妻の介護と相続 8

  妻が旅行先で倒れて入院しました。


8/18 最近、食が細くなった。
衣服の着用は全て介助なしでは不可能になった。
自分で出来ることは食事とトイレ大のみだ。
ここへきて服薬拒否ということは
もう人生終了と本人も悟っている可能性がある。
入院した場合の「延命措置」とか「遺言」について
聞く時期になったのだろうか?
息子夫婦は病気の母親を一年半ぶりに尋ねてき、
娘にいたっては2年ぶりに尋ねてきた。
共に母親の病状を聞くでもなく15分ほどの
滞在で帰った。生死を確認にきただけのようだ。
これじゃ妻も将来を悲観して当然だ。
要介護5で認知症だから明日死んでも不思議でない。
健康な時はそこそこに仲が良いと思ったが
見せかけだけ本心は別のところにあったようだ(呆)

8/19 本人が胸の痛みを訴えひどく動作が鈍い。
何か肺炎にしては症状がおかしい。
抗生剤も欠かさず服用してるのに症状が落ち着かない。
念の為、左の乳房、脇腹周辺を調べると
皮膚が黄変している。これは内出血の症状だ。
再診の予約をとり前回と違う内科医の診断を受けた。
薬が変更され鎮痛薬2種類になった。
本人に記憶がないが何処かにぶっつけたか、転倒し
たんじゃないかという結論になった。
CT スキャンによる肺の影は昔の結核痕のようだ。
「胸が痛くて呼吸もできず発語できない」なんて
怖い病状に振り回された数日だった(失笑)

9/2 介護認定更新で調査員の訪問があった。
調査時間は20分ほどで終了。
ということは介護度の変化は認められないのかな?
要介護5は経済的に非常に厳しい。介護度が上がれば
使用できる施設が多くなるが出費もばかにならない。
厳しい状態が続くが致しかたない。

関係資料その9

10/6 介護認定更新の結果がでた。
予想どおり介護5で厳しい。
彼女は過去の世界に生きているようで
何時も一緒にいる私が誰であるか分からないようだ。
でも、スイッチが入り回路がつながる時がある。
そういう時は機嫌がよくニコニコして普通に
コミュニケーションがとれる。
だが人格は変わったままだし、金銭に執着が全くない。
こうして徐々に全てを忘れてしまうんだろな。

11/7 お昼頃、老健から電話があり、妻が心肺停止で
救命措置をしたが手に負えずドクターヘリで大学病院に
送るとのこと。朝、元気にデイケアに出かけたのが
この世で彼女を見た最後である。
施設で入浴し、ポカリスウェットを手に倒れたとか。
大学病院のICU で妻の遺体に対面したがドクターや
看護師の説明もうわの空で聞いた。
聞きなれない急性大動脈剥離は妙に記憶に残った。
45年の結婚生活の幕切れである。
娘への連絡とか葬儀屋の手配とかでその日は終わった。
朝まで遺体に話しかけてたが勿論返事はなし(悲)

11/8 17時より通夜式。

11/9 9時より告別式。これから辛く寂しい人生を覚悟
しなければならない。車椅子とリハパンを2年5ケ月お世話に
なった老人保健施設に寄贈する。
他に歩行器とか介助用車椅子、4つ足杖を贈ろうと思う。

11/10 彼女との長い人生を考えるとあまりにも重く潰されそうだ。
これが喪失感というものなのだろう。半端じゃない。
いい思い出を封印しないとうつ病になる可能性がある。
当面、彼女の悪い面のみに思いをめぐらせて自身を守ろうと思う(悲)
子供達と私では彼女に対する印象が随分違うので驚かされた。
彼女の見舞いとかに子供達が冷淡だったので怒り心頭であったが
通夜の席で子供達が
「兄さんはお母さんのいい面ばかり見てきたが私等は違う」と。
まるで妻が2重人格者のような言い方である。
心当たりがないわけでもない。鳥取から帰郷してから人格が
一変していた。認知症か薬のせいだと思っていたが・・・
とりあえず彼女の気配を感じる物を整理して自己防衛に徹しよう。

11/11 きょうは老健、ドコモ、市役所、シルバー人材センター
をまわった。妻の後処理である。年金事務所や銀行関係等の処理とか
考えれば随分多くの処理がある。最も困るのが遺品の問題だ。
生前、着道楽だったので尚更だ。これだけで小一年を費やすだろう。
まぁ結婚生活45年の蓄積だから仕方がない。

「没後処理あれこれ」
金額は少ないがアメリカンホームに入っていた。
掛け捨ての生命保険で妻の銀行口座からの引き落としである。
受け取り人名義がなぜか平成5年に私100%から娘100%に
書き変えられていたが今はその理由を知るよしもない。
金額も少ないから、多分、葬儀費用として娘に託したんだろう。
葬儀の前日に娘に証書を手渡した。
葬儀料金の一部でも負担してくれると助かるんだが・・・
妻の入院以来、大金を使い手持ちはなく葬儀料は借金になる。
家族から重病人がでれば借金ばかりが残る悪い実例である。

携帯電話の解約
小脳出血後の2年8ヶ月、携帯電話の操作はできませんでした。
携帯電話に執着があり毎日のようにボタンをプッシュしていましたが
送信も受信もできず放置してあるのをリセットするのが私の
仕事になっていました。毎月の料金は3千円ほど発生しましたが
本人が執着しましたので解約は見送っていました。
使用法を以前と違って私に聞くこともなかったです。

埋葬については遺骨を娘に押し付けました。
最初は遺骨を引取り、時期をみて遺言どおり生家の墓に埋葬する
予定でした。だが通夜で実子の娘がとったこれまでの行動を非難したら
「私は嫁にいった身だからお母ちゃんの面倒は見る必要はなかった」
とまくしたてた。昔はともかく、今は実子が面倒をみると法律でも
明記されてる。嫁にいっても実家の親の面倒はみなければいけない。
婚家の義親の介護等は拒否できるし、相続権もないのが常識である。
おまえは老人かよ。考えが古くて呆れたが諭すとヒステリー状態になる。
焼き場から式場に帰って「最後くらい親孝行しなよ」と遺骨を押し付けた。
退院後の2年5ヶ月が親孝行のチャンスなのに逃げたバカ姉弟(呆)
血縁は、この二人しかいない。墓守りだけでも全うしてほしいものだ。

遺品をどうするか。
これが悩ましい。アルバムだけで10冊(夫婦用を除く)あり
子供時代、娘時代が2冊ある。それに古文書?実家が裕福な時代の
領収書等だが大切にしていた。三味線が3本。仏壇?らしい物。
多趣味で着道楽だったので和服、ダンス服その他多くの衣類
これが半端じゃない。私達夫婦は年齢の差があり
順調?に年を重ねれば妻が早く逝くのは分かっていた。
それもあって普段から遺言めいたことを言われていた。
葬儀の簡素化。遺骨を生家の墓に埋葬する。娘の面倒を見る。
娘の面倒を見るなんて可笑しな話だがパートナーを早くに亡くして
一人ぼっちの娘を不憫に思ってたのと、逝った後の遺品を受け継げ
させれば整理好きな私が処分しないと思ってたようだ。
遺言状は「書いてある」と言ってたが見つからなかった。
彼女と親しかった司法書士からも連絡はない。

残った借金の処理。
彼女が倒れて以来、介護に蓄えを注ぎ込んで我が家は傾いた(笑い)
承知で注いだが、彼女の寿命は5年後くらいだと先読みしていた。
理由は退院以来、体調がよくなって体重も8キロ増えたし
距離は短いが歩行も可能になっていた。
これからは医療費も必要なくなり預金もできると楽観していた。
その矢先の心肺停止である。予想外の事態であった。
取引銀行で葬儀代のローンをお願いしたが年令制限に引っかかった。
双方で相談の結果、年金担保で融資してる会社を紹介された。
年金は一旦、国から融資会社に入り、分割払い金を引いて
取引銀行に払われるとか。それに今まで社会保険は年金からの
天引きであったが、分割払い終了まで個人で市に納入である。
なんか複雑な操作で嫌だが仕方がない。
融資は1ヵ月後なので一旦、2社のクレジットで金を借りて
葬儀社に払い、クレジット会社の支払いは翌月払いなので
融資金で相殺される。なんか危険な計画だが致しかたない。

11/16 亡くなってくる請求書。
今日は大口2通の請求書がきた。老健のデイケア使用料。
先月から体調がいいので週3日を4日に変更したので
高くなっている。我が家の家計で最も多いのがこの費用。
次に大学病院の請求書。老健で心肺停止したのでヘリで
大学病院に搬送。亡くなった人間を搬送しても生き返らないよ。
MRI で死因の究明とか遺体の処理費なんだね。
駈け付けた時、挿管してありモニターは全てゼロだった。
医師が管を抜いて死亡時間の宣言そして死因の説明で終わり。
朝、送り出したのが最後の会話になった。

近隣からの香典、
妻遺言での家族葬なので町内に知らせなかったが
事後、組長さんに報告して回覧板をまわしていただいた。
内容に遺骨、位牌は娘の手中にあり我が家にないと記して
いただいたが香典を持参する人が複数いた。
今後のお返しは半返しを予定している。
個人はいいとして老人クラブへのお返しはどうしたものか。
妻が町内の付き合いを主導していたので困った。

11/17 妻衣服の処分。
朝刊に名古屋のNPO が台風10号フイリピン被災地向けに
夏物被服の寄付を募集していた。我が家には大量の
衣服遺品がある。だが没後10日での寄付は抵抗がある。
いずれ寄付でもと思ってたが今回は見送りとする。

11/22 早朝に父母の墓掃除に行った。
午前5時で暗く車のウインドウに霜がおりていた。
墓掃除というより母の年命日が明日なので
おそまきながら、両親に妻逝去の報告をした。

11/22 早朝に父母の墓掃除に行った。
午前5時で暗く車のウインドウに霜がおりていた。
墓掃除というより母の年命日が明日なので
おそまきながら、両親に妻逝去の報告をした。

11/23 妻と最も親しい友人の弔問があった。
妻の死後、メールがあったが没後の訪問は初めてだ。
この人は年下だが有能な市会議員で市長選に60票余り
の差で惜敗したこともある。
娘より年下だが随分可愛がっていた。
遠く鳥取まで病気見舞いに来られて恐縮したものである。
退院後の自宅にもよく見舞いに来てくれた。
見舞い回数は一番多い。三味線の師匠を連れて見舞いに
いらっしたこともある。ありがとう ありがとう(感謝)



     







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