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「序論」
<龍体神>
日本人がその心の中に認識している神様というのは、西洋の信仰する神とは一寸違うようです。
生まれた時から家の周りには神社を始めとし、神棚があり、お札があり、
いつでも神様は身近にいて当たり前の存在でした。
そして鬼とか夜叉さえも当たり前に接してきましたし、天狗や河童、座敷わらしのような妖怪さえも
生活の一部として、一緒に暮らしているようなものだったのです。
現代の科学のように、見えるとか見えないとかは意識すらしていなかったのでしょう。
この「おおらかさ」を私たちは何時から失ったのでしょうね。
多分古事記を単なる「神話」と位置づけた、戦後教育にあるのだと思いますが。
<古事記>
日本中には無数ともいえる大小の神社、祠があります。
そこに祀られている神様は、そのルーツを「古事記」に求めることが出来ます。
古事記に関しては細かいことを言えばいろいろな疑問がありますが、世乃元之神という超巨大なスケールで考えれば
ちっちゃな問題だと後でわかってきますから、古事記をそのままを受け入れて話を進めましょう。
古事記では、「最初に何かがあった」ということを「高天原(たかまがはら)」と表現しています。
(たかまがはら)
↓
(あめのみなかぬしのかみ)
↓
(かむすびのかみ)
三神は単独神であって姿を見せない
―――――――――――――――――――――
↓
(うましあしかびひこのかみ) 生命力の原型
↓
(あめのとこたちのかみ) 天を佐を支える神
↓
(くにのとこたちのかみ) 地を守る神
↓
(とよくものかみ) 天と地の間に雲が浮かぶ
↓
(うしじにのかみ) 泥の神 (すひじにのかみ) 砂の神
↓
(つぐいのかみ) 命の芽生え (いくぐいのかみ) 妹
↓
(おおとのじのかみ) 男根女陰の象徴 (おおとのべのかみ) 妹神
↓
(おもだるのかみ) 人間の形 (あやかしこねのかみ) 妹神
↓
(いざなぎのかみ) 男神 (いざなみのかみ) 女神 <初めて二つ神現る>
以上を、どういう数え方かわからないのですが、「神代七代」というそうです.
かむながらでは、私が始めて参加した頃は「古事記」は天系神のでっち上げた「真っ赤な偽書」
と言っていましたが私は「古事記」と一言で済まさずに、真剣に何回も読み返しました。
なぜなら私は、もし古事記が「偽書」であり、本当のことを隠したいのなら
それを隠すとてもうまい方法を知っているからです。
これを「詐欺方式」と言います。
「嘘である」ひとつの肝心のことを隠すのには、周りを真実で覆うのです。
1から99までは本当のことを言います。
すると聞いていた人は、ここまで来ると「全部本当だろう」と疑うことをやめてしまいます。
そこで最後の100番目で、真っ赤な嘘をついて、お金を巻き上げることが出来ます。
仮に古事記が「偽書」であったとしても、なぜ古事記はこれほどまでに日本人の心を打つのだろう?
それはこの本には真実が書かれているに違いない、「最後の1点」を除いて。
素直に古事記を読むことにしました。
すると不思議なことに気が付いたのです。
古事記ではその後、イザナギ、イザナミの神が息を合わせて神産みをしていきます。、
最初に生まれたのが「ひるこ」ですが出来そこないだとして、芦の船に乗せて流してしまいます。
次の子もまた出来そこないだったのです。
このひるこ問題は、実は「女性の原罪」に係わることだったのですが、この事は今はふれないでおきます。
多分「第一回東北神業」の岩手山のふもとで、話題が出ると思います。
ふたつ神は悩みに悩みます。
こんなにうまくいかないのは何故だろう
そこで「たかまがはら」つまり原点に戻り、相談します。
最初は女から声をかけたのでうまくいかなかったのだろう、ということになりました。
そこで今度は男から声をかけなさいと言われ、今度はうまくいきました。
これ、物凄い謎賭けですよね。
色々な創造、仮説が立てられますが、決定的なパーツをまだ世乃元之神から頂けませんので
わからないとしておきましょう。
さて、最初は島を八つ産みます。
それで日本を「大八島国」と言うのだそうです。
まず国を産み、その後水の神とか山の神とか岩の神等のように
「キャラクター」を持たない神様ばっかり産んでいくのです。
私には、宇宙の中に地球を創生したという、「舞台」を先に完成させたというシグナルに見えます。
このことで、私には「二つ神はまず最初に物質で宇宙を作った」としか思えないのです。
そうすると、高天原以降の「神代七代の単独神の神産み」は、ビッグバン以前の時間を連想させます。
ここまでの古事記は私にとって、まるで科学書のようです。
二つ神は物質の神を次々と産んでいきます。
「火の神」を産んだ時、イザナミさんの大切なところを「火傷」してしまいます。
そこでイザナミの神はその傷が元で死んでしまいます。
この時、この世に初めて「黄泉の国」という「死後の世界」が出来たと書かれています。
黄泉の国に行くイザナミの神は、
「私は見られたくない醜い姿になりますから、絶対に訪ねてこないで」と言い残して行ってしまうのですが、
未練たらたらなイザナギの男神は黄泉の国へ、よせば良いのに訪ねて行っちゃうんですね。
そこで「うじ」にまみれた女神を見た男神は「きゃー」と言って逃げ出したんですと。
意気地なしの男の原点を見る思いが、男として、しますね。
見られたことに気が付いた女神は、「許すものか、殺してやるー」と追っかけたのですが、
結局逃がしてしまいました。
なんとそれ以来、男と女の象徴である男神と女神が絶縁状態であるなんて、
あなたは認識していましたか?
実は古事記はその後、二人は仲直りしましたとは書いてありません。
どうやらこの夫婦はそれ以来ずっと別居、喧嘩状態のままのようです。
その後この二人どんなホラー映画でも描けないことをやります。
「そんなことをするあなたが産む人間を1日千人殺してやる」
「お前が1日千人殺すなら、私は1日千五百人産んでやろう」
なんという低レベルな夫婦なんでしょうか?
神様といえど、こんなもんなのでしょうか?
でもこれと似たレベルの夫婦喧嘩は、よく見ている気もするのですが。
こうして男であるイザナギの神は、一人で神産みをしていくことになりました。
まず最初にお産みになられたのが「あまてらすおおみかみ」
次に「つきよみのみこと」
次に「すさのうのみこと」
これが本当であるのならば、
神の世界には二つ神が息を合わせて産んだ神と、
単独神としてイザナギさんがひとりで産んだ神が混在していることになります。
この辺のいきさつについては私も良くわからないのですが、今は触れないでおく方がよさそうです。
私にもまだわからない、神界の触れてはならない秘め事がありそうです。
三番目に生まれた「すさのうのみこと」はお母さんが欲しいと泣き叫けび暴れまくり、
わがままの限りを尽くします。
それに嫌気をさした「あまてらすおおみかみ」は、太陽を持ったまま
「天岩戸」(あまのいわと)に逃げ込んでしまいます。
さあ、大変なことになってしまいました。
光を失った神の国は、暗黒の暗闇の世界に落ち込んでしまいました。
神々がどんなに出てきてくださいと哀願しても、「あまてらすおおかみ」は無視です。
私はこの「あまてらすおおかみ」の意固地と思える態度に「女の原罪」を感じてしまいますが、
これは男としての感覚かな?
ある神様が提案して、みんなで天岩戸の前でドンちゃん騒ぎをして、笑いこけたそうです。
その笑い声を聞いて、さすがの「あまてらすおおかみ」も気になり、
ちょっとだけ覗いてみようと、岩戸をちょっぴり開けました。
その瞬間一番の力持ちの男神が「えいっ」と岩戸を放り投げてしまいました。
この岩が何処に飛んで行ったかについては、信州「戸隠」の他、全国に伝説が残っており、
古事記がどれほど「日本人の心のふるさと」であったのかがわかる、面白い話ですよね。
ここでもこの意固地とも思える、潔癖症で、汚れや心無い男の乱暴に、嫌気がさしている女性の象徴の
「あまてらすおおかみ」が、その後どうしたかは語られていません。
私はこの姫神様のことがとても気がかりではありますが、この問題についても
世乃元之神はまだ何のパーツもくれていません。
いったいどんなドラマが、繰り広げられているのでしょうね。
さて、こうして日本には次々と神様が産まれていくのです。
これらの神々が日本各地に祀られている神様です。
「かむなから」では「世乃元之神」という大きな集合の中で、これらの神を
「龍体神」(りゅうたいしん)
とお呼びします。
読んで字のごとく、その本来のお姿は「御龍体」なのです。
龍体神様が神力を発動される時は、本来のお姿「御龍体」となって
「人間の目にも見えるとき」があったというわけですね。
龍神は架空の生き物ではないのです。
見える人には見えていたのですね。
<龍体神は戦争をしていた>
ここからは「古事記」では伏せられていた、普通の人では想像もしていなかった神の世界が、
明らかになっていくことになります。
古事記をルーツとする龍体神は、神界戦争の勝ち組みとして、日本に進出した民族権力の後押しをし、
大きな力を持って「全国制覇」を目指しました。
古事記をよく読むと、途中から中央政権に刃向かう古くからの地方勢力を、
「鉄製の剣」によって「草をなぎ払うがごとく侵攻」していった記述に、
いつの間にか摩り替わっていくことがわかります。
こうしてとうとう北海道を除く日本全国が、
古事記で「正統なる神」と記述されている神に、制圧されてしまいます。
「東日流外三郡誌」(つがるさんぐんし)という古文書が残されています。
いまでもこれが本物か偽書なのか、論争が続いていますが
それによるとこの地方の豪族に「アラハバキ族」というムラがあり「アラハバキ」という頭首がいたそうです。
彼は最後まで中央政権にはむかい、抵抗を続けましたが
古事記によると、すさのうのみことの「えみし討伐」により亡んだとなっています。
しかし実際は、彼の「精神力と霊力」はたいしたもので、
死んだ後も「怨霊」となって、天系神団とそれを担ぐ人間に、激しく抵抗したのです。
それは「たたり」現象として民衆を苦しめたので、天系神は動物霊を利用して
「アラハバキ神社」として封鎖、現在に至っております。
このことは歴史上では、政権抗争としてかなり克明な記録が残っています。
どうやって天系神は日本上陸を果たしたのでしょうか?
それは「仏教伝来」です。
仏像の姿に形を変えた天系神は、「藤原家」を利用して政権抗争に勝利します。
そしてそれを磐石のものとするために「聖徳太子」を任命します。
日本中に仏教は広まりました。
ことごとく、それまでの神社は焼かれ、その後に「牢獄としての神社」が建てられました。
私はこれらのことを、「良い悪い」と判断する気はありません。
神道であれ仏教であれ、どっちもどっちじゃないか。
天系だ地系だと何を騒いでいるのだと、どうしても納得できません。
為に私はこの一点で、どうしても地系「かむなから人」にはなりきれませんでした。
ここが肝心なので、くどいようですがもう一度確認します。
勝ち組である天系神を担いだ一族と、負け組みである地系神を担いだ一族が
人間どうし、血を血で洗う激しい権力闘争するのですが
その裏では龍体神が天系と地系にわかれ、壮絶なる戦をやっていたのです。
勝った神がまず始めにやったこと、それは神界戦争の神実を隠すことでした。
冷静に考えてみれば、古事記以前に日本には一冊の本もなかったはずがありません。
それまでの記録をすべて削除した、「焚書」が行われたということは容易に想像がつきます。
だからと言って私は古事記が偽書だと告発する気はありません。
すべては過去に起こった歴史なのです。
その長い長い歴史の延長線上に私たちは今こうして生きているのですから、
すべては過去のこととして、冷静に受け入れざるを得ません。
ですから古事記は摩り替えの書ではありますが、ある真実を伝えているのは本当だと思っています。
<敗軍の神が動いた>
龍体神はなんらかの突発事故により、天系と地系の二手に分かれて戦争を始めてしまった。
この理由を求めつつ、戦争終結処理をするために実際に行動を起こしたのが
「かむなからの神と人」という小集団なのですが、
「かむなから」と書いて「かんながら」と発音して下さい。
多分私はこの「かむなから」と「かんながら」を
時と場合に応じて使い分けていくことになると思います。
さて話は龍体神に戻ります。
人間と違って龍体神には負けたからといって、すぐさま死ぬということがありません。
人間は世乃元之神によれば、「魂2:物8」(こん2:ぶつ8)という構成になる生き物だそうで、
物が占める割合が多いので「肉体の死」という終りがあるのだそうですが、
龍体神は「魂8:物2」「こん8:ぶつ2」の生き物なので、
人間のような死というものが無いそうです。
では龍体神にとって「負ける」ということはどういうことなのでしょうか。
「天駆ける龍神」とは良く言ったもので、龍体神は空を自由に駆け巡ることが出来ます。
前に神は動けないと言いましたが、世乃元之神は龍体神ばかりではなく、
「さまざまな神界の集合」と捉えて置いて下さい。
山や大地や海のように動けない神もいらっしゃるのです。
龍体神界の生命体である、魂8物2の龍体神は、
その身の軽さから何処へでも飛んで行けるのですね。
その龍体神が負けるということは、地べたに叩き落されるということや、
木や岩に縛り付けられて動けなくなるということになります。
要は「封鎖」されてしまうのです。
行動を止められた神の悔しさは、牢獄に繋がれた人間以上に、
空が飛べるだけに「屈辱」以外のなにものでもなかったのです。
しかし落とされたとはいえ、死んでしまった訳ではありませんから意思波動は出します。
この「悔し残念」の念波動が、「たたり」として時には「火災」を起こしたり
人間に疫病としての不幸現象を出してしまいます。
これに手を焼いた「勝ち神や人間」がもっとコテンパンに押さえつけ、
グーの音も出せないようにした方法が、
「負け神の牢獄」として「神社や寺」を設置したということなのです。
神社をよく観察しますと、まず鳥居が立っていますね。
あれは実は「釘」だったのです。
どうも龍体神というのは「物質」には弱いようです。
物質で上から釘として打ち込まれてしまえば、神とてどうにもなりません。
また大きな石を持ってこさせて、落っこちている神の上に乗せてしまいます。
その上念押しにシメ縄でぐるぐる巻きにしてしまうのですから、その念押したるや、見事なものです。
こんど神社にお参りに行ったついでに裏手に回り込んででみて下さい。
それらしき大木や岩があり、シメ縄が巻かれているのを見つけるでしょう。
「シメ縄」まさにぎゅんぎゅんに締め付ける為の「ツール」なのですね。
くどいようですが神社というのは、負けた神の牢獄だったのです。
もう少し封鎖の手口をお知らせしましょうか。
世乃元之神のもっとも苛酷な封鎖は、神を不動明王などに変形させて、落としてしまうことです。
そうしておいて常に行者に呪文をかけさせ、
参拝に来た人を不動明王のまわりを右回転で回らせるのです。
ドライバーを思い出してください。右回転でどんどんネジは締まっていきますね。
人は知らず知らずの内に封鎖のお手伝いをさせられていたんですね。
でもこれをすれば、勝ち神はご褒美として、ご利益を参拝した人にくれるというわけです。
もしあなたがそのとき左回転でもしようものなら、お坊さんに物凄く怒られますよ。
このように、私たちはまったく想像外の「戦争」に巻き込まれていたのです。
多分一番皆さんがショックを受けることは、「空海さん」への価値観の逆転だと思います。
類まれなる「霊力」を身につけた「空海」は、勝ち組の神と契約をしたのでしょう。
日本中に「寺」「霊場」を作っていきます。
負けた神を「不動明王」と姿を変えさせ、人間に「霊場めぐり」などをさせて徹底的に封鎖しました。
悔しさのきわみとなった不動明王は、しばしばその怒りで「火事」を起こします。
「不動如王」は本来は「道城義則」(どうじょうよしのり)という「世乃元之神」だったのです。
「四国四十八霊場」はその際たるもので、封鎖に協力した人間には、「ご褒美」が渡されます。
この世は「勝ち組」の天下ですから、確かに「ご利益」は頂けたのですから
純真無垢な信心深い人間には、何の罪もないことは明らかですから、
封鎖されていた神様は今現在、なにも怒っていないことをお知らせしておきますね。
またあまりの怒りの大きさに、自らを「たたり神」に化身させてしまった龍体神さんがおられます。
この方が「鬼」です。
神社に行けば一礼二拍手が参拝のルールとされます。
偶数は閉まる、封鎖の数です。
反対に奇数は開く、開放の数なのですが、私たちはここでも知らず知らずに参拝し、
封鎖の念押しという勝ち組みの神のお手伝いをしていたのです。
ここでも、そうだからといって私たちは「ごめんなさい」とお詫びする必要はまったくありません。
そんなもん勝手に喧嘩していた龍体神が悪いのですから、一般庶民の私達には罪はありません。
ただ知らされていなかっただけなのですから。
ですから、皆様は今ある神社を恐れなくても結構です。
今まで通りの参拝の仕方でかまいません。
今では封鎖されていた神々はすべて開放されていますから、どうぞ神社の神様にご挨拶に行ってください。
そのかわり「願い事」はやめて下いね。
ただただ、こうして今日も生きていられることを感謝、御礼を申し上げてください。
さて話を元に戻します。
そんな喧嘩したゆえの「落とされた負け神」も、
なんとか人間にこのことを伝えようとしたようです。
しかし勝ち組みの神と契約した権力者の支配する時代では、
あっという間に伝えられた人間は、権力により抹殺されてしまいますから、
負けた神にとって、もどうにもならない時代が続いていました。
ところが江戸時代になり、ある理由で「神との契約者の権力」が弱まった隙に乗じて、
何とか封鎖されていた龍体神が、人間への通信に成功するのですね。
黒住、金光、天理などの「新興宗教」が興ります。
「世に落ち地に落ちていた」世乃元之神が、封鎖されたままも、人間になんとか連絡が取れるようになったのです。
通信を受けた霊能者は、数多くの「御神書」と言われるものを残していきました。
こうして「負けた神」が動き始めました。
この流れは大元教教祖の「出口なお」さんに、引き継がれましたが、最初は悲惨な状態だったようです。
なにしろこの頃の人間の脳には、龍体神からの通信を受け取る受信装置がありません。
無理に通信しようとすればあまりに強い波動の為、脳は破壊されてしまいます。
正常なる脳の機能を破壊されたなおさんも例外ではなく、周りの人からは狂人とさげすまされたそうです。
しかしある日彼女はまったく字が読めもせず書けもしないのに、勝手に手が動く自動書記により神の言葉を書き始めたのです。
敗神が通信に成功しました。
こうして大本教は始まったのですが、まだまだ勝った神が支配する時代です。
負けた神の言うことの方が正しいとなってしまっては、天皇を担いでいる時の権力者はやりにくくて仕方がありません。
2度に渡る軍事政権の弾圧の結果、大本教は単なる小さな宗教団体となり、負けた神の発言を伝えることを放棄してしまいました。
しかしこうして封鎖されたままではありますが、地に落ち世に落ちた龍体神がいよいよ動き出したのです。
ここまでは、こうした神の世界の流れをざっと説明しておくことに留めておきましょう。
<封鎖神の開放>
通信に成功した封鎖されたままの地に落ち世に落ちた地系の龍体神が、始めて一神開放されたのが、
大本教の出口なおさんと王仁三郎氏一行による「神島神業」でした。
神島というのは、播磨灘に浮かぶ家島諸島の東端の無人島なのですが、
この島で死ぬような目にあいながら「たった一神」だけですが、人間は初めて封鎖されていた神の救済を果したのです。
しかし大本教の弾圧により負け神様の開放作業は頓挫してしまいます。
うして龍体神界の戦争はまだしばらく続くこととなりました。
この負け神、地系の神々をその後開放救出していったのは、
出口なおさんの御魂(みたま)から直接要請された「かむなからの人」でした。
Mさんを始めとするかんながらの人々は、
勇躍いさんでこの「かみびらき」という封鎖神開放に人生のすべてをかけて取り組むことになったのですが、
日本中を九州から始まって北海道までをまるで絨毯爆撃のように
「かみびらき」をしていくわけですから、収入もなにもあったものではありません。
まさに毎日が決死の覚悟の現場神業だったのです。
私はまだこの当時は、かんながらのかの字も知らない
平平凡凡の人生を歩んでいたのです。
<かむなからに参加する>
このかんながらの話を聞いた頃、私は大きな疑問を持って生きていました。
人間がどれほどの努力をしようとも、この世の中にはどうにもならないことが多すぎる。
もし神が正義と愛であるならば、なぜこんな不条理な世の中を認めて、ほって置くのだ。
あなた方は口からでまかせを言って人間をおちょくっているのではないのか。
一体「全知全能」「愛」であると神を名乗るあなたは誰だと。
しかし神様同士が争っており、しかも人間を巻き込んでの大戦争中であったというのなら、
それは素直に受け入れることの出来る内容でした。神々が争った理由はとも角、
現実がそうであったのなら、
この世の中の矛盾だらけな事象も、うーん、そうだったのかあと思ったのです。
そして神自らが恥をさらして真実を明かし、
人間にやり直しの協力を求めたということを知ったとき、私にとって神様は急に身近な存在となったのです。
そのときの私には、
父が乱暴者で母が怒って出て行ってしまいました、
その父が母に詫びを入れたい、
一緒に「帰って下さい」とお願いに行ってくれないかと聞こえてしまったのです。
このことを知ってしまった上で逃げ出すことなど、出来る訳もありません。
こうして私は世乃元之神にとっ捕まってしまったのでした。
<戦を止めたいが>
龍体神は天系と地系にわかれ、壮絶なる戦いに明け暮れていました。
しかし戦力的に見れば神様同士なのですから、お互いの力は拮抗しています。
そんな一方的に地系の神々が億戦億敗するような惨めな戦にはならないはずです。
ところが神様が自ら語ったところによれば、天系の神は霊団というものと契約をし、
彼らの霊力を利用して、ことごとく地系の神との戦いに勝利したのだそうです。
霊団、即ち「霊の存在」です。
多くの生命がその命を奪われていく時、そこには悔し残念の怨念が生まれます。
そればかりではなく不当な扱いを受け、その怒りが生霊となって一人歩きをします。
悔し残念から生まれた霊は暗く冷たい。
やがて引き寄せられるように怨念霊は大集団となり、霊団を形作っていったのです。
彼らの凄まじい霊力に目を付けた天系神は、
ことあろうことか彼らと契約をしてしまうのです。
天系の神が自ら、すべきでなかったとお腹から搾り出すように吐露した後悔は、
いつの間にか神力を凌駕するまでに巨大化した思凝霊団に
天系の神すらが落とされてしまった現状を指していました。
つまり最終段階では、天系地系とも思凝霊団に思いのままに牛耳られ、
実はにっちもさっちもいかない状態に追い込まれていたのです。
神力を剥ぎ取られ、形骸化した神様にはすでに戦争を終結し、
やり直しようという力はもう残っていなかったのです。
それに、戦いはもう終りにしようという大義名分がありません。
どうにもならない絶望感が龍体神界を覆っていたそうです。
<56億7千万>
一つの予言がありました。
仏典の「法滅尽経」に、釈迦入滅後56億7千万年後に、弥勒菩薩が下生してこの世を治めるとあります。
こじつけにしかすぎませんが、
世界の総人口が56億7千万人を超える二十世紀最後の頃と符合するのですが、とうとう根元様が動きました。
古事記では天を強調しようとして、始めの何かを「高天原」と呼称したのですが、
この始めの何かの方が御自らを、「我は根元」と名乗られたのです。
<天地和合命令>
1981年(昭和56年)、富士山天空にて宇宙創造以来初めての根元総会が
「根元之大御神」(こんげんのおおみかみ)様により開催され、
10兆になんなんとする世乃元之神が全宇宙から召集されました。
根元総会は8月8日から8月12日までの4日間行われ、最終日12日には根元様から世之元の神に対し
「戦争終結」「天地和合」
の詔(みことのり)が下されたのです。
根元様にとって子供といえる「龍体神」がこれ以上苦しむのは耐えがたい、いい加減にせいと一発怒ったという訳ですね。
こんな表現は、世乃元之神は苦々しく思っておられるのでしょうが、根元様から一番遠い所に位置する人間である私にとっては、
余りにもとほうもない話なので、その凄さがピンとこないのです。
しかしこの根元様の和合命令がとんでもなく奥の深い意味であったことを30年かけて知ることになろうとは、その時は考えもしませんでした。
端的に言ってしまえば、神々は56億7千万年もの間、この還元様の「天地和合」宣言を待っておられたのです。
神々とてどんなに「世の不条理」を修正しようと願っていたことでしょう。
しかしそれは根元様の「やりなさい」というご裁可が無くては、手の着けられぬ問題だったのです。
「まちいたり、まちいたり」と歓呼の声を上げ、神々はまず龍体神界の戦争処理から手を着けることになりました。
<龍体神界とは>
世乃元之神の説明によれば、宇宙が出来たその後に忽然と龍体神が顕われたそうです。
何処から来たのか、誰が創造したのかは今もって説明がありませんから、その出生の謎は神界の秘め事なのでしょう。
神様の発表が無い以上、人間の詮索する問題ではありませんから
立ち入らないでおくのが一番いいのではないのかな、と思っています。
龍体神は宇宙の隅々におられますが、
その中から地球神界に派遣された神々が私達の身の回りにおられる神様です。
派遣された目的は地球を守り、管理することだそうです。
ですからこれらの龍体神様を「地球管理神」とお呼びする時もあります。
(龍体神は5系統)
地球管理龍体神様は大きく分けて、5系統に分かれています。
それぞれ筆頭神がおられ、以下子神、孫神と続きますが、その数合計198神です。
これを神界系統図といい、「かむなから」が最新の系統図を管理しています。
◎ 月の系統 筆頭神 月之大神(男神)
男神22 女神17 計39神
◎ 日の系統 筆頭神 日之大神(女神)
男神34 女神27 計61神
◎ 地の系統 筆頭神 地乃世界之大神(男神)
男神29 女神12 計41神
◎ 岩の系統 筆頭神 岩之大神(女神)
男神11 女神20 計31神
◎ 上義姫の系統 筆頭神 上義姫之大神(女神)
男神10 女神14 計24神
龍体神以外に地球管理として 特命神 2神
<その他にまだ良くわからない、ひつきの神>
<神びらき>
神社を始め全国の山中の木や岩などに封呪されていた龍体神が、
最初の頃はかんながら以前の「神事」をする神霊関係者の手により、
一柱一柱救出されていきました。
救出される度に、その神様は様々な神界情報をその関係者に教えたのです。
神界情報といえば「肝川由来記」とか「日之出神諭」とか、探せばかなり出版されています。
しかしこれらの記録は今振り返ってみますと、
長い間封じられていた悔しさから、かなり過激な発言や、
それはとても信じがたいというような、神の奇跡的超能力を誇示したものと
感じられる内容になり過ぎていると思っています。
これはあくまでも私の個人的な感想ですが、
ここでは封鎖された龍体神様が、いかに悲痛な気持ちであったかを
わかってあげたいと思っています。
こうした先人の努力により、ある程度まとまった数の龍体神が救出された時、
全ての始まりの存在である根元様から「戦争終結」「天地和合」命令が出たのです。
これに応えるべく、龍体神界では「神びらき神団」が結成されることになりました。
根元様は地球神界の長(おさ)として「地之世界之大神」様を、
再びその職に任命されました。
それまで地の世界之大神様は、龍体神界の戦争を止められなかったとして
自ら北海海底に身を沈めておられましたが、
富士根元総会を以って復活なされたのです。
そしてその責任において、神界戦争終戦処理をする為「神びらき神団」という
プロジェクトチームを設置したのです。
(神びらき神団責任神)
末代日乃王天之大神(まつだいひのおうあめのおおかみ)という龍体神界一長い御名前を持つ神様が、
プロジェクトチームの最高責任神として、地乃世界之大神様から任命されました。
これ以降末代様は「かむなから」の神と人を束ね、
世乃元之神の世界に革命を起こしていくことになるのですが、
先ず最初に手を着けられたのが
「龍体神界の戦争で封鎖されたままの神を開放する」というシリーズでした。
1984年(昭和59年)1月11日、
時至れりと、満を持して末代様は『天地和合は三河の地より』と宣言し、
M氏を中心とする「かんながら」の人々を、愛知県渥美郡田原町に呼び集めました。
当日その田原の街中にある「田原神明社」という神社で、
神霊史上初めての「末代様率いるかむなからの神と人」による
「神びらき現場神業」が行われたのです。
この日の神びらきでは、たった1神、
八大竜王之大神様とこれに従う眷族神200柱でしたが、
この日の神業は「龍体神界の喜び」として長く神界の記録に留められるでしょう。
そしてこの祭事を初発としてかんながらは、
その時は思いもよらなかった泥沼の30年間という現場神業へと突入していったのです。
<かんながらの人を駆り立てたもの>
この封鎖されていた地系の神々を開放救出していくには、どうしても封鎖の現場に行かなくてはなりませんでした。
神々は神界戦争の明け暮れで閉塞し、その神力は失せていました。
その時神様が助けを求めたのが、人間の持つ物質としてのパワーだったのです。
よくハンドパワーということを聞きますよね。
手かざし治療としても良く知られるところです。
人間の手の指先から出るパワー光線は、
封鎖していた神の呪を粉々に破壊する力があったのです。
かんがらではこのパワーを「根元浄め」と呼び、神びらきでは不可欠な手法です。
このどうしても必要不可欠な、「人間の体が現場に行かなくては神を開放できない」
という理由により、かんながらの人は一年中「神びらき」に明け暮れるという生活を余儀なくされたのです。
私はその当時はまだ参加を許されなかったのですが、そうでなくても脱サラしたしたばかりの私が仕事を休める訳も無かったのです。
しかしK君という子が、神びらきの記録「神業報告書」をその都度貸してくれましたので、かんながらの人々が神から歓喜のお礼を貰い、
うれし泣きをする一方、文無し同然の旅を続けていく様を読むことが出来ました。
神と人間が重なり合う接界で祭りを行うことは、一度体験した者なら忘れられなくなるすがすがしい波動に包まれるにしても、
それにしてもこのかんながらの人の、全てをなげうってでも「神様、神様」と命懸けで突き進むこの狂気とも思える情熱は何処から来るんだろう。
神業報告書を読んで感じていた、まだ部外者であった私の疑問は、
「御魂親(みたまおや)」という龍体神の分け魂(わけみたま)が、人間に入っているという
「神実を知らされた時、やっと合点がいきました。
(御魂親)
「みたまおや」と言いますが、当時の神様発表によれば
人間の一人一人に魂が神様より注入され、
この魂が人間を息をする、生きている状態にしてくれる大切な「たましい」なのだそうです。
この魂は、地球管理神の中でも一部の龍体神にしか許されていない『神様の魂』の分霊とでも言うもので、
人間が産まれ落ちて「おぎゃあ」と産声を上げた瞬間に、仙骨に収まるのです。
この御魂を分神霊(わけみたま)として、
人間の肉体に直接入り活動できる龍体神を「みたま分与神」と言います。
人間のサイドから言えば、「みたま親の魂」は人間が生きていく為の大切な魂ですから、
御魂を分与していただくことは神様に感謝しなければならないことです。
しかし神のサイドから言えば、人間の体内に入り、物質8割としての体験をすることが出来るのですから、
人間の仙骨に収まれることは神にとって、何物にもかえがたい歓喜でもある訳なのです。
この問題に付いては、神と人間のお互いが、どう感謝し合うかということで考えればいいことだと思っております。
宗教のように神様を崇拝し過ぎますと、一方的に人間は神の僕(しもべ)となってしまい、
神の世界を識りたいと願っただけの人間でも又、宗教の世界に戻っていってしまいます。
せっかく「かむなから」として神様と旅を続けてきたのですから、
私としてはそれだけは避けなければなりません。
(私の御魂親)
具体的なお話をしましょうかね。
最初にかんながらと知り合った時には、
私の御魂親神は「金山彦(かなやまひこ)之神」様でした。
今は少し違いますが、小さなことに気をたられると本筋を見誤りますから、
ここでは踏み入りません。
つまり私が産まれての35年間、金山彦様は私の背骨の末端の「仙骨」に収まり、
私と共に人間を体験してきたのですね。
金山彦之大神は、上義系の筆頭神「上義姫之大神」様の孫神であります。
上義系の神様は女性の神様だらけで、長女に「地上姫之大神」次女に「金山姫之大神」
三女に「金龍姫之大神」と続くのですが、金山彦様は金山姫之大神様のお子神です。
今各地の神社では、金山彦之神と金山姫之神は夫婦神として祀られていますが、本当は親子関係だったのですね。
これを知った時は私もビックリしましたよ。
金山彦様は数少ない男神ですから、
上義姫様を始めとする女神様の期待を一身に背負っていたことを知った時、あるいは金山彦様は大胆に天空を駆け巡り、
ある神界とある神界をつなぐ狭間神界(はざましんかい)、またひつき神様と密接な関係にあるというようなことを明かされた時、
ああ私の人生と金山彦様の神生は重なり合っていたのだと、しみじみ泣いたことを思い出します。
このようなことから、私は龍体神様がみたまを分与されて、人間としてもいきていることは本当なんだと思うようになっています。
(前期かむなから人)
この御魂親ということが理解できてきてみますと、人生を投げうって「神びらきという現場神業」にのめり込んでいった、
初期のかんながらの人達の熱き思いも少し理解出来てきました。
地球管理の責任神「地乃世界之大神」様も神びらき神団責任神「末代日乃王天乃大神」様も
結局は神界戦争の負け組み、地系の神様なのです。
この負けた地系の神様には「日乃出生魂の大神」「義理天上之大神」「耕大陣之大神」「木乃花咲耶姫之大神」等の神々様がおられたのですが、
神びらきに命をかけた「前期かむなから人」は全員、「億戦億敗したこれらの地系の神々」様から御魂を分与されていたのです。
ですから始めの頃の皆さんにとっては、
神びらきは即ち自分を開放する旅でもあったわけですね。
ですから、どれだけ身内の人から、あんたは騙されているんだと言われても、「神びらき」を止めなかったのです。
(御魂親様についての私の理解)
「神道」から出発した人にとっては御魂親という龍体神様が主役ですから、御魂親が龍体神のどなたであるかはとても重要なことになります。
御魂親である龍体神様の神界での地位とか、天系であるのか地系であるのか、はたまた中立系であるのかなど、
所属する神界の出所がとても気になるのですね。
ところが私としては、そんなことはどうでもいいことなのです。
人間としての私は神様の身代わりでもなんでもなく、私という一人の人間と考えます。
確かに御魂親様が私の息をするということをなさってくれ、私の「はたらき」という行動の色合いを出して下さっているのですが、
私が絵を書きたい、音楽を聴きたい、文章をしたためたいと考えるのを決定するのは、私です。
そこだけは間違えたくないと思っています。
しかし私の中の龍体神である御魂親様に意識を持っていってみますと、私は龍であったことも思い出されてくるのですね。
その龍である私は、何をする為に人間に生まれてきたのだったのかを忘れてはいけないということも、同時に考えていたいと思っています。
<根元神曲>
(1984年)昭和59年1月11日を初発として始まった「神びらき神業」は約3年続きました。
その当時「かむなから現場神業隊」はH教という宗教法人の一集団であったのですが、
教主の田村喜照氏は現場神業に出ずに一人山に残り、かむなから神びらき神団委員長である「末代日乃王天之大神様」から、
一冊の本を書き上げよ、という御下命を受けていました。
氏は何回も何回も末代様から書き直しをさせられますが、とうとう最後に、これでいいだろうというOKを貰います。
そして、この本は無料にて皆々に配布しなさいと言われ、その1冊が私の手元に届くことになります。
それはかんながらの3年を掛けての神びらきの旅が、ちょうど半分にさしかかった頃でした。
根元神曲は、1000字の漢字で書かれており、その当時の世の元の神が公表を許される範囲での龍体神界の歴史が綴られております。
その時から約25年経って読み返してみますと、表面上はそんなものかという神々のドラマですが、その奥に秘められた神実が解明された今では、
却ってこの「根元神曲」の凄さをしみじみと感じています。
次章で『根元神曲』を紹介させていただこうと思います。
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