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第二章 突撃・2 「先程のドラゴンは何だ?」 ヴァルハラ神殿にある玉座――フリズスキャルヴに腰を下ろしたまま、ニーヴルの社長、ルシフェルは隣に立つレミネーラに尋ねた。 「わかりません。キャロル、あなたはどう思う?」 レミネーラはルシフェルに体を向けて首を左右に振った後、神殿を支える十二本の柱の一つに身を寄せているキャロルに話をふる。 「ふぇ? さっきの銀色のドラゴンですか? うーん、そうですねぇ、もしかしたら、玉座を取り戻しに来たアルトレア大陸のドラゴンかもしれませんねぇ」 「なるほど。予想通り、招かれざる客による横やりが入ったわけか。すると先程の轟音は、結界を越えられないとわかったドラゴンが、内部からここを攻めようとして地下の研究施設の外壁を破った音か」 「どうしますか?」 レミネーラが不安そうな顔でルシフェルの顔を窺う。しばらく腕を組んだままルシフェルが微動だにせず居ると、 「あれ? 何か空気重くありませんか? もうじき僕達の夢が実現するというのに、何でみんな笑顔じゃないんですか?」 神殿内に若い男の声が響き渡った。 皆の視線を浴びながら神殿の入り口から足音を響かせながら玉座に歩み寄ってくる、栗色の髪をした中肉中背の男。線のように細い目をほんの少し見開くと、そこにえんじ色の瞳が顔を出す。 「アルフレッド。逃げ出した研究者達やエインフェリア達は?」 「エインフェリア達には会えませんでしたけど、研究者達は残らず狩っておきました。それで、この空気は一体何なんですか、レミネーラ様?」 現れた男、アルフレッド=ランカーは口の両端を思いっきり横に引っ張ったような独特の笑みを浮かべたままレミネーラを見つめる。 「……ふーん、わざわざ大陸を渡ってまで奪い返しに来るとは、人間並に執念深いドラゴンですねぇ」 「ホントです。困ったちゃんですねぇ」 アルフレッドの言葉にキャロルが応じ、ふぅとため息を漏らしながらそばかすだらけの頬に手を添えた。 「そう言えばカルネの姿が見えませんね? “竜殺し”のカルネなら、相手が何ドラゴンだろうと容易に倒せると思いますけど」 「そうなんだけど、さっきから姿を見せないのよ」 レミネーラが長い黒髪を掻き上げながらため息をもらす。 「あたしとアルフレッドでドラゴン退治してきましょうか? 結界のせいで直接ここへ乗り込めないドラゴンは、どうせ地下の闘技場に現れるだろうから、そこで待ち伏せして、ドンって感じに」 「僕は異論ないよ。ドラゴンは魔法耐性が強くて邪眼が効かないから面倒だけど、キャロルが手伝ってくれるなら簡単に倒せると思うし」 アルフレッドとキャロルがレミネーラを見つめ、レミネーラはルシフェルの横顔を窺う。 「わかった。侵入したドラゴンの相手はお前達に任せよう。それからアルフレッド、お前はドラゴンを倒した後、そのまま施設内にいるエインフェリア共の始末を続けろ」 「はい。わかりました」 「キャロル、お前は聖石レオを穢す仕事が残っている。ドラゴンを片付けたら早々に引き返してこい」 「わっかりましたでーす」 ルシフェルの命令を受けた二人が神殿を後にし、神殿内にはルシフェルとレミネーラ、そして十二本の柱の内部に取り込まれた十二人の少女達だけが取り残された。 * * * 先頭を走るシェドとシールディアが、道を遮るように現れる魔物達を片っ端から倒していく。ラズベリー達は、その後を特に戦闘行為無く追従していた。 シェドはフレアジェムでも使っているのか、炎の魔弾を主軸に敵を駆逐し、シールディアはアイスジェムを使っているような魔法で次々と魔物を氷の牢獄へ捕らえては砕いている。 「面白くねぇな……。あいつらばっかいいカッコしやがって!」 隣でブツブツと文句を吐露するバーバラを一瞥してから、ラズベリーは先頭を切ってニーヴルの基地の奥へ駆けていくシェドの背中を見つめた。 確かに、S級エインフェリア“魔弾”のシェドの名に相応しい戦いぶりで魔物達を圧倒しているが、果たして、それはガンズ達をも凌駕して世界を救えるほどの力なのだろうか。 以前対峙した時よりも強くなってはいるようだが、それでも、あの程度の力でガンズに対抗しえるとは思えない。それはドラゴンだと名乗ったシールディアも同じで、凄まじい力を持っているのは理解できるが、それだけで戦局をひっくり返せるとは思えない。 「ラズベリーは、どう思う?」 ふと、同じようなことを考えていたのか、スピカが狙撃銃を抱えて走りながらラズベリーの横に並んだ。チラッ、チラッと何度もシェドとシールディアの背中に視線を送りながら、表情の乏しい顔をラズベリーへ向ける。 「そうですね。正直に答えますと、私達がガンズに勝利できる可能性は限りなくゼロに近いと思います。シェドさんやシールディアちゃんは確かにお強いですが、ガンズの方々の力はそれ以上です」 「私もそう思う。でも……」 「でも?」 「不思議な気持ち。うまく言葉では言えないけど、……信じてもいい、と思う」 スピカがほんの少しだけ穏やかに頬を緩める。ラズベリーはにっこりと微笑んで、自分も同意なのだとラズベリーに伝えた。 何故かはわからない。でも、どういう訳か今のシェドには、不思議と信じてもいいと思わせる何かがある。それこそ漠然としたもので上手く言葉に出来ないが、しっかりと前を見据えて真っ直ぐ駆けていく姿には、希望を抱かせる何かがある。 「うーん、あまり年上の方は好みではないのですが、今のシェドさんなら少しばかりなびいてしまいそうです」 「……なびく?」 「うふふ、何でもありませんよー」 「おら! テメーら! 何ヘラヘラしてやがる! テメーらは悔しくねぇのかよ! あの二人ばっか目立ちやがって、オレらは何もしてねぇんだぞ!」 バーバラの怒声が響き、ラズベリーはやれやれと頭を振る。バーバラはラズベリー達三人の中では切り込み隊長的な役割を果たすことが多く、今のように他人に追従するというのは鬱憤が溜まる一方らしい。 先程からセーフティを掛けたままのハンドガンのトリガをカチカチと鳴らしている。口はへの字に曲がったままで、眉はハの字、瞳はギリッとシェド……、いや、シールディアの背中を睨め付けている。 その時だった―― 『キイィィィッ!』 「……ッ!」 通路の向こうから魔物の大群が押し寄せてくる。今までに無い数だ。そしてさらに、ラズベリー達が進む通路の両側の壁が轟音と共に吹き飛び、奥から通路に雪崩れ込むように魔物の群れが現れた。 「な、何て数なの!?」 「一体どこから湧いてくるのよ!」 流石にあれだけの数はシェド達だけに任せておけないと判断したのか、フレイデリカとアンリエッタが身構えて魔物達へ立ち向かっていく。すでに先頭のシェドとシールディアは、それぞれ別の群れにターゲットを絞って戦闘を開始していた。明らかに、シールディアが相手にしている魔物の群れの方がシェドが相手にしている群れよりも数が多い。 「よっしゃ! 行くぜッ!」 魔物の群れが現れた瞬間、嬉々とした笑みを浮かべてバーバラが駆けた。走りながらセーフティを外し、シールディアが倒そうとした魔物を後方から銃で撃ち殺して、どうだと言わんばかりの笑みをシールディアへ向けている。 「あらあら、敵さんは沢山いますのに、わざわざシールディアちゃんと同じ群れを相手にしなくてもいいでしょうに」 「敵は多い。散開するのが、筋。だけど……」 「そうですね。私達はチームですから、一緒に行動するのが当然ですねぇ」 スピカと顔を見合わせて互いに笑んだ後、ラズベリーはスピカと共にバーバラの後を追った。 側面から押し寄せる魔物はフレイデリカとアンリエッタに任せ、ラズベリーはシールディアやバーバラの居る位置まで上がってサブマシンガンを構える。一瞬視線の交差したシールディアに微笑みを送り、迫ってきたキラースコーピオンをカウンターで蜂の巣にする。 先を急ぐ必要はあるが、後で挟み撃ちにされると余計に時間を取られるだろう。今はすみやかにこの場の魔物を除去し、その上で前へ進むしかない。 ラズベリーはまん丸眼鏡の位置を直し、サブマシンガンを握る手に力を籠めた。 隣で戦うシールディアという名のドラゴンは、ほぼ無表情のまま淡々と魔物達を凍りづけにして砕いている。まるでルーチンワークを黙々とこなしているような、魔練器じみた精密な動きに無駄は見られない。 そんな戦い様を見ていると、バーバラの中の何かがたぎる。何か、というか、単純に負けず嫌いなだけなのかもしれない。 「シールディアっつったな! どっちが多く魔物をぶっ殺せるか勝負だ!」 迫り来るガルムを蹴り飛ばし、その心臓を銃弾で撃ち貫きながら、バーバラはシールディアを見つめてガッと叫ぶ。 シールディアが、感情がうまく読み取れない琥珀色の双眸でバーバラを見つめ、小馬鹿にしているのか、呆れているのか、不思議そうに首を傾げた。 「何故、そなたはそうも好戦的なのだ?」 「あん?」 押し寄せる魔物達を凍りづけにして次々と粉砕しながら、シールディアが見た目よりずっと大人びた口調でバーバラに尋ねる。 「ヒトは、むやみやたら戦いたがる種族ではないと思う。戦うからには各々に戦う理由があるはずだ。理由もなく戦い、他者を傷つけることは、それは己の心を傷つけることと同義だと私は考える」 「はぁ!? なにワケわかんねーこと言ってやがる! 戦うのに理由なんざ要るかよ! オレが強いから、弱い奴をぶっ殺す。それだけじゃねぇかっ!」 ゴムのように伸びてきたゴーレムの腕をかわし、右手のハンドガンを腰のホルスターにしまいながら、代わりにサバイバルナイフを抜いてゴーレムの腕を一閃にて切り落とす。 一気に腰を落とした低姿勢のまま駆け、ゴーレムの懐に潜り込んでその左腕がバーバラを穿つ前に左手で握ったハンドガンの銃弾をコアに叩き込んでやった。 パラパラと乾いた砂のように崩れていくゴーレムを見つめながらシールディアの位置まで後退し、魔物に向ける視線以上に敵意を籠めた視線をシールディアへ向ける。 「前に私の仲間が言っていた。ニーヴルは、それに関わった者すべての心を破壊する。それはニーヴルの中で戦い続けるエインフェリアも同じだと」 「あん? ……オレ達の心が、壊れてるって言いたいのか!」 「そうだ。私はそう思う」 「けっ! ドラゴン様に説教されるたぁ、オレも落ちぶれたもんだぜ!」 シールディアは淡々と敵の数を減らしている。バーバラも、負けじと無謀とも言える突貫を続けているが、一度の攻撃で確実に魔物を倒すシールディアと違い、バーバラの攻撃は何発かを重ね合わせた連撃でなくては魔物を倒せない。実力の差は、火を見るよりも明らかだった。 「……そなたは、何故ニーヴルに入ったのだ?」 ふいに、シールディアが囁くような小声で尋ねてきた。まるで同情しているような、悪いことをした友達に、あなたは悪くないと弁護しているような、そんな空気を漂わせるシールディアにバーバラは一層の苛立ちを覚える。 「理由もなく、自ら望んでニーヴルに身を置こうと考える者は居ないと思う。少なくとも、アリアは無理矢理ニーヴルに連れて行かれ、シェドやセシリーにしても辛い過去を背負っていた。……そなたも、そうではないのか?」 「……ッ!」 一瞬戸惑いが生じ、バーバラはキラートレントの鋭い枝でスカートの一部を引き裂かれた。すぐに反撃でキラートレントを倒すが、心の中の戸惑いは拭えなかった。 辛い過去を背負っている。その言葉が、否応なくバーバラの心を締め上げる。 「そなたも、本当は戦いなどしたくないのではないか? 悲痛な叫びを上げる心を無理矢理押し込め、狂気に身を委ねて戦っているだけではないのか?」 「うるせぇっ! テメーに何がわかる! ドラゴンなんぞに、オレの何が分かるって言うんだ!」 言い諭すようなシールディアの言葉に思わずカッとなり、バーバラは大声で叫びながらギリッとシールディアを睨め付けた。奥歯を思いっきり噛みしめ、敵意以上に殺意を籠めた視線を向ける。 「私はドラゴンだ。故に、ヒトの思考を読むことができる。だが、ヒトは心を覗かれることを不快に感じる故、私は空気を伝って感じ取れる以上の思考を読もうとは思わない。しかし今、そなたからは空気を伝って動揺が感じ取れる。それほど動揺するということは、少なからず、私の言葉が正しいと自覚している証拠なのではないか?」 「ぐッ!」 思わず手が出そうになったが、ガーゴイルがバーバラの側面から迫ってきたために、やむなくそちらの相手に専念する。やり場のない怒りを銃弾に込め、有限の弾を浪費しながらもガーゴイルを蜂の巣にした。 何故バーバラがニーヴルのエインフェリアになったか。シールディアの言った、心が壊れているという言葉、辛い過去。それらを頭の中で呟くたび、苛立ちは募るばかりだった。 気づかぬうちにキュッと強く唇を噛みしめ、裂けた箇所から軽く出血していた。固く握りしめたサバイバルナイフが震えており、バーバラは自分が今どんな表情を浮かべているか分からなかった。 「バーバラちゃん、大丈夫ですか?」 そんなバーバラを呼び覚ましてくれたのは、ラズベリーの柔らかな声だった。 「ラズベリー……」 「シールディアさん、バーバラちゃん、ごめんなさい。実は、ずっとお二人の会話を盗み聞きしておりました。あまりそういうのは趣味じゃないんですけど、どうか今回ばかりは見逃して下さいな」 華麗に舞い踊るようなステップで体を回転させながら、ラズベリーは両手に握ったサブマシンガンを撃ち続けてガルムとガーゴイルの群れを一掃する。そして迫り来る上級魔物のティアマットやアークデーモンには、ウインドジェムを輝かせて空気の塊をぶつけ、シェドの方へ吹き飛ばしていた。 バーバラ達から少し離れた場所で、シェドが鬱陶しそうに飛ばされてきたティアマットやアークデーモンを魔弾で灼く。 「シールディアさん。確かにあなたの言うとおり、私達は皆、辛い過去を背負っています。でも、だからこそそれに触れて欲しくない、そっとしておいてほしいという気持ちが強いのです」 優しい声音のまま、笑顔でそう言ったラズベリーに、シールディアが少しだけもの悲しそうに眉根を寄せた。 「……そうだな。すまないバーバラ。そなたの気持ちも考えずに、私は土足でそなたの心に踏み入ろうとした。謝罪する」 「お? ん、あ……。お、おお……」 さっきまでの、見下ろすような、同情やら憐憫やらの籠もった視線ではなく、申し訳なさそうに頭を垂らすシールディアに思わずバーバラはしどろもどろに返答した。 もしかしたら、単に口べたで感情の出し方が上手く分からないだけなのかもしれない。思えば出会ったばかりのスピカも、感情が薄く、バーバラは小馬鹿にされていると勘違いしてよく絡んだものだ。 「私は、まだヒトの心をうまく理解できない。感情が薄いと感じるのはそのためだろう。だから、好奇心といっては不謹慎だと分かっているが、そんな気持ちが働いてそなたの心に土足で踏み入ろうとしたのは確かだ。本当に、すまなかった」 何だかこっちが悪いことをしているような気がしてきて、バーバラは困惑の捌け口が見つからず、取りあえず迫ってきた魔物達に銃弾の嵐を浴びせた。 「人の心を知りたい、ですか。シールディアさんは、ドラゴンなんですよね? どうして、そんなにも人の心に興味があるのですか?」 黙っているバーバラに代わってラズベリーが尋ねる。 「そなた達は理解しているか分からないが、本来ドラゴンとはヒトを護るために神に創られた存在であり、また、天使を討ち滅ぼすべく創られた存在だ。そして私は、聖石を護るためだけに創られ、本来、自我を持ってはいなかった。だが、私はシェド達との出会いによって自我を得た。自分の心を得た。そして心を得た私は知りたくなったのだ。もっとヒトのことを、ヒトの心を。そして願った。私も、ヒトと変わらぬ心を持ちたい。普通のオンナノコと遜色ない、大切な友と笑い会えるような温かい心を得たいと」 シールディアの独白を、バーバラとラズベリーは黙って聞いていた。ふと気づけば、後方で援護していたはずのスピカの姿も近くにある。 今の話を聞いて、バーバラは何となく、自分の中にあるシールディアへ対する苛立ちの答えが見えたような気がした。 もちろんそこには、自分より圧倒的な強さを持っていることを許せないという気持ちもある。だが同時に、もう一つ、シールディアに対して負い目を感じる部分があり、それが苛立ちを増長させているのだとわかった。さらに、それがレオに対して抱いている感情と同じなのだということにも気づいた。 シールディアは無垢なのだ。穢れた心を持っているバーバラと違い、シールディアやレオの心は純粋で真っ直ぐなものだった。 辛い過去が故に歪んだ今の自分。過去の自分が夢見た理想。たぶん、もう叶わぬと知っている理想の自分をシールディアの中に見てしまい、だからこそ苛立ち、憤慨し、そして、嫉妬しているのだろう。 「……ハン、いいだろう」 「バーバラちゃん?」 バーバラは鼻を鳴らしながら、ニッと笑んでシールディアを見つめた。 今、バーバラの心を支配しているのはどちらの感情だろう。 辛い過去を晒し、ヒトの汚さ、醜く汚れた心を晒して、無垢で純粋なシールディアの心を穢してやりたい。 狂気に歪んだ自分の心を晒して、自分の理想だったシールディアの心に癒して欲しい。 たぶん、どっちもバーバラの本心だ。自分の理想像だからこそ、無垢なシールディアやレオが愛しくて憎い。 「教えてやるよ、オレが、何でニーヴルのエインフェリアになったのか!」 「バ、バーバラちゃん!」 それは駄目だと言わんばかりにバーバラの視界に割り込んできた。バーバラの過去を知っているのはニーヴルでもラズベリーとスピカ、そしてもう一人だけであり、ラズベリーはバーバラを心配してくれたのだろう。 大丈夫だと言わんばかりの笑顔をラズベリーに向けた後、その肩を押しのけ、バーバラは一層口角をつり上げた笑顔でシールディアを睨め付けた。 「あれは、オレが六歳の時だ」 魔物達の相手をしながらバーバラが語り出す。シールディアも、襲いかかってくる魔物達を凍らせて砕きながら、耳だけ、バーバラの言葉に傾けた。 「オレの家が強盗に襲われ、両親と、二歳だった弟が殺され、オレだけが瀕死の状態で生き残った。小さな町で、治安も悪いところだったから、そんなの、日常茶飯事だった」 淡々と過去を語りながら魔物を倒す手を休めないバーバラを、ラズベリーが体こそ魔物へ向けながらも視線だけは常に送り続けている。 「身寄りの無くなったオレは、遠い親戚にあたる男に引き取られた。町でも評判のいい、聖マリア教の神父様だ。両親を目の前で殺された恐怖に全身を支配されていたオレは、何も喋ることができず、黙って男の養子になることを受け入れた」 バーバラの言う辛い過去とは、幼いときに目の前で両親を殺されたことなのだろうか。愛しい人を目の前で殺されたショックが、幼いバーバラの心を砕いたのだろうか。 シールディアは底の見えない魔物の大群を相手取りながらもバーバラの話を黙って聞く。 「その男はな、最初は確かに評判通りのいい神父面をしてたよ。だが、そいつの仮面なんざ、ものの数日で呆気なく剥がれ落ちたんだよ!」 ギリッと奥歯を噛みしめるバーバラの、憎悪に満ちた思念が空気を伝ってシールディアに届く。 「あの男は生粋のクソ野郎だった! オレを力任せにベッドへ押しつけ、無理矢理犯そうとしやがった!」 「…………」 「オレは当時六歳だぜ? ケッ! ロリコンにもほどがあるだろうがッ!」 バーバラは吐き捨てるように言い、痰を魔物にぶつける。そのまま銃弾で魔物を打ち倒した。 「当時は男に自分が何をされてるかなんて分からなかったが、あの恐怖だけは今でも覚えてる。死ぬとは違う、それとは別の凄まじい恐怖を、オレはあの時確かに感じた」 「バーバラちゃん……」 「オレは犯されずにすんだ。まだガキだったからな、ヤれるはずがねーんだよ。だが、それに男は激昂し、代わりに殴る蹴るの暴力を振るった。来る日も来る日も、オレはあの男に殴られ続けた。でも、両親を殺された恐怖や、無理矢理犯されそうだった恐怖が全身を縛り続け、オレは抵抗もできず、声すらもロクに漏らせず必死に堪え続けた」 過去を振り返って蘇った恐怖を払いのけるかのように、バーバラが一層狂気に身を委ねた表情で魔物を狩る。まるで敵に、かつて自分を苦しめた何者かを重ねているように。 「最後は大体見当付くだろ? 耐えきれなくなったオレが、たまたま目に入った銃を手にとって男を撃ち殺したんだ。オレが男の元へ行ってから、二ヶ月くらい経った頃だった」 一旦、バーバラの表情が少し穏やかになる。だが、ラズベリーの表情は逆に一層曇っていくばかりだった。 「世間的に評判のいい、自分を引き取ってくれた相手を殺したオレは、当然ながら町の人間から悪魔を見るような目で見られた。オレはブタ箱に入れられ、両親を殺された恐怖、犯されそうになった恐怖、人を殺してしまった恐怖に苛まれながら、毎晩悪夢を見続けた。――だが、オレの悪夢はそれで終わりじゃなかった」 再びバーバラの表情に憎悪が走る。迫り来るトロールに真っ向から向かい、その拳を懐に喰らいながらも押し負けず、口元にうっすらと血を滲ませながらも狂気じみた笑みを浮かべたままトロールに手榴弾を投げつけ、ハンドガンでそれを撃ち抜いた。 「クソ野郎ってのは次から次へと湧いてでるんだよ! 後からやってきてオレと同じ監房に入れられた中年の男は、あの神父と同じようにオレを犯そうとした。そして抵抗したオレは男の首を締め上げて殺し、さらに周囲のオレに対する目は厳しくなった」 「……バーバラちゃん、もう、やめて。それ以上、自分を苦しめないで……」 気づけばラズベリーは泣きながら戦っている。少し離れた位置にいるスピカも、バーバラの話に耳を傾けているのか、あまり顕著ではないが表情を険しくしていた。 「まだだ! 半年くらい経ってな、オレを引き取りたいっていう女が現れたんだよ。すごい美人で、物腰の柔らかい、優しそうな女だった。その女は看守に金でも掴ませたのか、あっさりオレをブタ箱から解放し、オレを自分の館へ連れて帰った」 バーバラは笑っていた。だが、その心が笑ってないことをシールディアは気づいてる。伝わってくる思念が、痛々しいほど憎悪に満ちている。これだけ歪んだ心を持った人間を、シールディアは見たことがない。 「女は優しかった。まるで母親のように、言葉を失っていたオレに優しく話しかけて色々なことを教えてくれた。一緒に風呂に入ってくれたり、オレが悪夢にうなされたときは一緒に寝てくれたりもした。オレは徐々に、その女を慕うようになっていった。この人なら信じられると、子供ながらに思ったさ」 比較的穏やかな口調でそう言った後、一度大きく息を吸って、バーバラが少し間を置く。シールディアが静かに耳を傾けて待っていると、「だが……」と、小さく囁くようにバーバラが言った。低く、優しく、そして冷めた笑顔でそう囁いたバーバラの表情を見て、思わずシールディアは背中を冷たい手で撫でられたような恐怖を抱く。 「二千五百。それが……、オレの値段だった」 「……値段?」 思わず聞き返したシールディアに、バーバラが華々しくも壊れた笑みを向ける。 「あの女がオレに付けた値段だよ! 正確には、オレの純潔のな! あの女は、裏で売春宿のオーナーをする悪女だったんだ! あの女は身よりの無い女児を拾っては商品として育て、客に売りつけるという商売をしてやがったのさ! そうとも知らずにオレは、まんまと女の偽りの優しさに騙されたってわけだ! アハハハッ!」 「バーバラちゃん、もうやめてっ!」 「偶然その女が客にオレを売りつけてるところを目撃しちまったオレは理性を失ったね! 人間なのかどうかも分からなくなるまで銃弾を撃ち込み、その場で二人をぶち殺してやったさ! そしてまた、ブタ箱戻りさ!」 狂気に歪んだ表情で戦場を駆けるバーバラはあまり異様だった。まるで魔物達すら、そんなバーバラを畏れているかのように後ずさっているように感じられる。 「後は一直線だ。当時スカウトだった、現副社長のレミネーラがオレの噂を聞き、ニーヴルに入らないかと誘ってきた。力が全てだというレミネーラの言葉を聞き、オレは、決してオレから何も奪わせない、絶対に奪う側になってやると誓ってニーヴルに入った」 以上だと言わんばかりにバーバラがシールディアに歪んだ笑みを向ける。空気を伝ってくる思念は憎悪に満ち、そして少し、寂しさが混じっていた。 シールディアはそっと瞳を閉じ、バーバラの背負っている過去を心の中で反芻した。人を歪ませるのに十分なほど過酷な過去を脳裏に思い浮かべると、自分のことではないのに胸が潰れそうなくらい苦しい思いに駆られる。 大切な家族を殺したのもヒト。無理矢理バーバラを押し倒そうとしたのも、暴力を振るったのも、偽りの優しさを与えてその信頼を裏切ろうとしたのも、全部ヒトだ。 「テメーは、オレがニーヴルに関わったから心が壊れたと言ったな? だが、そいつは違う! むしろニーヴルは、完全に人を信じることを止めたオレの心を癒してくれた。ニーヴルに入ったからこそ、オレはラズベリーやスピカに出会えた」 「……世界からすれば、私達は悪。でも、それでもここは私達の家。ここにいるのは、私達の家族」 少し離れた場所で、呟くようにスピカがそう言うと、バーバラがほんの少しだけ優しい笑顔に戻り、コクンと頷いた。ラズベリーも、涙に濡れた頬を緩めて微笑む。 家。家族。その言葉はシールディアもよく知っている。掛け替えのない、大切なものだと分かっている。 思えば世界を滅ぼすという天使を匿っていたシールディア達は、世界からすれば悪だった。けれど、それでもシールディア達は家族であり、大切な仲間同士だった。それはニーヴルと何処が違うのだろう。バーバラ達と何処が違うのだろう。 「どうだ? 何か言いたいことでもあるか?」 まるで自分の命がいつまで続くのかを試しているよう魔物の群れに無謀とも言える突貫を続けるバーバラは、一見、狂気に歪んだ少女のように見えるが、本当は違うのかも知れない。 「……私には正直、そなたの背負っている過去の辛さ、苦しみを正確に理解することはできない。だが、それでも一つ気づいたことがある」 シールディアはふと思ったことを、囁くように語り出した。黙り込むとでも思ったのか、バーバラが驚いたような顔でシールディアを一瞥し、すぐに襲いかかる魔物に向き直した。 「そなたは、やはり好きで戦っているわけではない。そなたは辛い過去を背負い、それ故に人間不信に陥って、自分以外のすべての人間を敵に回そうとしているわけではない。そなたが一番敵視しているのは、今の自分自身なのではないか?」 「なッ! ……わ、分かったような口を利くんじゃねぇッ! ……オレは、オレはッ!」 自分が傷つけられたから、自分を傷つけた相手とは別の相手を傷つける。それは負の連鎖を生むだけだ。けれど、ヒトとはそういう生き物であり、自分より弱い者に自分が受けた苦痛の捌け口を見つけようとする。 だがバーバラの場合は少し違うような気がした。奪われるのが嫌だから奪う側に回ったのだと言っていたが、それは偽りの本心のだと思う。バーバラは、心を狂気に委ねて無理に奪う側へ回ろうとしているような気がした。 「ヒトを殺してしまった自分はもう普通の少女では居られない。ならばいっそ、何処まで歪んで、何処まで残忍な悪魔に自らなろうと努めたのではないか? そうしなければ、優しい心を持っている本当の自分を壊してしまいそうだったから、狂気に歪んだ別の自分を演じて、ひたすらに戦闘狂を演じ続けなければならないと自分に言い聞かせているのではないか?」 魔物を倒し続けながらも震えるその肩は、シールディアの言葉が正しいことを示す証拠だろうか。 「そなたは、本当はアリアと同じようにとても優しくて綺麗な心を持った普通の少女なのではないか? でも同時にとても脆くて弱い心を持つそなたは、ヒトを殺してしまった罪の意識から逃げるため、今の自分で本当の自分の心を覆い隠した。そして本当の自分の心を守り続けるには、必死に藻掻き、悪魔に徹して戦い続けるしか無いと思ったのではないか?」 ドラゴンであるシールディアは、まだヒトの心に疎い部分があると自覚している。今の当てずっぽうの推量も、どこまで正しいのか自信はない。思考を読んだわけではないため、全く見当違いのことを言っているかもしれない。 けれど、バーバラの表情は決してシールディアの言葉が的はずれなことを言っているようには見えなかった。 シールディアもバーバラも、それ以上は一言も口にせず、黙々と魔物を倒し続けた。 レバーを引いて空薬莢を排出し、次弾を装填してすぐに照準をセットする。目標を一体のグレムリンに絞り、銃口付近に埋め込んだフレアジェムに意識を注いでスピカはフレイムショットを放った。 真っ赤に燃え上がった炎の弾丸は一直線にグレムリンを襲い、直撃を受けたグレムリンが火だるまになって吹き飛んでいく。 着実に一体ずつ相手にしながら、スピカは魔物の数を減らしていく。バーバラやラズベリーのように複数同時に相手できるわけではないため、スピアは後方から二人の支援をするのがチームでの役割だ。 「…………」 戦闘を続けながらも、ふと、先程シールディアとバーバラの間で交わされていた会話を思い起こす。 バーバラが背負っている辛い過去のことはスピカも知っていた。ニーヴルのエインフェリア養成施設で出会った当初は何かと突っかかってきたバーバラだが、同じ時を共有して何度かチームを組むようになって互いを信用するようになった頃、互いの過去を晒し合った記憶がある。 バーバラの過去は三人の中でも一際熾烈だった。スピカやラズベリーにもエインフェリアへ入るきっかけくらいの過去はある。けれど、スピカ達の過去など、バーバラの過酷すぎる過去に比べれば砂漠の砂一粒みたいなものだ。 ラズベリーは辺境の小さな町で生まれ、その町はジェムや魔練器と言った魔法に関わるものすべてを排斥しなければならないという宗教を信仰している町だった。ジェム使いとしての能力がある者は忌み子として扱われ、親の手で隣町にある廃墟へその子供を捨ててこなければならないというしきたりがあった。 それがニーヴルが影で関わっている宗教であり、廃墟へ捨てられた子供はニーヴルへ連れて行かれるということを後で知ったが、ラズベリーはそんな子供の一人だった。 親に捨てられたという点ではスピカも同じだった。スピカは幼少時、人よりも発育が悪く、四歳になってもまだ言葉を話せなかった。貴族出身で自尊心の高い両親は、自分たちの子供が知恵遅れだと思って憤慨し、まだ幼いスピカを家から追い出した。 その後、遅ればせながら知恵を身につけたスピカは、生きるために窃盗を繰り返した。そしてとある民家に侵入し、盗み出した魔練器からフレアジェムを抜きだして暖を取っているところをニーヴルのスカウトに目撃され、そのままニーヴルに入った。 スピカやラズベリーの過去に比べ、バーバラの過去はとても幼い少女が耐えられるようなものではなかった。バーバラの過去を聞いた後、こっそり影でラズベリーと、一緒にバーバラを支えていこうと約束を交わしたことを今でもちゃんと思い出せる。 「――ッ!」 過去に思いを馳せて攻撃の手が緩んでしまった瞬間、二体のトロールがスピカに狙いを定めて迫ってきた。反射的に後退しながら次弾を装填して照準を構えるが、当然、サイト内には一体しか収められない。 トリガを引くと同時に紅蓮の炎が舞い上がり、それは火竜が如くトロールを一瞬にして灰と化す。しかし、残る一体は怯むことなくすでにスピカのすぐ目の前まで迫っていた。 バーバラとラズベリーは自分たちが相手取っている魔物で手一杯で、スピカの方まで気を裂く余裕がない。スピカは装填は間に合わないと判断し、棍棒を振り上げたトロールに対して防御の態勢を取る。 「あうッ!」 スナイパーライフルの銃身でトロールの棍棒を受け止めると、その凄まじい怪力のために衝撃だけでスピカの両肩に痛みが走った。 動きの遅いトロールならば、初撃を耐えれば隙が生じるはず。そこを狙って攻撃すれば何とかなる。 そう考えながらスピカは痛みを堪えてタイミングを狙っていた。だが―― 『オォォオオオォォンッ!』 「ッ! しまっ――」 もう一体の魔物がトロールから噴き出した。噴き出したというのは、文字通り、トロールの体から出てきたという意味だ。白い布が宙を舞うような体を持ち、その体は向こう側が透けて見える。顔面には、口だと思われる部位以外には何もない。 ホロゴーストという魔物は別の魔物に憑依するタイプであり、憑依することで宿主の能力を強化できる。また、今のスピカのように相手が一体だと油断している時、分離することで同時攻撃を仕掛けることが可能な厄介な魔物だ。 目の前のトロールにホロゴーストが憑依しているなんて想定していなかった。トロールの棍棒を受け止めたままの体勢では、ホロゴーストの攻撃はかわせない。 『オオォォォオオオォオオンッ!』 ホロゴーストが奇っ怪な叫び声を上げながら口を大きく開く。口の奥がカッと輝き、眩い光線が迸った。 直撃を喰らう。スピカは直感的にそう思った。そしてこの近距離で直撃を喰らえばただで済まないことも瞬間的に判断する。 『グアアアアアッ!』 『オアオアオォォアンッ!』 「え……?」 刹那、一筋の光が走ってトロールとホロゴーストの体が真っ二つに引き裂かれた。スピカに迫っていた光線は軌道が逸れ、ベストの肩口を少し灼いただけで直撃は回避できた。 「大丈夫か?」 直撃もやむないとスピカが判断した次の瞬間、魔物達を後方から真っ二つに寸断してスピカを救ってくれたのはシェドだった。 面倒臭そうに、無気力そうに、けれど、ほんの少しだけ柔らかい表情を浮かべているシェドを見つめながら、スピカは大丈夫だと答える代わりにコクンと頷いて見せた。 シェドは最前列で戦っていたはずだ。まさかスピカの窮地を見て、ここまで助けに来てくれたというのだろうか。あの距離を一瞬にして詰めることなど可能なのだろうか。 それに、魔物達を裂いたあの光。あの時、スピカは一瞬だけシェドの右手から光の剣が伸びているように見えたが、今見ても、シェドの右手には白銀色に輝く拳銃しか握られていない。 『ガアアアアッ!』 ホッとしたのも束の間。すぐ次の瞬間には別の魔物が襲ってくる。 スピカはシェドに何か言葉を掛けなくてはならないと意識しつつも何も言い出せず、次弾を装填して迫り来る魔物に体を向けた。 上級魔物のアークデーモン。スピカはフレアジェムに意識を注いでフレイムショットを放つ。 だが、スピカの放った炎の弾丸はアークデーモンの表皮に衝突して弾け散り、微塵もダメージを与えられた様子はない。流石に上級魔物相手ではフレイムショットも効果が薄いかと、スピカはすぐに次弾の装填に取りかかる。 「お前は、何のために戦っている?」 「え……?」 「…………見てろ」 トリガに指をかけようとしたスピカを制し、シェドが一歩前にでて白銀銃の銃口を迫り来るアークデーモンに向けた。そしてスピカが目を点にして見つめる先で、シェドの持つ銃から凄まじい炎を纏った弾丸が周囲に爆風を巻き起こしながら射出される。 『ギュアアアッ!』 スピカのフレイムショットとは比べものにならないほどの威力を有したシェドの魔弾がアークデーモンを灰燼に帰す。その圧倒的な威力を、スピカは呆然と見つめるしかできなかった。 「魔法の威力を高めるのは、使い手の心の在り方だ。同じ量の魔力をジェムから引き出しても、使い手の意識次第で威力は変わる」 シェドがスピカの隣で淡々とした口調で話しかけてくる。そして言っていることを自ら実践して示すように、何度も炎の魔弾で魔物達を灼くところをスピカに見せてくれた。 「心の……在り方って?」 「何でもいい。自分が戦う理由、生きようとする理由、その想いを籠めればいい。お前も、必死に戦うってことは、何か叶えたい想いがあるんだろ? それを心に強く描き、ジェムからではなく、体の奥から魔力を引き出すよう感覚を研ぎ澄ませろ」 シェドがスピカにそう言った時、再び別のアークデーモンがスピカ目掛けて迫ってきた。シェドは銃を構えず、ジッと佇んでいる。 スピカは半信半疑ながらも、シェドが言ったことを脳裏に描いた。 自分が戦う理由。まだ死にたくない、まだ生きていたいという意志。それはどうしてか。 両親に捨てられたスピカが、ここで手に入れたもの。ニーヴルで手に入れた、掛け替えのない友達、仲間と呼べる存在。まだバーバラ、ラズベリーと一緒に居たい。一緒に生きて、同じ時、同じ思い出を共有したい。 スピカは銃口をアークデーモンに向けてスコープをのぞき込んだ。 心に想いを描き、銃弾にその想いを乗せる。漠然として抽象的な行為にも関わらず、スピカは何故かその術を遠い昔からずっと知っていたよう錯覚しつつ実践する。 スピカがトリガを引いた瞬間―― 「……ッ!」 『アギャアアアーーーーッ!』 スピカのフレイムショットがアークデーモンを灼いた。先程弾かれたのが嘘のよう、シェドの魔弾には及ばずとも数段威力を増したフレイムショットが、この世からアークデーモンの姿をかき消した。 そのことに一番驚いたのはスピカ自身だ。確かに言われた通り心に強く想いを描いたが、やっていること自体はジェムに意識を注いでトリガを引いただけ。なのに、こうも威力が跳ね上がるとは予想もしていなかった。 思わずスピカはぱぁっと目を輝かせてシェドの方を振り返った。まるで何か事がうまくいったのを親に褒めて貰おうとした子供みたいに。 そんなスピカにシェドは、 「それでいい」 たった一言だが、そう優しい声音で言ってくれた。そしてポンとスピカの頭に左手を乗せ、フォレストグリーンの髪をくしゃっと軽く撫でてくれる。スピカは肩を縮めて瞳を閉じた。 大きな手。それは大人の男の手だった。 物心付いた頃には一人だったスピカに父親の記憶はほとんど無い。もしスピカは何処でも居るような普通の女の子だったら、幼い頃、こんな感じで父親はスピカを優しく撫でてくれたのだろうか。 「無理はするなよ。やばいと思ったら、俺の所まで逃げてこい」 シェドはそう言ってスピカの側を離れて行った。戦場を鬼神の如く駆け抜け、魔物達を駆逐しながらニーヴルの基地を奥へ奥へと進んでいく。 その背中をしばし頬が熱くなるのを感じながら見つめた後、気持ちを切り替えてスピカは自分に迫る魔物達に銃口を向けた。 そう言えばシェドに何のお礼も言っていない。護ってくれたことを沢山感謝しているのに、何も言葉にしていない。 目の前の魔物達をすべて倒したら、後でちゃんとお礼を言おう。 スピカは密かにそう想いながら、想いを籠めて銃弾を撃ちはなった。 ようやくすべての魔物を倒したとき、シェドとシールディア以外の面々は表に疲労の色を浮かべて肩で息をしていた。 しかしシェドは彼女らを気遣う素振りを見せず、息を切らす皆を一瞥してからすぐに駆けだしてニーヴルの基地の奥へ消えていった。 シールディアはしばしシェドの背を見つめたまま佇み、膝に手をついて全身で呼吸を繰り返すバーバラや同様に疲労困憊状態のラズベリーやスピカ、双子姉妹を見やる。 「チッ、お前ら、すました、顔しやがって……。マジ、化けモンかよ……」 憎々しげに呟くバーバラ。先程シールディアに語った過去、それに対するシールディアの言葉、そんな微妙な空気を漂わせたやりとりが尾を引いているのか、口では毒を吐きつつも、睨むでもなく微笑みかけるでもなく、困惑した面持ちでシールディアを見ていた。 あれ以降バーバラとは言葉を交わしていないが、今はまだ、次に掛ける言葉が思い浮かばない。もっと自分がヒトに近い感性を体得していれば、良い言葉を掛けられるかもしれないが、まだ今のシールディアでは無理だった。 「……わ、私達もすぐに追いつきます……。シールディアさんは、お先に、どうぞ」 「わかった」 ラズベリーに促されて、シールディアはその場を後にしてシェドを追う。 世界の崩壊を防ぐため、大切な友を助けるため、立ち止まっている時間は惜しい。ましてやまだ自分はほぼ万全の状態であり、休息は不要だ。ならば、一歩でも前へ進むべきだろう。シェドはそうした。 その場にバーバラ達を置いていくことに多少後ろ髪を引かれる思いに駆られたシールディアだったが、すぐに後方からの足音に気づいてその思いを振り払った。振り向くと、バーバラを先頭に全員がシールディアに追従していた。 ラズベリーは、小休止してから後を追うという意味合いでシールディアに先に行くよう言ったのだろう。だがそれに反して、皆がシールディアのすぐ後方を付いてくる。 あれだけの魔物を相手にした直後で、まだ呼吸すらままならないだろう。もし今、再び魔物に襲われるようなことになったらかなり危険だろうに、そんなのお構いなしだという気概が感じられる。特に、彼女らの先頭をひた走るバーバラから。 小休止しようとしたラズベリーや、双子の姉妹だって無理な状態で進むのが得策じゃないという分別くらいつくはず。スピカにしても無理をする性格には見えない。だから彼女らを焚きつけて無理を強いているのは、先頭をひた走って挑むようにシールディアを見つめるバーバラなのだろう。 相当の負けず嫌い。きっとバーバラはそうなのだ。だからシールディア達が先行するのを許せず、休まず追いかけてきたのだろう。そしてチームであるラズベリーとスピカがそれに続き、自分たちより年下のエインフェリア達が進む以上、双子の姉妹も腰を上げたというところだろう。 シールディアは前を向いて走る速度を上げる。シェドに追いつくためだ。そして、シールディアの速度に呼応して、背後から聞こえる足音も高くなった。 それからしばらく道なりに進んだとき、突然、シールディアの脇をバーバラが駆け抜けていった。 「魔弾のおっさんは先に行ったんだろ! ちんたら走ってんじゃねぇよ!」 「お先に失礼しますぅ」 「……しんがり、お願い」 バーバラだけでなく、ラズベリーやスピカも揃ってシールディアを追い越して行った。走りながら体力を回復させたのか、すでに彼女らの顔から疲れの色は薄れていた。 そんなに速度をあげなくとも、今のままのスピードで十分シェドに追いつける。シールディアのことを気遣ってくれるシェドならば、シールディアが普通に走る速度で追いつける速度を維持しつつ先行しているはずだ。だから現状のスピードでも、数分もすれば追いつけるとシールディアには分かっていた。 それでも、やはりバーバラは誰かの後ろを走るというのが気にくわないのだろう。すれ違いざまにシールディアを一瞥した表情には、勝ち誇ったような笑みが咲いていた。 「三人とも、シールディアちゃんに対抗意識でも燃やしているのかしらね?」 姦しい少女らが去った後、アンリエッタとフレイデリカがシールディアと並ぶ。シールディアの右側を走る、右腕に手っ甲を装着した方がアンリエッタで、逆がフレイデリカのはずだ。 「何だかみんな、シールディアさんと一緒に居るのが楽しそう。特に、バーバラはね」 「楽しそう? いや、それは無いと思うが……」 敵視している可能性はあるが、好感を持たれているとは思えない。アンリエッタの目にどう映っているか分からないが、空気を伝って感じられるバーバラの思念には、シールディアに対する色濃い好意は感じられなかった。 でも、今のシールディアの感覚はかなり鈍っているため、完全にアンリエッタの言葉を否定することはできない。アリアのことを不安に、心配すればするほどドラゴンとしての感覚は鈍り、気持ちばかりが先走って集中できない。 それは何故か。当然、アリアのことを心から心配している理由もある。けれど、もう一つ。シールディアの心を支配する複雑な感情があった。 「…………」 「どうしました? 何か、思うところがあるのですか?」 「あ、いや……。少し考え事をしていただけだ。気にしないでくれ」 脳裏をよぎった不安をそう簡単に払拭することはできず、シールディアは心配そうに自分を見つめるフレイデリカに曖昧な返答をしながら頭を垂らした。 シェドにも伝えてないことがシールディアにはあった。竜の里を離れるとき、エイルという名の、シールディアと同じように後から自我を獲得したドラゴンより聞いた、天使の器となってしまった少女からその者の命を散らすことなく聖石を取り除く術。 竜王もエイルもシェドにはその術がないと言った。だが、シールディアだけにはその術が存在し、どうすればよいのかを教えてくれた。 あの時、悲しげに語ったエイルの表情をハッキリ覚えている。 「シェドさんの背中が見えてきましたね」 アンリエッタの声で我に返り、そっと垂れていた頭を持ち上げて先を見据えると、そこには見慣れた紺色の広い背中があった。 「…………」 アリアから聖石を取り外す術があると知ったら、シェドはどう思うだろうか。そしてその術を知ったとき、シェドはどう思い、どう感じ、そしてそんな決断を下すだろうか。 不安だった。ただ漠然とした不安がシールディアの全身に絡みつき、それらがドラゴンとしての感覚を鈍らせる。 この不安はヒトの心だろうか。ドラゴンとしてのシールディアを抑制するのは、ヒトとしてのシールディアなのだろうか。 「……分からない」 「え? シールディアさん、何か言いました?」 「……いや、何でもない。シェドに遅れぬよう、私達も速度を上げよう」 シェドの後方をバーバラ達が追従し、シールディアは速度を上げて彼女らに追いつく。やっと来たか、というバーバラの憎らしい笑みを一瞥し、シールディアは再びシェドの背中へ視線を向けた。 まだ答えはでない。しかし、遠からず答えを選択しなければならない時がくるだろうとシールディアは予想していた。決して逃れない分岐点が、すぐそこまで迫っていることを。 立ち止まることは出来ない。真っ直ぐ、その時まで進むしかない。 目の前に広がる、恐怖すら覚える不安の闇へ、シールディアは迷いながらも立ち向かっていった。 度重なる魔物との遭遇にもかかわらず、シェドとシールディアの二人だけは息一つ切らさず突き進んでいる。単純に、そんな二人はとても頼もしく思えた。 「……もうすぐ闘技場ね」 アンリエッタの言葉に、フレイデリカはそっと頷いた。 このまま問題なく闘技場まで進み、そしてその天井を打ち破ってヴァルハラ神殿へ突入し、社長、レミネーラ、ガンズをすべて倒す。それで世界の崩壊は防げる。 天使を一体でも倒せば崩壊を防げるのならば、そうした方が成功の可能性は圧倒的に高くなる。だが、もしそんな選択をしようものなら、頼もしく思うシェドやシールディアを敵に回すことと同義だ。 フレイデリカは左腕の手っ甲に埋め込んであるジェムの魔力残量を色で確認する。自分より圧倒的に実力が上の者の相手をする以上、万全の状態で挑まない限り勝ち目はゼロだ。 通路に足音を響かせながらニーヴルの基地を奥へ奥へとひた走る。 そしてようやく視界の向こうに闘技場へ続く門が見えた。先頭を走るシェドが勢いよく門の向こうへ消えていき、それをバーバラとラズベリー、スピカが追い、続いてシールディア、最後にフレイデリカとアンリエッタが闘技場へ突入する。 闘技場には何もなかった。かつて覚醒前の天使と人工生成したドラゴンを戦わせていたというフィールドには、基地が上空へ上るときの衝撃で落ちたのだと思われる天井の岩の欠片が散乱し、研究者達が使用していたと思われる機材が倒れたり落盤に押しつぶされたりしている。 不気味すぎるほど広くて静かな闘技場に、フレイデリカの中の何かが警戒を発している。魔物で溢れかえっているはずの基地内で、闘技場に一体も魔物が見られないのは逆に不気味だった。 そして、フレイデリカの不安は現実となる。 「あれ? どうしてシェドさんがここに居るんですか?」 「……ッ!」 フレイデリカの鼓膜を揺らす、若い男の軽い口調。聞き覚えのあるその声に、思わずフレイデリカの喉が鳴った。 「ホントですぅ。シェドちゃん、お久しぶりですぅ〜。でもでも、あたし達は基地に侵入したっていうドラゴンを待ってたんですけどねぇ」 今度は若い女の声が闘技場内に響いた。顔を確認するまでもなくその主に心当たりのあったフレイデリカだが、意を決してキッと相手を睨め付けた。 栗色の髪をした、二十歳前後の男。細目から少しだけ見えるのはえんじ色の瞳で、手には巨大な漆黒の鎌を携えている。死神でも気取っているのか、漆黒の装束に黒マントを羽織るその姿は、あまりに異様で異常だった。 そしてカールした赤毛にそばかすだらけの頬をした背の低い女。右目にモノクルを掛け、白衣で全身を包む女は、カナリヤ色の瞳をまん丸に開いてきょとんとシェドを見つめていた。 「“邪眼”のアルフレッドに、“透過”のキャロル……。ガンズの二人がこんなところで何をしている?」 焦りを隠せないフレイデリカと違い、シェドの声は至って落ち着いていた。 「それがですねぇ、どーもドラゴンが一匹、基地内の侵入したらしいんですよ。そいつの狙いはおそらく神殿にある玉座でしょうから、そこにたどり着くためにここを通るだろうと思いまして」 まるで友達に話しかけるような口調で話すアルフレッド。 「成る程。ここで張って、そのドラゴンを倒す算段だったわけか」 「その通りでぇす。……それで、どうしてシェドちゃんがここに居るんですかぁ?」 昔なじみでも尋ねるような口調のキャロル。 「言うまでもないだろ? お前らが連れ去ったアリアを取り返すためだ」 馴れ馴れしく話しかけてくる二人を前にしながら、シェドが落ち着いた動作で白銀の銃にカートリッジを一つずつ入れていく。 「いやいや、目的とかそういうのじゃなくて、手段を聞いてるんですけど?」 「手段なんざ関係ない。俺が今ここに居る。それで十分じゃねぇか?」 弾の充填を終えた白銀銃の銃口をアルフレッドに向け、シェドは人差し指をトリガに添えた。 「オイおっさん! ガンズ共はオレが相手するっつっただろーがッ!」 「……お前には無理だ。大人しく待機してろ」 「な、なんだとテメーッ! アルフレッドの前にテメーからぶっ殺すぞ!」 「はいはい、バーバラちゃん。私達の出番は今ではありませんよー」 「うおっ! こ、こら、離せっ! ラズベリー! ス、スピカまで……。離せーッ!」 アルフレッドとシェドの間に割り込もうとしたバーバラをラズベリーとスピカが羽交い締めにして引きずっていく。シェドとアルフレッドは別段気にした様子もなく、微動だにせず佇んでいた。 しばらくバーバラの怒声だけが響き、それが収まった頃、 「そうですね。ま、この際どうやってシェドさんがこの場に現れたのかは気にしないことにしましょう。ドラゴンにせよシェドさんにせよ、僕らの計画を邪魔する者は何人たりともここを通すわけにはいきませんから」 アルフレッドがニカッと口角を思いっきり引き上げて笑った。両手で鎌を構え、腰を落としてシェドと対峙する。 「んじゃあたしは、ちょうど都合良く揃ってるエインフェリアの皆さんのお相手をしましょうかねー」 シェドとアルフレッドの様子をケラケラと笑みを浮かべて見つめた後、キャロルがフレイデリカ達を見つめた。反射的に身構えたフレイデリカだが、それを制すようにシールディアが一歩、キャロルの方へ歩み寄った。 「あれ? あなたはだぁれ? エインフェリアの子? ……うーん、A級以上の子は全員顔と名前を一致させてるんだけどなぁ」 「私はシールディア=エガンフィス。そなたが先程言った、基地に侵入したドラゴンだ」 相手がガンズの一人であるというのに、シールディアは物怖じせず淡々と答えていた。もっとも、シールディアがキャロルのことを知っているかは分からないが。 「ドラゴン……? あ、そっか。純粋なドラゴンって、確か人の姿になれるんだよね」 「その通りだ」 「そっかそっか。じゃあ、基地に侵入したドラゴンっていうのはあなたのことかぁ」 ドラゴンという存在をどのように理解しているのか、キャロルはケラケラと笑いながら物珍しそうにシールディアに視線を送り続ける。対するシールディアはフレイデリカ達の前に毅然と立っていた。 「……いいのか、シール?」 ふいに、アルフレッドと対峙しているシェドが心配そうな声を漏らした。ずっと浮かべていた仏頂面から、相手を気遣う心配そうな顔つきになる。 それを見たシールディアは、コクンとシェドに頷いて見せた。 「本来、ドラゴンである私はヒトと争うことはできないし、ヒト同士の争いに関与することは出来ない。だが、今の私はドラゴンとしてではなく、アリアの友であり仲間であり、そして家族でもあるシールディアとしてここにいる。それが、私が戦う理由だ」 淀みなく言い切ったシールディアが身構える。その白くて細い手首に巻き付いた白銀の腕輪、そこに埋め込まれた朱色の宝石が仄かに光を帯びる。 「ふーん。よく分かんないけど、よーするにあなたがあたしの相手をするわけね?」 「そうだ」 「よし、わかった。じゃあエインフェリアの皆さんはその後でってことね」 モノクルの先で妖しく光るカナリヤの瞳。キャロルの闇を帯びた笑みに背筋が凍るような悪寒を覚えるフレイデリカの手前、シールディアはまったく怖じ気づく様子もなく構えている。 自分たちの出る幕はない。 フレイデリカは米神を流れる嫌な汗を感じながら、息を飲んでシェドとシールディアの背中を見つめた。 * * * 遙か上空を漂うヴァルハラ要塞を視界に入れながら、アイザックは何も出来ないことへの焦りからずっと歯ぎしりを続けていた。 ナイとガネットは黙ったまま瞳を閉じている。焦ったところで何も解決しないと理解しているのだろう。今のガネットは表にAが出てきているため、姦しく騒いだりはしない。 だからセイクリッド・スピアの三人で一番苛立ちを隠し切れていないのはアイザックだ。何も出来ない焦燥感が全身を包み、不甲斐なさで自己嫌悪に陥る。 『ヒヒ――ンッ!』 「どうした?」 ふいに後方から馬の嘶きが響き、アイザックは馬たちのケアをしている同志を見つめた。セカンドベース常駐だという、まだあどけなさの残る少女、パーラだ。 「それが、この子が何かを感じ取ったようで……」 アイザックに気後れした様子でオドオドするパーラと、パーラに手綱を握られたままそわそわと落ち着きのない一頭の馬。パーラが手綱を握っている馬以外にも、落ち尽きなく地面に穴を掘っている馬もいた。 「どうしたんだ? ……ん?」 微妙な風の流れを感じ取り、アイザックは眉を寄せながら空を見上げた。どんよりと曇った暗い空の彼方に、何やら黒い影が浮いている。鳥にしては大きいそれは、一直線にこちらへ迫ってきた。 「何だ、あれは?」 「あれは……。――っ! アイザックさんっ! 援軍ですよ!」 同志の一人が声を弾ませる。目を凝らしてよくよく確認すると、西の空からこちらへ向かっているのは数頭のペガサスだった。そしてその背には見知った顔が数名またがっている。 「ヴィクトリアがポニーに頼んで呼び寄せたペガサスでしょう」 ナイの言葉にガネットが頷く。 「そうか。だが、この状況ではいくら戦力が整おうが打つ手無しだな」 セカンドベースに残してきたヴィクトリアの指示で応援に駆けつけてくれた同志達には悪いが、ペガサスですら到達できない高度にあるヴァルハラへ突入する手段がない以上、頭数が増えても意味はない。 しばらくして五人の同志達がアイザック達の元へ現れた。馬たちがペガサスを前にして若干気が立っている様子だったが、パーラが優しく鬣を掬ってあげると荒らげていた息を落ち着かせた。 「お疲れ様です」 「ああ。現状は?」 「はい……」 馬たちの世話に続き、パーラが駆けつけた同志達に現状を説明していく。説明が終わると同志達からペガサスの手綱を受け取り、一頭ずつ率いて馬たちと同じ場所で木の幹に手綱を結びつけていく。地団駄を踏むしかしていないアイザックに比べ、パーラは実にてきぱきと行動していた。 「……お手上げ、ということですね」 「そういうことになるな。どうにかしてアレを地上へ降ろさないことにはどうすることも出来ない」 愚痴るように吐き捨て、アイザックは憎々しげに天空のヴァルハラを見据える。 地上に降ろせたとしても今の戦力差では何も変えられないかもしれない。殆どガンズ一人によってメインベースを壊滅されられるような弱小組織が、ニーヴルに対抗することなど無謀なのかもしれない。 だが、勝負はやってみなければわからない。大番狂わせはよくあること。 奥歯を噛みしめたアイザックの視界に、ヴァルハラからこぼれ落ちる漆黒の塊が映った。 それは突然だった。 「あれはっ!」 最初に気づいたアイザックがすぐに背後に紐で括り付けていた斧を手に構え、それをみたガネットも戦闘態勢を整える。 まるでコップから水があふれ出るように、ヴァルハラから漆黒の塊がこぼれ落ちてくる。最初は何か分からなかったが、肉眼で確認できる高度まで落下してきたとき、それが魔物の大群であることに皆が気づいた。 「くそっ! 何て数だ!」 位置的にはガネット達の数百メートル前方辺りに魔物の群れは落下してくるだろう。この辺りはニーヴルの基地以外には何もない場所であるが、数十キロ南下すればアルトレア大陸最大の国家トルメキアの王都カラトスがある。万が一あの群れが王都に流れ込むようなことになれば、どれほど犠牲が出るか想像もつかない。 「どうしますか?」 「やるしかねぇだろ! 行くぜっ!」 ナイとアイザックが先陣を切って走っていき、他の同志達も続く。その場にはガネットとパーラのみが残された。 「パーラ、大丈夫?」 ガネットは、肩を振るわせながら恐怖に歪んだ表情で空から落下してくる魔物の群れを見上げるパーラを見つめた。 セカンドベース常駐でほとんど戦闘経験のないパーラにとって、あれだけの数の魔物を目の当たりにして恐怖しないわけがないだろう。今でこそガネットはセイクリッド・スピアと呼ばれるトップガンの一員だが、同志に加わった当初は今のパーラと同じように魔物に恐怖したものだ。 「だ、大丈夫です。戦うために、世界を救うために戦うと決めたんですから!」 「無理はしなくていいわ。誰だって、恐怖を簡単に押し殺すことは出来ない」 「…………」 「前線は私達に任せて、あなたは後方からの援護射撃をお願い」 パーラは腰元に弓を括り付け、矢立を背負っている。前線よりは後方支援の方が幾分恐怖は和らぐだろう。 「馬とペガサスの手綱を外してあげて。あの子達は賢いから、きっと無事にセカンドベースまで帰って行ける」 「はい」 ガネットは取りだした錫杖に空いた穴に、振り袖の胸元から取りだした赤いジェムを埋め込む。今はAが表に出ているため、扱えるのはフレアジェムだ。 身が萎縮してしまいそうな衝撃を伴って、ガネット達の前方に空から黒い塊がなだれ落ちてくる。肌を浸食されそうな殺気が周囲を包む中、ガネットはその中心を目指してアイザック達を追った。 戦場となった天に漂うヴァルハラの真下にある平野では、すでにアイザックやナイが様々な種の魔物を相手に激しい戦闘を繰り広げていた。もちろん、他の同志達もセイクリッド・スピアに遅れず勇猛に戦っていた。 「何て数なの……」 遠目にも凄い数だと分かっていたが、目の当たりにすると一層その凄まじさがわかる。亜種ドラゴンなどの大型種はいないが、それでも上級魔物も多数混じっていた。 しかもアイザック達が次々と魔物達を倒しているにも関わらず、その数は一向に減らない。何故ならば、彼らが倒す以上のスピードで魔物の数が増えているからだ。 ヴァルハラから降り注ぐ魔物はキリがない。それこそ滝のように流れてくる。 「あ、ああ……あ……」 遅れて駆けつけたパーラが、魔物の数に圧倒されて引きつった顔つきになる。足が竦み、今にもへたり込んでしまいそうなのが手に取るように分かった。 「これだけの数を相手にしていたら、こっちの身が保ちませんね。仮にヴァルハラへの突入手段が分かっても、その時に疲労困憊ではニーヴルに太刀打ちできない」 「ど、どうしたら? どうしたらいいんですか?」 すがるようなパーラの言葉に、ガネットは唇を噛みしめることしかできない。すべての状況が、ガネットに絶望するよう促しているように思えた。 視線の先ではアイザック達が自分たちの百倍以上の数の魔物達を相手取って奮起している。いくら彼らが一騎当千の力を保有していようと、現状はあまりに多勢に無勢だ。 どうすることもできないのか。 ガネットが必死に現状を打破する手段を模索していた時―― 「……っ?」 風が吹いた。ヒュッと、小さな突風がガネットのふわふわスカーレットヘアを揺らした。 ただの風にしては少し不思議な感じがした。まるで優しさと強さを持っているような、意志を持っているような風。緊迫した局面にも関わらず、思わずガネットは目に見えないはずの風を追って空を仰いだ。 「あ……」 そして見た、淡いグリーンの四肢と翼。ガネットの瞳に映ったのは、黄色い二本の角を持ち、緑色の鱗で覆われた凛々しい生物だった。空を泳ぐそれは、鳥とは違い、神が創ったとされる巨大で荘厳な姿を有していた。 「ドラゴン?」 絶望の混じった声でパーラがその名前を口にした。 「ええ、でも……、あれは……」 ドラゴンを魔物の一種だと捉える人間は多い。ガネット自身、一年前まではそうだった。一年ほど前、各地で跋扈していたドラゴンを対峙して回っていた頃のガネットなら、今のパーラ同様に現れたドラゴンを敵として認識し、恐怖しただろう。 だが今のガネットは違う。ドラゴンが神によって創られた神聖な存在であり、そのドラゴンと言葉を交わしたことのあるガネットは、視界に映るドラゴンが、亜種と呼ばれる人間を襲うようなドラゴンでないことを直感的に感じ取れた。 それだけじゃない。あのドラゴンは自我を持つ原種と呼ばれるドラゴンであり、しかもガネット自身、そのドラゴンを知っているような気がした。 『ギャオオオオオオオオンッ!』 「――ッ!」 ドラゴンの天を衝くような咆吼が世界に衝撃を放つ。パーラが両手で耳を押さえながらうずくまり、ガネットも片眼を閉じてその圧倒的な叫びに顔を顰めた。 だがその咆吼は、ヒトに向けられたものではなかった。 『ピギャアアアアッ!』 『グオオオオッ!』 あちこちから上がる奇っ怪な悲鳴。 「え……?」 目をまん丸に見開いてガネットが見つめる先で、アイザック達と戦っていた魔物の群れが一瞬にして引き裂かれた。まるで四方から剣で引き裂かれたように、魔物の醜悪な身が引き裂かれていく。 その光景をガネットは驚愕の表情で見つめた。天を泳ぐドラゴンは、直接は何もしていない。ただ大気が振動するほどの咆吼を一度上げただけだ。 まるでその咆吼が見えない鎌となって魔物達に襲いかかったかのように、ガネットの視界を埋めていた魔物達があっという間に寸断される。 しばらく天を泳いでいたドラゴンがガネットの方へ近寄ってくる。前方で戦っていたアイザック達が、魔物達の全滅を確認してからドラゴンを追ってガネット達のところまで引き上げてきた。 その場の全員が見上げる先で、ドラゴンの体が眩い光に包まれた。そして次の瞬間にはドラゴンの姿は忽然と消え失せ、代わりにそこへ光り輝く人影が現れる。 光がゆっくりと地上へ降下し、ガネット達の手前に降り立った。アイザックやナイが険しい表情で武器を構え、パーラが引きつった顔で無意識のうちにガネットの袖口を握っていた。 『私はあなた達と敵対する者ではありません』 「な――っ!」 光が柔らかな音を奏でた。それはまるで頭に直接語りかけられたように透き通ってよく響き、不思議と穏やかな気持ちにさせられる。 やっぱり、とガネットは内心で思う。ドラゴンの姿を見たとき、その正体を知っているよう思ったのは、やはり間違いではなかった。 警戒態勢を緩めない同志達の手前で、徐々に光が収束していく。ガネットは震えるパーラの手をとって自分の袖口から引き離した。 「あ……。ご、ごめんなさい」 「いいのよ、気にしてないわ。それに……」 「それに?」 「大丈夫だから。彼女は、敵じゃない」 ガネットはパーラに微笑みかけながらそう言い、困惑に包まれる皆の視線を浴びながら一歩、また一歩と光の方へ歩み寄った。 収束していった光は徐々にその人影の輪郭をくっきりと浮かび上がらせていく。柔らかな曲線を描くその影は、成人女性のそれだった。 「ガネット? お前、それが何なのか知ってるのか? それに、彼女って誰のことだ?」 「彼女は彼女です」 アイザックの問いにガネットがそう答えた時、完全に光が収まってその人影の容姿が衆目の元に晒された。 それは黄檗色の長い髪を持ち、琥珀色の瞳に僅かながらの微笑を携えた、肌が白くて細身の美しい女性だった。 ヒト同士の争いにドラゴンは関わってはいけない。しかし、天使に関わることには特例が適用される。にも関わらず、竜王を始めとする多くの原種のドラゴン達は重い腰を持ち上げようとはしなかった。 それが世界の崩壊に繋がると分かっていても、かつて自分たちを創った神を殺したヒトを許すことができないのだろうか。ヒトとの関わりを完全に断とうとしたドラゴンにとっては、最早世界のことなどどうでもいいのか。 不干渉が竜王の意志だとしても、黙って見過ごせるものではなかった。長き時をヒトと共に過ごし、他のドラゴンよりヒトの心に敏感である故に。それこそ、ドラゴンではなくヒトとしての自我によって。 「エイルさん、あなただったんですね。あの、凛々しいエメラルドドラゴンは」 『はい』 先日竜王の里を訪れたヒトの一人、ガネットの言葉に、エイルは穏やかに応じた。 ヒトとしての自分の心。素直にそれを信じ、その心に従って行動することをエイルは選んだ。だから今、此処にいる。 「アイザック、ナイ、それに皆さん。こちらは竜の里に住まうドラゴンのエイルさんです。私が竜の里を訪れているときにとてもお世話になりました」 「……彼女が、ドラゴン?」 訝しげな視線をエイルへ向けるアイザックだが、エイルは別段気にする様子もなくガネットを見つめていた。 『取りあえず第一波は食い止めましたが、ヴァルハラで生まれる魔物には際限がありません。直に第二波がやってくるでしょう。次の襲撃の前に、私と共にヴァルハラへ乗り込みませんか?』 「可能なのですか?」 『ええ。この人数なら、私の背でも十分収まります』 そう言いながら多少ぎこちない笑みを浮かべるエイル。エイルの背といっても、今はヒトの姿をしているために赤子一人しか乗れそうにない。 皆が困惑した様子で顔を見合わせる中、ガネットだけはエイルに優しい微笑みを向けていた。たった数日しか時間を共有しなかったが、それだけでガネットはこうもエイルに心を開いてくれている。それは素直に嬉しかった。 「……先程の攻撃は貴女が?」 ふと、シアン色の髪をした若い男がエイルに尋ねてきた。警戒色はあまり色濃くないが、まだ色々とエイルのことを不審に思っているようだ。 『それは、魔物の群れを薙ぎ払ったことですか?』 「はい。一瞬にしてすべての魔物を引き裂いた不可視の攻撃。私には、あれがウインドジェムを用いた風系の魔法だと感じました。ですが、あれほどの魔力を一度に使用することは、たとえ多量のウインドジェムが手元にあっても不可能かと……」 男が身につけるベルトのバックルには緑色の輝く石が埋め込まれている。おそらく男はウインドジェムを扱え、それ故に先程の攻撃が何たるかと直感的に感じ取ったのだろう。 『私はウインドドラゴンです。ヒトとは、根本的に魔法の使い方が異なります』 「……そうですか。いえ、失礼しました」 一歩引きながら頭を垂らす男からは、羨望に似た薄い憧憬の念が感じられた。ウインドジェムを使える者として、自分が生み出せる風の力とエイルが操れる力に雲泥の差を感じたのだろう。 だが、ヒトとドラゴンである以上、それは仕方のないことだ。ヒトを守護するために創られたドラゴンが、ヒトより矮小な存在であるはずがない。 『…………』 ただ、例外はある。遙か上空で世界崩壊を目論むヒト達。彼らの力は、ドラゴンの力を凌駕している。それこそ、ヒトの意志、何かしらの強い心がそうさせているのだろう。 「エイルさん。最後の天使がニーヴルの手に落ちてからすでに結構な時が過ぎています。時間はあまり残されていないでしょう。ですから――」 『ええ。分かりました』 時間が無い。それはエイル自身、痛いほどよく分かっている。 それは決して、世界崩壊までの時間が残されていないこと自体を意味している訳ではない。 世界を崩壊に至らしめる過程で、必然的に通る悲しく辛い一線の通路。そこを通る上で払わねばならない犠牲。 もし手遅れになってその犠牲が払われたとき、エイルの脳裏をよぎる事態が現実となる可能性は高い。だから、一刻も早くヴァルハラへ赴き、その事態を回避しなければならない。 『行きましょう』 エイルはドラゴンの姿へ変化する。ガネット以外の面々が唖然とする手前で、エイルは翼を広げて周囲に爆風を巻き起こす。 もっと同じ時を過ごしたい者が居る。成長を見守っていきたい者が居る。 背中にガネット達が乗ったのを確認してから、エイルは翼を羽ばたかせて暗雲の立ちこめる大空へと舞い上がった。 世界を護るため。そして、あの者を救うために。 轟々と風を切りながらエイルという名のドラゴンが空を泳ぐ。その背中で、パーラは必死に内なる恐怖を押し殺そうとし、震える体を鎮めようと深呼吸を繰り返した。 戦場に出るのは怖い。それはまだそれほど戦闘経験がないからだろうか。ガネットやアイザック、ナイのようにどんなに劣勢な戦場でも冷静でいるためには、もっともっと場数を踏まなければならないのだろうか。 場数を踏むというのは多くの戦場を経験すること。そして、多くの敵を倒すこと。 果たしてそこまでして強くなりたいと自分は思っているのだろうか。世界を守るために戦いたい、そして自分には戦う力があると思って同志となったが、パーラは決して戦うことが好きなわけではない。 戦わずに世界を守れたらいいのに、と思ってしまう。戦うと決心しているはずなのに、心の片隅では戦いから逃げたいと思っている。 自分が寓話に出てくるような勇者なんかじゃないことは分かっている。たぶん、パーラの存在など、何冊にも渡る長編物語の中で一行、描写されるかどうかというちっぽけな存在だろう。 世界を救う勇者と言うべき存在。そんな眉唾な存在に希望を抱くパーラは弱い人間なのだろうか。きっと誰かが世界を救ってくれる。自分はほんの少し、舞台裏でそのお手伝いをするだけでいいと思うパーラは愚かだろうか。 「見えてきましたね」 「……っ」 ガネットの言葉で我に返ったパーラは、恐る恐る顔を上げて暗雲の立ちこめる空に漂う要塞を見つめた。 まるで空に浮かぶ島にそびえる城。収まりきらない魔物が次々と大地へこぼれ落ちて行き、島の周囲を大型の飛行魔物が徘徊している。 開ききった瞳孔。カラカラに渇く喉がパーラの意志と関係なく鳴り、震える体を抑制する術はない。 「大丈夫。落ち着いて」 「ガネットさん」 パーラの震える肩を抱き寄せながら、落ち着いた声音でガネットが話しかけてくる。 初めて会ったときはもう一つの人格が表に出ており、見た目は可愛らしいけど怖い人だと思った。しかし今表に出ている大人びた人格は、とても優しくて柔らかく、まるで母親を思わせるくらい、パーラに安らぎを与えてくれた。 心細いときや恐怖で体が萎縮しているとき、一緒に居てくれる人ほど安心させてくれる存在はない。その人がパーラにとって信用に足るべき人ならなおさらのこと。 「誰だって、この状況は受け入れがたい。世界崩壊の危機だなんて、認めたくないし、これから向かうヴァルハラが魔物の巣窟という事実からも、目を逸らしたいと思う」 「はい。怖いです。震えが止まらないんです。戦うって、世界を守るために私も精一杯戦うって誓ったはずなのに、どうしても恐怖を押し殺せないんです」 「それは普通のこと。無理する必要はないわ。この状況でちゃんと恐怖心を抱くことは、あなたが心を持った普通の人だという証だと思う。この状況で恐怖しなかったら、大切な物を無くしてしまった哀れな人だと思うわ」 「……ガネットさんも、その……、怖い、ですか?」 恐る恐るパーラはガネットに尋ねた。至極落ち着いているように見えるガネットも、押し殺して表に出していないだけで、本当は恐怖を心に抱いているのだろうか。 徐々に迫りつつあるヴァルハラ。同志達の緊張した面持ちが周囲に緊張した空気を生み、 息を飲む音が何倍にも拡大されて響いていた。 「パーラさん、手、よろしいですか?」 「え? あ、はい」 ふとガネットがパーラの手を取り、手のひら同士を合わせて優しく握った。少しパーラより冷たく小さな手を握りながら、パーラはガネットの目を見つめる。 そして気づいた。意識しなければ分からない程だが、小刻みにガネットの手が震えていることを。 もしかしたらパーラの震えで共振しているだけかもしれない。けれど、ならばガネットがこうした意図が分からない。だからきっと、この震えはガネットのものなのだろう。 ガネットは何も言わずにニコッと微笑み、そっと手を離して先を見つめた。天空に佇むヴァルハラを険しい表情で見つめるガネットの横顔をしばし見つめた後、パーラは一度大きく深呼吸してから、キッと睨むようにヴァルハラへ視線を向ける。 『皆さん、気をつけて下さい』 ヴァルハラが目の前まで迫ってきた時になって、パーラの頭に若い女性の声が直接響いてきた。エイルの声だ。 「どうした?」 『ヴァルハラの周囲を亜種のドラゴン達が守護しているようです。このまま突撃すれば、間違いなく正面衝突するでしょう』 「ド、ドラゴンだと? この状態で戦えるような相手じゃないぞ!」 同志達が動揺を滲ませながら騒ぐ中でも、ガネットは静かに前を見据えていた。隣にガネットが居てくれるだけで、パーラは少しだけ落ち着いていられる。 こんな人になりたい。一緒にいる人に、安心を与えられるような強い人に。 『ドラゴン達の相手は私がします。皆さん、全速力で一度ヴァルハラの最接近します。皆さんはその時にヴァルハラへ飛び降りて下さい』 「エイルさん一人にドラゴンをすべて任せてもよろしいのですか? 厳しいのであれば、私がエイルさんの背中から援護しますが……」 『お気持ちだけ頂いておきます。あなた達の力は、どうかヴァルハラ内部で世界崩壊を企む者達にぶつけて下さい』 「……分かりました」 『行きます!』 エイルが急激にスピードを上げ、激しい向かい風がその背中に乗る者すべてを襲う。とても目を開けていられず、パーラはグッと瞳を閉じてその時を待った。 『ギャオオオオンッ!』 身の毛もよだつドラゴンの咆吼。それはエイルのではなく、おそらくヴァルハラを守護するというドラゴンのそれだろう。 息を飲んで恐怖を押し殺す。そしてパーラは密かに深呼吸しようとした時―― 『皆さん! 今です!』 エイルの言葉に、パーラは肺にため込んだ息を吐き出すタイミングを逸してくぐもった嗚咽を漏らし、皆に遅れて瞳を開いた。 瞳に映るヴァルハラ。大地から切り取られた新緑と、荘厳な空気を醸し出す大理石で出来た神殿。人工の用水路。花々。 彩り鮮やかなヴァルハラには、それを美しいと感じさせる暇を与えぬ奇っ怪な魔物達で埋め尽くされていた。 「行くぞっ!」 そんな、魔物で溢れかえるヴァルハラへ向けてアイザックは先頭を切ってエイルの背から飛び降りる。ナイや他の同志達が次々と続き、そして最後にガネットとパーラが取り残された。 ガネットがパーラの顔を見て頷く。パーラも、それに応じてガネットの手をギュッと握った。 漆黒の空に飛び、パーラは眼下に広がる魔物の群れを目を逸らさず睨め付ける。ガネットはすでに空中で錫杖を振りかざし、戦闘の準備を整えていた。 全員が飛び降りた後、エイルは空中で旋回してヴァルハラ上空を覆い尽くすほどのドラゴン達に向かっていった。そして直ぐに大気を振動させるほどの咆吼をぶつけ合いながら激しい戦闘が始まる。 「私達も行きますよ!」 「はいっ!」 ガネットの錫杖がシャリンと鳴り、ガネットの体から朱色のオーラが放たれてそれは空中で集い、炎の鳥となる。真っ赤に燃え上がる炎の鳥は一直線に魔物の群れに迫り、直撃と同時に弾けて周囲に紅蓮の火の粉を散らした。 パーラも落下しながら弓を引き、魔物の脳天へ矢を放つ。 「っ!」 ヴァルハラに降り立つと、すでに同志達が周囲を取り囲む魔物達と戦っていた。パーラ達が降り立った場所を中心に、グルリと周囲を魔物達が取り込んでおり、遙か前方には上空から見た大理石の神殿が見える。 「ニーヴルの連中はあそこか! なら、天使もあの神殿に居る可能性が高いな!」 「おそらく、あそこにニーヴルのトップやガンズと呼ばれる実力者達も集っているでしょう」 「よし! お前達、援護しろ! ナイ、ガネット、行くぞっ!」 アイザックがヴァルハラ神殿目指して魔物の群れに突貫していく。同志達のなかで最も力のある三人、セイクリッド・スピアが敵の本拠地を目指し、他の同志がそれを援護する。 駆け出す前にガネットがパーラへ視線をくれた。自分は大丈夫だからという意志を籠めて頷くと、ガネットはそれに応えるように微笑んでから先行するアイザックを追って大きく前へ飛んだ。 アイザック達を援護しつつ五人の同志がヴァルハラ神殿の方へ走っていき、パーラを含む残りの六人はその場に残って先行部隊の背中を守ることに専念する。 「死ぬ気でここを死守するぞ! 低級魔物一匹ここを通すなっ!」 「オオッ!」 その場に残った者達は前へ進む者達の背を守るために戦う。パーラもその一人となって、ガネットの無事と、ガネット達がきっと世界を救ってくれると信じてその背中を守るため死力を尽くす想いを強く抱く。 パーラは物語の主人公でも何でもない。けれど、どんなにちっぽけな脇役にだってその人にしかできない何かがあるはず。 自分にしかできないこと。それが必ずあると信じ、パーラは弓を引く手に力を籠めた。 * * * セカンドベースのある深い森は激しい雨に見舞われており、外部からは見えないようカモフラージュされたセカンドベースではあるが、内部にある窓からは外の様子がハッキリと見える。 参謀室にある出窓から外の様子を伺いながら、ヴィクトリアは湿気で少し重く感じる髪を掻き上げた。 先程、特殊ジェムを使った魔通信で後発隊が無事に先発隊に合流したことと、ドラゴンの力を借りてヴァルハラへの突入したとの報告を受けた。 詳細はよく分からない。だが今はそのことを詮索しても意味はないだろう。 今危惧しなければならないことは、ヴァルハラより溢れだしてトルメキア北方へ大量に落下してきたという魔物の群れをどうするかだ。最悪の場合、その群れがトルメキア王国の王都カラトスを襲い、尋常ならぬ被害が出る。 「ドラゴンの加護がなくてはヴァルハラへは到達できません。ならば、これから出立させる同志達はヴァルハラではなく王都の守護へ回したほうがよろしいですわね」 「はい。すでに王国軍に所属している同志に、北方の守備を固めるよう連絡してあります。また、カラトス支部にも、周辺に居る同志をセカンドベースへ戻さずそのまま王都の警護へ回すよう連絡しました」 「わかりましたわ。……後はアイザックさん達を信じて、わたくし達はその帰る場所を守ることに専念しなければなりません」 拳をグッと握ったままヴィクトリアが熱弁を奮うと、何故か参謀室に居る同志達からぷっと笑い声が零れた。 参謀室に居るのは、各地から戻ってきたヴィクトリアより年上の女性同志三人。 「うふ、無理に強がっちゃって。んもう、ほんっと、ヴィクトリアちゃんって可愛いわね。お兄ちゃんのことが心配で心配でいてもたってもいられないくせに、我慢しちゃってぇ」 「そうそう。時々、心ここに在らず、みたいにボーッとしちゃってさ。素直に、わたくしはお兄様のことがとってもとっても心配なのぉ、って言えばいいのよ」 「お兄様ぁ、ヴィクトリア心配ですぅ、ってねっ」 その三人が、ヴィクトリアに流し目を送りながら妙な声色で語りかけてくる。ニヤニヤと年上としての余裕に充ち満ちた笑みを携え、まるで退屈を紛らわすためにヴィクトリアをおもちゃにしようとでも企んでいる目をしていた。 「んなっ! な、な、なんですかあなた達は! わ、わたくしは別にお兄様のことを悶々とあれこれ思考を巡り巡らせているわけではありませんわ! わたくしが考えているのはあの人のことであって、今は別にお兄様の……こと……?」 今のヴィクトリアはアイザックよりセカンドベースの留守を預かる指揮官代理であり、どんなときも冷静に物事を判断し、的確な指示を出さなければならない立場にある。よって三人の妄言など軽く受け流さなければならなかったのだが、生憎とヴィクトリアはまだそこまで出来た人間ではなかったようだ。 口を衝いて出た本音に、思わずヴィクトリアは決まり悪く瞳を閉じて髪を掻き上げる。そして恐る恐る目を開けると、案の定、釣りエサに掛かった魚を見るような視線を一身に浴びた。 「なるほどー。ヴィクトリアちゃんが上の空だったのはお兄ちゃんのことじゃなくて、未来のお姉ちゃんのことだったかぁ」 「うぐぅ」 同志の言葉に思わずヴィクトリアは唸る。ヴィクトリア以外の同志はまだ件の二人がすでに夫婦の誓いを立てていることを知らないため、「未来の」と付けたのだろう。だがヴィクトリアはもうその形容詞が必要ないことを事実として認識している。 「だったら、こんな所に居ないで会いに行って来なさいな」 「わ、わたくしは隊長さんやアイザックさんの留守を預かる身として、この場を離れるわけには参りませんわ!」 「ここに居たって、もうすることはないんじゃない? あらかた命令系統の統一は終わったし、各支部への通達も完了。移動手段が無い限りはアイザックさん達に援軍も送れない。つまり現状は静観するしかないわけでぇ、ようするにヴィクトリアちゃんがここに居なければならない理由はないってワケ」 「う……、むぅ……」 正論だったために、ヴィクトリアは返す言葉がない。 ここ数日はメインベース陥落による指揮系統の乱れや、リーダーであるガルバトロスの不在、セイクリッド・スピア全員の留守、世界崩壊の危機が迫っているなどによって同志達に混乱が広まり、それをまとめあげることに苦労した。 さらにはヴァルハラへの突入手段や戦力の拡充。同時に武器弾薬の管理や、それにともなう財政管理など、やらなければならない雑用が沢山あった。 しかし現在参謀室に居るベテラン同志三人の働きによって、片付けなければならない仕事はすべて片づき、また前線については静観するしかない状況であるため、することが無くなったというのは事実だ。 三人の同志が、ニヤニヤと厭らしい笑みでヴィクトリアを見つめてくる。まるでその目は、早く未来の姉の元へ行って甘えてこいとでも言いたそうだ。 同志達の思惑通りに動いてしまうような気がして癪だったが、あの人のことが気がかりでないと言えば嘘になる。それに別れの際にシルヴァランスからも、あの人のことを頼むと言われている。 ここは淑女として、大人の女性としてスマートに行動するのが得策だと判断する。 「では、わたくしはしばし個室で休息を取らせていただきます。何かありましたらすぐに連絡をお願いします」 上品に上品に。あくまで落ち着いた振る舞いでその場を後にする。 だがやはり、参謀室を出る直前に背後からくぐもった笑い声が聞こえた。ヴィクトリアはそれを完全に無視し、淑女らしくバタンと威勢良く扉を閉めて参謀室を後にした。 きっとこれからもこのネタでいじられ続けるだろう。そのことに何とも言えない怒りが溢れる。 「す、すべてあの方のせいですわ!」 ヴィクトリアが年上の同志達にからかわれるのも、もやもやとあれこれかれこれ誰それ考えてしまうのも、全部あの人のせい。 自分の心をかき乱す相手に内心でブツブツ文句を呟きながら、ヴィクトリアはその相手がいる部屋へと真っ直ぐ進む。 今のあの人には面と向かって言えない言葉は沢山ある。そして今のあの人にこそ言いたい言葉も沢山ある。でもきっと、本人を前にしたらそのどの言葉も出てこなくて、きっとまったく別の言葉が出てくるのだろう。 それでもいい。前もって用意していた言葉ではなく、その場で口を衝いて出る言葉にこそ、きっと自分の本心が籠もっている。自分の本心をちゃんと相手に伝えるためにも、ここで逃げずに真っ直ぐ前へ進まなければならない。 「わたくしは……」 部屋の前にたどり着き、ヴィクトリアは大きく深呼吸する。ノックしようと持ち上げた拳が震えていることを自覚しながら、スッと目を閉じて自分の心臓の音を聞く。 自分の本当の気持ち。あの人に、ちゃんと知ってもらいたい。 その想いを強く心に抱き、ヴィクトリアは瞳を開いて扉をノックした。 何をするでも、何を言うでもなくただずっと側に居てくれたミレーヌと入れ違いに、少し強ばった様子のヴィクトリアが部屋の中へ入ってきた。 ヴィクトリアの顔を見て肩に力が入るのを隠せなかったセシリーだが、それは相手も同じだと気づいて少し気が楽になり、簡易ベッドに腰を下ろしたまま手招きしてヴィクトリアを隣に座らせた。 あれでなかなかお節介なミレーヌは、「後はお若いお二人で」と言ってヴィクトリアと入れ違いに部屋を出て行った。きっとヴィクトリアがこの部屋を出るときには何食わぬ顔で部屋に戻ってきて、またセシリーの隣に居てくれるのだろう。 「……思ったより元気そうで何よりですわ」 ずっと沈黙が続いていた部屋に、相変わらずの少し不機嫌そうな声が響く。その声を聞く限りは、むしろ元気でいることに対して嫌味を言っているようにしか聞こえない。 「そう感じてくれるなら、それはミレーヌのお陰でしょうね。私一人だったら、きっと塞ぎ込んでしまっていると思うわ」 「それは、ミレーヌさんのお陰で今はもう、完全に立ち直ったと言うことですか?」 「そう、見える?」 自分より背の低いヴィクトリアの顔を、少し上からのぞき込むようにしてセシリーはヴィクトリアに意地悪っぽく尋ねてみた。ヴィクトリアは眉をハの字に顰め、気恥ずかしそうに上目遣いで上唇を尖らせながらにらみ返してくる。 シルヴァランスのことを信じているから大丈夫、だとは言えない。まだセシリーの内で大切な人を失うかもしれないという恐怖は残っている。 けれど、ずっと側にいてくれるミレーヌや、セシリーと同じようにシルヴァランスの心配をしながらも健気に顔を上げて前を見続けるヴィクトリアの存在があるお陰で、セシリーは俯いてしゃがみ込むことなく前へ進めているのだと思う。 だから立ち直ったという言葉はまんざら嘘ではない。しかし、完全にというのは間違っている。セシリーには他にも、怖いことがあるから。 「見えませんわ。まだグダグダウジウジメソメソと、お兄様のことを心配なさって悲壮な顔つきをしているようにしか見えません」 「そうかもしれない。でも、私が怖いのはシルヴァランスが帰ってこないかもしれないことだけじゃないの」 「お兄様は無事に帰ってこられます」 仮定の話でもヴィクトリアはキッパリと否定する。それだけ強く信じ、そして、言葉にしなければ落ち着かない程度には不安がっているのだろう。 「そうね。私も信じているわ。だから、私が不安に思っているのは別のこと」 「それは……、何なのですか?」 踏み入っていいのか、立ち止まるべきなのか。ヴィクトリアはまるで何処までが石なのか分からない橋を慎重に叩きながら進んでいるように見えた。 向こうが頑張って歩み寄ろうとしてくれているのは手に取るように分かった。いや、ずっと前から、ヴィクトリアが少しずつだがセシリーを受け入れようとしてくれていることには気づいていた。 でも、心の弱いセシリーは逃げていた。 出会った当初、年上としての余裕を纏って接していた頃はむしろセシリーの側から積極的に接点を持とうとしていたが、ニーヴルに敗れ、アリアを護れなかったことに絶望して心が折れてしまった後は、そんな自分をヴィクトリアだけには見られたくないという保守的な気持ちで逃げ回っていた。 それは自分が姉だから。ヴィクトリアに姉と認められる存在になりたいと願ったから、情けない自分をヴィクトリアに見せたくなかった。 けれど、もうそんな自分を演じる必要はないのかもしれない。 あれだけ惨めったらしくしていたにも関わらず、ヴィクトリアはセシリーを蔑まずにこうして会いに来てくれた。歩み寄ろうとしてくれている。なら、ありのままの自分でありのままの本心を語り、その上で受け入れてもらうしかない。もう、肩肘張る必要などない。 「私が不安に思っていること、それは、ヴィクトリアちゃんに嫌われてしまったのではないかということ」 それが、今一番怖いことだ。 「初めてあったときから、ヴィクトリアちゃんのことが気になっていた。兄であるシルヴァランスを心から慕うちょっとお転婆な女の子で、とても可愛らしくて、ついついお節介を焼いてあげたくなる妹のような子。私は、シルヴァランスと結婚するずっと前から、あなたに好かれたいと思っていたわ」 「……どうして、わたくしのことを……?」 「さあ。出会った当初はただ漠然と好かれたいと思っただけだった。けれど、今は沢山の理由がある。その一つは、きっと最初に好かれたいと思った気持ちの根源だと思う」 「それは、わたくしがクレアだということ……ですか?」 「っ!?」 ゆっくりと言葉にしていこうと思っていたこと。それはセシリーがかつてヴィクトリアと同じ時を過ごしたことがあり、その頃からセシリーはヴィクトリアのことが好きだったということ。 それを、ヴィクトリアは既に知っていた。知っている上で、正解なのかどうか半信半疑の様子で尋ねてきたようだ。 「……知ってたの?」 「出発の際に、お兄様が教えて下さいました。あなたが、ミニお姉ちゃんのお姉ちゃんだということを」 ヴィクトリアはセシリーの妹であるシェミニールを姉と慕っていた。きっと、セシリーの名前は覚えていなかっただろう。シルヴァランスですら、「ミニのお姉ちゃん」としか覚えていなかったのだ。 「そう。知っているなら話は簡単。私がヴィクトリアちゃんに好かれたいと思ったのは、きっと遠い昔にあなたと出会っていたから。思い出の中で、シェミニールと変わらないくらい可愛がっていた女の子に、あなたを重ねていたんだと思う。重ねるも何も本人だったなんて、出会った当初は気づいていなかったけれど」 「それは、わたくしも同じです」 相づち程度であまり自分から多くを語っていなかったヴィクトリアが、強くハッキリとした言葉を紡ぐ。 「わたくしもあなたのこと、ずっと気になっていました。最初はお兄様の隣に居る、嫌な女だとも思いました。けれど言葉を交わすたび、あなたに惹かれていく自分に戸惑っていました。……本心では、この人に甘えたいと、思ったこともありますわ」 恥ずかしげに頬を紅潮させながらも、ヴィクトリアは語調を弱めずに本音を語ってくれる。それが嬉しくて、セシリーは目頭が熱くなるのを必死に堪えた。 「お兄様の心を奪った悪女だと決めつけようにも、あなたをずっと嫌えずにいました。脳裏に浮かぶあなたの表情は、わたくしからお兄様を奪って勝ち誇ったような意地悪い魔性の笑みではなく、あ、姉のような柔らかで優しくて温かな笑顔でした」 姉のような。その言葉に耐えきれずセシリーの瞳から涙が零れる。ヴィクトリアがそれに気づかぬ振りをしたまま言葉を続ける。 「お兄様の話を聞いて、すべてのモヤモヤが氷解したような気がしましたわ。わたくしがあなたに抱いていた感情は、ずっと昔から抱いていた感情と同じなのだと。……正確には、あの頃ミニお姉ちゃんに対してだったのが、あなたにすり替わったのだと思いますが」 あの頃、シルヴァランスの隣にいたのはセシリーではなく今は亡き妹のシェミニールだ。あの頃からヴィクトリアはシルヴァランスの後ろをついて回っていたので、きっと兄と仲睦まじげに話すシェミニールに嫉妬していたのだろう。 それは何とも滑稽な話に思えた。 セシリーはシルヴァランスの兄であるパーシヴァルに抱いていた好意が転じてシルヴァランスに惹かれた。シルヴァランスも、シェミニールに対して覚えた感情をセシリーに出会って思い出した。そしてヴィクトリアも、シェミニールに対して持っていた嫉妬心をセシリーにスライドさせた。 「何か、私達ってずいぶん遠回りながら、結局同じ所に帰ってきたような気がするわね」 「同じではありませんわ。あの頃と今は大きく異なっています。でも確かに、根本的な部分は大きく変わっていないのかもしれませんわね」 ヴィクトリアが気恥ずかしそうに笑い、セシリーも頬を涙で濡らしたまま微笑む。 もう一歩だけ踏みだそう。セシリーがそう思って踏み出そうとしたとき、向こうから先に歩を詰めてきた。 「わたくしはあなたの事を嫌ってはいません。むしろ、わたくしの方が、あなたに嫉妬心から失礼なことばかり言ってしまったことに、嫌われてしまったのではないかと怯えていました」 「そんなこと、あるわけないでしょう?」 「はい。今は、安心していますわ」 そう言って心から安心したような笑みを咲かせるヴィクトリアは、口を尖らせて頬を膨らませたままそっぽを向くときとは違う意味で可愛らしかった。 「しばらくは今まで通りのぎこちないやりとりが続くと思います。けど、少しずつ、少しずつでよいので、歩み寄って行けたらよいと思ってますわ」 「私もよ」 「で、ですから、その……、お願い……というか、その――」 互いに歩み寄るための第一歩を、ヴィクトリアが踏み出そうとしている。それを、セシリーは黙って待った。 「お、お姉様、と、呼んでもよろしいですか? あなたはもう、お兄様と夫婦の契りを交わしているわけですし、その、つまりはわたくしにとっては義理の姉に当たるので」 「…………」 それはセシリーが願った通りの言葉だった。目を点にして見つめるセシリーを、ヴィクトリアは落ち着かない様子で見つめ返してくる。 願ったとおりの言葉。あまりの嬉しさに溢れる涙を堪えきれないセシリーは、口元を緩めたまま首を左右に振った。 不安そうにしながらも、受け入れてくれるとという自信のあったのだろうヴィクトリアの顔が、一瞬にして雨が降り出す前のように曇る。けれどすかさずセシリーは口を開き、ヴィクトリアの言葉がどれだけ嬉しかったかと伝えようとした。 あまりに嬉しくて少し元気が出てきたこと。だからこそ、こうして本音を含んだ意地悪ができる。 「私ね、親が付けてくれた自分の名前も好きだけど、それとは違う、呼ばれて嬉しい呼び名があるの」 「え……?」 「ずっと昔は、私をそう呼んでくれる子が居たわ。けれど今は、私のことをそう呼んでくれる人は誰も居ないの」 ポロポロと涙を零しながら精一杯の意地悪い笑顔を浮かべてみせる。それを見たヴィクトリアが、セシリーの言わんとしていることを察したのか一層頬を紅潮させた。 「私ね、“お姉ちゃん”って呼ばれるのが大好きなのよ」 鉄の胴体と鉄の翼が地面から数メートル浮いた状態で高速移動していく。 ジェムを埋め込んだ動力部が複数あるという構造の飛空器と呼ばれる魔練器には、内部に二人分のシートが設置してあり、内部は分厚いガラスに覆われていた。 シルヴァランスの目の前には無いが、前席のスラッシュの前にはよく分からない計器やレバー、スイッチが沢山並んでいる。 シルヴァランスは見たことも聞いたことも、当然乗ったこともない飛空器に当初困惑していたが、今はだいぶ落ち着いた気持ちでガラスの外を見渡しながらヴァルハラに到着するのを待っていた。 今は低空飛行をしているが、ヴァルハラを視界に捉えたら一気に急上昇していくとのこと。その時はシルヴァランスがウインドジェムで上昇をアシストしなければならない。 「ホンット安心した」 互いにほぼ初対面だったシルヴァランスとスラッシュ。出発当初は重い空気が飛空器の内部を支配していたが、今は少しうち解けて雑談を交わす程度になっていた。 そして何度か言葉のやりとりをし、互いのことが少しずつ分かり始めた頃合いになって、突然スラッシュがそう言ったのだ。 「は? 安心したって、何がですか?」 「いやぁ、シルヴァランスってすっげー格好いいから、心配だったんだ」 年齢的に近いことから、気を遣わずに敬称なしで話そうと言い出したのはスラッシュだ。シルヴァランスは基本的に丁寧口調なので、何かと「堅い」と言われたが、そればかりは長年のクセみたいなものなのでどうしようもない。 「はあ……。僕の容姿はともかく、何を心配していたんですか?」 「いやな、最初見たとき、こいつが“シェド”ってヤツか! って思ったんだよ。それでしばらくは敵意剥き出しのまま監視してたんだけど、物腰も柔らかくて顔立ちもいいとあって、こいつは強敵だと思ったわけ」 「シェドさん? 何でスラッシュはシェドさんを敵視しているんですか?」 そう言えばまだ互いの名前も知らないとき、スラッシュは睨むような、品定めするような目で矯めつ眇めつシルヴァランスを見つめていた。睨まれるようなことをした覚えもなかったため、極力気にしないようにしていたが、どうやらシェドと勘違いされていたらしい。何故シェドを敵視しているかは知らないが。 「それはな、最近こそあまり口にしなくなってきたんだが、以前は口を開くたびに“シェド”っていう男の名前が出てきたんだよ。往復に何ヶ月も掛けて会いに行くくらいそいつのことが好きなのかって、マジで嫉妬してたんだ」 「はあ……」 主語が抜けていたが、どうやらミレーヌの話をしているらしい。 「どんなヤツなんだとビビリながら会う日を待っていたんだが、シルヴァランスを見て、コイツにはちょっと敵わないと思ったわけ。ホント、お前がシェドじゃなくてよかったよ。それに、既婚者だってのを知ってもっと安心した。シルヴァランスみたいのがミレーヌちゃんの側に居たら厄介だしな」 「そう……ですか。でも、スラッシュが僕をどう評価しているか分かりませんが、僕が思う限り、シェドさんは僕なんかよりずっといい男ですよ」 本心からそう言うと、スラッシュが小さく唸ったのが聞こえた。表情は確認できないが、嫌そうな顔をしているのは間違いないだろう。 これから戦場に赴くにしては軽すぎる会話の内容。けれど、その方が無意味な緊張を生まないという意味ではいいかもしれない。 「でも心配ありませんよ。シェドさんには、ミレーヌさんとは別に首っ丈の女の子が居ますから」 「何っ! ホ、ホントか? よし。自分で言うのも何だが、最近ちょっとばかりミレーヌちゃんと良い感じになってきたし、シェドに振られて傷心のところにつけ込めば、結構良い線行けるんじゃねぇか?」 何やら画策している様子のスラッシュだが、もしかしたらそれは戦場へ赴くシルヴァランスの緊張をほぐそうという演技なのかもしれない。ミレーヌ同様、スラッシュには周囲の人間を和ませるような独特の雰囲気があった。もしかしたらただの天然なのかもしれないが。 他愛もない会話を続けている間にも飛空器は高速で飛翔し、そして遂に、暗雲が立ちこめる遙か上空に浮かぶ要塞が視界に入ってきた。 ヴィクトリアから聞いていたとおり、まさに空に浮かぶ城。 あれがヴァルハラと呼ばれるニーヴルの本拠地であり、アリアを始めとする天使達が囚われている場所だろう。 「すっげーな、どんな魔法使ってあんな高い場所に浮いていられるんだろうな」 「周囲にアイザックさん達の姿が見えません。もしかしたら突入は無理だと判断して一度帰還したのでしょうか?」 「並のワイバーンやペガサスじゃあ、あの高さはどう足掻いても無理だろうな」 セイクリッド・スピアを含む先発隊や、ペガサスに乗っていった後発隊の姿は見えない。代わりに視界を埋め尽くすのは、数え切れないほどの魔物達。 「何だ、あの魔物の群れは! こんなところで飛空器が故障したらシャレにならねーな」 アイザック達のことも気がかりだが、優先すべき事は世界崩壊を止めること。 「相手にしている時間はありません。一気にヴァルハラまで上昇しましょう! 行けますか?」 「ああ、飛空器の調子はバッチリだ。後はシルヴァランスがウインドジェムで援護してくれりゃあ、あんくらいの高さ、屁でもねぇっ!」 単独でのヴァルハラ突入は、言ってしまえば無謀でしかない。世界を救うには、シルヴァランスの力はあまりにちっぽけで、簡単に折れてしまいそうだから。 それでも今は進むしかない。柳に風だと変わっていても、退けないときがある。 どんなに劣勢だろうと、負ける気も、当然死ぬ気などサラサラない。絶対に生きて帰ると約束した人が、シルヴァランスの無事を祈って待っていてくれているのだから。 遙か上空に見える敵の本拠地を目指し、シルヴァランスは飛空器の内部でウインドジェムを輝かせた。 |
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