それは恵一の目の前で起こった。
 GSX1100刀は宙に舞った。
 刀と、それを追うメルセデス・ベンツ500SELが、恵一のホンダNSR250Rを凄まじい勢いで追い抜いた瞬間のことだった。
 追いついたメルセデスが刀を横からはじきとばしたのだ。
 ライダーは刀と共に宙を舞った。
 そのスピードも手伝って、かなり高く宙を舞った。そして路面に叩きつけられてもその勢いは止まらず、ライダーは路上を転がった。考える間もなく、恵一はフルブレーキングしてNSRを止めた。
「何て事しやがる!」
 叫びながらNSRを降り、倒れた男に駆けよる。
 男と、そして刀の向こうにメルセデスも止まった。
 男の全身は黒のレザースーツと、それに付随する大小様々の硬質プロテクターに覆われていた。
「おいっ!大丈夫か?!」
 そう言ってのぞきこんだ瞬間、男が急に手を伸ばし恵一のジャケットを掴んだ。
「い?!」
 目を白黒させながらとまどう恵一の顔に、男の骸骨のようなスタイルのシンプソンヘルメットが近づいた。
「あんた…バイク乗りか?」
 場に似合わぬ質問が恵一を混乱させる。
「え?!あ…ああ…。」
 大体、今の恵一の格好を見れば、そんな事は聞かなくても分かる。
 派手なアライのフルフェイスヘルメットを被り、黒のナイロンツイルの防寒ジャケットも明らかにバイク用と分かるデザインの物だ。
「ならば…バイク乗りとして頼む。これを…これを届けてくれ。栄だ。名古屋の栄。アネックスビルを知っているか?」
 恵一は質問の方に対してうなずいた。
 栄の、テレビ塔の近くのファッションビル。五〜八階が東急ハンズという雑貨洋品店となっていて恵一も何度か足を運んでいる。
「その脇にCBがいる。八時だ…。八時までにこれを…。」
 そういって男はウエストバッグから一つの包みを取り出した。
 カセットテープよりも多少大きいサイズのそれを恵一は無理矢理、手に握らされた。
「ちょっ…ちょっと…それよりあんた…体の心配…。」
 恵一は男の身を案じて言った。
 右腕はあらぬ方向に曲がっているし、足も先刻からぴくりとも動かない。
 レザースーツと硬質プロテクターのおかげでこの程度ですんでいるのだ。
 下手をしたら死んでいた。そう思えるほど男は高く、激しく宙を舞った。
「頼む。」
 路面に削られて傷だらけのヘルメットのシールドの向こうで男が泣いていた。
「バイク乗りとして…男として頼む。行ってくれ!頼む!」
 胸の奥に熱い物が湧きあがってきた。感動とそれに倍する興奮。
「分かった。行ってやるよ。だがまず救急車だ。いいな。」
「行ってくれるか。礼を言う。俺のことはいいから早く行ってくれ。そいつには…。」
「待ってもらいましょうか。」
 涙声を、冷たく固い声が制した。
 恵一が顔をあげると、そこには派手なネクタイに紫色のダブルのスーツを身に付けた男が立っていた。メルセデスに乗っていた男。それほど年を食っているようには見えない。
「山崎さん。関係ない人を巻き込むのはやめたらどうです?ゲームはもう終わりだ。君もそれを置いて行きたまえ。子供がかかわりあうことじゃない。」
 山崎と呼ばれた男は何も言わずに懐に手を入れた。
 取り出したのは黒光りする金属製の凶器。
 ベレッタM92FS。
 アメリカ陸軍の制式拳銃。
 銃口はまっすぐに紫スーツの男の胸に向けられている。
 こんな物、恵一はエアガンでしか見たことがなかった。
 本物―?!
 恵一はあまりのことに息を飲んだ。
「白坂…。」
 山崎がしぼり出すように言葉を発した。
 白坂と呼ばれた紫スーツの男の前に二人の男が立ちはだかった。盾となるように。
「山崎さん。」
 白坂が答えた。子供に何か言い含めるような口調で。
 山崎のベレッタを握る手が震えている。そして震えた手をそっと下ろす。狙いが白坂の胸から外された。
「頼んだぜ。」
 山崎はかすれた声で言った。風の音にすらかき消されそうなささやき声だった。
 狙いを外された白坂が笑みを浮かべた。
 勝利の笑みを。
 だが山崎は引き金を引いた。
 銃声が恵一の耳を襲う。
 それと同時に。
 まるで爆弾でも仕掛けてあったかのように、銃弾を撃ちこまれたGSX1100S刀が炎をあげてはじけた。
 恵一は思わず手をあげて顔をかばう。
 炎の壁ができていた。白坂達はその向こう側にいる。
「行け!行ってくれ!」
 山崎は叫んだ。
「バイク乗りとして頼む!行ってくれ!」
 叫んで自ら立ち上がり恵一を突き飛ばした。
 その瞬間、銃声と同時に山崎の胸から血がはじけた。
 ストップモーションフィルムの様に山崎の体が舞った。
「うわああああっ!」
 恵一は叫んだ。叫んでNSRにまたがった。
 炎の向こうから白坂と二人の男が現われる。
 二人の男は銃を握っている。
 無闇やたらにアクセルを開ける。NSRがダッシュした。
 走り去る恵一に銃を向け、狙点を定めていた二人の男を白坂は制した。そしてポケットから携帯電話を取り出す。
「目標が変わった。スズキからホンダに変わった。塗色は黒。乗っているのはガキだ。黒ベースの派手なメットにグレーのジャケット。おそらく高速だ。インターを固めろ。以上だ。」
 それだけ言うと、白坂は携帯電話をしまいこむ。そして二人の男に声をかける。
「インターだ。行くぞ。」
「はいっ。」
 二人は答えて後に続いた。
 後には燃え続けるGSX1100S刀と山崎だけが取り残された。
 白み始めた空に黒煙が立ち上っていた。
 




 ミラーに目をやる。
 メルセデスはついてきてはいない。
 恵一は夢を見ているような気がしていた。
 つい先刻までは、徹夜でケーキ作りのバイトをしていた。それが一転して安物のビデオムービーのような世界に飛び込んでいる。
「山崎って行ってたな…。」
 恵一はウエストバッグに手をやった。
 そこには財布や免許証と一緒に慌てて放り込んだ、あの包みが入っている。
「こいつは一体…。」
 山崎はこの包みに命を賭けた。それほどの物。
 バイク乗りとして―。
 恵一は山崎の言葉を想う。
 命を賭ける価値を持つ、それほどの物を何故、恵一に託したのか?
 バイク乗りとして―。
 重く、熱い言葉だった。
 左腕に巻いた、カシオG−SHOCK、DW−5600Eに目をやる。
 午前六時三八分。
 八時まであと一時間半弱。不可能な時間ではない。
「行けないことはないか。」
 口に出して確かめる。
 山崎が命を賭けたこの包みを―。
 恵一はバイク乗りだった。
 バイク乗りとしてこいつを届ける。
 決心した。
 恵一はG−SHOCKをタイマーモードに設定する。
 残り時間を示すモードだ。
 残り一時間二〇分を切っている。
 恵一はNSRを東名高速道路岡崎インターチェンジへと向けた。
 そして、レースが始まった。
 




「ホンダ…だったな。塗色は黒。速い奴なのかな?」
 神谷はつぶやいた。
 相棒の岩村は何も答えない。神谷は時々、この相棒の無愛想さが嫌になる。その点こいつは最高さ、とハンドルを握りながら思う。
 R32型スカイラインGT―R。
 八九年にニッサンがツーリングカーレースを制覇する為に登場させたスーパーウェポン。
 神谷は当時国産最強をうたわれたこのマシンにさらに金をつぎこんだ。
 今では新型のR33型GT―Rが登場しているが、それにも負けない自信があった。神谷にとって、心強く、頼もしい最高のパートナーだった。
「来た。」
 岩村がインターに入ってきたバイクを見つけた。塗色は黒。ホンダNSR250R。
「当たり…かな?」
「分からん、待ってろ。」
 岩村はそう言ってGT―Rを降りた。
 ライダーは高速券をポケットにしまいこんでいる。厚手のウインターグローブのおかげで苦労しているようだ。
 手をあげて岩村が声をかけた。
 NSRのライダーが岩村に気づいた。
 いきなりダッシュした。
 あいつだ。神谷はそう確信した。
 革製のドライバーズグローブをはめた手に力が入る。
 岩村がドアを開けて乗り込んできた。
「あいつだ!追え!」
「捕まってな。」
 焦る岩村をたしなめるように、神谷はゆっくりと言った。
 そして。
 GT―Rがダッシュした。
 獲物を狙う狼の様に。

 あのGT―R…奴らの仲間だ!
 NSRを見て駆け寄って来た男が慌ててとび乗っていた。
 スカイラインGT―R。その性能は恵一もよく知る所であった。
「負け…られるか!」
 つぶやきで自らに喝を入れる。
 恵一の駆るNSR250RもワークスレーサーNSR250のレプリカとしてクラス最強を誇り、ワインディングならまさに無敵となるマシンである。
 たとえ相手がGT―Rでも…。
「負けて…たまるか!バイクの力を甘く見てんじゃねぇぞ!」
 叫ぶ。恐怖を打ち払うように。
 早朝だというのに東名高速道路には車の影がかなり目につく。
 パッシング。ミラーが光る。
 GT―Rが背後にいた。
「くそっ!」
 シフトダウンしてアクセルを開ける。
 NSRはいななき加速する。
 恵一は車の群の中へNSRを突っ込ませる。センターライン上を通り、カローラと巨大なトラックの間を抜ける。
 NSRの利点は小回りと加速性。
 それを最大限に発揮させる必要があった。
 体中を緊張感が支配していく。ミラーにこそ写らないもののGT―Rのプレッシャーは確実にNSRを捉えている。
 左右に車をかわしながらNSRを走らせる。
 シフトダウン。アクセルオン。
 エンジンが吼え、タイヤはアスファルトを蹴る。
 目の前に迫ったパジェロを追い越し車線から追い越し、宅急便のトラックを躱して前へ出る。
 車がいなかった。先行車ははるか彼方。
 しまった!チェンジペダルを蹴とばす。
 アクセル全開。
 タコメーターの針が駆け上がる。
 風圧が恵一を襲う。
 こんな時、ライダーは風と戦う。力の限り。
 カウルの中に縮こまって身を隠す。
 十二月の早朝である。風は冷たい。
 冷気に耐え、アクセルを開け続ける。
 奴らが…GT―Rが来る!
 ミラーが光で埋まった。
「くそ!駄目か!」
 ミラーの中にGT―Rのいかついフェイスマスクが大写しになっていた。

「よし。追い付いた。」
 前方にNSRが見えた。
 ライダーは風圧の中、必死でNSRにしがみついている。
「終わりだ。」
 神谷はアクセルを踏み込んだ。GT―Rはさらに加速していく。
 NSRが迫る。いや、正確にはGT―RがNSRに迫っている。だが、あまりの加速にNSRが後向きに突っ込んでくるように見える。
 神谷はNSRにパッシングを浴びせた。
 勝利の宣言と警告だ。
 よくやった。だがもう終わりだ。
 所詮このGT―Rの敵ではなかった。
 狼が獲物に追い付いた。

「うわ!」
 GT―Rの鼻先がNSRの右側に突き出された。反射的に車体をひねって離れる。
 このスピードで接触すれば間違いなく宙に舞う。そうすれば待つのは――死だ。
 GT―Rはそのまま並走する。
 走行車線へ逃げる。ついてくる。じりじりと左に寄せてくる。
 上郷SAまで1kmの標識が出た。
 追い込む気か!
 恵一はGT―Rの車内を見る。黒スーツの男が二人。ドライバーと目が合う。
 SAの入り口が見えてきた。
 GT―Rはなおも左へ寄せてくる。
「そっちがその気なら…。」
 つぶやいて正面を見据える。
 追い込むのはいいが、はたしてあんた達はついてこれるかな!

 アクセルはそのままゆるめない。
 GT―Rがボディを押しつける。
 ゼブラゾーンが迫る。
「よし!」
 腰を引きフルブレーキング。フロントサスがNSRを受け止める。
 一瞬にしてGT―Rが彼方へ走り去る。
 チェンジペダルを蹴とばしながら倒し込んでアクセルオン。登り坂になっている上郷SAの進入路を駆け上がる。
 ガソリンスタンドを右手に見ながら駐車場へとNSRを進める。そして巨大なトレーラーの陰に隠れるようにNSRを止めた。
「畜生!」
 恵一は一旦NSRから降り、リヤシートから車載工具を取り出す。
「負けて…たまるか!」
 つぶやきながらポケットへしまいこむ。
 恵一の唯一の武器だった。
 手も足も出ない悔しさが恵一を凶暴にしていた。
 NSRに再びまたがる。
 次はどんな手を使ってでも――。
 エンジンをかける。
 クラクションが鳴った。背後から。
 振り返るとそこには。
 メルセデス!
 NSRをダッシュさせる。出口に向かって。
 だが。
 本線との合流路を一台の車が防いでいた。
 スカイラインGT―R。
 二人の男の内、一人は外に出ていた。
 振り返れば後方はメルセデスが塞いでいる。
 完全なはさみうち。
「くそっ!ダメか?!」
 つぶやきながらも頭の中は回転し続ける。
 まだだ。まだ、何か…。
 クラッチを握ったまま、キルスイッチでエンジンを切る。
 NSRが沈黙した。
 メルセデスからあの男が降りて来た。
 白坂――。
 近づいてくる。背後に一人付き従えて。
 もう一人はドライバーズシートに座ったままだ。
 渡すのか――?
 自問自答する。
 渡せるわけがない。バイク乗りとしての誇りの問題だった。一人のバイク乗りが命を賭けた物である。渡したときはバイクを降りる時だ。
 だが。どうやって。
「終わりだ。」
 白坂はそう言った。
「渡してもらえるね。」
 白坂は笑っていた。
 悔しかった。だが何も思いつかない。ポケットの車載工具で拳銃に喧嘩を売ることはできない。
 駄目か――。
 唇をかみながらNSRを降りた。
 白坂は笑いながら手を出した。
 敗北感の中で白坂を見つめた。
 せめてこいつだけは――。
 ポケットに手を入れる。
 白坂は勘違いしたのか笑いながら言った。
「それでいいんだ。それで。」
 白坂の笑顔の向こうに一台のトラックが見えた。宅急便のトラックだ。
 クラクションを立て続けに鳴らしている。
「お前らこんな所で何やってんだ!邪魔なんだよ!さっさとどけェ!」
 ドライバーが首を出して叫んだ。
 かなり怒っている。予定が押しているのだろう。
 ふと後を振り返る。
 出口はGT―Rが防いでいる。
 が、隙間がないわけではない。問題はドライバーの隙の方だろう。
 ならば――。
 白坂に向き直る。
「分かった。渡すよ。」
 そう言ってポケットの中の工具を掴んだ。
 白坂が笑っていた。
 恵一は笑顔の向こうのトラックに向かって袋に入ったままの工具を投げつけた。
 トラックのフロントウインドウにひびが入る。
「な…何を?!」
 白坂が驚き、恵一の腕を掴もうと前へ出た。恵一はその手を躱して呆然としているトラックドライバーに叫んだ。力の限り。
「馬鹿野郎!図体ばかりでっかいドン亀が!ガタガタ騒ぐんじゃねェ!」
 トラックドライバーが我に返る。只でさえ沸騰気味の頭の中身がさらに温度をあげる。
「こンの暴走族のガキが!ハエみてえなバイクでイキがって道路を走ってんじゃねェ!」
「うるせェ!うすのろが!追いつくことすらできねェくせに!のろまァ!悔しかったらここまで来てみやがれッ!」
 叫んで中指を立てる。
「てンめェ――!」
 トラックドライバーが切れた。
「そこォ動くなァ――!」
 トラックがクラクションを鳴らしながら突っ込んで来た。
「貴様ァーッ!」
 白坂が叫んだ。
 メルセデスがトラックにはじき飛ばされた。フロントウィンドゥが粉雪のようにはじける。
 白坂の背後に付き従っていた男が、白坂を避難させようと引きずる。
「小僧ーッ!てめェーッ!」
 白坂の叫びを打ち消すようにトラックが迫る。
 NSRのキルスイッチをONにしてNSRを押す。下り坂ということもあってNSRはすぐに目を覚ました。
「行っけェ!」
 わずかに開いた隙間に躍り込む。
 ドライバーの焦り顔が視界の隅に入る。
「あばよ!」
 本線に飛び出し加速する。
 トラックはGT―Rをもはじきとばし恵一のNSRを追いかけてくる。
「振り切らせてもらうぜ。」
 恩人に無礼な言葉を吐きながらアクセルを開けていく。
 次々に現われる先行車を躱しながら進む。
 デジタル時計は午前七時五分を示していた。
 




「畜生!あのガキ!」
 白坂は叫んで腕を掴んでいる部下の手を振り払った。
 惨状だった。
 メルセデスはフロント部がぐしゃぐしゃにつぶされ、ドライバーはハンドルに顔を伏せたまま身動きしない。GT―Rの方はそれに比べればまだましな方だ。ドライバーの神谷は額から血を流しているが、GT―R自体はフロントをぶつけられただけの軽傷だ。
 口をつぐんだままGT―Rに歩み寄る。
 ドアの開いたままの運転席に乗り込む。
 エンジンをかける。
 派手な排気音が周囲に響く。
 額から血を流したままの神谷が白坂を引き止める。
「白坂さん!あんたじゃこいつは…!」
 駆け寄る神谷に白坂は拳銃を突きつけた。
 抜き手を見せない早業。
 神谷の鼻先でドイツ製の金属製の凶器が笑っている。
 神谷は凍りついたように動けなかった。
 白坂は拳銃をしまいこむと正面を見た。
 トラックや乗用車が流れて行くその向こうを。
 そこにあのガキがいる。
 もう仕事は関係ない。
 ただ。
 殺すだけだ。
 殺す。
 白坂はGT―Rのアクセルを踏んだ。

 アクセルを握る手は緩まない。
 GT―Rは必ず来る。確信があった。
 全開で走り続ける。
 ふとミラーに目をやる。
 黒い点。
 次第に大きくなってくる。
 振り返る。
 GT―Rがそこにいた。
 投げつけてやろうと思っていた工具は既にない。パワーとスピードで振り切るしかなかった。
 先行車が近付いてくる。その脇を一気に抜ける。GT―Rはボディサイズの故、抜くことができない。
 パッシングとホーンの嵐。車体を振って威嚇して無理矢理どかす。
 違和感があった。
 右に、左に先行者を躱して前へ前へと走らせる。GT―Rはパッシングやホーンで無理矢理先行車を排除してついてくる。
 おかしい。
 正々堂々の勝負に反則を使われたような不快感。
 恵一は軽くブレーキをかけNSRを振る。そしてGT―Rの脇に出た。
 隣に目をやる。
 乗っているのは一人。
 ドライバーがこちらを見た。
「あんたか!」
 白坂――!
 白坂は笑みを浮かべてGT―Rを寄せて来た。
「くっ!」
 体を起こし、タンクを両ひざでしめてブレーキング。GT―Rをやりすごす。
 シフトダウン。アクセル全開。
 タコメーターの針がはねる。
 GT―Rを右から一気に抜く。
 追越車線側の車が切れていた。
「行ったれ!」
 スピードメーターの針が駆け上がる。
 リミッターがカットしてある恵一のNSRは180km/h表示のメーターを振り切る。
「そら逃げろ。逃げてみろ。」
 白坂は足に力を込めた。
 GT―Rが加速する。
 じっくりと追いつめてから殺すつもりだった。一撃でなど殺せない。とことんまで恐怖を味あわせる。俺に逆らったことを後悔させる。どうせ、どんなに努力をしても逃げることなどできないのだから。
 神谷のGT―Rはフルチューンによって600馬力までパワーアップされている。
 ストレートさえあればNSRを追いつめるのは容易だ。
「逃げろよ!殺してやるから!」

 2つの黒い弾丸がハイウェイを駆ける。
 恵一はミラーを見た。
 振動ではっきりとは分からない。黒い影がそこにいる。
 負けない!あんたには!
 200km/hオーバーの風圧に耐えながら右手に力を込める。
 負けてたまるか!
 振動で揺れるフロントスクリーンの向こうで一台のトラックが動いた。

 東郷PAから一台の車が本線に進入しようとしていた。
 走行車線を走っていたトラックのドライバーは、その車と走行ラインが重なり合うことを見てとり車線変更をしようとミラーを見た。
 追い越し車線は空いていた。遠くにバイクが見えるだけだ。
 ドライバーはPAから合流してくる車のためにハンドルを切った。
 トラックはゆっくりと右に動いた。

「!」
 正面でトラックが動いた。
 追い越し車線に入ってくる。 走行車線側に逃げる訳にはいかなかった。
 車の量はさほど多くはない。だがNSRの今のペースでは自殺するようなものであった。
 スピードも落とせない。後にはGT―Rがいる。
 ならば。
 針の穴のような隙間でも通り抜けるだけだ。
 恵一は脇をしめ正面を見据えた。

 NSRの向こうにトラックが見えた。
 白坂の心が躍った。
 ゴールが見えたのだ。
 あのガキは今頃恐怖に震え上がっているだろう。ブレーキをかけGT―Rにはじきとばされるか、トラックに突っ込むか。
 二者択一の解答はどちらも死だ。
 白坂は笑いながらアクセルを踏んだ。
 うれしそうに笑みを浮かべ。

 トラックが迫る。
 目は閉じない。生と死の境目がそこにあった。閉じたら二度と開くことはない。
 アクセル全開のままNSRをとびこませる。
 トラックだろうが中央分離帯だろうが触れればそこには死が待っている。
 頭が真っ白になる。だが、目は閉じない。アクセルも緩めない。
 一瞬でトラックを追い抜く。
 そこには生があった。
「やったぜ!」
 思わず叫んだ。

 すり抜けた!?馬鹿な!?
「邪魔だっ!」
 叫んで白坂はブレーキを踏み込んだ。
 止まらない。
 トラックのテールが近付いてくる。
 そんな馬鹿な。
 奴の運命は決まっていたのに。
 ハンドルを切る。
 テールが流れる。
 中央分離帯に一瞬はりついた。
 GT―Rは宙を舞った。

 ミラーの中でGT―Rがまるでゴミくずのように転がっていた。
 200km/hを越えた高速の世界ではたとえ事故ってもそう簡単には止まらない。
 宙を舞い、トラックを飛び越え、転がりながらなおもNSRを追い続ける。
 GT―Rの断末魔だった。
 山崎の顔が浮かんだ。
「仇は…取ったぜ。」
 恵一は正面に向き直りアクセルを開け続けた。
 

 つづく  


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