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第六章 少年は少女のもとへ赴く

「むぅ、やっぱり記憶の修正は不可能だったですぅ」
 少女が唸る。暗闇覆われた空間で、足下より青白い光を浴びながら、銀髪の少女は頭上の輪っかを手持ちぶさたに撫でていた。
「アドレスの再確定が実行されるまでまだ時間かかりそうですし、その間は整合性管理機構も気の毒な少年に対してはアクセスできないんですねぇ、うーん、困ったぁ」
 白いワンピースのポケットからピンク色のハンカチを取り出し、少女は頭上にプカプカと浮かぶ輪っかを手にとって胸元に引き寄せる。そしてハンカチで拭き始め、空間にキュッキュッと小気味よい音が木霊した。
「……ちゃんと説明した方がいい、かな? うん。きっとそうです」
 輪っかを頭上に戻し、
「よーし! 行くですぅ!」
 少女は拳を高らかと掲げた。

* * *

 曖昧な二週間の記憶を埋めることは容易ではなかった。授業はいつの間にか結構なところまで進んでいるし、気が付けば中間考査は過ぎてしまったとのこと。知らぬ間に鞄に潜り込んでいた《学習の歩み》というテスト結果を見たところ、順位は極端に落ちてないものの、一年の学年末考査より少し低かった。
 とった記憶のないノートには翔の字できっちり板書してあるが、今はそれが自分の字であることが疑問で仕方ない。欠かさず見ていたドラマは二回分も見逃してしまったため、友人らの話題についていけない。
 部活に顔を出せば先輩にこっぴどく叱られ、一人でコート整備、ネットのたたみ込み、部室の掃除をやらされた。
 何と言えばいいのか、世界の進む速さに遅れて必死に先を目指す状況に立つ今、翔は言いしれぬ疎外感を感じていた。それを考えるたび、頭にズキリと痛みが走る。
 結局その日一日、翔は積極的に他者と関わるのをやめ、ひたすら聞き耳を立ててこっそりと情報収集に勤しんだ。今の状態で変に友人らの会話に参加すると、絶対にボロを出す自信があったからだ。
 帰宅後、夕食を作り、それを食した後もテレビにかじりつき、ニュース番組をひたすらたらい回しする。自室に戻った後は二週間で進んだ教科書の内容把握と、二週間分の朝刊を、縛ってあった紐を切って持ち帰り、ひたすら読みふけった。
 ベッドに横になった時、時計はすでに午前二時を刻んでいた。久々……いや、本当は久々ではないのだろうが、感覚的に久しい学校生活を送ったせいか疲労感は大きい。しかし何故かなかなか寝付けず、翔は天井を見上げたまま佇んでいた。
「寝て起きたら、またあの世界に居たりして……な……」
 ボソリとつぶやく。それは願望なのか、それとも恐れなのか。いや、夢を見ようが見まいが、現実の世界に何の影響もないのだ。別に特別な感情を抱く必要はないはず。
(フリル……。あいつも結局、夢……だったのか……)
 何とも言えない喪失感。何だろう、大好きだった漫画が連載されていた雑誌が出版社の理由で廃刊となり、無理矢理取って付けたような最終回を見させられた感じに似ている。
「あんな終わり方……ねぇだろ」
 夢の中で主人公は翔だった。ヒロインは……。でもその物語はまだ序章の部分であっけなく幕を下ろした。いや、翔が夢から醒めただけなのかもしれない。もしかしたらまた、続きを見ることができるかもしれない。
(は……。夢に固執するような奴だったか、俺って……)
 思わず自分の思考に自嘲する。いい加減、馬鹿らしくなってきた。
 だったら早く寝てしまえばいい。何度そう考えたことだろうか。しかし、体の疲労感とは裏腹に脳は思考をやめない。
 気が付けばすでに外は明るかった。時間は六時少し前。
「くそ」
 翔は起きて制服ではなく道着に着替えて、自室を後にした。向かうは道場。家族が寝泊まりする一軒家とは直接繋がっていないが、敷地内に存在する、父さんが剣術道場を営む建物。
 入り口近くの鉢植え下に隠した鍵で戸を開け、誰もいない朝の道場に入り込む。板張りの床は綺麗に雑巾がけされており、道場の奥には立派な兜と防具、日本刀が飾られている。どれも父さんが趣味で買い集めた物だ。
 翔は自分の名が焼き印された竹刀を持ち、道場の真ん中で構えた。荘厳な空気の中、微動だにせず瞳を閉じる。そして――
「はっ!」
 ゆっくりと掲げた竹刀をビシッと一直線に振り下ろす。竹刀が空気を斬る音が道場に響き、同時に翔の踏み出した足がドンと床を踏む。
 翔は無心で竹刀を振り続けた。こうしていれば何も考えずにすむ。不安や焦燥から逃げられる気がする。
(逃げてる……か。まあ、その通りだな)
 小一時間汗を流したところで、翔は母屋に戻ってシャワーを浴びる。汗だくの道着は洗濯機に突っ込み、上はTシャツ、下はハーフパンツで居間に移る。すると母さんがせっせと朝食の準備をしていた。
「おはよう」
「あら翔ちゃん、おはよう。今日も早いのね」
「……実は一睡もしてない。寝付けなかった」
「そうなの? うーん、体調悪いなら学校休む?」
「いや、大丈夫。……でもきっと授業中に爆睡するな」
 翔がそう言うと、母さんは「あらあら」と言いながら苦笑した。そしてベーコンエッグとガーリックトースト、カフェラテを翔のために用意してくれた。
 朝食を食べていると、姉さんや百合に先立って父さんが現れた。無精髭を手で撫でながら、反対の手で胸元をボリボリと掻く中年男。翔は母さん似なので、親子に見られた試しがない。
「お。道場が開いてると思ったら、お前が遊んでたのか」
「あ、悪い、鍵閉め忘れてた」
「いいって、どうせ父さんが使うからな。何だ、久々に竹刀触りたくなったか?」
「……そんなところ」
 ぶっきらぼうに答えて翔は空になった皿を流しへ運び、ついでに溜まっていた洗い物を片づけることにした。
 竹刀に触れたかったというのはもちろん嘘。ただ体を動かして淀んでる体内をリフレッシュしたかっただけだ。こう言う時、道場主の息子でよかったと思ったりする。
 父さんはブラックコーヒーを飲みながら新聞を一読すると、大きく伸びをしながら居間を出て行った。これから道場で一汗流すのだろう。
 時計が七時を回る。そろそろ百合が二階から下りてくる時間。姉さんも、昨日に引き続きテストだという話なので間もなく顔を出すはずだ。
 翔は百合と入れ違いに居間を後にし、自室のベッドに横になった。今更ながら睡魔が襲ってきたが、今寝たら確実に遅刻するので必死に堪える。
(はあ……。取りあえず着替えて、今日は少し早めに出るか……。早くに出れば唯音に会わずにすむだろう)
 のっそりと立ち上がり、翔はTシャツの上に半袖カッターシャツを着て、ハーフパンツの代わりに夏用の学生ズボンを穿いた。ベルトを締め、鞄の中身を確認する。
 出発前に洗面所で軽く身だしなみを整えてから、翔は去年の誕生日に百合から貰った腕時計をはめて家を飛び出した。いつもより十五分は早い出発。これなら、唯音に出会うはずが――
「オッス!」
 あった。
「……何故だ」
「暑い中待ってた。一緒に行こ♪」
「……断ったら?」
「泣く。私のことは遊びだったのねって泣き叫きながら校内を練り歩く」
 ヨヨヨと泣き崩れるポーズをとる唯音。こいつに出会わないためにいつもより早く出たというのに、全く無駄な徒労に終わってしまった。
「ねっ、早く行こうよっ」
 自転車にまたがって急かす唯音。翔は嘆息して奥から自転車を引いてくる。昨日に引き続き、翔は唯音と並列走行で学校へ向かうこととなってしまった。まあ、登校には早いから昨日より人目が気にならない分、早く出た意味はあったかもしれない。
「ねえ、翔」
「あん?」
 自転車をこいでいると、ふいに唯音が翔の名前を呼んだ。面倒ながら横目で唯音を見つめると、唯音は普段の小憎らしい笑みではなく、素直に可愛いと見とれてしまいそうな笑顔を浮かべていた。
(な、何だ? 変な物喰ったんじゃねーか?)
 唯音は呼んでおいて何も口にせず、ニコニコしながら翔を見つめていた。気恥ずかしくなり、翔は憮然とした面持ちで視線を前に戻した。
「何だよ、気持ち悪いな」
「えへへー。なんか、よかったなぁって思って」
「は?」
 意味不明な事を言う唯音。こいつも翔並みに暑さでおかしくなってきたのだろうか。もしかしたら本当の唯音は妄想中で別世界に居るんじゃないだろうか。
 そんな風に考えていた時、唯音が、
「ここ二週間の翔、なんか変っていうか、その、翔じゃないみたいだったから心配だったの。でも、昨日からいつもの調子戻ってきたみたいだし、うん、安心した」
 と、柔らかな笑顔で言った。少しだけ頬を赤く染め、白い歯を惜しげもなく見せつける笑顔。
 屈託無く笑う唯音の言葉に、翔は返す言葉を考えることすら出来ず固まってしまった。それは決して、唯音に見とれたわけではない。普段の翔なら、まあ、不本意ながら見とれてしまってもおかしくない笑顔だったが、今は違う。引っかかったのは唯音の発した言葉。
(俺が、俺じゃないみたいだったって……)
 頭痛が走る。動悸が激しくなる。向かい風は清々しいのに、何故か背中に嫌な汗が浮かぶ。
「どうしたの?」
「あ、いや……、なんでもねーよ」
 気が付くと、翔は唯音の顔をジッと見つめたまま固まっていた。意識した途端気恥ずかしくなり、翔はサッと唯音から顔を背けた。横目で確認すると、唯音はちょっと拗ねたように膨れていた。
「むう。可愛くないのは翔らしいけど、少しくらい笑顔見せたっていいじゃないよぅ」
「お前に見せる笑顔はない」
 心配してくれた相手に掛ける言葉じゃないとわかっていながらも、それ以上に恥ずかしい気持ちが勝って悪態をつく翔。まるでガキだな。
「あははっ! ここでニコって笑ったりしたら、キモっ! って思いっきり引いてあげたところだけど、うん、その方が翔らしいよ!」
 翔に引き替え唯音は大人だった。いや、コイツの場合は天然かもしれないが、それでも、それが唯音という人間なのだとしみじみ感じさせられる。
(く、くそ……。俺、ヘタレだな……)
 嘆息しながら唯音の横顔をそっと盗み見る。童顔を必死に化粧で大人っぽく見せようと背伸びしている少女。去年の暮れくらいから染め始めたライトブラウンの髪は、初夏の太陽を浴びて金髪のようにも見えた。
 決して長い髪ではない。決して瞳の色が日本人離れしているわけでもない。
(でも……)
 翔は唯音の横顔に別の人間を見ていた。

* * *

 昼休み。購買でパンと野菜ジュースを買って、翔は一人屋上にいた。
 流れる雲が綿飴みたいに見えるのは糖分不足。休み時間にグラウンドでバレーボールを楽しむ女子生徒の黄色い歓声に変な妄想しそうになるのは欲求不満。燦々と輝く太陽の光を浴びてウトウトするのは睡眠不足。そして親しい友人が少ないわけでもないのに一人屋上に居るのは――
「意味、わかんねーよ」
 子供じみた不満を口に出す翔。柵にもたれながら、ストローで野菜ジュースをチビチビと飲む姿は、端から見ればかなりしょぼくれているだろう。
 フリルは翔の妄想から生まれた想像上の少女。そう思おうと決めたことなのに、何故こんなにも気に掛かっているのだろうか。唯音に、他人に別人の影を背負わせるなんてその人間に対する冒涜に他ならないとわかりつつ、脳が勝手にフィルタをかけてしまう。
 妄想だと、夢だと決めつければ何も問題ないはずなのに。
(どうして……。俺は……)
 空を仰ぎ、意味もなく口をパクパクとさせる。本当、ヘタレを通り越して夢遊病患者みたいだ。
 二週間のことを考えようとすると頭痛が走る。忘れようとすると、唯音や周りが否応なく翔がこの二週間おかしかったことを説明してくる。どうして、いや、どうすればいいといのだろうか。
「誰か、出てきて説明しろよ」
 呟く。一人きりの屋上で独り言。答えなど、返ってくるはずが――
「はい。お答えしますです」
 あった。女の子の声で、空耳ではなく翔の真正面から。
「え……?」
 いきなり正面から女の子の声がしたので、翔は体を大きく引いて柵にもたれながら顔を持ち上げた。手から、空になった紙パックが落ちる。
 目の前に立っていたのは翔の見知らぬ女子生徒だった。色素の薄い髪が軽く肩にかかり、垂れ目で大きな瞳。日本人離れした白い肌をした少女は、制服に身を包んで上目遣いに翔を見つめていた。
「あ、え……? ……君は?」
「ふぇ? あ、な、名前です……か? うーん、えっと……」
 自分の名前を聞かれただけなのに、何故か少女は逡巡し始める。翔は呆然とそんな少女を見つめていた。
「わ、わたしは、この言語で発音するなれば、シーカ……、そう、詩歌です!」
「はあ。……えっと、じゃあ詩歌さん、俺の独り言聞いて、答えると言いましたよね?」
「はいです。わたしはこの世界を含め近しいアドレス内に存在する複数世界を管理する者でしてぇ、あなたの身に起こったことも大体把握してますです。はい」
 詩歌と名乗った少女は両手をポンと胸の前で合わせ、向日葵のような笑顔を翔に見せた。嘘を言っているようには見えないが、言ってる内容は意味不明だった。
(頭やべぇんじぇねーか、この子……)
「そんなことないです! わたしはこう見えても優秀な天使ですよ!」
 脳内で詩歌を小馬鹿にしたところ、詩歌はまるで翔の思考を読むかのように頬を膨らませながらぶーっと翔を睨め付けた。
「なっ、え?」
「わたしはこの世界の管理者です。この近距離なら、わざわざあなたという個体を管理するデータベースにアクセスせずとも、あなたの体調や思考くらい読めるです」
(おいおい、冗談だろ?)
「冗談なんかじゃないのです!」
「し、思考を読むな!」
「あひゃ、ご、ごめんなさいです」
 翔が少し声を張り上げると、詩歌はビクッと体を震わせ、眉を顰めてオドオドと翔を見つめ返す。どうしようもなく、悪いことをしてる気がしてきた。
「あ、悪い。……えっと、その、詩歌さんは本当に、その、て、天使……なのか?」
「はい。そうです」
 力なく答える詩歌。それを聞いて、翔は絶句した。これが嘘じゃないとしたら、翔はまたも意味不明な世界に紛れ込んだのだろうか。いや、ここは間違いなく翔が十数年過ごしてきた現実の世界だ。なら、白昼夢か……、そう、屋上で横になっていたら夢を見出したに違いない。
 常套手段。翔は少女を呆然と見つめたまま自分の頬を抓ってみた。
「痛い……ですか?」
「ああ。痛い」
「信じて、くださいましたか?」
「……出来ることなら信じたくないが」
 夢じゃない。いや、あの意味不明な妄想世界だって痛みを感じて事実と認識した過去がある。もしかしたら痛みを感じる夢なのかもしれない。
「えっと、じゃあ話を進めますね?」
 翔が黙りこくっていると、少女は恐る恐る口を開いた。
「私が管理する複数の世界はそれぞれ独自の世界構造を有しているのです。あなたが居るこの世界然り、あなたが一昨日まで強制的にアドレス転移させられて過ごしたあの世界然りです」
「な――っ!」
 今、少女はさらりと重要な事を言った。あの世界って、聞き直すまでもなくフリルの居たあの世界を指すのであろう。
「普通、世界構造は世界毎に大きくことなります。けど、この世界とあの世界は存在アドレスが近しいため、互いの影響を大きく受け合っているのです。ですから、世界構造やその世界に住まう人々の思考パターンや生活スタイルも似たようなものになってるのです」
 少女はさらに説明を続ける。半分以上意味不明だが、何故か自然と理解できる部分もあった。
「そして存在アドレスが近いため、システム管理の脆弱性を突いて互いの世界に干渉することが可能なのです。まあ、可能とは言っても絶対に不可能ではないという程度の極めて困難なことなんですけど」
 淡々と説明する少女を前に、翔は何も口出しできない。翔の中の何かが、大人しく少女の話を聞くよう促している。
「あなたはその脆弱性を突いて、存在アドレスを強制的にあの世界に書き換えられたんです。人間のデータを管理するテーブルも、近しい世界では近い空間にマッピングされてますから」
「……小難しい説明はいい。どうせ理解できないから、要点だけ言ってくれないか?」
「はい。あなたはこの世界から無理矢理別の世界に移動させられた。わたしは管理者として、その移動を修正し、あなたをこの世界へ戻した、という次第です」
 少女はそこまで説明して、「わかりましたか?」と恐る恐る上目遣いで翔に尋ねた。翔はすぐには反応できず、しばし口を半開きにしたまま呆然と少女を見つめ返す。
「つまり、一昨日までのアレは俺が夢見ていたわけでも勝手な妄想していたわけじゃないのか……?」
「違うです」
「じゃ、じゃあ家族や友人の記憶にある二週間の俺って……」
「それは整合性管理機構が、突然のエラーに対して世界の安定を維持しようと働いたもので、えっと、あなたのダミーを置いてあなたの存在を誤認させていたんです」
 翔の疑問はすぐに答えられる。考えて嘘をついているという様子はなく、詩歌は自分の知っている事実を淡々と説明してくれているような感じだった。
「あなたは長い時間別の世界にいたので、この世界の世界構造に適合しないパラメータが現れています。それが頭痛や、違和感となって現れているはずです」
「…………」
「ちょっと失礼します」
 詩歌はずいっと翔に歩み寄ると、小さい体を思いっきり背伸びして翔の額に小さな手を添えた。そしてブツブツと意味不明な言語をつぶやくと、翔の体が仄かに輝いた。
「え?」
「これで頭痛は解消されたはずです。やっぱり端末を介して直接アクセスすると楽です」
 詩歌がニッコリと微笑む。翔は後頭部をコンコンと叩いてみたが、昨日から続いていた頭痛は綺麗サッパリ消えていた。
「記憶の混乱はもうしばらく我慢して下さい。明日の朝くらいまでには別世界に行っていた記憶を消去して、何もなかったことに出来ますから」
「な、記憶を消去する?」
「はい。ダミーが演じたあなたの記憶を、別世界で過ごした記憶の上に上書きしてしまえば、あなたはもうこの世界に違和感を覚えなくなるです」
 翔は思わず息を飲んだ。もはや詩歌が言ってることを事実と受け止めている。だからこそ、その内容について過剰に反応せざるを得ない。
「何もなかったことになるのか?」
「そうです。ごめんなさい、わたしの管理者としての監督不行届のせいであなたに迷惑掛けてしまいました」
「いや、そんなことはどうでもよくて……」
 どうでもよくない話だったが、でも今はそれ以上に気になることがあった。
「あの世界は、俺が無理矢理連れて行かれた世界はどうなるんだ? ……フリルは?」
 翔が焦りを隠せない態度で尋ねると、詩歌はキョトンと翔を見つめ返した。
「うーん、あっちはあっちで整合性を保とうとするから、きっと大丈夫ですよ?」
「そうじゃない! 俺が関わったせいで何か影響があるかもしれないだろ!」
「あ、そうですね。あなたのことばかり気に掛けてて、あっちのことはすっかり忘れてました」
 詩歌はそう言いながらハハハと笑い、空中に円を描いた。すると、円の内部が波打つ水面のようにぼやけていき、この世界ではない世界が映し出された。
「えっと、個体識別ハンドルはフリル=レン=ラファードでしたね」
 詩歌がつぶやく。そして次の瞬間、円の中心に翔の見知った金髪の少女が映し出された。たった一日ちょい見てないだけなのに、何故かひどく懐かしい感じがする。
 フリルの笑顔は反則的なくらい可愛かった。憮然とした態度も、ジトッと睨め付けてくる視線も、今思えばフリルらしい表情だった。でも、円の中のフリルは――
「泣いて……る?」
 鎖に繋がれ、薄暗い牢獄で頬を涙で濡らしていた。

* * *

 夜の帳が下りて暗闇が包む空間。石造りの冷たい空気を漂わせる牢獄で、少女が鎖に繋がれてぐったり頭を垂らしていた。
 長い金髪は艶やかさを失い、白い頬には無数の傷やあざがある。蒼い瞳は輝きを忘れ、イブニングドレスのレースやフリルは所々破れ、純白の生地は黒く汚れていた。
「……吐いたか?」
「いえ、これがなかなか強情でして」
 少女の数メートル手前で話し込む二人の男。枯れ葉のような髪をオールバックにし、えんじ色の瞳で少女を睨む初老の大男に、赤い髪を流しながら金色の瞳をやんわりと細める三十代半ばの華奢な男。二人は矯めつ眇めつ少女を見やりながら言葉を交わしていた。
「もう一度問おう、《異世界の焔》を何処に隠した」
 大男が威圧的な口調で少女言い放つ。少女は苦しげに頭を持ち上げ、何も言わずに再び頭を垂らした。
「知らないわよ。……御主人様を放っていなくなる奴……なんか……」
 少女は誰にも聞こえないくらい小さな声でつぶやき、瞳を涙に濡らした。キュッと唇を噛み、眉根を寄せて小さく嗚咽を漏らす。
「仕方ない。少々強引な手を取るか。……おいっ!」
 大男が声を張り上げると、牢獄の奥から一人のごつい男が待ってましたと言わんばかりにのっしり歩み寄ってくる。スキンヘッドに剃られた眉が他者に恐怖を与え、むき出しの筋肉質の上半身には切り傷が数多く浮いている。
「へっへっへ、待ってやしたよ」
「好きにしろ。舌を噛んで死なれぬよう、布だけは忘れずに口に詰めろよ」
「やれやれ、あまり元教え子に乱暴しないで欲しいんですけどね」
「だったらテメーはどっか行ってな! こっちで楽しくヤるからよ!」
 赤い髪を男はスキンヘッドの男に肩を竦めるポーズを見せ、大男の隣で静かに推移を見つめる。スキンヘッドの男は嫌らしい笑みを浮かべ、鼻息を荒らげながらゆっくりと少女に歩み寄った。
「へっへっへ、堪んねぇな、こんな可愛い嬢ちゃんを手篭めに出来るなんてよ」
 不穏な空気を感じて顔を持ち上げる少女。その表情は一瞬にして恐怖に引きつり、繋がれた手足をばたつかせて鎖がジャラジャラと鳴り響く。
「初々しいねぇ。その体をこれから汚してやれると考えるだけでゾクゾクするぜ」
「い、や……。いやぁぁっ!」
 少女の悲鳴が牢獄に響く。スキンヘッドの男はそんな少女の反応に、一層鼻息を荒くして近寄る。少女は叫びながら、繋がれて自由の効かない両手を男へ向ける。
「無駄無駄。その鎖は封魔の術が施してある。……へっへっへ、観念しな」
 男は嫌がる少女を力任せに壁に押しつけ、嫌らしい笑みを浮かべながら抱きついた。
「いやぁっ! いやあああっ!」
 必死に抵抗する少女。しかし小柄で華奢な少女の力で男に太刀打ちできるはずもなく、男が無理矢理少女のドレスを掴んで引っ張る。
 ビリビリという布が引き裂かれる音が響き、少女の白い裸体が牢獄に差し込む月光で浮かび上がった。子供とも大人とも言えない、青くて未熟な少女の姿。
「ぐふふふ、良いねぇ」
 少女はボロボロと涙を零しながら身を萎縮させる。男は獲物に食らいつく野獣のように、少女の裸体へ手を伸ばす。その時――
「やめなさい」
 牢獄に幼い少女の凛とした声が響いた。スキンヘッドの男は巨体をビクッと振るわせ、狼狽えながら裸体の少女から身を翻し、現れた別の少女を見つめた。
「アーリア様、何故こんなところに……」
「あなた方がシュベリアより連れ帰った少女に拷問を行っていると小耳に挟みました」
「…………」
「いくら《異世界の焔》について知っているからと言って、非人道的な行為は許されません」
 桃色の髪をしたまだ十二、三であろう少女の言葉に、男達は返す言葉がない。
 アーリアと呼ばれた少女は、ゆっくりと少女の元に歩み寄ると、自分が羽織っていたショールを裸の少女に掛けた。そして柔らかな口調で、
「私達にはどうしても《異世界の焔》と呼ばれる存在が必要なのです。知っていたら何か教えて下さいませんか?」
 と、尋ねた。繋がれた少女は恐怖で体をカタカタ震わせており、アーリアの言葉は微塵も届いていなかった。
 アーリアはため息をついてから男達を振り返り、キッと銀色の瞳を細めて男達を睨め付ける。スキンヘッドの男が引きつった顔のまままず姿を消し、続いて大男と赤い髪の男が無言のまま揃ってその場を後にした。
 三人が去った後、アーリアは再度金髪の少女に向かい合い、表情を悲しみに染めて頭を垂らした。
「ごめんなさい」
 アーリアの言葉に反応はない。牢獄には小さく力なく少女の嗚咽だけが響いていた。
「着替えと食事を用意します。しばらくはこの国に滞在して貰いますが、身の安全だけは保証します。《異世界の焔》について知っていることがありましたら教えて下さい」
 そう言い残し、アーリアは牢獄を後にする。薄暗い空間に、少女は一人取り残された。
 冷たい壁に囲まれ、手足の自由を奪われ、辱めを受けた少女。窓から差し込む月光が少女を照らし、少女はゆっくり顔を持ち上げてそんな月を見上げた。
 ぐしゃぐしゃに顔を歪め、頬や目は真っ赤に腫れている。噛みすぎた唇から血が滲み、乱暴に振った金髪が少女の裸体を隠すように体を包んでいた。
「馬鹿……。なんで、なんで助けに来ないのよ……。うう、うあああああああっ」
 静かな夜に、少女の泣き声が騒然と響き渡った。

* * *

「フリルッ!」
 思わず、翔は実体のない円の中心へ手を伸ばしていた。しかし腕は円の中心を貫通して向こう側へ伸びており、映像内のフリルに触れることはできなかった。
「うーん、今のところエラーは特に記録されてないですね。世界構造の基盤に魔法がありますから、この世界と違って細かな裏付けは必要ないからかなぁ?」
 詩歌が至って落ち着いた様子でつぶやく。
「おい! 何落ち着いてるんだよ! 何とか、何とかしろよ!」
「ふぇ? あ、あのうぅ、基本的に天使は人間に干渉してはいけないというルールがありまして、その、あなたみたいに特殊なケースを除いて手出しできないんです」
 思わず声を張り上げてしまった翔に対し、詩歌がオドオドと狼狽えながら上目遣いに翔を見つめる。怯える子猫のような眼差しを見て、翔はグッと感情を抑える。
「でも……、あいつは俺に関わったせいで……」
「残酷な言い方ですけど、わたしの仕事はあくまで世界の整合性を保つことなのです。世界構造に影響を及ぼすようなことのみを解消し、それ以外は手出しできません。ですから、あなたという存在を元居た世界に戻すことで、今回のエラー処理は終了なのです」
「その後は……、どうでもいいってことか」
「……はい。あとは整合性管理機構が矛盾制御を行い、一番適切な修正を行います」
 詩歌が言っている内容は半分以上意味不明だったが、詩歌がフリルに対して何もしないということだけは理解できた。翔を元居た世界に戻した時点で、詩歌の仕事は終わったようなものなのだろう。きっと今翔に事情を説明しているのは、アフターケアみたいなものだろう。
「今日の日付が変わる頃までにはあなたの記憶を修正するプログラムが出来ます。それまでは色々煩わしいと思いますけど、その、申し訳ありません」
「…………」
「あ、プログラム実行までここに居ますから、また頭痛や体調不良とかあったら来て下さいね。簡単に修正できると思いますから」
 詩歌の言葉に何の反応も示さず、翔は屋上を去った。何となく、それ以上詩歌の話を聞いていたくなかったからだ。
 すでに五限目は始まっていた。翔は化学教師にお小言を喰らい、クラスメイトから奇異の視線を浴びながら自分の席についた。
 席に着き、一応教科書ノートを出して黒板を見る。しかし直ぐさま視線は窓の外へスライドし、自然と頬杖をついていた。
(夢じゃなかった……。そして、あいつは今……)
 ズキッと痛みが走る。それは頭痛ではなく、何か締め付けられるような胸の痛みだった。
 フリルが拘束され、辱めを受けた原因は間違いなく翔にある。翔があっちの世界に迷い込んだりしなければ、こんなことになるはずなかったのだ。
(くそ……っ、俺は、俺には何もできないのか!)
 詩歌の話が正しければ、明日の朝には翔の記憶は改編されている。あっちの世界に行っていた記憶がごっそり抜け落ち、何気なく遅刻したり部活休んだりした記憶がそこに上書きされる。
 それでいいのかと自問する。しかし、嫌だと言って何か変わるのだろうか。
(変わるわけない……)
 思わず涙腺が緩みそうになる。自分の無力さにうち拉がれ、何も出来ないでいることが情けなくて仕方ない。
(明日になれば、きっとこんな気持ちは何処かに行ってる。……それで、いいんだ)
 瞳を細め、眩しい太陽をジッと見やる。五限目の終了を告げる鐘の音が響いた。

* * *

 絨毯が敷かれた石造りの廊下を歩く二人の男。天窓より差し込む月光が廊下を暖かく照らし、窓の外には静まりかえった夜の森が何処までも広がっていた。
「どうやってアーリア様の耳に触れたのでしょうね」
 赤い髪の男が苦笑しながら隣の大男に言う。白髪交じりの薄い茶髪に、えんじ色の瞳をした大男は、忌々しそうに表情を歪めた。
「恐らく次期大司祭の座を狙う誰かだろう」
「そうですね。シュバイツァー司祭が《グングニル》を手に入れ、かつ《異世界の焔》まで捕らえたとすれば当選確実になってしまいますから」
 赤い髪の男の言葉に、大男はフンと鼻を鳴らした。
「しかしどうしましょう。早々にあの子から聞き出さないと、いずれ噂を聞きつけた連中に邪魔されますよ?」
「アーリアが宮殿に居る間は何もできん」
「…………」
「なに、アーリアは巫女だ。神事に政、やるべき事は山のようにあるからそうそうこの宮殿に居座ることはない。……機会なら、必ずある」
 大男が途端に口角をつり上げ、拳に力を込めた。赤い髪の男は、そんな大男の横顔をニコニコと見つめていた。
「明日からしばらく、俺は面倒な会合のため都を離れる。俺が居ない間に何としても吐かせておけ」
「わかりました。善処しますよ」
 廊下に足音を響かせながら、二人の男は歩を刻んでいった。

* * *

 部活を終えた後、翔は制服のままスーパーに立ち寄った。長年の習慣というものは恐ろしく、ボーッと他事考えていたにも関わらず、気付いたら足が自然とスーパーの前で止まっていた。
 詩歌の話を聞いたせいか、翔の思考力は三十パーセント以下まで低下している。家の冷蔵庫に何があったか思い出せず、足りなくなった調味料を買い足そうにもどれが切れかかっているかわからない。
「はあ……」
 買い物籠をぶら下げながら大きくため息をつく。あっちの世界での癖が、そのままこっちの世界でも引き継がれているらしい。
「なーにため息なんてついてるのよっ! らしくないわっ!」
「ぐほっ!」
 突如聞き慣れた声が響いたかと思った瞬間、背中をバシンと平手で強打され、翔はそのまま前のめりに倒れそうになった。
「痛ぇな! 何すんだよ!」
 振り返った翔の先、唯音が同じく制服のまま買い物籠をぶら下げていた。部活の後に学校でシャワーを浴びてきたのだろうか、ライトブラウンに染まったセミロングの髪はしっとりと水分を多く含んでおり、朝見た時と印象が違うのは化粧が落ちているからだろう。
「えへへ、元気出た?」
「ああん?」
「翔さあ、五限目遅れてきた後からずっと元気なさそうだったんだもん。何があったか知らないけど、そんな辛気くさい顔してるとタダでさえモテないのが輪をかけてモテなくなるわよ」
 翔が詩歌の話を聞いて沈んでいるというのに、唯音は相変わらずカラカラと夏の太陽にも負けないくらい眩しい笑顔を浮かべていた。その笑顔のせいで、背中を叩かれたことをどつこうという気持ちも何処かへ行ってしまった。
「……うるせぇな。っつーか何でお前がこんなところにいるんだよ」
「何って、スーパーにいるんだもん。買い物に決まってるじゃない」
「何を買う気だ?」
「えー? うーんと、今日はピーマンに挽肉、トマトに……」
 翔が尋ねると、唯音は人差し指を顎に添えて天井を見つめながら次々と食材名を呟き始めた。どうやら夕食の材料を買いに来たらしい。
「おばさんに頼まれたのか?」
「ううん。今日、お母さんの友達の家で不幸があったからお通夜なの。だから今晩は私が作るんだ」
「……今なんて言った? お前が……晩飯を……作る?」
「あー! 何よ、その怪訝そうな顔。やーね、私だって料理くらいちゃんと出来るわよ。普段だってお母さんのお手伝いしてるんだもん」
 唯音はえへへと笑いながらピーマンの袋を手に取った。それを矯めつ眇めつ眺めた後、買い物籠にポンと入れる。
(そう言えば……)
 唯音は母子家庭でおばさんと二人暮らし。今日、帰ってもこいつは一人だ。誰もいない家で夕飯を作り、誰もいない食卓で箸を進める。
(フリル……。あいつも、今頃……)
 どうしても唯音を見ているとフリルの顔が脳裏に浮かぶ。決して顔つきが似ているわけでも性格が近しいわけでもない。ただ、こっちの世界では当たり前のように側にいる唯音が、あっちの世界で当たり前のように近くにいたフリルと重なってしまうのかもしれない。
「なあ、唯音」
「んー、なぁに?」
「よかったら今日、ウチで食ってくか? 久しぶりだし、百合だってきっと喜ぶ」
「ええーっ!?」
 突然大声を張り上げて目をまん丸と広げて翔を見る唯音。当然周囲の買い物客が訝しげに二人を見つめているのは言うまでもない。
「ば、いきなり大声出すなよ」
「だってだって、翔がそんな優しい言葉をかけてくれるなんて信じられなかったから」
「う……、いや、たまにはいいだろ」
 どうもばつが悪い。翔は後頭部を掻きながら唯音の反応を待つ。
「……なになに、ホントは私を部屋に連れ込んでヤラシイことする気なの?」
「前言撤回。今の話はナシだ」
「あうー! 待った待った! うん! じゃあお呼ばれされちゃうぅ」
「お呼ばれじゃない。夕飯作るのお前も手伝え」
「ええ〜、私が作るより翔一人で作った方が美味しいじゃん! 調理中は百合ちゃんの面倒見ててあげるからさぁ」
「……ったく」
 翔はやれやれと嘆息する。唯音は満面の笑みで踵を返すと、籠に収まっていた食材を全部返品してきた。そして翔の横にピッタリと張り付き、ニヤニヤと翔の顔を見上げている。何というか、結構こっ恥ずかしい状況じゃないか、これ。
「ねえねえ、今日のご飯なーに?」
(頼むから大きな声でそんなこと言うな。一緒に食うってのが周囲にバレるだろうが)
 バレるって、一体誰に対して警戒してるんだ。馬鹿らしい。
 翔はそのまま唯音を引き連れて帰宅する。予想通り、というか宣言通り、唯音は先に帰宅していた百合と一緒に百合の部屋へ消えていき、キッチンには翔がポツンと取り残された。あいつの皿だけタバスコ振ってやろうかと本気で思案する。
 まずは朝飯の洗い物を済ませ、その後時間のかかる煮物の食材を切り始める。生野菜サラダを盛りつけ、みそ汁の準備を進める。
 ふと、みりんを手に取ったまま翔の動きが止まった。
(あいつ、ちゃんとした飯食ってるのか……?)
 意識的に忘れようと思えば思うほど、人間の頭ってのはその記憶を掘り返すのが好きらしい。特に一人で居る時は、否応なく過去と現在が交錯する。
 昼間に詩歌が見せてくれた映像によれば、フリルは翔がこの世界に戻ってからアッシュに拘束されたらしい。そして牢獄みたいなところに幽閉され、厳しい拷問を受けていた。何故翔狙いだったアッシュがフリルを拘束したのかはわからないが、理由など考える気もしない。
「ご飯できたー? うわ、翔っ、鍋吹いてるっ!」
「え……? どわっ!」
 様子を見に来た唯音の言葉で我に返り、翔は慌ててコンロの取っ手を回した。こっちに戻って以来こんなことばかりだ。
「ふぅ。……もうっ! やっぱりまだボケてるのね! 昨日の様子を見てもう大丈夫かなって思ったけど、やっぱりまだ呆けてる!」
「いや……、まあ、昨日遅くまで漫画読んでて睡眠不足なんだ」
 睡眠不足というのはもちろん事実。授業中にいくらか寝たが、完全回復にはほど遠い。
「漫画ぁ?……嘘でしょ」
「うっ……」
(何故わかる)
「どうせえっちぃ本見なながらさぁ、あーんなことやこーんなことしてたんでしょ! 私の顔写真切り取って本に張ってさ!」
「待て。エロ本うんぬんもあれだが、それ以上にお前の写真をどうこうってのは聞き捨てならない。今朝も尋ねたが、お前の家に鏡ってものはないのか?」
「そろそろ用意できるよね。じゃあ私、百合ちゃんと江利さん呼んでくる」
「聞けっ!」
 クルリと身を翻してキッチンを出て行く唯音。翔の戯れ言は特殊なフィルタで脳へ伝達されないようになっているのだろうか。質が悪いことこの上ない。
 唯音が出て行った後、翔はやれやれとかぶりを振ってから食器をテーブルに並べ始める。カチャカチャと陶器同士がぶつかる甲高い音が静かに響き、換気扇の耳障りな音がそれに重なる。
 一人になった途端、再びあっちの世界のことが気に掛かってしまう。いや、あっちの世界というより、そこに住まう一人の少女のことだ。
 少女は、フリルは出会った時からずっとこうして翔の心を掻き乱す。アカデミーの男共がこぞって阿呆だったように、翔だってそれに負けないくらい馬鹿だ。馬鹿だからこそ、今もこうしてフリルの憤慨した顔が頭から離れない。
 でもそれも今日限り。明日の朝が来た時、翔の記憶からフリルのことは綺麗サッパリ消去されているはずだ。それでいい。そうすればきっと、こんな煩わしい気持ちを抱かなくて済むはずだから。
「あら、まだ配膳終わってないじゃん」
 唯音に呼ばれて姉さんが最初に顔を出す。ぱっと見て配膳途中だったことに気付きながらも、翔を手伝おうとせずにドカッと席に着く姉さん。結構がさつで横暴なところもあるが、実は優しくて姉らしい面も持ち合わせているもんだから翔は姉さんに対して頭が上がらない。散々甘えてきたから。
「あー良い匂いーっ」
 唯音と揃って百合がダイニングに入ってくる。百合は配膳途中なのを見て直ぐさま翔の元へ駆け寄り、人数分のコップと箸をテーブルに並べていった。働き者で何かと兄を手助けしようとしてくれるのだが、決して料理の入ったボールや陶器類の皿は運ばせない。高確率で転けて割るから。
「おじさんは?」
「父さんはまだ道場だろ。今日は剣道塾の日だし」
「じゃあ先食べちゃおっと。いただきまーす」
 最初から父さんを待つ気はなかったため、翔もエプロンを外して席に着き、三人の顔をグルッと見回してから箸をとった。
(そう、俺の居場所は……、ここにある――)
 ――なのに、
(なのにどうして、こんなにやるせないのか)
 理由はわかっているが、答えはわからない。
 自信作であるはずの夕食が、味気なく思えた。

* * *

 夕食後、翔は自室で数学の教科書を眺めていた。ラジオからはプロ野球放送が流れ、現在はドラガンズがジーアンツに2−0でリードしている。前半戦最後の天王山。
 壁の向こうが騒がしいのは、百合の部屋に唯音が居座っているからだろう。唯音は百合がまだ赤ん坊の頃から知っている上、百合も姉さんより唯音の方が歳が近いため、まるで本物の姉妹みたいに仲がいい。
 しばらく教科書の章末問題に取り組んでいたが、すぐに挫折して背もたれを軋ませながらダラッと天井を見上げる。あっちの世界の数学と違い、こっちの数学はチンプンカンプンだ。
(あいつ、泣いてたな……)
 ふと思い浮かぶフリルの泣き顔。そりゃあ、無理矢理犯されそうになったんだから泣いても仕方ない。あいつだって、根は普通の女の子なんだから。
(でも、俺に何が出来るわけもない)
 詩歌はきっと何もしない。いや、何も出来ないのだろう。それと同じで、今の翔にフリルを護る術はない。そんなこと、もう何度考えただろうか。
 多分、自分は今すごく情けない顔をしている。こんな顔、身内にだって見られたくはない、そう思っていた時、
「おーい、入るよー」
 唯音がノックも無しに翔の部屋のドアを開き、ドスドスと入ってきた。不意の登場で、翔は一瞬反応が遅れる。
「あれれ? もしかしてまーたウジウジしてたの?」
「う、うっせーな、ノックも無しで人の部屋に入って来んじゃねーよ」
「あら? 私のためにわざと鍵開けといてくれたかと思ったのにぃ」
 頬を朱に染めながら、「きゃっ」と微笑む唯音。この部屋のドアに鍵などかからないことを、唯音だって知っているだろうに。
「っていうか、もうすぐ九時だぞ? そろそろ帰れ」
「何言ってるのよぅ、夜はこ・れ・か・らでしょ?」
「……そろそろキレていいか?」
「いやん」
 キッと睨め付けると、唯音は両手を頬に添えながら肩を竦めて見せた。もちろん、顔には小憎らしい笑みが張り付いている。
「ま、冗談はさておき、勘の鋭い唯音ちゃんは翔がどーしてウジウジしてるのかわかってしまいました!」
「あん?」
 唯音は高らかと挙手した後、窓辺に立ってカーテンを開くと、夜空に浮かぶ弧を見つめながらスッと目を細めた。
「翔、好きな子できたんでしょ」
「ぶっ! な、何言ってるんだよ」
「だって、昨日からずっとボンヤリとしてて変だもん。一昨日までのそれと違って、今の翔、まるで恋する乙女みたい」
 少しだけ表情を曇らせる唯音。窓の外を見つめる横顔が、いつもより何故か大人びて見えた。
「……俺は男だ」
「やだっ、ここで男を証明する気? えっちぃ!」
 クルッと唯音が翔へ体を向ける。表情は笑顔だが、やはり覇気が無い。軽口だって、いつもほどのキレがない。
「……で、誰なの? 翔の好きな子って」
「だ、誰って、お、俺は別に好きな奴なんか……」
「クラスメイト? ここの門下生? 部活の後輩?」
「だから別に好きな奴が居るからどうこうって悩んでるわけじゃねーよ。……俺はただ」
「ただ?」
「身動き取れない自分に嫌気を感じてるだけだ」
 その言葉は驚くほど簡単に口から飛び出した。詩歌の話を聞いて以来ずっと悶々としていたことの答え。そう、口に出せばとても簡単なことだった。
「だからー、それが恋煩いなんでしょ? 好きなのに告白する勇気がない、みたいな」
「違う。……そうじゃ、ないんだ。俺の居場所はここにある。でも、それでも俺はあっちが気になって仕方ない。結局、自分がどうしたいのかわからないんだ」
 独白に近い翔の言葉を、唯音がどう受け取ったかはわからない。ただ唯音は静かに翔の言葉に耳を傾けていた。
「俺は無力で何も出来ない。けど、だからといって何もせずに居る自分に腹が立ってしょうがない。何も出来ないから何もしないのか? 無力だから諦めるのか? ……はっ、ホント情けないな、俺」
「……ホント、情けない!」
「え?」
「何も出来ないから何もしない? 馬っっっっ鹿じゃないの!? 何も出来ないなんて誰が決めるのよ! 翔が何を悩んでるか知らないけど、出来ることが無いなら出来ることを探せばいいじゃない! 何も出来ないなんて、ただの言い訳よ!」
 唯音が眉根を寄せてキッと翔を睨む。その毅然とした態度は、今の弱々しい翔とは雲泥の差だ。
「無力だから諦める? 未練がましく諦めるって言葉を吐いてる時点で諦めてない証拠でしょ? 無力だなんて言い訳しないで、ボロボロになるまで足掻いて見せなさい!」
「唯音……」
「……らしく、ないわよ。翔は、ぶっきらぼうでニヒル気取りでムッツリスケベだけど、いつだって立ち止まらずに突き進むタイプでしょ! 信号無視して車に轢かれるタイプでしょ!」
 例えは気に入らないが、唯音が何を言おうとしてるのかは感じ取ることができた。何だかんだ言って、唯音はこっちの世界で翔を理解してくれる数少ない人間の一人だ。
(は、はは……。確かに、唯音の言うとおりだな……)
 何も出来ない。本当にそうだろうか。出来ることなら――
「そうだな。考えてみれば、出来ることあるじゃねーか」
「翔?」
「もう諦めたって言うのも癪にさわる。俺、父さん譲りで負けず嫌いだから」
 唯音がキョトンと目を見開いている。今はそんな唯音の表情が、とても愛おしく見えた。
(記憶の修正を行われるまでまだ時間はある。だったら、最後まで足掻いてやるさ)
 グッと拳に力を込め、翔は立ち上がった。呆然と口を開いたままの唯音に背を向け、ドアノブに手を掛ける。そして振り返り、唯音に、
「ありがとう」
 心から、感謝の言葉を贈った。

* * *

 白が全体を覆う広い部屋。カーテンの付いた大きなベッドのシーツには皺一つ無く、レースの入った絨毯には塵一つ見当たらない。
 タンスや机も木材を白で塗装してあり、天井には布に描かれた紋章のようなものが貼り付けてある。花瓶に入った鈴蘭の花は部屋の壁より白く、大きな鏡がそんな白一色の部屋を反射していた。
「少しは落ち着かれましたか?」
 幼い少女が、自分より年上の少女に優しく話しかける。桃色のショートボブ、銀色の瞳。純白のドレスにヘッドドレスを付けた少女は、慣れた手つきで白いカップにマンダリンオレンジの液体がトポトポと注がれていく。
 桃色の髪の少女の向かい、しっとりと濡れた長い金髪を垂らす碧眼の少女。目に覇気がなく、ポットの注ぎ口を呆然と見つめていた。
「……申し訳ありません。私がもう少し早く気付いていれば、あのような思いをなさることはなかったでしょうに」
 無言のまま佇む金髪の少女に、桃色の髪をした少女はカップを差し出す。
「私はアーリア。アーリア=クライスト。あなたは?」
「…………」
 金髪の少女は無言で紅茶を飲む。アーリアと名乗った少女は、小さく息を吐いて自身もカップを口元へ運んだ。
「私は巫女で、先日一つのご神託を享受しました。聖書の預言にある、黒き炎、《異世界の焔》がこの地に現れる、と」
「…………」
「かの者は世界を崩壊より救うために必要な存在なのです。同じ世界に住まう者として、ご協力していただけないでしょうか」
 金髪の少女は黙ったままカップを置く。カチャッと陶器が触れあう音が木霊し、再び静寂が白い部屋を包む。
「教えて下さい。《異世界の焔》……、テンチカケルという少年のことを」
「……え?」
 アーリアが口にした名前を聞いて、金髪の少女が顔を上げる。アーリアを一瞥し、少女は口を半分だけ開く。しかし直ぐさまキュッと唇を噛みしめ、何を言葉にすることなく俯いて瞳を閉じた。
 もの悲しげにアーリアが見つめる前、少女は小さく小さく、
「……カケル……」
 少年の名前を寂しげに呟いた。

* * *

 夜の学校は何処までも不気味で、職員室以外は暗闇に覆われていた。電気を付けるわけにもいかないため、翔は足下に注意しながら校舎内を疾走する。
 何処からどうやって侵入したかなどこの際どうでもいいことだ。鍵が掛かっていればこじ開け、無理ならたたき壊す。ただ、それだけ。この事がバレて停学処分を喰らったり下手したら退学になるかもしれないが、そんなもの、今はどうだっていい。
「はっ、はあっ」
 階段を一気に駆け上がる。そして目の前に飛び込んできた扉のノブを思いっきり回す。
 開いたドアの先、澄んだ星空と都会の眩い夜景が視界に飛び込んできた。ぽっかりと浮かんだ弧月。その月光に照らされ、一つの影が翔の前にそびえ立つ。
「詩歌」
「あひゃ? あわわわ翔さんじゃないですか! どどどうしたんですか? また頭痛ですか?」
 翔に名前を呼ばれて振り返る影。昼間見た時と変わらず、こんな時間だというのに制服のまま屋上に一人で佇んでいる詩歌。
「よかった、まだここに居たんだ」
「は、はい。まだプログラムが出来てないものですから。もう少し、もう少しだけ待ってもらえますか?」
「……いや、そのプログラムとやらはもうどうでもいいんだ」
「あへ?」
 詩歌が翔の顔を見つめて小鳥のように首を傾げた。翔は構わず詩歌の手前まで歩み寄る。
「俺を……、もう一度あっちの世界へ行かせてくれ」
 ハッキリ、絶対聞き間違いされないよう言った。詩歌からすれば自分の耳を疑うところだろう。いや、相手の思考が読めるのであれば、聞き返すまでもないかもしれない。
「あれからずっと考えてたけど、やっぱこのままってのは後味が悪すぎる。明日の朝には全部忘れて何もなかったことにできるかもしれないが、それは俺だけだろう? フリルは、あいつは……」
「え、ええっと、その、それは……。あうぅぅぅ……」
「頼む。行かせてくれ。……そりゃああっちの世界で俺は無力かもしれないが、それでも行かなきゃならねーんだ!」
 翔の気迫に押されたのか、詩歌があたふたしながら後ずさる。端から見れば年下の女の子に無理矢理迫ってる男みたいだが、観客は誰もいない。
「あ、あのですね、その、管理者の立場から言えばそれは認められないんです。その、他の世界構造で設定されたパラメータを有する人物をアドレス変換すると、その、移動後の世界における世界構造で設定された上位パラメータを継承して予測不能な能力が特異発現する可能性があるわけでして……」
「俺はすでに一度あっちの世界に連れて行かれたんだ。それは管理者とかいう詩歌の責任でもあるんだろ? 詩歌の管理能力不足で俺はあっちの世界へ行き、そこでの居場所を作ってしまった。そう、あっちの世界にももう、俺の居場所があるんだ」
「あ、あぅぅ、あの、でも、それは……」
「もし俺があっちの世界に連れて行かれた日まで時を逆行させて、やり直すことができるなら納得してやる。だが、それができずに単に記憶を書き換えようなんざ思ってるようなら、絶対認めねぇ」
「う、ううううぅ」
 詩歌はしきり唸りながら半泣きの表情で翔を見つめる。これはいじめてるわけじゃない。だから、決して弱気になってはならない。
「うう。も、もしまた翔さんの存在アドレスを変更したら、もう二度とこちらへ戻ってこれなくなるかもしれませんよ? こ、今回だってギリギリだったもん。もしアドレスが向こうの世界で固定された場合、私の権限じゃもう修正できなくなっちゃうんですよ?」
 詩歌の言葉に、翔はグッと唇を噛みしめる。こっちの世界に未練無いわけがない。両親に姉さん、百合。唯音に悟。かけがえのない人達が居る世界だ。離れたいわけがない。
(でも、もう、決めたんだ)
 翔はキッと詩歌を見据える。この距離であれば詩歌は翔の思考を読むことができる。わざわざ口に出さずとも、わかってくれるはずだ。
「あ、あぅ……」
 詩歌が翔から視線を逸らして俯く。スカートのプリーツをギュッと握り、上唇で下唇を甘噛みしながら、眉根を寄せて目の縁に涙を浮かべる。
 そのまましばし沈黙が続き、夜風が二人の髪をなびかせる。遠くから響く電車の音が虫たちの演奏を阻害し、喧噪なサイレンを鳴らして救急車が学校の前を通過した。
「わかり……ました」
 どれだけ経っただろう。詩歌が顔を持ち上げ、苦しげな表情のまま小さくつぶやいた。
「すまない」
「いえ、もとはと言えば私の管理能力不足です。その結果翔君に迷惑をかけ、局所的ではありますが、世界に大きな影響を与えてしまいました」
 詩歌は謝罪するようにそう言うと、スッと翔に歩み寄り、翔の顔の前に自分の小さな白い手を掲げた。ボソッと何かをつぶやき、詩歌の手が仄かな光に包まれる。
「……一つだけ、その、本当は私達天使は人間のことに干渉してはいけないんですけど、あの……、翔さんの為に敢えて言わせて下さい」
「え?」
「翔君のパラメータはすでに特異発現によっていくつかデータが改竄されています。翔君の能力を特徴付ける上位クラスがこっちの世界構造だけでなく、あっちの世界構造も関わってきたからです」
「……どういう意味だ?」
「つまり、こっちの理屈とあっちの理屈が入り交じった状態なんです。こちらを物理法則を基本とした科学理論とすれば、あっちはマナの法則を基本とした魔学理論。この二つの理論は部分的に排他的であるため、翔君は双方に屈し、双方に抗うことができます」
「小難しい説明はいいから、要点だけ言ってくれ」
「はい。翔さんは魔法を否定することで無効にすることが出来るはずです。同様に、物理法則上不可能なことも、できると信じれば魔法の力で可能になる場合があるのです」
 それはつまり最強というのではないだろうか。魔法を無視できて、物理法則も無視できる。何でも出来ると同義じゃないだろうか。
「でも、それらはすべて翔さんの意志に関わってきます。翔さんが魔法を認めればそれを用いて物理法則を超えることも可能ですし、魔法を意味不明な力と位置づけて否定すれば魔法を無効化できるのです。逆を言えば、少しでも魔法の存在を疑えば物理法則は超えられませんし、少しでも魔法の存在を信じてしまえば無効化することはできません」
(……少しでも、か……。それはかなり難しいかもしれないな)
 翔はグッと拳を握りしめる。詩歌はそれ以上何も口に出さず、静かに瞳を閉じた。詩歌の手を包んでいた柔らかな光が翔に降り注ぎ、翔の全身を満遍なく覆っていく。
 徐々に意識が揺らいでいく。アッシュとの戦いで感じた最後の瞬間と同じ、自分という存在がぶれていく感覚。
 闇に呑まれ、光に包まれる。あの時は途切れてしまった意識を、今度はちゃんとつなぎ止める。
「行きますよ」
 詩歌の声が遠く響いた。
 無重力感覚。自分の四肢が別方向へ向かう違和感。視界は真っ白で何も見えない。完全な無音空間を超え、徐々に感覚が正常に近づく。
(か……くぅっ!)
 急激な思考の逆流。自分という存在が確定していく感覚を実感し、一瞬、だけど遙か昔に体感した世界という存在を認識し始める。霞のような視界が輪郭を帯びていき、体内を巡る血液が自我を覚醒させる。
 そして――
「ぐほっ!」
 無様に倒れ込んだ。床がある場所に、俯せに倒れる翔。
「――っつー」
 体を起こし、翔は頭をさすりながら周囲を見渡す。まだ世界は真っ白だった。
(あれ? 着いたんじゃねーのか?)
 自分の存在を確認できる。体は至って正常、感覚はハッキリしている。なのに、翔の視界には白が溢れている。
(光じゃない。白だ……)
 判断が遅れたが、それは光の白ではなく純粋な白い空間だった。白一色で統一された部屋。カーテンからベッド、壁紙に天井、すべてが白を基調とした場所。
 その部屋の中、白以外の色はとても鮮やかに浮かび上がる。
 見知らぬ桃色の髪の少女。そして、見慣れた、けれど何処か懐かしい、金髪。この白い空間で一際目立つのは、そんな金髪少女の持つコバルトブルーの澄んだ瞳。
 そう、翔がこの世界に来た理由。どうしても来なければならなかった理由。そのすべてが、この少女にある。
 翔は立ち上がった。目を白黒させながらこちらを見つめる金髪の少女を見据え、
「悪い。遅くなったな、フリル」
 柔らかな笑みで言った。
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