サザンクロス交響曲

『悠久根元2000億年をさかのぼる旅』

 

<私にとって神とはなにか>

200225日、執筆開始)

ある人から「戸田さん、神様っていると思いますか」と尋ねられたことがきっかけでした。
それまで何かにつけて神様神様と口に出し、困ったことがあると「神様仏様お助けください」と、
ほとんど無意識に使っていた言葉でしたが、
いざ改まって質問されるとその返答に窮してしまいました。

そういえば神様ってなんだろう?

答えようとして、私に初めて神のイメージが湧き上がりました。
「この宇宙が何の理由もなく出来上がっているとはとても思えません。
この世の森羅万象すべてを司っているお方がいるのなら、それは神だと思うし、神様はいると思うよ。」

このことが私の「神とは何か」の旅の始まりでした。
私にとって神は「救いの存在」ではありません。戸田家が曹洞宗でいわゆる禅宗ということもあったのでしょう、
どちらかというとキリスト教より仏教に何かしら共感を覚えていました。


仏教的な考え方はこんなものでしょうか?

私を苦しめるのは私の考え方。
私が変われば相対する相手も変わる。
空即是色、色即是空
ないということはあるということ、在るということは無いことと一緒だよ
目の前にある見えるものだけに囚われているから悩むのだ
見えないものの中にこそ真実はあるのだ

しかしこういう仏教の考え方には神は出てきません。
でも心の隅っこで、神はおられるるような気がする。
どう考えたらいいのだろう?


「神は全智全能で宇宙創造主である」
ということは、キャラクターがあるということです。
この世界にはドラマがあります。

しかし見えるものと見えないものは一緒なのだよという考え方にはキャラクターは必要ありません。
国語ではなく数学といえるかもしれません。

神とは何かを探ろうとする時、科学的な目でこの宇宙の自然現象を分析し、神の存在を見つけようとする方法と、
神の言葉をそのまま言葉で聴く国語式方法があります。
しかし自然は言語を持っていませんから人間の耳には聞こえません。
神はいないと測定されます。

だから神が存在したとしても、神が伝える情報は特殊な能力を持った人間の言語変換機能のみに頼らざるを得ません。
いわゆる「霊能力者」ですね。

でもそれはたった一人の口から出る言葉です。
それが本物の神の声であるという証明は出来ません。
私が神の言葉を基本的に信じない理由はここにあります。

神の存在を信じたいが信じきれない。
このジレンマに陥った時、いっそのこと私は徹底的に科学的な目で神を探そうと思いました


「信じたいが信じきれないもの」に似たものが、物質の世界での「光」があります。

この地球は光で満ち満ちています。当たり前のように存在しています。
しかし光とはなんだと探してみると、不思議なものに突き当たります。
光は粒子であり波であるとう不確定な二重性を持つ「もの」です。
粒子ではないかという目には確かに光は粒子であると測定され、
波ではないかという目には、波であると測定されます。。

人間には「光とはなにか」を決められない限界があるのです。
私は神はこの光のような不確定な存在ではないかと考えるようになりました。

よし、私はどんなに批判されようとも、神を科学の目で見つめてみよう。

神とは何か?

永遠に人間には決められない存在である、と仮定しました。
右目で見るのか、左目で見るのかで、まったく違って見えてしまう存在なのではないか?
どうも「神の世界」は「物理の世界」となにか似ている気がします。

ある事象を神の霊的作用として解説しようとする人がいる。
その意見は大変貴重なものとして心して聞こう。
しかし神がひとつのものに決められない不確定な存在であるのなら
私は科学、数学、物理という科学の世界に、神を探しにいこうと思いました。

こうして私の「神とはなにか」の旅は始まります。

「前奏曲」

今から15年以上も前のことです。
私は赤道直下ミクロネシア諸島の「トラック島」のリゾートホテルの庭に立っていました。
バックに平屋造りのホテル、目の前は真っ暗な潮騒だけが響く太平洋の海。
夜中の12時の夜空は、雲もありませんが月も無い暗闇の世界です。
しかしその闇は、日本では経験もしたことがない数の「満天の星空」です。

芝生の庭には10名の「かむなから」のメンバーがそろっています。
かむなからと書きますが、「かんなから」と発音します。
取次ぎである神通士のOさんが口を開きます。
「あのね、人間はそれぞれに星を背負っているの。私は北極星だって。」
Oさんは次々と、メンバーの背負う星が明らかにしていきます。
「戸田さんはね、南十字星ってのがあるでしょ。その四つの星を結ぶ十字の中心の見えない星がそうだって」

メンバーが腹を抱えて笑い転げます。
決して主役になれない、いかにも「かむなから」の中での私の立場をうまく表現していたからです。
が、私は妙に納得しました。

メンバーは人間の「みたまおや」として「天系」「地系」のどちらかの龍体神をいただいておりました。
つまり人間はすべからく「神様の分身とともに生きている」というのです。

私の「みたまおや」様は「天系」の金山彦様です。
その点では私も他のメンバーと一緒です。
しかし私の金山彦様は所属が他のメンバーとは違っていました。

私が最初にかむなからに参加したとき「かむなから」の中で私は臭いの違う、
毛色も違う特異な存在として注目されていたようです。

おいおい、変わった奴が現れたぞ。

どうしてかむなからの神は彼を呼びよせたのだろう?
私には宗教の臭いがまったく感じられなかったそうです。
神様に、彼は一体何者だという質問をした人がいました。。

その答えが凄い!

「彼はひつき神の所属であったが、故あって末代が借り受けた」
私はリーダーであるMさんに「ひつきの神」って何ですかと聞きました。
なんとMさんはとんでもないことを言うのです。

以前末代様に伺ったところでは「ひつき神は傍流神です。
表現は悪いのですが、めかけの子というのが当たっている」
と仰っている。

これを聞いて私は、「いったいこの人達の言っている神様ってなんだ」とあきれ返りました。
神に本家本流とか直系とか傍流とか、そんな差別があるとはどういうことだ。
神の世界は人間には不可侵であり、人間界のような不条理など存在するはずの無い清浄極まる世界ではないのか。
それを神様自身が「めかけの子」などと差別用語を使うなどとは!

この人達が信奉する「かむなからの神」なんて、神様であるはずがないと思います。
普通の感覚で言えば、こう結論してしまうのが当たり前です。

しかし私は「全然腹の立たない自分」に驚きました。
「かむなからの人の言うように、」人間一人一人に神様が「わけみたま」として入られているのだとすると、
そうであるならば、確かに私の人生は「ひつきの神」そのものだったと感じられました。

子供の頃から、自分は他の人より一段低いところを生きている「格下の人間だ」という劣等感がありました、
自分は三流の人間だと。

しかしそれは嫌だ、という感覚ではありません。
私はこのレベルの世界で生きていけばいいのだ。
この三流の世界にはお互いを心からいたわりあう温かみがある。

一流であっても、貴人情けを知らずの世界なんて、まっぴらだ、と感じておりました。

なんと、かむなからの神は一発で私の人生を肯定してくれたのです。
自分の歩んできた人生は間違ってはいなかった。
私は私なりに、私しか歩めない道を、堂々と生きてきたのです。
一見むごいことを言うひどい神ですが、真実を語ってくれたかむなからの神を逆に信じようと思いました。

私は決して表で光り輝く存在にはなりえない。
表の世界で光り輝く存在にはなれない。

でもそれこそが私自身なんだ。
「ひつきの神」と同様に「めかけの子」としてさげすまされて生きていくんだ。

トラック島祭事以来私は「南十字星」サザンクロスが心に焼きついています。。
そして最近では、長い長いかむなからの神々との旅の結果、「私のたましい」の故郷は間違いなく
サザンクロスのクロスにある見えない星」なのだと確信するようになりました。
同時に、ここまで20年以上世乃元之神「かむなからの神」とともに
を続けさせていただいたからこそ、そろそろ自分が経験したことをお伝えしなければ、
神様から叱られると思い始めました。

この交響曲は、世乃元之神と人間が共同して演奏するシンフォニーです。
しかし未来がありますから永遠にエンディングはありません。
未完成交響曲と言えるでしょう。
どうか耳で聞くのでなく、心、たましいで聞いてください。
なにかを感じ取っていただければ幸いです。

<演奏開始>

私は「語り部」です。
この交響曲は、書いているわけではありません。
声に出して、語っています。
皆様にこの声が届くことを祈りながら、神の世界のことをお話します。
「語り部」としての仕事は、世乃元之神の姿を伝えることです。
それ以外に<サザンクロス交響曲>を演奏する目的はありません。
どうかこのことをご理解のうえ、お聞きくださるようお願い致します。

私はこの20年間「かむなからの神」と共に歩ませてもらいました。

ところがこう発言しますと、必ずと言っていいほど宗教上の神と混同されてしまい、私を混乱に陥らせます。
あなたのいう神様とは何教の神様ですか?
どんなご利益をくれる神様ですか?
これらの質問にはとても答えられるものではありません。

日本人は古来から「八百万(やおよろず)の神」という概念を持っていました。
神々は私たちの身の回りにいつもいて、決して遠い存在ではありませんでした。
しかし海外から宗教という形で文化が大量に流入すると

「神」というのは全知全能のたった一つしかいない

というイメージを作り上げていきましたので、この混同も致し方ないことではあります。

神は信じる者を救う全知全能の存在である。


そんな世の中に於いて、少しずつではありますが「なんか変だ」と、
戦後学校で教えられてきた常識に疑いを持つ人が出てきました。

先祖霊は本当にいないのかとか、妖怪は架空のものと言い切ってしまって良いのかと。
一方機械で測定されないものは認められない、という科学の世界ですが、
学問の進歩は、現実に目の前にあるじゃないかと確定していたものが、量子論等のように「実と虚」
「この世とあの世」「確定と不確定」が
きっちりと分けられない不確実なもの
であることを示してしまいました。

教えられてきた常識に疑問符が付き始めたのです。

さあこうなってくると慌てたのが
「人間の目に見えない世界」などは無い、絶対に認められないと言って来た人達です。

本来人間に与えられている感性というものを消去し、機械しか頼るものが無いように訓練してしまったので、
天狗さん、カッパさん、座敷わらしさんはちゃんといるのに、

「いない!」と怒鳴るしかないのですね。
妖怪さんは物質のように、機械の測定には引っかからないだけです。
やっぱり、妖怪さんは「妖怪さんの世界の住人」であると、あなたは感じるでしょ!

堂々と「神様はいらっしゃる」と言い張る私の周りに、なんとなく共感して下さって、多くの人が集るようになりました。
ところが「妖怪さん」はいると感じている人でも「神さん」に対しては口を閉ざしてしまうのです。

なぜなら、宗教としてキリスト教やイスラム教などを信仰する人にとって、神が二神いては困るからです。
哲学的、数学的に
考えれば、
この宇宙を創造された「全知全能の善の神」がおられるのと仮定すれば、
宇宙には必ず相対するものが不可欠なのだから、
「無知無能」の神は必ず存在しなくてはならないし、悪の神」も存在しなければなりません。

誰でも悪の側には立ちたくありませんから、自分を救ってくれると言う善の神を捨てられるわけもありません。
ですから困ると言うよりは、イエスから見捨てられるという恐怖心の方が強いのでしょうね。
私とてその気持ちは良くわかりますから、信じるものを捨てろなどとは断じて言いません。
それは現実に存在している神と、信仰の対象となる神とは違うからです。 
しかし本当にのお方たちは、「まことの神」なんだろうかという疑いが沸きますが、今は討論はやめておきます。

<神は2種類いらっしゃる>

「かむならのかみ」とは「世乃元之神」のことです。

この神様は大勢いらっしゃいますので、そのことを表現して「八百万の神」という言い方を古い時代の日本人はしていました。
神代(かみよ)の時代という言い方でもいいですよね。
ギリシャ神話を始め、世界中にはこの宇宙を創造された神様のことを伝える神話が多く残されています。
日本でも「古事記」が残されています。
これらの神の特徴は、ただ生き、ドラマを演じたということだけで、
あなたを救いにやってきたとか、私以外のものを崇拝してはならないとは言っていません。
この神々が「世乃元之神」です。

この世乃元之神が結局人間創生に成功するのですが、
その後なんとこの世乃元之神の世界に「神界戦争」が勃発します。

当時人間を創り上げた神は、人間の脳に神との交信装置が設置していました。
古代文明を興していた古代人は、この交信装置で神々と交信していたのですね。
この時代を「神人交流の時代」と言います。

ところが人間を創生した後、神の世界に異常事態が発生した時に、
ある理由により人間の脳から「彼ら」の手によりこの交信装置が外されてしまいました。
それ以来、神と人との糸が切れてしまい、私達人間は、世乃元之神の存在を忘れてしまいました。
「神人断絶」と言います。

世乃元之神との交信が途絶えた人間は混乱を極めます。
勝ち組負け組み、病気、裏切り、色情、不条理
この世はあまりにもどうにもならないことであふれかえっています。

すべてが「不調和」です。

しかしこの「不調和」が解決されるのは、例えとして
仏陀が予言した56億7000万年後まで待たなくてはならない
ことを知っている世乃元之神がおられました。

そこでそれまでの間、少しでも人間を救済しようと、
救いの神となり人間に宗教を教えました。


ある神は「神として顕現」し、直接指導しました。
ある神は人間と化身し、「仏陀」として指導しました。
これを神の御慈悲と言います。
この神があなたの信仰する神様です。
この神は確かにいらっしゃいます。

しかしながら「世乃元之神」そのものは、ひれ伏し、崇め奉る存在ではありません。
ましてや家内安全、健康、金運、良縁などのご利益をもたらす「救済の神」でもありません。

世乃元之神は現実に存在し、宇宙創生に成功し、結局人間創生に成功するのですが、
このことは原理的には、人間としての父と母が、私を誕生させてくれたことと同じことなのです。

その父と母にはそれまでの歴史があり、私を産んだその後に争いを起こし、壮絶なる戦いを繰りひろげていたのです。
古事記の中では、イザナギ、イザナミの神が黄泉の国を巡って今もって争ったままとなっていると書かれています。
なんと神話の中でも男と女は別れたままだったのですね。
この言い方は一見世乃元之神を冒涜する表現に見えますが、
私という人間を存在させてくれたという点では、何処まで行っても世乃元之神は私の生みの親です。
そこには感謝以外のなにものもありません。

このように私が「神はいらっしゃいます」と言う世之元の神は、
人間を救済しようという神ではありません。
「世乃元之神」は、人間同様「ただ生きてきた」だけなのです。
ですから、世乃元之神の中の、特定の神を拝んだとしても、世乃元之神はあなたにご利益をくれる神様ではないのです。

一方信仰をする神様は、名前は仏でも観音様でも、どなたでもいいのですが。
この神様はあなたにとってかけがえのない神様で、あなたにとって一番大切な神様です。
世乃元之神を知ったとしても、信仰の神を捨てる必要はあなたにはありません。
この信仰の対象となる神様は、あなただけの神様です。

恐怖心

そうは言っても私が一番苦しんだのが、私の中に住む宗教の神様の問題でした。
世乃元之神としての「かむなからの神様」とお付き合いさせてもらっていながらでも、
この信仰する神への恐怖心は拭い去れなかったのです。

皆さんは何かに守られているという感覚がありますよね。
それが死んだおばあちゃんでも、可愛がっていたペットでもなんでもいいのですが、
この守っていてくれる存在がはっきり形をあらわした時それは宗教になります。
この守られているという感覚は、感謝、ありがたいという、
とても大切な概念となりますから、私は失くしてはならないものだと思います。

ところがこの感覚がひとたびはっきりとした対象物になったとたんに、
私を縛り付ける呪(じゅ)となってしまいます。

このお方を放してしまっては、私は捨てられてしまう。

守られているという感覚が強ければ強いほど、
見捨てられてしまった時への恐怖心が私を襲います。
何が何でも信じきらねばならないという脅迫感が私の中に生まれます。
いつしか神仏は私にとって、絶対的存在にばっていたのです。

ところが「かむなからの神」は本物だという直観力だけで始めた旅だったのですが、
日本中や世界のあちらこちらを回って現地の神様と接触していくうちに、
おい、なんか変だぞと気がつき始めました。
捨てられては困るという宗教的神と違って、世乃元之神はどうも全知全能ではない。

それどころか物質の世界である地球上では、あんたたち、不可能はないとえらそうなことを言うけれど、
どうにもならないことが多いじゃないですか。
何処にでも自由自在に動けるのなら、なにもこんな貧乏人を集めて、
ネパールくんだりまで来させて現場神業をさせることはないじゃあないか。

なぜ、全知全能の超能力で「えいやっ」と一発で片付けてしまわないのですか?


<ネパール、ポカラ祭事>

やってもやっても解決しない神業に愛想がつき始め、腹ただしくなり愚痴を言い続ける私の目の前に、
フィッシュテールと呼ばれるヒマラヤの巨大な峰が、雲ひとつない紺碧の空に聳え立っていました。

もう15年も前のことです。かむながらの神のご下命により
ネパール、北インドを1ヶ月かけて神業をしたときのことです。

ネパールのガイドをしてくれたサキヤ君がすまなそうに
「この時期にヒマラヤの山が見えることはありません、今度は乾季においでください」
と言った通り、旅行中空から雲が消えることはありませんでした。
ネパールのカトマンズ空港に降り立ってから何日目かに、ポカラという所に入った時のことです。

当日は雲が無くなるどころの話ではなく、朝から雨がしとしと降っていました。
祭事を開始する頃には霧も出てきて、周りの景色すらまったく見えません。
神様の言葉を伝えるOさんという女性が「取り次ぎ」を開始します。
雨と濃霧ですから、ホテルの敷地内にある屋根付きのスペースの近くには観光客は誰もいません。
この場所で良いから祭事を始める、北に向かいなさいとの通信です。
言われた通り8名は祭事用具を準備して、北に向かって全員が座ります。

祭りが開始されます。ガイドのサキヤ君もちょこんと私の隣に座り込みました。
ヒマラヤの山におわす神からの言葉をいただき、1時間ほどで祭りは了となりましたが、
そのころから目の前の霧と雲がどんどん消えていき始めます。
ものの5分もすると目の前になにやら白い壁のようなものが姿をあらわしてきました。

最初はそれがなんだかわかりません。
サキヤ君が「奇跡だ!」と呟きます。
みんなが、何?と聞きます。
サキヤ君がまるで天井を指差すように、真上を見ろと合図をくれます。
全員が真上を見上げます。
なんとそれは山だったのです。

ヒマラヤ、フィッシュテール峰が聳え立っていたのです。

私たちの思う山は一番高いのが富士山です。
4000メートルの高さは日頃見ていますので大体想像がつくのですが、
8000メートルをはるかに超える峰は、頭の真上にありました。

ホテル中の外国の観光客が庭に飛び出してきて、敷地内は大騒ぎになっています。

そんな中で私はただただポカンとして座り込み、
日本では見たこともない真っ青な空に浮かぶ真っ白な山を見ていました。
夕方だったのですね、どんどんブルーが濃くなっていく空をバックに、
そのうち夕日が赤くヒマラヤの山を染めていきます。
このお魚のしっぽの形をしたフィッシュテールは、ヒマラヤの山々の中でもとりわけ美しいので、
皆様も一回くらいは写真を見ているはずです。

目の前の山からは圧倒される神圧を感じます。

この山そのものが神だ。

そして私の背後から日本の富士山の神圧が押し寄せてくるのを感じます。
何の事はない、私たちを間にはさみ「ヒマラヤの山」と
私たちが背負ってきた「富士山の神」が何かを話し合っているのです。
その時思ったのです、

山は動かない、山は動けない

でも明らかにこの山は神圧を出している。それも圧倒的なパワーだ。
すると物質の極である山そのものを、神の領域にいれて考えても良いかもしれない。。
だとすると、普段私たちが「物質という領域」に入れている小さなものも
「神の領域」に入れても良い化も知れない。

物質という領域」と「神という領域」は、待ったく違う、遠く離れた別世界とは決められない、と感じました。

このフィッシュテールという神様は動けない。
もちろん他の動き回る神様もいらっしゃることは認める。
しかし動けない神様も確かに存在するんだと思いました。

神はひれ伏し、恐れおののくだけの存在じゃあないんだ。
私の目の前に確かに神はいるじゃあないか。
私のような霊感のない体質の者にも、巨大な物質の塊である山からは神圧を感じることが出来る。

物質も神そのものだ!


<シンプル>

山に神がいらっしゃるのではなく、山そのものが神だと気が付いてみると、私の中では

「元素一つ一つが神であっても良い」

ことになりました。
そうすると、世乃元之神は恐れおののく対象神ではなくなります。
まったく見えない霊的な存在ではなく、目の前に現認出来る存在となります。
元素の持つその性質は、それぞれの神の特徴を顕わしているのかもしれないと思いました。 

思えば私は生まれてからずっと、
ばちが当たる」とか「神の裁きを受けるぞ」とかの脅しの世界を生きてきたのです。
しかし物質が神であって良いという、世乃元之神を視野に入れることが出来てみると、

神様を科学の知識、数学の知識で見ようとしても別にばちは当たらないという確信みたいなものが出てきました。
「物質も神だ」と言い切って何が悪い!

人間というものは常に高度というか、複雑にものを考えたがる生き物のようです。
私も世乃元之神の世界を知ろうとし始めた頃は、複雑に複雑に考えがちでした。
しかしかむなからの神のおっしゃることは実にシンプルでした。
その代わりシンプルすぎて、その解釈は2通り、10通りも出てきてしまいますが、
それはそれで謎解きがとても楽しかったことではあります。
私が神の世界を図形、数学、化学、物理を使って理解しよう、となるきっかけとなった祭事がありました。

<日月和合重複祭事>

イザナギイザナミ二つ神離別事件に象徴されるように、
世乃元之神の世界でも「男」と「女」が争い、別れ別れになっていました。

最初に何かがあった

最初の「なにか」は「なにか」でしかありません。
唯一存在」 「絶対存在」と表現されます。

そこには「ある」「ない」すらもありません。

その「根元なる絶対存在」に「陰」と「陽」が生まれました。
この時点で初めて「相対するもの」が生まれたのです。
かむなからでは「陰神」「陽神」と名前がついています。

陰神は分神していって「男の資質」になり陽神は「女の資質」になりました。
次に男の資質は「月」と化神し、女の資質はは「太陽」と化神しました。
つまり月は男の象徴であり日は女の象徴なのです。

かむなからでは「月の男神」「日の姫神」と尊称申し上げております。

この宇宙で神々が争いあうという「神界戦争」が勃発した時、
最大の被害を被ったのがこの日と月というご夫婦神だったのです。
陰神陽神という原質を背負っているが故の責任を取られたのです。
この世の元となられた二つ神が敵と味方になって分かれてしまう、これほどの悲劇があるでしょうか。

しかしかむなからの神々は、「現場神業」という長い長い苦労の果てにようやく
「男の原質」と「女の原質」の夫婦関係の修復に成功するのです。

再びお二方が結ばれる。
この目出度い「祭り」が<日月和合重複祭事>でした。
このとき答礼に立たれたのが、日の姫神さまです。
しかし不思議なことも言うのです。

皆様のおかげで今宵二人は和合することが出来ました。
こうして再び巡りあうことが出来ました。
真の和合とはぴったり重なり合うことではありません。
二つの真円の一部だけが重なり合う、重複(ちょうふく)が本当の和合です。
重複したふたつの真円は、重複によりひとつの楕円となります。
こうして螺旋を描いていくのですね。

国語で理解していく女性にとっては、姫神様が永遠の愛を手に入れられた、
なんと感動的なお祭りなんでしょうと、このお言葉を聞いたことと思います。

私とて、永遠の愛を再び手に入れられたことの喜びは充分に理解できます。
やっとかんなから神業もここまで到達できたのかという安堵感。
喜び以外のなにものではありません。
しかし同時にこのお言葉は、私には理科の教科書のように見えたのです。

ミクロの世界として「元素」が見えました。
ひとつの真円がひとつの水素元素として出現します。

真ん中に1個の原子核が、その周りを1個の電子がぐるぐる旋回しています。

そこにもうひとつの水素元素が近づいてきました。
もしふたつの水素元素がぴったり重なってしまえば、もう水素ではなくなってしまいます。
原子核2個とその周りを2個の電子が飛び回る、ヘリウムという元素になってしまい、
水素という個は消滅です。

しかし水素元素の一部が重なりあうように近づくと、H2として水素分子として安定した形を作ることが出来ます。
原子核は別々に存在していますが、電子2個は共有しあいます。
これを「共有結合」ということは化学で習いましたよね。
このとき水素分子の電子は「楕円」を描きます。

日の姫神様は、本当の和合というのは「ぴったり重なり合うということではなく、、
お互いが自己を確立しつつ、新しい世界を作り上げることなのですよ」と、図を描いて教えてくれていたのです。

そこには男は男として、女は女として自己を確立し、
お互いを認め合わなくては理想のカップルにはならないのですよという姫神様のアドバイスがあったのです。

同時に、このことは、私は「神界を図形として理解しても良いのです」というシグナルに思えました。

次に私にはマクロの世界として、宇宙に浮かぶ星が見えました。
暗闇に浮かぶ地球のような星があります。その星の周りを月が回っています。
月は地球の引力により近づきもせず遠ざかりもしない絶妙な位置で回っています。

その地球そっくりの質量を持った星が衛星を伴って近づいてきます。
その二つの引力圏を持った星が接近します。
するとそれぞれの星の引力中心が二つの星の中央に移動します。

私たちは引力は地球の内部に固定されていると思い込んでいます。
地球として生命が維持されているのも、地球の引力のおかげです。
引力こそが命あるもののすべての根元です。でも地球の中心に固定されていますから、引力は絶対的な存在だと感じています。

しかし重複した二つの天体は、その引力の元となる点が、何もないと見える空間に移動しています。
引力は物質の中心だから存在しているわけではありませんでした。
何も物質がない空間にさえ「引力」は存在しています。
それゆえこの二つの星の二つの月は楕円を描いて旋回します。
その楕円が正しい楕円の形を保ち続けるためには、二つの星ががまったく同一の質量でなければなりません。
このことは、正しい楕円を描く男と女の関係は、
男と女がまったく同等の価値を持たなければならないことを示唆しています。

男は女よりえらいとか、男が先であるという考え方は通用しないということを、言外に匂わせています。
まことに控えめでやさしい姫神様ですね。

楕円を描くという一言ですが、私にとってはその持つ意味はとてつもなく大きなものでした。

「日月和合重複祭事」での日の大神、女神様のお言葉は、
女心として国語でそのままストレートに捉えるのも良いのですが、
私には神界を考えていくのに、科学の目から謎解きをしても良いのですよというメッセージに聞こえたのです。

戸田さん、引力とは何かを考えてくださいね。

私はこうして神の世界を図形、数学を使って考えてみることにしました。
しかしかむなから本隊はあくまで国語で神とお付き合いします。
ドラマとして神々は生き生きとして活動します。
この世界を「かむなからの人々」は克明に記録しています。

しかし残念ながらこれらの記録を目の前にした時、とても受け入れられない神の姿も目に浮かびます。
そこには「清浄と不浄」が同等の価値として存在しているからです。
歓喜もありますがとんでもない不浄もあります。
そんな嫌な穢れた神の姿など見たくないと思えることがあるでしょう。
でも神々は懸命に生きただけです。

だからそんな時の為に、私は橋渡しをしようと思ったのです。
本当の神の世界を受け入れてもらえるように準備しておかねばならないと考えたのです。

さあ、そろそろ実際の世乃元之神の世界の話を始めましょうか。


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