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第三章
<御先祖を祀る>
1986年 昭和60年1月25日、大洗海岸での根元直流神様出現と、
長女の神様との神線が継ながってしまったことを目の当たりに現認した私は、
取次ぎのOさんの家へ飛んで行き、守護之宮の末代日乃王天の大神様に御願いをしたのです。
『世乃元之神様、どうか私を自由にお使いください。
私はあなたを信じます、連れて行って下さい。』
末代様は私の要請に応えて、
「一緒に歩んでくれるか。ならばまず最初に、そなたのご先祖を祀りなさい。すべてはそこからだ。」
と仰って下さいました。
もちろん「取り次ぎさん」のOさんを通してのことですが。
これから世乃元之神とお付き合いをしたいと願う、多くの人が現れるでしょう。
その時の為にここで御先祖様を祀るということは、どういうことなのかを説明して置きたいと思います。
何故なら、いかに神霊の世界のことを知ろうとも、また神様を信じようとも、あなたと御先祖様は一本の線で継ながっているのですから、
御先祖様共々世乃元之神様とお付き合いをさせて貰わなければ、それは絵に書いた餅のようなものでしかありません。
かむなからのいう「御先祖を祀る」ということは、仏教でいう「御先祖供養」とはかなり意味合いが違います。
今現在は世乃元之神もその神力が復元しておりますので、かなり簡単なやり方で「御先祖祀り」が出来ますが、
その当時はそれまでの宗教の流れを継承しておりましたので、かなり大げさなものでした。
「取り継ぎ」であるOさんの指導により、まず仏壇を新規に購入しました。
そこに「戸田家先祖代々の霊位」という字を仏具屋さんに書いて貰った位牌を安置したのです。
10名以上のかんながらのメンバーが、全国から水戸まで出向いてくれ、私の家の「先祖祀り」を祝ってくれました。
<革新祭>
世乃元之神様と継ながる為の必須条件、
「御先祖を祀る」というお祭りをすることを「革新祭」と言います。
先祖霊の方々には様々な人がいるわけですから、霊界における立場はかなり違っているようです。
生きている時に神仏を敬い、人を助けるなどして、それなりの努力をしていた人は霊界とは言えど、
かなり神様に近いところに所在しているようです。
しかしながら反対に、極悪非道の人生を送った人がいるのも確かで、
幽界に近い低い所でもがき苦しんでいる御先祖様もいます。
事実わが家系にも、凄まじい暗い所に落ちておられた御先祖さんがいたのです。
神界と連動している霊界に所在している御先祖霊様にとって、供養してもらうということは、
お経をあげてもらったり、食べ物をお供えしてもらうことではありません。
御先祖様にとっては、見えない世界という領域で、
神様と伴に行動できるということが「一番の望み」だと聞いています。
それには「子孫が世乃元之神と継ながり、子孫が世乃元之神と一緒に歩んでくれること」が「供養」だと言うのです。
つまり、今現在生きている子孫の行動がすべてであり、
霊界にいる御先祖様は、自力で神様に近づくことが出来ないと言っているのです。
子孫が行う「かむなから方式」による「革新祭」が必要となります。
<我が家の革新祭>
かむながらの皆さんのご尽力により、世乃元之神様のご光来がかない、無事我が家の革新祭は了となりました。
それ以降、まことに傑作なことが我が家に起こったのです。
それは長女の神線が開いていた為に、彼女に御先祖様が見えてしまうことからくるドタバタ喜劇の始まりでした。
正しい御先祖供養は、世乃元之神様と継ながることだとは言っても、
人間として生きて来た御先祖霊は、昔食べたものを懐かしがります。
簡単に言ってしまえば、「なんか食べたーい」と願っているのですね。
食いしん坊の私は、そのことは心底理解出来ます。
このことを血統、血筋と表現します。本当に血は争えないと苦笑しています。
(お世話の必須項目)
霊体が必要とするエネルギー「気」は、「ひのはたらき」と「みずのはたらき」から送り出される
「火の働き」と「水の働き」の持つ「気」です。
ですから御先祖様が絶対必要とする必須食品は「火」と「水」です。
「火」は小さなロウソク立てを二本用意し、小さなロウソクに火を灯してお供えします。
大きなロウソクでは途中で火を消さなくてはならず、この行為はどういう訳か御先祖様は物凄く嫌います。
2分でもいいから完全燃焼を望みました。
「水」は我が家では毎日御先祖様に、「ぐい飲み」に入れてお供えしました。
水の器は何でもいいそうで、要はお供えする人が気に入った器が一番いいのです。
この辺の趣味も、御先祖様と子孫は似ているようですよ。
この「火」と「水」だけは忘れないようにしましたが、どうやらこの火と水を「か」と「み」と発音しますと
「かみ」となり、見えない世界の謎を解いていく時の大きな手掛かりになりそうです。
この辺の感覚は、毎日火と水をお供えしているとなんとなく実感出来る体験として捉えられるようになります。
御先祖様を祀るという行為の真髄は、案外ここにあるのじゃないかと、今振り返ってみますとそう思います。
(食事のお世話)
これが実に楽しかったのです。
その時以来、家族が一人増えたような嬉しい気持ちになりました。
御先祖様は大勢いらっしゃるはずなのですが、実感としては一人増えた感じなのです。
ここで「集合」ということに気がつき始めた訳ですが、「御先祖様全部で一つの塊」という感覚、
これ「見えない世界は集合の概念で捉えて良い」という、私の持論に継ながる貴重な体験感覚だったのです。
ご先祖様がひとつの光の塊とは?
ある時取次ぎのOさんを通じて神様に伺ったことがあります。
ご先祖さんはたくさんいらっしゃるはずですが、お供えはひとつでいいのですか?
『お供えがひとつでもね、ご先祖さんが1000人いるとするでしょ。
その方たちがずらーと一列に横並びしているの。
たったひとつの「お供え」をすると
だからお供えはひとつでいいのよ。』
実際のお食事は、私達の食べる食事とまったく一緒です。
つまりわざわざ料理するのではなく、ご飯もみそ汁もおかずも、私達の食べるものを小分けしてお供えします。
御先祖様は遠慮深く、子孫に無理は強いません。
忙しかったり、子供の病気などに掛かりっきりになった時などは、今日はこっちのことはいいよと言ってくれます。
晩御飯が出来ました。水をお供えし、御飯とみそ汁、おかずをお供えしてローソク2本に火を点けます。
奥さんは2礼3拍手をして
「御先祖様、今日は御飯とジャガイモのみそ汁、玉子焼きとほうれん草のお浸し、タクワンです。
どうぞお召し上がり下さい」と必ず料理の説明をしていました。
そんなもの見りゃ判るだろうと思いますが、どういう訳か彼女はこの説明を欠かしません。
そうしておいて長女を呼びます。
「ねえ、御先祖さん来てる?」
娘の返事はその日によって違います。
「もう食べてる」とか「今日はまだ来ていない」「あっ、今来た」等です。
「今日のご飯、どうかな?」
「肉だけは絶対駄目。このタクワン美味しいと言っているよ」
「じゃあ毎日買ってこよう」
「飽きるから、毎日は勘弁してくれと言っているよ」
もうまるで漫才です。家の中がぽかぽか暖かいことに気がつきます。
長男の誕生日にケーキをお供えした時のことです。長女と長男の二人が腹を抱えて笑い転げます。
お供えする食事は、大人の目の高さより少し上に置いてあります。
普段はお供えした食べ物の上に、光の塊になって、こんもりと盛り上がって御先祖様がいらっしゃるのですが、
ケーキの時はあふれ返った御先祖様が
光の塊が柔らかいお餅のように、畳の所まで垂れ下がっているのだそうです。
2才になる長男にも御先祖様が見えていたのです。
2人はその後もどんどん御先祖様の有り様を伝えてくれました。
奥さんにとっても、お供えした食事を御先祖様がどう食べてくれるのかがその場で判るのですから、どんなに励みになったでしょう。
そういう意味で、私の家族は本当に恵まれていたと言えます。
多分私の御先祖様の中で、神様のお手伝いをなさってくれたお方がいるのに違いありません。
子孫として大変感謝しています。
(見せるときには見せる)
御先祖様が見える姉と弟を羨ましがっていた次女ですが、一度だけしっかり霊が見えたことがありました。
これは世乃元之神様の優しさだと私は感謝しているのですが、見えなければいけないときには見せてくれるのです。
10年以上飼っていた柴犬の「ロンちゃん」が、交通事故で死んでしまった時のことです。
昼に散歩に連れて行きそびれた次女は、夜中だし、
人一倍人間を怖がる犬なので噛みはしないだろうと鎖を放してしまったのです。
まあ一番私がいけないのです。
時に思い切り走りまわそうとロンちゃんを放していたのを見ていた娘としては、当たり前のことをしたのです。
しかしその晩、ロンちゃんは車にはねられてしまいました。
その時東京で仕事をしていた私の部屋に、朝の6時に奥さんから電話が入ります。
「ロンちゃんを殺しちゃった」と泣いています。
直ぐにすべてを理解した私は、悪いのは僕だから娘に自分を責めないように伝えてくれと頼みます。
そして2日したら家に帰れるから、神様に御願いしてロンちゃんを天国に連れて行ってくれるよう頼む。
それまで夏だから遺体が傷まないようにドライアイスで冷やして置いてくれと。
家に入った私は、神様の部屋に直行しました。
我が家には神棚が設置されている部屋があるのですが、その部屋にロンちゃんは安置されています。
長い線香には火が灯されており、箱に入れられたロンちゃんの前には座布団が3枚並んでします。
「おい、ここで添い寝していたのか」
「当たり前じゃない、線香の火を消しちゃ駄目だもの」
恥ずかしながら涙があふれます。
私の家族は交代でロンちゃんと添い寝をして、丸2日間もの間、線香の火を灯しながらお詫びをしていたのです。
なんという人たちなんだろう、
神様と御先祖に感謝しました。
すぐさま世乃元之神様の動物霊救霊担当神様をお呼びして、
「私達人間の不手際でロンちゃんを死なせてしまいました。ロンちゃんには心よりお詫び申し上げます。
しかし今となっては、ロンちゃんに天国に行って頂くしかありません。
神様、どうか願いをお聞き届け下さい」とお頼みしました。
一通り儀式を終了した後、ロンちゃんを家族全員で火葬場に運びます。
ギラギラと太陽が照りつける、でも何かさわやかな夏の日のお昼頃でした。
帰った我が家で、次女がお母さんに報告していました。
ロンちゃんが死んでしまった後、私が帰って来て神様によるお葬式が終わるまで、
ロンちゃんの霊が家の中を飛び回っていたのだそうです。
それが私が神様に詫びた瞬間にロンちゃんの姿がパッと消えたんだそうです。
それを見ていた娘は、ああこれでロンちゃんは成仏した、
天国に行けたんだと肩の重荷が少し楽になったと言います。
一番苦しんでいた次女に神様は、一度だけ霊を見せたのです。
そして神の御手(みて)により天国へ行けたのを確認させてくれました。
これがなかったら彼女の苦悩は一生続いたでしょう。
人が心から詫びれば、霊様も和んでくれることを神様は教えてくれたのです。
このように神様や御先祖様は、「人間に見せるときは見せる」という力を発揮します。
このように「御先祖を祀る」ということが、私の家族を一変させました。
この世の中は物質という見えるものだけではないということを、ほとんど無意識の内に知ってしまいましたから、
子供達のものの見方には、とてつもなく大きな幅が出来たと思っています。
世の中は見える世界だけでも、見えない世界だけでもありません。
しかしともすれば「見える世界の基準」だけで物事を判断しようとしたり、
反対に「見えない世界に呪縛されてしまったり」、そのバランスを取っていくことは大変に難しいものです。
御先祖をお祀りして、日常生活の中で、見えない世界のひとと一緒に暮らしていけることは、
とても良いことなんだけどなあと思っています。