつを取り戻す。ガンズやレミネーラ達が立ちふさがるってんなら、片っ端からぶっ倒していくだけだ」 威風堂々というより、淡々と面倒くさ気に言ってのけるシェドに、双子の姉妹が唖然とした表情を浮かべている。シールディアのように、シェドの本心を知っている者以外から見れば、何とも軽薄で無計画そうな男に見えるだろう。 だがシールディアは知っている。シェドの心の根底にある、アリアを絶対に助け出すという強い意志。シェドの生きがいとなっている、無垢なる少女をずっと側で支えてやると言う確固たる信念。 「……つかみ所のない人ですね、あなたは」 「何で、お姉様は組織にいた頃、あなたを慕っていたのでしょう。不思議でなりません」 双子が苦笑しながらもシェドに対する警戒を緩める。バーバラだけが依然仏頂面で面白くなさそうに眉根を寄せているが、他の二人もどうやら戦う意志はなさそうだ。 「天使達は、基地地上部分の中心にある庭園、そこに建造されたヴァルハラ神殿にいます。そこにガンズや社長、レミネーラもいるはずです」 「やはりあそこか。だが、外からじゃ入れなかったぜ?」 「外から? ……そう言えば、シェドさんは一体どうやってここへ? 並のワイバーンでは届かない高度にいるはずだと、研究者の一人が言っていたはずですが……」 確かに、ヴァルハラはかなりの高度に位置していた。ヒトが自分たちの足として使う翼竜では、たどり着くことはできないはずだ。だが、シールディアは違う。 「そんなことはどうでもいいだろ。そんなことより、あの結界みたいのはどうにかならねぇのか?」 「外から侵入しようにも、神殿の周囲には強力な結界のようなものが張り巡らされていた。さすがに私でもあれを突破するのは不可能だ」 ずっと黙っていたシールディアが喋ったことに、シェド以外の面々が驚いた様子でこちらへ視線を向ける。 ドラゴン本来の姿でシールディアがヴァルハラにたどり着いたとき、確かに中心にあった神殿より天使の波動を感じ取った。だが神殿を中心に強力な結界が張り巡らされており、それを突破する方法を模索していたところ、窮地に立たされている人の思念を感じ取り、こうして壁を破ってここへ侵入したのだ。 「さっきまでここにいた研究者が言っていたわ。結界は、“招かれざる客人”による横やりを防ぐためのものだって」 「なるほど、どうやらあの結界はドラゴンに対してのみ有効な結界のようだな。確かに、世界の危機が迫るとなれば人を守護するドラゴンが邪魔しに来る可能性は否定できない」 かつて“神狩り”を行ったヒトに愛想を尽かしたドラゴン達が、どこまでヒトのために動くかわからないが、それでも天使を天敵だとするドラゴンがここへ向かってくる可能性は否定できない。それを考慮して結界を張ったのだろう。 「じゃあ、人間には何の効果もないのか?」 「わかりません。聞き伝えですので」 「……どうする、シェド? 再びそこの壁から外に飛び出し、結界の外からそなた一人で突入するか?」 「そうだな、それが手っ取り早いか……」 シェドが思案顔で顎に手を添える。結界は神殿を中心にかなり広範囲にわたって張られていたため、結界の外から突っ切るとなると、かなりの距離を走ることになるだろう。上空から確認する限り、神殿の外は魔物で溢れかえっていた。あれを突破するのは、ガンズと呼ばれるニーヴルのトップクラスを相手にする前には避けたい。出来る限り力は温存しておきたいところだろう。 ふと、考え込むシェドのもとへ双子の一人が歩み寄ってきた。シェドが視線を向けると、おもむろに口を開き、 「もう一つ、突破口があります」 と、告げた。 「突破口?」 「ええ。結界は、ヴァルハラが浮上する前まで地上だった部分にしか張られていないと聞いています。つまり、今私達が居る、浮上前は地下に埋まっていたエリアまでは届いていないのです」 「地下だったエリアを神殿の直下まで突き進み、そこから天井を落として神殿内に直接乗り込む、というわけか」 「はい。神殿の地下には巨大な闘技場があります。かつて、覚醒前の天使と生成したドラゴンを戦わせていた場所だそうです」 「…………」 すべては天使を復活させる研究に従事していた研究者の話らしいが、その研究者すら、おそらく天使復活の本当の意味に気づいてはいなかっただろう。自分たちの住まう世界を壊す研究に、進んで協力しようと思う人間がいるとは思えない。 双子の片割れは、シールディアが外から開けた壁の穴と正反対の位置にある、穴の開いた壁を指さした。あの方角へ進めば、神殿直下の闘技場へ行けるという意味だろう。 「……よし、じゃあそっちの道を進もう。行くぞ、シール」 「わかった」 シェドが駆けだし、シールディアもその後を追う。 シールディア達がエインフェリア達の脇を抜けて反対側の壁まで到達したとき―― 「待てよッ!」 バーバラの大声がシェドの足を止めた。シールディアも止まって広間の方へ振り返る。 「オレも行く! ホントはレオをぶっ殺すつもりだったが、おっさんがどうしてもレオを助けるってんなら、レオだけは見逃してやる。その代わり、ガンズのヤロー共はオレがすべてぶっ殺してやる!」 「やめとけ。お前じゃ、あいつらの相手は務まらねぇよ。挑んだところで、むざむざ返り討ちにあうのが関の山だ」 「んなもん、やってみなきゃわかんねーだろうがッ! おっさんが何と言おうと、オレは絶対あいつらのところへ行くぜ!」 シェドはしばし睨むように鋭い視線をバーバラへ向けた。だがバーバラは決してシェドから視線を逸らさず、転んでもただでは起きあがらないような不屈の闘志がうかがえる。 何を言っても無駄だと思ったのか、シェドは大きくため息を漏らし、 「好きにしろ」 そう言って踵を返し、神殿の直下を目指して掛けだした。シールディアもすかさず後を追う。そしてシールディアの背後から、エインフェリア達の足音が響いてくる。 アリアが居るというヴァルハラ神殿を目指し、シールディアはシェドのすぐ後を、息を切らしながら追従した。 先頭をシェドと銀髪の少女が突き進み、その後をバーバラとラズベリー、スピカが続く。フレイデリカはアンリエッタと共に最後尾を走り、シェドの背中をジッと見つめた。 魔弾という二つ名を持ち、ニーヴルでも指折りの戦士だったシェド。同じ任務をこなしたことのある他のエインフェリア達から、シェドの凄さはいろいろ耳にしていた。 だが中立都市デオラガーンで初めて対峙し、その時フレイデリカ達を指揮していたガンズの一人、ミゲルと戦っているシェドを見たとき、そこまで凄い男なのかと疑念を抱いた。 一方的にミゲルにやられていたシェド。彼らの勝敗が決す前に、フレイデリカは姉と慕っていた元エインフェリアの女とその女と共にいた金髪の男に敗れたため、戦いの結末は知らない。だが、あんなにも劣勢だったシェドがミゲルに勝てたとは思えない。 天使の一人、無垢なる獅子を助けるために来たというが、果たして、ミゲルにすら遠く及ばなかった男が一人増えたところで圧倒的な戦力差をひっくり返すことなどできるだろうか。天使の居るというヴァルハラ神殿には、ミゲルだけでなくアルフレッドやカルネ、キャロルといった他のガンズも居るはずだ。 フレイデリカは思い立って走る速度を上げ、バーバラ達を抜いてシェド達と並んだ。フレイデリカを追って、アンリエッタがシェド達を挟んで反対側まであがってくる。 「シェドさん。先ほど、あなたは天使を救うと言いました。しかし、天使の元には間違いなくガンズが居るはずです。彼らを打ち破って、天使を救い出す算段があるのですか?」 「算段なんかねぇよ。真正面からぶつかって、ぶっ倒すしかない。あいつらの力の方が俺より上だったら、どうしようもない」 「だったら、その力を無理にガンズへぶつけようとせず、私達全員で連携して一体でも天使を倒せば――」 「何度も言わせるな。俺は、あいつを助けるためにここに来た。あいつや、他の天使を殺すという選択肢はない」 しっかりと前を見据えたままハッキリとした言葉を紡ぐシェドの横顔を、フレイデリカは口をつぐんでジッと見つめる。 「本当に、シェドさんはレオに首っ丈なんですねぇ。純愛、ですか? あらあら、うらやましいですぅ」 「ケッ! 何言ってやがる。おっさんのはただの童女趣味だろ。そー言うのは純愛とは言わねぇよ! な? スピカ」 「偏愛」 「ヘンアイ? ま、まあよくわかんねーが、おっさんがただのロリコンってことだ!」 突然騒がしくなったと思いきや、いつの間にかバーバラ達がフレイデリカ達のすぐ背後まで迫っていた。 以前フレイデリカ達がデオラガーンでシェドと対峙したときは別の任務に赴いていたはずだが、どうやらバーバラ達も過去にシェドと何やら因縁があるようだ。 「確かに、私達くらいの年のレオをずっと連れ回していたようですし、今はまた別の、可愛らしい女の子を連れているようですから、ロリコンというのはあながち間違いではないかもしれませんねぇ」 丸レンズのメガネの位置を直しながら、ラズベリーがシェドの隣をひた走る銀髪の少女へ視線を送った。銀髪の少女が振り返り、 「その女の子というのは私のことか?」 と、外見以上に大人びた声音でラズベリーに尋ねる。 銀髪の少女のことはフレイデリカも疑問に思っていた。デオラガーンで対峙したときは居なかった、少なくともフレイデリカは見ていない、十二、三歳くらいの少女が、何故シェドの隣に居るのだろうか。 真正面から行けば、間違いなくガンズとの正面衝突は避けられない。それにただでさえ、今ここは魔物で溢れかえっており、いつ何時、魔物の群れに襲撃されるかわからない状況だ。そんな場所で、華奢で線の細い少女はとても浮いている。 「大丈夫だ。私はそなたが思うほど弱くはない」 「え……?」 突然、まるでフレイデリカの心を読んだように、ラズベリーへ向いていた視線をフレイデリカへ向けた少女がそう言った。その琥珀色の双眸にはあまり顕著な感情がうかがえず、まるで心なき天使達と呼ばれる少女達のようだった。 「確かに、私はそなた達が天使と呼称する少女らのように感情が薄くみえるだろう。まだまだ、私はヒトの感情に疎い部分がある」 「な、え……? ど、どうして?」 「フレイデリカ? どうしたの?」 スピカが不思議そうにフレイデリカの顔をのぞき込んでくる。だが、不思議なのはフレイデリカだ。隣を走る銀髪の少女が、次々とフレイデリカの思った疑問について答えを返してくるのだから。 銀髪の少女はチラリとシェドを一瞥し、何やらコクンと頷いて見せた後、再びフレイデリカへ視線をくれた。 「すまない。完全に思考を読んだわけではないので許してほしい。ただ、空気を伝ってわかる思念を少し読み、そなたが考えていることの大筋を把握し、その答えを用意したのだ。思考を読まれたのだと気に障ったのであれば謝罪する」 「思念を……読む? あなたは、一体……」 「私は外見通りのヒトではない。私はそなた達がドラゴンと称する存在」 「ド、ドラゴンだあ? おいテメー、付くならもっとマシな嘘付けよ!」 「嘘ではないのだが……。……む?」 銀髪の少女が突然、何かを感じ取ったように振り返って前方を見つめた。隣のシェドも、すでに腰のホルスターから白銀に輝く拳銃を取り出している。 フレイデリカがハッと顔を上げると、前方に複数の影が見えた。禍々しいオーラが空気を伝わってフレイデリカの肌を冒し、先に居るのが魔物だと直感する。 薄暗い通路の先では数匹のトロールが、まるで待ちかまえていたかのように棍棒を手に通路を塞いでいる。パワー型で表皮の硬い魔物の相手は、ジェムの使用を余儀なくされるため、先のことを考えなければならない場合は厄介だ。 「ふむ。ちょうどいい機会だ。シェド、ここは私に任せてくれ」 どうやったら一番効率的に撃破できるかフレイデリカが逡巡していた時、ふと銀髪の少女が感情の薄い声でシェドに語りかけた。話を振られたシェドは、 「わかった。任せる」 と、完全に銀髪の少女一人に戦闘を任すかのように銃をホルスターへしまった。 「私はシールディア=エガンフィス。私がドラゴンであることを、力を持って証明しよう。こんな狭い場所では、本来の姿を見せることは出来ない故、それで勘弁願う」 シールディアと名乗った少女が突貫していく。本当にシールディア一人に任せるらしく、シェドがピタッと足を止めるので、思わずフレイデリカも足を止めた。 アンリエッタやバーバラ達も足を止め、「おいおい、ホントに大丈夫なのか?」などと声をもらしながら先行していくシールディアの背中を見つめる。 小さな少女の前にそびえ立つ奇っ怪な怪物達。フレイデリカは、遠目からその構図を、固唾を飲んで見守った。 ドラゴンの力を示すことは、自分がヒトではないと認めることと同義。それは自分が友と交わした言葉――“互いにオンナノコとして成長した姿を見せられるよう”に反していることはわかっている。 ドラゴンであるシールディアは決して、本当の意味でオンナノコになることはできないだろう。しかし、自分がなりたいのはヒトのオンナノコという意味ではない。それと大差ない、そんな心を持った自分になりたい。それが、シールディアの願い。 シールディアはドラゴンだ。そして、シールディアはオンナノコだ。 『オオオオオッ!』 トロールが棍棒を振り上げ、吼えながらそれをシールディアへ振り下ろしてくる。シールディアは右手を掲げ、怜悧にトロールを睨め付けた。 「魔物相手ならば、私はいくらでも戦える。私達ドラゴンは、本来魔物からヒトを護るために創られたのだ」 『ガアアッ!』 全身を流れる魔力を手の平へ集結させ、シールディアの手が青白い光に包まれる。トロールの振り下ろした棍棒は、シールディアに激突する直前でピタッと止まり、トロールが一瞬、うめき声に近い奇声をもらした。 シールディアの全身を包む蒼白のオーラ。それに触れた瞬間、トロールの棍棒がカチコチと音を立てながらみるみる凍てつく氷で塗り固められていき、それは棍棒を伝ってトロールの腕にまで浸食していく。 右腕に巻き付く、幾何学的な文字が羅列している銀色の腕輪。そこには血のように朱い一つの宝石が埋まっており、シールディアが力を解放するたび、淡い光が宝石より溢れ出ている。 「はっ!」 シールディアは息を吐きながらかざしていた平手をぐっと握りしめる。すると棍棒から腕の付け根まで凍結していたトロールが苦悶の形相を呈し、次の瞬間、氷に包まれていた部分が粉々に砕け散って四方へ氷欠片が飛散した。 『アアアアアッ!』 「時間が惜しい。手加減なしでゆくぞ」 次々と迫り来るトロール達の攻撃は、すべてシールディアの全身を包む蒼白のオーラが防いでくれる。オーラに触れたトロールは触れた部分から凍り付いていき、敵が凍り付いたのを見て、シールディアはその相手に手をかざし、ぐっと拳を握りしめる。 次々とトロール達が氷の牢獄に捕らえられては粉々に砕けていく。シールディアは止まることなく駆けめぐり、魔物達を次々と絶対零度の氷結で束縛していった。 本当ならヒトの姿でいるときにこれほどドラゴンの力は発揮できない。だが右腕に巻き付く、魔練器技師に作ってもらった腕輪がヒトの姿をしているときでもドラゴンの力を使えるようアシストしてくれる。 シールディア自身の血や魔力を結晶化させて作った竜結石。それが埋め込まれている腕輪を装備しているだけで、ドラゴンとしての力を十分発揮できる。 「スラッシュに感謝だな」 ドラゴンの腕輪を作ってくれた魔練器技師に対する感謝の言葉を呟き、シールディアは両手を地面にかざす。 シールディアの周囲を取り囲むトロールの数は数十体にのぼる。これだけの相手を一体ずつ倒していては時間の無駄だ。ならば―― 「はああああああっ!」 体の中で疼くドラゴンとしての魔力を集結させ、両手から一気に放出する。シールディアの咆哮に呼応するように両手から青白い光が広がり、光は地面に当たって四方へ広がっていく。 光はシールディアを中心に巨大な正円を描き、トロール達は自分たちの足下を這う霧のような光に驚き戸惑っていた。 「さすがにこれだけ解放すると疲労も大きい。だが――」 シールディアは地面にかざしていた両手をグッと握りしめ、静かに瞳を閉じた。 地面に張り付く光はヒンヤリとした冷気を帯び、徐々に辺り一帯の気温が下がっていった。 三度深呼吸をして息を整え、シールディアはカッと瞳を開く。そして強く握りしめたままの右手を、まるで敵の懐を抉るような勢いで振り上げた。 「氷れッ!」 『ガアアアアアアッ!』 シールディアのかけ声に合わせて地面から光の柱が天井へ昇る。周囲の気温が一瞬して氷点下まで下がり、光の柱の内部で真っ白な凍てつく冷気が竜巻のように渦巻く。 森羅万象すべてのものを凍り付かせる絶対零度の息吹。ドラゴンの姿をしているときにシールディアが吐く息と同等の冷気が、一瞬にしてすべてを氷の牢獄へ閉じこめた。 何十体といるすべてのトロールが凍り付き、ピクリとも動かずに固まっている。シールディアは氷の牢獄の中心に拳を振り上げた姿勢で佇み、もう一度、意識を右手に集中させて拳を強く握り直した。 シールディアが作り出した氷の牢獄で動けるのはシールディアだけ。自身が生み出した氷に包まれたまま、シールディアは強く握りしめた拳を勢いよく振り下ろす。 「砕けッ!」 その掛け声と共に氷の牢獄に亀裂が走り、次の瞬間にはシャリシャリと音を立てながら粉々の氷片となって周囲へ飛散した。 その場に立っているのはシールディアのみ。シールディアを取り囲んでいたトロール達はすべて氷と共に消え去り、スッと瞳を開いたシールディアの視界に、驚愕の表情を浮かべる面々が遠目に映った。もちろん、シェドだけはさも当然のような顔をしている。 エインフェリア達が唖然としている中、シェドが彼女らを置き去りにして駆け出す。シールディアの場所まで一足飛びで駆け寄り、そのまま軽くポンとシールディアの頭を撫でるように叩いてから脇を駆け抜けていった。 シールディアは遠ざかっていくシェドの背中をしばし見つめた後、シェドを追って掛けだした。 魔物をどれだけ倒そうともアリアを救うことにはならない。アリアはもっとずっと先で、魔物以上に残虐非道で凄まじい力を持ったヒトに捕らわれている。シールディア達の目的は、その者達からアリアを取り返すことだ。 助ける。絶対に。 その思いを胸に抱き、シールディアは先の見えない通路を駆け抜けていった。 「おいおい、あの女は一体何者なんだよ! マジでドラゴンだって言うのかよ!」 圧倒的な力でトロール達を一瞬にして粉砕した銀髪の少女。魔弾のシェドを追って駆けていった少女の小さな背中をしばし見つめたまま、ラズベリーの隣でバーバラが納得できない様子で声を荒らげた。 にわかには信じがたいことだが、ラズベリーはあの少女がドラゴンであるということを認めつつあった。あれだけの力、あれだけの魔力をまざまざと見せつけられた以上、認めざるを得ないというのが本音だ。 ラズベリーもバーバラほどではないが、力を持つ者、ニーヴルのS級エインフェリアとしてそれなりの自尊心を持っていた。自分は強い。自分より強い相手など、そうそう居ないだろう。そう思っていた。 だが、銀髪の少女の力は圧倒的にラズベリーより上だった。あれだけの数のトロール達を一瞬にして氷らせるほど凄まじい冷気。あんなもの、たとえラズベリーの扱えるジェムがウインドジェムではなくアイスジェムだったとしても無理だろう。 「……彼女が本当にドラゴンかどうかはわかりません。でも、少なくとも外見通りの女の子ではないようですね。おそらくまともに戦っては、私達三人がかりでも敵いません」 「あの子、すごく強い」 ラズベリーの意見に同意だと言わんばかりにスピカが頷く。 「面白くねぇ話だ! くそッ、あいつらばっかいい格好させてたまるかよ! ガンズのヤローどもはオレがぶっ飛ばしてやる!」 バーバラの苛立ちは収まる様子を見せない。あれは自分の力が少女の力に遠く及ばないことを理解していながらも認めたくないという反発心を抱いているからだろう。 ラズベリー達と同じように少女の戦いぶりに見入っていたアンリエッタ達が、去っていくシェドと少女を追って駆け出した。それを見て、バーバラもブツブツと恨み言か何かを呟きながらその後を追う。 「もしかしてシェドさんは、あの子の力を当てにして乗り込んで来られたのでしょうか」 ふと、ラズベリーは眼鏡の位置を直しながらそう呟く。 「そうかも。前に戦った時思ったけど、魔弾は、あまり強くない。ミゲルどころか、アルフレッドにも遠く及ばないと思う」 スピカの言葉を聞きながらラズベリーは頷く。 前に戦ったと言ってももうすでに三年以上前の話だ。それからシェドに何があったのかわからないが、あの頃より多少強くなっているとしても、ガンズと呼ばれるメンバーとの力の差はそう簡単に埋められるものではない。 もしかしてシェドはガンズと戦うためにドラゴンの少女を連れてきたのではないだろうか。ヒトの守護者だというドラゴンならば、世界を救うために手を貸してくれるというのも頷ける。 だが―― 「……カルネが、いる」 ラズベリーの脳裏に浮かんだことを、スピカが口にした。 「そうですね。ガンズには、“竜殺し”の二つ名を持つカルネさんがいらっしゃいます」 「私達、勝てない?」 「わかりません。ですが、何をしないで死ぬよりは、何か足掻いて死んだ方がマシだと思います。たぶん、バーバラちゃんも同じ意見でしょう。スピカは?」 コクンと頷くスピカを穏やかな気持ちで見つめた後、ラズベリーはシェド達を追って駆け出した。その隣を、スピカが同じ速度で随伴する。 冷静に分析すれば、決して覆ることのない戦力差。自分たちと、ガンズの実力の差はハッキリしている。 シェドの力など、ラズベリー達にとって微々たる足しにしかならないだろう。そしてあれほど圧倒的な力を見せつけてくれたドラゴンの少女だが、相手にあのカルネが居る以上、過多な期待はできない。 けれど何故だろう。諦めてしまいそうな絶望的な状況にもかかわらず、ラズベリーの中で希望の光が輝いている。そしてそれは、シェドとあの少女がもたらしてくれたものに違いなかった。 あの二人は何かラズベリーを勇気づけるものを持っている。それが何かよくわからないが、あの二人なら信じてもいいとラズベリーは思った。 「はて。どうしてでしょうかね」 「……何が?」 「いえいえ。こっちの話ですよー」 怪訝そうなスピカにニッコリ微笑みながら、ラズベリーは前へと足を進めた。 * * * 「わかりました。ご苦労様です。代わりの方と交代して、休んで下さい」 世界を救うために結成された、名も無き組織の基地。正確には、メインベースと呼ばれる基地がニーヴルの襲撃を受けて壊滅してしまったため、ここは予備のセカンドベースと呼ばれる場所だ。 同じ理念の元に集った同志の一人から報告を受けたヴィクトリア=レンウィッグは、自分よりも年上であろう同志の女性に休むよう伝えてセカンドベース内の参謀室を出た。 現在、セカンドベースには非戦闘要員の同志が数人滞在し、それ以外の同志達はセイクリッド・スピア率いる天使討伐部隊としてニーヴルの基地を襲撃しにいった。 だが今ヴィクトリアが受け取った報告。それによれば、ニーヴルの基地が天高く昇っていき、とても翼竜やペガサスでは突入できない状況に陥ってしまったという。 「……隊長さんが言っていた“ヴァルハラ”ですわね。手の届かないところで世界を滅ぼそうなんて、卑怯にもほどがありますわ!」 カツカツと廊下に足音を響かせながらヴィクトリアは親指の爪を甘噛みした。 事態は一刻を争う。すべての天使がニーヴルの手に落ちた以上、世界崩壊のカウントダウンは始まったといっていい。さらに厄介なのは、現在のカウントがわからないことだ。 自室に戻り、クローゼットを開いてヴィクトリアは替えの服をあさる。ずっと参謀室で同志達にあれこれ指示を飛ばしていたため、一昨日からずっと同じ衣服なのだ。年頃の娘として、さすがにこれ以上同じ格好でいることは耐えられない。 少しくらいなら水浴びする時間を取ってもいいだろう。同志の報告にあったヴァルハラの浮上のことや、その他に考えなければならないことは沢山ある。考える時間をとることも兼ねて、ゆっくりお風呂につかるのもいいだろう。 クローゼットの扉の裏についている鏡に映った自分を見つめながら、ヴィクトリアは替えの服を選んだ。伸びてきた金色の髪や朱色の瞳、あまり戦場に出ないため日焼けしていない白い肌。そんな自分の容姿に合う、落ち着いた黒のロングスカートと白の長袖ブラウスを選ぶ。ブラウスの上には黒のジャケットを重ね、ぱりっとしたタイとハイカラーで少しくらいは大人っぽく見せられるのではないだろうか。 セカンドベースに一つだけ有る大浴場。脱衣所に用意した替えの衣服と新しい下着を置き、今着ている衣類はすべて洗濯用の籠へ収めてヴィクトリアは浴場へ入る。 入浴の手順を踏んでからお湯を張った湯船に体を沈め、ボーッと天井を見ながら、今の状況を整理しようとつとめる。 ヴィクトリアはアイザックに言われてセカンドベースに待機しており、組織のリーダー的存在であるガルバトロスが不在である今、代わりに命令系統を指揮するよう言われている。 同志の中ではかなり若いヴィクトリアが、自分よりも年上の同志達に指示を出せるのか。最初はかなり戸惑いもあった。しかし、セイクリッド・スピア三人の戦力はニーヴルと戦う上で欠かすことはできない。そして、彼ら以外でも力有る者は一人でも多く戦いに参加させて戦力差を埋めなければならない。 ならば基地に残ってリーダーの代役を務めるべきは誰か。多くの同志達がニーヴルに殺された今、それを務めるべきは誰か。 ヴィクトリアは自分の意志でアイザックの言葉に首を縦に振った。自分に出来ることをする。世界を護るために、どんなことでもする。そう覚悟したから。 「そうですわ。世界を救うために出来ることは、すべてしなければなりません」 今、早急に考えるべき事項は二つ。戦力の増強と、ヴァルハラへの突入手段。 敵方には、圧倒的な力を持ち、世界を滅ぼす存在とされる天使が十二体いる。それだけではなく、エインフェリアと呼ばれるニーヴルのエリート戦士達も多く、ヴィクトリア達の前に立ちふさがることだろう。たとえセイクリッド・スピアの三人が凄まじい戦闘力を持っているとはいえ、戦力差は火を見るよりも明らか。 そしてもう一つ、どうやって天高くに昇ったヴァルハラへ乗り込むか。翼竜で届かない高度なら、同じぐらいの高度までしか上昇できない愛馬のポニーでも無理だろう。 翼竜以上の、もっと巨大なドラゴンを使役できれば話は別だが、それは人の領分をこえることだとされている。 「突入手段についてはまったくのお手上げですわ。……けれど、」 戦力ならば何とかなるかもしれない。いや、それは決して戦局を覆せるほどの力ではないが、少なくとも、セイクリッド・スピアに負けず劣らない力を持った者を、ヴィクトリアは一人知っている。 たとえセイクリッド・スピアに匹敵する力を持った者が一人増えたとしても、圧倒的な戦力差はひっくり返らない。それはわかっている。けれど、戦力差のためとか、そんな理由を挟まなくても、ヴィクトリアはその力の復活を願っている。 「……もう、逃げるのはやめにしましょう。わたくしは、戦うと決めたのですから」 強く自分に言い聞かせてヴィクトリアは湯船を出る。 脱衣所で用意してきた替えの衣服に着替え、ヴィクトリアは参謀室とは正反対の方へ廊下を進む。そしてとある個室の前で立ち止まり、軽く扉をノックした。 「どうぞ、開いています」 中から女の声が聞こえたので、ヴィクトリアは一息ついてからドアノブを回した。 「失礼しま――ッ! んな、ななななっ!」 扉を開いて中に踏み入った瞬間、ヴィクトリアは口をあんぐりと開いたまま固まってしまった。 仮眠室として使われる部屋には質素な作りのベッドが一つ置いてある。その上で、一組の男女が一枚のシーツにくるまって横になっていた。 それだけならいい。何故ヴィクトリアが悲鳴に近い声を上げて固まっていたのかと言えば、男女が共に一糸纏わぬ生まれたままの姿であったからだ。 「あらヴィクトリアちゃん、おはよう」 長くて艶やかな蒼髪を散らす妙齢の女がスッと上半身を持ち上げてヴィクトリアを見つめた。シーツをそっと引き寄せて肩口より下を覆いながら、眠たげな黒い瞳をこちらに向ける。 その向こうで、男はベッドの上に横になったままヴィクトリアに背を向けていた。ヴィクトリアの位置からでは、男の広い背中と、寝癖の付いた金髪しか見えない。 何で二人揃って裸で寝ているのだとか、色々言ってやりたいことはあったが、それをグッと堪えてヴィクトリアは息を整えた。 チラッと、蒼い髪の女――セシリー=フィレンツィアの儚げな笑みと、金髪の男――シルヴァランス=グレインの背中を見つめる。 大好きな兄と、その恋人。ずっと離れていたが、再会を果たしたとき、二人は大切な人を護れなかったという絶望に打ち拉がれていた。シルヴァランスはセシリー以外の人間と口を利こうとせず、セシリーはすべてを諦めてしまったような弱々しい笑みを常に浮かべている。 「おはよう、じゃありませんわ。今、世界がどのような状況に置かれているかお二人は存じているはずです。それなのにお二人はこんなところで、あんなことやこんなことをしながら逃げておられるのですか?」 「そうね。ヴィクトリアちゃんの言うとおりよ。……でも、それはいけないことなの?」 「――っ! 馬鹿にしているのですか? わたくしたちが必死で戦っているのを、無駄なことを諦めもせずがむしゃらにやってる馬鹿を見るような目で見ないで下さい! 不快です! 憤りを覚えます! ムカつきますわっ!」 「私達も戦ったわ。でも、何もできなかった。私達の力なんかちっぽけ過ぎて、何の意味も成さなかった。だからね、もう疲れちゃったのよ。どうせもう何も出来ることはない。だったら、世界が終わるその時まで、こうして好きな人と一緒に居ることくらい、許されるんじゃない?」 セシリーが儚げな笑みを浮かべたままシルヴァランスの髪を撫でる。その表情を見る限り、今言ったことは紛れもないセシリーの本心なのだろう。 それは確かに今のセシリーの本心なのかもしれない。けれど、ヴィクトリアが知っているセシリーなら、そんなこと、絶対に口にしないはずだ。 ヴィクトリアにとってセシリーは、溺愛していた兄を横からかすめ取っていった悪女で、いつも蠱惑的に微笑を浮かべたままヴィクトリアを馬鹿にして、余計なお世話が大好きで、シルヴァランスとかわらないくらいヴィクトリアのことを見ていてくれた。 好きじゃない。けれど、決して嫌ってるわけじゃない。でも今のセシリーは、そんな感情を抱く相手ではなくなっていた。 すべての希望を失ってしまったセシリーは、好きでも嫌いでもない、そんな相手になってしまった。何よりも腹立たしいのはそのことだ。セシリーが、自分にとって薬でも毒でもない存在になってしまったこと。 「……わたくしは、あなたのことが嫌いでした」 「そう」 「でも同時に、好きでした。憧れていました」 「そう」 「だから、今のあなたを見ていると苛々しますわ。虫酸が走ります。口の中が酸っぱいですわ!」 ビッと指さしても、セシリーは顕著な反応を見せずに微笑んでいた。ヴィクトリアは下唇をキュッと噛みしめ、一度視線を床へ落とす。 何を言っても、ヴィクトリアの言葉ではセシリーに届かない。今のセシリーに届くのはきっと、シルヴァランスの言葉のみだろう。 ヴィクトリアは顔を上げてシルヴァランスの背中を見る。 シルヴァランスが立ち直ってくれれば、貴重な戦力になる。それだけで戦局をひっくり返すことなどできないが、どうしても、立ち直って欲しい。それは指揮官代行として、そして、妹として。 でも、今のシルヴァランスにヴィクトリアの言葉は届くだろうか。セシリーと同じように、シルヴァランスにとって一番大切な相手、セシリーの言葉にしか耳を貸さないのではないだろうか。 互いの言葉しか聞く耳を持たないのなら、もうこの二人が立ち直ることはない。でも、ヴィクトリアだってシルヴァランスにとって大切な妹のはずだ。今は一番の席をセシリーの奪われてしまったけれど、一緒に過ごした時間はヴィクトリアの方が圧倒的に長いし、何より血のつながりがある。 きっとヴィクトリアの言葉なら、シルヴァランスに届く。そう思って、ヴィクトリアはシルヴァランスの背中に語りかけた。 「お兄様」 「…………」 ピクリとも反応はない。それでもいいと、ヴィクトリアは続ける。 「お兄様、何故わたくしたちがジペインの町を訪れたのかわかりますか? もちろん、偶然などではありません」 「……ヴィクトリアちゃん?」 「わたくしが伝えたのです。お兄様の居場所を。同志達と共に世界の敵……お兄様の側に居る、天使を討ち滅ぼすために」 自ら兄の敵になることを誓った。それ故に自分はあの場所に赴いた。そのことを包み隠さず話し、さらに言葉を重ねる。 「わたくしは自分の意志で、世界を救うために天使である少女を斬り捨てる覚悟を決めました。お兄――あなた達の敵に回ることを、自ら選択したのです」 シルヴァランスに変化はない。ただセシリーだけが、微笑を崩して今にも泣きそうな顔をしている。 「アイザックさん達は天使を倒すべくニーヴルの基地へ向かっています。そして他の同志達にも、連絡がつき次第、ニーヴルの基地へ赴くよう通達しています。ポニーちゃんの一族も力を貸してくれているので、移動手段には事欠きません」 アイザック達先発隊には間に合わなかったが、愛馬のポニーに頼んで一族のペガサスを招集してもらったため、後続隊は移動時間をかなり短縮できる。ヴァルハラが超高度にある以上、いくら現場に駆けつけても突入する手段はないのだが。 「天使を一体でも倒せば世界の崩壊は免れます。それに天使とはいえ、普段はただの少女。わたくしでも、銃があれば……殺せるでしょう」 「…………」 「もっとも、あなたにはもう何の関係もない話ですわね。後はわたくしたちに任せて、あなた達はここで休んでいてください。必ず、わたくしたちが天使を倒して世界を救ってみせますから」 微動だにしないシルヴァランスの背中をしばし見つめた後、ヴィクトリアは踵を返して二人に背を向ける。 「隊長さんが不在で、アイザックさん達セイクリッド・スピアの三人も居ない今、同志達の指揮はわたくしが執っています。わたくしは、わたくしに出来る方法で戦って見せます。世界を護って見せますわ!」 自分に言い聞かせるように宣言し、ヴィクトリアはドアノブに手を掛けた。キィと扉を半分開き、右足を一歩、廊下に出す。 「最後にもう一言言わせて下さい。陳腐で手あかの付いた安っぽい言葉かもしれませんが、お兄――あなたは、一度負けたくらいで簡単に諦めてしまわれるのですか? 本当にそれでよいのですか? まだ自分は生きている。世界もここにある。それなのに、諦めて殻に閉じこもってしまうのですか?」 「…………」 「あなたがわたくしに剣を向けたとき、その目はとても強い決意に満ちていましたわ。あの時あなたが見せた、あの強くて真っ直ぐな信念は、もう完全に砕けてしまわれたのですか? もしそうならば、そんなに簡単に砕けてしまうような信念にすら敵わなかったわたくしは、あなたにとってどうでもいい存在だったのでしょうね」 「……ッ……」 「わたくしだけではありませんわ。今あなたの隣にいる女性も、あなたにとってはどうでもいい存在なのでしょうね。まだ世界は崩壊していない、あなたも、その女性も生きている。それなのにもう諦めてしまって逃げ出してしまうということは、そういうことなのでしょう?」 この二人がどれほどの絶望を味わったのかわからない。ジペインで、ヴィクトリア達が駆けつける前に何があったのかわからない。けれど、どんなことがあったにせよ、今二人は生きていて、世界もまだ崩壊していない。それは紛れもない事実だ。 「最後の一言とか言って、長くなりすぎましたわ。では、正真正銘血統書付きの最後の一言。……わたくしたちが世界を救う方法、それは天使を倒すことです。天使と呼ばれる少女の命を絶つことです。もしその方法がお嫌でしたら、ご自分でどうにかして下さい」 今度こそヴィクトリアは部屋を後にした。参謀室へ足を向け、静かに廊下を進む。 本当はアイザック達と共に戦ってくれるよう頼むつもりだった。なのに気づけば、全く別のことを言ってしまった。 でもそれが本心。シルヴァランスには、自分の信じた道、ヴィクトリアを置いてまで同志達のもとを離れた信念を、最後まで貫いて欲しい。そうでなくては、置いていかれた身として寂しいし、悲しい。 もう一度、あの強くて真っ直ぐな信念を取り戻して欲しい。それが、同志の一人であるヴィクトリアとしてではなく、シルヴァランスの妹としての最後の願い。 “一度負けたくらいで簡単に諦めてしまうのですか?” ヴィクトリアは陳腐な言葉だと、手あかの付いた安っぽい言葉だと言っていた。でも、だからこそそれはシルヴァランスの心に強く響いた。手あかが付くほど昔から使い回された言葉ということは、それだけの意味が、力がある言葉という証だろう。 もちろんどんな言葉でも、使い手の心が籠もって無くては意味がない。けれど、シルヴァランスにとってヴィクトリアの言葉は、他の誰とも違い、心の奥底までスッと染みいってくるような力があった。 あの時、確かに自分の心が折れる音を聞いた気がした。護りたい、絶対に護ると誓った少女を護れなかったシルヴァランスは、もうすべてを忘れて逃げだし、諦めようと思った。 完全に砕けたと思っていた。けれど、ヴィクトリアの言葉を受けて痛むということは、まだシルヴァランスの心は胸の中で小さくも輝いているようだ。 「……情けないですね。妹はあんなに気丈に振る舞っているのに」 ヴィクトリアとて世界の崩壊を目前にして恐怖しているはずだ。絶望してもおかしくない状況であるはずだ。なのに、表情は確認できなかったが、耳に響いた凛とした声はとても強い決意に満ちていた。 シルヴァランスはベッドから上半身を起こす。セシリーは薄いシルクのネグリジェを着て窓の外を窺っていた。儚げに、何処か夢を見ているような表情で微笑を浮かべている愛しい人の横顔を見つめ、シルヴァランスはそっと拳を握りしめてみる。 まだ、強く握れる。それはまだ自分が戦える証だと思う。 「僕には、まだ護るべき人がいる。……いや、まだ、じゃない」 世界が崩壊していないということは、シルヴァランスが護りたかった少女はまだ健在のはずだ。だから、シルヴァランスが護ると誓った者は、すべて護ることができるはず。誰一人、まだ喪ったわけじゃない。 “どうでもいい存在なのでしょうね” ヴィクトリアの言葉が頭の中に木霊する。 「そう言われても仕方ないか。我ながら情けないな」 シルヴァランスは世界を守るために同志となった。シルヴァランスは天使と呼ばれる少女を護るために同志の元を離れた。シルヴァランスは愛しい人をずっと護っていくと心に誓った。 護るべきは少女だけじゃない。愛しい妻と、その内に宿った新しい命。大切な妹。掛け替えのない仲間達。そして、そんな人達の住まう世界。 諦めるのはまだ早い。挫折するのは、打ち拉がれて倒れ込むのはまだ早い。だって、まだシルヴァランスが護りたいものは何一つ失われていないのだから。 シルヴァランスはベッドから身を起こし、脇に置いてある服に着替える。ヴィクトリアがちゃんと洗ってたたんでおいてくれた、白のスーツローブ。その隣の壁に立てかけられた細身の剣を腰に携え、フィンガースルーの黒いグラブを装着し、少し伸びてきた金髪を後頭部でゴム留めにする。 「シル……ヴァランス?」 セシリーの驚いた声が部屋に響く。シルヴァランスが振り向くと、眉を顰め、泣きそうな悲壮の表情を浮かべるセシリーと視線が合った。 「セシリーさん。僕は、まだ戦えます。セシリーさんとの約束、破るわけにはいきませんから」 「そんな……。無理よ! もう私達に出来ることは何もないわっ!」 「出来ることが何もなくなることなんてありません。生きている以上、僕にはまだ出来ることがあるはずです」 世界の終わるその時まで、せめて愛しい人との側で添い遂げたい。それは絶望の底にいたシルヴァランスにはとても甘美な響きだった。けれど、本当にそれでいいはずがない。 自分と愛しい人の、もっとずっとの先の未来は望まないのか。そんな大切な人との間に授かった命が生まれる前に、その子の生きていくはずの世界が崩壊していく様を黙って見過ごしていいのか。何も足掻くことなく、簡単に諦めていいのか。 「僕は行きます。そして必ず、アリアさんを救い出してみせます」 「い、や……。駄目よ、そんなの嫌ッ! あの子だけじゃなく、あなたまで居なくなってしまったら、私、私はどうすればいいの? ……お願いだから、ずっと、私の側に居て……。どこにも、行かないで……」 「セシリーさん……」 「もう嫌なの! これ以上辛い思いをするのは嫌なの! これ以上、大切な誰かを失うのは嫌……」 窓際から駆け寄ってシルヴァランスの胸に飛び込んできたセシリーは、シルヴァランスの衣服を強く握りながら嗚咽を漏らしていた。小刻みに震える肩をそっと抱き寄せ、シルヴァランスは瞳を閉じてセシリーの首筋にキスをした。 前にシェドが言っていた言葉を思い出す。 “ホントはすごく脆くて柔な心を持ってるくせに強がって……” その言葉通り、セシリーは決して強い人じゃない。必死に強がっているだけで、本当はとても脆くて砕けやすいガラスの心を持っている。 ニーヴルに関わった人間は皆、何かしら心に欠陥を抱いているのだろう。 セシリーは幼い頃の両親を亡くしたあと、シルヴァランスの兄に救われたことで絶望の淵から一度這い上がり、幸福の門に手を掛け、シルヴァランスの父によってもう一度絶望のどん底にたたき落とされたという過去がある。 絶望のどん底でさらにセシリーの心に巻き付いていったのが、ニーヴルという名の棘。セシリーは誰よりも幸せを恐れ、誰よりも幸せから逃げていた。 自惚れていると笑われるかもしれないが、シルヴァランスは自分が、セシリーから幸せに対する恐怖を取り除き、再び幸福側へ招いてあげられたと思っている。 セシリーが恐れているのはもう一度幸せを失うこと。 「僕は死にません。身の危険を感じたら、何よりもまず、生きてセシリーさんの隣に帰ってくることを第一に考えます」 「…………」 「アリアさんのためにも、これから先の、僕とセシリーさんのためにも、そして生まれてくる、僕たちの子供のためにも、僕は戦います。だから行かせて下さい」 そう言ってシルヴァランスはセシリーの身を離した。涙で濡れるセシリーの頬をそっと撫で、優しく微笑んで見せてから、シルヴァランスは部屋を後にした。 その場にへたり込み、しばらくセシリーは涙に明け暮れた。 挫けそうだった心をつなぎ止めて立ち直ったシルヴァランスが、今のセシリーには怖くて仕方なかった。自分の側を離れ、どこか遠いところへ行ってしまうのではないか、自分は一人取り残されてしまうのではないか、そう思ってしまう。 もう一人は嫌だった。大切な人に置いて行かれるのは嫌だった。もう二度と、幸せを失いたくなかった。 幸せを願うことはそんなにもいけないことなのだろうか。平穏を願うことはそんなにもいけないことなのだろうか。セシリーは、それを望んではいけないのだろうか。 もう自分たちは十分戦った。もう自分たちに出来ることは何もない。なら最後の時が訪れるその時まで、愛しい人と一緒にいたい。それは願ってはいけないことなのだろうか。 「お願い……。行かないで……」 祈るように、虚空に向けて懇願する。 その時、キィと音を立てて部屋の扉が外側から開かれた。ハッとしたセシリーは、シルヴァランスが戻ってきてくれたのかと思って頬を涙で濡らしたまま振り向く。 「あ……。ごめん、ちゃんとノックした方がよかった? タイミング悪かったかな、あ、あははは……」 「ミレーヌ……?」 半分だけ開いた扉から中の様子を伺う、短めの黒髪にグリーンの瞳が印象的な少女。いや、もう少女というのは失礼か、現れたのは魔練器技師の女性、ミレーヌ=コートワーグだった。 予想外の人物の登場に、思わずセシリーは口を開いて固まったまま目を瞬かせた。ようやくハッと我に返った時、自分の情けない姿を思い出し、取り繕う余裕も無かったため、逃げるようにミレーヌへ背を向けた。 「なん……で、あなたがここに居るの?」 背を向けたまま、セシリーは手で涙を拭いながらミレーヌに尋ねる。 「えっと……、ヴィクトリアちゃん……だっけ? シルヴァランスさんの妹さんから、その、お兄様とその隣にいる女の人が落ち込んでるから、手を貸して欲しいっていう内容の手紙を貰ってさ」 「…………え? どうして、ヴィクトリアちゃんはあなたのことを?」 「それは、えっと……。セシリーには話してなかったけど、一年前にシェドとシールディアちゃんが旅を続けてアリアちゃんの元を去ったすぐ後くらいに、この組織の人がシェド達の旅に加わったのよ」 「え……?」 ミレーヌの口から零れた懐かしい名前に、思わずセシリーは振り返ってミレーヌの顔を見つめた。まだ頬は涙で赤く染まっており、ぐしゃぐしゃの情けない顔のままだったが、ミレーヌはそんなセシリーを見ても笑みを崩さず真っ直ぐ見つめ返してくる。 「シェド達と旅を続けた人――ガネットさんって言うんだけど、ガネットさんは時折、組織に連絡するためにシールディアちゃんと一緒にこっちの大陸へ戻って来てたの。あ、これも言ってなかったけど、シェド達はこの一年、ずっとハルモニカ大陸で竜王の手がかりを探してたみたい」 「ガネットさんが……、シェド達と一緒に居たの?」 「うん。あれ、セシリーはガネットさんのこと知ってるの?」 「ええ。前にテムルの東に広がる平野で、戦ったことがあるわ」 一つの体に二つの心が宿った人。性格も正反対だった覚えがある。穏やかでとても優しい大人のガネットと、姦しく自己中心的で好戦的だった少女のガネット。 ふと、ガネットに敗北を喫した後、シルヴァランスをからかって思いっきり怒られた記憶が蘇る。思えば、シルヴァランスに対する想いを初めてハッキリ意識したのはあの時だったような気がする。 あの時の記憶を喚起させると、ほんの少し、心の奥が暖まった気がした。ずっと絶望一色で染まっていた心に、一色だけ、明るい色を取り戻せたような、小さいけれど大切な色を思い出せたような気がする。 「そうなんだ。でね、ヴィクトリアちゃんが、ガネットさんにあんた達を元気づけられる人物に心当たりはないかって尋ねたみたいなの。ガネットさんはこっちの大陸へ戻ってくるたび、シールディアちゃんと一緒に何度かあたしの家にも寄ってたから、あたしとあんた達に接点があることに気づいてたみたいね」 「……なるほどね」 思わず大きく息を吐きながらセシリーは視線を床へ落とした。 前に会ったときはあんなにも兄に依存していて、ひ弱で危なっかしい少女だったヴィクトリア。だが再会したヴィクトリアは、たとえ心の奥底はまだ脆くて決して強くないものだとしても、それでも凛と前を向いて震える体を必死に奮い立たせられるくらいに強い子になっていた。 自分のことだけじゃなくて、セシリーのことにまで気を遣ってくれたヴィクトリア。もしかしたら、セシリーはついででシルヴァランスのためだけなのかもしれないが、それでも、ついさっき言葉を交わした時の彼女の目は、しっかり真っ向からセシリーを捕らえていた。 ミレーヌが、ずっと廊下から半分だけ部屋の中へ入れていた体をすべて部屋の中へ収める。遠慮がちにゆったりとした歩調でセシリーに歩み寄り、そっと、セシリーの隣に腰を下ろした。 「ガネットさんが、ニーヴルの基地へ向かう前にあたしの家に寄ってヴィクトリアちゃんからの手紙を渡してくれたの。それを読んでここへ来たんだ」 「そうだったの」 「ガネットさんに聞いたよ。……アリアちゃんが、ニーヴルに連れ去られたって」 「…………」 「あたしよりずっとアリアちゃんのことを大切に、本当の妹のように思ってたあんたのことだから、きっと凄く落ち込んでるだろうなって思った。シルヴァランスさんもそうかなって思ってたけど、シルヴァランスさんは自力で立ち直ったみたいね」 「自力じゃないわ。ヴィクトリアちゃんが、シルヴァランスを立ち直らせたの」 「そっか。ヴィクトリアちゃんったら、ガネットさんから受け取った手紙には、自分じゃどうすることもできないって書いてあったのに、全然そんなことなかったじゃん」 すぐ隣に居るミレーヌの声は、とても柔らかかった。アリアがさらわれたという事実を認識していながら、どうしてそんなにも落ち着いた声音で話していられるのか、正直、薄情だと思った。けれど、ミレーヌがアリアのことを大切に思っていないはずがない。それをわかっているが故、セシリーは行き場のない感情をどう押し殺せばいいのか困惑する。 ボロボロの自分。今だけ、ミレーヌに甘えてもいいかと、セシリーは口を開く。 「……行って、欲しくないの」 「え?」 「シルヴァランスに、何処にも行って欲しくない。側に居て欲しい……」 「セシリー?」 「私を一人にしないで欲しいの! ずっと側に居て欲しいの!」 癇癪気味に、セシリーは声を張り上げた。嗚咽混じりの声で、セシリーはすべてをミレーヌに白状する。 何も出来なかった自分。もう諦めてしまった自分。立ち直って自分の側を離れてしまうシルヴァランス。それを恐れて受け入れたくない自分。もう一人は嫌なのだという本心。 ミレーヌは黙ったまま静かにセシリーの支離滅裂な言葉を聞いてくれた。 どれくらいの間、一方的にセシリーは話し続けただろう。ようやく自分の中にある感情を吐き出し終えた時、そろそろ話していいかと窺うようにミレーヌが一度セシリーの顔をのぞき込み、そして震えるセシリーの手をそっと握りながら口を開いた。 「大丈夫だよ」 先程と全く変わらないミレーヌの柔らかな声音がセシリーの耳に響く。 「ガネットさんの話じゃ、シールディアちゃんがシェドを呼びに行ったって話だから、きっとシェドがアリアちゃんを無事に助け出してくれる。それにシルヴァランスさんだって、無事にちゃんとあんたのところに帰ってくる」 「……そんな保証、どこにもないわ」 「そうだね。でも、そればっかりは信じるしかないよ。あたしは戦う術がないから、いつだってみんなを信じることくらいしかできなかった。だから今も、シェドやシルヴァランスさんを信じて、無事にアリアちゃんを連れて帰ってくることを信じるだけ」 セシリーの手を握るミレーヌの手が、少し強くなる。 「ちょっとだけ我慢してよ、セシリー。ちょっとだけ寂しい気持ちを我慢して。大丈夫。すぐにアリアちゃんを連れて、シルヴァランスさんはあんたのところにちゃんと帰ってくるから。代わりになれるとは思わないけど、その、シルヴァランスさんが帰ってくるまではあたしがセシリーの側に居るからさ」 「…………」 ほんの少しだけ甘えようと思っただけなのに、ミレーヌはもっと甘えて良いと言わんばかりに優しく声を掛けてくれる。チラリと伏し目がちに横目で窺えば、いつみても元気な向日葵のような笑みをこちらへ向けてくれる。 思えば、ミレーヌはいつだってセシリーを支援してくれていた。出会った当初はシェドのことで何かと突っかかってきたけれど、過去を晒して以来、ミレーヌはいつもセシリーが一人で辛いことを抱え込もうとしたときに助けてくれた。 シルヴァランスと今の関係を築けたのも、ミレーヌが居てくれたという理由は大きい。 「どう、して……? どうして、あなたはいつでもそんなに元気で笑っていられるの? 辛いと思ったことは? どうしても逃げ出したくなったこととか、ないの?」 セシリーはミレーヌの左手に、自分の右手の指を絡ませながら尋ねる。 「うーん、どうしてって言われても……。まあ、何て言うか、あたしはそれだけが取り柄だからね。あんたやアリアちゃん、シェドや、きっとシルヴァランスさんもそうだと思うけど、みんな、辛い過去を背負ってるでしょ? あたしにはそういうの無いし」 照れたように後頭部を掻きながら、ミレーヌがアハハと笑う。 「つまり脳天気なだけなんだよ、きっと。あたしは自分が幸せだと思う。意地っ張りだから別居してるけど、ちゃんと両親は揃ってて元気だし、友達だって沢山居る。胸が貧相なこと以外は特に健康面とかで困ったこともないし、あとえっと……、ま、まあ、とにかく、あたしはあんた達に比べたらずっと幸せでぬくぬくと育ってきたわけよ」 「ミレーヌ……」 「だからね、ええっと、何が言いたいのかというと、その……、あんたは辛い過去を背負っていて、それでも頑張って前を向いて歩こうとしてる。でも、やっぱり時折、泣きたくなるときだってあると思うんだ。あんたの場合、辛い過去があるからこそ、今の幸せにすごく臆病になってる部分があるでしょ?」 「……そうね、幸せを怖いと思ったことは何度もあるわ」 「ね。だからさ、そう言うとき、あたしで良かったらいつでも側で愚痴を聞いてあげるからさ、泣きたいときはいつでも呼んでよ。元気しか取り柄のないあたしだからさ、そう言うときくらいしか役に立てないもん」 にっこりと笑うミレーヌの笑顔は、いつでも太陽のように眩しい。 ミレーヌは自分が幸せな境遇に恵まれていたからいつも元気なのだと言った。セシリーのように辛い過去を背負ってないから、いつも笑顔で居られると言った。でも、それは違うと思う。どんなに幸せな人生を歩んできた人間でも、やはり泣きたくなるときや誰かに甘えたい時はあるはず。 だから、ミレーヌの強さは本物だと思う。ミレーヌが自ら獲得した強さなのだと思う。 「あり、がとう……」 セシリーは泣きながらそう言った。ミレーヌが、ぎゅっと手を握り替えしてくれる。 「じゃあ、今だけ……、今だけ、泣いてもいい?」 「うん、いいよ。その代わり、貧相な胸だっていう文句は受けないからね」 ミレーヌがそっとセシリーの体を抱き寄せた。セシリーはミレーヌの胸に頬を当て、静かに瞳を閉じる。 伝わってくる心臓の鼓動と、その人の熱。 セシリーは瞳を閉じたまま、しばらくミレーヌの胸で涙に暮れた。 こんなにもボロボロのセシリーを見たのは初めてだった。それなのに、不思議とミレーヌは穏やかな気持ちでいっぱいだった。 セシリーが本当は弱い人であることは知っていた。だから情けないと思うよりも、むしろ弱い本当の自分をミレーヌに見せてくれたことを嬉しく思えた。 ミレーヌが優しくセシリーの肩を抱きながら、その青い髪に頬を添えたとき―― 「ミレーヌちゃぁん、まだ入っちゃ駄目ぇ? ――ッ! お、おおおっ!」 「ス、スラッシュ!?」 「あ、妖しいよミレーヌちゃん! なに、もしかして、いつも俺に素っ気ないのは、ミレーヌちゃんがそっち系の女の子だったからなの? いや、不純よっ!」 突然部屋に押し入ってきて、気持ち悪い女言葉を使いながら体をくねらせる、オレンジ色の髪に黄緑色の双眸をした軽薄そうな男。タートルネックの黒い長袖トップにだぶだぶのクリーム色のパンツを穿いている男は、ミレーヌの父に弟子入りして以来、ミレーヌと同じ屋根の下で暮らすスラッシュ=グードリッヒだ。 「ば、馬鹿なこと言わないで!」 「……誰?」 「あ…………」 ミレーヌの胸で涙に暮れていたセシリーが顔を持ち上げてスラッシュの顔を見つめた。冗談半分で押し入ってきたスラッシュが、セシリーの泣き顔を見て、さすがに今のはまずかったかという顔で一歩後ずさる。 「えっと……、あ、あははは……。ごめん、ちょっとばかし悪ふざけが過ぎたかな?」 「…………」 ちょっとどころじゃない。ミレーヌはキッと眉をつり上げてスラッシュを睨め付ける。 ミレーヌの気迫に押されたのか、スラッシュがばつが悪そうにそそくさと部屋を出て行った。ミレーヌは小さくため息を吐き、セシリーの様子を伺う。 「ご、ごめんね。騒がしい奴まで連れて来ちゃって」 「……あなたの恋人?」 「ち、違うわよ! あんな軽薄な男なんて、こ、これっぽちも興味無いわ! アイツはあたしのお父さんに弟子入りしたヤツで、あたしとは別に何の関係も無いの!」 「ミレーヌちゃん、非道いぃ……」 「――ッ!?」 セシリーの問いを完全否定した時、出ていったはずのスラッシュがミレーヌの言葉に反応した。見れば、再びドアから体半分だけ出して中を覗いている。 「スラッシュ! あ、あんたね! いい加減にしないと本気で怒るわよ! さっさとどっか行きなさい!」 「いやぁ、その、そう言われてもねぇ……」 スラッシュは引きつった笑みを浮かべたままドアに張り付いており、何処へ行こうともしない。しばらくミレーヌの鋭い視線を浴び続けた後、スラッシュが一度顔を廊下へ引っ込め、その後、許可を待たずに中へ押し入ってきた。 ミレーヌの制止も聞かずに踏み入ってきたスラッシュに、何か文句を言ってやろうと大きく息を吸い込んだミレーヌだったが、スラッシュに続いて中へ入ってきた二人を見て思わず空気を飲み込んでしまった。 スラッシュに続いて入ってきたのは金髪に紅い瞳をした男女。シルヴァランスと、さっき初めて会ったばかりの少女、ヴィクトリアだった。シルヴァランスの妹らしいが、確かに並んで居るところを見るとよく似ている。 「シルヴァランスさん? それに、ヴィクトリアちゃん?」 「申し訳ありません。急ぎの用がありましたので、再び失礼させて頂きます」 ヴィクトリアは凛とした面持ちのまま、ミレーヌではなくミレーヌの隣で頬を涙で濡らしたセシリーを見つめていた。セシリーはヴィクトリアの姿を見て視線を落とし、その後、まるで逃げるようにミレーヌの背中に隠れた。 どうやら今はヴィクトリアやシルヴァランスと顔を合わせたくないらしい。そう判断して、ミレーヌはセシリーの背中に自分の背中を付けてセシリーの姿を二人の視界から隠す。 「どういうこと? 急ぎの用って、あたしに?」 「正確には、俺とミレーヌちゃんに、だってさ」 「……単刀直入に申しますわ。お二人がここへ来るために乗ってきた、あの乗り物をお貸しいただきたいのです」 「乗り物って……、飛空器のこと?」 ミレーヌが目を瞬かせながら尋ねると、スラッシュとヴィクトリアがコクンと頷いた。ヴィクトリアの隣で、シルヴァランスは少し表情を曇らせて自分に背を向けるセシリーの後ろ姿をミレーヌ越しに見つめていた。 飛空器を貸せという意味が分からずにミレーヌが固まっていると、ヴィクトリアが詳細を語ってくれた。 ニーヴルの基地が空高く舞い上がり、とてもワイバーンやペガサスなどを使っても届かない高度に位置していること。そこに突入するために、ミレーヌがここへ来るために使った乗り物を借りたいという話だ。 「ヒクーキでしたか? あれはジェムを動力として空を飛ぶことが可能な魔練器だと聞きました。それにスラッシュさんのお話に寄れば、多量のジェムを一気に使えば、かなりの高度まで上昇できるそうですので、ヴァルハラ攻略に、是非お貸し頂きたいのです」 ヴァルハラというのが、ニーヴルの基地の現在名称らしい。 「うーん、貸すのは別に構わないけど……。可能かな、スラッシュ?」 「簡単な計算をしてみたけど、普通に使った場合は、飛空器で超高度へ到達するのは無理だ。でも、もう一押しあれば十分可能になる」 「一押しって?」 「搭乗者のジェムによる援護」 それを聞いてミレーヌはハッとシルヴァランスを見つめた。 飛空器はフレアジェムとサンダージェムを動力部に組み込み、さらにバランサーとしてウインドジェムを使っている。超高度へ達するためには、エネルギーとなるフレアジェムとサンダージェムを多量に消費するのと共に、一気に超高度へ駆け上がるための妨げとなる空気抵抗を抑える必要がある。 いくらバランサー用のウインドジェムを増強したところで、凄まじい空気抵抗を受けながら一気に上昇することは困難だ。しかし、搭乗者がウインドジェムで空気の膜を張り、飛空器全体を覆うことで空気抵抗を極限まで抑えることができれば、超高度へ到達することも可能だろう。 「……なるほど、シルヴァランスさんのアクセラレータを応用するわけね?」 「はい。アクセラレータは本来自分だけを空気の膜で覆う技ですが、応用すれば自分の周囲の物まで空気の膜で覆うことは可能です」 シルヴァランスの声が部屋に響き渡った直後、背中越しにセシリーがピクリと体を震わせたのがわかった。 きっとシルヴァランスが敵地へ乗り込むことに悲観的な未来しか描けないからだろう。今のセシリーは幸せを失うことに恐怖し過ぎて、すべてに臆病になっているから。 でも、今のままじゃいけないとミレーヌはわかっている。シルヴァランスの代わりになれないとわかっていても、それでもセシリーの側には自分が居てあげると決めた。 今だけ我慢して。寂しい気持ちを、今だけ堪えて。 ミレーヌは先程セシリーに言った言葉をもう一度心の中で繰り返し、 「わかった。飛空器はシルヴァランスさんに託す。その代わり、絶対に帰ってくるって誓って。絶対、アリアちゃんを連れて、セシリーのところに帰ってくるって」 笑顔でシルヴァランスにそう言った。 「誓います。僕は、必ずアリアさんを助け出してセシリーさんのところへ帰ってきます」 ハッキリと答えるシルヴァランスを見て、ミレーヌはコクンと頷いてみせる。 何か言いたげに、でも結局何も言わずにヴィクトリアが部屋を出て行く。部屋を出る間際に、悲しげな面持ちでセシリーの背中を一瞥していった。 ヴィクトリアに続いてスラッシュが部屋を出て行き、シルヴァランスも廊下へ足を一歩踏み出す。そこでシルヴァランスは立ち止まり、ミレーヌとセシリーに背を向けたまま、 「行ってきます」 そう言って去っていった。途端、ミレーヌの背後からくぐもった泣き声が聞こえてくる。 しばらくミレーヌは背中越しにセシリーの熱を感じ取りながら黙っていた。 もう泣いてもいいよ。今ここには、ミレーヌとセシリーの二人だけだから。強がらなくてもいいよ。 そう思いながら、ミレーヌはそっと瞳を閉じ、静かにセシリーの嗚咽に耳を傾けた。 セカンドベース前の拓けた場所で、魔練器技師の男――スラッシュが飛空器という、空を飛ぶことができる魔練器の点検を行っている。その様子を、ヴィクトリアはシルヴァランスと並んでジッと見つめていた。 魔練器に関して無知であるヴィクトリアにしてみれば、飛空器という魔練器は、どうしてあんなものが空を飛ぶことができるのだろうと疑問で仕方ない代物だった。 鉄で出来た樽を二つ繋げたような胴体と、その胴体の両側に同じく鉄で出来た翼のようなものが付いている。ジェムを埋め込んだ動力部が各所に取り付けられており、話に寄ればあそこから火が噴くらしい。 操縦席と思われる部分は二人分のシートが設置してあり、操縦室全体を分厚いガラスが覆っていた。よく分からない計器やレバー、スイッチが沢山並んでいるが、一般的な魔練器灯ですら構造を理解していないヴィクトリアには、何がなんだかさっぱりわからない。 「……何で、あんなものが空を飛べるのでしょう。不思議でなりません。ミステリーです。胡散臭いですわ」 「胡散臭いとか言わないで欲しいな。僕はこれからあれに乗るのだから」 ヴィクトリアの隣でシルヴァランスが苦笑する。小一時間ほど前まで、完全に塞ぎ込んでいたのに、今は真っ直ぐ自分の足で立っている。 それほど自分の言葉に力があったのかと、少しだけ嬉しい気持ちがこみ上げてくる。もちろん、大好きな兄が戦地へ赴くことに、もしかしたら帰ってこないかもしれないという恐怖はある。けれど、それ以上に立ち直った兄を見ることができてホッとしていた。 「お兄――あなたがヴァルハラで何をしようと、口出しする気はございませんわ。どんな手段を取るにせよ、世界を救うために戦うということに変わりはないでしょうから」 「ありがとう」 ヴィクトリアはシルヴァランスを裏切って、天使の少女の居場所を同志達に伝えた。だから、今はもう、兄と呼ぶことはできない。 そんなヴィクトリアの内心を知ってか知らずか、シルヴァランスが小声で、囁くように語り出した。 「ヴィクトリア、こんなこと言える義理はないかもしれないけど、一つ頼みがあるんだ」 「頼み……ですか?」 ヴィクトリアはピクリと眉を動かす。何となく、聞く前からシルヴァランスの言う頼みが何なのか予想がついていた。 「セシリーさんのことを、支えてあげて欲しい」 「…………」 「本当は僕がずっと側で支えてあげたい。けれど……」 「わかってますわ。あなたにはあなたにしか出来ないことがあります。……あの方のことは、わたくしに任せて下さい」 やっぱりセシリーのことだったかと、ヴィクトリアは自嘲気味に笑った。今のシルヴァランスにとって一番大切な人が誰なのか、もうわかりきっていることだった。 それでも、少しでもいいから自分のことも気遣って欲しかった。必死に震える心を押し殺して気高くあろうとする自分のことを、少しくらい見て欲しかった。 うつむき加減にヴィクトリアが頭を垂らして黙っていると、シルヴァランスがそっと、優しげな声音のまま続ける。 「僕を立ち直らせてくれたヴィクトリアの言葉。きっと、セシリーさんもヴィクトリアの言葉があれば立ち直れると思うんだ」 その言葉に、ヴィクトリアは顔を上げた。 「……どう、してですか? あの方にとって、わたくしは別に意味のある存在ではないと思います」 「そんなことはない。セシリーさんにとって、ヴィクトリアはとても大切で愛しい存在だよ。……そう言えば、僕とセシリーさんが結婚したことは話したっけ?」 「は……? ――ッ! い、言ってません! 初耳です! 寝耳に水です! え、あ、で、では、お二人はもうご夫婦なのですかッ!?」 「はい。それに、セシリーさんの体には、新しい命も宿っています」 笑顔で、少し照れた様子で言うシルヴァランスの顔を見て、ヴィクトリアは呆然と口を開けたまま佇むことしかできなかった。恋人だと思っていたが、実際はすでに夫婦の誓いを立てており、しかも子供がいるなんて、開いた口がふさがらない。 「セシリーさんにとってもヴィクトリアは妹。だから、セシリーさんがヴィクトリアを大切に思わないはずがありません」 「…………それは、言外に、お兄――あなたにとっても、わたくしは大切な存在だと言っていると解釈してもよろしいのでしょうか?」 「え……?」 「わたくしのことなんか、もうどうでもいいと。あなたにとって、わたくしはもう、他人同然の存在でしかないと、そう思ったこともあります。わたくしが天使である少女を切り捨てると決意した時点で、わたくしとあなたはもう、完全に決別した相手であると覚悟しました。けれど……、でも、でもッ!」 ヴィクトリアは声を張り上げた。向こうで必死に飛空器の整備を続けるスラッシュには聞こえなかったようだが、それでも辺りに響くくらいに大きな声でヴィクトリアは思いの丈をシルヴァランスにぶつけていた。 本当は今でも兄のことが大好きだ。そんな兄を奪ったあの女が嫌いだ。でもいつも優しく微笑んでくれたあの女のことを、本当は嫌いたくない。自分は兄が護ろうとする少女を切り捨てると決めた、兄の敵だ。あの女のことばかり気遣う兄は嫌だ。 いろいろな思いがこみ上げてくる。でも、それをうまく言葉に出来ず、ヴィクトリアは俯いてキュッと唇を噛みしめた。 「僕にとってヴィクトリアはこの世でたった一人の妹。大切に決まっているだろう? それはセシリーさんに対する気持ちと比べられるものじゃないし、比べるものでもない」 「……本当に、そう思ってらっしゃるのですか?」 「当たり前だよ。それにアリアさんのことにしても、きっとヴィクトリアはヴィクトリアなりに悩んで、苦しんで、それで決意したことだと思うから、たとえ僕の思いと異なっていても、そのことでヴィクトリアを責める気はない」 「お兄……様……」 「まだ僕を兄と呼んでくれるのなら、どうかセシリーさんを支えてあげて欲しい。ヴィクトリアにとっても、彼女は掛け替えのない人だから」 再びシルヴァランスの口から出るあの人の名前。でも、ヴィクトリアにとっても大切な人とはどういう意味だろう。シルヴァランスの妻であるから、ヴィクトリアにとって姉であるということだろうか。 シルヴァランスがそっとヴィクトリアの髪を撫でる。久々に兄の大きな手で髪を撫でられると、昔のことを少し思い出す。 「ヴィクトリア。昔、ランバーグに住んでいた頃のことだけど、屋敷に住み込みで働いていた姉妹のことを覚えてる?」 「え? ……あ、はい。ミニお姉ちゃんと、そのお姉ちゃんのことですね? 二人とも、人見知りの激しかったわたくしに、とてもよくして下さいました」 唐突に過去の話を始めたシルヴァランスを、ヴィクトリアは首をかしげながら見上げる。シルヴァランスが、ヴィクトリアの顔を柔らかな笑顔で見つめながら、 「ミニのお姉ちゃん。それが、セシリーさんだよ」 まるでずっとヴィクトリアが悩んでいた問の答えをこっそり教えるように、シルヴァランスは優しい声音でそう言った。 「……は?」 「住み込みで働いていた姉妹の、妹がシェミニール。そしてその姉が、セシリーさんなんだよ」 ヴィクトリアは言葉を失って、しばらく目を見開いたままシルヴァランスの笑顔を見つめていた。 突然過ぎて理解が追いつかない。ヴィクトリアが口をパクパクさせながら困惑していると、 「シルヴァランスさーん。用意出来たぜー。いつでも飛べるー」 スラッシュの声でハッと我に返る。シルヴァランスがヴィクトリアの隣から離れ、スラッシュと飛空器の方へ近づいていった。 「じゃあ、行ってくるよ」 途中で一度振り返り、シルヴァランスがヴィクトリアへ向けた笑顔と共にそう言った。 スラッシュが飛空器の搭乗席で、操縦桿があるところへ腰を下ろした。シルヴァランスが後部座席に腰を下ろす。 スイッチを入れたのか、飛空器がゴゥンゴゥンとくぐもった爆発音を漏らしはじめ、器体が振動しはじめた。ヴィクトリアは呆然とその様を見守る。 「ま、待ってぇー!」 ふいにヴィクトリアの後方から声がした。振り返ると、ショートカットの髪を左右に揺らしながら、スラッシュと共に来た魔練器技師のミレーヌが、慌てた様子でセカンドベースから飛び出し、ヴィクトリアの脇を抜けて飛空器へ駆け寄って行った。 「はあ、はあ……。よ、よかった。出発前に間に合った」 「おお、ミレーヌちゃん! 俺の見送りに来てくれたんだね!」 「……あんたのことはどうでもいいけど、」 操縦室全体を覆うガラスを閉めて、室内を密封しようとしていたスラッシュが手を止め、のほほんとした笑みを浮かべる。どうやらスラッシュはミレーヌに気があるようだ。 対するミレーヌはスラッシュに素っ気なく答えてから、後部座席のシルヴァランスに視線を向けた。 「シルヴァランスさん。さっきも言ったけど、早く帰って来てね。あたしはずっとセシリーの側に居るつもりだけど、あなたの代わりが務まるなんて思ってないから。だから、さくっと行って、さくっとアリアちゃんと助け出して、さくっと帰って来てね」 「はい。それまでセシリーさんのこと、お願いします」 「あたしにとってもセシリーは大切な仲間だからね。頑張って支えるよ」 シルヴァランスとミレーヌが笑顔で互いの顔を見つめている。そんな様子を、ヴィクトリアは遠目に見つめることしかできなかった。 ミレーヌが一歩後方へ下がり、スラッシュが再びガラスに手を掛ける。その様子を見たミレーヌが、 「スラッシュ! あ、あんたは無理するんじゃないわよ! あんたは戦う術が無いんだし、もしヴァルハラが危険なところだって分かったら、無理しないで生き残ることを第一に考えなさい!」 飛空器の動力部が漏らす音に負けないように声を張り上げた。 「え……? お、お? もしかして、俺のこと心配してくれちゃってる?」 「ば、馬鹿ッ! あんたは魔練器技師なんだから、戦えないでしょ! そ、それに飛空器だってまだ開発途中で課題も多いんだからね! 無理して壊したら承知しないわよ!」 そう言ってミレーヌはそっぽを向く。ヴィクトリアの位置からではミレーヌの表情はうかがえないが、スラッシュの、ニヘラとした気の緩んだ笑顔だけは確認できた。 「よっしゃ! ミレーヌちゃんが心配してくれるなら勇気百倍! 行くぜ、シルヴァランスさんっ!」 「はいっ」 操縦席を密封した飛空器の動力部が一度大きな爆発音を漏らしてから轟音で唸り出す。後尾と尾翼、両翼の噴射口から火が噴き出し、あっという間に飛空器はヴィクトリアの視界から大地を滑って去っていき、遙か向こうで上空へ向けて舞い上がっていった。 「……まったくもう。こういうときくらい真面目にしなさいよ」 ブツブツ文句を言いながらミレーヌがヴィクトリアの隣まで引き上げてくる。 何か声を掛けなくてはいけない。そんな衝動に駆られ、ヴィクトリアは口を開いた。 「ミレーヌさん!」 「へ? なぁに?」 「えっと……」 呼び止めたはいいものの、繋がる言葉を何も考えていなかった。言いたいことは大体決まっているが、それをどう伝えればいいのかわからない。 スゥッと大きく息を吸い込んで心を落ち着かせ、よしっと気を張る。 「わたくしは隊長さん達の不在を預かる身として、易々と参謀室を離れるわけにはまいりません。ですから、その……、あの方のこと、どうかよろしくお願いします」 「あの方って、セシリーのこと? そりゃあもう、あたしにとってもセシリーは大切な仲間なんだから、言われなくたって支えてあげるつもりだけど……」 ミレーヌはきょとんとしながらヴィクトリアの顔をのぞき込んでくる。そして何を一人で納得したのか、突然ニコッと笑ってうんうんと頷いた。 「そっかそっか。ヴィクトリアちゃんもセシリーのこと心配してるんだね。何たって、シルヴァランスさんの妻ってことは、ヴィクトリアちゃんにとってお姉さんってことだもん。心配するのも当然だよね」 「んなっ! べ、別に心配しているわけではございませんわ! た、ただ目の前でいつまでもウジウジグジグジメソメソされるのが不快なだけです!」 顔を真っ赤にしながら言及してみても、ミレーヌはニコニコと笑うだけで何も言い返してこなかった。 どうしようもなく恥ずかしい気持ちになり、ヴィクトリアは堪らず踵を返してそそくさと逃げるようにセカンドベース内へ戻った。 セシリーは、昔レンウィッグ家に住み込みで働いていた姉妹の姉。 シルヴァランスの妻は、すなわちヴィクトリアの姉。 ミレーヌの言葉と、出発の際にシルヴァランスが漏らした言葉。その二つがヴィクトリアを困惑させる。 ずっとセシリーに対して抱いていた複雑な感情の答えが、そこにあるような気がした。 「い、今は非常事態です! 隊長さんの不在を預かる身である以上、ほ、他のことに気を取られるわけにはまいりませんわ!」 自身にそう言い聞かせながらも、時間が取れたらセシリーのところへ顔を出そうと、ヴィクトリアはほんの少しだけ頬を緩ませた。 |
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