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第五章 少年は少女のもとを去る

 色々ありすぎて疲れたのか、気が付いた時はすでに太陽が東の空に昇っていた。すでに朝食の準備を終えていなければならない時間だ。
「やべ、寝過ぎたか……」
 体のあちこちがキシキシと痛む。筋肉痛を通り越して関節痛にまで発展しているようだ。まあ、最近運動不足気味だったしな。
 翔は制服に着替え、エプロンを纏いながらキッチンへ移動する。すると、すでにエリカさんとユリカちゃんが朝食の準備を進めているらしく、コトコトと小気味よい音と美味しそうな匂いが翔の聴覚と嗅覚をくすぐった。
「おはようございます。すいません、少し寝坊してしまいました」
「あらテンチさん、おはようございます。……昨日の今日ですし、もう少しゆっくりなされても結構でしたのに」
「おっはよー、カケルにーちゃん。ご飯はユーちゃん達が作るから、カケルにーちゃんは椅子に座って待っててっ」
「……ありがとう」
 笑顔で挨拶してくれた二人に笑顔で応じ、翔はダイニングの食卓に着いた。しかし少し考えた後立ち上がり、「フリルを呼んできます」と言い残してダイニングを出た。すでに二人が食器を並べ始めていたから、直に出来るだろうと思ったからだ。
 二階に移動し、フリルの部屋の扉をコンコンとノックする。しかし、すぐに返事はなかった。
「フリル? おーい、朝飯だぞー」
 反応がないので呼びかけてみたが、やはり返事はない。
(ま、まさか、昨日何処かやられて苦しんでるんじゃ……)
 いつもならノックしてすぐに怒ったような表情で顔を出す奴だ。これだけ待って出てこないのはおかしい。昨日、翔が見ていた限り外傷を負った様子はなかったが、もしかしたらあの雷撃を防いでいた時に何処かやられたんじゃ、と不安が脳裏をよぎる。
「フリルッ!」
 がしゃっと、翔はフリルの部屋へ押し入った。部屋に鍵は掛かっておらず、簡単に開くことができた。そして翔の視界に映ったのは――
「…………」
 フリルの、あられもない下着姿だった。
 レースの着いた白いパンツの上に、薄いピンクのキャミソール。たったそれだけを身につけており、白くてきめ細かな肌が惜しげもなく露出していた。
「あ……、いや……、その……」
 何度か風呂を焚いている時にフリルの裸体を見た覚えがある。しかしそれは半分以上湯気に邪魔され、またその後飛んでくる魔法を受けて記憶も吹っ飛んでしまうため、鮮明な映像として脳には記憶されていない。だから、決してこういう状況に慣れているわけではない。
(うわ、……来る)
 凄まじい見幕で極大の魔法がぶっ飛んでくると確信し、翔は後ろ足を一歩退く。やばい、エリカさんが結界魔法を張ってくれないと、建物の一部が破壊されてしまう。
 ゴクリと、翔が唾を飲む音が廊下に響く。しかし、何時になってもフリルの両手から紅蓮の業火が舞い上がることはなかった。代わりに、
「……もう少し待って。着替えたら、行くから」
 と、フリルはしおらしく頬を赤らめ、制服をキュッと抱き寄せて体を隠しながら上目遣いに翔を見つめた。
「……ん、あ、ああ……」
 翔はバクバクと五月蠅い心臓を律し、何とが自我を維持してフリルの部屋のドアを閉める。やばい、何かやばい。
 しばらく部屋の前で佇んだ後、翔はそっとダイニングへ歩み出した。まだ動悸が収まらない。顔が熱く、呼吸のテンポも速い。
(な、何だ? アイツ、熱でもあるんじゃねーか?)
 普段なら間違いなく炎が飛んでくるところだ。しかし今日に限ってそれはなく、しかも何か様子がおかしい。確かにいつもより五分ほど早く呼びに来たわけだが、だったらノックした時に何らかのレスを返すはずだろうに。
 翔がダイニングに戻ると、すでに朝食の用意が終わっており、エリカさんとユリカちゃんが翔達を待っていた。
 遅れながらフリルが登場し、朝食が静かに進む。フリルは終始無言で、「ご馳走様」の一言と共に音もなく食卓を去っていった。やっぱり、何か様子がおかしい。
 その後翔は洗濯を終え、玄関で待ってるフリルの鞄を無言で奪ってフリル邸を後にした。フリルの家の使用人になって以来当たり前となっている二人での登校中も、フリルは俯いたまま静かだった。
(何だよ、今日はやけに……可愛いじゃねぇか……)
 思わずこっちが赤面してしまいそうなので、翔は視線を泳がせて周囲の人間を見つめる。昨日の今日、生徒達の視線は完全に翔が独占だ。まったく、この世界に来てから芸能人ばりの人気者だ。
「おはよう、カケル君」
「ん。……おっす」
 広場のところで、寮組、つまりヴァイルとグラッティに遭遇する。今日はその数メートル後方に、シェミニの姿もあった。
「何か、カケル君すごく注目されてるよな」
 ヴァイルが周囲をキョロキョロしながら楽しげにつぶやく。他人事だと思いやがって。
「そりゃあ昨日の活躍がすごかったからね」
「そうよそうよん。もう、女の子ならキューンってなっちゃうくらい、すっごく格好良かったわよんっ」
 シェミニが両手を頬に添えてキュンキュンと腰を振る。やっぱり朝からテンション高い。
 足を止めてグダグダと話し込んでいると、隣に立っていたフリルがおもむろに口を開いた。
「ちょっとカケル。こんな所で無駄話してないで、さっさと教室行くわよ」
 フリルはそう言ってプイッとそっぽ向くと、翔の反応を待たず校舎へ歩き出した。
(え……? 今、何て言った?)
 聞き違いでなければ、今フリルは翔のことを名前で呼んだ。今まで、痴漢変態あんた以外に呼称された覚えがないため、突然のことで反応が遅れる。その間にフリルの背中はどんどん小さくなっていった。
「あれ?」
 ヴァイルが小首を傾げ、頭の上に疑問符を浮かべた。
「何か、今、変な感じがしたんんだけど」
「ヴァイルも? ……実は僕も、違和感っていうか、何か気になったんだ」
 グラッティがヴァイルと一緒になって考え込む。どうやらこいつらも気付いたようだ。
「……俺、先行くから」
「うにゅーん」
 二人を放っておき、翔が駆け出すと、シェミニが変な声で応じた。翔はそれを無視し、昇降口に消えたフリルを追う。
 教室に入った後も、翔はクラスの注目を一身に浴びていた。普段ならフリルが浴びるべき視線を独占状態。
(もしかしてフリルの態度が変なのはこれのせいか……?)
 翔が自分以上に目立っていることが気に入らない。そう、きっとそうだ。何せ数学のテストで負けたからという理由で武術大会に半ば強制的に参加させ、色々裏工作して直接翔をぶち倒そうとする女だ。翔が注目されることを快く思っているはずがない。
 遅れながら教室にやってきたヴァイル達、先に登校していたハルルが翔の机付近に終結して雑談してる最中も、翔はしばしばフリルの様子を窺う。
 頬杖をつき、何処か遠い目で窓の外を見つめるフリル。愁いを帯びた表情は、童顔で愛らしい少女のそれに遠く、少し大人びた空気を漂わせていた。
「うーん、何だろう。何か引っかかってるんだけど」
「僕も。すごく単純なことのような気がするんだけどね」
 相変わらず男二人が唸っている。そんな悩むほどのものじゃないんだが、まあ、言うのも馬鹿らしいので放っておく。
「下手の考え休むに似たり」
「ハルル、何それ?」
「馬鹿が考えても無駄ってこと」
「うわ、ひどいよハルル! いっとくけど、僕は一度も赤点取ったことないんだよ!」
「……ぼ、僕はあるけどな」
 朝っぱらからやかましい連中。というか、赤点無いことを得意げに言うなグラッティ。ヴァイルは、むしろ開き直ってみろ。
「ヴァイルゥ、もぉし勉強しててわからないところがあったらぁ、私が懇切丁寧に教えてア・ゲ・ルわよん?」
 突然、シェミニが甘ったるい声を漏らしながらアク無く整った顔をヴァイルに近づける。あの顔は、絶対何か企んでる。
「んなっ……」
「私の部屋でぇ、二人っきりでぇ、深夜に、ね? どう?」
 ヴァイルが耳まで真っ赤にしながら後ずさる。グラッティも目をパチパチさせながら頬を赤らめていた。あそこまで真に受けてくれると、からかう方もからかい甲斐があるだろうに。
「へ、変なこと言うなよ! 何で僕がシェミニに勉強見て貰わなきゃいけないんだ!」
「あららん、別にぃ、学校の勉強以外でもいいのよん? 例えばぁ、女の子の勉強とか。クシシッ!」
(最後の笑い方はマイナスだろ……)
 ヴァイルの奴はもう失神しそうに真っ赤だ。以前寮で言い争っていた時の話を完全に忘れている様子。おい、ヴァイル、そのままシェミニの口車に乗ったら確実に最後の最後で捨てられるぞ。
「く、くそっ」
 ヴァイルは無理に悪態をつきながら一限目の教科書を取り出して視線を落とす。グラッティも無言でその場を去っていき、シェミニがカラカラと笑いながらハルルを連れて席に戻っていった。
 結局、男二人は違和感の正体に気付かなかったようだ。まあ、どうせいずれ気付くだろうが。
 ルーレシア先生がやってきて朝のSTが始まる。そのまま一限目が数学であるため授業に移行し、翔は何が書いてあるかわからない教科書を開く。
 リンドブール語の文法構造は英語に近いような感じであるため、一文字読めてもそれが単語などで繋がった時に発音が変わる。食材や料理に関する単語だけは何とか読み書きできるようになったが、教科書に載っているような言葉はチンプンカンプンだ。
(どうせやってる内容は中学一年レベル。まあ、聞いて無くてもいいか……)
 いつものごとく、翔は呆然と物憂げな表情で黒板を見つめる。
 時折、フリルの横顔を確認しながら。

* * *

 この世界に存在する三つの大陸。その一つ、ハルモニカ大陸にある宗教国家スペルゴッドの首都北西に、深い森が広がっていた。様々な背の木々が所狭しと繁茂し、大地は枯れ木や草葉で覆われている。
 そんな森の片隅にひっそりと佇む一体の石像。時を感じさせるヒビの入った等身大の人間を模した石像は、剣を握る騎士の姿をしていた。
「……アーリア様、お時間です」
 石像の手前、大地に膝をつけ、両手を胸の前で組んで祈りのポーズを取っていた少女。年の頃は十二、三で、桜色の髪を金の髪飾りで結い、肌は透き通るほど白い。
「はい」
 アーリアと呼ばれた少女は、閉じていた瞳をゆっくり開き、銀色の瞳で石像を見上げる。その表情は何処か悲しみを帯びていた。
 すっくと立ち上がり、アーリアは後方で待機していた数人の武装した兵士達へ歩み寄る。そして後ろ髪を引かれるように一度石像を振り返った後、兵士達に連れられその場を去っていった。
「……聖書に記される《異世界の焔》を模した像……か……。フン」
 石像の前に一人残った初老の男。大地を覆う枯れた葉に似た髪は白髪交じりで、頬には深い傷がある。えんじ色の瞳で睨め付けるよう像を見つめ、男は再度、嘲笑うかのように鼻を鳴らした。
 男は懐から無色透明のキューブを取り出し、何やら呪文を唱える。すると、キューブが淡いグリーンに変わった。そして男が嗄れた声でキューブに語り出す。
「……失敗に終わったそうだな」
 抑揚無く男が言うと、キューブが青色に染まり、
『はい。申し訳ありません』
 と、キューブから別の男の声が響いた。
「私も《異世界の焔》などという存在を軽視していた。よもや、予測不能な力を発揮するとは、な……」
『どうなさいます? 国王はすでに王都に戻ってしまいました。神槍を入手するのはもはや不可能。……私も一度本国へ帰還しましょうか?』
「……いや、その前にもう一つの任務を全うしろ」
『私だけで、《異世界の焔》を捕らえろ、と?』
「ああ。巫女アーリアがそれを所望だ。フン、まだ今は小娘の思い通りにさせておくしかあるまい」
『そうですね、媚びを売っておく必要があります』
 キューブの向こうから男の堪えた笑い声が響く。その場に佇む男も、少し口角をつり上げて闇を含んだ笑みを浮かべた。
『わかりました。善処してみますよ、司祭』
「頼んだぞ」
 キューブの輝きが失せ、男はそれを懐にしまう。男は体を半分翻し、石像を一瞥して鼻を鳴らした後、その場を去っていった。

* * *

「は……? え……?」
 昼休みの食堂。翔は自分でもアホだと思うくらい間の抜けた声をもらした。
「何度も言わせないで」
 目の前、フリルがサンドイッチを頬張りながら苛立った様子でつぶやく。テーブルの上には、数学の教科書とノートが開かれていた。フリルのノートに記されている文字は、意外と可愛らしい丸文字だった。もちろん何が書いてあるかはわからないが。
「な、何で俺が?」
 そのまま冷凍保存されてしまいそうなところを何とか自力で解凍し、驚きを押し隠して強気に尋ね返す。するとフリルは鬱陶しそうに上目遣いで翔を睨んだ。
「カケルはあたしの召使いでしょうが! あたしが教えてって言ってるんだから、さっさと教えなさいよ!」
「教えるたって、俺は教科書に何書いてあるかわかんねーんだぞ? 数字だけなら読み取れるけど、そんなんでどれをどう教えろってんだ」
 あくまで強気に言い放つ。昼休みにいつものごとく食堂へ行き、二人分の食事を持ってテーブルに戻ってくると、フリルが教科書、ノートと睨めっこしながら唸っていたのだ。
「ああ、もう! だから午前の授業でやったここよ!」
 フリルが癇癪を起こしながら教科書の一点を指さす。全くもって何が書いてあるかわからん。
 当然ながら、昼時の食堂は大混雑している。そんな中、学園一の美少女と謳われるフリルと、謎の転校生改め黒髪のヒーローこと翔が一緒になって騒いでいるのだ。周囲の視線は二人に集中している。少し、恥ずかしい。
(何だよ、今まで一度も勉強教えろなんて言い出さなかったくせに。……そんなに前の数学テストで負けたのが悔しかったのか?)
 こいつの負けず嫌いも相当のものだ。しかしここで教えるのを拒んだりしたら、後々もっと悲惨なことになるだろう。何と言っても、もうルーレシア先生に貰ったネックレスは使ってしまったのだから。
「わかった、教えるから睨むな」
 翔は嘆息しながら教科書を見つめる。書いてある文字はサッパリだが、数字くらいは読み取れる。どうやら因数分解の説明らしい。
「因数分解か。……で? どの問題がわかんねーんだ?」
「ここよ、ここ。この問題、公式当てはめたって解けないんだもん」
 フリルがページをめくって章末問題をペン先でつっつく。どうやら自主的に問題を先取りして解いているようだ。意外と勤勉家だったりするのかもしれない。いや、成績のためか。
「んー……。ああ、たすき掛けの問題か」
「タスキガケ……?」
「どうせどっかにやり方載ってるだろ」
 そう言いながらペラペラと教科書をめくる。因数分解の解法として有名なたすき掛けくらい、絶対載ってるに決まってる。
 が、しかし、翔はリンドブール語が読めないことを思い出す。数式は理解できても、説明文などは理解不能だ。何処に何が書いてあるかわかる由もない。
「……読めないのね」
「う……」
 フリルの鋭い視線。何故かすごくみっともない気持ちになる。
「要らない紙と、ペンを一本貸せ」
「む。何よ御主人様に向かってその言い方」
「いいから」
 ブツブツ言うフリルから紙とペンを受け取り、翔は席を立ってフリルの隣に腰を下ろした。向かい合って座っていたら、説明しづらいことこの上ないから。
「――っ!?」
 一瞬、ピクッとフリルの肩が震える。気にしなければ気にならない程度のものだ。
「いいか、まずそれぞれの係数に注目してだな」
「…………うん」
「二次の係数と、定数をそれぞれ二つの数字の積に分離して……」
「………………うん」
「それをクロスさせるよう掛けてその和が一次の係数になるようにうまく数字を決める」
「……………………」
「おい、聞いてるのか?」
 ふと反応が途切れたことを怪訝に思って顔を持ち上げると、フリルはペン先ではなく翔の顔をジッと見つめていた。翔と目があった瞬間、フリルはハッとした様子で俯き、少し頬を赤らめた。
(な、何だ? やっぱ熱でもあるんじゃねーか?)
 今日のフリルはおかしい。本当に数学のテストで負けたことを根に持ってるのだろうか、それとも昨日のアレが尾を引いており、まだ内に恐怖心が残っていて落ち着かないのだろうか。
 確かにどんなに強かろうとフリルだってまだ年端もいかない少女であることに変わりはない。案外、脆い部分もありそうだしな。
「ったく、お前が教えろっつーから教えてんだぞ? 聞く気がないなら飯喰わせろ」
「き、聞く気がないなんて言ってないでしょ! ちゃ、ちゃんと聞くからもう一度説明しなさい!」
「……へいへい」
「返事は、はい、でしょう!」
(全然元気じゃねーか)
 翔はこの世界に来て以来癖になりつつあるため息をもらす。心配して損した。
 結局昼休みの間ずっと、翔とフリルは食堂で時折口げんかを交えつつ数学の問題と向かい合っていた。
 フリルは何処か上の空で、何処かよそよそしくて、何処か恥ずかしそうだった。全くもって意味不明。やっぱ、今日のこいつは変だ。

* * *

 結局その日一日フリルの様子はおかしかった。いきなり黙り込んで物静かになったかと思いきや、次の瞬間にはいつも通りの罵声を飛ばして翔を睨め付ける。そして睨み返すためにジッとその蒼い瞳を見つめ返すと、今度は途端に俯いてそっぽ向く。意味不明だ。
(ったく、一体何だ? 変なもん喰わせた覚えはねーんだが)
 他事を考えながらも、翔はせっせと手を動かす。コンコンと包丁がまな板に当たる軽快な音がリズムを刻み、鍋はグツグツと食材が煮たる音を立てている。今日は肉じゃが。この世界には醤油やみりん、鰹節だって何でもある。便利さこの上ない。
「テンチさん、鍋が吹いてますよ」
「おっと……」
 エリカさんの言葉にハッとして、鍋をかまどの端に寄せる。使い慣れた元居た世界のガスコンロが恋しいが、無い物ねだりしても仕方ない。
「おねーちゃん、翔にーちゃん、お掃除おわったでーす!」
 元気よくキッチンに入ってきたユリカちゃんがクンクンと臭いをかぐ動作をしながらふらふらと翔の元に近寄ってきた。
「今日はお肉ですっ♪」
「はは、もう少し待ってろよ。せめてあと五分は煮込まないとな。……ユリカちゃん、その間に食器並べておいてくれるか?」
「はいです! 任せるでーす!」
 ピッと片手をあげて応じたユリカちゃんがせっせと食卓の準備を始める。隣でサラダを準備してたエリカさんも加わり、あっという間に夕食の準備が整う。
「さて、じゃあフリルを呼んできてくれ。後はこれをよそうだけだから」
「……いえ、そちらはわたくしがしますから、テンチさんがお嬢様にお声をかけていらして下さい」
 肉じゃがの入った鍋を食卓に運び、置き板の上に乗せてうつわに分けようとした時、お玉を横から奪われ、エリカさんが悪戯っぽく微笑みながらそう言った。初めてここに来た時もそうだが、エリカさんってかなり不思議な存在だ。ほんわかしていて、実はあれこれ色々裏でやっていそうな感じがする。
「は、はあ……。じゃあ呼んできます」
 歯切れ悪くダイニングを後にして、階段を上る。二階にあるフリルの自室前に立ち、一度深呼吸してから、
「フリル、夕飯の準備できたぞー」
 と、若干強ばった口調で扉越しに呼びかけた。
(何だ、何で俺は緊張してんだ?)
 今朝のことが尾を引いてるせいか、やはり少し気まずい空気がある。流石にもう、勝手にドアを開ける勇気はない。
 しばらく廊下に立ち尽くしていると、おもむろにギィッと扉が開いてフリルが普段着で顔を出した。普段着と言っても、まるでイブニングドレスのみたいな豪奢な装飾が施され、フリルやレースをふんだんにあしらったものなのだが、まあ、一応貴族らしいから。
 だが今日はいつもと様子が違った。普段ならストレートに流している長い金髪を、今日は後頭部で結い上げていた。何というか、これから舞踏会にでも行きそうなくらいちゃんとした格好だ。
「……何よ、ジロジロ厭らしい目で見ないで」
「あ、ああ……。……さ、冷めちまうからさっさと夕飯にするぞ」
 面と向かってフリルを正視できず、翔は後頭部を掻きながらフリルに背を向けて歩き出す。いつにもましてフリルが可愛く見えた。まずいな、馬鹿の度合いが加速してる。
(誰か来る……なんて聞いてないし、何であんな格好してんだよ)
 廊下を歩いている時、フリルは静かに翔の後を付いてきた。ドレスの生地が擦れ合う何とも言えない音を響かせ、それを聞いた翔の顔が若干汗ばむ。
 何故こんなに緊張してるか自分でも理解できない。ただ言えるとのは、今日のフリルがおかしいということと、困惑する理由がそこにあること。確かにフリルは認めたくないがパーフェクト美少女だ。しかしそれは容姿の点のみであり、性格を伴っていない。だが、今日のフリルは――
「…………」
 チラッと、首を捻って翔の後を付いて歩くフリルを見つめた。フリルは俯き加減に顔を下げ、愁いを帯びた表情で足下を身ながら歩いていた。
(くそ、何だよ……)
 今日のフリルは普段の覇気や傲慢さが微塵もない。鈴蘭のように純白で、何処か儚さを纏っている。何というか、護ってあげたくなるタイプだ。翔よりよっぽど強いくせしてそんなしおらしくするなんて、反則だ。
 そんなことを考えながら階段を下りてる時、不意に突風が巻き起こって翔の黒髪を揺らした。後方で、フリルが「きゃっ」と可愛らしい悲鳴を上げる。お前、フリルじゃないだろ、と翔は心底思ってしまう。
 だが、そんな思いも一瞬にして翔の頭から消え去ってしまった。何故なら、階段を下った先、玄関のところに見知った人影が立っていたからだ。しかも、明らかに好戦的なオーラを発しながら。
「こんばんは。夜分、恐れ入ります」
「……あ」
 フリルも人影に気付いたらしく、小さく声を漏らした。フリルの炎みたく赤い髪を左手で流しながら、金色の瞳で翔に微笑を送る三十前後の男。
「アッシュ先生……。どうしたんですか? こんな夜遅くに……」
 フリルがパタパタと階段を下ってアッシュの元へ駆け寄ろうとする。翔は直感的に嫌な気配を感じ、気付いたらフリルの肩を掴んでいた。
「な、何すんのよ!」
「……近づくな」
「はぁ? ……何言ってるの? アッシュ先生よ、カケルだって知ってるでしょ?」
「…………」
 怪訝そうに翔を見つめるフリルを無視し、翔は黙ってアッシュを睨め付ける。確かに表面上友好的な笑みを浮かべているが、その裏に言葉では言い表せないような黒い影が渦巻いているような気がした。
「先生、こんな時間に一体何のようですか?」
 動揺を表に出さぬよう気をつけながら、翔は強気にアッシュに尋ねた。生徒の教師に対する態度にはほど遠かったが、今はそんなことどうでもいい。
 そんな、明らかに警戒している空気を全身から発している翔に、アッシュはやれやれと肩を竦めてみせる。しかし表情は依然、笑顔のままだ。
「妙に勘が鋭いんですね。流石は《異世界の焔》というわけですか?」
「……なに?」
「ふふふ。――ハッ!」
 アッシュが左手を掲げ、パチンと指を鳴らした。途端、奇妙な感覚が全身を包み込み、それはアッシュを中心に屋敷全体に広がっていった。
(ま、魔法……?)
 空気が急に重苦しくなり、何もしてないのに呼吸のテンポが上がる。重力が増した錯覚を覚え、肺が萎縮しているような気がした。
 それはエリカさんがフリルの魔法で屋敷が壊れないように張る結界魔法に似ていた。周囲全体を包むタイプの魔法。しかし、エリカさんのそれと決定的に違うのは不快感だ。
「ア、アッシュ先生……。な、なにを……」
「フリル……?」
 翔が振り返ると、フリルが階段の手すりに身を傾けて苦しそうに表情を歪めていた。額に真珠のような汗を滲ませ、肩で息をつきながら力なくアッシュを見つめている。
「先生、フリルに何をしたっ!」
「ほう。特殊封魔結界の中で全く影響を受けないとは。……これはこれは。ふふふ」
「……封魔?」
「そうです。この結界内では体内の魔力が結晶化し、血中マナが極端に増加します。人間多かれ少なかれ魔力を持っていますからね、この結界内では吐き気や頭痛をもよおすものですよ」
 翔はアッシュの得意げな説明を聞きながら、フリルに肩を貸す。フリルは苦しそうに重い呼吸を繰り返しながら、恐怖に歪む表情で翔を見つめた。
「……なら何故先生は平気なんですか?」
「私は術者ですからね。自分にまで害を及ばす魔法を使うほど馬鹿じゃありませんよ」
 クスクスと堪え笑いをしながら、アッシュは右手に持つ木の杖を前面に押し出した。どうやら今度は攻撃魔法でも繰り出すようだ。
「はあっ、はあっ……」
「大丈夫か、フリル」
「だ、大丈夫に、き、決まってる……でしょ!」
 フリルが片目を閉じたまま翔の肩を押し飛ばす。そしてそのままアッシュと対峙し、両手をアッシュへかざした。
「おや、ラファードさんも頑張りますね。……では、特別授業を始めるとしましょうか」
 アッシュが呪文の詠唱を始める。杖の先端が眩く輝き、周囲の気温は一気に低下していった。
「行きますよ?」
 杖の先端から凍てつく冷気が放たれ、真正面からフリルに迫る。翔はとっさに飛び出してフリルを庇おうとするが、それよりも早くフリルの呪文の詠唱が終わっていた。
「はああああっ!」
 紅蓮の業火が凄まじい爆風を発生させながらフリルの両手より放たれる。その威力に思わず翔は両手をクロスさせながら顔面を覆った。
 直後、炎と冷気が激しくぶつかり合い、真っ白な蒸気を生じながら凄まじいエネルギー昇華が起こる。そして――
「きゃあああっ!」
 フリルの悲痛な叫びが耳に届き、続いて床にたたき付けられるフリルの姿が網膜に焼き付いた。
「フリルッ!」
「いやはや、結界内でこれほどの威力を発揮できるとは。さすがラファードさんですね。まったく、末恐ろしいことで」
 アッシュはあくまで余裕の態度を崩さない。
(こいつ――っ!)
 ぐったりと床に倒れ伏せ、苦しそうに喘ぐフリルの様子を見て頭に血が上る。翔は階段の陰にユリカちゃんが置き忘れたモップを見つけ、とっさにそれを掴んでアッシュを睨め付けた。
「昨日とは違い、今日はあなたがメインですからね。ククク……」
「なん……だと? ――ま、まさか、昨日学園を襲った連中は……」
「そういうことになりますね。……まあ、君のせいで辛くも失敗に終わったわけですが」
 アッシュは肩を竦めて困ったように眉を顰めて見せた。しかし口元には以前笑みが含まれている。こいつ、マジで頭に来る。
「テメェ……!」
「大人しく教室で待っていてくれればよかったんですけど、まあ、過ぎたことをあれこれ言っても仕方ないですか」
「……俺が助けに行かなければ、フリルは……」
「ええ、もちろん殺されていたでしょうね。そういう作戦でしたし、国王が親族を捕られたぐらいで簡単に要求を呑むとは思ってませんでしたから」
「――っ!」
 ついに堪えきれず、翔はモップを両手でグッと強く握りながらアッシュに飛びかかった。全力で一気に間合いを詰め、そのトチ狂った言葉を吐く喉元目掛けてモップを突き立てる。
「はあああああっ!」
「……ふふ、かかりましたね」
「な、……に……? ――ぐっ!」
 あと一歩でアッシュの喉をモップで貫ける距離、突然翔の全身が鉛のように重くなり、翔は表情を歪めて動かなくなった。いや、動けなくなった。
(な、なんだ……)
 モップを突き出したままの姿勢で完全に固まってしまった体。どんなに力を入れようとも、ウンともスンともいかない。もはや押すのも引くのも無理だった。
「ぐ……、ま、魔法……か……?」
 辛うじて首を持ち上げ、ギリッと歯を食いしばりながらアッシュを睨む。
「そう。防御系の最強魔法です。……とは言っても効果範囲が極端に狭いのが難点ですが」
 まるで手ぐすね引いて待っていた獲物がまんまと罠にかかったかのように、アッシュは気味悪い笑みを浮かべて白い歯を覗かせる。憎らしい笑みがすぐ目の前にあるのに、今の翔にはどうすることもできなかった。
「君はまだまだ謎が多いからね、この絶対領域魔法が効くかどうか内心ヒヤヒヤしていましたよ。でも、特殊封魔結界は効きませんでしたが、こっちはちゃんと効いてくれてよかったです」
(く、くそ……)
 魔法を詠唱するような仕草は微塵もなかった。つまり、アッシュは初めからこの妙な防御魔法を張っていたことになる。最初から、翔に先手を打たせるつもりだったようだ。
「……カ、カケル……。くぅ……」
「フリル? ば、馬鹿、大人しくしてろっ」
 翔がアッシュの前に手も足も出ないで居ると、後方で倒れていたフリルが苦痛に顔を歪めながら何とか体を持ち上げた。
 翔の制止も聞かず、フリルは唇をキュッと噛みしめながら両手をアッシュへかざし、小さな声で魔法を紡いでいく。
「カケル君の言うとおりですよ? 今日はあなたの命を奪うつもりはありません。大人しく寝ていなさい」
「……い、いやよ……。カ、カケルは、カケルはあたしの召使いなんだからっ」
(フリル……)
 動けと何度命じようが、翔の体は微動だにしない。今まで散々意味不明な力が作用して超常的なことが起こってるんだから、今回だって何か起こってもいいはずだろうに。
 フリルの両手が紅蓮に染まる。それが放たれてアッシュに向かうかと思われた次の瞬間、フリルの両手に集っていた魔力が霧散してフリルがガクッと膝をついた。
「フ、フリルッ!」
「か……、はあっ……、あ、ぐぅ……」
 フリルの口から漏れる嗚咽はとても苦しそうだった。額は汗でびっしょり濡れており、いつの間にか髪飾りも外れて結われていた髪が乱れている。
「言ったでしょう? 封魔結界内では体内の魔力が結晶化し、血中のマナが高まっている、と。そんな状態で魔法を使おうとすれば、結晶化した魔力が体の内部から術者を崩していくことぐらい、初等部の魔学で習ってるはずですよ?」
「テ、テメェ……、許さねぇっ!」
「ククク、威勢だけは衰えませんね」
 アッシュの言うとおり、いくら言葉上強がって見せても今のは負け犬の遠吠えに他ならない。身動き一つ取れない翔は、無様で無力で役立たずだ。
 フリルはあの華奢な体を必死に起こそうと頑張っている。封魔結界とかいう結界のせいで翔以上に辛い状態なのかもしれないにも関わらず、その眼光は決して衰えていない。
(くそ、動け! 動けよ!)
 どんなに足掻こうとも、体はピクリともしない。藻掻き苦しむ翔の表情を、アッシュは楽しげに見つめていた。追撃するわけでもなく、ただ、見下していた。
 これが結末なのだろうか。アッシュに殺されるか、または拘束されてお仕舞いなのだろうか。フリルの目の前で、情けなくうち拉がれることになるのか。
(そんなの、くそ喰らえだ!)
 今まで駄目だと思った直後に意味不明な力が働いて窮地を脱してきた。この世界には元居た世界にない理屈があるんだ。その理屈が働けば、きっと何とかなる。
(奇蹟でも何でもいい! どうにか、どうにかしろよっ!)
 噛みしめた唇から血がしたたり落ちる。どれだけ待とうとも奇蹟は起きない。誰が助けにくる気配もない。
「さて、戯れの時間はそろそろ終わりです。本国に連れていくため、しばらく寝ていてもらしましょうか」
 アッシュが杖の先を翔へ向ける。
(動け、動け、動けぇぇっ!)
 翔の願いも虚しく、体は決して言うことを聞かない。すぐ目の前でアッシュが呪文の詠唱に入り、その憎らしい笑顔が一層憎悪をかき立てる。
「ヒーローごっこはこれまでです」
「カ、カケル――ッ!」
「くそぉぉぉっ!」
 最後の咆吼。その瞬間――
「っ!?」
 世界が揺らいだ。これがアッシュの魔法か、意識が朦朧としていく。
 体が沈む感覚。魂が体から離脱する錯覚。自分という存在がぶれていく違和感。
(な、なんだ……)
 無が迫る。いや、光に包まれる。
 言葉では表現できない感覚、いや、五感で感じる感覚とは違い、言葉で表現するのは不可能だった。
 意識をつなぐ最後の結線が切れる音。そして――
(フ……リ……ル……)
 翔の意識は完全に途切れた。

* * *

「やりました、成功ですぅ! 実行結果レポートにもフェイタルエラーはなし!」
 漆黒の空間。仄かな輝きを帯びたブルーラインが床を埋め尽くす場所で、銀髪の少女がピョンコピョンコと飛び跳ねていた。
 頭上の輪っかが感情を表すかのように燦々と輝き、純白の翼がバサバサと忙しなく羽ばたいている。
「……でもまだ記憶の補完や矛盾制御、オーバーライドされた情報の復元などなど仕事は盛り沢山なのですぅ、ふはぁ〜」
 がっくりと肩を落とす少女。しかしものの三秒で立ち直り、グッと拳を握りしめ、
「でもでも! ここで終わったら画竜点睛。仕事は最後まできっちりこなすです!」
 と、誰もいない空間で一人、高らかと宣言した。

* * *

「……ん」
 光。カーテンの合間から注ぐ眩しい朝日に、翔は表情を歪めた。
 そっと瞳を開くと、見慣れた白い天井がぼんやりと見える。窓の外からは子供達の笑い声、車のタイヤとアスファルトが擦れ合う音が響いてくる。
「……んあ……。ふああああ……」
 大きく伸びをしながら欠伸をつき、後頭部をボリボリと掻きながら上半身を起こすと、ちらかった自室が嫌でも目に付く。そう言えば、最近掃除してなかったな。
 壁に貼ったグラビアポスターは先月の中頃にクラスメイトが勝手に張ったものだ。その隣にかかる壁掛け時計は、七時三分を刻んでいた。
 上半身を起こした状態でしばらく呆然と部屋を見渡す翔。ここは間違いなく翔の部屋だが、何とも言えない違和感があった。
(……あ? 何で、俺はここに居るんだ?)
 自室に居ることに疑問を抱くなど初めてだった。しかし、どうしても何か腑に落ちない点がある。いや、腑に落ちないなどというレベルではなく、根本的に何か重大なことを忘れている。
「……っつ!」
 急に頭痛が走り、翔は思わず表情を歪めて右手を額に当てた。気が付けば、額は汗でぐっしょり濡れていた。いや、額だけじゃない。背中など、パジャマが絞れそうなくらいに汗ばんでいる。
(何だ、俺、一体どうしたんだ……)
 考える。ひたすらに、頭の何処かに引っかかってる何かを引っ張り出そうと唸る。
 脳裏に、金色の糸が浮かぶ。脳裏に、蒼天の宝玉が浮かぶ。脳裏に金髪碧眼の美少女が苦しげに顔を歪める映像が――
「フリルッ!」
 ガバッと翔はベッドを飛び出し、わけもわからぬままカーテンをバッと引いて窓を開けた。太陽光に眉を顰めながら外の様子を窺うと、そこは見慣れた街並みが青空の下に広がっていた。見慣れているはずなのに、何処か懐かしく心がザワザワと波打つ。
「え……? あ……?」
 動悸が収まらない。遠くから聞こえる列車が架橋を渡る音が静かな部屋を包み、そこはかとない違和感が翔の全身を包み込む。
「俺は……? ――ぐっ!」
 再び激しい頭痛。頭を抱えたまま床に膝をつき、吐き気を堪えてうずくまっていると、不意に部屋のドアが開いた。
「お、お兄ちゃん! どうしたの!」
「……うぐ、百合……か?」
 隣の部屋で兄の呻き声が聞こえたせいか、様子を見に来たのは妹の百合だった。百合はパジャマ姿のまま翔に駆け寄り、心配そうに眉を顰めた。
「だ、大丈夫。ちょっと悪い夢見ただけだから……」
「そうなの?」
「ああ。……化け物に捕まって喰われそうだった」
「あ、あう。そ、それは怖い……かも」
 ズキズキと繰り返し疼く痛みに歪みそうな表情を堪え、必死に笑顔を装う。百合に心配をかけるわけにもいかないだろう。
 無理矢理笑顔を貼り付け、翔は年の離れた百合の小さな頭をぐりぐりと撫でる。寝起きであちこち妙な寝癖がついているおかっぱ頭を、優しく、強く撫でる。
「……さて、一階に行こうか。さっさと朝飯喰わないと」
「うん」
 平気そうな兄の顔を見て安心したのか、百合は元気よく翔の部屋を飛び出していった。その後ろ姿を目で追いながら、翔も二階の自室から一階のリビングへ向かい歩き出す。
 まだ頭痛は続いており、不安と恐怖が胸を締め上げる。ふと歩みを止め、階段の途中にある窓から外を窺った。
 庭の木々は初夏の風を受けて青々と茂った枝を揺らしている。照りつける太陽の光をアスファルトが反射し、まだ五月の中頃だというのに路面から陽炎が浮かんでいる。
(考えろ。俺は……、俺は……)
 激しく唸る心臓。胸元を押さえ、苦痛を押し殺して必死に逡巡する。
(俺は……、そうだ、気付いたら妙な世界にいて……)
 大空から一直線に落下。そして、フリルに会った。フリルの柔らかな唇を、奪った。
 瞳を閉じて浮かぶ、金髪碧眼の少女。いつも不満そうで、いつも憤慨していて、いつも翔を睨め付ける傲慢で我が侭で高慢ちきな少女。でも、憎らしいくらい整った顔立ちで、翔の好みを絵に描いたような少女。
(意味不明な力。そう、魔法が当たり前の世界で、俺はフリルの炎を散々浴びて……)
 徐々にぼやけていた映像がシャープになってくる。ピンぼけ写真のピントが合っていくかのように、脳内の映像が鮮明勝つ克明に色を帯びる。
(アカデミーに通い、武術大会があって、フリルの家で使用人になって……)
 蓋が開いた箱から溢れるように記憶がこみ上げてくる。そしその記憶は、アッシュという男に捕まってこれまでかと思った瞬間で途絶えていた。
「……夢……だったのか?」
 夢だと思えないリアルな記憶が残っている。しかし、夢でないとすれば今この場所に翔がいるのはおかしい。
 翔は一旦考えるのをやめ、重い体を引きずって居間に移動した。そこにはすでに母さんと姉さんがある。父さんの姿はないが、どうせ道場だろう。
「おはよう」
「あら翔ちゃん、おはよう」
 高校二年になる息子を捕まえてちゃん付けする母さんは、スーツの上にエプロンを付けて朝食の用意をしていた。朝早いため、朝食の後洗濯物を干したらすぐに出発するという忙しい人だ。
「……あらどうしたの? あんたすごい汗じゃん」
 椅子に腰掛けた翔を新聞越しに見つめながら不思議そうに首を傾げる姉さん。カールしたセミロングをボサボサに掻きながら大あくびする大雑把な人だが、スタイルは母さん譲りですごく色っぽい。頼むから思春期の弟の前でだらしなく素足や肩口を出さないで欲しい。
「ちょっと悪い夢を見た。……姉さんこそ、この時間から起きてるなんて珍しいな」
「江利ちゃん、今日は一コマ目からテストなんですって」
 翔の疑問に母さんが翔の分のトーストとコーヒーを運びながら答える。姉さんは大学三年で、普段は九時近くにならないと起きてこないため、朝食は別になることが多い。
「テスト? ……姉さん、テストは再来週だって言ってなかったか?」
「はあ? 何言ってるのよ。昨日の晩に明日から始まるって言ったじゃん」
(昨日の晩に……?)
 翔は眉を顰めて昨日のことを思い出す。いや、昨日と言われて思い起こすのは意味不明な世界でアカデミーが襲撃された事件だが、それははたして本当に昨日だったのだろうか。夢、もしくは妄想の世界であったのではないだろうか。
 よくよく考えてみれば魔法とかいう非現実的な力が蔓延る世界など考えられない。じゃあやはりあれは、全部夢だったのだろうか。
(じゃあ昨日の晩に俺は……?)
 記憶を呼び起こす。繋がっている一本の記憶の糸。毛色の違う糸を除き、現実だけをつなぎ合わせて見る。
(五月十六日に、学校へ行く途中、急に意識を失って……)
 そこで記憶が途切れる。いや、そこから毛色の違う記憶になっている。どんなに考えても、その時以降の記憶が曖昧……というより無い。次に同じ色の記憶がつながるのは今朝になってしまう。
「今日って何日だっけ?」
「ん? 今日は一日よ」
(は?)
 姉さんの簡素な答えに、一瞬翔は固まってしまう。脳が姉さんの答えを拒否している。
「何月?」
「……あんたホントに大丈夫? 今日から六月じゃない」
 六月一日。実に十五日間もの記憶がない。いくら考えようとも思い出せない記憶。
(いや、思い出せないわけじゃ……ない)
 そう、計算すればピッタリ合う。夢なのか現実なのかわからないあの世界に居た時間と、抜け落ちている記憶の時間が。ならばあれは夢じゃなかったのだろうか。
「昨日の晩って、何喰ったっけ?」
「はあ!? あんた熱でもあるんじゃない?」
「いいから」
「昨日の夕ご飯は翔ちゃんお得意の肉じゃがだったでしょ? お母さんも帰ってから美味しく食べさせてもらったわ」
 エプロンを外し、冷蔵庫横のハンガーに掛けながら母さんがウフフと笑う。百合もテーブルの向かいで、「美味しかったよ」と感想をくれた。
(俺が……作ったのか? いや、そんなはずは……)
 混乱する。姉さん達が嘘をついていなければ、昨日の晩に翔はこの家にいたはず。いや三人の様子を見る限り、あの日から今日まで、一日たりとも翔はこの世界から外れてなかったのではないだろうか。
「ほらほら、翔ちゃんと百合ちゃんは早く食べないと遅刻しちゃうわよ」
「はーい」
 母さんの言葉にハッとし、翔は硬い表情のまま食を進めた。
 朝食を終え、洗面所で顔を洗って歯磨きをする。その後自室で制服に着替え、八時前に家を出た。
 玄関の戸を開けた瞬間ムオッとくる初夏の熱気。知らぬ間に梅雨の時期に入ったのか、異様なほどに湿度が高くて空気がべっとりと体にまとわりついてくる。
 翔は考えれば考えるほど深みにはまっていきそうな思考を中断し、物置から自転車を引っ張り出してくる。そしてちょうど家の前の道路に出たところで、向かいの家のドアが開いて見知った顔が翔の視界に飛び込んできた。
「オーッス! なに、今日は早いじゃん!」
「……悪いか」
 翔の顔を見るや否や、片手を挙げて屈託のない笑顔を浮かべる小柄な少女。
 白いブラウスの胸元には赤いリボンが結ばれ、チェック柄のプリーツスカートは校則を無視して極端に短くなっている。セミロングの髪をライトブラウンに染め、わずかにアイシャドウを施すパッチリとした瞳は、あどけなさと大人っぽさが交差していた。
「別にー。だって翔、ここ最近ずっと遅刻してるからさ。ついに心入れ替えたかーってビックリしただけよ」
 そう言いながらクシシと笑う少女は、翔の幼なじみでお向かいさんの橘唯音。小学校一年から高校二年の今まで一度たりとも別のクラスになったことはない。
「遅刻……? 俺、最近遅刻なんかしたか?」
「は? ……熱でもあるの? あんたさあ、ここ二週間ぐらいずっと遅刻してるじゃん。授業中もずっと上の空だし、部活もサボってるんでしょ?」
(二週間ずっと? それに、部活をサボってるって……)
 黙り込む翔を、唯音は怪訝そうに上目遣いで見つめた。翔より頭一つ分小さいため、基本的に唯音が翔を見つめる時は上目遣いになる。猫みたいにクリッとした、あの愛らしい瞳は多くの男共を魅了する武器だ。翔は昔なじみで見慣れているせいか耐性があるので魅了されたりはしていない。決して。
 と、それはどうでもいい話で、重要なのは唯音が話したここ二週間の翔の事だ。基本的に翔は真面目な優良高校生である。忙しい母さんを手伝って家事をこなし、成績だって中の上。部活だって無為にサボったりしない。
「おーい翔ぅ、おーい」
 呆然とする翔の視界でブンブンと唯音の腕が上下する。
「……あ」
「あ、じゃない! 朝から何アホみたいにボーッとしてんのよ。なになに、あんまり私が可愛いから見とれてた?」
「馬鹿。……遅刻すると内申に響くからな、さっさと行こうぜ」
「ぶー。なによぅ! すっかり遅刻常習犯のくせにぃ」
「…………」
 唯音が頬を膨らませてブスッと睨め付けてくるのを無視し、翔は自転車にまたがってペダルをこぎ始めた。後方で唯音が、「ちょっと待ってよ!」と呼び止めたが、問答無用で無視した。この年にまでなって幼なじみと一緒に登校など、恥ずかしくて嫌だったから。
(それに、今は一人でゆっくり考えたい)
 そう思いながら自転車を走らせる。学校までは十五分ぐらい。それなりに考える時間はありそうだ。
 まず、二週間の記憶を整理する。五月十六日に学校へ行く途中に意識が途絶え、気付いたら意味不明な世界でスカイダイビングしていた。それから色々あったが、とにかく意味不明という言葉に尽きる。夢だと言われれば、そうでないと否定できる要素がない。
(でも……)
 脳裏に浮かぶのは金髪碧眼の少女。フリル=レン=ラファード。あいつは本当に夢の世界の住人で、翔の妄想の産物なのだろうか。確かに顔は翔の好みど真ん中だったが、どうせ妄想するのだったら性格だって翔好みになっていてもいいはずだ。
 そして夢を見ていた二週間。翔は翔らしくない生活を送っていたらしい。曰く、二週間連続遅刻。曰く、二週間連続部活サボリ。もちろん、これっぽっちも記憶にない。
(何かおかしい。どうなってるんだよ、くそっ!)
 誰に聞こうとも、どうせ馬鹿にされるのは目に見えている。異世界に行ってて記憶が曖昧なんですと真顔で相談されて、笑わずに応えてくれる奴がいたら、むしろそいつの頭を疑うところだろう。
 交差点で赤信号に捕まり、翔は自転車を止めて空を仰いだ。都会の青空は、澄んでいるようで何処か淀んでいる。あの意味不明な世界で見た青空は、もっとずっと綺麗だった。
「……やっぱ、夢だったのか? ……ったく、二週間もずっと、しかも四六時中見続ける夢って何だよ!」
 思わず口に出して悪態をつく翔。その直後、キキッという自転車のブレーキ音に続き、
「おりゃっ!」
「ぐほっ!」
 翔は後頭部に鈍器ではたかれたような衝撃を受けた。実際は手提げ鞄による一撃だったが、何が詰まってるのか、翔を襲った鞄は無駄にでかかった。
「可愛い幼なじみをおいていくなんて良い度胸してるじゃない!」
「……可愛いだぁ? ハッ、唯音、お前の家には鏡ってモンがねーようだな」
 考え事の最中に邪魔をされ、翔は思わず憎まれ口を叩く。この程度の雑言、唯音が気にも留めないことなど長い付き合いでわかってる。
「あら、翔ったら可愛い幼なじみと一緒に登校出来て嬉しいのね? きゃっ! 実は、私もなのぉ」
「死ね」
「うわ、ヒドッ!」
 青になった途端に全速ダッシュを謀る翔。天地流道場師範の長男にして学校ではテニス部に所属するスポーツマンが、一介の女子高生ごときに遅れをとるはずが――
「ちょっと待ちなさいよ! おいコラッ!」
 ――唯音は一介の女子高生を逸脱しているため、あっさり追いつかれた。幼少時より、唯音も翔と一緒に道場で剣術の指南を受けている。学校でも、陸上部で全国大会に出場するようなアスリートだ。
(ったく、一人にしてくれよ……)
 結局唯音に捕まり、半ば強引に揃って登校させられる羽目になった。ここ二週間は知らないが、以前からちょくちょくこうして一緒に登校しているため、知り合いの連中は生暖かい目でこちらを見つめてくる。くそ、絶対誤解されてる。
 昇降口で上履きに履き替え、教室と廊下の敷居をまたぐと、真っ先に駆け寄ってくるクラスメイトが一人。中学来の悪友、天川悟だ。
「おお! 今日は久々に夫婦で登校か? いやー熱い熱いっ」
「……お前の目は節穴か。どう見たらそんな風に見える? ああ?」
「見たまんまの感想を言っただけだよ」
 悟が悪びれた様子もなくしれっ言う。長身で顔立ちの整った悟は何かとポーズを取りたがり、実際、今も肩を竦めてやれやれのポーズを大げさに取っていた。
「おはよう天川君。いやぁ、やっぱそう見えちゃう?」
「ええ」
「うふん、照れるなぁ」
 唯音は悟と挨拶を交わしながら翔の腕に絡みついて貧相な胸を押しつけてきた。いや、まあ、昔に比べれば少しは成長してきたようだが。
「暑いからくっつくな」
 翔は唯音の腕を引きはがし、キッと顎を引いて睨め付けた。しかし、こいつに翔の睨みが効かないことはすでにわかっている。
「うわ、つれない奴ね。……で、どうだった? 私の胸の感触はっ?」
(あーうっぜぇ)
 大きくため息をつき、翔は唯音を無視して自分の席へ移動する。窓際の一番後ろ。窓の外を眺めると、校庭の木々が太陽の光でしっかり光合成に勤しむよう、青々と茂った枝を風で揺らしていた。
 喧噪な日常。でも、これは確かに翔がこれまでずっと生きてきた世界だった。
 魔法などという単語は物理教師に聞かれたら殴られる。あんな意味不明な力、あるはずない。だからやはり、あれは夢だったに違いない。
 暑さできっとボケてたんだろう。それできっと少し記憶が飛んでるだけだ。授業中はきっと白昼夢でフリルなる女との異世界ライフを妄想し、部活は体調不良で休んでいたに違いない。そう、そう考えれば何となく辻褄が合ってくる。……ような気がする。
(でも……)
 夢。そう思ってしまうと、少し寂しいというか、惜しい気持ちがするのも確かだった。ヴァイルにグラッティ、シェミニとハルル、エリカさんにユリカちゃんは、結局翔の妄想に過ぎなかったのだから。やはり、何処か寂しい思いは捨てきれない。
 翔は教室の中へ視線を戻す。女友達らと楽しげに話している唯音。クラスメイトらに自分のノートを見せて何やら教えている悟。見慣れた、平凡で何の変哲もない日常がそこにある。
(平凡で、何の変哲もない日常……か)
 ズキッと頭に痛みが走る。
 あれは平凡で何の変哲もない日常ではない。これが平凡で何の変哲のない日常だ。
 晴れない気持ち。治まらない頭痛。消えないフリルの顔。
「くそ……」
 ST前の騒がしい教室内で、翔は一人、晴れない表情を貼り付けていた。
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