短 評

資質より性向2

教育は与えられるもの?


問題意識という問題

<教育は与えられるもの?>


 教育は、ひとから与えられるもの、タダで手に入ると思っている人が、世間には多すぎる気がする。また、タダとは考えないまでも、お金さえ払えば、いい教育は手に入ると考えている人も多数存在する。

 教育とは、お金を払いさえすれば身につくものではない。親も子どもも学校や塾、予備校などの教育機関に期待をしすぎている感がある。

 本来、教育とは、自分が自分自身に対して行うこと、施すことであると私は考えている。なぜなら、ひとは、本当の意味で、他人を教育することができないからだ。

 そうであるのなら、「教師は何のために存在するのか」と考える方がいるかもしれない。

 教師の役割として期待できることは、生徒が学ぶ過程を手助けすることだけである。それ以外のことは、教師に求めるべきではない。

 生徒が本当に身に付けるべきことは、学習の内容よりむしろ、学習法である。私は、「学習内容を疎かにしろ」と言っているのではない。学習の内容に目を向けるだけでなく、学習方法に目を向けるべきだと主張したいだけだ。

 子どもの学力についての問題が提起されるとき、子どもへの知識教授の面ばかりが焦点に当てられていて、学習方法の面はお座なりにされてしまっている。いくら知識を教えられたとしても、学習方法が確立していなければ、学習法が確立している場合と比べて、その後の学習進歩は低くなる。

 逆に、学習法が確立していれば、あとは、その人の気持ち次第で、人に頼ることなく自分で勉強していくことができる。いつかは、自分一人の力で対処しなければならない問題が必ず訪れる。自分自身にとっての学習方法を確立しておくことは、自分で解決できる力を身につけるためにも、損にはならないと思う。それは、自分自身に教育を与えることにもつながる。

 ここで、一つお断りしておきたいことがある。私は、教師が必要ではないと言っているのではない。優れた教師は、学習者が学習を進めていく上で、大きな役割を果たす。教師と協力することは、問題ではない。教師に頼りすぎることが、問題なのだ。自分が抱えている問題に対しては、まず自分だけで取り組み、本当に困ったときに教師に助けを求めるべきだ。

教育は他人から与えられるだけのものと思っている人は、自己が確立していない人、主体性がない人である。いわば、他人任せの精神の持ち主だ。

他人任せにしていたとしても、いつかは自分で決定しなければならない問題が必ず訪れるので、そのとき、自分が困ることになる。

また、未知の問題に取り組むとき、教えてくれる人はだれもいない。最後に頼れるのは自分しかいない。そのときは、他人任せにできはしない。そのため、自分を鍛えておいたほうがよい。

本当の教育を自分に与えたいのなら、自分のことは自分でやる精神を身に付けるべきである。他人任せでは、自分自身によい教育を施せない。

結局は、学習者本人が、「教育はひとから与えられるものではない」と強く認識し、「自分への教育は自分でやる以外にない」と気づくまでは、本当の教育には至らないだろう。本人が気づくか気づかないかが問題なのだ。





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