短 評

教育は与えられるもの?

問題意識という問題

<問題意識という問題>
 

 「何事にも問題意識を持って行動しろ」、「問題意識を持った人間になれ」といった言葉をよく耳にする。

 このような言葉をよく聞くということは、それだけ問題意識を持った人が社会には少ないということを意味している。
 なぜなら、問題意識を持った人が多くいるのなら、わざわざ問題意識を持つよう促す言葉を発する必要はないからだ。

 このことは、次の例を考えてみてもわかる。

 きちんと仕事ができていない人がきちんと仕事をするよう注意されることは、その結果、その人がきちんと仕事をやるようになるかどうかは別として、その人が受ける当然の注意である。
 一方、きちんと仕事をしている人に、同じようにきちんと仕事をするよう注意をすることは全く効果がない行為だ。むしろ逆効果である。きちんと仕事をしているのにもかかわらず、そのように注意をされた人は、注意をしてきた人に反感を持ち、きちんと仕事をしなくなる恐れもある。また、きちんと仕事をしている人に向かって、わざわざ、きちんと仕事をするよう注意する人は、常識的に考えて、ほとんどいないだろう。

 このように何かを注意されたり、促されたりするということは、その行為の対象となる人に何かが欠けていることを意味する。改めて言うまでもなく、これは、当たり前の帰結だ。

 

 問題意識を持つよう促す言葉が多いということは、問題意識を持つ人が、それだけ世の中に少ないことを意味していることがわかった。

 ここで、改めて問うてみたい。「問題意識を持つ」とは、一体どういうことを指しているのか?
 「問題意識」という言葉だけが先行して、その本質が見えてこないように私には思える。

 問題意識とは、その言葉の通り、「問題を意識すること」である。
 だが、これだけではよくわからない。私の考えでは、「問題意識を持つ」とは、「目の前にあるいくつかの出来事の中から、問題となる部分を捉え、その問題が何であるかを知ること」である。

 こういった意味を考えずに、ただ口の端をそろえて、「問題意識を持て、問題意識を持て」と唱えてもいても、全く効果がないと私は思う。
 「問題意識」という言葉の意味をしっかりと捉えるべきであろう。
 

 先程、私は、問題意識という言葉の意味を「目の前にあるいくつかの出来事の中から、問題となる部分を捉え、その問題が何であるかを知ること」と定義した。

 この一連の行動の中で、最も大切で最も困難なことは、「目の前にある出来事の中から問題となる部分を捉えること」である。言い換えれば、「自分で問題を発見する」ということだ。

 学校教育の欠点の一つとして、「問題が必ず与えられる」ということが挙げられる。
 実社会においては、問題は決して他人から与えられない。問題は、自分自身で見つけなければならない。

 目の前にたくさんの問題があるときは、その問題を解決するために、一つひとつの問題を見極め、優先順位をつけ、取捨選択し、そして、問題の本質を見極めていかなければならない。

 問題を発見しさえすれば、解決の如何は別として、その問題の解決策を考えることができるようになる。一方、問題が見つからなかったり、特定したりできなかったら、問題の解決はおろか、その解決法でさえも考えることができない。
 

 問題を発見するために、最優先すべきすることは、次のようなことである。

 何気ない行為や当然と思っている行為が、果たして問題であるのかないのかを見極めること。将来、問題になると思われる問題を、現在の問題として捉えること。些細な問題であっても無視したり、見落としたりせず、問題として捉えること。

 このようにして問題を捉えたら、問題解決への道は大きく広がる。
 逆に、問題を問題として捉えずに、見過ごしてしまったら、その問題はますます大きな問題になってしまう。

 問題意識のある人というのは、周りの状況を的確に読み取ることができる人と言ってもよいであろう。
 このような人は、将来、どのような事態が訪れたとしても、生き残っていく可能性が高い。

 問題意識を持つよう言われる所以は、ここにあるのではないのかと思う。





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