書 評

百人一首の謎

豊臣秀長

三国志

堺屋太一『豊臣秀長』上巻・下巻、PHP文庫、1988年。
 

 競技で優勝した選手の名前は、人々の記憶の中に残るが、二位に終わった選手の名前は、すぐに忘れ去られてしまうものだ。たとえ、一位の選手と二位の選手との勝敗の差が、たった1センチメートルという非常にわずかの差であったとしても。

 戦国時代に終止符を打った豊臣秀吉の名は、日本人であるのなら、誰でも知っているであろう。貧農の子から天下人になったという事実も、私たちの関心を大きく引きつける。彼の出世ぶりは、誰もが憧れる。彼は、日本で最も出世した人物であると言えよう。ところが、豊臣政権において、名実ともに兄の秀吉に次いでナンバー2だった弟の秀長については、私たちの目は非常に暗い。彼も、秀吉と同様に貧農の出身であったにもかかわらず、同時代において、彼以上の財産・権限を持ちえた人物は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人だけであったようだ。この事実だけでも、彼の力を推し量ることができる。秀長は、日本で二番目に出世した人物であると言える。

 その秀長について、現在、彼の名前を知っているかと世の人々に問うたなら、知っている人のほうが少ないように思う。ましてや、その経歴を問うたなら、さらに少なくなるだろう。

 それにはいくつかの理由がある。一つは、彼が自分についての記録を残さなかったことだ。だが、それ以上に大きな理由がある。それは、彼が、秀吉の補佐役に徹したためである。彼は、トップでもなく、参謀役にでもなく、苦労は多いが日の目を見ることのない補佐役に徹した。人を使うことにかけては天才であった秀吉ではあるが、秀長の存在なくして天下統一の事業を成し得ることができたかどうかは疑わしい。補佐役としての秀長の存在のおかげで、秀吉は天下を取ることができたと言っても、言い過ぎではない。その証拠に、秀長の死後、豊臣家は凋落の一途を辿っている。

 現在、組織の中に秀長のような存在の人が果たして何人いるのだろうか。当然のことながら、それは、組織内部の人を除いて誰にもわからない。なぜなら、補佐役は日の目を見ることがないし、日の目を見るべきではないからだ。そのため、組織に関係のない人は、その存在に気づかないことが多い。仮に、その分を考慮に入れたとしても、秀長のような人材は依然として少ないと思う。これは、いく分憂慮すべきことだ。最近の傾向として、秀吉を目指す人々が多すぎる気がする。それは決して悪いことではない。だが、組織というものは一人で運営していくことは不可能である。個々の役割分担が適切に配置されたとき、初めて組織は、うまく機能する。すべての人が秀吉を目指さなくてもよい。「船頭多くして船山登る」である。各々の力量を把握したうえで、あえて補佐役を選ぶ道もあるのではなかろうか。





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